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ジミ・ヘンドリックス - Wikipedia

ジミ・ヘンドリックス

アメリカのギタリスト (1942 - 1970)

ジミ・ヘンドリックス英語えいご: Jimi Hendrix)ことジェームズ・マーシャル・ヘンドリックス英語えいご: James Marshall Hendrix[注釈ちゅうしゃく 1]1942ねん11月27にち - 1970ねん9月18にち)は、アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくギタリストシンガーソングライター左利ひだりききのギタリストとして有名ゆうめいであった。日本にっぽんでは「ジミヘン」とりゃくされる。

ジミ・ヘンドリックス
Jimi Hendrix
スウェーデンのストックホルムのヘンドリックス (1967ねん)
基本きほん情報じょうほう
出生しゅっしょうめい ジョニー・アレン・ヘンドリックス
生誕せいたん 1942ねん11月27にち
出身しゅっしん アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくワシントンしゅうシアトル
死没しぼつ
ジャンル
担当たんとう楽器がっき
活動かつどう期間きかん 1963ねん - 1970ねん
レーベル
共同きょうどう作業さぎょうしゃ ザ・ジミ・ヘンドリックス・エクスペリエンス
公式こうしきサイト The Official Jimi Hendrix Site
著名ちょめい使用しよう楽器がっき
ギブソン・ sg カスタム
サイン

メジャーデビューしてからわずか4ねんほどの活動かつどう期間きかんで、ギタリストとしておおくのミュージシャンに多大ただい影響えいきょうあたえたロック・ミュージックのパイオニアの一人ひとり左利ひだりききでありながらみぎようのギターをさかさまにしてかまえ、ギターをいたり背中せなかまわしていたり、ライブちゅうにギターにはな破壊はかいするなどの派手はでなパフォーマンスでも有名ゆうめいである。

没後ぼつご50ねんった現在げんざいでも、ロック史上しじょう最高さいこうのギタリストとして評価ひょうかされており、ローリング・ストーン歴史れきしじょうもっと偉大いだいなギタリストだいいちとしてなんえらんでいるほか[注釈ちゅうしゃく 2]日本にっぽんやブラジルの雑誌ざっし同様どうようのランキングでも1となっている[注釈ちゅうしゃく 3]。また、「ローリング・ストーンえら歴史れきしじょうもっと偉大いだいな100くみのスター」においてはだい6えらばれている。

27クラブ会員かいいんとしても有名ゆうめいである。

生涯しょうがい

編集へんしゅう

編集へんしゅう
 
ヘンドリックスの父方ちちかた祖父母そふぼ (1912ねん以前いぜん)

1942ねんワシントンしゅうシアトルまれる (デビューアルバムのうらには「1945ねんまれ」としるされている)。出生しゅっしょう名前なまえは、ジョニー・アレン・ヘンドリックス (Johnny Allen Hendrix) で、ははルシール (1925ねん - 1958ねん) [注釈ちゅうしゃく 4]によって名付なづけられた。父親ちちおやのアルことジェームズ・アレン・ヘンドリックス (1919ねん - 2002ねん) は、アフリカけい父親ちちおやと、アメリカ先住民せんじゅうみん母親ははおやとのあいだまれたブラック・インディアンである[5]純血じゅんけつチェロキーぞくだった父方ちちかた祖母そぼノラ・ヘンドリックスから、幼少ようしょうのヘンドリックスはチェロキーぞく昔話むかしばなしおしえられたという。その影響えいきょうはヘンドリックスのつくきょくのそこかしこにいだされる。母親ははおやのルシールは、17さいでヘンドリックスをんだが、あそきで家庭かていかえりみないところがあったとわれ、まだおさないヘンドリックスをいて出奔しゅっぽんしたこともあるといい[6]はやくにくなっている。ヘンドリックスの楽曲がっきょくAngel (天使てんし)」は、はは、ルシールがゆめあらわれたことからつくられたとされる[7]

ヘンドリックスがまれた当時とうじちちアルはだい大戦たいせん召集しょうしゅうされ出征しゅっせいちゅうだった。母親ははおやのルシールが出奔しゅっぽんしたため、ヘンドリックスはルシールのあね夫婦ふうふもとそだてられていた。終戦しゅうせん1945ねん帰国きこくしたちちアルがヘンドリックスをり、父親ちちおや息子むすこ生活せいかつはじまった[注釈ちゅうしゃく 5]。このころジェームズ・マーシャル・ヘンドリックス改名かいめいしている[8]ちちアルとははルシールのいがわるかった影響えいきょうもあり、ヘンドリックスはたびたび祖母そぼであるノラ・ヘンドリックスのもとあづけられていたという。ノラはインディアン居留きょりゅう(Reservation)にんでおり、ヘンドリックスは祖母そぼノラからインディアンの昔話むかしばなしかされるのと同時どうじに、居留きょりゅう希望きぼうのない生活せいかつおくるインディアンたちの姿すがたたりにしていたという(ヘンドリックスの談話だんわ)。「I Don't Live Today今日きょうきられない)」は、その体験たいけんからまれたとわれる[9]

音楽おんがくへの傾倒けいとう

編集へんしゅう

おおくのブルースロックのミュージシャンと同様どうよう、ヘンドリックスもレコードなどをいて、独学どくがくでギター演奏えんそうまなんだ (ちちアルの談話だんわ)。父親ちちおやのアルは庭師にわし仕事しごとをしていたが生活せいかつまずしかった。ヘンドリックスが15さいころ、ギターに興味きょうみしめしたため[注釈ちゅうしゃく 6]ちちアルは、当時とうじのアパートの家主やぬし息子むすこからアコースティック・ギターを5ドルでり、ヘンドリックスにあたえた[10]。 その、シアトルの楽器がっきてんからはじめてエレクトリック・ギター購入こうにゅうしている (ちちアルの談話だんわ)。ヘンドリックスは、ブルースや R&Bロックンロールのレコードを練習れんしゅうする一方いっぽう、テレビのアニメーション作品さくひんなどの効果こうかおん (BGM) も熱心ねっしんにコピーしていたという (ヘンドリックスのおさななじみの談話だんわ)[11]

青年せいねんのヘンドリックスは、アマチュア・バンドで経験けいけんみ、全米ぜんべいナンバー・ワンバンドのたこともあったという (ちちアルの談話だんわ[12])。

 
軍隊ぐんたい配属はいぞくちゅうのヘンドリックス (1961ねん)

しかし、自動車じどうしゃ窃盗せっとうつみ1961ねん5月2にち逮捕たいほされた。そのさい投獄とうごくされるのを回避かいひするため陸軍りくぐん志願しがんして入隊にゅうたいし、精鋭せいえい部隊ぶたいだい101空挺くうてい師団しだん配属はいぞくされた。とも軍役ぐんえきについていた仲間なかまなかに、のバンド・オブ・ジプシーズをむベーシストのビリー・コックスがおり、軍隊ぐんたいないクラブハウス一緒いっしょ演奏えんそうすることもあった[13]当時とうじベトナム戦争せんそう開戦かいせんしたばかりの時期じきで、ヘンドリックスはベトナムの戦地せんちっていないが、この従軍じゅうぐん経験けいけんウッドストック・フェスティバルでの「星条旗せいじょうき (アメリカ国歌こっか)」の演奏えんそうや、バンド・オブ・ジプシーズの「マシン・ガン」の創作そうさくにつながったとわれている[14]

やがてヘンドリックスは陸軍りくぐん除隊じょたい。イギリスじん音楽おんがく記者きしゃクリス・ウェルチが70年代ねんだいはじめにあらわした伝記でんき[15]などでは、「パラシュートの降下こうか訓練くんれん負傷ふしょうしたために軍隊ぐんたい除隊じょたいになった」という説明せつめいがなされている。2005ねんにアメリカ国内こくない公表こうひょうされたぐん内部ないぶ記録きろくによると、「薬物やくぶつとギターにしか興味きょうみしめさないたい内部ないぶ劣等れっとうへい」で、つねたい規律きりつみだして問題もんだいされていた[16]。ヘンドリックスは、早期そうき軍役ぐんえきえて音楽おんがく活動かつどううつろうと、軍隊ぐんたいきらわれる同性愛どうせいあいしゃよそおひとし故意こい問題もんだいこしていたというせつもある。最終さいしゅう階級かいきゅうさんとう軍曹ぐんそう

除隊じょたい本格ほんかくてき音楽おんがく活動かつどうはじめるが、当時とうじ無名むめいのバックミュージシャンだった。アイク & ティナ・ターナーアイズレー・ブラザーズなど、数々かずかず有名ゆうめいミュージシャンのバックでプレイし、全米ぜんべい各地かくちへのツアーにも同行どうこうしていた。一時期いちじきリトル・リチャードのツアーにバックメンバーで参加さんかした。

ザ・ジミ・ヘンドリックス・エクスペリエンス結成けっせい

編集へんしゅう
 
テレビ番組ばんぐみでのザ・ジミ・ヘンドリックス・エクスペリエンスの演奏えんそう(1967ねん

1966ねん7がつアニマルズのベーシストだったチャス・チャンドラーいだされ、9月にわたりすぐるする。チャンドラーにヘンドリックスの情報じょうほうをもたらしたのは、キース・リチャーズローリング・ストーンズのギタリスト)の恋人こいびとだったリンダ・キースである[17]当時とうじのヘンドリックスはたんなるバックミュージシャンをだっし、みずからのバンド「ジミー・ジェームズ・アンド・ザ・ブルー・フレイムズ」[注釈ちゅうしゃく 7]ひきいていたが、チャンドラーにスカウトされたのはヘンドリックス1にんだけだった。チャンドラーはヘンドリックスの演奏えんそうはじめていたさい、「ギタリストが3にんくらい同時どうじ演奏えんそうしているのかとおもったが、実際じっさいにはジミ1人ひとりだけとおどろいた。これほどの才能さいのうだれもまだがついていなかったなんて、なにうらがあるのではないかと不安ふあんになるほどだった」とかんじたという。チャンドラーにわたりすぐるすすめられ、ヘンドリックスはイギリスで自分じぶんのようなブルースけいミュージシャンがれられるか不安ふあんだったらしく、イギリスの音楽おんがくシーンについておおくの質問しつもんげかけた。そして、自分じぶん同系どうけいとみなしていたイギリスじんギタリストのエリック・クラプトンげ「わせてくれるか?」とチャンドラーにたずねている。チャンドラーは「きみ演奏えんそういたらかれ(クラプトン)のほうからいにるよ」とこたえている[15]

ロンドンいてオーディションおこない、ノエル・レディングベース)、ミッチ・ミッチェルドラムス)とともに「ザ・ジミ・ヘンドリックス・エクスペリエンス」を結成けっせい。1966ねん10がつから活動かつどうはじめる。このさい名前なまえジェームズ/ジミー(James/Jimmy)から、ジミ(Jimi)にえた。イギリス国内こくないでクラブ出演しゅつえんかさね、当時とうじザ・フーのマネージャーだったキット・ランバートクリス・スタンプ設立せつりつしたポリドールけい独立どくりつレーベルであるトラック・レコード契約けいやくむすんだ[18]。デビュー・シングル「Hey Joe / Stone Free」はぜんえい4のヒットを記録きろくした[19]

アメリカの伝統でんとうてきなブルースをベースにしながら、それまでだれいたことのなかった斬新ざんしんなギターサウンドや卓越たくえつした演奏えんそう技術ぎじゅつ、そして圧倒的あっとうてきインプロビゼーション披露ひろうすることにより、ヘンドリックスは一般いっぱん音楽おんがくファンはもちろんプロのミュージシャンたちにもおおきな衝撃しょうげきあたえた。わたりすぐるしたばかりのヘンドリックスの演奏えんそうはじめてたりにしたエリック・クラプトンは「だれもジミー(Jimmy)のようにギターをくことはできない」という言葉ことばのこしている。後年こうねんジェフ・ベックは、「(メジャーデビューしたばかりのヘンドリックスの演奏えんそういて)廃業はいぎょうかんがえた」とかたっている(英国えいこくBBCの音楽おんがく番組ばんぐみのインタビュー)。ヘンドリックスのステージには連日れんじつビートルズやローリングストーンズなどのメンバーがかおせ、出演しゅつえんするクラブには長蛇ちょうだれつができたという[注釈ちゅうしゃく 8]この当時とうじから本人ほんにん特徴とくちょうとなっていた、おおきくいがんだだい音響おんきょう駆使くしする演奏えんそうは、ハードロック原型げんけいという意見いけんがある。現代げんだいではありふれているが、この当時とうじ過激かげきゆがみを前面ぜんめんした演奏えんそう自体じたい存在そんざいしなかったとって時代じだいにあったという意見いけんがある[よう出典しゅってん]

1967ねん6がつ、ザ・ジミ・ヘンドリックス・エクスペリエンスはべいカリフォルニアしゅうモンタレー[注釈ちゅうしゃく 9]開催かいさいされた世界せかいはつ本格ほんかくてき野外やがいロックフェスティバルモンタレー・ポップ・フェスティバル出演しゅつえん。これはどうフェスティバルのイギリスでの世話せわやくだったポール・マッカートニー(ビートルズ)が、「ジミをさないフェスティバルなどありえない」と熱心ねっしん推挙すいきょしたためとわれる[注釈ちゅうしゃく 10]。ヘンドリックスはモンタレーで、演奏えんそうとギターやしのパフォーマンスを炸裂さくれつさせ、母国ぼこくアメリカでも一気いっきにスターダムにのしがった。

イギリスでデビューしたヘンドリックスだが、モンタレー出演しゅつえんなどで母国ぼこくアメリカで成功せいこうおさめたのちは、アメリカを本拠ほんきょとして活動かつどうするようになった。全米ぜんべいをくまなくツアーする過密かみつスケジュールの合間あいまにスタジオでのレコーディングもつづけ、1968ねんにアルバム『エレクトリック・レディランド』をリリースした。

 
ザ・ジミ・ヘンドリックス・エクスペリエンス(1968ねん

ヘンドリックスは演奏えんそう技術ぎじゅつたかかっただけではなく、ギターをいたり、あたかも男性だんせいのようにあつかったり[注釈ちゅうしゃく 11]したすえゆかたたけてはなつなど、はげしくセクシーなステージアクションも人気にんき要因よういんだった。また、ふる軍服ぐんぷくにつけ(ミリタリー・ファッション)、つよくパーマをかけた独特どくとくのヘアスタイル(エレクトリック・ヘア)をトレードマークにするなど、ファッションめんでも注目ちゅうもくあつめた。そのため「ブラック・エルヴィス」(黒人こくじんエルヴィス・プレスリー)、「ワイルドマン」といった異名いみょうまれ、センセーショナルなあつかいをけることがおおかった[20]。しかし生身なまみのヘンドリックスはシャイで礼儀れいぎただしい人物じんぶつだったという証言しょうげんおお[21]マイルス・デイヴィスによれば、ヘンドリックスは世間せけんのワイルドなイメージとはぎゃくだったという[22]

後年こうねんのヘンドリックスは、観客かんきゃくからはげしいステージアクションやギター破壊はかいなどばかりもとめられ、演奏えんそう集中しゅうちゅうできないことになやんでいたという[注釈ちゅうしゃく 12]

黒人こくじんでありながら白人はくじんけのロックスターとしてされたのも異例いれいなことだった[20]白人はくじん若者わかものたちにとってかみのごときアイドルになった一方いっぽう公民こうみんけん運動うんどうんでいるアメリカの黒人こくじんそうからは「白人はくじんんでいる裏切うらぎもの」となされるめんもあった。さらには黒人こくじん運動うんどうとそれをなだめたい白人はくじん政治せいじ両方りょうほうが、黒人こくじんなのに白人はくじん支持しじされているヘンドリックスの立場たちば利用りようしたがっていたとわれる[23]。ヘンドリックス自身じしんはあまり政治せいじてき人間にんげんではないとひょうされることがおおいが、暗殺あんさつされた黒人こくじん指導しどうしゃキング牧師ぼくしのために寄付きふおこなったこともある。ヘンドリックスは同胞どうほうである黒人こくじんそういまひとつれられないことになやんでいた(ビリー・コックスの談話だんわ)が、マネージメントがわはヘンドリックスをあくまでも白人はくじんけロックスターとしてっていく方針ほうしんだったといわれる[23]

ヘンドリックスがハウリン・ウルフ黒人こくじん)と共演きょうえんしたさい、ウルフはヘンドリックスを「白人はくじんんで金儲かねもうけをしている裏切うらぎもの」となじった。ヘンドリックスはウルフの言葉ことばだまってえていたという(ジョニー・ウィンター談話だんわ[よう出典しゅってん]

エクスペリエンス解散かいさんとバンド・オブ・ジプシーズ結成けっせい

編集へんしゅう

おおくのロックバンドのれいれず、過密かみつなスケジュールや精神せいしんてきなプレッシャーにより、バンドや周辺しゅうへん人間にんげん関係かんけい悪化あっかしていった[24]

まず、ヘンドリックスの音楽おんがくめんでのプロデューサーだったチャス・チャンドラーが、混乱こんらんした状況じょうきょう嫌気いやけがさして『エレクトリック・レディランド』のレコーディングがおこなわれている時期じきにヘンドリックスのもと[注釈ちゅうしゃく 13]マネージャーのマイケル・ジェフリーが完全かんぜん実権じっけんにぎることになったが、ヘンドリックスとジェフリーの関係かんけい微妙びみょうで、ヘンドリックスはジェフリーと直接ちょくせつはなしをするのをけていたという証言しょうげんがある(ジェフリーの秘書ひしょ談話だんわ[よう出典しゅってん]

1969ねん6がつ、ノエル・レディングがバンドを脱退だったいした[注釈ちゅうしゃく 14]。レディング本人ほんにんは「ギャランティ支払しはらいの内容ないよう明確めいかくにするようもとめたため解雇かいこされた」と主張しゅちょうしている場合ばあいもあれば[25]、「自分じぶんらないあいだにジミがつぎのベーシストを選考せんこうしていると記者きしゃからわれ嫌気いやけ脱退だったいした」などとべている場合ばあいもある。ヘンドリックスが多重たじゅう録音ろくおんりだしレコーディングになが時間じかんをかけるようになったこと、まぐれで時間じかんにルーズであること(約束やくそく時間じかんにレコーディングスタジオにあらわれず、あそあるいている)などにたいし、レディングはつね批判ひはんてき意見いけん表明ひょうめいしていた[26]

レディング脱退だったい、ヘンドリックスはミッチ・ミッチェルと、軍隊ぐんたい時代じだいからの友人ゆうじんビリー・コックス(ベース)とともに、「ジプシー・サンズ&レインボウズ」として活動かつどう開始かいし。エクスペリエンスがトリオ編成へんせいだったのにたいし、コンガなどのパーカションやサイドギターもくわえ、ビッグバンド結成けっせいねらっていた[27]

1969ねん8がつ開催かいさいされたウッドストック・フェスティバルに、ヘンドリックスは「ジプシー・サンズ&レインボウズ」[注釈ちゅうしゃく 16]したが最終さいしゅう出演しゅつえんしゃとして登場とうじょう[注釈ちゅうしゃく 17]フィードバックアーミングなどエレクトリックギターの特殊とくしゅ奏法そうほうかぎりをつくして、アメリカの国歌こっかThe Star Spangled Banner」を演奏えんそうした。このさいにヘンドリックスは、ばくげき空爆くうばくおこな民衆みんしゅうさけげまどう様子ようすおと再現さいげんしており、一般いっぱんにはベトナム戦争せんそう戦場せんじょう様子ようすあらわした演奏えんそうわれている[注釈ちゅうしゃく 18]

ヘンドリックスが目指めざしたビッグバンド形態けいたいは、マネージメントがわがそれをのぞまなかったことや、ヘンドリックスが多人数たにんずうをまとめあげるには経験けいけん不足ふそくだったとられることもあって長続ながつづきせず、1969ねん10がつにはビリー・コックス(ベース)、バディ・マイルス(ドラムス)と、3にん編成へんせいの「バンド・オブ・ジプシーズ」を結成けっせいする(全員ぜんいんがアメリカじん黒人こくじん)。1969ねん12月31にち1970ねん1がつ1にちにニューヨークのフィルモア・イーストおこなわれたデビューコンサートの模様もようはアルバム『バンド・オブ・ジプシーズ』とうくことができる。どうコンサートにおける「Machine Gun」の演奏えんそういたマイルス・デイヴィスは「おれはこういう音楽おんがくがやりたかったんだ」とかたったという(ヘンドリックスの友人ゆうじんでバックコーラスなどをつとめたゲットーファイターズの証言しょうげん[よう出典しゅってん]

イギリスじん白人はくじん(ミッチェルとレディング)にわり、ヘンドリックスがアメリカじん黒人こくじん2にんんだ画期的かっきてきファンクロックバンドだったバンド・オブ・ジプシーズだが、ヘンドリックスのマネージメントがわ黒人こくじんだけのグループに難色なんしょくしめした。マディソン・スクエア・ガーデンでのだい規模きぼ公演こうえん失敗しっぱいわり[注釈ちゅうしゃく 19]、ヘンドリックスとバディ・マイルスの音楽おんがくめんでの確執かくしつもあったとされ、バンド・オブ・ジプシーズは1970ねん初頭しょとう解散かいさん短命たんめいわった。マイルスは「バンド・オブ・ジプシーズのリーダーは自分じぶんであり、名称めいしょうなどは自分じぶん発案はつあんした」と度々たびたび発言はつげんしており、ヘンドリックスとの主導しゅどうけんあらそいも存在そんざいしていたとわれる。またマイルスは自発じはつてき脱退だったいしたのではなく、ヘンドリックスがマイケル・ジェフリーにめいじて解雇かいこさせたという証言しょうげんもある(ジェフリーの秘書ひしょ談話だんわ)。

当時とうじおおくのロックミュージシャンと同様どうよう、ヘンドリックスも薬物やくぶつ(ドラッグ)依存いぞん傾向けいこうがあった(LSDやヘロインなどを常用じょうようしていたという証言しょうげんがある)[28]。 1969ねんにはカナダのトロント空港くうこう麻薬まやく不法ふほう所持しょじうたがいで逮捕たいほされたものの、裁判さいばんのち嫌疑けんぎ不十分ふじゅうぶん無罪むざいとなっている[29]代表だいひょうきょくパープル・ヘイズむらさきのけむり)」はドラッグソングとされる場合ばあいもあるが、ヘンドリックスは「あれは海底かいていあるいているゆめたことからまれたきょく」などと反論はんろんしている。

バンド・オブ・ジプシーズ解散かいさん

編集へんしゅう

「バンド・オブ・ジプシーズ」解散かいさんは、ミッチ・ミッチェルとビリー・コックスをバックに活動かつどう再開さいかい。アメリカやヨーロッパ、ハワイなどでコンサートを開催かいさいしている。また、ニューヨークに自身じしんのスタジオ、エレクトリック・レディ・スタジオ建設けんせつ。1970ねん8がつまつにはイギリスのワイトとうひらかれたフェスティバルに出演しゅつえんしたが、そののヨーロッパ・ツアーではヘンドリックスがドラッグによる体調たいちょう不良ふりょうおちいったり、コックスが精神せいしん不安ふあん[注釈ちゅうしゃく 20]でアメリカに帰国きこくしてしまうなどのトラブルがつづいた。

このあいだもとエクスペリエンスのノエル・レディングや、もとマネージャーのチャス・チャンドラー(もとアニマルズのベーシスト)が、コックスのわりにベーシストをつとめるのではといった憶測おくそくんでいた(レディングには実際じっさいにヘンドリックスからオファーがとどいていたというせつもある)。

そういった騒動そうどうでツアーが中断ちゅうだんした時期じき、ヘンドリックスはチャンドラーのいえたずね、「ふたたぼくのマネージメントとプロデュースをしてほしい」とつたえようとしていたという(チャンドラーの談話だんわ)。

同年どうねん9がつ18にち未明みめい深夜しんやから早朝そうちょう)、モニカ・ダンネマン 英語えいごばんという女性じょせいとロンドンのホテルで滞在たいざいちゅう急逝きゅうせい死亡しぼうは27さい。メジャーデビューからわずか4ねんほどでのであった。

死亡しぼう原因げんいんは、睡眠すいみんまえさけ睡眠薬すいみんやく (バルビツールさんけい) を併用へいようし、睡眠すいみんちゅう嘔吐おうとしたことによる窒息ちっそくとされる[注釈ちゅうしゃく 21]。「自殺じさつとう憶測おくそくんだが、現在げんざいでは否定ひていされている。

 
シアトル郊外こうがいにあるヘンドリックスのはか

故郷こきょうであるべいワシントンしゅうシアトルでの葬儀そうぎには、ミッチ・ミッチェル、ビリー・コックス、ノエル・レディングといったバンドメンバーにくわえ、マイルス・デイヴィスなどのミュージシャンが数多かずおお参列さんれつし、はなむけのセッションがおこなわれた。

なぞ

編集へんしゅう

ヘンドリックスの死因しいん公式こうしきには、さけ睡眠薬すいみんやく併用へいようしたため睡眠すいみんちゅう嘔吐おうと嘔吐おうとぶつんだことによる窒息ちっそく、とされている。だが死亡しぼう一緒いっしょにいたモニカ・ダンネマンの言動げんどう不審ふしんてんがあり、死因しいんにも不可解ふかかいてん(ヘンドリックスのはいから異常いじょう大量たいりょうのワインが検出けんしゅつされた、検出けんしゅつされたワインのりょうたい体内たいないアルコール濃度のうどひくかったなど)があることから、真相しんそうなぞのままであると指摘してきするこえもある[30]

ヘンドリックスの直前ちょくぜん、ヘンドリックスと同室どうしつにいたダンネマンからエリック・バードン(アニマルズ)に「ジミの様子ようすがおかしい」との電話でんわがかかってきたという。バードンが「すぐ医者いしゃ救急きゅうきゅうしゃ)をべ」とうながしたのにたいし、ダンネマンは「部屋へやにドラッグがあるからべない」というむね返事へんじをしたという(バードンの談話だんわ[31])。

ダンネマンは「救急きゅうきゅうしゃ病院びょういんはこさい、ジミが窒息ちっそくしないようかせておくべきなのに、救急きゅうきゅう隊員たいいんがジミを椅子いすすわらせる体勢たいせい移送いそうしたため窒息ちっそくしてしまった」などとべている[32]。しかし、ホテルの部屋へやおとずれた救急きゅうきゅう隊員たいいんは、「ホテルに到着とうちゃくしたさい、ヘンドリックスはすで呼吸こきゅう停止ていし状態じょうたいで、蘇生そせい可能かのうせいひくかった。病院びょういん移送いそうするさい椅子いすすわらせるような体勢たいせいらせた事実じじつはない」とべている。また、はこまれた病院びょういん医師いしは、「ヘンドリックスは病院びょういん到着とうちゃくした時点じてんすで死亡しぼうしていた」とべている。ダンネマンの証言しょうげんてんさんてんし、信憑しんぴょうせいとぼしいという見方みかたがある[33]。ダンネマンは1996ねんくるまなか排気はいきガスを自殺じさつした。

生前せいぜんのヘンドリックスはマフィアかねづるになっていたというせつがあり、誘拐ゆうかいされたこともあるとわれる(ノエル・レディングジョン・マクダーモットなどの著書ちょしょ記述きじゅつがある)。ヘンドリックスはマフィアの睡眠すいみんちゅう大量たいりょうのワインをまされ、溺死できしのようなかたち窒息ちっそくさせられたのではないかというせつ存在そんざいする[34]

もとローディーのジェームズ・タッピー・ライトは、自著じちょ「Rock Roadie」のなかで「ジミのマネージャーだったマイケル・ジェフリーが『自分じぶんがヘンドリックスをころした』とった」と証言しょうげんしている[注釈ちゅうしゃく 22]

ミュージシャンとしての特徴とくちょう

編集へんしゅう
ジミ・ヘンドリックスの胸像きょうぞうキェルツェ
ジミ・ヘンドリックスのぞうワイトとう
ジミ・ヘンドリックスのろう人形にんぎょうマダム・タッソーかんロンドン

ヘンドリックスは、エレクトリック・ギターの演奏えんそうとして非常ひじょうたか技術ぎじゅつ表現ひょうげんりょくそなえていただけではなく、画期的かっきてき技法ぎほう考案こうあんによってエレクトリック・ギターという楽器がっき可能かのうせいをそれ以前いぜんとは比較ひかくにならないほど拡大かくだいしたとひょうされている。またメジャーでの活動かつどう期間きかんがわずか4ねんほどであったにもかかわらず、後世こうせいのギタリストにあたえた影響えいきょう比類ひるいのないほど絶大ぜつだいであることもわせ、おおくのミュージシャンや評論ひょうろんから史上しじょう最高さいこうのロックギタリストばれている[35][36][37][38]

一般いっぱんてきにヘンドリックスはギタリストとしてかたられるが、演奏えんそうしゃとしてすぐれているだけではなく作曲さっきょく編曲へんきょくレコーディング・エンジニアとしても独特どくとく才能さいのうそなえており、歌手かしゅとしても表現ひょうげんりょくんでいる。またつねあたらしいサウンドを模索もさくギターだけに執着しゅうちゃくしているわけではなかったとひょうされている[39][40]

ヘンドリックスはブルースとロックンロールを融合ゆうごうさせ、クリームジェフ・ベック・グループレッドツェッペリンらとならび、ハードロックの起源きげん一人ひとりひょうされている。とくにヘンドリックスは、だい音量おんりょうでディストーションのかったおと先駆さきがけとなった[41][42]

奇抜きばつなファッション、派手はでなステージアクション、機械きかいによるサウンドエフェクトなどにばかりたよっているのでは…という批判ひはんもあったが、エリック・クラプトンは「みんなジミのことをかたるときに、服装ふくそう髪型かみがたやステージアクションなどのことばかりうが、いち度目どめをつぶって演奏えんそうみみかたむけてみればいい。ジミがどれほどすぐれたミュージシャンであるかかるはずだ」、あるいは「ぼくとジェフ・ベックが2人ふたりがかりでいっても、ジミにはかなわないだろう」と最大さいだいきゅう賛辞さんじおくっている。ジェフ・ベックは「好調こうちょうときのジミをえるギタリストなどいるはずがない。自分じぶんがギタリストであることがずかしくなるよ」とかたっている。ヘンドリックス自身じしん機械きかいばかり使つかっているとわれるが、ステージじょうきていることは機械きかいがやったのではない。ぼくがやっているんだ」と反論はんろんしている[43]

ヘンドリックスのプレイスタイルについては、型破かたやぶりなアクションがげられることもおおいが、基本きほんはあくまでブルースR&B根差ねざし、これにジャズのコードやスケールをくわえたベーシックなものである[44][45]。 ただしおとえらかたやフレーズの展開てんかい非凡ひぼんなもので、従来じゅうらいのブルースやR&Bのわくおさまらないような画期的かっきてき内容ないようだった[46][47]

ヘンドリックスは非凡ひぼんインプロヴィゼーション能力のうりょくによって、「Red House」や「Machine Gun」など、アドリブがきょくだい部分ぶぶんめるきょくで、ライブごとにまったちがったアドリブを展開てんかいしていった。これは、「ゆびへきてきちいさなフレーズ(リック)を沢山たくさんおぼえておき、それらをわせてアドリブを構築こうちくする」のではなく、「その瞬間しゅんかんあたまなかった(こえた)フレーズをギターでく」というアドリブのとりかたおこなっていたから、というせつがある[48]

作曲さっきょくめんにおいてものちにロックのスタンダードとなるすうおおくの楽曲がっきょくのこした(とくに「Purple Haze」「Little Wing」「Voodoo Child(Slight Return)」「Red House」「Fire」「Foxy Lady」などのきょくは、多数たすうのミュージシャンによってカバーされている)。

ヘンドリックスはギターの音質おんしつ電気でんきてき変化へんかさせる機材きざい(いわゆるエフェクター)を多用たようすることでられた。スタジオ録音ろくおんはもちろんステージでもエフェクターを使用しようし、従来じゅうらいのギタリストではかんがえられなかったほど音質おんしつ豊富ほうふなバリエーションをもたせている。おも使用しようしていたのはおといがませるファズ加減かげん音質おんしつ連続れんぞくてき変化へんかするワウペダルおと波立なみだたせるユニヴァイブといったものだった。ヘンドリックスはれたエフェクターの可能かのうせいさぐろうとなんあいだ演奏えんそうつづけ、そのエフェクターの設計せっけいしゃですら想定そうていしていなかった斬新ざんしんおとしていた[49]。 その結果けっかヘンドリックスの演奏えんそうなかには、どういう方法ほうほうしたのかいまもって不明ふめいな、なぞのサウンドが非常ひじょうおお[50]。 これはスタジオ録音ろくおんだけではなく、ライブでも同様どうようである。エフェクターなどの電子でんし機器きき設計せっけい達人たつじんだったロジャー・メイヤーが、ヘンドリックスのアドバイザーだったのもおおきな意味いみっている。ただしヘンドリックスの存命ぞんめいちゅうなどには「機械きかいたよっていて邪道じゃどう」という批判ひはん存在そんざいした。

ヘンドリックスはギタリストであると同時どうじ歌手かしゅでもあるが、ずっと「自分じぶんうた下手へただ」と卑下ひげつづけていた。そんなヘンドリックスにとってのヒーローは、独特どくとく歌唱かしょうほうでフォーク/ロックかい席巻せっけんしたボブ・ディラン。ディランのうたいたヘンドリックスは「これならおれうたえるかもれない」と勇気ゆうきづけられたという。ヘンドリックスはディランにおおきな影響えいきょうけており、「Like a Rolling Stone」や「All along the Watchtower」などをカバーしている。ヘンドリックスが「All Along the Watchtower」のカバーをシングル・ヒットさせたことをけ、ディランは「あのきょくおれいたが、権利けんり半分はんぶんくらいはヘンドリックスのもの」とかたっている[51]。1985ねんには「おかしなもので、自分じぶんがこのきょくうたとき、いつもかれ(ヘンドリックス)にけんじげているような気分きぶんになるんだよ」とかたっている。ディランはヘンドリックスのアレンジにちかかたちどうきょく演奏えんそうつづけている。[52]

エリック・クラプトンは「ジミは『おれうた下手へただ』と謙遜けんそんしているが、とんでもない。ギターだけではなくうたもとてもうまいよ」とべている。

ヘンドリックスは音楽おんがく理論りろんなどにうと楽譜がくふもほとんどめなかったとわれるが、ジャズけいミュージシャンとのセッションでもけをることはなかったとひょうされている。帝王ていおうマイルス・デイヴィスやジョン・マクラフリン(ギタリスト)に才能さいのう絶賛ぜっさんされていたほか、マイルス作品さくひん編曲へんきょくなどでられる巨匠きょしょうギル・エヴァンスもヘンドリックスとの競演きょうえん熱望ねつぼうしていた[53] [54]。 ギル・エヴァンスはヘンドリックスの死後しご、カバー・アルバム「The Gil Evans Orchestra Plays the Music of Jimi Hendrix」を発表はっぴょう。1988ねんくなるまで、ステージでヘンドリックスのきょく演奏えんそうつづけた。エヴァンスいわく「ジミのアルバムをくと毎回まいかいあたらしい発見はっけんがある。かれすぐれた作曲さっきょくだった証拠しょうこだよ」。

ストラトの魔術まじゅつ

編集へんしゅう
ウッドストック・フェスティバル使用しようしたフェンダー・ストラトキャスターギター
ヘンドリックスのフライングVギター

フェンダー・ストラトキャスター現在げんざいではロックギターの代名詞だいめいしてきなモデルとなっているが、ヘンドリックスが登場とうじょうしたころには使用しようするミュージシャンもほとんどおらず、生産せいさん中止ちゅうしうわさもあった。しかし、ヘンドリックスが使用しようすることによってストラトキャスターの人気にんき一気いっき上昇じょうしょうとくにストラトキャスターのシンクロナイズド・トレモロ・ユニットによる驚異きょういてきなサウンドマジック(アーミング)は、世界中せかいじゅうのギタリストの度肝どぎもいた[55]。 ストラトキャスターの設計せっけいしゃであるフレディ・タバレスは「ベンチャーズビーチ・ボーイズのようなサウンドは予想よそうしていたが、ヘンドリックスのトレモロマジックはまったくの想定そうていがい」と発言はつげんしている('80年代ねんだいのフェンダー・ジャパンのカタログでの談話だんわ)。また、フェンダーしゃ創業そうぎょうしゃであるレオ・フェンダーが「あれ(トレモロ)はあんなふう使つかうものではない」と激怒げきどしたという逸話いつわのこっている。

ヘンドリックスのギターサウンドというといびつみきっただい音響おんきょうがイメージされる場合ばあいおおいが、「Little Wing」などでられるように、実際じっさいにはボリュームをしぼったクリーンなサウンドも多用たようしている。ストラトの3つのピックアップを使つかけ、ボリュームやトーンを頻繁ひんぱん調整ちょうせいし、演奏えんそうちゅう音色ねいろおおきく変化へんかさせることもおおかった。エリック・クラプトンが使つかって有名ゆうめいになったハーフトーン(ストラトのピックアップえスイッチを中間ちゅうかん位置いちにすることでしょうじるフェイズサウンド)も、実際じっさいはヘンドリックスのほうがずっとはやくから使用しようしている(ヘンドリックスが考案こうあんしたのではなくむかしからあるうらわざだったらしい)。ボディやネックをたたいてつる共鳴きょうめいさせフィードバックこしたり、トレモロユニットのスプリングいて不思議ふしぎおとしたりと、ギターから発生はっせいするあらゆるおと演奏えんそう利用りようしていた[56]

ヘンドリックスの存命ぞんめいちゅうにストラトキャスターを使用しようするフォロワーはほとんどいなかったが、死後しごにはエリック・クラプトン、ジェフ・ベック、リッチー・ブラックモアなどがこぞって使つかはじめた。ヘンドリックス以降いこうすうおおくのロックブルースジャズなどのギタリストがストラトを使用しようしたことで、ストラトはギブソン・レスポールとならび、ソリッドボディのエレクトリックギターの代名詞だいめいしてき存在そんざいになった。

ストラトキャスター以外いがいにも、ギブソンフライングVSGレスポールはじめ、様々さまざまなメーカーのギターを使用しようしていた。ローディーだったエリック・バレットは「ジミがブルースをくときはいつもフライングアロー(フライングV)だった」と証言しょうげんしている。12げんアコースティックギター[注釈ちゅうしゃく 23]で「Hear My Train a Comin'」をがたりする映像えいぞうのこっているが、このギターはヘンドリックスの所有しょゆうぶつではなく、撮影さつえいたって用意よういされたものである。

ヘンドリックスは、ギターのかくつる通常つうじょう音程おんていから半音はんおんげるチューニング多用たようしていた。これはギターの音程おんていをヘンドリックスの声域せいいき音域おんいき)にわせる目的もくてきと、チョーキングなどの奏法そうほうをしやすくする目的もくてきと、両方りょうほう意味いみがあるとされる[57]。 スタジオレコーディングのきょくなかには、通常つうじょう調しらべつる(レギュラーチューニング)もおおい。ライブ音源おんげんなかには全音ぜんおん(1おとげチューニングで演奏えんそうされているきょく確認かくにんできる[注釈ちゅうしゃく 24]

左利ひだりききの奏法そうほう

編集へんしゅう

ヘンドリックスはみぎようストラトキャスター左右さゆうさかさまにして、右手みぎてで押弦し、左手ひだりてつるいた。つまり左利ひだりききの奏法そうほうであり、一般いっぱんてきには左利ひだりききの人物じんぶつ認識にんしきされている。つるしたほそい1げんうえふとい6げんと、左利ひだりきよう順番じゅんばんえてあった[注釈ちゅうしゃく 25]左利ひだりききでありながらみぎようのギターをさかさまに使用しようすることで、ボリュームやトーンなどのコントロールノブが上側うわがわにくるため、演奏えんそうちゅう左手ひだりて自在じざいにノブを操作そうさし、音量おんりょう音質おんしつ変化へんかさせるという独特どくとく奏法そうほうすことができたというせつもある。

晩年ばんねんは、左利ひだりきようのギブソン・フライングVを所有しょゆうしていたが、上手うま使つかえないからとローディーだったエリック・バレットにゆずっている。みぎようギターをひっくりかえして使用しようしているうちに、コントロールうえ位置いちしていないと上手うまけなくなっていたらしい[58]。バレットはそのギターをのち売却ばいきゃく現在げんざいはハードロックカフェに展示てんじされている。

もっとも「ヘンドリックスは本来ほんらいみぎきだったのではないか」というせつ根強ねづよささやかれている。その証拠しょうことして、食事しょくじしょさいには右手みぎて使つかっていたことがげられる。『エレクトリック・ジプシー』(ハリー・シャピロ&シーザー・グレビーク)や『ジミヘンドリックスの創作そうさくノート』『天才てんさいジミ・ヘンドリックス ギター革命かくめい真実しんじつ』(ジョン・マクダーモット、エディ・クレイマー)など複数ふくすう伝記でんきにその様子ようすうつした写真しゃしん掲載けいさいされ、「ジミはときみぎきだった」と記載きさいされている。さらにちちアルも、伝記でんき映画えいが雑誌ざっし「エスクワイア」1993ねん4がつごうなど複数ふくすう媒体ばいたいにおいて、一貫いっかんして「ジミは左利ひだりききにあこがれがあった」「ボールをげるとき右手みぎてだった」などと証言しょうげんしている(同時どうじ息子むすこジミがギターをはじめたときに、みぎきなのに左利ひだりききのかたをするのでなおそうとしたという逸話いつわ紹介しょうかいしている)。あえて左手ひだりてくことで、普通ふつうとはちがったおとしたかったのではないか、というせつもある。

ただしヘンドリックス本人ほんにんは、1967ねんの『Beat Instrumental magazine』掲載けいさい取材しゅざいで「最初さいしょに(みぎようの)ギターをいたとき自分じぶん左利ひだりききだから違和感いわかんおぼえた」とかたっている。また、『天才てんさいジミ・ヘンドリックス ギター革命かくめい真実しんじつ』には、ヘンドリックスは右手みぎてでも左手ひだりてでもしょ可能かのうだったという記述きじゅつもある。ぎゃくに『エレクトリック・ジプシー』ではみぎきのかまえや、みぎようつるかたでもギターをけたと記述きじゅつされている。

以上いじょうてんから、すくなくともギターは左利ひだりきき、しょみぎきと、変則へんそくてきなききてだったのではないかと推測すいそくされる[59]

プロデュース

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かずすくないが、ヘンドリックスはプロデューサーとしても活動かつどうしていた。1968ねんの「Eire Apparent」と69ねんの「Cat Mother & the All Night Newsboys」、バディ・マイルスのアルバムきょくすうきょく存在そんざいしている。

影響えいきょうとエピソード

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ジミヘンコード

数々かずかずのヒットきょくつヘンドリックスのビルボード最高さいこうは、アルバムチャート(Billboard 200)で1、シングルチャート(Billboard Hot 100)20である。難解なんかい音楽おんがくでファンがすくなかったなどということはなく、むしろ当時とうじのアメリカのロックミュージシャンのなかもっと集客しゅうきゃくりょくのあるスターだった。ウッドストックのトリをつとめたのも、そのためだとわれる。ただし、本来ほんらいヘンドリックスの出演しゅつえん最終さいしゅう日曜日にちようび)のよる予定よていだったのに、スケジュールがして翌日よくじつ月曜日げつようび)のあさになってしまい、40まんにんともわれた観客かんきゃく大半たいはん帰途きとについていた。日本人にっぽんじんでウッドストックを数少かずすくない一人ひとりであるギタリスト成毛なるけしげるも、ヘンドリックスのステージをずに会場かいじょうはなれている。

ヘンドリックスは、様々さまざまなジャンルのミュージシャンとセッションすることをこのんだが、1960年代ねんだいなかばのイギリスでは、そういった習慣しゅうかん文化ぶんか)があまり普及ふきゅうしておらず、イギリスでセッションの習慣しゅうかん定着ていちゃくさせたのはヘンドリックスである、というせつ存在そんざいする(ピート・タウンゼント談話だんわ)。

ヘンドリックスの代表だいひょうきょくである「パープル・ヘイズ(邦題ほうだいむらさきのけむり)」で使用しようされているE7(#9)というコードは、元々もともとブルースジャズなどにおいて使用しようされていたものだが、ヘンドリックスのどうきょく演奏えんそうによって「サイケデリックひびきのするコード」として有名ゆうめいになった。ミュージシャンなどのあいだでは「ヘンドリックス・コード」(日本にっぽんでは「ジミヘンコード」)などとばれることもある。

モンタレー・ポップ・フェスティバルで成功せいこうおさめた直後ちょくご一時期いちじきモンキーズ全米ぜんべいツアーのオープニングアクト(前座ぜんざ)をつとめたことがある[注釈ちゅうしゃく 26]。しかしモンキーズとの客層きゃくそうちがいなどからステージでまったくけず、ごく短期間たんきかん降板こうばんしている[注釈ちゅうしゃく 27]

ギターにはな行為こういモンタレー・ポップ・フェスティバルの記録きろく映画えいが有名ゆうめいだが、はじめておこなったのは1967ねん3がつウォーカーブラザーズのツアーに前座ぜんざとして同行どうこうしたときで、発案はつあんしたのは本人ほんにんではなく知人ちじん記者きしゃだったとわれている[15]。それ以後いごかれはイギリスでなんおこなっていた。

「アメリカ国歌こっか」のライブ演奏えんそうもウッドストックがはじめてではない。「アメリカ国歌こっか」には、多重たじゅう録音ろくおん駆使くししたスタジオ録音ろくおんバージョンも存在そんざいしている[注釈ちゅうしゃく 28]

ヘンドリックスにおおきな影響えいきょうけ、ヘンドリックスそっくりの演奏えんそうをする「ヘンドリックス・フォロワー」とばれるギタリストが存在そんざいする。ロビン・トロワーフランク・マリノランディ・ハンセンウリ・ジョン・ロートなどが、ヘンドリックス・フォロワーの代表だいひょうれいわれる。

27さいくなっているため、いわゆる「27クラブ」(27さい死去しきょした有名ゆうめいミュージシャンたちす)の代表だいひょうてき一人ひとりとされることがおおい。

ヘンドリックスの映画えいがなん制作せいさくされている。1973ねん公開こうかいされた「Jimi Hendrix」(ワーナーブラザーズ)は、ヘンドリックスのライブ演奏えんそう関係かんけいしゃのインタビューなど、ドキュメンタリーてき内容ないようである[注釈ちゅうしゃく 29]。2000ねん公開こうかいされた「HENDRIX」(邦題ほうだいは「ほのおのギタリストジミ・ヘンドリックス」、レオン・イチャソ監督かんとく)は、登場とうじょう人物じんぶつ俳優はいゆうえんじる[注釈ちゅうしゃく 30]伝記でんき映画えいがで、日本にっぽんでは一般いっぱん公開こうかいされず、ビデオ(DVD)ソフトが販売はんばいされた。2013ねん公開こうかいされた「Jimi:All Is by My Side」(ジョン・リドリー監督かんとく)は、アウトキャストアンドレ・3000がヘンドリックスをえんじた伝記でんき映画えいがで、日本にっぽんでは「JIMI:栄光えいこうへの軌跡きせき」とだいされ2015ねん一般いっぱん公開こうかいされた。「ほのおのギタリストジミ・ヘンドリックス」や「Jimi:栄光えいこうへの軌跡きせき」では、ヘンドリックスの楽曲がっきょく使用しよう許可きょかりず[注釈ちゅうしゃく 31]げきちゅうでは「ヘイ・ジョー」などカバーきょくしか使つかわれない結果けっかになっている。

ヘンドリックスが、ニューヨークチェルシー・ホテル宿泊しゅくはくしていたさいべつきゃくである老婆ろうばからボーイと間違まちがわれ、荷物にもつはこんであげたことがあるという[60]

さんだいギタリストとの関係かんけい

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クリーム(1968ねんのテレビ番組ばんぐみ

クリームエリック・クラプトンジンジャー・ベイカージャック・ブルースのバンド)の「Sunshine of Your Love」は、クリームのメンバー3にんが、ヘンドリックスのステージを鑑賞かんしょうしたよる、ヘンドリックスの演奏えんそう触発しょくはつされてまれたという[注釈ちゅうしゃく 32]。それをっていたかどうかは不明ふめいだが、ヘンドリックスもこのきょくっており、度々たびたびステージで演奏えんそうしていた。イギリスのテレビ番組ばんぐみ「ルル・ショー」(生放送なまほうそう)にヘンドリックスが出演しゅつえんしたさい司会しかいルル女優じょゆう歌手かしゅ)と「Hey Joe」をデュエットするという予定よてい無視むしし、解散かいさんしたばかりのクリームにささげるためどうきょく演奏えんそうしたのは有名ゆうめい(1969ねん1がつ)。

クリーム時代じだいのエリック・クラプトンがしたウーマントーンは、一般いっぱんにギブソンのレスポールまたはSGによるものとおもわれているが、ストラトキャスターのフロントピックアップによるものというせつがある。ウーマントーンの代表だいひょうきょく「Sunshine of Your Love」のレコーディングはストラトキャスターでおこなわれた、という証言しょうげん存在そんざいする。これがただしいとすれば、あきらかにヘンドリックスの影響えいきょうだろう。クラプトンは、ヘンドリックスとおなじような“エレクトリックヘア”(チリチリのアフロヘア)にしたり、東洋とうようふうのヒラヒラした衣装いしょうキモノ)を着用ちゃくようしたりしていた時期じきがあり、ヘンドリックスからつよ影響えいきょうけていたことがられている。

ポール・マッカートニーによると、ヘンドリックスはストラトのトレモロアームを多用たようしてチューニングがくるってしまい、客席きゃくせきにクラプトンをつけて「ぼくのためにチューニングをなおして」と冗談じょうだんばしシャイなクラプトンをこまらせていたという[61]

クラプトンは1970ねん9がつ18にち、ヘンドリックスとのセッションへかうまえにヘンドリックスのりショックをけている。そのさいクラプトンは、ヘンドリックスに左利ひだりきようのストラトをプレゼントしようとしていたという。

クラプトンは、デレク&ザ・ドミノスとしてのアルバム『いとしのレイラ』(1970ねん)で、ヘンドリックスの代表だいひょうてきなバラード「Little Wing」をカバー。そのもヘンドリックスのトリビュートアルバムに参加さんかし、「Stone Free」などをカバーしている。

ジェフ・ベック・グループが、はつのアメリカ公演こうえんおこなったさい(1968ねん6がつ)、アンコールにヘンドリックスが登場とうじょうし、ベックと共演きょうえんしたことがあるという。ベックは「ステージでジミと一緒いっしょ演奏えんそうしていると、自分じぶん歴史れきしいちページにっているんだというようなふか感慨かんがいがあった」とべている。インタビューした記者きしゃに「若手わかてロックギタリストにもっとおおきな影響えいきょうおよぼしているのはヘンドリックスとあなた」とわれたベックは「本当ほんとうか!」と驚喜きょうきしたという。ヘンドリックスもベックのことを「イギリスで最高さいこうのギタリスト」とひょうしたことがある。

ベックは1980年代ねんだいなかば、ヘンドリックスの演奏えんそう有名ゆうめいな「Wild Thing」(オリジナルはザ・トロッグス)を、ヘンドリックスふうのアレンジでレコーディングしている(めずらしく、ベックがリードボーカルをつとめた)。また、ヘンドリックスのトリビュート・アルバムで「Manic Depression」などをカバーしている。コンサートのアンコールで、ミッチ・ミッチェル、ノエル・レディング(いずれも、もとエクスペリエンス)とトリオで演奏えんそうしたこともある。

あるときヘンドリックスがベックにたいして「おまえのブルースは気持きもわるいから、エレクトロニカやクロスオーバーな音楽おんがくをやったほうがいい」とアドバイスしたという。その影響えいきょう現在げんざいのベックの演奏えんそうスタイルが確立かくりつしたというせつがある。

エリック・クラプトンとジェフ・ベックはヘンドリックスと友人ゆうじんだったとされるが(クラプトンやベックの談話だんわ)、ジミー・ペイジはニュー・ヤードバーズ(レッド・ツェッペリンげの時期じきいそがしく、ヘンドリックスのステージを機会きかいいちもなく、うことも出来できなかったという。ただし、ペイジがレッド・ツェッペリンのアメリカ公演こうえん合間あいまにニューヨークのクラブへ出向でむいたさい偶然ぐうぜんおなてんていたヘンドリックスとおなじテーブルにいたことがある。そのときのヘンドリックスは完全かんぜん酩酊めいてい状態じょうたいで、まともにはなしをすることも出来できなかった。ヘンドリックスは、あまりしゅつよくなかったらしい(ビリー・コックスの談話だんわ)。結局けっきょく、ペイジが生前せいぜんのヘンドリックスとえたのはそのときだけだった(ペイジ本人ほんにん談話だんわ)。

ローリング・ストーンズとの関係かんけい

編集へんしゅう

わたりえいあいだもない時期じきのヘンドリックスともっとしたしかったのは、ブライアン・ジョーンズ(ローリング・ストーンズの初期しょきリーダー、ギタリスト)だったとわれる。ジョーンズはヘンドリックスがイギリスのミュージックシーンで人脈じんみゃくきずくのをたすけたほか、アメリカへのぎゃく上陸じょうりくとなったモンタレー・ポップ・フェスティバル(1967ねん)では、ヘンドリックスを観客かんきゃく紹介しょうかいするやくってている。この時期じき、ジョーンズはミック・ジャガーローリング・ストーンズのボーカル)たち仲違なかたがいし、ストーンズない孤立こりつはじめていた。ヘンドリックスはジャガーたちいきどおっていたらしく、自身じしんのステージにジャガーとマリアンヌ・フェイスフル女優じょゆうけん歌手かしゅ当時とうじのジャガーの恋人こいびと)がかおしたさい2人ふたりあいだんですわり、フェイスフルに「こののちおれえよ」とこえよがしに発言はつげんとなりのジャガーは、ヘンドリックスの挑発ちょうはつてき言葉ことばづかないりをしたため、その喧嘩けんかになるようなことはなかった。ジョーンズが1969ねん7がつ急逝きゅうせいしたのち、ヘンドリックスは追悼ついとうめて「Lovers」を制作せいさくしている。

とはいえ、ミック・ジャガーはヘンドリックスへの敬慕けいぼねん常々つねづね表明ひょうめいしており、ヘンドリックスの死後しご制作せいさくされた伝記でんき映画えいが『Jimi Hendrix』(1973ねん)に登場とうじょうしインタビューにこたえている。1980年代ねんだいまつのソロ活動かつどうさいには「Red House」や「Foxy Lady」といったヘンドリックスのきょくをステージで披露ひろうし、おおきな話題わだいんだ。また、ジャガーは「おれはジミと一緒いっしょにレコーディングしたことがある。どこかにそのテープがのこっているはずだ」とべている。

ヘンドリックスがはじめてにしたストラトキャスターは、元々もともとキース・リチャーズのものだったというせつがある。ヘンドリックスをチャス・チャンドラーに紹介しょうかいしたリンダ・キースがリチャーズの恋人こいびとだったため、リチャーズが所有しょゆうしていたストラトをリンダがヘンドリックスにわたしたというのだが、諸説しょせつあり真偽しんぎ不明ふめい[62]。ストラトは高価こうかなギターだったために、無名むめい時代じだいのヘンドリックスにはとどかなかったとわれている。

ミック・ジャガーの実弟じっていのクリス・ジャガーは、'60年代ねんだいにミュージシャンけの衣料いりょうてん経営けいえいしており、ふる軍服ぐんぷくなどを販売はんばいしていた。わたりすぐるしたヘンドリックスがそれらの衣装いしょうって着用ちゃくようしたことが、いわゆるミリタリーファッションの起爆きばくざいになったという(クリス・ジャガーの談話だんわ)。

ビートルズとの関係かんけい

編集へんしゅう
 
ヘンドリックスのステージセット(EMP ミュージアム・シアトル)

ビートルズのポール・マッカートニーはヘンドリックスを非常ひじょうたか評価ひょうかしており、ヘンドリックスの生前せいぜんから「ジミは絶対ぜったいにギターのエース」「ジミをさなければ(モンタレー・ポップフェスティバルは)フェスティバルにならないよ」などとかたっている。ヘンドリックスの死後しごも「エドワード・バン・ヘイレンはグレートだ。でもぼくにとっては、ジミが永遠えいえんのナンバーワンだよ」とかたっている。

ビートルズのアルバム『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』が発売はつばいされて数日すうじつ、ポール・マッカートニーがヘンドリックスのコンサートにかけたところ、ヘンドリックスは1きょくどうアルバムのタイトルきょくサージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド」を演奏えんそうし、マッカートニーをおおいによろこばせた。マッカートニーは「ビートルズの『サージェント・ペパーズ』が金曜日きんようび発売はつばいされて、そのたった2にち日曜日にちようびに、ジミはそれをステージで演奏えんそうしたんだ。あのきょくはじめてライブ演奏えんそうしたのは、ビートルズではなくジミなんだよ。演奏えんそうれい調子ちょうしで、ギューン!バーン!と素晴すばらしかった」とかたっている。近年きんねんのマッカートニーは自身じしんのコンサートでこのエピソードをたびたびかたり、その前後ぜんごにヘンドリックスの「Foxy Lady」などを演奏えんそうするのが約束やくそくになっている。

ジョン・レノンは「ジミはロックの指導しどうしゃ(パイド・パイパー)、革新かくしんしゃで、この時代じだいにおけるもっと影響えいきょうりょくった人間にんげん一人ひとりだった。完全かんぜん独創どくそうてきだった」とかたったという。(カーティス・ナイトちょ、「ロックギターの革命かくめい ジミ・ヘンドリックス」)

キャシー・エッチンガム(ヘンドリックスがわたりすぐるしたばかりのころ恋人こいびと)がクラブのロビーで電話でんわしていたところ、ほかのおとこはなしていると勘違かんちがいしたヘンドリックスがいかり、エッチンガムをこづきまわした。するとジョン・レノンとポール・マッカートニーが偶然ぐうぜんそのとおりかかり、ヘンドリックスをエッチンガムからはなして「どうしたんだ、ジミ」とかせたという。エッチンガムは「あのときのジョンとポールはジェームズ・ボンドみたいだったわ」とかたっている。

ザ・フーとの関係かんけい

編集へんしゅう

1966ねん9がつにイギリスにわたったヘンドリックスは、ロンドンの「セント・ジェームスのスコッチ」(The Scotch of St. James)というナイト・クラブ演奏えんそうしているときに、当時とうじザ・フーのマネージャーだったキット・ランバートとどまった。ランバートはかれ演奏えんそう圧倒あっとうされて、自分じぶんがザ・フーのもう一人ひとりのマネージャーだったクリス・スタンプと共同きょうどう設立せつりつしたばかりのトラック・レコードにかれ熱心ねっしん勧誘かんゆうした[注釈ちゅうしゃく 33]。その甲斐かいあってザ・ジミ・ヘンドリックス・エクスペリエンスはトラック・レコードと契約けいやくむすんだバンドのだいいちごうになり[63]、ザ・フーと宣伝せんでん担当たんとうエージェントと共有きょうゆうして度々たびたびおなじステージにった。イギリスではザ・フーのほうさきにデビューしていたので、前座ぜんざとして出演しゅつえんすることもあった。ピート・タウンゼントは「ジミから『ザ・フーのみんなにはとても世話せわになった』と丁重ていちょうれいわれたことがある。だが、本当ほんとう友人ゆうじんになることができないうちに、かれんでしまった」と、残念ざんねんそうにかたっている。

ヘンドリックスがイギリスで活動かつどう開始かいししてあいだもないころ、タウンゼントはかれ演奏えんそうんで、可能かのうかぎりステージにかよめていた(タウンゼントの談話だんわ)。かれ出演しゅつえんしているクラブに出向でむいたさい出入でいぐちちがったジェフ・ベックに「あいつ(ヘンドリックス)、おまえわざをパクってるぜ」とわれたというエピソードがある。実際じっさい演奏えんそういてみたところ、「おれのトレードマークに変化へんかくわわっていた」とおどろいたという。

1967ねん6がつ開催かいさいされたモンタレー・ポップ・フェスティバルにはザ・フー出演しゅつえんした。主催しゅさいしゃは、ザ・ジミ・ヘンドリックス・エクスペリエンスとザ・フーを最終さいしゅうの18にち連続れんぞくして出演しゅつえんさせようとした。ザ・フーも楽器がっき破壊はかいりにしていた[注釈ちゅうしゃく 34]ため、さき出演しゅつえんしたほうつよ衝撃しょうげき観客かんきゃくあたえるのは確実かくじつであるとかんがえた両者りょうしゃおおいに困惑こんわくした。タウンゼントはヘンドリックスに「きみ天才てんさいミュージシャンだが、おれたち楽器がっきこわすことぐらいしかできない。さき演奏えんそうさせてほしい」と懇願こんがんしたという(タウンゼントの談話だんわ)。交渉こうしょうはまとまらず[注釈ちゅうしゃく 35]主催しゅさいしゃ一人ひとりであるジョン・フィリップスママス&パパス)がげるコインの裏表うらおもて順番じゅんばんめることになり、結局けっきょくザ・フーがさき楽器がっき破壊はかい披露ひろうした[注釈ちゅうしゃく 36][64]。しかしから出演しゅつえんしたヘンドリックスがギターにをつけると、タウンゼントは「ギターをこわすのはあなたの専売せんばい特許とっきょだったんじゃないの?」とはなしかけてきたキャス・エリオットママス&パパス)に「むかしはそうだったが、いまはジミのものだ」とこたえたという。

フランク・ザッパとの関係かんけい

編集へんしゅう

フランク・ザッパは、1967ねん7がつ、ニューヨークのグリニッジ・ヴィレッジにあるカフェ・オー・ゴー・ゴーでザ・ジミ・ヘンドリックス・エクスペリエンスのコンサートをた。かれは「スピーカーのまえにいたために気分きぶんわるくなった。なぜあそこまでだい音量おんりょうにするのか理解りかいできない」とべている。会場かいじょうはすし状態じょうたいだったので、かれ気分きぶんわるくなったにもかかわらず、途中とちゅう退場たいじょうすることもできなかった。それにもかかわらずかれはコンサートを「素晴すばらしかった」とかんじて、後日ごじつヘンドリックスとミッチェルを、カフェ・オー・ゴー・ゴーのうえにあるギャリック劇場げきじょうおこなわれたザ・マザーズ・オブ・インヴェンション以下いか、MOIとりゃくする)のコンサートに招待しょうたいした[注釈ちゅうしゃく 37]かれはヘンドリックスの演奏えんそうぶりにおおいに興味きょうみをそそられたので、かれをステージにまねいてMOIのメンバーと演奏えんそうさせて、それを客席きゃくせきからていた[65]

さらにザッパはヘンドリックスを、MOIが1968ねん発表はっぴょうしたアルバム『ウィー・アー・オンリー・イン・イット・フォー・ザ・マニー』のなかジャケット[注釈ちゅうしゃく 38]よう撮影さつえい招待しょうたいした。ヘンドリックスは実際じっさいにザッパやMOIのメンバーとともに、撮影さつえい参加さんかした[66][67]

ザッパはのミュージシャンにたいして辛辣しんらつ発言はつげんをすることがおおかったが、ヘンドリックスのことは賞賛しょうさんしている。よくられている発言はつげんとしてはいまのメジャーシーンでまともな音楽おんがくをやっているのはヘンドリックスとキャプテン・ビーフハートくらいだね」[よう出典しゅってん]というものがある。

ザッパは、ヘンドリックスが1968ねん5がつおこなわれたマイアミ・ポップ・フェスティバル[注釈ちゅうしゃく 39]出演しゅつえんしたときにステージでやしたフェンダー・ストラトキャスターっていた。かれはヘンドリックスのスタッフの一人ひとりで、ローディーや雑用ざつようがかりつとめていたハワード・パーカー(Howard Parker)という人物じんぶつを60年代ねんだい後半こうはんすうげつあいだ自宅じたくめてあげたことがあり、このギターは、その謝礼しゃれいとしてパーカーからかれ進呈しんていされたものだった[注釈ちゅうしゃく 40]かれすう年間ねんかん、この通称つうしょう『ヘンドリックス・ストラト』を自宅じたくかべにかけてかざっていたが、1976ねん修理しゅうりしてネックとピックアップ新品しんぴんえてパラメトリック・エコライザーをけさせた。ヘンドリックス・ストラトは、かれが1977ねんから1978ねんにかけておこなったツアーに参加さんかしたエイドリアン・ブリュ―によって使用しようされたほか、かれ自身じしんもステージで使用しようしていた[68]。1988ねん発表はっぴょうされたアルバム『ギター』に収録しゅうろくされたインストゥルメンタルきょく「Sexual Harassment in the Workplace」[注釈ちゅうしゃく 41][69]などで、その音色ねいろける。かれが1993ねん病没びょうぼつしたのち長男ちょうなんでギタリストのドゥイージル・ザッパがヘンドリックス・ストラトをオークションに出品しゅっぴんして話題わだいんだ[70]

マイルス・デイヴィスとの関係かんけい

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ブルック・ストリートにあるヘンドリックスの記念きねんがく(ロンドン)

ジャズかい帝王ていおうマイルス・デイヴィスは、ヘンドリックスの才能さいのう絶賛ぜっさんしており、ヘンドリックスの死後しごに「あれほど音感おんかんのいい人間にんげん滅多めったにいるものじゃない」とかたっている。デイヴィスがヘンドリックスを自宅じたくまねいてセッションをしたさい、ヘンドリックスが譜面ふめんめずコード(和音わおん)の名前なまえらないためデイヴィスがピアノでおとかせると、ヘンドリックスは即座そくざ反応はんのうしてギター演奏えんそうかえしてたという。

また、デイヴィスは自身じしんのバンドのギタリストにたいし、「ジミ・ヘンドリックスのようにくんだ」と常々つねづね指示しじしていた。バンドに参加さんかしていたギタリストのジョン・マクラフリンマイク・スターンが、いわゆるジャズてき演奏えんそうをしてもけっして満足まんぞくせず、ロックふう演奏えんそうをすると「それだ!」とよろこんだという逸話いつわもある。ヘンドリックスと同年代どうねんだいのマクラフリンは、ヘンドリックスと度々たびたびセッションをおこなっており、のちに「ジミは後年こうねんすべてのギタリストに影響えいきょうあたえた。わたしもジミになんらかの影響えいきょうあたえられたのだろうか(自分じぶんではなんともえない)」とべている。スターンはヘンドリックスよりわかく、ヘンドリックスの影響えいきょうおおきくけたジャズギタリストとしてられる。

デイヴィスは、当時とうじつまだったベティ・デイヴィス黒人こくじん歌手かしゅけん女優じょゆう同名どうめい白人はくじんハリウッド女優じょゆうとは別人べつじん)の紹介しょうかいもあってヘンドリックスの音楽おんがくはや時期じきからチェックしており、その、ヘンドリックスのマネージャーをとおして交流こうりゅうはじまった。[22]。ヘンドリックスのがわもマイルスの音楽おんがく興味きょうみっていたがゆえのことであった。ヘンドリックスとベティ・デイヴィスはあるときから不倫ふりん関係かんけいにあったとわれており、それがデイヴィス夫妻ふさい離婚りこんする原因げんいんひとつとなった[22]。しかし、デイヴィスはそのもヘンドリックスの音楽おんがくてき才能さいのう共演きょうえんのぞんでいた[22]

デイヴィスのバンドのベーシストだったデイヴ・ホランド(ヘンドリックスとも度々どどセッションをおこなっていた)によると、ヘンドリックスとデイヴィスのレコーディングの仕方しかた非常ひじょうているめんがあったらしい(デイヴィスの自伝じでんより)。デイヴィスによると、両者りょうしゃたがいに影響えいきょうをあたえあう関係かんけいで、デイヴィス自身じしんのトランペットプレイやワウワウミュートを使つかったプレイもそれによるという。また、いわゆる「電化でんかマイルス」という方向ほうこうせいは、ヘンドリックスの影響えいきょうによるものという論評ろんぴょう存在そんざいする。

ヘンドリックスとデイヴィスは、共同きょうどうでアルバムを制作せいさくする寸前すんぜん段階だんかいまでなんすすみかけたが、いち度目どめはデイヴィスがわ高額こうがくのギャラを要求ようきゅうしたためながれた。度目どめは、デイヴィスとヘンドリックスが出演しゅつえんした70ねんのワイトとう音楽おんがくフェスティバルののちにロンドンでおこなわれる予定よていであったが、デイヴィスがわ渋滞じゅうたいっかかり時間じかんわなかったためにながれた。さん度目どめはギル・エヴァンスをくわえたさんにんでニューヨークで録音ろくおんをする予定よていであったが、その直前ちょくぜんにヘンドリックスが死亡しぼうしてしまい、結局けっきょく具体ぐたいてきかたちでのともさく実現じつげんしなかった。

デイヴィスはヘンドリックスの葬儀そうぎ参列さんれつしたが、「牧師ぼくしがジミの名前なまえなん間違まちがえると始末しまつをやらかした」とかたっており、それにつよいかりをおぼえたともくわえている。デイヴィスが他者たしゃ葬儀そうぎ参列さんれつすることはめったになかったとわれている(「マイルス・デイヴィス自叙伝じじょでん」より)。

ギル・エヴァンスとの関係かんけい

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エレクトリック・レディ・スタジオニューヨーク
ヘンドリックスによって1970ねんてられた。

1970ねん初頭しょとうレコード・プラント・スタジオにおいてギル・エヴァンスがアルバムGil Evans(のちにBlues in Orbitとして発売はつばい)をミキシングちゅうに、ヘンドリックスがたずねて自己じこ紹介しょうかいをした[71]。ギル・エヴァンスも、ヘンドリックスの才能さいのうたか評価ひょうかし、自分じぶんのオーケストラのソリストに起用きようすることをかんがえた[72]。そのための正式せいしきなミーティングも1970ねん9がつ21にち予定よていしていたが、ヘンドリックスはその1週間しゅうかんまえくなった。1974ねん、エヴァンスは、オーケストラ参加さんかしゃらとともにヘンドリックスのきょくにアレンジをほどこし、『プレイズ・ジミ・ヘンドリックス』を発表はっぴょうした。後年こうねんスティングがアルバム『ナッシング・ライク・ザ・サン』でヘンドリックスの「Little Wing」をカバーしたときも、エヴァンスが編曲へんきょく担当たんとうした。「Stone Free」、「そらよりたか」などの楽曲がっきょくぐんは、かれのオーケストラの主要しゅようレパートリーとして、晩年ばんねんまで演奏えんそうされた。

レス・ポールとの関係かんけい

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ギタリストでありエンジニアでもあったレス・ポールは、1960年代ねんだい前半ぜんはん無名むめい時代じだいのヘンドリックスの演奏えんそう間近まぢかいたことがあるという。ヘンドリックスが、ニューヨークのクラブでオーディションをけていたときのことらしい[注釈ちゅうしゃく 42]のちに、エレクトリック・レディ・スタジオ開設かいせつしたさい、ヘンドリックスは業界ぎょうかいだい先輩せんぱいであるポールに挨拶あいさつ電話でんわをかけたという。けたポールが「きみのことがにかかって、ずいぶんさがしたんだよ」とかたると、ヘンドリックスは「レス・ポールさんがそんなちかくでていたのに気付きづかなかったなんて」と恐縮きょうしゅくしていたという(ポールの談話だんわ)。

ジャニス・ジョプリンとの関係かんけい

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短期間たんきかんだが、恋愛れんあい関係かんけいにあったと報道ほうどうされた。

関係かんけいしゃのその

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マネージメントをおこなっていたマイケル・ジェフリーは1973ねん飛行機ひこうき事故じこ死去しきょ。ヘンドリックスをしたチャス・チャンドラーは1996ねん死去しきょ。ベースのノエル・レディングは2003ねん死去しきょ。バンド・オブ・ジプシーズのドラマーだったバディ・マイルスは2008ねん2がつ死去しきょ。エクスペリエンスのドラマーだったミッチ・ミッチェルは、2008ねんにシアトルでおこなわれたヘンドリックストリビュートのイベントに参加さんかしたが、同年どうねんの11月、米国べいこくオレゴンしゅうポートランドのホテルで死去しきょした。ヘンドリックスがくなるさい同室どうしつにいた女性じょせいモニカ・ダンネマンは、ジミヘン・フォロワーとしてられるドイツじんギタリストのウリ・ジョン・ロートのち結婚けっこんしたが、1996ねん自殺じさつしている[73]

ヘンドリックスのちちアル・ヘンドリックスは、息子むすこジミが成人せいじんしていえてから日系にっけいせい女性じょせいアヤコ(アヤコ・ジューン・フジタ)と再婚さいこん。ヘンドリックスは、自分じぶんおな東洋とうようけい(ヘンドリックスの父方ちちかた祖母そぼインディアン)の女性じょせい義母ぎぼになったことを非常ひじょうよろこんでいたという。ヘンドリックスは、義母ぎぼアヤコに「1970ねんのハワイのコンサートののち日本にっぽん予定よていだよ、日本にっぽんくのがたのしみなんだ、日本にっぽんはどんなところなの」とかたっていたという(アヤコの談話だんわ。アヤコはアメリカまれだが、だい大戦たいせんまえ日本にっぽん留学りゅうがくした経験けいけんがあるという。「エスクワイア」1993ねん4がつごう)。ヘンドリックスがっていたとおり、日本にっぽんでもヘンドリックスのコンサートをふくむフェスティバル(富士ふじオデッセイ)の計画けいかくすすんでいたが実現じつげんしていない。結局けっきょくヘンドリックスが来日らいにちすることはいちもなかった[注釈ちゅうしゃく 43]。ヘンドリックスはキモノ着物きものした東洋とうようふう衣装いしょう)をこのんで着用ちゃくようし、ステージにこいのぼりをあげる[注釈ちゅうしゃく 44]など、日本にっぽんたいしてしたしみをかんじていたらしい。

ディスコグラフィ

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原盤げんばんけん行方ゆくえ

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ヘンドリックスのスター(ハリウッド・ウォーク・オブ・フェーム

ヘンドリックスの音源おんげん権利けんりは、ヘンドリックスが遺言ゆいごんのこしていないこと、マネージャーのマイケル・ジェフリーが事故死じこししたこと、ヘンドリックスが各所かくしょにジャム音源おんげんのこしていたことなどから混乱こんらん。ヘンドリックス自身じしんはレコードデビューわずか4ねんほどしか活動かつどうしていないにもかかわらず、正規せいきばん海賊版かいぞくばんふく膨大ぼうだいかずのレコード(CD)が市場いちば出回でまわることになった。しかし裁判さいばんすえ、1990年代ねんだいなかばにヘンドリックスの遺族いぞく権利けんりがあると確定かくてい(それ以前いぜんはヘンドリックスと親交しんこうのあったミュージシャン、アラン・ダグラス権利けんりっていた)。ヘンドリックスのちちアル・ヘンドリックスたちによりEXPERIENCE HENDRIXという会社かいしゃ設立せつりつされ、ヘンドリックスの音源おんげん管理かんりすることになり現在げんざいいたっている。アルは2002ねんくなったため、むすめジェイニー・ヘンドリックスがEXPERIENCE HENDRIXの代表だいひょうになっている。ただしジェイニーはアルの後妻ごさいアヤコの[注釈ちゅうしゃく 45]で、ヘンドリックスとは義理ぎり兄妹きょうだいである。つまりヘンドリックスとジェイニーにはのつながりはまったくない。

無名むめい時代じだいのヘンドリックスは様々さまざまなレコード会社かいしゃやエージェントと契約けいやくわしており(おおくはその雰囲気ふんいきながされかる気持きもちで契約けいやくしょにサインしていたらしい)、生前せいぜんから権利けんり混乱こんらんしていた。とくにPPXレコードというインディーズレーベルが「ヘンドリックスは当社とうしゃ契約けいやくミュージシャンである」として本格ほんかくてき法廷ほうてい闘争とうそう仕掛しかけてきたため、解決かいけつさくとしてヘンドリックスのアルバム1まい権利けんりをPPXがわあたえることになった。そのために制作せいさくされたのがヘンドリックスの生前せいぜん唯一ゆいいつ正規せいきライブアルバム『バンド・オブ・ジプシーズ』である。こうした経緯けいいくわえ、十分じゅうぶん制作せいさく時間じかんあたえられなかったこともあり、ヘンドリックスはどうアルバムの仕上しあがりに満足まんぞくしていなかったらしい。

EXPERIENCE HENDRIXの販売はんばいけん獲得かくとくしたMCAレコード日本にっぽんではユニバーサルビクター)から再発さいはつばん新規しんき企画きかくばんのCDが発売はつばいされるさい、「オリジナル録音ろくおんテープをもとにリマスターした」と宣伝せんでんされたが、一説いっせつ一部いちぶのオリジナルテープはEXPERIENCE HENDRIXのわたっていないといわれ、部分ぶぶんてきにはレコードとうからおとこしているのではとのうわさ存在そんざいする(一部いちぶきょくにレコードのはりおん(スクラッチノイズ)とおもわれる雑音ざつおんがあるため)。

2009ねん9月18にち、EXPERIENCE HENDRIXの販売はんばいけん米国べいこくソニー・ミュージックエンタテインメント獲得かくとくしたことを発表はっぴょう2010ねん1がつ1にちよりSMEに移行いこうした。これにより、日本にっぽんばんは2010ねん3がつよりソニー・ミュージックジャパンインターナショナルつうじて、スタジオ・アルバムとライブ・アルバムは完全かんぜん生産せいさん限定げんてい、ベスト・アルバムはレギュラー形態けいたいでリリースされた[74]。 また、セッション、セパレートばん、ライヴ、スタジオ・セッションなどのブートレックも販売はんばいされている。 公式こうしきのアルバムやカーティス・ナイトのセッションもある。

脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ 出生しゅっしょうめいジョニー・アレン・ヘンドリックス英語えいご: Johnny Allen Hendrix
  2. ^ ローリング・ストーンえら歴史れきしじょうもっと偉大いだいなギタリスト100にん」において2003ねん、および2011ねん[2]、および2023ねんでも1えらばれている[3]
  3. ^ 2008ねん5月にブラジルメタル専門せんもん『ROADIE CREW』がおこなった「HR/HMけいミュージシャンがえらぶギタリスト・ランキング」[4]日本にっぽんの『ギター・マガジン』2010ねん12がつごうの「ギター・マガジンがえらぶ! 史上しじょうもっと偉大いだいなギタリスト100にん」で1となっている
  4. ^ 黒人こくじんだが、白人はくじんざっていた。「Esquire」1993ねん4がつごう
  5. ^ アルとルシールのあいだにはもう一人ひとり息子むすこ、レオン(ヘンドリックスのおとうと)がいる。そのほかにもすうにん弟妹ていまいがいるが養子ようしされているという。
  6. ^ インタビューで父親ちちおやのアル本人ほんにんかたるところ、ヘンドリックスは、手始てはじめにウクレレたしなんでいた[6]
  7. ^ ランディ・カリフォーニアらが所属しょぞくしていた。
  8. ^ ピーター・バラカンは「1966ねんまつにレディ・ステディ・ゴー(テレビ番組ばんぐみ)に出演しゅつえんしたヘンドリックスを衝撃しょうげきけた。1967ねん正月しょうがつにメロディ・メーカー(音楽おんがく)からヘンドリックスのライブの情報じょうほうり、マーキークラブ(ロンドンのライブハウス)にかけたら、開場かいじょうまえから観客かんきゃく長蛇ちょうだれつで、定員ていいんの3ばいちかくいたとおもう。マーキーであんなのはのちにもさきにもたことがない。なかはぎゅうぎゅうめでうごけない。ミリタリーファッションや演奏えんそうなどヘンドリックスのライブには生涯しょうがい最大さいだいきゅう衝撃しょうげきけた」とかたっている。「レコード・コレクターズ」1987ねんがつごう。「ルーディーズ・クラブ」8ごう1992ねん
  9. ^ モントレーと表記ひょうきされる場合ばあいもある。スイスモントルー混同こんどうしているれいがあるので注意ちゅうい
  10. ^ 当時とうじのヘンドリックスは母国ぼこくアメリカでは無名むめいで、アメリカがわ出演しゅつえん難色なんしょくしめしていたとわれる
  11. ^ ギターネックを片手かたてでシゴいたり手首てくび下腹かふく固定こていしてギターのつるきながらゆびをうねうねと大袈裟おおげさうごかしたりギターボディのボトムを股間こかんてて痙攣けいれんなど
  12. ^ ローディーだったジェリー・スティッケルズエリック・バレットたちの談話だんわ[15]
  13. ^ ヘンドリックスが時間じかんにルーズなことや、レコーディングの友人ゆうじんき)を多数たすう仕事しごとがはかどらないことなどに困惑こんわくしていた。伝記でんき「ジミ・ヘンドリックスの伝説でんせつ」、テレビ番組ばんぐみ「ジミ・ヘンドリックス―かみになったギタリスト―」、ビデオソフト「メイキング・オブ・エレクトリックレディランド」などでチャンドラーは「結婚けっこんして子供こどももできたし混乱こんらんからのがれたかった」とべている。
  14. ^ そのため、デビュー当初とうしょのザ・ジミ・ヘンドリックス・エクスペリエンスとしての活動かつどうはこの時点じてんまで。
  15. ^ 「ギャラにかん疑問ぎもんていしたのが問題もんだいされた」といった説明せつめいべている。
  16. ^ ヘンドリックスがギター、ミッチェルがドラム、コックスがベース、ラリー・リーがサイドギター、ユマ・サルタンジェリー・バレッツパーカッションという6にん編成へんせい
  17. ^ 演奏えんそうはじめるまえのバンド紹介しょうかいで、ヘンドリックスは「別名べつめいはバンド・オブ・ジプシーズだ」とべている。
  18. ^ ビリー・コックスはヘンドリックスにかんするテレビ番組ばんぐみ「Jimi Hendrix Rockumentary」のなかで「アメリカ国歌こっか演奏えんそうしたときはベトナム戦争せんそうのまっただなかだった。あれはベトナムでばくだん炸裂さくれつするおんさ。ぼくにはそうこえた」とかたっている。ミック・ジャガーはウッドストックにおけるヘンドリックスの演奏えんそうを「'60年代ねんだい最高さいこうのロック・パフォーマンス」とひょうしている。
  19. ^ ヘンドリックスが出番でばんまえ知人ちじんからつよドラッグわたされて服用ふくようし、まともに演奏えんそう出来できなかったためとわれる。この公演こうえんでは、すべての客席きゃくせき演奏えんそうしゃ正面しょうめんえるようにステージが回転かいてんする仕組しくみが採用さいようされており、ヘンドリックスはこの回転かいてんしきステージに不快ふかいかんしめしていたという。「天才てんさいジミヘンドリックス ギター革命かくめい真実しんじつ」など。
  20. ^ 周囲しゅうい人間にんげん信用しんようできなくなり、食事しょくじまったくしなくなったという。
  21. ^ IMDbには「バルビツール・オーバードース」と表記ひょうきされているが、検死けんしたった医師いし診断しんだんしょには「窒息ちっそく」とかれている。
  22. ^ ジェフリーはヘンドリックスと不仲ふなかで、ヘンドリックスから解雇かいこされるのをおそれていた。そのためヘンドリックスに保険ほけんをかけたうえ殺害さつがいし、保険ほけんきん権利けんり独占どくせんしようとしたというせつがある。「Rock Roadie」、「天才てんさいジミヘンドリックス ギター革命かくめい真実しんじつ」など。
  23. ^ ゼマティスが、楽器がっき製作せいさくはじめてあいだもないころ製作せいさくしたもの
  24. ^ レコードやCDにするさい、レコーディングエンジニアが音程おんてい電気でんきてき変化へんかさせているれいもあるので注意ちゅうい
  25. ^ アルバート・キングなど、みぎようつるったギターをぎゃくってくギタリストも存在そんざいする
  26. ^ マネージャーだったマイケル・ジェフリーが勝手かって契約けいやくしてきたため、ヘンドリックスたちはモンキーズとの共演きょうえん困惑こんわくしていたという。
  27. ^ 音楽おんがくめんのマネージャーであるチャス・チャンドラーが「アメリカ革命かくめいむすめたちと名乗なの団体だんたいから抗議こうぎ脅迫きょうはく)された」というはなしをでっちあげ、うまく降板こうばんんだという。
  28. ^ ヘンドリックスの死後しご発売はつばいされたアルバム「レインボーブリッジ」などに収録しゅうろく
  29. ^ 映画えいが日本にっぽん公開こうかいだがサントラレコード「天才てんさいジミ・ヘンドリックスの生涯しょうがい」が販売はんばいされた。現在げんざいはDVDソフトが販売はんばいされている。
  30. ^ ヘンドリックスやくウッド・ハリス
  31. ^ ヘンドリックスの楽曲がっきょく権利けんりつエクスペリエンス・ヘンドリックスが許可きょかさなかった。
  32. ^ クリームのメンバーだったジャック・ブルースジンジャー・ベイカー談話だんわ。ブルース、ベイカー、ゲイリー・ムーアによるバンド結成けっせい鼎談ていだんから。
  33. ^ 2014ねん公開こうかいされたドキュメンタリー映画えいがランバート&スタンプ』には、ヘンドリックスが2人ふたり談笑だんしょうしている白黒しろくろ記録きろく映像えいぞう収録しゅうろくされている。
  34. ^ タウンゼントがギター、ドラマーのキース・ムーンがドラム・セットを破壊はかいした。きっかけは1964ねん、ロンドンのとある天井てんじょうひくいクラブで演奏えんそうしているとき、タウンゼントがギターを天井てんじょうにぶつけてしまった事故じこだった。
  35. ^ ヘンドリックスがドラッグの影響えいきょうでタウンゼントのはなしけなかったためとわれる。
  36. ^ タウンゼントとムーンが「マイ・ジェネレーション」で楽器がっき破壊はかいする場面ばめんは、映画えいがモンタレー・ポップ フェスティバル'67』(1968ねん)に収録しゅうろくされた。
  37. ^ ザッパがひきいていたザ・マザーズ・オブ・インヴェンションは当時とうじギャリック劇場げきじょう長期ちょうき公演こうえんおこなっており、ザッパは活動かつどう拠点きょてん一時いちじてきにニューヨークにうつしていた。
  38. ^ 見開みひらきジャケットの全体ぜんたいがビートルズの『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』のジャケットのパロディで、レコード会社かいしゃ判断はんだん内側うちがわ外側そとがわえられた。ヘンドリックスは『サージェント・ペパーズ』のおもてジャケットに対応たいおうする内側うちがわジャケットのかって右側みぎがわのページに、女性じょせい衣裳いしょうたザッパとかれ将来しょうらい夫人ふじんかって右側みぎがわうつっている。
  39. ^ ザッパがひきいるザ・マザーズ・オブ・インヴェンション出演しゅつえんした。
  40. ^ パーカーは、このやされたギターをヘンドリックス本人ほんにんからもらった。なお、ザッパは、このギターは1968ねん5がつのマイアミ・ポップ・フェスティバルでやされたものであるとしんじていたが、実際じっさいには1967ねんにロンドンのアストリア・シアターでやされたものであるというせつもある。
  41. ^ 1981ねん12月12にちサンディエゴひらかれたコンサートでの録音ろくおん
  42. ^ レス・ポールが息子むすこともにレコード会社かいしゃおもむいたさい、おのおの時間じかんつぶしをしていたところ、息子むすこから「すごいギタリストが演奏えんそうしている」とつたえられ閉店へいてんちゅうのクラブにけると、黒人こくじん若者わかもの(ヘンドリックス)がギターを演奏えんそうしていた。約束やくそく時間じかんたためそのはなれ、ふたたびクラブにってみるとオーディションはわっており、若者わかものもいなかった。後日ごじつ、レス・ポールが新作しんさく参考さんこう資料しりょうとしてレコード会社かいしゃからったレコードのなかにヘンドリックスの「Are You Experienced?」があり、「このおとこだ!」とおどろいたという。
  43. ^ 一部いちぶで「べいぐん在籍ざいせき時代じだいのヘンドリックスがいち兵卒へいそつとして来日らいにちしているのでは」というせつもあるが、その事実じじつはない
  44. ^ 1970ねんのハワイのコンサートで確認かくにんできる。
  45. ^ 日系にっけいのアヤコとドイツけい前夫ぜんふとの混血こんけつ

出典しゅってん

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  21. ^ 写真しゃしん長谷部はせべひろしは1967ねんにロンドンでヘンドリックスにい「かれのことはよくらなかった。ジミはとても物静ものしずかなひとだった。のちにコンサートでかれのワイルドなパフォーマンスをたとき、どう一人物いちじんぶつとはおもえなかった」とかたっている。https://rollingstonejapan.com/articles/detail/25161/2/1/1
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引用いんよう文献ぶんけん

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ビブリオグラフィ

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関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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