ジミ・ヘンドリックス (英語 えいご : Jimi Hendrix )ことジェームズ・マーシャル・ヘンドリックス (英語 えいご : James Marshall Hendrix [注釈 ちゅうしゃく 1] 、1942年 ねん 11月27日 にち - 1970年 ねん 9月18日 にち )は、アメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく のギタリスト 、シンガーソングライター 。左利 ひだりき きのギタリストとして有名 ゆうめい であった。日本 にっぽん では「ジミヘン 」と略 りゃく される。
サイン
メジャーデビューしてからわずか4年 ねん ほどの活動 かつどう 期間 きかん で、ギタリスト として多 おお くのミュージシャンに多大 ただい な影響 えいきょう を与 あた えたロック ・ミュージックのパイオニアの一人 ひとり 。左利 ひだりき きでありながら右 みぎ 利 き き用 よう のギターを逆 さか さまにして構 かま え、ギターを歯 は で弾 ひ いたり背中 せなか に回 まわ して弾 ひ いたり、ライブ中 ちゅう にギターに火 ひ を放 はな ち破壊 はかい するなどの派手 はで なパフォーマンスでも有名 ゆうめい である。
没後 ぼつご 50年 ねん 経 た った現在 げんざい でも、ロック史上 しじょう 最高 さいこう のギタリストとして評価 ひょうか されており、ローリング・ストーン 誌 し は歴史 れきし 上 じょう 最 もっと も偉大 いだい なギタリスト第 だい 一 いち 位 い として何 なん 度 ど も選 えら んでいるほか[注釈 ちゅうしゃく 2] 、日本 にっぽん やブラジルの雑誌 ざっし の同様 どうよう のランキングでも1位 い となっている[注釈 ちゅうしゃく 3] 。また、「ローリング・ストーン誌 し が選 えら ぶ歴史 れきし 上 じょう 最 もっと も偉大 いだい な100組 くみ のスター」においては第 だい 6位 い に選 えら ばれている。
27クラブ の会員 かいいん としても有名 ゆうめい である。
ヘンドリックスの父方 ちちかた の祖父母 そふぼ (1912年 ねん 以前 いぜん )
1942年 ねん 、ワシントン州 しゅう シアトル に生 う まれる (デビューアルバムの裏 うら には「1945年 ねん 生 う まれ」と記 しる されている)。出生 しゅっしょう 時 じ の名前 なまえ は、ジョニー・アレン・ヘンドリックス (Johnny Allen Hendrix) で、母 はは ルシール (1925年 ねん - 1958年 ねん ) [注釈 ちゅうしゃく 4] によって名付 なづ けられた。父親 ちちおや のアルことジェームズ・アレン・ヘンドリックス (1919年 ねん - 2002年 ねん ) は、アフリカ系 けい の父親 ちちおや と、アメリカ先住民 せんじゅうみん の母親 ははおや との間 あいだ に生 う まれたブラック・インディアン である[5] 。純血 じゅんけつ のチェロキー族 ぞく だった父方 ちちかた の祖母 そぼ ノラ・ヘンドリックスから、幼少 ようしょう 期 き のヘンドリックスはチェロキー族 ぞく の昔話 むかしばなし を教 おし えられたという。その影響 えいきょう はヘンドリックスの作 つく る曲 きょく のそこかしこに見 み いだされる。母親 ははおや のルシールは、17歳 さい でヘンドリックスを産 う んだが、遊 あそ び好 す きで家庭 かてい を顧 かえり みないところがあったと言 い われ、まだ幼 おさな いヘンドリックスを置 お いて出奔 しゅっぽん したこともあるといい[6] 、早 はや くに亡 な くなっている。ヘンドリックスの楽曲 がっきょく 「Angel (天使 てんし )」は、亡 な き母 はは 、ルシールが夢 ゆめ に現 あらわ れたことから作 つく られたとされる[7] 。
ヘンドリックスが生 う まれた当時 とうじ 、父 ちち アルは第 だい 二 に 次 じ 大戦 たいせん に召集 しょうしゅう され出征 しゅっせい 中 ちゅう だった。母親 ははおや のルシールが出奔 しゅっぽん したため、ヘンドリックスはルシールの姉 あね 夫婦 ふうふ の元 もと で育 そだ てられていた。終戦 しゅうせん 後 ご の1945年 ねん 、帰国 きこく した父 ちち アルがヘンドリックスを引 ひ き取 と り、父親 ちちおや と息子 むすこ の生活 せいかつ が始 はじ まった[注釈 ちゅうしゃく 5] 。この頃 ころ 、ジェームズ・マーシャル・ヘンドリックス と改名 かいめい している[8] 。父 ちち アルと母 はは ルシールの折 お り合 あ いが悪 わる かった影響 えいきょう もあり、ヘンドリックスはたびたび祖母 そぼ であるノラ・ヘンドリックスの元 もと に預 あづ けられていたという。ノラはインディアン居留 きょりゅう 地 ち (Reservation)に住 す んでおり、ヘンドリックスは祖母 そぼ ノラからインディアンの昔話 むかしばなし を聞 き かされるのと同時 どうじ に、居留 きょりゅう 地 ち で希望 きぼう のない生活 せいかつ を送 おく るインディアンたちの姿 すがた を目 ま の当 あ たりにしていたという(ヘンドリックスの談話 だんわ )。「I Don't Live Today (今日 きょう を生 い きられない)」は、その体験 たいけん から生 う まれたと言 い われる[9] 。
多 おお くのブルース やロック のミュージシャンと同様 どうよう 、ヘンドリックスもレコード などを聴 き いて、独学 どくがく でギター演奏 えんそう を学 まな んだ (父 ちち アルの談話 だんわ )。父親 ちちおや のアルは庭師 にわし の仕事 しごと をしていたが生活 せいかつ は貧 まず しかった。ヘンドリックスが15歳 さい の頃 ころ 、ギターに興味 きょうみ を示 しめ したため[注釈 ちゅうしゃく 6] 、父 ちち アルは、当時 とうじ のアパートの家主 やぬし の息子 むすこ からアコースティック・ギター を5ドルで買 か い取 と り、ヘンドリックスに与 あた えた[10] 。
その後 ご 、シアトルの楽器 がっき 店 てん から初 はじ めてエレクトリック・ギター を購入 こうにゅう している (父 ちち アルの談話 だんわ )。ヘンドリックスは、ブルースや R&B 、ロックンロール のレコードを聴 き き練習 れんしゅう する一方 いっぽう 、テレビのアニメーション作品 さくひん などの効果 こうか 音 おん (BGM ) も熱心 ねっしん にコピーしていたという (ヘンドリックスの幼 おさな なじみの談話 だんわ )[11] 。
青年 せいねん 期 き のヘンドリックスは、アマチュア・バンドで経験 けいけん を積 つ み、全米 ぜんべい ナンバー・ワンバンドの座 ざ を得 え たこともあったという (父 ちち アルの談話 だんわ [12] )。
軍隊 ぐんたい に配属 はいぞく 中 ちゅう のヘンドリックス (1961年 ねん )
しかし、自動車 じどうしゃ 窃盗 せっとう の罪 つみ で1961年 ねん 5月2日 にち に逮捕 たいほ された。その際 さい 、投獄 とうごく されるのを回避 かいひ するため陸軍 りくぐん に志願 しがん して入隊 にゅうたい し、精鋭 せいえい 部隊 ぶたい ・第 だい 101空挺 くうてい 師団 しだん へ配属 はいぞく された。共 とも に軍役 ぐんえき についていた仲間 なかま の中 なか に、後 ご のバンド・オブ・ジプシーズを組 く むベーシストのビリー・コックス がおり、軍隊 ぐんたい 内 ない のクラブハウス で一緒 いっしょ に演奏 えんそう することもあった[13] 。当時 とうじ はベトナム戦争 せんそう が開戦 かいせん したばかりの時期 じき で、ヘンドリックスはベトナムの戦地 せんち に行 い っていないが、この従軍 じゅうぐん の経験 けいけん がウッドストック・フェスティバル での「星条旗 せいじょうき (アメリカ国歌 こっか ) 」の演奏 えんそう や、バンド・オブ・ジプシーズの「マシン・ガン 」の創作 そうさく につながったと言 い われている[14] 。
やがてヘンドリックスは陸軍 りくぐん を除隊 じょたい 。イギリス人 じん の音楽 おんがく 記者 きしゃ クリス・ウェルチ が70年代 ねんだい 初 はじ めに著 あらわ した伝記 でんき などでは、「パラシュートの降下 こうか 訓練 くんれん で負傷 ふしょう したために軍隊 ぐんたい を除隊 じょたい になった」という説明 せつめい がなされている。2005年 ねん にアメリカ国内 こくない で公表 こうひょう された軍 ぐん 内部 ないぶ の記録 きろく によると、「薬物 やくぶつ とギターにしか興味 きょうみ を示 しめ さない隊 たい 内部 ないぶ の劣等 れっとう 兵 へい 」で、常 つね に隊 たい の規律 きりつ を乱 みだ して問題 もんだい 視 し されていた[16] 。ヘンドリックスは、早期 そうき に軍役 ぐんえき を終 お えて音楽 おんがく 活動 かつどう に移 うつ ろうと、軍隊 ぐんたい で忌 い み嫌 きら われる同性愛 どうせいあい 者 しゃ を装 よそお う等 ひとし 、故意 こい に問題 もんだい を起 お こしていたという説 せつ もある。最終 さいしゅう 階級 かいきゅう は三 さん 等 とう 軍曹 ぐんそう 。
除隊 じょたい 後 ご に本格 ほんかく 的 てき な音楽 おんがく 活動 かつどう を始 はじ めるが、当時 とうじ は無名 むめい のバックミュージシャンだった。アイク & ティナ・ターナー やアイズレー・ブラザーズ など、数々 かずかず の有名 ゆうめい ミュージシャンのバックでプレイし、全米 ぜんべい 各地 かくち へのツアーにも同行 どうこう していた。一時期 いちじき はリトル・リチャード のツアーにバックメンバーで参加 さんか した。
ザ・ジミ・ヘンドリックス・エクスペリエンス結成 けっせい
編集 へんしゅう
テレビ番組 ばんぐみ でのザ・ジミ・ヘンドリックス・エクスペリエンスの演奏 えんそう (1967年 ねん )
1966年 ねん 7月 がつ 、アニマルズ のベーシストだったチャス・チャンドラー に見 み いだされ、9月に渡 わたり 英 すぐる する。チャンドラーにヘンドリックスの情報 じょうほう をもたらしたのは、キース・リチャーズ (ローリング・ストーンズ のギタリスト)の恋人 こいびと だったリンダ・キース である[17] 。
当時 とうじ のヘンドリックスは単 たん なるバックミュージシャンを脱 だっ し、自 みずか らのバンド「ジミー・ジェームズ・アンド・ザ・ブルー・フレイムズ」[注釈 ちゅうしゃく 7] を率 ひき いていたが、チャンドラーにスカウトされたのはヘンドリックス1人 にん だけだった。チャンドラーはヘンドリックスの演奏 えんそう を初 はじ めて聴 き いた際 さい 、「ギタリストが3人 にん くらい同時 どうじ に演奏 えんそう しているのかと思 おも ったが、実際 じっさい にはジミ1人 ひとり だけと知 し り驚 おどろ いた。これほどの才能 さいのう に誰 だれ もまだ気 き がついていなかったなんて、何 なに か裏 うら があるのではないかと不安 ふあん になるほどだった」と感 かん じたという。チャンドラーに渡 わたり 英 すぐる を勧 すす められ、ヘンドリックスはイギリスで自分 じぶん のようなブルース系 けい ミュージシャンが受 う け入 い れられるか不安 ふあん だったらしく、イギリスの音楽 おんがく シーンについて多 おお くの質問 しつもん を投 な げかけた。そして、自分 じぶん と同系 どうけい とみなしていたイギリス人 じん ギタリストのエリック・クラプトン の名 な を挙 あ げ「会 あ わせてくれるか?」とチャンドラーに尋 たず ねている。チャンドラーは「君 きみ の演奏 えんそう を聴 き いたら彼 かれ (クラプトン)の方 ほう から会 あ いに来 く るよ」と答 こた えている。
ロンドン に於 お いてオーディション を行 おこな い、ノエル・レディング (ベース )、ミッチ・ミッチェル (ドラムス )と共 とも に「ザ・ジミ・ヘンドリックス・エクスペリエンス」を結成 けっせい 。1966年 ねん 10月 がつ から活動 かつどう を始 はじ める。この際 さい に名前 なまえ をジェームズ/ジミー (James/Jimmy)から、ジミ (Jimi)に変 か えた。イギリス国内 こくない でクラブ出演 しゅつえん を重 かさ ね、当時 とうじ ザ・フー のマネージャーだったキット・ランバート とクリス・スタンプ が設立 せつりつ したポリドール 系 けい の独立 どくりつ レーベル であるトラック・レコード と契約 けいやく を結 むす んだ。デビュー・シングル「Hey Joe / Stone Free 」は全 ぜん 英 えい 4位 い のヒットを記録 きろく した[19] 。
アメリカの伝統 でんとう 的 てき なブルースをベースにしながら、それまで誰 だれ も聞 き いたことのなかった斬新 ざんしん なギターサウンドや卓越 たくえつ した演奏 えんそう 技術 ぎじゅつ 、そして圧倒的 あっとうてき なインプロビゼーション を披露 ひろう することにより、ヘンドリックスは一般 いっぱん の音楽 おんがく ファンはもちろんプロのミュージシャン達 たち にも大 おお きな衝撃 しょうげき を与 あた えた。渡 わたり 英 すぐる したばかりのヘンドリックスの演奏 えんそう を初 はじ めて目 ま の当 あ たりにしたエリック・クラプトンは「誰 だれ もジミー(Jimmy)のようにギターを弾 ひ くことはできない」という言葉 ことば を残 のこ している。後年 こうねん 、ジェフ・ベック は、「(メジャーデビューしたばかりのヘンドリックスの演奏 えんそう を聴 き いて)廃業 はいぎょう を考 かんが えた」と語 かた っている(英国 えいこく BBCの音楽 おんがく 番組 ばんぐみ のインタビュー)。ヘンドリックスのステージには連日 れんじつ ビートルズ やローリングストーンズなどのメンバーが顔 かお を見 み せ、出演 しゅつえん するクラブには長蛇 ちょうだ の列 れつ ができたという[注釈 ちゅうしゃく 8] 。この当時 とうじ から本人 ほんにん の特徴 とくちょう となっていた、大 おお きく歪 いが んだ大 だい 音響 おんきょう を駆使 くし する演奏 えんそう は、後 ご のハードロック の原型 げんけい という意見 いけん がある。現代 げんだい ではありふれているが、この当時 とうじ は過激 かげき な歪 ゆが みを前面 ぜんめん に打 う ち出 だ した演奏 えんそう 自体 じたい が存在 そんざい しなかったと言 い って良 よ い時代 じだい にあったという意見 いけん がある [要 よう 出典 しゅってん ] 。
1967年 ねん 6月 がつ 、ザ・ジミ・ヘンドリックス・エクスペリエンスは米 べい カリフォルニア州 しゅう モンタレー [注釈 ちゅうしゃく 9] で開催 かいさい された世界 せかい 初 はつ の本格 ほんかく 的 てき 野外 やがい ロックフェスティバル 、モンタレー・ポップ・フェスティバル に出演 しゅつえん 。これは同 どう フェスティバルのイギリスでの世話 せわ 役 やく だったポール・マッカートニー (ビートルズ)が、「ジミを出 だ さないフェスティバルなどありえない」と熱心 ねっしん に推挙 すいきょ したためと言 い われる[注釈 ちゅうしゃく 10] 。ヘンドリックスはモンタレーで、演奏 えんそう とギター燃 も やしのパフォーマンスを炸裂 さくれつ させ、母国 ぼこく アメリカでも一気 いっき にスターダムにのし上 あ がった。
イギリスでデビューしたヘンドリックスだが、モンタレー出演 しゅつえん などで母国 ぼこく アメリカで成功 せいこう を収 おさ めた後 のち は、アメリカを本拠 ほんきょ として活動 かつどう するようになった。全米 ぜんべい をくまなくツアーする過密 かみつ スケジュールの合間 あいま にスタジオでのレコーディングも続 つづ け、1968年 ねん にアルバム『エレクトリック・レディランド』をリリースした。
ザ・ジミ・ヘンドリックス・エクスペリエンス(1968年 ねん )
ヘンドリックスは演奏 えんそう 技術 ぎじゅつ が高 たか かっただけではなく、ギターを歯 は で弾 ひ いたり、あたかも男性 だんせい 器 き のように扱 あつか ったり[注釈 ちゅうしゃく 11] した末 すえ 、床 ゆか に叩 たた き付 つ けて火 ひ を放 はな つなど、激 はげ しくセクシーなステージアクションも人気 にんき の要因 よういん だった。また、古 ふる い軍服 ぐんぷく を身 み につけ(ミリタリー・ファッション)、強 つよ くパーマをかけた独特 どくとく のヘアスタイル(エレクトリック・ヘア)をトレードマークにするなど、ファッション面 めん でも注目 ちゅうもく を集 あつ めた。そのため「ブラック・エルヴィス」(黒人 こくじん のエルヴィス・プレスリー )、「ワイルドマン」といった異名 いみょう も生 う まれ、センセーショナルな扱 あつか いを受 う けることが多 おお かった[20] 。しかし生身 なまみ のヘンドリックスはシャイで礼儀 れいぎ 正 ただ しい人物 じんぶつ だったという証言 しょうげん も多 おお い[21] 。マイルス・デイヴィス によれば、ヘンドリックスは世間 せけん のワイルドなイメージとは逆 ぎゃく だったという[22] 。
後年 こうねん のヘンドリックスは、観客 かんきゃく から激 はげ しいステージアクションやギター破壊 はかい などばかり求 もと められ、演奏 えんそう に集中 しゅうちゅう できないことに悩 なや んでいたという[注釈 ちゅうしゃく 12]
黒人 こくじん でありながら白人 はくじん 向 む けのロックスターとして売 う り出 だ されたのも異例 いれい なことだった[20] 。白人 はくじん の若者 わかもの たちにとって神 かみ のごときアイドル になった一方 いっぽう 、公民 こうみん 権 けん 運動 うんどう に取 と り組 く んでいるアメリカの黒人 こくじん 層 そう からは「白人 はくじん と組 く んでいる裏切 うらぎ り者 もの 」と見 み なされる面 めん もあった。さらには黒人 こくじん 運動 うんどう 家 か とそれをなだめたい白人 はくじん 政治 せいじ 家 か の両方 りょうほう が、黒人 こくじん なのに白人 はくじん に支持 しじ されているヘンドリックスの立場 たちば を利用 りよう したがっていたと言 い われる[23] 。ヘンドリックス自身 じしん はあまり政治 せいじ 的 てき な人間 にんげん ではないと評 ひょう されることが多 おお いが、暗殺 あんさつ された黒人 こくじん 指導 しどう 者 しゃ キング牧師 ぼくし のために寄付 きふ を行 おこな ったこともある。ヘンドリックスは同胞 どうほう である黒人 こくじん 層 そう に今 いま ひとつ受 う け入 い れられないことに悩 なや んでいた(ビリー・コックスの談話 だんわ )が、マネージメント側 がわ はヘンドリックスをあくまでも白人 はくじん 向 む けロックスターとして売 う っていく方針 ほうしん だったといわれる[23] 。
ヘンドリックスがハウリン・ウルフ (黒人 こくじん )と共演 きょうえん した際 さい 、ウルフはヘンドリックスを「白人 はくじん と組 く んで金儲 かねもう けをしている裏切 うらぎ り者 もの 」となじった。ヘンドリックスはウルフの言葉 ことば に黙 だま って耐 た えていたという(ジョニー・ウィンター の談話 だんわ ) [要 よう 出典 しゅってん ] 。
エクスペリエンス解散 かいさん とバンド・オブ・ジプシーズ結成 けっせい
編集 へんしゅう
多 おお くのロックバンドの例 れい に漏 も れず、過密 かみつ なスケジュールや精神 せいしん 的 てき なプレッシャーにより、バンドや周辺 しゅうへん の人間 にんげん 関係 かんけい は悪化 あっか していった[24] 。
まず、ヘンドリックスの音楽 おんがく 面 めん でのプロデューサーだったチャス・チャンドラーが、混乱 こんらん した状況 じょうきょう に嫌気 いやけ がさして『エレクトリック・レディランド』のレコーディングが行 おこな われている時期 じき にヘンドリックスの元 もと を去 さ る[注釈 ちゅうしゃく 13] 。マネージャーのマイケル・ジェフリーが完全 かんぜん に実権 じっけん を握 にぎ ることになったが、ヘンドリックスとジェフリーの関係 かんけい は微妙 びみょう で、ヘンドリックスはジェフリーと直接 ちょくせつ 話 はなし をするのを避 さ けていたという証言 しょうげん がある(ジェフリーの秘書 ひしょ の談話 だんわ ) [要 よう 出典 しゅってん ] 。
1969年 ねん 6月 がつ 、ノエル・レディングがバンドを脱退 だったい した[注釈 ちゅうしゃく 14] 。レディング本人 ほんにん は「ギャランティ支払 しはら いの内容 ないよう を明確 めいかく にするよう求 もと めたため解雇 かいこ された」と主張 しゅちょう している場合 ばあい もあれば[25] 、「自分 じぶん の知 し らない間 あいだ にジミが次 つぎ のベーシストを選考 せんこう していると記者 きしゃ から言 い われ嫌気 いやけ が差 さ し脱退 だったい した」などと述 の べている場合 ばあい もある。ヘンドリックスが多重 たじゅう 録音 ろくおん に凝 こ りだしレコーディングに長 なが い時間 じかん をかけるようになったこと、気 き まぐれで時間 じかん にルーズであること(約束 やくそく の時間 じかん にレコーディングスタジオに現 あらわ れず、遊 あそ び歩 ある いている)などに対 たい し、レディングは常 つね に批判 ひはん 的 てき な意見 いけん を表明 ひょうめい していた[26] 。
レディング脱退 だったい 後 ご 、ヘンドリックスはミッチ・ミッチェルと、軍隊 ぐんたい 時代 じだい からの友人 ゆうじん ビリー・コックス (ベース)と共 とも に、「ジプシー・サンズ&レインボウズ」として活動 かつどう を開始 かいし 。エクスペリエンスがトリオ編成 へんせい だったのに対 たい し、コンガなどのパーカションやサイドギターも加 くわ え、ビッグバンド結成 けっせい を狙 ねら っていた[27] 。
1969年 ねん 8月 がつ に開催 かいさい されたウッドストック・フェスティバル に、ヘンドリックスは「ジプシー・サンズ&レインボウズ」[注釈 ちゅうしゃく 16] を従 したが え最終 さいしゅう 出演 しゅつえん 者 しゃ として登場 とうじょう [注釈 ちゅうしゃく 17] 。フィードバック やアーミング などエレクトリックギターの特殊 とくしゅ 奏法 そうほう の限 かぎ りをつくして、アメリカの国歌 こっか 「The Star Spangled Banner 」を演奏 えんそう した。この際 さい にヘンドリックスは、爆 ばく 撃 げき 機 き が空爆 くうばく を行 おこな い民衆 みんしゅう が泣 な き叫 さけ び逃 に げまどう様子 ようす を音 おと で再現 さいげん しており、一般 いっぱん にはベトナム戦争 せんそう の戦場 せんじょう の様子 ようす を現 あらわ した演奏 えんそう と言 い われている[注釈 ちゅうしゃく 18] 。
ヘンドリックスが目指 めざ したビッグバンド形態 けいたい は、マネージメント側 がわ がそれを望 のぞ まなかったことや、ヘンドリックスが多人数 たにんずう をまとめあげるには経験 けいけん 不足 ふそく だったと見 み られることもあって長続 ながつづ きせず、1969年 ねん 10月 がつ にはビリー・コックス(ベース)、バディ・マイルス (ドラムス)と、3人 にん 編成 へんせい の「バンド・オブ・ジプシーズ」を結成 けっせい する(全員 ぜんいん がアメリカ人 じん の黒人 こくじん )。1969年 ねん 12月31日 にち 〜1970年 ねん 1月 がつ 1日 にち にニューヨークのフィルモア・イースト で行 おこな われたデビューコンサートの模様 もよう はアルバム『バンド・オブ・ジプシーズ』等 とう で聞 き くことができる。同 どう コンサートにおける「Machine Gun」の演奏 えんそう を聞 き いたマイルス・デイヴィスは「俺 おれ はこういう音楽 おんがく がやりたかったんだ 」と語 かた ったという(ヘンドリックスの友人 ゆうじん でバックコーラスなどを務 つと めたゲットーファイターズの証言 しょうげん )[要 よう 出典 しゅってん ] 。
イギリス人 じん の白人 はくじん (ミッチェルとレディング)に代 か わり、ヘンドリックスがアメリカ人 じん の黒人 こくじん 2人 にん と組 く んだ画期的 かっきてき なファンク ロックバンドだったバンド・オブ・ジプシーズだが、ヘンドリックスのマネージメント側 がわ は黒人 こくじん だけのグループに難色 なんしょく を示 しめ した。マディソン・スクエア・ガーデン での大 だい 規模 きぼ な公演 こうえん が失敗 しっぱい に終 お わり[注釈 ちゅうしゃく 19] 、ヘンドリックスとバディ・マイルスの音楽 おんがく 面 めん での確執 かくしつ もあったとされ、バンド・オブ・ジプシーズは1970年 ねん 初頭 しょとう に解散 かいさん と短命 たんめい に終 お わった。マイルスは「バンド・オブ・ジプシーズのリーダーは自分 じぶん であり、名称 めいしょう などは自分 じぶん が発案 はつあん した」と度々 たびたび 発言 はつげん しており、ヘンドリックスとの主導 しゅどう 権 けん 争 あらそ いも存在 そんざい していたと言 い われる。またマイルスは自発 じはつ 的 てき に脱退 だったい したのではなく、ヘンドリックスがマイケル・ジェフリーに命 めい じて解雇 かいこ させたという証言 しょうげん もある(ジェフリーの秘書 ひしょ の談話 だんわ )。
当時 とうじ の多 おお くのロックミュージシャンと同様 どうよう 、ヘンドリックスも薬物 やくぶつ (ドラッグ)依存 いぞん の傾向 けいこう があった(LSD やヘロインなどを常用 じょうよう していたという証言 しょうげん がある)[28] 。
1969年 ねん にはカナダのトロント空港 くうこう で麻薬 まやく 不法 ふほう 所持 しょじ の疑 うたが いで逮捕 たいほ されたものの、裁判 さいばん の後 のち に嫌疑 けんぎ 不十分 ふじゅうぶん で無罪 むざい となっている[29] 。
代表 だいひょう 曲 きょく 「パープル・ヘイズ (紫 むらさき のけむり)」はドラッグソングとされる場合 ばあい もあるが、ヘンドリックスは「あれは海底 かいてい を歩 ある いている夢 ゆめ を見 み たことから生 う まれた曲 きょく 」などと反論 はんろん している。
「バンド・オブ・ジプシーズ」解散 かいさん 後 ご は、ミッチ・ミッチェルとビリー・コックスをバックに活動 かつどう を再開 さいかい 。アメリカやヨーロッパ、ハワイなどでコンサートを開催 かいさい している。また、ニューヨークに自身 じしん のスタジオ、エレクトリック・レディ・スタジオ を建設 けんせつ 。1970年 ねん 8月 がつ 末 まつ にはイギリスのワイト島 とう で開 ひら かれたフェスティバルに出演 しゅつえん したが、その後 ご のヨーロッパ・ツアーではヘンドリックスがドラッグによる体調 たいちょう 不良 ふりょう に陥 おちい ったり、コックスが精神 せいしん 不安 ふあん [注釈 ちゅうしゃく 20] でアメリカに帰国 きこく してしまうなどのトラブルが続 つづ いた。
この間 あいだ 、元 もと エクスペリエンスのノエル・レディングや、元 もと マネージャーのチャス・チャンドラー(元 もと アニマルズのベーシスト)が、コックスの代 か わりにベーシストを務 つと めるのではといった憶測 おくそく も飛 と んでいた(レディングには実際 じっさい にヘンドリックスからオファーが届 とど いていたという説 せつ もある)。
そういった騒動 そうどう でツアーが中断 ちゅうだん した時期 じき 、ヘンドリックスはチャンドラーの家 いえ を訪 たず ね、「再 ふたた び僕 ぼく のマネージメントとプロデュースをしてほしい」と伝 つた えようとしていたという(チャンドラーの談話 だんわ )。
同年 どうねん 9月 がつ 18日 にち 未明 みめい (深夜 しんや から早朝 そうちょう )、モニカ・ダンネマン (英語 えいご 版 ばん ) という女性 じょせい とロンドンのホテルで滞在 たいざい 中 ちゅう に急逝 きゅうせい 。死亡 しぼう 時 じ は27歳 さい 。メジャーデビューからわずか4年 ねん ほどでの死 し であった。
死亡 しぼう 原因 げんいん は、睡眠 すいみん 前 まえ に酒 さけ と睡眠薬 すいみんやく (バルビツール酸 さん 系 けい ) を併用 へいよう し、睡眠 すいみん 中 ちゅう に嘔吐 おうと したことによる窒息 ちっそく 死 し とされる[注釈 ちゅうしゃく 21] 。「自殺 じさつ 」等 とう の憶測 おくそく も飛 と んだが、現在 げんざい では否定 ひてい されている。
シアトル郊外 こうがい にあるヘンドリックスの墓 はか
故郷 こきょう である米 べい ワシントン州 しゅう シアトルでの葬儀 そうぎ には、ミッチ・ミッチェル、ビリー・コックス、ノエル・レディングといったバンドメンバーに加 くわ え、マイルス・デイヴィス などのミュージシャンが数多 かずおお く参列 さんれつ し、はなむけのセッションが行 おこな われた。
ヘンドリックスの死因 しいん は公式 こうしき には、酒 さけ と睡眠薬 すいみんやく を併用 へいよう したため睡眠 すいみん 中 ちゅう に嘔吐 おうと し嘔吐 おうと 物 ぶつ を吸 す い込 こ んだことによる窒息 ちっそく 死 し 、とされている。だが死亡 しぼう 時 じ に一緒 いっしょ にいたモニカ・ダンネマンの言動 げんどう に不審 ふしん な点 てん があり、死因 しいん にも不可解 ふかかい な点 てん (ヘンドリックスの肺 はい や胃 い から異常 いじょう に大量 たいりょう のワインが検出 けんしゅつ された、検出 けんしゅつ されたワインの量 りょう に対 たい し体内 たいない のアルコール濃度 のうど が低 ひく かったなど)があることから、死 し の真相 しんそう は謎 なぞ のままであると指摘 してき する声 こえ もある[30] 。
ヘンドリックスの死 し の直前 ちょくぜん 、ヘンドリックスと同室 どうしつ にいたダンネマンからエリック・バードン (アニマルズ)に「ジミの様子 ようす がおかしい」との電話 でんわ がかかってきたという。バードンが「すぐ医者 いしゃ (救急 きゅうきゅう 車 しゃ )を呼 よ べ」と促 うなが したのに対 たい し、ダンネマンは「部屋 へや にドラッグがあるから呼 よ べない」という旨 むね の返事 へんじ をしたという(バードンの談話 だんわ [31] )。
ダンネマンは「救急 きゅうきゅう 車 しゃ で病院 びょういん に運 はこ ぶ際 さい 、ジミが窒息 ちっそく しないよう寝 ね かせておくべきなのに、救急 きゅうきゅう 隊員 たいいん がジミを椅子 いす に座 すわ らせる体勢 たいせい で移送 いそう したため窒息 ちっそく してしまった」などと述 の べている[32] 。しかし、ホテルの部屋 へや を訪 おとず れた救急 きゅうきゅう 隊員 たいいん は、「ホテルに到着 とうちゃく した際 さい 、ヘンドリックスは既 すで に呼吸 こきゅう 停止 ていし の状態 じょうたい で、蘇生 そせい の可能 かのう 性 せい は低 ひく かった。病院 びょういん へ移送 いそう する際 さい 、椅子 いす に座 すわ らせるような体勢 たいせい を取 と らせた事実 じじつ はない」と述 の べている。また、運 はこ び込 こ まれた病院 びょういん の医師 いし は、「ヘンドリックスは病院 びょういん に到着 とうちゃく した時点 じてん で既 すで に死亡 しぼう していた」と述 の べている。ダンネマンの証言 しょうげん は二 に 転 てん 三 さん 転 てん し、信憑 しんぴょう 性 せい が乏 とぼ しいという見方 みかた がある[33] 。ダンネマンは1996年 ねん に車 くるま の中 なか に排気 はいき ガスを引 ひ き込 こ み自殺 じさつ した。
生前 せいぜん のヘンドリックスはマフィア の金 かね づるになっていたという説 せつ があり、誘拐 ゆうかい されたこともあると言 い われる(ノエル・レディング やジョン・マクダーモット などの著書 ちょしょ に記述 きじゅつ がある)。ヘンドリックスはマフィアの手 て で睡眠 すいみん 中 ちゅう に大量 たいりょう のワインを飲 の まされ、溺死 できし のような形 かたち で窒息 ちっそく 死 し させられたのではないかという説 せつ も存在 そんざい する[34] 。
元 もと ローディー のジェームズ・タッピー・ライトは、自著 じちょ 「Rock Roadie」の中 なか で「ジミのマネージャーだったマイケル・ジェフリーが『自分 じぶん がヘンドリックスを殺 ころ した』と言 い った」と証言 しょうげん している[注釈 ちゅうしゃく 22] 。
ジミ・ヘンドリックスの
胸像 きょうぞう (
キェルツェ )
ヘンドリックスは、エレクトリック・ギターの演奏 えんそう 家 か として非常 ひじょう に高 たか い技術 ぎじゅつ と表現 ひょうげん 力 りょく を備 そな えていただけではなく、画期的 かっきてき な技法 ぎほう の考案 こうあん によってエレクトリック・ギターという楽器 がっき の可能 かのう 性 せい をそれ以前 いぜん とは比較 ひかく にならないほど拡大 かくだい したと評 ひょう されている。またメジャーでの活動 かつどう 期間 きかん がわずか4年 ねん ほどであったにも関 かか わらず、後世 こうせい のギタリストに与 あた えた影響 えいきょう が比類 ひるい のないほど絶大 ぜつだい であることも合 あ わせ、多 おお くのミュージシャンや評論 ひょうろん 家 か から史上 しじょう 最高 さいこう のロックギタリスト と呼 よ ばれている[35] [36] [37] [38] 。
一般 いっぱん 的 てき にヘンドリックスはギタリスト として語 かた られるが、演奏 えんそう 者 しゃ として優 すぐ れているだけではなく作曲 さっきょく 家 か 、編曲 へんきょく 家 か 、レコーディング・エンジニア としても独特 どくとく な才能 さいのう を備 そな えており、歌手 かしゅ としても表現 ひょうげん 力 りょく に富 と んでいる。また常 つね に新 あたら しいサウンドを模索 もさく しギター だけに執着 しゅうちゃく しているわけではなかったと評 ひょう されている[39] [40] 。
ヘンドリックスはブルースとロックンロールを融合 ゆうごう させ、クリーム 、ジェフ・ベック・グループ 、レッドツェッペリン らと並 なら び、ハードロックの起源 きげん の一人 ひとり と評 ひょう されている。特 とく にヘンドリックスは、大 だい 音量 おんりょう でディストーションの掛 か かった音 おと の先駆 さきが けとなった[41] [42] 。
奇抜 きばつ なファッション、派手 はで なステージアクション、機械 きかい によるサウンドエフェクトなどにばかり頼 たよ っているのでは…という批判 ひはん もあったが、エリック・クラプトンは「みんなジミのことを語 かた るときに、服装 ふくそう や髪型 かみがた やステージアクションなど見 み た目 め のことばかり言 い うが、一 いち 度目 どめ をつぶって演奏 えんそう に耳 みみ を傾 かたむ けてみればいい。ジミがどれほど優 すぐ れたミュージシャンであるか分 わ かるはずだ」、あるいは「僕 ぼく とジェフ・ベックが2人 ふたり がかりでいっても、ジミにはかなわないだろう」と最大 さいだい 級 きゅう の賛辞 さんじ を送 おく っている。ジェフ・ベックは「好調 こうちょう な時 とき のジミを超 こ えるギタリストなどいるはずがない。自分 じぶん がギタリストであることが恥 は ずかしくなるよ」と語 かた っている。ヘンドリックス自身 じしん 「機械 きかい ばかり使 つか っていると言 い われるが、ステージ上 じょう で起 お きていることは機械 きかい がやったのではない。僕 ぼく がやっているんだ」と反論 はんろん している[43] 。
ヘンドリックスのプレイスタイルについては、型破 かたやぶ りなアクションが取 と り上 あ げられることも多 おお いが、基本 きほん はあくまでブルース やR&B に根差 ねざ し、これにジャズのコードやスケールを加 くわ えたベーシックなものである[44] [45] 。
ただし音 おと の選 えら び方 かた やフレーズの展開 てんかい は非凡 ひぼん なもので、従来 じゅうらい のブルースやR&Bの枠 わく に収 おさ まらないような画期的 かっきてき な内容 ないよう だった[46] [47] 。
ヘンドリックスは非凡 ひぼん なインプロヴィゼーション 能力 のうりょく によって、「Red House」や「Machine Gun」など、アドリブが曲 きょく の大 だい 部分 ぶぶん を占 し める曲 きょく で、ライブごとに全 まった く違 ちが ったアドリブを展開 てんかい していった。これは、「指 ゆび 癖 へき 的 てき な小 ちい さなフレーズ(リック)を沢山 たくさん 覚 おぼ えておき、それらを組 く み合 あ わせてアドリブを構築 こうちく する」のではなく、「その瞬間 しゅんかん に頭 あたま の中 なか で鳴 な った(聞 き こえた)フレーズをギターで弾 ひ く」というアドリブのとり方 かた を行 おこな っていたから、という説 せつ がある[48] 。
作曲 さっきょく 面 めん においても後 のち にロックのスタンダード となる数 すう 多 おお くの楽曲 がっきょく を残 のこ した(特 とく に「Purple Haze」「Little Wing 」「Voodoo Child(Slight Return)」「Red House」「Fire」「Foxy Lady」などの曲 きょく は、多数 たすう のミュージシャンによってカバー されている)。
ヘンドリックスはギターの音質 おんしつ を電気 でんき 的 てき に変化 へんか させる機材 きざい (いわゆるエフェクター )を多用 たよう することで知 し られた。スタジオ録音 ろくおん はもちろんステージでもエフェクターを使用 しよう し、従来 じゅうらい のギタリストでは考 かんが えられなかったほど音質 おんしつ に豊富 ほうふ なバリエーションをもたせている。主 おも に使用 しよう していたのは音 おと を歪 いが ませるファズ 、踏 ふ み加減 かげん で音質 おんしつ が連続 れんぞく 的 てき に変化 へんか するワウペダル 、音 おと を波立 なみだ たせるユニヴァイブ といったものだった。ヘンドリックスは手 て に入 い れたエフェクターの可能 かのう 性 せい を探 さぐ ろうと何 なん 時 じ 間 あいだ も演奏 えんそう を続 つづ け、そのエフェクターの設計 せっけい 者 しゃ ですら想定 そうてい していなかった斬新 ざんしん な音 おと を引 ひ き出 だ していた[49] 。
その結果 けっか ヘンドリックスの演奏 えんそう の中 なか には、どういう方法 ほうほう で出 だ したのか今 いま もって不明 ふめい な、謎 なぞ のサウンドが非常 ひじょう に多 おお い[50] 。
これはスタジオ録音 ろくおん だけではなく、ライブでも同様 どうよう である。エフェクターなどの電子 でんし 機器 きき 設計 せっけい の達人 たつじん だったロジャー・メイヤー が、ヘンドリックスのアドバイザーだったのも大 おお きな意味 いみ を持 も っている。ただしヘンドリックスの存命 ぞんめい 中 ちゅう などには「機械 きかい に頼 たよ っていて邪道 じゃどう 」という批判 ひはん も存在 そんざい した。
ヘンドリックスはギタリストであると同時 どうじ に歌手 かしゅ でもあるが、ずっと「自分 じぶん は歌 うた が下手 へた だ」と卑下 ひげ し続 つづ けていた。そんなヘンドリックスにとってのヒーローは、独特 どくとく の歌唱 かしょう 法 ほう でフォーク/ロック界 かい を席巻 せっけん したボブ・ディラン 。ディランの歌 うた を聴 き いたヘンドリックスは「これなら俺 おれ も歌 うた えるかも知 し れない」と勇気 ゆうき づけられたという。ヘンドリックスはディランに大 おお きな影響 えいきょう を受 う けており、「Like a Rolling Stone 」や「All along the Watchtower 」などをカバーしている。ヘンドリックスが「All Along the Watchtower」のカバーをシングル・ヒットさせたことを受 う け、ディランは「あの曲 きょく は俺 おれ が書 か いたが、権利 けんり の半分 はんぶん くらいはヘンドリックスのもの」と語 かた っている[51] 。1985年 ねん には「おかしなもので、自分 じぶん がこの曲 きょく を歌 うた う時 とき 、いつも彼 かれ (ヘンドリックス)に献 けんじ げているような気分 きぶん になるんだよ」と語 かた っている。ディランはヘンドリックスのアレンジに近 ちか い形 かたち で同 どう 曲 きょく を演奏 えんそう し続 つづ けている。[52]
エリック・クラプトンは「ジミは『俺 おれ は歌 うた が下手 へた だ』と謙遜 けんそん しているが、とんでもない。ギターだけではなく歌 うた もとてもうまいよ」と述 の べている。
ヘンドリックスは音楽 おんがく の理論 りろん などに疎 うと く楽譜 がくふ もほとんど読 よ めなかったと言 い われるが、ジャズ系 けい ミュージシャンとのセッション でも引 ひ けを取 と ることはなかったと評 ひょう されている。帝王 ていおう マイルス・デイヴィスやジョン・マクラフリン (ギタリスト)に才能 さいのう を絶賛 ぜっさん されていたほか、マイルス作品 さくひん の編曲 へんきょく などで知 し られる巨匠 きょしょう ギル・エヴァンス もヘンドリックスとの競演 きょうえん を熱望 ねつぼう していた[53] [54] 。
ギル・エヴァンスはヘンドリックスの死後 しご 、カバー・アルバム「The Gil Evans Orchestra Plays the Music of Jimi Hendrix」を発表 はっぴょう 。1988年 ねん に亡 な くなるまで、ステージでヘンドリックスの曲 きょく を演奏 えんそう し続 つづ けた。エヴァンス曰 いわ く「ジミのアルバムを聴 き くと毎回 まいかい 新 あたら しい発見 はっけん がある。彼 かれ が優 すぐ れた作曲 さっきょく 家 か だった証拠 しょうこ だよ」。
フェンダー・ストラトキャスター は現在 げんざい ではロックギターの代名詞 だいめいし 的 てき なモデルとなっているが、ヘンドリックスが登場 とうじょう した頃 ころ には使用 しよう するミュージシャンもほとんどおらず、生産 せいさん 中止 ちゅうし の噂 うわさ もあった。しかし、ヘンドリックスが使用 しよう することによってストラトキャスターの人気 にんき が一気 いっき に上昇 じょうしょう 。特 とく にストラトキャスターのシンクロナイズド・トレモロ・ユニット による驚異 きょうい 的 てき なサウンドマジック(アーミング )は、世界中 せかいじゅう のギタリストの度肝 どぎも を抜 ぬ いた[55] 。
ストラトキャスターの設計 せっけい 者 しゃ であるフレディ・タバレス は「ベンチャーズ やビーチ・ボーイズ のようなサウンドは予想 よそう していたが、ヘンドリックスのトレモロマジックは全 まった くの想定 そうてい 外 がい 」と発言 はつげん している('80年代 ねんだい のフェンダー・ジャパンのカタログでの談話 だんわ )。また、フェンダー社 しゃ の創業 そうぎょう 者 しゃ であるレオ・フェンダー が「あれ(トレモロ)はあんな風 ふう に使 つか うものではない」と激怒 げきど したという逸話 いつわ も残 のこ っている。
ヘンドリックスのギターサウンドというと歪 いびつ みきった大 だい 音響 おんきょう がイメージされる場合 ばあい が多 おお いが、「Little Wing 」などで知 し られるように、実際 じっさい にはボリュームを絞 しぼ ったクリーンなサウンドも多用 たよう している。ストラトの3つのピックアップを使 つか い分 わ け、ボリュームやトーンを頻繁 ひんぱん に調整 ちょうせい し、演奏 えんそう 中 ちゅう に音色 ねいろ を大 おお きく変化 へんか させることも多 おお かった。エリック・クラプトンが使 つか って有名 ゆうめい になったハーフトーン (ストラトのピックアップ切 き り替 か えスイッチを中間 ちゅうかん 位置 いち にすることで生 しょう じるフェイズサウンド)も、実際 じっさい はヘンドリックスのほうがずっと早 はや くから使用 しよう している(ヘンドリックスが考案 こうあん したのではなく昔 むかし からある裏 うら 技 わざ だったらしい)。ボディやネックを叩 たた いて弦 つる を共鳴 きょうめい させフィードバック を起 お こしたり、トレモロユニットのスプリング を弾 ひ いて不思議 ふしぎ な音 おと を出 だ したりと、ギターから発生 はっせい するあらゆる音 おと を演奏 えんそう に利用 りよう していた[56] 。
ヘンドリックスの存命 ぞんめい 中 ちゅう にストラトキャスターを使用 しよう するフォロワーはほとんどいなかったが、死後 しご にはエリック・クラプトン、ジェフ・ベック、リッチー・ブラックモア などがこぞって使 つか い始 はじ めた。ヘンドリックス以降 いこう 数 すう 多 おお くのロック やブルース やジャズ などのギタリストがストラトを使用 しよう したことで、ストラトはギブソン・レスポールと並 なら び、ソリッドボディのエレクトリックギターの代名詞 だいめいし 的 てき 存在 そんざい になった。
ストラトキャスター以外 いがい にも、ギブソン のフライングV やSG 、レスポール を始 はじ め、様々 さまざま なメーカーのギターを使用 しよう していた。ローディー だったエリック・バレットは「ジミがブルースを弾 ひ くときはいつもフライングアロー(フライングV)だった」と証言 しょうげん している。12弦 げん アコースティックギター[注釈 ちゅうしゃく 23] で「Hear My Train a Comin'」を弾 ひ き語 がた りする映像 えいぞう も残 のこ っているが、このギターはヘンドリックスの所有 しょゆう 物 ぶつ ではなく、撮影 さつえい に当 あ たって用意 ようい されたものである。
ヘンドリックスは、ギターの各 かく 弦 つる を通常 つうじょう の音程 おんてい から半音 はんおん 下 さ げるチューニング を多用 たよう していた。これはギターの音程 おんてい をヘンドリックスの声域 せいいき (音域 おんいき )に合 あ わせる目的 もくてき と、チョーキング などの奏法 そうほう をしやすくする目的 もくてき と、両方 りょうほう の意味 いみ があるとされる[57] 。
スタジオレコーディングの曲 きょく の中 なか には、通常 つうじょう の調 しらべ 弦 つる (レギュラーチューニング)も多 おお い。ライブ音源 おんげん の中 なか には全音 ぜんおん (1音 おと )下 さ げチューニングで演奏 えんそう されている曲 きょく も確認 かくにん できる[注釈 ちゅうしゃく 24] 。
ヘンドリックスは右 みぎ 利 き き用 よう のストラトキャスター を左右 さゆう 逆 さか さまにして、右手 みぎて で押弦し、左手 ひだりて で弦 つる を弾 ひ いた。つまり左利 ひだりき きの奏法 そうほう であり、一般 いっぱん 的 てき には左利 ひだりき きの人物 じんぶつ と認識 にんしき されている。弦 つる は下 した に細 ほそ い1弦 げん 、上 うえ に太 ふと い6弦 げん と、左利 ひだりき き用 よう の順番 じゅんばん に張 は り替 か えてあった[注釈 ちゅうしゃく 25] 。左利 ひだりき きでありながら右 みぎ 利 き き用 よう のギターを逆 さか さまに使用 しよう することで、ボリュームやトーンなどのコントロールノブが上側 うわがわ にくるため、演奏 えんそう 中 ちゅう に左手 ひだりて で自在 じざい にノブを操作 そうさ し、音量 おんりょう や音質 おんしつ を変化 へんか させるという独特 どくとく の奏法 そうほう を生 う み出 だ すことができたという説 せつ もある。
晩年 ばんねん は、左利 ひだりき き用 よう のギブソン・フライングVを所有 しょゆう していたが、上手 うま く使 つか えないからとローディーだったエリック・バレットに譲 ゆず っている。右 みぎ 利 き き用 よう ギターをひっくり返 かえ して使用 しよう しているうちに、コントロール部 ぶ が上 うえ に位置 いち していないと上手 うま く弾 ひ けなくなっていたらしい[58] 。バレットはそのギターを後 のち に売却 ばいきゃく 。現在 げんざい はハードロックカフェに展示 てんじ されている。
もっとも「ヘンドリックスは本来 ほんらい は右 みぎ 利 き きだったのではないか」という説 せつ も根強 ねづよ く囁 ささや かれている。その証拠 しょうこ として、食事 しょくじ や書 しょ 字 じ の際 さい には右手 みぎて を使 つか っていたことが挙 あ げられる。『エレクトリック・ジプシー』(ハリー・シャピロ&シーザー・グレビーク)や『ジミヘンドリックスの創作 そうさく ノート』『天才 てんさい ジミ・ヘンドリックス ギター革命 かくめい 児 じ の真実 しんじつ 』(ジョン・マクダーモット、エディ・クレイマー )など複数 ふくすう の伝記 でんき にその様子 ようす を写 うつ した写真 しゃしん が掲載 けいさい され、「ジミは字 じ を書 か く時 とき は右 みぎ 利 き きだった」と記載 きさい されている。さらに父 ちち アルも、伝記 でんき 映画 えいが や雑誌 ざっし 「エスクワイア」1993年 ねん 4月 がつ 号 ごう など複数 ふくすう の媒体 ばいたい において、一貫 いっかん して「ジミは左利 ひだりき きにあこがれがあった」「ボールを投 な げる時 とき は右手 みぎて だった」などと証言 しょうげん している(同時 どうじ に息子 むすこ ジミがギターを始 はじ めた時 とき に、右 みぎ 利 き きなのに左利 ひだりき きの弾 ひ き方 かた をするので直 なお そうとしたという逸話 いつわ も紹介 しょうかい している)。あえて左手 ひだりて で弾 ひ くことで、普通 ふつう とは違 ちが った音 おと を出 だ したかったのではないか、という説 せつ もある。
ただしヘンドリックス本人 ほんにん は、1967年 ねん の『Beat Instrumental magazine』掲載 けいさい の取材 しゅざい で「最初 さいしょ に(右 みぎ 利 き き用 よう の)ギターを弾 ひ いた時 とき 、自分 じぶん は左利 ひだりき きだから違和感 いわかん を覚 おぼ えた」と語 かた っている。また、『天才 てんさい ジミ・ヘンドリックス ギター革命 かくめい 児 じ の真実 しんじつ 』には、ヘンドリックスは右手 みぎて でも左手 ひだりて でも書 しょ 字 じ が可能 かのう だったという記述 きじゅつ もある。逆 ぎゃく に『エレクトリック・ジプシー』では右 みぎ 利 き きの構 かま えや、右 みぎ 利 き き用 よう の弦 つる の張 は り方 かた でもギターを弾 ひ けたと記述 きじゅつ されている。
以上 いじょう の点 てん から、少 すく なくともギターは左利 ひだりき き、書 しょ 字 じ は右 みぎ 利 き きと、変則 へんそく 的 てき なき手 きて だったのではないかと推測 すいそく される[59] 。
数 かず は少 すく ないが、ヘンドリックスはプロデューサーとしても活動 かつどう していた。1968年 ねん の「Eire Apparent 」と69年 ねん の「Cat Mother & the All Night Newsboys」、バディ・マイルス のアルバム曲 きょく 数 すう 曲 きょく が存在 そんざい している。
ジミヘンコード
数々 かずかず のヒット曲 きょく を持 も つヘンドリックスのビルボード 最高 さいこう 位 い は、アルバムチャート(Billboard 200 )で1位 い 、シングルチャート(Billboard Hot 100 )20位 い である。難解 なんかい な音楽 おんがく でファンが少 すく なかったなどということはなく、むしろ当時 とうじ のアメリカのロックミュージシャンの中 なか で最 もっと も集客 しゅうきゃく 力 りょく のあるスターだった。ウッドストックのトリを務 つと めたのも、そのためだと言 い われる。ただし、本来 ほんらい ヘンドリックスの出演 しゅつえん は最終 さいしゅう 日 び (日曜日 にちようび )の夜 よる の予定 よてい だったのに、スケジュールが押 お して翌日 よくじつ (月曜日 げつようび )の朝 あさ になってしまい、40万 まん 人 にん とも言 い われた観客 かんきゃく の大半 たいはん は帰途 きと についていた。日本人 にっぽんじん でウッドストックを観 み た数少 かずすく ない一人 ひとり であるギタリスト成毛 なるけ 滋 しげる も、ヘンドリックスのステージを観 み ずに会場 かいじょう を離 はな れている。
ヘンドリックスは、様々 さまざま なジャンルのミュージシャンとセッションすることを好 この んだが、1960年代 ねんだい 半 なか ばのイギリスでは、そういった習慣 しゅうかん (文化 ぶんか )があまり普及 ふきゅう しておらず、イギリスでセッションの習慣 しゅうかん を定着 ていちゃく させたのはヘンドリックスである、という説 せつ も存在 そんざい する(ピート・タウンゼント の談話 だんわ )。
ヘンドリックスの代表 だいひょう 曲 きょく である「パープル・ヘイズ (邦題 ほうだい :紫 むらさき のけむり)」で使用 しよう されているE7(#9) というコード は、元々 もともと はブルース やジャズ などにおいて使用 しよう されていたものだが、ヘンドリックスの同 どう 曲 きょく の演奏 えんそう によって「サイケデリック な響 ひび きのするコード」として有名 ゆうめい になった。ミュージシャンなどの間 あいだ では「ヘンドリックス・コード」(日本 にっぽん では「ジミヘンコード」)などと呼 よ ばれることもある。
モンタレー・ポップ・フェスティバルで成功 せいこう を収 おさ めた直後 ちょくご 、一時期 いちじき モンキーズ の全米 ぜんべい ツアーのオープニングアクト(前座 ぜんざ )を務 つと めたことがある[注釈 ちゅうしゃく 26] 。しかしモンキーズとの客層 きゃくそう の違 ちが いなどからステージでまったく受 う けず、ごく短期間 たんきかん で降板 こうばん している[注釈 ちゅうしゃく 27] 。
ギターに火 ひ を放 はな つ行為 こうい はモンタレー・ポップ・フェスティバルの記録 きろく 映画 えいが で有名 ゆうめい だが、初 はじ めて行 おこ なったのは1967年 ねん 3月 がつ にウォーカーブラザーズ のツアーに前座 ぜんざ として同行 どうこう した時 とき で、発案 はつあん したのは本人 ほんにん ではなく知人 ちじん の記者 きしゃ だったと言 い われている。それ以後 いご 、彼 かれ はイギリスで何 なん 度 ど も行 おこ なっていた。
「アメリカ国歌 こっか 」のライブ演奏 えんそう もウッドストックが初 はじ めてではない。「アメリカ国歌 こっか 」には、多重 たじゅう 録音 ろくおん を駆使 くし したスタジオ録音 ろくおん バージョンも存在 そんざい している[注釈 ちゅうしゃく 28] 。
ヘンドリックスに大 おお きな影響 えいきょう を受 う け、ヘンドリックスそっくりの演奏 えんそう をする「ヘンドリックス・フォロワー」と呼 よ ばれるギタリストが存在 そんざい する。ロビン・トロワー 、フランク・マリノ 、ランディ・ハンセン 、ウリ・ジョン・ロート などが、ヘンドリックス・フォロワーの代表 だいひょう 例 れい と言 い われる。
27歳 さい で亡 な くなっているため、いわゆる「27クラブ 」(27歳 さい で死去 しきょ した有名 ゆうめい ミュージシャン達 たち を指 さ す)の代表 だいひょう 的 てき な一人 ひとり とされることが多 おお い。
ヘンドリックスの映画 えいが は何 なん 度 ど か制作 せいさく されている。1973年 ねん に公開 こうかい された「Jimi Hendrix」(ワーナーブラザーズ)は、ヘンドリックスのライブ演奏 えんそう や関係 かんけい 者 しゃ のインタビューなど、ドキュメンタリー的 てき 内容 ないよう である[注釈 ちゅうしゃく 29] 。2000年 ねん に公開 こうかい された「HENDRIX」(邦題 ほうだい は「炎 ほのお のギタリストジミ・ヘンドリックス」、レオン・イチャソ 監督 かんとく )は、登場 とうじょう 人物 じんぶつ を俳優 はいゆう が演 えん じる[注釈 ちゅうしゃく 30] 伝記 でんき 映画 えいが で、日本 にっぽん では一般 いっぱん 公開 こうかい されず、ビデオ(DVD)ソフトが販売 はんばい された。2013年 ねん に公開 こうかい された「Jimi:All Is by My Side」(ジョン・リドリー 監督 かんとく )は、アウトキャスト のアンドレ・3000 がヘンドリックスを演 えん じた伝記 でんき 映画 えいが で、日本 にっぽん では「JIMI:栄光 えいこう への軌跡 きせき 」と題 だい され2015年 ねん に一般 いっぱん 公開 こうかい された。「炎 ほのお のギタリストジミ・ヘンドリックス」や「Jimi:栄光 えいこう への軌跡 きせき 」では、ヘンドリックスの楽曲 がっきょく の使用 しよう 許可 きょか が下 お りず[注釈 ちゅうしゃく 31] 、劇 げき 中 ちゅう では「ヘイ・ジョー」などカバー曲 きょく しか使 つか われない結果 けっか になっている。
ヘンドリックスが、ニューヨーク のチェルシー・ホテル に宿泊 しゅくはく していた際 さい 、別 べつ の客 きゃく である老婆 ろうば からボーイと間違 まちが われ、荷物 にもつ を運 はこ んであげたことがあるという[60] 。
クリーム(1968年 ねん のテレビ番組 ばんぐみ )
クリーム (エリック・クラプトン 、ジンジャー・ベイカー 、ジャック・ブルース のバンド)の「Sunshine of Your Love」は、クリームのメンバー3人 にん が、ヘンドリックスのステージを鑑賞 かんしょう した夜 よる 、ヘンドリックスの演奏 えんそう に触発 しょくはつ されて生 う まれたという[注釈 ちゅうしゃく 32] 。それを知 し っていたかどうかは不明 ふめい だが、ヘンドリックスもこの曲 きょく を気 き に入 い っており、度々 たびたび ステージで演奏 えんそう していた。イギリスのテレビ番組 ばんぐみ 「ルル・ショー」(生放送 なまほうそう )にヘンドリックスが出演 しゅつえん した際 さい 、司会 しかい のルル (女優 じょゆう 、歌手 かしゅ )と「Hey Joe」をデュエットするという予定 よてい を無視 むし し、解散 かいさん したばかりのクリームに捧 ささ げるため同 どう 曲 きょく を演奏 えんそう したのは有名 ゆうめい (1969年 ねん 1月 がつ )。
クリーム時代 じだい のエリック・クラプトンが生 う み出 だ したウーマントーン は、一般 いっぱん にギブソンのレスポール またはSGによるものと思 おも われているが、ストラトキャスターのフロントピックアップによるものという説 せつ がある。ウーマントーンの代表 だいひょう 曲 きょく 「Sunshine of Your Love」のレコーディングはストラトキャスターで行 おこな われた、という証言 しょうげん も存在 そんざい する。これが正 ただ しいとすれば、明 あき らかにヘンドリックスの影響 えいきょう だろう。クラプトンは、ヘンドリックスと同 おな じような“エレクトリックヘア”(チリチリのアフロヘア)にしたり、東洋 とうよう 風 ふう のヒラヒラした衣装 いしょう (キモノ )を着用 ちゃくよう したりしていた時期 じき があり、ヘンドリックスから強 つよ い影響 えいきょう を受 う けていたことが知 し られている。
ポール・マッカートニー によると、ヘンドリックスはストラトのトレモロアームを多用 たよう してチューニングが狂 くる ってしまい、客席 きゃくせき にクラプトンを見 み つけて「僕 ぼく のためにチューニングを直 なお して」と冗談 じょうだん を飛 と ばしシャイなクラプトンを困 こま らせていたという[61] 。
クラプトンは1970年 ねん 9月 がつ 18日 にち 、ヘンドリックスとのセッションへ向 む かう前 まえ にヘンドリックスの死 し を知 し りショックを受 う けている。その際 さい クラプトンは、ヘンドリックスに左利 ひだりき き用 よう のストラトをプレゼントしようとしていたという。
クラプトンは、デレク&ザ・ドミノス としてのアルバム『いとしのレイラ 』(1970年 ねん )で、ヘンドリックスの代表 だいひょう 的 てき なバラード「Little Wing 」をカバー。その後 ご もヘンドリックスのトリビュートアルバムに参加 さんか し、「Stone Free」などをカバーしている。
ジェフ・ベック・グループ が、初 はつ のアメリカ公演 こうえん を行 おこな った際 さい (1968年 ねん 6月 がつ )、アンコールにヘンドリックスが登場 とうじょう し、ベックと共演 きょうえん したことがあるという。ベックは「ステージでジミと一緒 いっしょ に演奏 えんそう していると、自分 じぶん が歴史 れきし の一 いち ページに立 た ち会 あ っているんだというような深 ふか い感慨 かんがい があった」と述 の べている。インタビューした記者 きしゃ に「若手 わかて ロックギタリストに最 もっと も大 おお きな影響 えいきょう を及 およ ぼしているのはヘンドリックスとあなた」と言 い われたベックは「本当 ほんとう か!」と驚喜 きょうき したという。ヘンドリックスもベックのことを「イギリスで最高 さいこう のギタリスト」と評 ひょう したことがある。
ベックは1980年代 ねんだい 半 なか ば、ヘンドリックスの演奏 えんそう で有名 ゆうめい な「Wild Thing」(オリジナルはザ・トロッグス )を、ヘンドリックス風 ふう のアレンジでレコーディングしている(珍 めずら しく、ベックがリードボーカルを務 つと めた)。また、ヘンドリックスのトリビュート・アルバム で「Manic Depression」などをカバーしている。コンサートのアンコールで、ミッチ・ミッチェル、ノエル・レディング(いずれも、元 もと エクスペリエンス)とトリオで演奏 えんそう したこともある。
ある時 とき ヘンドリックスがベックに対 たい して「お前 まえ のブルースは気持 きも ち悪 わる いから、エレクトロニカやクロスオーバーな音楽 おんがく をやったほうがいい」とアドバイスしたという。その影響 えいきょう で現在 げんざい のベックの演奏 えんそう スタイルが確立 かくりつ したという説 せつ がある。
エリック・クラプトンとジェフ・ベックはヘンドリックスと友人 ゆうじん だったとされるが(クラプトンやベックの談話 だんわ )、ジミー・ペイジはニュー・ヤードバーズ(後 ご のレッド・ツェッペリン )立 た ち上 あ げの時期 じき で忙 いそが しく、ヘンドリックスのステージを観 み る機会 きかい が一 いち 度 ど もなく、会 あ うことも出来 でき なかったという。ただし、ペイジがレッド・ツェッペリンのアメリカ公演 こうえん の合間 あいま にニューヨークのクラブへ出向 でむ いた際 さい 、偶然 ぐうぜん 同 おな じ店 てん に来 き ていたヘンドリックスと同 おな じテーブルに着 つ いたことがある。その時 とき のヘンドリックスは完全 かんぜん に酩酊 めいてい 状態 じょうたい で、まともに話 はなし をすることも出来 でき なかった。ヘンドリックスは、あまり酒 しゅ が強 つよ くなかったらしい(ビリー・コックスの談話 だんわ )。結局 けっきょく 、ペイジが生前 せいぜん のヘンドリックスと会 あ えたのはその時 とき だけだった(ペイジ本人 ほんにん の談話 だんわ )。
渡 わたり 英 えい 後 ご 間 あいだ もない時期 じき のヘンドリックスと最 もっと も親 した しかったのは、ブライアン・ジョーンズ (ローリング・ストーンズの初期 しょき リーダー、ギタリスト)だったと言 い われる。ジョーンズはヘンドリックスがイギリスのミュージックシーンで人脈 じんみゃく を築 きず くのを助 たす けたほか、アメリカへの逆 ぎゃく 上陸 じょうりく となったモンタレー・ポップ・フェスティバル(1967年 ねん )では、ヘンドリックスを観客 かんきゃく に紹介 しょうかい する役 やく も買 か って出 で ている。この時期 じき 、ジョーンズはミック・ジャガー (ローリング・ストーンズ のボーカル)達 たち と仲違 なかたが いし、ストーンズ内 ない で孤立 こりつ し始 はじ めていた。ヘンドリックスはジャガー達 たち に憤 いきどお っていたらしく、自身 じしん のステージにジャガーとマリアンヌ・フェイスフル (女優 じょゆう 兼 けん 歌手 かしゅ 、当時 とうじ のジャガーの恋人 こいびと )が顔 かお を出 だ した際 さい に2人 ふたり の間 あいだ に割 わ り込 こ んで座 すわ り、フェイスフルに「この後 のち 、俺 おれ と付 つ き合 あ えよ」と聞 き こえよがしに発言 はつげん 。隣 となり のジャガーは、ヘンドリックスの挑発 ちょうはつ 的 てき な言葉 ことば に気 き づかない振 ふ りをしたため、その場 ば で喧嘩 けんか になるようなことはなかった。ジョーンズが1969年 ねん 7月 がつ に急逝 きゅうせい した後 のち 、ヘンドリックスは追悼 ついとう の意 い を込 こ めて「Lovers」を制作 せいさく している。
とはいえ、ミック・ジャガーはヘンドリックスへの敬慕 けいぼ の念 ねん を常々 つねづね 表明 ひょうめい しており、ヘンドリックスの死後 しご に制作 せいさく された伝記 でんき 映画 えいが 『Jimi Hendrix』(1973年 ねん )に登場 とうじょう しインタビューに答 こた えている。1980年代 ねんだい 末 まつ のソロ活動 かつどう の際 さい には「Red House」や「Foxy Lady」といったヘンドリックスの曲 きょく をステージで披露 ひろう し、大 おお きな話題 わだい を呼 よ んだ。また、ジャガーは「俺 おれ はジミと一緒 いっしょ にレコーディングしたことがある。どこかにそのテープが残 のこ っているはずだ」と述 の べている。
ヘンドリックスが初 はじ めて手 て にしたストラトキャスターは、元々 もともと はキース・リチャーズ のものだったという説 せつ がある。ヘンドリックスをチャス・チャンドラーに紹介 しょうかい したリンダ・キースがリチャーズの恋人 こいびと だったため、リチャーズが所有 しょゆう していたストラトをリンダがヘンドリックスに渡 わた したというのだが、諸説 しょせつ あり真偽 しんぎ は不明 ふめい [62] 。ストラトは高価 こうか なギターだったために、無名 むめい 時代 じだい のヘンドリックスには手 て が届 とど かなかったと言 い われている。
ミック・ジャガーの実弟 じってい のクリス・ジャガーは、'60年代 ねんだい にミュージシャン向 む けの衣料 いりょう 店 てん を経営 けいえい しており、古 ふる い軍服 ぐんぷく などを販売 はんばい していた。渡 わたり 英 すぐる したヘンドリックスがそれらの衣装 いしょう を気 き に入 い って着用 ちゃくよう したことが、いわゆるミリタリーファッションの起爆 きばく 剤 ざい になったという(クリス・ジャガーの談話 だんわ )。
ヘンドリックスのステージセット(EMP ミュージアム ・シアトル)
ビートルズのポール・マッカートニー はヘンドリックスを非常 ひじょう に高 たか く評価 ひょうか しており、ヘンドリックスの生前 せいぜん から「ジミは絶対 ぜったい にギターのエース」「ジミを出 だ さなければ(モンタレー・ポップフェスティバルは)フェスティバルにならないよ」などと語 かた っている。ヘンドリックスの死後 しご も「エドワード・バン・ヘイレン はグレートだ。でも僕 ぼく にとっては、ジミが永遠 えいえん のナンバーワンだよ」と語 かた っている。
ビートルズのアルバム『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド 』が発売 はつばい されて数日 すうじつ 後 ご 、ポール・マッカートニーがヘンドリックスのコンサートに出 で かけたところ、ヘンドリックスは1曲 きょく 目 め に同 どう アルバムのタイトル曲 きょく 「サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド 」を演奏 えんそう し、マッカートニーを大 おお いに喜 よろこ ばせた。マッカートニーは「ビートルズの『サージェント・ペパーズ』が金曜日 きんようび に発売 はつばい されて、そのたった2日 にち 後 ご の日曜日 にちようび に、ジミはそれをステージで演奏 えんそう したんだ。あの曲 きょく を初 はじ めてライブ演奏 えんそう したのは、ビートルズではなくジミなんだよ。演奏 えんそう は例 れい の調子 ちょうし で、ギューン!バーン!と素晴 すば らしかった」と語 かた っている。近年 きんねん のマッカートニーは自身 じしん のコンサートでこのエピソードをたびたび語 かた り、その前後 ぜんご にヘンドリックスの「Foxy Lady」などを演奏 えんそう するのがお約束 やくそく になっている。
ジョン・レノン は「ジミはロックの指導 しどう 者 しゃ (パイド・パイパー)、革新 かくしん 者 しゃ で、この時代 じだい における最 もっと も影響 えいきょう 力 りょく を持 も った人間 にんげん の一人 ひとり だった。完全 かんぜん に独創 どくそう 的 てき だった」と語 かた ったという。(カーティス・ナイト著 ちょ 、「ロックギターの革命 かくめい 児 じ ジミ・ヘンドリックス」)
キャシー・エッチンガム(ヘンドリックスが渡 わたり 英 すぐる したばかりの頃 ころ の恋人 こいびと )がクラブのロビーで電話 でんわ していたところ、ほかの男 おとこ と話 はな していると勘違 かんちが いしたヘンドリックスが怒 いか り、エッチンガムをこづき回 まわ した。するとジョン・レノンとポール・マッカートニーが偶然 ぐうぜん その場 ば に通 とお りかかり、ヘンドリックスをエッチンガムから引 ひ き離 はな して「どうしたんだ、ジミ」と落 お ち着 つ かせたという。エッチンガムは「あのときのジョンとポールはジェームズ・ボンド みたいだったわ」と語 かた っている。
1966年 ねん 9月 がつ にイギリスに渡 わた ったヘンドリックスは、ロンドンの「セント・ジェームスのスコッチ 」(The Scotch of St. James )というナイト・クラブ で演奏 えんそう している時 とき に、当時 とうじ ザ・フーのマネージャーだったキット・ランバート の目 め に留 とど まった。ランバートは彼 かれ の演奏 えんそう に圧倒 あっとう されて、自分 じぶん がザ・フーのもう一人 ひとり のマネージャーだったクリス・スタンプと共同 きょうどう で設立 せつりつ したばかりのトラック・レコードに彼 かれ を熱心 ねっしん に勧誘 かんゆう した[注釈 ちゅうしゃく 33] 。その甲斐 かい あってザ・ジミ・ヘンドリックス・エクスペリエンスはトラック・レコードと契約 けいやく を結 むす んだバンドの第 だい 一 いち 号 ごう になり、ザ・フーと宣伝 せんでん 担当 たんとう エージェントと共有 きょうゆう して度々 たびたび 同 おな じステージに立 た った。イギリスではザ・フーの方 ほう が先 さき にデビューしていたので、前座 ぜんざ として出演 しゅつえん することもあった。ピート・タウンゼントは「ジミから『ザ・フーのみんなにはとても世話 せわ になった』と丁重 ていちょう に礼 れい を言 い われたことがある。だが、本当 ほんとう の友人 ゆうじん になることができないうちに、彼 かれ は死 し んでしまった」と、残念 ざんねん そうに語 かた っている。
ヘンドリックスがイギリスで活動 かつどう を開始 かいし して間 あいだ もない頃 ころ 、タウンゼントは彼 かれ の演奏 えんそう に惚 ほ れ込 こ んで、可能 かのう な限 かぎ りステージに通 かよ い詰 つ めていた(タウンゼントの談話 だんわ )。彼 かれ が出演 しゅつえん しているクラブに出向 でむ いた際 さい 、出入 でい り口 ぐち で擦 す れ違 ちが ったジェフ・ベックに「あいつ(ヘンドリックス)、お前 まえ の技 わざ をパクってるぜ」と言 い われたというエピソードがある。実際 じっさい に演奏 えんそう を聞 き いてみたところ、「俺 おれ のトレードマークに変化 へんか が加 くわ わっていた」と驚 おどろ いたという。
1967年 ねん 6月 がつ に開催 かいさい されたモンタレー・ポップ・フェスティバルにはザ・フー も出演 しゅつえん した。主催 しゅさい 者 しゃ は、ザ・ジミ・ヘンドリックス・エクスペリエンスとザ・フーを最終 さいしゅう 日 び の18日 にち に連続 れんぞく して出演 しゅつえん させようとした。ザ・フーも楽器 がっき の破壊 はかい を売 う りにしていた[注釈 ちゅうしゃく 34] ため、先 さき に出演 しゅつえん した方 ほう が強 つよ い衝撃 しょうげき を観客 かんきゃく に与 あた えるのは確実 かくじつ であると考 かんが えた両者 りょうしゃ は大 おお いに困惑 こんわく した。タウンゼントはヘンドリックスに「君 きみ は天才 てんさい ミュージシャンだが、俺 おれ 達 たち は楽器 がっき を壊 こわ すことぐらいしかできない。先 さき に演奏 えんそう させてほしい」と懇願 こんがん したという(タウンゼントの談話 だんわ )。交渉 こうしょう はまとまらず[注釈 ちゅうしゃく 35] 、主催 しゅさい 者 しゃ の一人 ひとり であるジョン・フィリップス (ママス&パパス )が投 な げるコインの裏表 うらおもて で順番 じゅんばん を決 き めることになり、結局 けっきょく ザ・フーが先 さき に楽器 がっき 破壊 はかい を披露 ひろう した[注釈 ちゅうしゃく 36] 。しかし後 ご から出演 しゅつえん したヘンドリックスがギターに火 ひ をつけると、タウンゼントは「ギターを壊 こわ すのはあなたの専売 せんばい 特許 とっきょ だったんじゃないの?」と話 はな しかけてきたキャス・エリオット (ママス&パパス )に「昔 むかし はそうだったが、今 いま はジミのものだ」と答 こた えたという。
フランク・ザッパ は、1967年 ねん 7月 がつ 、ニューヨークのグリニッジ・ヴィレッジ にあるカフェ・オー・ゴー・ゴー でザ・ジミ・ヘンドリックス・エクスペリエンスのコンサートを観 み た。彼 かれ は「スピーカーの真 ま ん前 まえ にいたために気分 きぶん が悪 わる くなった。なぜあそこまで大 だい 音量 おんりょう にするのか理解 りかい できない」と述 の べている。会場 かいじょう はすし詰 づ め状態 じょうたい だったので、彼 かれ は気分 きぶん が悪 わる くなったにもかかわらず、途中 とちゅう で退場 たいじょう することもできなかった。それにも拘 かかわ らず彼 かれ はコンサートを「素晴 すば らしかった」と感 かん じて、後日 ごじつ ヘンドリックスとミッチェルを、カフェ・オー・ゴー・ゴーの上 うえ にあるギャリック劇場 げきじょう で行 おこ なわれたザ・マザーズ・オブ・インヴェンション (以下 いか 、MOIと略 りゃく する)のコンサートに招待 しょうたい した[注釈 ちゅうしゃく 37] 。彼 かれ はヘンドリックスの演奏 えんそう ぶりに大 おお いに興味 きょうみ をそそられたので、彼 かれ をステージに招 まね いてMOIのメンバーと演奏 えんそう させて、それを客席 きゃくせき から観 み ていた。
さらにザッパはヘンドリックスを、MOIが1968年 ねん に発表 はっぴょう したアルバム『ウィー・アー・オンリー・イン・イット・フォー・ザ・マニー 』の中 なか ジャケット[注釈 ちゅうしゃく 38] 用 よう の撮影 さつえい に招待 しょうたい した。ヘンドリックスは実際 じっさい にザッパやMOIのメンバーと共 とも に、撮影 さつえい に参加 さんか した。
ザッパは他 た のミュージシャンに対 たい して辛辣 しんらつ な発言 はつげん をすることが多 おお かったが、ヘンドリックスのことは賞賛 しょうさん している。よく知 し られている発言 はつげん としては「今 いま のメジャーシーンでまともな音楽 おんがく をやっているのはヘンドリックスとキャプテン・ビーフハート くらいだね」 [要 よう 出典 しゅってん ] というものがある。
ザッパは、ヘンドリックスが1968年 ねん 5月 がつ に行 おこ なわれたマイアミ・ポップ・フェスティバル [注釈 ちゅうしゃく 39] に出演 しゅつえん した時 とき にステージで燃 も やしたフェンダー・ストラトキャスター を持 も っていた。彼 かれ はヘンドリックスのスタッフの一人 ひとり で、ローディーや雑用 ざつよう 係 がかり を務 つと めていたハワード・パーカー(Howard Parker)という人物 じんぶつ を60年代 ねんだい の後半 こうはん に数 すう か月 げつ 間 あいだ 自宅 じたく に泊 と めてあげたことがあり、このギターは、その謝礼 しゃれい としてパーカーから彼 かれ に進呈 しんてい されたものだった[注釈 ちゅうしゃく 40] 。彼 かれ は数 すう 年間 ねんかん 、この通称 つうしょう 『ヘンドリックス・ストラト』を自宅 じたく の壁 かべ にかけて飾 かざ っていたが、1976年 ねん に修理 しゅうり に出 だ してネックとピックアップ を新品 しんぴん に置 お き換 か えてパラメトリック・エコライザーを取 と り付 つ けさせた。ヘンドリックス・ストラトは、彼 かれ が1977年 ねん から1978年 ねん にかけて行 おこ なったツアーに参加 さんか したエイドリアン・ブリュ― によって使用 しよう されたほか、彼 かれ 自身 じしん もステージで使用 しよう していた。1988年 ねん に発表 はっぴょう されたアルバム『ギター 』に収録 しゅうろく されたインストゥルメンタル曲 きょく 「Sexual Harassment in the Workplace」[注釈 ちゅうしゃく 41] などで、その音色 ねいろ を聴 き ける。彼 かれ が1993年 ねん に病没 びょうぼつ した後 のち 、長男 ちょうなん でギタリストのドゥイージル・ザッパ がヘンドリックス・ストラトをオークションに出品 しゅっぴん して話題 わだい を呼 よ んだ[70] 。
ブルック・ストリートにあるヘンドリックスの記念 きねん 額 がく (ロンドン)
ジャズ界 かい の帝王 ていおう マイルス・デイヴィス は、ヘンドリックスの才能 さいのう を絶賛 ぜっさん しており、ヘンドリックスの死後 しご に「あれほど音感 おんかん のいい人間 にんげん は滅多 めった にいるものじゃない」と語 かた っている。デイヴィスがヘンドリックスを自宅 じたく に招 まね いてセッションをした際 さい 、ヘンドリックスが譜面 ふめん を読 よ めずコード(和音 わおん )の名前 なまえ も知 し らないためデイヴィスがピアノで音 おと を聞 き かせると、ヘンドリックスは即座 そくざ に反応 はんのう してギター演奏 えんそう で返 かえ して来 き たという。
また、デイヴィスは自身 じしん のバンドのギタリストに対 たい し、「ジミ・ヘンドリックスのように弾 ひ くんだ」と常々 つねづね 指示 しじ していた。バンドに参加 さんか していたギタリストのジョン・マクラフリン やマイク・スターン が、いわゆるジャズ的 てき な演奏 えんそう をしても決 けっ して満足 まんぞく せず、ロック風 ふう な演奏 えんそう をすると「それだ!」と喜 よろこ んだという逸話 いつわ もある。ヘンドリックスと同年代 どうねんだい のマクラフリンは、ヘンドリックスと度々 たびたび セッションを行 おこな っており、後 のち に「ジミは後年 こうねん の全 すべ てのギタリストに影響 えいきょう を与 あた えた。私 わたし もジミに何 なん らかの影響 えいきょう を与 あた えられたのだろうか(自分 じぶん では何 なん とも言 い えない)」と述 の べている。スターンはヘンドリックスより若 わか く、ヘンドリックスの影響 えいきょう を大 おお きく受 う けたジャズギタリストとして知 し られる。
デイヴィスは、当時 とうじ の妻 つま だったベティ・デイヴィス (黒人 こくじん の歌手 かしゅ 兼 けん 女優 じょゆう 、同名 どうめい の白人 はくじん ハリウッド女優 じょゆう とは別人 べつじん )の紹介 しょうかい もあってヘンドリックスの音楽 おんがく を早 はや い時期 じき からチェックしており、その後 ご 、ヘンドリックスのマネージャーを通 とお して交流 こうりゅう が始 はじ まった。[22] 。ヘンドリックスの側 がわ もマイルスの音楽 おんがく に興味 きょうみ を持 も っていたが故 ゆえ のことであった。ヘンドリックスとベティ・デイヴィスはある時 とき から不倫 ふりん 関係 かんけい にあったと言 い われており、それがデイヴィス夫妻 ふさい が離婚 りこん する原因 げんいん の一 ひと つとなった[22] 。しかし、デイヴィスはその後 ご もヘンドリックスの音楽 おんがく 的 てき 才能 さいのう に惚 ほ れ込 こ み共演 きょうえん を望 のぞ んでいた[22] 。
デイヴィスのバンドのベーシスト だったデイヴ・ホランド (ヘンドリックスとも度々 どど セッションを行 おこな っていた)によると、ヘンドリックスとデイヴィスのレコーディングの仕方 しかた は非常 ひじょう に良 よ く似 に ている面 めん があったらしい(デイヴィスの自伝 じでん より)。デイヴィスによると、両者 りょうしゃ は互 たが いに影響 えいきょう をあたえあう関係 かんけい で、デイヴィス自身 じしん のトランペットプレイやワウワウミュートを使 つか ったプレイもそれによるという。また、いわゆる「電化 でんか マイルス 」という方向 ほうこう 性 せい は、ヘンドリックスの影響 えいきょう によるものという論評 ろんぴょう も存在 そんざい する。
ヘンドリックスとデイヴィスは、共同 きょうどう でアルバムを制作 せいさく する寸前 すんぜん の段階 だんかい まで何 なん 度 ど か進 すす みかけたが、一 いち 度目 どめ はデイヴィス側 がわ が高額 こうがく のギャラを要求 ようきゅう したため流 なが れた。二 に 度目 どめ は、デイヴィスとヘンドリックスが出演 しゅつえん した70年 ねん のワイト島 とう の音楽 おんがく フェスティバルの後 のち にロンドンで行 おこな われる予定 よてい であったが、デイヴィス側 がわ が渋滞 じゅうたい に引 ひ っかかり時間 じかん に間 ま に合 あ わなかったために流 なが れた。三 さん 度目 どめ はギル・エヴァンスを加 くわ えた三 さん 人 にん でニューヨークで録音 ろくおん をする予定 よてい であったが、その直前 ちょくぜん にヘンドリックスが死亡 しぼう してしまい、結局 けっきょく 具体 ぐたい 的 てき な形 かたち での共 とも 作 さく は実現 じつげん しなかった。
デイヴィスはヘンドリックスの葬儀 そうぎ に参列 さんれつ したが、「牧師 ぼくし がジミの名前 なまえ を何 なん 度 ど も間違 まちが えると言 い う不 ふ 始末 しまつ をやらかした」と語 かた っており、それに強 つよ い怒 いか りを覚 おぼ えたとも加 くわ えている。デイヴィスが他者 たしゃ の葬儀 そうぎ に参列 さんれつ することはめったになかったと言 い われている(「マイルス・デイヴィス自叙伝 じじょでん 」より)。
エレクトリック・レディ・スタジオ (ニューヨーク市 し ) ヘンドリックスによって1970年 ねん に建 た てられた。
1970年 ねん 初頭 しょとう 、レコード・プラント・スタジオ においてギル・エヴァンス がアルバムGil Evans (のちにBlues in Orbit として発売 はつばい )をミキシング中 ちゅう に、ヘンドリックスが訪 たず ねて来 き て自己 じこ 紹介 しょうかい をした[71] 。ギル・エヴァンスも、ヘンドリックスの才能 さいのう を高 たか く評価 ひょうか し、自分 じぶん のオーケストラのソリストに起用 きよう することを考 かんが えた[72] 。そのための正式 せいしき なミーティングも1970年 ねん 9月 がつ 21日 にち に予定 よてい していたが、ヘンドリックスはその1週間 しゅうかん 前 まえ に亡 な くなった。1974年 ねん 、エヴァンスは、オーケストラ参加 さんか 者 しゃ らと共 とも にヘンドリックスの曲 きょく にアレンジを施 ほどこ し、『プレイズ・ジミ・ヘンドリックス 』を発表 はっぴょう した。後年 こうねん 、スティング がアルバム『ナッシング・ライク・ザ・サン 』でヘンドリックスの「Little Wing 」をカバーした時 とき も、エヴァンスが編曲 へんきょく を担当 たんとう した。「Stone Free」、「空 そら より高 たか く 」などの楽曲 がっきょく 群 ぐん は、彼 かれ のオーケストラの主要 しゅよう レパートリーとして、晩年 ばんねん まで演奏 えんそう された。
ギタリストでありエンジニア でもあったレス・ポール は、1960年代 ねんだい 前半 ぜんはん の無名 むめい 時代 じだい のヘンドリックスの演奏 えんそう を間近 まぢか で聴 き いたことがあるという。ヘンドリックスが、ニューヨーク のクラブでオーディションを受 う けていた時 とき のことらしい[注釈 ちゅうしゃく 42] 。後 のち に、エレクトリック・レディ・スタジオ を開設 かいせつ した際 さい 、ヘンドリックスは業界 ぎょうかい の大 だい 先輩 せんぱい であるポールに挨拶 あいさつ の電話 でんわ をかけたという。受 う けたポールが「君 きみ のことが気 き にかかって、ずいぶん探 さが したんだよ」と語 かた ると、ヘンドリックスは「レス・ポールさんがそんな近 ちか くで見 み ていたのに気付 きづ かなかったなんて」と恐縮 きょうしゅく していたという(ポールの談話 だんわ )。
短期間 たんきかん だが、恋愛 れんあい 関係 かんけい にあったと報道 ほうどう された。
マネージメントを行 おこな っていたマイケル・ジェフリーは1973年 ねん に飛行機 ひこうき 事故 じこ で死去 しきょ 。ヘンドリックスを見 み い出 だ したチャス・チャンドラー は1996年 ねん に死去 しきょ 。ベースのノエル・レディングは2003年 ねん に死去 しきょ 。バンド・オブ・ジプシーズのドラマーだったバディ・マイルスは2008年 ねん 2月 がつ に死去 しきょ 。エクスペリエンスのドラマーだったミッチ・ミッチェルは、2008年 ねん にシアトルで行 おこ なわれたヘンドリックストリビュートのイベントに参加 さんか したが、同年 どうねん の11月、米国 べいこく オレゴン州 しゅう ポートランドのホテルで死去 しきょ した。ヘンドリックスが亡 な くなる際 さい に同室 どうしつ にいた女性 じょせい モニカ・ダンネマン は、ジミヘン・フォロワーとして知 し られるドイツ人 じん ギタリストのウリ・ジョン・ロート と後 のち に結婚 けっこん したが、1996年 ねん に自殺 じさつ している[73] 。
ヘンドリックスの父 ちち アル・ヘンドリックスは、息子 むすこ ジミが成人 せいじん して家 いえ を出 で てから日系 にっけい 二 に 世 せい の女性 じょせい アヤコ(アヤコ・ジューン・フジタ)と再婚 さいこん 。ヘンドリックスは、自分 じぶん と同 おな じ東洋 とうよう 系 けい (ヘンドリックスの父方 ちちかた の祖母 そぼ はインディアン )の女性 じょせい が義母 ぎぼ になったことを非常 ひじょう に喜 よろこ んでいたという。ヘンドリックスは、義母 ぎぼ アヤコに「1970年 ねん のハワイのコンサートの後 のち で日本 にっぽん に行 い く予定 よてい だよ、日本 にっぽん に行 い くのが楽 たの しみなんだ、日本 にっぽん はどんなところなの」と語 かた っていたという(アヤコの談話 だんわ 。アヤコはアメリカ生 う まれだが、第 だい 二 に 次 じ 大戦 たいせん 前 まえ に日本 にっぽん に留学 りゅうがく した経験 けいけん があるという。「エスクワイア」1993年 ねん 4月 がつ 号 ごう )。ヘンドリックスが言 い っていた通 とお り、日本 にっぽん でもヘンドリックスのコンサートを含 ふく むフェスティバル(富士 ふじ オデッセイ)の計画 けいかく が進 すす んでいたが実現 じつげん していない。結局 けっきょく ヘンドリックスが来日 らいにち することは一 いち 度 ど もなかった[注釈 ちゅうしゃく 43] 。ヘンドリックスはキモノ (着物 きもの を模 も した東洋 とうよう 風 ふう の衣装 いしょう )を好 この んで着用 ちゃくよう し、ステージに鯉 こい のぼりをあげる[注釈 ちゅうしゃく 44] など、日本 にっぽん に対 たい して親 した しみを感 かん じていたらしい。
ヘンドリックスのスター(ハリウッド・ウォーク・オブ・フェーム )
ヘンドリックスの音源 おんげん の権利 けんり は、ヘンドリックスが遺言 ゆいごん を残 のこ していないこと、マネージャーのマイケル・ジェフリーが事故死 じこし したこと、ヘンドリックスが各所 かくしょ にジャム音源 おんげん を残 のこ していたことなどから混乱 こんらん 。ヘンドリックス自身 じしん はレコードデビュー後 ご わずか4年 ねん ほどしか活動 かつどう していないにも関 かか わらず、正規 せいき 版 ばん と海賊版 かいぞくばん を含 ふく め膨大 ぼうだい な数 かず のレコード(CD)が市場 いちば に出回 でまわ ることになった。しかし裁判 さいばん の末 すえ 、1990年代 ねんだい 半 なか ばにヘンドリックスの遺族 いぞく に権利 けんり があると確定 かくてい (それ以前 いぜん はヘンドリックスと親交 しんこう のあったミュージシャン、アラン・ダグラス が権利 けんり を持 も っていた)。ヘンドリックスの父 ちち アル・ヘンドリックス達 たち によりEXPERIENCE HENDRIX という会社 かいしゃ が設立 せつりつ され、ヘンドリックスの音源 おんげん を管理 かんり することになり現在 げんざい に至 いた っている。アルは2002年 ねん に亡 な くなったため、娘 むすめ のジェイニー・ヘンドリックス がEXPERIENCE HENDRIXの代表 だいひょう になっている。ただしジェイニーはアルの後妻 ごさい アヤコの連 つ れ子 こ [注釈 ちゅうしゃく 45] で、ヘンドリックスとは義理 ぎり の兄妹 きょうだい である。つまりヘンドリックスとジェイニーには血 ち のつながりは全 まった くない。
無名 むめい 時代 じだい のヘンドリックスは様々 さまざま なレコード会社 かいしゃ やエージェントと契約 けいやく を取 と り交 か わしており(多 おお くはその場 ば の雰囲気 ふんいき に流 なが され軽 かる い気持 きも ちで契約 けいやく 書 しょ にサインしていたらしい)、生前 せいぜん から権利 けんり が混乱 こんらん していた。特 とく にPPXレコードというインディーズレーベルが「ヘンドリックスは当社 とうしゃ の契約 けいやく ミュージシャンである」として本格 ほんかく 的 てき に法廷 ほうてい 闘争 とうそう を仕掛 しか けてきたため、解決 かいけつ 策 さく としてヘンドリックスのアルバム1枚 まい の権利 けんり をPPX側 がわ に与 あた えることになった。そのために制作 せいさく されたのがヘンドリックスの生前 せいぜん 唯一 ゆいいつ の正規 せいき ライブアルバム『バンド・オブ・ジプシーズ』である。こうした経緯 けいい に加 くわ え、十分 じゅうぶん な制作 せいさく 時間 じかん を与 あた えられなかったこともあり、ヘンドリックスは同 どう アルバムの仕上 しあ がりに満足 まんぞく していなかったらしい。
EXPERIENCE HENDRIXの販売 はんばい 権 けん を獲得 かくとく したMCAレコード (日本 にっぽん ではユニバーサルビクター )から再発 さいはつ 盤 ばん や新規 しんき 企画 きかく 盤 ばん のCDが発売 はつばい される際 さい 、「オリジナル録音 ろくおん テープを元 もと にリマスターした」と宣伝 せんでん されたが、一説 いっせつ に一部 いちぶ のオリジナルテープはEXPERIENCE HENDRIXの手 て に渡 わた っていないといわれ、部分 ぶぶん 的 てき にはレコード等 とう から音 おと を起 お こしているのではとの噂 うわさ も存在 そんざい する(一部 いちぶ の曲 きょく にレコードの針 はり 音 おん (スクラッチノイズ)と思 おも われる雑音 ざつおん があるため)。
2009年 ねん 9月18日 にち 、EXPERIENCE HENDRIXの販売 はんばい 権 けん を米国 べいこく ソニー・ミュージックエンタテインメント が獲得 かくとく したことを発表 はっぴょう 。2010年 ねん 1月 がつ 1日 にち よりSMEに移行 いこう した。これにより、日本 にっぽん 盤 ばん は2010年 ねん 3月 がつ よりソニー・ミュージックジャパンインターナショナル を通 つう じて、スタジオ・アルバムとライブ・アルバムは完全 かんぜん 生産 せいさん 限定 げんてい 、ベスト・アルバムはレギュラー形態 けいたい でリリースされた[74] 。
また、セッション、セパレート盤 ばん 、ライヴ、スタジオ・セッションなどのブートレックも販売 はんばい されている。
公式 こうしき のアルバムやカーティス・ナイトのセッションもある。
^ 出生 しゅっしょう 名 めい はジョニー・アレン・ヘンドリックス (英語 えいご : Johnny Allen Hendrix )
^ 「ローリング・ストーン 誌 し が選 えら ぶ歴史 れきし 上 じょう 最 もっと も偉大 いだい なギタリスト100人 にん 」において2003年 ねん 、および2011年 ねん [2] 、および2023年 ねん でも1位 い に選 えら ばれている[3]
^ 2008年 ねん 5月にブラジル のメタル 専門 せんもん 誌 し 『ROADIE CREW』が行 おこな った「HR/HM系 けい ミュージシャンが選 えら ぶギタリスト・ランキング」[4] 、日本 にっぽん の『ギター・マガジン 』2010年 ねん 12月 がつ 号 ごう の「ギター・マガジンが選 えら ぶ! 史上 しじょう 最 もっと も偉大 いだい なギタリスト100人 にん 」で1位 い となっている
^ 黒人 こくじん だが、白人 はくじん の血 ち も混 ま ざっていた。「Esquire」1993年 ねん 4月 がつ 号 ごう
^ アルとルシールの間 あいだ にはもう一人 ひとり の息子 むすこ 、レオン(ヘンドリックスの弟 おとうと )がいる。そのほかにも数 すう 人 にん の弟妹 ていまい がいるが養子 ようし に出 だ されているという。
^ インタビューで父親 ちちおや のアル本人 ほんにん が語 かた るところ、ヘンドリックスは、手始 てはじ めにウクレレ も嗜 たしな んでいた[6] 。
^ ランディ・カリフォーニア らが所属 しょぞく していた。
^ ピーター・バラカン は「1966年 ねん 末 まつ にレディ・ステディ・ゴー(テレビ番組 ばんぐみ )に出演 しゅつえん したヘンドリックスを見 み て衝撃 しょうげき を受 う けた。1967年 ねん の正月 しょうがつ にメロディ・メーカー(音楽 おんがく 誌 し )からヘンドリックスのライブの情報 じょうほう を知 し り、マーキークラブ(ロンドンのライブハウス)に出 で かけたら、開場 かいじょう 前 まえ から観客 かんきゃく が長蛇 ちょうだ の列 れつ で、定員 ていいん の3倍 ばい 近 ちか くいたと思 おも う。マーキーであんなのは後 のち にも先 さき にも見 み たことがない。中 なか はぎゅうぎゅう詰 つ めで動 うご けない。ミリタリーファッションや演奏 えんそう などヘンドリックスのライブには生涯 しょうがい 最大 さいだい 級 きゅう の衝撃 しょうげき を受 う けた」と語 かた っている。「レコード・コレクターズ」1987年 ねん 7月 がつ 号 ごう 。「ルーディーズ・クラブ」8号 ごう 1992年 ねん
^ モントレーと表記 ひょうき される場合 ばあい もある。スイス のモントルー と混同 こんどう している例 れい があるので注意 ちゅうい 。
^ 当時 とうじ のヘンドリックスは母国 ぼこく アメリカでは無名 むめい で、アメリカ側 がわ が出演 しゅつえん に難色 なんしょく を示 しめ していたと言 い われる
^ ギターネックを片手 かたて でシゴいたり手首 てくび を下腹 かふく 部 ぶ に固定 こてい してギターの弦 つる を弾 ひ きながら指 ゆび をうねうねと大袈裟 おおげさ に動 うご かしたりギターボディのボトムを股間 こかん に押 お し当 あ てて痙攣 けいれん など
^ ローディー だったジェリー・スティッケルズ やエリック・バレット たちの談話 だんわ 。
^ ヘンドリックスが時間 じかん にルーズなことや、レコーディングの場 ば に友人 ゆうじん (取 と り巻 ま き)を多数 たすう 連 つ れ込 こ み仕事 しごと がはかどらないことなどに困惑 こんわく していた。伝記 でんき 「ジミ・ヘンドリックスの伝説 でんせつ 」、テレビ番組 ばんぐみ 「ジミ・ヘンドリックス―神 かみ になったギタリスト―」、ビデオソフト「メイキング・オブ・エレクトリックレディランド」などでチャンドラーは「結婚 けっこん して子供 こども もできたし混乱 こんらん から逃 のが れたかった」と述 の べている。
^ そのため、デビュー当初 とうしょ のザ・ジミ・ヘンドリックス・エクスペリエンスとしての活動 かつどう はこの時点 じてん まで。
^ 「ギャラに関 かん し疑問 ぎもん を呈 てい したのが問題 もんだい 視 し された」といった説明 せつめい を述 の べている。
^ ヘンドリックスがギター、ミッチェルがドラム、コックスがベース、ラリー・リー がサイドギター、ユマ・サルタン とジェリー・バレッツ がパーカッション という6人 にん 編成 へんせい 。
^ 演奏 えんそう を始 はじ める前 まえ のバンド紹介 しょうかい で、ヘンドリックスは「別名 べつめい はバンド・オブ・ジプシーズだ」と述 の べている。
^ ビリー・コックスはヘンドリックスに関 かん するテレビ番組 ばんぐみ 「Jimi Hendrix Rockumentary」の中 なか で「アメリカ国歌 こっか を演奏 えんそう した時 とき はベトナム戦争 せんそう のまっただ中 なか だった。あれはベトナムで爆 ばく 弾 だん が炸裂 さくれつ する音 おん さ。僕 ぼく にはそう聞 き こえた」と語 かた っている。ミック・ジャガー はウッドストックにおけるヘンドリックスの演奏 えんそう を「'60年代 ねんだい で最高 さいこう のロック・パフォーマンス」と評 ひょう している。
^ ヘンドリックスが出番 でばん の前 まえ に知人 ちじん から強 つよ いドラッグ を渡 わた されて服用 ふくよう し、まともに演奏 えんそう が出来 でき なかったためと言 い われる。この公演 こうえん では、全 すべ ての客席 きゃくせき に演奏 えんそう 者 しゃ の正面 しょうめん が見 み えるようにステージが回転 かいてん する仕組 しく みが採用 さいよう されており、ヘンドリックスはこの回転 かいてん 式 しき ステージに不快 ふかい 感 かん を示 しめ していたという。「天才 てんさい ジミヘンドリックス ギター革命 かくめい 児 じ の真実 しんじつ 」など。
^ 周囲 しゅうい の人間 にんげん を信用 しんよう できなくなり、食事 しょくじ を全 まった くしなくなったという。
^ IMDb には「バルビツール・オーバードース 」と表記 ひょうき されているが、検死 けんし に当 あ たった医師 いし の診断 しんだん 書 しょ には「窒息 ちっそく 死 し 」と書 か かれている。
^ ジェフリーはヘンドリックスと不仲 ふなか で、ヘンドリックスから解雇 かいこ されるのを恐 おそ れていた。そのためヘンドリックスに保険 ほけん をかけた上 うえ で殺害 さつがい し、保険 ほけん 金 きん と権利 けんり を独占 どくせん しようとしたという説 せつ がある。「Rock Roadie」、「天才 てんさい ジミヘンドリックス ギター革命 かくめい 児 じ の真実 しんじつ 」など。
^ ゼマティス が、楽器 がっき 製作 せいさく を初 はじ めて間 あいだ もない頃 ころ に製作 せいさく したもの
^ レコードやCDにする際 さい 、レコーディングエンジニアが音程 おんてい を電気 でんき 的 てき に変化 へんか させている例 れい もあるので注意 ちゅうい
^ アルバート・キング など、右 みぎ 利 き き用 よう に弦 つる を張 は ったギターを逆 ぎゃく に持 も って弾 ひ くギタリストも存在 そんざい する
^ マネージャーだったマイケル・ジェフリーが勝手 かって に契約 けいやく してきたため、ヘンドリックスたちはモンキーズとの共演 きょうえん に困惑 こんわく していたという。
^ 音楽 おんがく 面 めん のマネージャーであるチャス・チャンドラーが「アメリカ革命 かくめい の娘 むすめ たちと名乗 なの る団体 だんたい から抗議 こうぎ (脅迫 きょうはく )された」という話 はなし をでっちあげ、うまく降板 こうばん に持 も ち込 こ んだという。
^ ヘンドリックスの死後 しご に発売 はつばい されたアルバム「レインボーブリッジ 」などに収録 しゅうろく 。
^ 映画 えいが は日本 にっぽん 未 み 公開 こうかい だがサントラレコード「天才 てんさい ジミ・ヘンドリックスの生涯 しょうがい 」が販売 はんばい された。現在 げんざい はDVDソフトが販売 はんばい されている。
^ ヘンドリックス役 やく はウッド・ハリス 。
^ ヘンドリックスの楽曲 がっきょく の権利 けんり を持 も つエクスペリエンス・ヘンドリックスが許可 きょか を出 だ さなかった。
^ クリームのメンバーだったジャック・ブルース とジンジャー・ベイカー の談話 だんわ 。ブルース、ベイカー、ゲイリー・ムーア によるバンド結成 けっせい 時 じ の鼎談 ていだん から。
^ 2014年 ねん に公開 こうかい されたドキュメンタリー映画 えいが 『ランバート&スタンプ 』には、ヘンドリックスが2人 ふたり と談笑 だんしょう している白黒 しろくろ の記録 きろく 映像 えいぞう が収録 しゅうろく されている。
^ タウンゼントがギター、ドラマーのキース・ムーン がドラム・セットを破壊 はかい した。きっかけは1964年 ねん 、ロンドンのとある天井 てんじょう が低 ひく いクラブで演奏 えんそう している時 とき 、タウンゼントがギターを天井 てんじょう にぶつけてしまった事故 じこ だった。
^ ヘンドリックスがドラッグの影響 えいきょう でタウンゼントの話 はなし を聞 き けなかったためと言 い われる。
^ タウンゼントとムーンが「マイ・ジェネレーション 」で楽器 がっき を破壊 はかい する場面 ばめん は、映画 えいが 『モンタレー・ポップ フェスティバル'67 』(1968年 ねん )に収録 しゅうろく された。
^ ザッパが率 ひき いていたザ・マザーズ・オブ・インヴェンションは当時 とうじ ギャリック劇場 げきじょう で長期 ちょうき 公演 こうえん を行 おこ なっており、ザッパは活動 かつどう の拠点 きょてん を一時 いちじ 的 てき にニューヨークに移 うつ していた。
^ 見開 みひら きジャケットの全体 ぜんたい がビートルズの『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』のジャケットのパロディで、レコード会社 かいしゃ の判断 はんだん で内側 うちがわ と外側 そとがわ が入 い れ替 か えられた。ヘンドリックスは『サージェント・ペパーズ』の表 おもて ジャケットに対応 たいおう する内側 うちがわ ジャケットの向 む かって右側 みぎがわ のページに、女性 じょせい の衣裳 いしょう を着 き たザッパと彼 かれ の将来 しょうらい の夫人 ふじん の向 む かって右側 みぎがわ に写 うつ っている。
^ ザッパが率 ひき いるザ・マザーズ・オブ・インヴェンション も出演 しゅつえん した。
^ パーカーは、この燃 も やされたギターをヘンドリックス本人 ほんにん から貰 もら った。なお、ザッパは、このギターは1968年 ねん 5月 がつ のマイアミ・ポップ・フェスティバルで燃 も やされたものであると信 しん じていたが、実際 じっさい には1967年 ねん にロンドンのアストリア・シアターで燃 も やされたものであるという説 せつ もある。
^ 1981年 ねん 12月12日 にち にサンディエゴ で開 ひら かれたコンサートでの録音 ろくおん 。
^ レス・ポールが息子 むすこ と共 とも にレコード会社 かいしゃ に赴 おもむ いた際 さい 、おのおの時間 じかん つぶしをしていたところ、息子 むすこ から「すごいギタリストが演奏 えんそう している」と伝 つた えられ閉店 へいてん 中 ちゅう のクラブに駆 か け付 つ けると、黒人 こくじん の若者 わかもの (ヘンドリックス)がギターを演奏 えんそう していた。約束 やくそく の時間 じかん が来 き たためその場 ば を離 はな れ、再 ふたた びクラブに行 い ってみるとオーディションは終 お わっており、若者 わかもの もいなかった。後日 ごじつ 、レス・ポールが新作 しんさく の参考 さんこう 資料 しりょう としてレコード会社 かいしゃ から受 う け取 と ったレコードの中 なか にヘンドリックスの「Are You Experienced?」があり、「この男 おとこ だ!」と驚 おどろ いたという。
^ 一部 いちぶ で「米 べい 軍 ぐん 在籍 ざいせき 時代 じだい のヘンドリックスが一 いち 兵卒 へいそつ として来日 らいにち しているのでは」という説 せつ もあるが、その事実 じじつ はない
^ 1970年 ねん のハワイのコンサートで確認 かくにん できる。
^ 日系 にっけい のアヤコとドイツ系 けい の前夫 ぜんふ との混血 こんけつ 。
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