大阪 おおさか 府 ふ 西成 にしなり 郡 ぐん 伝法 でんぼう 町 まち (現 げん 大阪 おおさか 市 し 此花 このはな 区 く 伝法 でんぼう )に父 ちち ・秀雄 ひでお 、母 はは ・リエの長男 ちょうなん として生 う まれる。父 ちち は大阪 おおさか 薬学 やくがく 専門 せんもん 学校 がっこう (現 げん ・大阪大学 おおさかだいがく 薬学部 やくがくぶ )を卒業 そつぎょう 後 ご 、鈴木 すずき 商店 しょうてん に入社 にゅうしゃ し、退社 たいしゃ 後 ご 大阪 おおさか で小 ちい さな薬 くすり 屋 や をはじめた。母 はは は神社 じんじゃ の宮司 ぐうじ の娘 むすめ 。祖父 そふ ・栄 さかえ は高知 こうち 県 けん 矢井賀 やいか 村 むら (現 げん ・中土佐 なかとさ 町 まち )の士族 しぞく の家 いえ [ 注 ちゅう 1] に生 う まれ、大阪 おおさか 医 い 学校 がっこう (現 げん ・大阪大学 おおさかだいがく 医学部 いがくぶ )卒業 そつぎょう 後 ご 、神戸 こうべ で眼科 がんか 医 い を務 つと めた。ダイエーの(エイ)とは、祖父 そふ の名前 なまえ の栄 さかえ からとられたものである。
中内 なかうち は神戸 こうべ 三 さん 中 ちゅう (現 げん ・兵庫 ひょうご 県立 けんりつ 長田 ながた 高等 こうとう 学校 がっこう )を経 へ て、1941年 ねん に兵庫 ひょうご 県立 けんりつ 神戸 こうべ 高等 こうとう 商業 しょうぎょう 学校 がっこう (新制 しんせい 神戸商科大学 こうべしょうかだいがく の前身 ぜんしん 。現 げん ・兵庫 ひょうご 県立 けんりつ 大学 だいがく )を卒業 そつぎょう 。戦時 せんじ 中 ちゅう のため繰 く り上 あ げ卒業 そつぎょう であった。ゲーテ 『ファウスト 』のファウスト博士 はかせ の嘆 なげ きを一部 いちぶ 改変 かいへん し、「神戸 こうべ 高 だか 商 しょう で努力 どりょく して学 まな んだ様々 さまざま な哲学 てつがく も、芸術 げいじゅつ も経済 けいざい 学 がく も文学 ぶんがく も、まったく役 やく にたなかった」という意味 いみ のドイツ語 ご の文句 もんく を卒業 そつぎょう アルバムに記 しる す[ 2] 。勉強 べんきょう は苦手 にがて で、推薦 すいせん 状 じょう を得 え ながらも試験 しけん の出来 でき が悪 わる く、神戸 こうべ 商業 しょうぎょう 大学 だいがく (現 げん ・神戸大学 こうべだいがく )などの大学 だいがく 受験 じゅけん に失敗 しっぱい 。
受験 じゅけん に失敗 しっぱい した中内 なかうち は、1942年 ねん 、日本 にっぽん 綿花 めんか (ニチメン→双 そう 日 び )に就職 しゅうしょく するも、翌 よく 1943年 ねん 1月 がつ に応召 おうしょう 。広島 ひろしま にて訓練 くんれん の後 のち 、幹部 かんぶ 生 せい として扱 あつか われる仲間 なかま を尻目 しりめ に、満州 まんしゅう 国 こく とソビエト連邦 れんぽう の国境 こっきょう にある綏南 に駐屯 ちゅうとん する。
中内 なかうち が一 いち 兵卒 へいそつ として召集 しょうしゅう された理由 りゆう は、神戸 こうべ 高 だか 商 しょう 時代 じだい の配属 はいぞく 将校 しょうこう に嫌 きら われ(自身 じしん は「下駄 げた をはいて殴打 おうだ された」と述 の べている[ 3] )、「兵 へい 適 てき 」という最低 さいてい の評価 ひょうか しか下 くだ されなかったからとされている。身体 しんたい 検査 けんさ で「心臓 しんぞう が右 みぎ にあるという『内臓 ないぞう 逆 ぎゃく 位 い 』であることが判明 はんめい したため」とも述 の べている[ 4] 。
1944年 ねん 7月 がつ 、フィリピン の混成 こんせい 五 ご 八 はち 旅団 りょだん (盟 めい 兵団 へいだん )の所属 しょぞく となり、ルソン島 るそんとう リンガエン湾 わん の守備 しゅび に就 つ いた。七 なな 年 ねん 式 しき 三 さん 十 じゅう 糎 せんちめーとる 榴弾 りゅうだん 砲 ほう を運用 うんよう するも、1945年 ねん 1月 がつ 7日 にち に榴弾 りゅうだん 砲 ほう が破壊 はかい される。部隊 ぶたい は1月 がつ 23日 にち 未明 みめい に玉砕 ぎょくさい 命令 めいれい が下 くだ された直後 ちょくご 、一 いち 四 よん 方面 ほうめん 司令 しれい 官 かん ・山下 やました 奉文 ともゆき によるゲリラ戦 せん の命令 めいれい が下 くだ されたことで辛 かろ うじて生 い き延 の びた。
フィリピン戦線 せんせん では虫 むし を食 た べて生 い き延 の びる絶望 ぜつぼう 的 てき な食料 しょくりょう 状況 じょうきょう の中 なか [ 5] 、ゲリラ戦 せん で米 べい 軍 ぐん 基地 きち を襲撃 しゅうげき した時 とき 、米 べい 軍 ぐん が石油 せきゆ 発動 はつどう 機 き でアイスクリーム を作 つく っていたことに衝撃 しょうげき を受 う けた[ 6] 。敵 てき から手榴弾 しゅりゅうだん の攻撃 こうげき を受 う け、瀕死 ひんし の重傷 じゅうしょう を負 お い死 し を覚悟 かくご したとき、神戸 こうべ の実家 じっか で家族 かぞく 揃 そろ ってすき焼 や き を食 た べている光景 こうけい が頭 あたま に浮 う かび、「もう一 いち 回 かい 腹 はら いっぱいすき焼 や きを食 た べたい」と思 おも ったという。第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん での戦争 せんそう 体験 たいけん は、人生 じんせい 観 かん やダイエーの企業 きぎょう 理念 りねん にも影響 えいきょう を与 あた えた[ 5] 。
「人 ひと の幸 しあわ せとは、まず、物質 ぶっしつ 的 てき な豊 ゆた かさを満 み たすことです」との言葉 ことば は、この時 とき に痛感 つうかん した日本 にっぽん 軍 ぐん と米 べい 軍 ぐん との物量 ぶつりょう の差 さ と飢餓 きが 体験 たいけん から出 で ている。また、中内 なかうち は毛沢東 もうたくとう の矛盾 むじゅん 論 ろん の影響 えいきょう も受 う けていた[ 7] 。
後年 こうねん 、中央公論社 ちゅうおうこうろんしゃ から対談 たいだん の謝礼 しゃれい を聞 き かれたとき、「キミとこ、大岡 おおおか 昇平 しょうへい さんの全集 ぜんしゅう 出 だ してんねやな。もしよかったら、その全集 ぜんしゅう くれへんやろか」と頼 たの んでいる。大岡 おおおか は㓛と同 どう 時期 じき にフィリピンで従軍 じゅうぐん した体験 たいけん を持 も ち、『野火 のび 』『レイテ戦記 せんき 』などの優 すぐ れた戦記 せんき 文学 ぶんがく を残 のこ している[ 8] 。
1945年 ねん 11月にフィリピンから復員 ふくいん 。神戸 こうべ 市 し 兵庫 ひょうご 区 く にあった実家 じっか のサカエ薬局 やっきょく が1948年 ねん 、元町高架通 もとまちこうかどおり に新 あら たに開店 かいてん した「友愛 ゆうあい 薬局 やっきょく 」で、業者 ぎょうしゃ を相手 あいて に闇 やみ 商売 しょうばい を行 おこな った。旧制 きゅうせい 神戸 こうべ 経済 けいざい 大学 だいがく (現 げん ・神戸大学 こうべだいがく )に戦後 せんご 設置 せっち された第 だい 二 に 学部 がくぶ (夜間 やかん )に進学 しんがく するも、学費 がくひ 未納 みのう のため除籍 じょせき [ 9] 。6年 ねん 後 ご の1951年 ねん 8月 がつ には、次 じ 弟 おとうと の設立 せつりつ した「サカエ薬品 やくひん 株式会社 かぶしきがいしゃ 」が大阪 おおさか 市 し 平野 ひらの 町 まち に開店 かいてん した医薬品 いやくひん の現金 げんきん 問屋 とんや 「サカエ薬局 やっきょく 」で勤務 きんむ [ 注 ちゅう 2] 。
サカエ薬品 やくひん を離 はな れ、1957年 ねん 4月 がつ 10日 とおか に神戸 こうべ 市 し 長田 ながた 区 く を本店 ほんてん とする「大栄 おおえ 薬品 やくひん 工業 こうぎょう 株式会社 かぶしきがいしゃ 」を末弟 ばってい と設立 せつりつ し、製薬 せいやく 事業 じぎょう に参入 さんにゅう したが、すぐに撤退 てったい 。同年 どうねん 7月 がつ 、九州 きゅうしゅう のスーパー「丸和 まるわ フードセンター」社長 しゃちょう ・吉田 よしだ 日出男 ひでお の要請 ようせい を受 う けて、小倉 おぐら に向 む かい開店 かいてん の援助 えんじょ をしたことから、吉田 よしだ の提唱 ていしょう する「主婦 しゅふ の店 みせ 」の名称 めいしょう を加盟 かめい 費 ひ 抜 ぬ きで貰 もら う。[ 10] 9月23日 にち 、大阪 おおさか 市 し 旭 あさひ 区 く の京阪本線 けいはんほんせん 千林 せんばやし 駅 えき 前 まえ (千林 せんばやし 商店 しょうてん 街 がい 内 うち )に、医薬品 いやくひん や食品 しょくひん を安価 あんか で薄利多売 はくりたばい する小売 こうり 店 てん 「主婦 しゅふ の店 みせ ダイエー薬局 やっきょく 」(ダイエー1号 ごう 店 てん 。のちに千林 せんばやし 駅前 えきまえ 店 てん に改称 かいしょう し1974年 ねん まで営業 えいぎょう )を開店 かいてん した。当初 とうしょ は現代 げんだい のドラッグストア に相当 そうとう する薬局 やっきょく で、後 のち に食料 しょくりょう 品 ひん へと進出 しんしゅつ した。
本人 ほんにん が著書 ちょしょ やインタビューで明 あき らかにしたところによると、当初 とうしょ は特殊 とくしゅ 浴場 よくじょう やパチンコ店 てん をやろうとも考 かんが えたが、死 し んだ戦友 せんゆう に顔 かお が立 た たないと思 おも い、最 もっと も利益 りえき 率 りつ の低 ひく いスーパーを選 えら んだと述 の べている。
1958年 ねん には、神戸 こうべ 三宮 さんのみや にチェーン化 か 第 だい 1号 ごう 店 てん (店舗 てんぽ としては第 だい 2号 ごう 店 てん )となる三宮 さんぐう 店 てん を開店 かいてん 。既成 きせい 概念 がいねん を次々 つぎつぎ と打 う ち破 やぶ り、流通 りゅうつう 業界 ぎょうかい に革命 かくめい をおこした。特 とく に価格 かかく 破壊 はかい は、定価 ていか を維持 いじ しようとするメーカー勢力 せいりょく の圧力 あつりょく に屈 こごめ せず、日本 にっぽん 国民 こくみん の大 だい 多数 たすう より喝采 かっさい を浴 あ びた。1956年 ねん の経済 けいざい 白書 はくしょ で「もはや戦後 せんご ではない」とされたが、戦時 せんじ 中 ちゅう の国家 こっか 統制 とうせい がさまざまな規制 きせい として残 のこ っており、中内 なかうち は「戦後 せんご はまだ終 お わっていない」とした。[ 11]
1962年 ねん 、大手 おおて 商社 しょうしゃ 日商 にっしょう (後 ご の日商岩井 にっしょういわい 、現 げん ・双 そう 日 び )の協力 きょうりょく の下 した 、渡米 とべい 。現地 げんち の流通 りゅうつう 業 ぎょう を研究 けんきゅう する。当時 とうじ の中内 なかうち について、日商 にっしょう の入江 いりえ 義雄 よしお (のちダイエー副 ふく 社長 しゃちょう )は「とにかく、好奇心 こうきしん のかたまりでした」[ 12] と証言 しょうげん しており、入江 いりえ は中内 なかうち の姿勢 しせい に感服 かんぷく して後年 こうねん ダイエーに入社 にゅうしゃ した。
中内 なかうち は「価格 かかく の決定 けってい 権 けん を製造 せいぞう メーカーから消費 しょうひ 者 しゃ に取 と り返 かえ す」ことを信念 しんねん として、「いくらで売 う ろうとも、ダイエーの勝手 かって で、製造 せいぞう メーカーには文句 もんく を言 い わせない」という姿勢 しせい を貫 つらぬ き、メーカーの協力 きょうりょく が得 え られない場合 ばあい は、「自 みずか らが工場 こうじょう を持 も たないメーカー」 として、そのスーパーのオリジナルブランド「プライベートブランド 」 (PB) の商品 しょうひん 開発 かいはつ を推進 すいしん した。同時 どうじ に、既存 きそん 大手 おおて メーカーとの対立 たいりつ を巻 ま き起 お こした[ 13] 。
そのきっかけが1960年 ねん 発売 はつばい の「ダイエーみかん」や1961年 ねん 発売 はつばい の「ダイエーインスタントコーヒー」などで[ 14] 、これらは1970年代 ねんだい の「ノーブランドシリーズ」や「キャプテンクックシリーズ」を経 へ て「セービングシリーズ」に発展 はってん し、ダイエーの旗艦 きかん ブランドに成長 せいちょう した[ 15] 。
1964年 ねん 、松下電器産業 まつしたでんきさんぎょう (現 げん ・パナソニック )とテレビの値引 ねび き販売 はんばい をめぐって「ダイエー・松下 まつした 戦争 せんそう 」が勃発 ぼっぱつ した。ダイエーが松下電器 まつしたでんき の製品 せいひん を希望 きぼう 小売 こうり 価格 かかく からの値下 ねさ げ許容 きょよう 範囲 はんい だった15%を上回 うわまわ る20%の値引 ねび きで販売 はんばい を行 おこな ったことがきっかけとなり、松下電器 まつしたでんき 側 がわ は仕入 しい れ先 さき の締 し め付 づ けを行 おこな い、ダイエーへの商品 しょうひん 供給 きょうきゅう ルートを停止 ていし させて対抗 たいこう した。あくまで松下 まつした 独自 どくじ の考 かんが えである「儲 もう けるには高 たか く売 う ることだ。今後 こんご 、高 たか い水準 すいじゅん に定価 ていか (希望 きぼう 小売 こうり 価格 かかく )を設定 せってい するので、これを守 まも りなさい。安売 やすう り店 てん への出荷 しゅっか は停止 ていし する」に対 たい し、契約 けいやく 社会 しゃかい と法律 ほうりつ を重視 じゅうし したダイエー側 がわ は、松下電器 まつしたでんき を相手取 あいてど り、私的 してき 独占 どくせん の禁止 きんし 及 およ び公正 こうせい 取引 とりひき の確保 かくほ に関 かん する法律 ほうりつ (独占 どくせん 禁止 きんし 法 ほう )違反 いはん の疑 うたが いで裁判所 さいばんしょ に告訴 こくそ した。
1965年 ねん 3月、花王 かおう 石鹸 せっけん がダイエーへの出荷 しゅっか を停止 ていし したため、7月 がつ に花王 かおう を公正 こうせい 取引 とりひき 委員 いいん 会 かい に提訴 ていそ 。ダイエーは第一工業製薬 だいいちこうぎょうせいやく と提携 ていけい し、ナショナルブランドより2~4割 わり 安 やす い洗剤 せんざい 「スパット」を販売 はんばい した。最終 さいしゅう 的 てき に「ダイエー・花王 かおう 戦争 せんそう 」は住友銀行 すみともぎんこう の斡旋 あっせん で1975年 ねん に和解 わかい し、取引 とりひき を再開 さいかい した。
1970年 ねん 、メーカーの二 に 重 じゅう 価格 かかく の撤廃 てっぱい を求 もと める消費 しょうひ 者 しゃ 団体 だんたい が、強硬 きょうこう 姿勢 しせい を崩 くず さない松下 まつした に対 たい して松下 まつした 製品 せいひん の不買 ふばい 運動 うんどう を決議 けつぎ した。同年 どうねん に、公正 こうせい 取引 とりひき 委員 いいん 会 かい が二 に 重 じゅう 価格 かかく 問題 もんだい に対 たい して、「メーカー(松下 まつした 側 がわ )に不当 ふとう 表示 ひょうじ の疑 うたが いあり」という結論 けつろん を出 だ している。同 おな じ時期 じき 、ダイエーは13型 がた カラーテレビを「BUBU」というブランド名 めい で、当時 とうじ としては破格 はかく の安 やす さである59,800円 えん で販売 はんばい し、またしても松下 まつした との対立 たいりつ が激化 げきか した[ 13] 。
松下 まつした 幸之助 こうのすけ は、1975年 ねん に中内 なかうち を京都 きょうと の真 しん 々庵 あん に招 まね いて、「もう覇道 はどう はやめて、王道 おうどう を歩 あゆ むことを考 かんが えたらどうか」と諭 さと したが、中内 なかうち は拒否 きょひ した[ 13] 。明治 めいじ 生 う まれの松下 まつした と、大正 たいしょう 生 う まれの中内 なかうち には約 やく 30歳 さい の年齢 ねんれい 差 さ があるにもかかわらず、松下 まつした 相手 あいて に、中内 なかうち の精神 せいしん 力 りょく は相当 そうとう タフである。この対立 たいりつ は、幸之助 こうのすけ 没 ぼつ 後 ご の1994年 ねん に松下電器 まつしたでんき が折 お れる形 かたち で和解 わかい した[ 注 ちゅう 3] となった。この対立 たいりつ は「30年 ねん 戦争 せんそう 」とも呼 よ ばれた。
ダイエーの企業 きぎょう テーマである「For the Customers よい品 しな をどんどん安 やす く消費 しょうひ 者 しゃ に提供 ていきょう する」の実現 じつげん に向 む け、「既存 きそん 価格 かかく を破壊 はかい することが、ダイエーの存在 そんざい 価値 かち にある」と考 かんが えて実行 じっこう に移 うつ し、100g当 あ たり100円 えん が平均 へいきん だった牛肉 ぎゅうにく を39円 えん に思 おも い切 き って値下 ねさ げしたところ、牛肉 ぎゅうにく コーナーには主婦 しゅふ らが殺到 さっとう し売 うり 切 きり 店 てん が続出 ぞくしゅつ するほどとなった。この欠 かけ 品 ひん 状態 じょうたい を補充 ほじゅう すべく、生 い きた牛 うし を買 か い取 と ってそれを枝肉 えだにく に加工 かこう したり、日本 にっぽん 本土 ほんど 復帰 ふっき 前 まえ のアメリカ施政 しせい 権 けん 下 か の沖縄 おきなわ には輸入 ゆにゅう 関税 かんぜい がかからないことを逆手 さかて に取 と り、オーストラリア 産 さん の子 こ 牛 うし を沖縄 おきなわ に輸入 ゆにゅう ・飼育 しいく したうえで日本 にっぽん 国内 こくない に輸入 ゆにゅう するという発想 はっそう を生 う み出 だ した[ 13] 。
1971年 ねん 3月 がつ 、大阪 おおさか 証券 しょうけん 取引 とりひき 所 しょ 第 だい 2部 ぶ に上場 じょうじょう 。スーパー業界 ぎょうかい では初 はつ となる上場 じょうじょう 企業 きぎょう になった[ 16] 。1972年 ねん には百貨店 ひゃっかてん の三越 みつこし を抜 ぬ き、小売 こうり 業 ぎょう 売上 うりあげ 高 だか 日本一 にっぽんいち を達成 たっせい した。1980年 ねん 2月 がつ 16日 にち に日本 にっぽん で初 はじ めて小売 こうり 業界 ぎょうかい の売上 うりあ げ高 だか 一 いち 兆 ちょう 円 えん を達成 たっせい した。
また、紳士 しんし 服 ふく のロベルト 、ファミリーレストラン のフォルクス 、ハンバーガーチェーン のウェンディーズ ・ドムドムハンバーガー 、コンビニエンスストア のローソン 、百貨店 ひゃっかてん のプランタン銀座 ぎんざ など子会社 こがいしゃ ・別 べつ 事業 じぎょう を次々 つぎつぎ と展開 てんかい していった。この時期 じき と前後 ぜんご して、西友 せいゆう ストア(現 げん ・西友 せいゆう )やイト いと ーヨ よ ーカ堂 かどう が地盤 じばん としている首都 しゅと 圏 けん にも進出 しんしゅつ し、東京 とうきょう 都 と 赤羽 あかはね や埼玉 さいたま 県 けん 所沢 ところざわ 、神奈川 かながわ 県 けん 藤沢 ふじさわ 、千葉 ちば 県 けん 津田沼 つだぬま などに出店 しゅってん 。それぞれの地域 ちいき 一 いち 番 ばん 店 てん と衝突 しょうとつ したため、両 りょう 店 みせ において、苛烈 かれつ な価格 かかく 競争 きょうそう や消耗 しょうもう 戦 せん といった「戦争 せんそう 」を引 ひ き起 お こした[ 16] 。
更 さら にイチケンやリクルート (現 げん ・リクルートホールディングス)、忠実屋 ちゅうじつや 、ユニード などを買収 ばいしゅう (その後 ご 1994年 ねん に忠実屋 ちゅうじつや ・ユニード・ダイナハを合併 がっぺい )、1981年 ねん には髙島屋 や の株式 かぶしき を10.7%取得 しゅとく した。グループ内 ない にデパートを欲 ほっ していた中内 なかうち は高島屋 たかしまや との提携 ていけい を求 もと めるが、ダイエーによる乗 の っ取 と りを警戒 けいかい した高島屋 たかしまや 側 がわ の白紙 はくし 撤回 てっかい により失敗 しっぱい する。ミシンの割賦 かっぷ 販売 はんばい で実績 じっせき のあったリッカー の再建 さいけん を引 ひ き受 う け、その割賦 かっぷ 販売 はんばい のノウハウを子会社 こがいしゃ のダイエーファイナンス(現 げん ・セディナ )に導入 どうにゅう した。
一 いち 兆 ちょう 円 えん 達成 たっせい から3年 ねん 後 ご の1983年 ねん から三 さん 期 き 連続 れんぞく で連結 れんけつ 赤字 あかじ を出 だ したが、ヤマハ の社長 しゃちょう であった河島 かわしま 博 ひろし を総 そう 指揮 しき 官 かん とし、業績 ぎょうせき をV字 じ に回復 かいふく させる通称 つうしょう 「V革 かわ 」を行 おこな った。
1988年 ねん にはパシフィック・リーグ の南海 なんかい ホークスを南海電気鉄道 なんかいでんきてつどう から買収 ばいしゅう してプロ野球 やきゅう 業界 ぎょうかい へも参入 さんにゅう し、福岡 ふくおか ダイエーホークス を発足 ほっそく 。さらに東京 とうきょう ドーム を凌 しの ぐ大 おお きさである福岡 ふくおか ドーム の建設 けんせつ に着手 ちゃくしゅ するなど、バブル景気 けいき に乗 の ってグループを急 きゅう 拡大 かくだい させた。中内 なかうち は、タッチアップ など野球 やきゅう の基本 きほん 的 てき なルールすら知 し らなかったが、ホークスについてよく知 し るためホークスを扱 あつか った漫画 まんが 『あぶさん 』の作者 さくしゃ ・水島 みずしま 新司 しんじ と対談 たいだん した。
1988年 ねん 4月 がつ には神戸 こうべ ・学園 がくえん 都市 とし に流通科学大学 りゅうつうかがくだいがく を開 ひらけ 学 がく 。大学 だいがく 職員 しょくいん は全員 ぜんいん 当時 とうじ のダイエーから出向 しゅっこう させ、同時 どうじ に理事 りじ 長 ちょう に就任 しゅうにん した。同年 どうねん 9月 がつ には自 みずか らの故郷 こきょう ・神戸 こうべ の玄関 げんかん 口 こう である新 しん 神戸 こうべ 駅 えき 前 まえ に、ホテル・劇場 げきじょう ・専門 せんもん 店 てん 街 がい が一体 いったい となった商業 しょうぎょう 施設 しせつ 新 しん 神戸 こうべ オリエンタルシティ を誕生 たんじょう させた。また、1991年 ねん には経団連 けいだんれん 副 ふく 会長 かいちょう に抜擢 ばってき 。それまで財界 ざいかい においては重工業 じゅうこうぎょう や銀行 ぎんこう などに比 くら べて格下 かくした と見 み られていた流通 りゅうつう 業 ぎょう から初 はじ めて抜擢 ばってき されるなど、名実 めいじつ 共 ども に業界 ぎょうかい をリードする存在 そんざい となった。
1990年代 ねんだい 後半 こうはん にはバブル崩壊 ほうかい により地価 ちか の下落 げらく がはじまり、地価 ちか 上昇 じょうしょう を前提 ぜんてい として店舗 てんぽ 展開 てんかい をしていたダイエーの経営 けいえい に翳 かげ りが見 み え始 はじ めた。また、店舗 てんぽ の立地 りっち が時代 じだい に合 あ わなくなり、展開 てんかい していたアメリカ型 がた ディスカウントストア の「ハイパーマート 」の経営 けいえい に失敗 しっぱい 。また当時 とうじ の消費 しょうひ 者 しゃ の意識 いしき が「価格 かかく 」から「品質 ひんしつ 」に変 か わり、更 さら には家電 かでん 量販 りょうはん 店 てん や衣料 いりょう 品 ひん 店 てん などの専門 せんもん 店 てん が拡大 かくだい し多 た 店舗 てんぽ 化 か を始 はじ めていったことなどから、業績 ぎょうせき は低迷 ていめい 。当時 とうじ の世間 せけん からは「ダイエーに行 い けば何 なん でも売 う っている。でも、欲 ほ しいものは何 なに も売 う っていない」と揶揄 やゆ させるようになった。中内 なかうち 自身 じしん も晩年 ばんねん 、「消費 しょうひ 者 しゃ が見 まみ えんようになった」と嘆 なげ くこともあった。
ダイエー創業 そうぎょう 者 しゃ の中内 なかうち 功 いさお 氏 し は「私 わたし とコンピューターとパートがいればいい」と語 かた り、社員 しゃいん をグループ企業 きぎょう に大量 たいりょう 出向 しゅっこう させたことがある。人心 じんしん は離 はな れ、本体 ほんたい の業績 ぎょうせき は傾 かたむ いた。8時 じ 間 あいだ 労働 ろうどう のパートの勤務 きんむ 体系 たいけい を休憩 きゅうけい (1時 じ 間 あいだ )の必要 ひつよう のない4時 じ 間 あいだ 刻 きざ みにすると、長 なが く働 はたら きたい優秀 ゆうしゅう なパートは同社 どうしゃ を去 さ り業績 ぎょうせき は一段 いちだん と悪化 あっか した。
1995年 ねん 1月 がつ 17日 にち 5時 じ 46分 ふん に阪神 はんしん ・淡路 あわじ 大震災 だいしんさい が発生 はっせい 。起床 きしょう 後 ご に東京 とうきょう ・田園調布 でんえんちょうふ の自宅 じたく で知 し った中内 なかうち は、ただちに同 おな じ敷地 しきち で寝 ね ていた中内 なかうち 潤 じゅん をたたき起 お こして浜松 はままつ 町 まち のオフィスセンターに災害 さいがい 対策 たいさく 本部 ほんぶ を設置 せっち 。物資 ぶっし を被災 ひさい 地 ち に送 おく るよう陣頭 じんとう 指揮 しき をとり、首都 しゅと 圏 けん や九州 きゅうしゅう などからフェリーやヘリを投入 とうにゅう して食料 しょくりょう 品 ひん や生活 せいかつ 用品 ようひん を調達 ちょうたつ したり、比較的 ひかくてき 被害 ひがい の少 すく ない兵庫 ひょうご 県内 けんない の24店舗 てんぽ に店 みせ を開 あ けるよう厳命 げんめい したことで、一部 いちぶ で見 み られた便乗 びんじょう 値上 ねあ げ に対 たい し、物価 ぶっか の安定 あんてい に貢献 こうけん した[ 16] 。これらの決定 けってい は地震 じしん 発生 はっせい から約 やく 2時 じ 間 あいだ 後 ご かつ政府 せいふ が対策 たいさく 本部 ほんぶ 設置 せっち を決定 けってい する約 やく 2時 じ 間 あいだ 前 まえ の8時 じ までに全 すべ て決定 けってい しており、11時 じ には専務 せんむ 取締役 とりしまりやく の川 かわ 一 いち 男 なん を始 はじ めとする現地 げんち 対策 たいさく メンバーと救援 きゅうえん 物資 ぶっし が新木場 しんきば のヘリポートから神戸 こうべ のポートアイランド に急行 きゅうこう している[ 16] 。一方 いっぽう で、神戸 こうべ にあったダイエー7店舗 てんぽ のうち、半数 はんすう 以上 いじょう の4店舗 てんぽ が全壊 ぜんかい 、コンビニのローソンを始 はじ めとするダイエー系列 けいれつ 店 てん 約 やく 100店舗 てんぽ が被災 ひさい するなど、ダイエーグループの金銭 きんせん 的 てき 被害 ひがい は甚大 じんだい で、ダイエーの凋落 ちょうらく に拍車 はくしゃ をかけることとなった。ダイエーの正社員 せいしゃいん も、この震災 しんさい により判明 はんめい しただけで30名 めい 以上 いじょう が犠牲 ぎせい になった。
「スーパーはライフラインである」という哲学 てつがく により、地震 じしん 発生 はっせい 3日 にち 後 ご には自 みずか らも被災 ひさい 地 ち に乗 の り込 こ み、自前 じまえ のネットワークを駆使 くし して必要 ひつよう な物資 ぶっし の輸送 ゆそう を行 おこな い、営業 えいぎょう 時間 じかん の延長 えんちょう や被災 ひさい した店舗 てんぽ 前 まえ での物販 ぶっぱん 販売 はんばい などを特例 とくれい 的 てき に行政 ぎょうせい 当局 とうきょく に認 みと めさせ、被災 ひさい 地 ち への迅速 じんそく な物資 ぶっし の供給 きょうきゅう ・販売 はんばい を実施 じっし した。
「店 みせ の明 あ かりをつければ、それだけで被災 ひさい 者 しゃ たちは力 ちから が出 で る」「暗闇 くらやみ は人 ひと を絶望 ぜつぼう させる」「被災 ひさい 者 しゃ のために明 あ かりを消 け すな。客 きゃく が来 く る限 かぎ り店 みせ を開 あ け続 つづ けろ。流通 りゅうつう 業 ぎょう はライフラインや」の号令 ごうれい の元 もと 、電力 でんりょく 供給 きょうきゅう が出来 でき ているダイエーやローソンなどのダイエーグループ各店 かくてん の照明 しょうめい を24時 じ 間 あいだ 点灯 てんとう し続 つづ け、苦 くる しむ被災 ひさい 者 しゃ を勇気 ゆうき づけた[ 16] 。この中内 なかうち の哲学 てつがく は、イオン傘下 さんか となって以降 いこう のダイエーにも例外 れいがい なく引 ひ き継 つ がれており、2011年 ねん に東日本 ひがしにっぽん 大震災 だいしんさい が発生 はっせい した時 とき も、東京 とうきょう のダイエー本社 ほんしゃ (東京 とうきょう 都 と 江東 こうとう 区 く )がただちに対策 たいさく 本部 ほんぶ を設置 せっち 、東北 とうほく の被災 ひさい 地 ち に所在 しょざい するダイエー仙台 せんだい 店 みせ も迅速 じんそく に営業 えいぎょう を再開 さいかい させ、復興 ふっこう に貢献 こうけん した。
2001年 ねん 、経営 けいえい 悪化 あっか の責任 せきにん を取 と り、「時代 じだい が変 か わった」としてダイエーの代表 だいひょう 取締役 とりしまりやく を退任 たいにん 。中内 なかうち が退任 たいにん 表明 ひょうめい を行 おこな った同年 どうねん の株主 かぶぬし 総会 そうかい では、厳 きび しい質問 しつもん が続 つづ き、2時 じ 間 あいだ 36分 ふん と長時間 ちょうじかん に渡 わた って大 だい 荒 あ れとなった。中内 なかうち は過 あやま ちを認 みと め株主 かぶぬし に謝罪 しゃざい して、総会 そうかい 中 ちゅう に壇上 だんじょう を降 お りたが、株主 かぶぬし から「議長 ぎちょう 、中内 なかうち さんがあんまり寂 さび しすぎる!拍手 はくしゅ で送 おく ってあげたい」との声 こえ があがって再 さい 登壇 とうだん し、中内 なかうち に満場 まんじょう の拍手 はくしゅ が鳴 な り止 や まなかった。同日 どうじつ 午後 ごご には、退任 たいにん する中内 なかうち と新 しん 経営 けいえい 陣 じん の高木 たかぎ 邦夫 くにお がそろって記者 きしゃ 会見 かいけん を開 ひら き、中内 なかうち は完全 かんぜん に経営 けいえい から退 しりぞ くことを表明 ひょうめい 。2002年 ねん にはプランタン銀座 ぎんざ の最高 さいこう 顧問 こもん 職 しょく 、リクルート の名誉 めいよ 会長 かいちょう も辞 じ し、実業 じつぎょう 家 か としての活動 かつどう を終 お えた。
その後 ご は、自身 じしん が私財 しざい を投 とう じて設立 せつりつ した流通科学大学 りゅうつうかがくだいがく を運営 うんえい する学校 がっこう 法人 ほうじん 中内 なかうち 学園 がくえん の学園 がくえん 長 ちょう として教育 きょういく 活動 かつどう に専念 せんねん 。2000年 ねん に流通科学大学 りゅうつうかがくだいがく は、職員 しょくいん がダイエーからの出向 しゅっこう から大 だい 学籍 がくせき になった。新 しん 神戸 こうべ オリエンタルシティも2004年 ねん に売却 ばいきゃく されダイエーの手 て から離 はな れた。以降 いこう も、個人 こじん の資産 しさん 管理 かんり 会社 かいしゃ などを含 ふく む中内 なかうち 家 か はダイエーグループの株式 かぶしき を保有 ほゆう し続 つづ け、ダイエーグループの主要 しゅよう 株主 かぶぬし であった。顧問 こもん 弁護士 べんごし だった河合 かわい 弘之 ひろゆき は、中内 なかうち はオーナー社長 しゃちょう であることにこだわり、自分 じぶん の会社 かいしゃ の株 かぶ を最低 さいてい 5%持 も つのが経営 けいえい 哲学 てつがく だったと証言 しょうげん している。
2004年 ねん 12月、中内 なかうち 家 か の資産 しさん 管理 かんり 会社 かいしゃ 3社 しゃ (マルナカ興産 こうさん など)の特別 とくべつ 清算 せいさん を開始 かいし 。芦屋 あしや と田園調布 でんえんちょうふ にあった邸宅 ていたく や、所持 しょじ する全 ぜん 株式 かぶしき を売却 ばいきゃく 処分 しょぶん し、私財 しざい からダイエー関連 かんれん 資産 しさん を一掃 いっそう したことで、名実 めいじつ ともにダイエーと決別 けつべつ した。
中内 なかうち は1960年代 ねんだい に住友銀行 すみともぎんこう から融資 ゆうし を受 う けた際 さい 、借 か り入 い れを個人 こじん 保証 ほしょう にしていたため、グループで3兆 ちょう 円 えん ほどにのぼる負債 ふさい のすべてを個人 こじん で負 お う羽目 はめ になり、株式 かぶしき や不動産 ふどうさん などすべての個人 こじん 財産 ざいさん をゼロにしなければならない事態 じたい に陥 おちい ってしまった。しかし、当時 とうじ 三井住友銀行 みついすみともぎんこう 頭取 とうどり だった西川 にしかわ 善文 よしふみ は、すべてを取 と り上 あ げるのはさすがに無慈悲 むじひ として、マンションの一室 いっしつ を特別 とくべつ に残 のこ した。
2005年 ねん 8月 がつ 26日 にち 、流通科学大学 りゅうつうかがくだいがく を視察 しさつ 後 ご 、神戸 こうべ 市内 しない の病院 びょういん で定期 ていき 健診 けんしん 中 ちゅう に脳 のう 梗塞 こうそく で倒 たお れ、療養 りょうよう 中 ちゅう の9月 がつ 19日 にち 午前 ごぜん 9時 じ 30分 ふん 、転院 てんいん 先 さき の神戸 こうべ 市 し 中央 ちゅうおう 区 く の神戸 こうべ 市立 しりつ 中央 ちゅうおう 市民 しみん 病院 びょういん において死去 しきょ 。83歳 さい 没 ぼつ [ 1] 。
逝去 せいきょ した際 さい 、田園調布 でんえんちょうふ の自宅 じたく ・芦屋 あしや の別宅 べったく が差押 さしおさえ となっていたため、一 いち 度 ど も中内 なかうち の亡骸 なきがら を自宅 じたく へ戻 もど すことができず、大阪 おおさか 市 し 此花 このはな 区 く の中内 なかうち 家 か が眠 ねむ る正蓮寺 しょうれんじ にそのまま搬送 はんそう され、ごく近親 きんしん 者 しゃ だけでの密葬 みっそう となった。本 ほん 葬儀 そうぎ は流通科学大学 りゅうつうかがくだいがく の学園 がくえん 葬 そう として行 おこな われ、林 はやし 文子 ふみこ 会長 かいちょう ら当時 とうじ のダイエー経営 けいえい 陣 じん は参列 さんれつ したが、ダイエー本社 ほんしゃ としては、産業 さんぎょう 再生 さいせい 機構 きこう 入 い りし経営 けいえい 再建 さいけん 中 ちゅう であることもあり、社葬 しゃそう を行 おこな わなかった。
しかし、日本 にっぽん の流通 りゅうつう 業 ぎょう に多大 ただい な貢献 こうけん を残 のこ した中内 なかうち に対 たい し、社葬 しゃそう もお別 わか れの会 かい も行 おこな われないのはあまりに忍 しの びないとして、イト いと ーヨ よ ーカ堂 かどう 創業 そうぎょう 者 しゃ の伊藤 いとう 雅俊 まさとし 、イオン 創業 そうぎょう 者 しゃ の岡田 おかだ 卓也 たくや 、日本 にっぽん におけるスーパーマーケットの育 そだ ての親 おや でもあった渥美 あつみ 俊一 しゅんいち 、自身 じしん も立 た ち上 あ げに携 たずさ わった日本 にっぽん チェーンストア協会 きょうかい など、中内 なかうち と共 とも に戦後 せんご における流通 りゅうつう 業界 ぎょうかい の黎明 れいめい 期 き を築 きず いた小売 こうり ・流通 りゅうつう 業 ぎょう 関係 かんけい 者 しゃ らが発起人 ほっきにん となって、同年 どうねん 12月 がつ 5日 にち にホテルニューオータニ にて「お別 わか れ会 かい 」が開 ひら かれ、約 やく 2,300人 にん が献花 けんか に訪 おとず れた。安倍晋三 あべしんぞう 、二 に 階 かい 俊博 としひろ 、小池 こいけ 百合子 ゆりこ 、小沢 おざわ 一郎 いちろう 、冬 ふゆ 柴 しば 鐵三 てつぞう 、神崎 かんざき 武法 たけのり などの政治 せいじ 家 か も参列 さんれつ した。
逝去 せいきょ 7日 にち 後 ご の9月 がつ 27日 にち には、ダイエーホークスの後身 こうしん である福岡 ふくおか ソフトバンクホークスと、対戦 たいせん 相手 あいて であった東北 とうほく 楽天 らくてん ゴールデンイーグルス の選手 せんしゅ ・関係 かんけい 者 しゃ が福岡 ふくおか ドームでのプレー前 まえ にファン・観戦 かんせん 者 しゃ と共 とも に感謝 かんしゃ と哀悼 あいとう の意 い を込 こ め、1分間 ふんかん の黙祷 もくとう を行 おこな った。当日 とうじつ の試合 しあい ではホークスが勝利 しょうり した。なお、中内 なかうち の死去 しきょ に関 かん して福岡 ふくおか ドームの電光 でんこう 掲示板 けいじばん には「ありがとう!!中内 なかうち 功 いさお さん 福岡 ふくおか はあなたを忘 わす れません 安 やす らかにおやすみください」と追悼 ついとう 文 ぶん が表示 ひょうじ された。
神戸 こうべ 高等 こうとう 商業 しょうぎょう 高校 こうこう 在学 ざいがく 時 じ は目立 めだ たない性格 せいかく で、俳句 はいく の同好 どうこう 会 かい に所属 しょぞく していた。戦後 せんご 、商売 しょうばい を始 はじ め出 だ してからは、同級生 どうきゅうせい を捕 つか まえては「ゼニ貸 か してくれるとこ知 し らんか」とすごい目 め つきで聞 き いてまわったので、友人 ゆうじん たちは人間 にんげん が変 か わったと驚 おどろ いた。
新婚 しんこん 旅行 りょこう 先 さき の宿 やど から電話 でんわ で薬 くすり の取引 とりひき をするなど、家庭 かてい よりも仕事 しごと を優先 ゆうせん した一方 いっぽう で、かなりの家族 かぞく 思 おも いで、部下 ぶか に愛娘 まなむすめ のことを話 はな した時 とき 「忙 いそが しいて全然 ぜんぜん 構 かま ってあげへんかったなあ」と涙 なみだ を流 なが した。
怒 おこ ると手 て がつけられないほどであったが、反面 はんめん 大変 たいへん 人情 にんじょう 深 ふか い面 めん も持 も ちあわせ、社長 しゃちょう でありながら、自 みずか らも大晦日 おおみそか 深夜 しんや まで売 う り場 ば に立 た ち続 つづ けた。部下 ぶか から早 はや く帰 かえ るよう促 うなが された時 とき に、売 う り場 ば の女子 じょし 店員 てんいん を指差 ゆびさ して「あの子 こ たちは正月 しょうがつ の用意 ようい もしないで頑張 がんば っているのにわしが帰 かえ れるもんか。」と断 ことわ ったり、部下 ぶか が億 おく 単位 たんい の損失 そんしつ をした時 とき は叱 しか るどころか、「そうか。お前 まえ 、ええ勉強 べんきょう したなあ。これから気 き をつけろ。」とやさしく励 はげ まして相手 あいて を感激 かんげき させた。
座右 ざゆう の銘 めい は「ネアカ、のびのび、へこたれず」(元 もと は三井物産 みついぶっさん 社長 しゃちょう であった八尋 やひろ 俊邦 としくに の言葉 ことば )。この座右 ざゆう の銘 めい は、自身 じしん が設立 せつりつ した流通科学大学 りゅうつうかがくだいがく の校歌 こうか の歌詞 かし にも「ネアカでのびのび、へこたれないよ」という歌詞 かし で使用 しよう されている。
起床 きしょう した直後 ちょくご にその日 ひ の売 う り上 あ げに大 おお きく影響 えいきょう する天気 てんき 予報 よほう を朝 あさ 一 いち 番 ばん にテレビのニュース番組 ばんぐみ で見 み るのを創業 そうぎょう 以来 いらい の日課 にっか としていた。そのため、前述 ぜんじゅつ の阪神 はんしん ・淡路 あわじ 大震災 だいしんさい も、発 はつ 災 わざわい 直後 ちょくご にこのことを報 ほう じたNHKニュース でいち早 はや く接 せっ し、迅速 じんそく に対応 たいおう することが出来 でき た[ 16] 。
晩年 ばんねん は謙虚 けんきょ な好人物 こうじんぶつ となり、林 はやし 文子 ふみこ CEOによるダイエーの新 しん 方針 ほうしん を評価 ひょうか したり、堀江 ほりえ 貴文 たかふみ を見 み て「若 わか いもんは元気 げんき があってええなあ。」と漏 も らした。
亡 な くなる前年 ぜんねん の2004年 ねん 7月 がつ に、81歳 さい で自動車 じどうしゃ の運転 うんてん 免許 めんきょ を取得 しゅとく したときは、いかにも得意気 とくいげ に知人 ちじん に運転 うんてん 免許 めんきょ 証 しょう を見 み せびらかし、いずれは北 きた アメリカ大陸 あめりかたいりく のハイウェイを走 はし りたいと言 い っていた。ただ、高齢 こうれい なのでなかなか運転 うんてん させてもらえず、業 ごう を煮 に やした中内 なかうち はタクシー を捕 つか まえ「金 かね 払 はら うさかい、かわりに運転 うんてん させろ」と運転 うんてん 手 しゅ に迫 せま ったという。
新 しん 神戸 こうべ オリエンタルシティに現存 げんそん する石板 せきばん
現在 げんざい も、新 しん 神戸 こうべ オリエンタルシティ の建物 たてもの の一角 いっかく に取 と り付 つ けられている石板 せきばん には、直筆 じきひつ で次 つぎ の言葉 ことば が刻 きざ まれている。
よい品 しな を どんどん 安 やす く より豊 ゆた かな 社會 しゃかい を 一 いち 九 きゅう 八 はち 八 はち 年 ねん 中内 なかうち 㓛
右 みぎ 胸 むね に心臓 しんぞう があるために戦争 せんそう で最前線 さいぜんせん に送 おく られることになった中内 なかうち だが、のちに心臓 しんぞう だけでなく全 すべ ての内臓 ないぞう が逆 ぎゃく になっている内臓 ないぞう 逆 ぎゃく 位 い と判明 はんめい している[ 4] 。
ダイエー創業 そうぎょう に至 いた る中内 なかうち の生涯 しょうがい は、静岡 しずおか 県 けん の民宿 みんしゅく 「丸山 まるやま 」の創業 そうぎょう 者 しゃ 、丸山 まるやま 静江 しずえ やヤオハン の創業 そうぎょう 者 しゃ である和田 わだ カツ とともに、連続 れんぞく テレビ小説 しょうせつ 「おしん 」の主人公 しゅじんこう のモデルの1人 ひとり となったと言 い われている[ 19] 。
ダイエーホークスのオーナーであったことから、水島 みずしま 新司 しんじ の野球 やきゅう 漫画 まんが であるあぶさん やドカベン プロ野球 やきゅう 編 へん に中内 なかうち 正 ただし と共 とも に登場 とうじょう している。背番号 せばんごう は130(名前 なまえ の㓛 から)
頼 たの まれたら受 う け入 い れる性格 せいかく で、浅草 あさくさ のおかみさん会 かい に頼 たの まれ、しょんべん横丁 よこちょう に出 だ した店 みせ がビッグボーイ である。また、江副 えぞえ 浩正 ひろまさ に頼 たの まれリクルート 株 かぶ を引 ひ き受 う けた。
「日用 にちよう の生活 せいかつ 必需 ひつじゅ 品 ひん を最低 さいてい の値段 ねだん で消費 しょうひ 者 しゃ に提供 ていきょう するために、商人 しょうにん が精魂 せいこん を傾 かたむ けて努力 どりょく し、その努力 どりょく の合理 ごうり 性 せい が商品 しょうひん の売価 ばいか を最低 さいてい にできたという事 こと が何 なん で悪 わる いのであらうか?」(1960年 ねん 、当時 とうじ のダイエー三宮 さんぐう 店 てん の事務所 じむしょ に掲出 けいしゅつ した、取引 とりひき 先 さき に対 たい するメッセージ/原文 げんぶん ままのため歴史 れきし 的 てき 仮名遣 かなづかい である)[ 20]
「三 みっ つのどれをやっとっても、金 きむ は儲 もう かったと思 おも うね。パチンコ 王 おう とか、ソープランド 王 おう とか、サラ金 さらきん 王 おう になっていただろう。しかし、僕 ぼく はいちばん儲 もう からんスーパーを選 えら んだ。心 しん がまったく動 うご かなかったと言 い えばウソになるが、でも、それではあまりにロマンがないやろ。それと、死 し んだ戦友 せんゆう に対 たい して、なにか後 うし ろめたさがあってね。」(大塚 おおつか 英樹 ひでき 『流通 りゅうつう 王 おう 中内 なかうち 功 いさお とは何者 なにもの だったのか』 講談社 こうだんしゃ 2007年 ねん より)
「この資源 しげん のない国 くに で、世界一 せかいいち 豊 ゆた かな暮 く らしを提供 ていきょう するためには、もっと使命 しめい 感 かん に燃 も えた人 ひと が必要 ひつよう だ」
「我々 われわれ はダイエーでしかできないことを、この国 くに が本当 ほんとう に豊 ゆた かさを実現 じつげん するために、あえてリスクを冒 おか しても実行 じっこう していかなくてはならない」
「馬鹿 ばか と天才 てんさい とは、この世 よ に存在 そんざい することはまれである。全 すべ てが我々 われわれ 凡人 ぼんじん の世界 せかい である。その中 なか で半 はん 歩 ほ 前 まえ に踏 ふ み出 だ すことのできる勇気 ゆうき を持 も つ事 こと が大切 たいせつ である。」
「売 う り上 あ げだけが日本一 にっぽんいち というのではあまり意味 いみ がない。それは手段 しゅだん であって本当 ほんとう の目的 もくてき はそれを通 とお して新 あたら しいシステムを作 つく ることだ。」
「時代 じだい の流 なが れから言 い って、かつてのような需要 じゅよう 過剰 かじょう 、売 う り手 て 市場 いちば の時代 じだい は二度 にど と来 こ ないと思 おも います。景気 けいき は今 いま 、デフレ局面 きょくめん にあると言 い われていますが、これからは供給 きょうきゅう 過剰 かじょう 、買 か い手 て 市場 いちば が常態 じょうたい になる。そのような中 なか で企業 きぎょう が存続 そんぞく していくには、買 か い手 て 市場 いちば を前提 ぜんてい とした新 あたら しいシステムを構築 こうちく して、徹底的 てっていてき に消費 しょうひ 者 しゃ の理論 りろん に立 た って経営 けいえい を推 お し進 すす めていく以外 いがい にはありません。」
「もはや手本 てほん はない。いまこそ主体 しゅたい 的 てき に変革 へんかく を実行 じっこう していくときである。企業 きぎょう 家 か 精神 せいしん を大 おお いに発揮 はっき し、痛 いた みを伴 ともな いながらも、創造 そうぞう 的 てき で活力 かつりょく のある新 しん 時代 じだい を切 き り開 ひら いていく。それが日本 にっぽん 経済 けいざい を再生 さいせい し、透明 とうめい 度 ど の高 たか い経済 けいざい 社会 しゃかい を作 つく ることになる。」
「こいつはなかなか眼力 がんりき ある。刑期 けいき 終 お えて娑婆 しゃば に出 で たらうちに来 き てもらお。」(自宅 じたく が盗難 とうなん に遭 あ い、値 ね の張 は る名画 めいが ばかり盗 ぬす まれた時 とき の言葉 ことば )
「消費 しょうひ 者 しゃ 以外 いがい に頭 あたま を下 さ げるのは嫌 いや だ。」
「日本 にっぽん は全然 ぜんぜん 豊 ゆた かじゃないですよ。たしかに家庭 かてい 用 よう 電気 でんき 製品 せいひん とかはいっぱい部屋 へや にあるけれど、本当 ほんとう に生活 せいかつ をエンジョイするような時間 じかん 的 てき 、空間 くうかん 的 てき なゆとりがあるだろうか?日本人 にっぽんじん は何 なに か後 うし ろから追 お いかけられているような感 かん じで、周囲 しゅうい が気 き になり自分 じぶん 自身 じしん を見失 みうしな っています。」
「売上 うりあ げはすべてを癒 いや す」
「消費 しょうひ 者 しゃ のためなら、どんなことでもするつもりやが、死 し んだおやじに対 たい しては親不孝 おやふこう な息子 むすこ だったと思 おも う」
「借金 しゃっきん と元気 げんき だけはあるんやで。」
「松下 まつした (幸之助 こうのすけ )さんを経営 けいえい 者 しゃ として非常 ひじょう に尊敬 そんけい している。しかし価格 かかく 決定 けってい 権 けん に対 たい する考 かんが え方 かた や、お客様 きゃくさま の利益 りえき についての考 かんが え方 かた は、私 わたし とは根本 こんぽん 的 てき に違 ちが っている」
「国 くに には絶望 ぜつぼう した。何 なん でこんな国 こく に高 たか い税金 ぜいきん を払 はら いつづけていたんやろうかと思 おも うと、あらためてむかっ腹 ぱら がたった。」(阪神 はんしん ・淡路 あわじ 大震災 だいしんさい 時 じ の政府 せいふ の初期 しょき 対応 たいおう の遅 おそ さについて)
「あの頃 ころ は若 わか かった。青雲 せいうん の志 こころざし や坂 さか の上 うえ の雲 くも はもうなくなってしまった。」(1998年 ねん 、日本 にっぽん チェーンストア協会 きょうかい 会長 かいちょう に31年 ねん ぶりに再 さい 就任 しゅうにん した時 とき の記者 きしゃ 団 だん の質問 しつもん に対 たい して)
「これまでの人生 じんせい で楽 たの しいことは何 なに もありませんでした。」(1999年 ねん 、1月 がつ 、会長 かいちょう に退 しりぞ いた時 とき に、人生 じんせい を振 ふ り返 かえ っての問 と いに対 たい して)