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五街道 - Wikipedia

街道かいどう

江戸えど時代じだい江戸えど日本橋にほんばし起点きてんとするいつつの陸上りくじょう交通こうつう

街道かいどう(ごかいどう)は、江戸えど時代じだい江戸えど日本橋にほんばし起点きてんびる東海道とうかいどう中山道なかせんどう日光にっこう道中どうちゅう奥州おうしゅう道中どうちゅう甲州こうしゅう道中どうちゅういつつをした陸上りくじょう幹線かんせんどうである。1601ねん慶長けいちょう6ねん)に徳川とくがわ家康いえやす全国ぜんこく支配しはいのために江戸えど各地かくちむす以下いかの5つの街道かいどう整備せいびはじめ、2だい将軍しょうぐん秀忠ひでただだいになって基幹きかん街道かいどうさだめられた。

江戸えどからびる街道かいどう街道かいどう

街道かいどう(ごかいどう)

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街道かいどう地図ちず

1601ねん慶長けいちょう6ねん)、関ヶ原せきがはらたたか覇権はけんにぎった徳川とくがわ家康いえやすは、政治せいじ支配しはいりょくつよめるために、道路どうろ制度せいど改革かいかく整備せいびし、朱印しゅいんじょうによってかく宿場しゅくば伝馬てんま常備じょうび義務付ぎむづけ、道幅みちはばひろげて宿場しゅくば整備せいびし、一里塚いちりづかもうけるなどの街道かいどう整備せいび着々ちゃくちゃくすすめ、砂利じゃりすないて路面ろめんかためたり、松並まつなみえるなどがおこなわれた[1]

街道かいどうとしてさだめられたのは、徳川とくがわ幕府ばくふ江戸えど幕府ばくふ)2だい将軍しょうぐん秀忠ひでただだいになってからのことで、1604ねん慶長けいちょう9ねん)に日本橋にほんばし街道かいどう起点きてんとしてさだ[2]幕府ばくふ安泰あんたいのために江戸えど防衛ぼうえいすることを目的もくてきとして、街道かいどう要所ようしょ関所せきしょいて通行人つうこうにんまった[1]秀忠ひでただは、政治せいじてき軍事ぐんじてき重要じゅうよう街道かいどう幕府ばくふ直轄ちょっかつとし、いちやく4 km)ごとに一里塚いちりづかきずいて、街道かいどう沿いに並木なみきえることをめいじた[3]街道かいどうは、東海道とうかいどう日光にっこう街道かいどう日光にっこう道中どうちゅう)、奥州おうしゅう街道かいどう奥州おうしゅう道中どうちゅう)、中山道なかせんどう甲州こうしゅう街道かいどう甲州こうしゅう道中どうちゅう)のじゅん整備せいびされた。1659ねん万治まんじ2ねん以降いこうあらたに設置せっちされた道中どうちゅう奉行ぶぎょう管轄かんかつかれた。街道かいどう正式せいしき名称めいしょうさだめられたのは1716ねんとおる元年がんねん)である[よう出典しゅってん]

南北なんぼくけられた日本橋にほんばしからはみなみへ、東海道とうかいどう甲州こうしゅう街道かいどう重複じゅうふくし、現在げんざい警視庁けいしちょうぜん桜田門さくらだもん交差点こうさてんからかれた[4]日本橋にほんばしからきたへは、奥州おうしゅう街道かいどう日光にっこう街道かいどう中山道なかせんどう重複じゅうふくしてびて、浅草橋あさくさばし奥州おうしゅう日光にっこう街道かいどう中山道なかせんどうとにかれた[4]奥州おうしゅう街道かいどう日光にっこう街道かいどう分岐ぶんきてんはさらにとおきたにあり、宇都宮うつのみやかれた[4]街道かいどうだいいち宿場しゅくばである品川しながわ宿やど内藤ないとう新宿しんじゅく板橋いたばし宿やど千住せんじゅ宿やど日本橋にほんばしから2やく8 km)以内いないところにあり、「江戸えどよん宿しゅく(えどしじゅく)」とよばれ江戸えど玄関げんかんこうとなった[5]

東海道とうかいどう(東海道とうかいどうじゅうさん)
1624ねん寛永かんえい元年がんねん完成かんせい江戸えど日本橋にほんばしから小田原おだわら駿府すんぷ浜松はままつみや桑名くわな草津くさつて、京都きょうと三条さんじょう大橋おおはしまでのじゅうさんやく500 km)。江戸えど幕府ばくふのある江戸えどからみかど京都きょうとまでの始点してんから終点しゅうてんまでのじゅう地点ちてんむすみち延長えんちょうにあたる京街道きょうかいどう (大坂おおさか街道かいどう)の4宿しゅくくわえて、じゅうななともいう[6]
日光にっこう街道かいどう日光にっこう道中どうちゅう
1636ねん寛永かんえい13ねんごろ完成かんせい日本橋にほんばしから、千住せんじゅ宇都宮うつのみや今市いまいちて、日光にっこうまでのじゅういち[6]
奥州おうしゅう街道かいどう奥州おうしゅう道中どうちゅう
1646ねん正保まさやす3ねん完成かんせい日本橋にほんばしから宇都宮うつのみやまで日光にっこう街道かいどう重複じゅうふく区間くかん)をて、宇都宮うつのみやより陸奥みちのく白河しらかわまでのじゅうなな[6]日本橋にほんばしから宇都宮うつのみやまでの17宿しゅく日光にっこう街道かいどう重複じゅうふくする。函館はこだていた延長えんちょうあり。
中山道なかせんどう(中山道なかせんどうろくじゅうきゅう)
1694ねん元禄げんろく7ねん完成かんせい中仙道なかせんどうとも表記ひょうきする。江戸えど幕府ばくふのある日本橋にほんばしから高崎たかさき下諏訪しもすわ木曽きそつまかごて、草津くさつまでのろくじゅうなな草津くさつ大津おおつの2宿しゅくくわえてみかど京都きょうとまでのろくじゅうきゅうともいう[6]
甲州こうしゅう街道かいどう甲州こうしゅう道中どうちゅう
1772ねん明和めいわ9ねん完成かんせい日本橋にほんばしから、内藤ないとう新宿しんじゅく八王子はちおうじ甲府こうふて、下諏訪しもすわ中山道なかせんどう合流ごうりゅうするよんじゅうさん[6]

江戸えど時代じだい東海道とうかいどう日光にっこう街道かいどう奥州おうしゅう街道かいどう中山道なかせんどう甲州こうしゅう街道かいどうわせた街道かいどうそう延長えんちょうは、幕末ばくまつ街道かいどう実態じったい調査ちょうさ資料しりょうである『宿やどむら大概たいがいちょう』の集計しゅうけいから379さと27まち31あいだ(1493.5キロメートル)あったとされる[7]

宿駅しゅくえき制度せいど

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中山道なかせんどう奈良井ならい宿やど長野ながのけん塩尻しおじり

東海道とうかいどうをはじめとする街道かいどうのすべてには、適当てきとう間隔かんかく宿場しゅくばいて、かく宿場しゅくば人足ひとあし荷駄にだよううま伝馬てんま)を一定いっていすう常備じょうびし、幕府ばくふ公用こうよう役人やくにん荷物にもつ運搬うんぱんにあたらせた。かく宿場しゅくばには、幕府ばくふから幕府ばくふ公用こうようのための人馬じんば提供ていきょうめいじられたが、その見返みかえりとして宿場しゅくば経営けいえい権利けんりあたえられ、一般いっぱんきゃく宿泊しゅくはく荷物にもつ逓送ていそう生計せいけいてることがゆるされた[8]かく街道かいどう交通こうつうりょうしたがって宿場しゅくば常備じょうびする人馬じんばかずさだめられており、たとえば東海道とうかいどうではいち宿場しゅくばにつき人足ひとあし100にんうま100疋、中山道なかせんどうでは人足ひとあし50にんうま50疋、甲州こうしゅう街道かいどうでは人足ひとあし25にんうま25疋というようにことなった[8]。これら人馬じんば常備じょうび負担ふたんおおきく、宿場しゅくば関係かんけいしゃ沿道えんどう地元民じもとみんくるしめ、宿場しゅくば維持いじ苦労くろうした[8]江戸えど時代じだい後期こうき道中どうちゅう奉行ぶぎょうである石川いしかわただしぼうは、文政ぶんせい5ねん1822ねん)に地元民じもとみんから再三さいさん嘆願たんがんされていた中山道なかせんどう安中あんなか宿やど人馬じんば提供ていきょうすう負担ふたん半減はんげんさせる宿駅しゅくえき制度せいど改革かいかくおこなうなど、それまでの宿駅しゅくえき制度せいどについて改革かいかく実行じっこうされたりもしたが、時代じだい推移すいいとともに一般人いっぱんじん旅行りょこうしゃえるにしたがって、幕府ばくふ御用ごよう交通こうつうりょうえていったことから、これに対応たいおうするじょさと制度せいどつくられるなど沿線えんせん住民じゅうみん負担ふたんえるいちぽうであった[9]結局けっきょく幕府ばくふ御用ごよう輸送ゆそう沿線えんせん住民じゅうみんがすべて負担ふたんするというこれら幕府ばくふ特権とっけん制度せいどについて、幕府ばくふ抜本ばっぽんてき改革かいかくおこなうことがなかったため解消かいしょうされることはなく、まくはん体制たいせい消滅しょうめつして明治めいじ時代じだいはいるまでのあいだつづいた[9]。そのため、多大ただい負担ふたんせられた宿駅しゅくえき制度せいど幕府ばくふ崩壊ほうかい一因いちいんでもあるともいわれている[9]

幕府ばくふまりと街道かいどう発展はってん

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街道かいどうのなかでも、江戸えど幕府ばくふもっと重要じゅうようしたのは東海道とうかいどうで、「にゅう鉄砲てっぽうおんな」とよばれる交通こうつう政策せいさくがとられ、とりわけ関所せきしょにおけるまりがいかめしかった[6]にゅう鉄砲てっぽうとは、江戸えど武器ぶきはいってくることのまりをし、おんなとは、参勤交代さんきんこうたい制度せいどのために、人質ひとじちとして江戸えどまわせたしょ大名だいみょう妻子さいしらが、江戸えどから脱出だっしゅつさせないためにかんすることを[10]

街道かいどうは、それに付属ふぞくするわき街道かいどうとともに参勤交代さんきんこうたいなどの公用こうようのために幕府ばくふによって整備せいびされたみちであったが、参勤交代さんきんこうたいによって宿場しゅくばをはじめとする街道かいどうすじおおきな経済けいざい効果こうかをもたらし、やがて庶民しょみん寺社じしゃめぐりや温泉おんせん旅行りょこうにも利用りようされるようになり、ますますさかえていった[10]

街道かいどう規格きかく構造こうぞう

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幕末ばくまつにおける東海道とうかいどうまつ並木なみき

慶長けいちょう9ねん(1604ねん)の布令ふれいには、徳川とくがわ幕府ばくふ2だい将軍しょうぐん秀忠ひでただにより諸国しょこく道路どうろをつくるべきとあり、関東かんとう奥州おうしゅう木曽きそふくめてそのひろさを5あいだ一里塚いちりづかは5あいだ四方しほうと『当代とうだい』にはしるされている[11]。その資料しりょうにも道幅みちはばは5あいだしるされているものがおおくあるが、並木なみききをふくむかについては街道かいどう建設けんせつするじょうでの疑問ぎもんがあり、江戸えど時代じだい中期ちゅうき寛政かんせい元年がんねん1789ねん)に並木なみききを両側りょうがわ9しゃく以上いじょう確保かくほしたうえ道幅みちはばは2あいだ以上いじょうあればよいとの回答かいとう文書ぶんしょされている[12]

街道かいどう実態じったいについては、江戸えど時代じだい末期まっき発行はっこうされた『宿やどむら大概たいがいちょう』という現代げんだい道路どうろ台帳だいちょう匹敵ひってきする資料しりょうくわしくのこされており、標準ひょうじゅんてき道幅みちはばはおおよそ3あいだから4あいだ(5.4 - 7.2メートル)、江戸えどちかいところでは5あいだ(9メートル)というところがおお[13]。また、駿府すんぷじょう浜松はままつじょう付近ふきんには道幅みちはば6 - 8あいだ(10.8 - 14.4メートル)というところもみられ、箱根峠はこねとうげ宇津ノ谷峠うつのやとうげ鈴鹿峠すずかとうげなどの山間さんかんでは道幅みちはば2あいだ(3.6メートル)とされている[14]坂道さかみち勾配こうばいについては、山道さんどう以外いがいのところで最大さいだい10 - 13パーセント箱根峠はこねとうげ最大さいだい30 - 35パーセント程度ていどあったとの調査ちょうさ結果けっかされている[14]

 
箱根はこねきゅう街道かいどう石畳いしだたみ

路面ろめん構造こうぞうは、馬車ばしゃ発展はってんしなかった江戸えど時代じだいにおいて徒歩とほ基準きじゅんとしており、徳川とくがわ幕府ばくふ3だい将軍しょうぐん家光いえみつ時代じだいにあたる慶安けいあん元年がんねん1648ねん)、江戸えど市街しがいの「道路どうろきずけかたならびに浚方」に道路どうろ補修ほしゅう方法ほうほうについてされた布令ふれいには、道路どうろわるいところに浅草あさくさすなうみすなぜた上質じょうしつすなきならして中高なかだかきずき、道路どうろみぞ停滞ていたいしないようにさらうことと指示しじされている[15]。このほか、運送うんそうさかんだった伏見ふしみ - 京都きょうとあいだ大津おおつ - 京都きょうとあいだ街道かいどうでは牛車うしぐるまよう車道しゃどう人馬じんばどうしゃ分離ぶんりかんがかた区分くぶんし、2じょうどう花崗岩かこうがんあつばんくるませきならべ、うしどうには砂利じゃりきならした[16]江戸えど時代じだい後期こうきにあたる文久ぶんきゅう3ねん1863ねん)の14だい将軍しょうぐん家茂いえもち上洛じょうらくさいには、箱根はこね山道さんどう改修かいしゅうして丸石まるいし舗装ほそうしたという記録きろくのこされており、現在げんざい箱根はこねきゅう街道かいどうにも往時おうじ石畳いしだたみがよくのこされている[17]

幕末ばくまつ来日らいにちしたイギリスちゅう公使こうしオールコックは、東海道とうかいどうして道路どうろ整備せいびじょうきょうについて、道幅みちはばひろ平坦へいたんで、十分じゅうぶん砕石さいせきとっかためられていて、両側りょうがわ並木なみきにより通行つうこうしゃ日差ひざしからまもり、ヨーロッパのもっと立派りっぱみち比肩ひけんする大変たいへんたか価値かちのあるものと評価ひょうかしている[18]

維持いじ管理かんり

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街道かいどう総括そうかつ管理かんりしていたのは道中どうちゅう奉行ぶぎょうで、日常にちじょうてき管理かんり組織そしき基準きじゅんはあきらかではないが、原則げんそくてき道中どうちゅう奉行ぶぎょう街道かいどう維持いじ管理かんり執行しっこう沿道えんどう宿やどむらてて、その執行しっこう責任せきにんわせた[19]交通こうつうりょうによっては沿道えんどう地区ちくむらわない場合ばあいがあり、沿道えんどう直接ちょくせつせっしない周辺しゅうへんむら々にもてがおよび、そのてられたそれぞれの区間くかん掃除そうじ丁場ちょうば(そうじちょうば)といった[19]むら々から掃除そうじ丁場ちょうばまでの距離きょりは、大半たいはんは1さと未満みまんであったが、もっととおいところでは5というところもられ、5以上いじょうはなれたむらへのてはられていない[19]。こうしたむら々へのてはじょさと制度せいどにもられ、てられたむら重複じゅうふくしていたと推察すいさつされている[19]。ただし、とうげえなどの山中さんちゅうでは形式けいしきじょう沿道えんどうむら負担ふたんとしながらも、実質じっしつてき藩主はんしゅ負担ふたんとしていたり、沿道えんどう実情じつじょうわせて配慮はいりょがなされていたとみられている[20]

また、並木なみき管理かんり沿道えんどう宿やどむらにはまかされず、その土地とち管理かんり区分くぶんしたがって幕府ばくふ直轄ちょっかつでは代官だいかんが、わたし領地りょうちでは大名だいみょう責任せきにんった[21]

街道かいどう並木なみき

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日光にっこうすぎ並木なみき栃木とちぎけん日光にっこう

街道かいどうでは並木なみきえられており、しゅえられている場所ばしょ標高ひょうこうによってことなり、平地ひらちではまつだい部分ぶぶんめ、すぎたけ落葉樹らくようじゅなどがそれにつづくが、標高ひょうこうたかくなるにしたがってすぎたけ割合わりあいおおめた[21]えられかたについてはみち左右さゆう片側かたがわだけの場合ばあいや、両側りょうがわそろっていた場合ばあいなどまちまちで、場所ばしょによっては並木なみき存在そんざいしていなかったところもあったとられている[注釈ちゅうしゃく 1]設置せっちした当初とうしょ目的もくてきしめ史料しりょうつかっておらず、はじめは通行つうこうしゃ便宜べんぎのためにえられたものとかんがえられている[22]。しかし、時代じだい経過けいかとともに設置せっち目的もくてき変化へんかしており、街道かいどう設置せっちからおよそ160ねんにあたる江戸えど時代じだい中期ちゅうきたかられき12ねん1762ねん)の布達ふたつ東海道とうかいどうすじ並木なみき」では、並木なみきとその周辺しゅうへん田畑たはたとのあいだていくいてるように指示しじされていて、並木なみき街道かいどうはば確保かくほするための手段しゅだんとなっていることをうかがわせている[22]

日光にっこう街道かいどうすぎ並木なみきべつ目的もくてきえられたれいであり、松平まつだいらただしつな主君しゅくん家康いえやす菩提ぼだいとむらうために、自費じひで20ねん以上いじょう歳月さいげつをかけてつづけたものである[23]

現在げんざいでは並木なみきのほとんどは昭和しょうわ時代じだいはいって国道こくどう拡幅かくふく工事こうじなどで伐採ばっさいされてしまい、当時とうじ街道かいどう状態じょうたいのこしている場所ばしょ、とりわけ並木なみきがある街道かいどう往時おうじ面影おもかげのこすものはすくないが、日光にっこうすぎ並木なみき草加そうか松原まつばらなどは当時とうじ状況じょうきょう視覚しかくてきによくのこ貴重きちょう歴史れきしてき遺産いさんとなっており[24]、「日本にっぽんみち100せん」にも選定せんていされている。

その街道かいどう解釈かいしゃく定義ていぎ

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江戸えど幕府ばくふ上記じょうきをもって街道かいどうとしていたむねは、明治めいじしん政府せいふ編纂へんさんした古事ふるごとるいえん道路どうろ概説がいせつにもあり、これには以下いか趣旨しゅしかれている。

  • 徳川とくがわ幕府ばくふは、江戸えど起点きてんとする東海道とうかいどう中山道なかせんどう日光にっこうどうちゅう奥州おうしゅうどうちゅう甲州こうしゅうどうちゅう街道かいどうしょうしたこと
  • 街道かいどうのほか、水戸みと佐倉さくら街道かいどう伊勢路いせじ中国ちゅうごくとうほん海道かいどうしょうしたこと
  • そのささえわき往還おうかんしょうすること

実際じっさいには、江戸えど幕府ばくふ作成さくせいした伝馬てんま宿やど拝借はいしゃくせんさとしというしょ日光にっこう道中どうちゅう奥州おうしゅうどうちゅうひとつにわせて佐倉さくら街道かいどうをそのしょないげていたり、またえききもろく同様どうよう佐倉さくら街道かいどうげながらもそれを水戸みと道中どうちゅうしょうしたりと、つね一貫いっかんしたもちかたがなされていたわけでもない[25]

なお、千住せんじゅ宿やどから派生はせいして途中とちゅうまで道中どうちゅう奉行ぶぎょう管轄かんかつにあった水戸みと街道かいどう水戸みと道中どうちゅう)を街道かいどうくわえるというかんがかた存在そんざいし、『地方ちほう凡例はんれいろく』では途中とちゅう宇都宮うつのみや宿やどまで日光にっこう街道かいどう重複じゅうふくする奥州おうしゅう街道かいどうのぞいて水戸みと街道かいどうくわえている。また、文化ぶんか8ねん1811ねん)には江戸えど幕府ばくふ街道かいどうくわえて水戸みと街道かいどうおよびそのわき街道かいどうであった佐倉さくら街道かいどう成田なりた街道かいどう)をなな街道かいどうとしてその発着はっちゃく確認かくにんおこなわれている。ただし、道中どうちゅう奉行ぶぎょう支配しはい地域ちいき水戸みと街道かいどう松戸まつど宿やどまで、佐倉さくら街道かいどう八幡宿はちまんしゅくまでと街道かいどう全体ぜんたいからてもみじか区間くかん限定げんていされており、水戸みと佐倉さくらりょう街道かいどう日光にっこう奥州おうしゅうりょう街道かいどうわき街道かいどう位置いちづけられるのが通説つうせつである[26]
街道かいどう」とは東海道とうかいどうなど5幹線かんせんおよびそれに付属ふぞくする街道かいどうふくんでおり、5つの幹線かんせんを「街道かいどう」とんでいたというよりは、道中どうちゅう奉行ぶぎょう管轄かんかつする街道かいどう道筋みちすじ網羅もうらした道筋みちすじ総称そうしょうが「街道かいどう」だったとの意見いけんもある[27]

街道かいどう路線ろせんべつ延長えんちょう宿場しゅくばあいだ距離きょり[28]
まち どう めい おこり てん おわり てん 距離きょり(km) 宿駅しゅくえきすう 宿駅しゅくえきあいだ平均へいきん距離きょり(km) 区間くかんすう
東海道とうかいどう 江戸えど日本橋にほんばし 大阪おおさか 575 58 9.7 59
中山道なかせんどう 江戸えど日本橋にほんばし 草津くさつ 530 67 7.8 68
日光にっこう道中どうちゅう 江戸えど日本橋にほんばし 日光にっこう 150 21 6.8 22
奥州おうしゅう道中どうちゅう 宇都宮うつのみや 白河しらかわ 084 09 8.4 10
甲州こうしゅう道中どうちゅう 江戸えど日本橋にほんばし 下諏訪しもすわ 214 22 9.3 23
けい 1553 177 8.5 182

現在げんざいがれる街道かいどう

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現在げんざいでも通称つうしょう甲州こうしゅう街道かいどう」とよばれる国道こくどう20ごう山梨やまなしけん大月おおつき

江戸えど時代じだい整備せいびされた街道かいどうは、明治維新めいじいしんによりまくはん体制たいせい崩壊ほうかいしたのちしん政府せいふによって国道こくどう経路けいろ指定していされて、その道筋みちすじ現在げんざい一般いっぱん国道こくどうにもがれている。東海道とうかいどう国道こくどう1ごうに、中山道なかせんどう国道こくどう17ごう国道こくどう18ごう国道こくどう142ごう国道こくどう20ごう国道こくどう19ごう国道こくどう21ごう国道こくどう8ごうの7ほん路線ろせんに、日光にっこう街道かいどう国道こくどう4ごう国道こくどう119ごうに、奥州おうしゅう街道かいどう国道こくどう4ごうに、甲州こうしゅう街道かいどう国道こくどう20ごうにそれぞれ機能きのうしている[29]当時とうじまつ並木なみき一里塚いちりづかだい部分ぶぶんうしなわれたが、随所ずいしょには当時とうじ宿場しゅくば並木なみき一里塚いちりづかのこされており、往時おうじ面影おもかげることができる[29]

街道かいどう以外いがい主要しゅよう街道かいどう

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街道かいどうから分岐ぶんきする主要しゅよう街道かいどうのことをわき街道かいどうわき往還おうかん)とよぶ[3]街道かいどう付属ふぞく街道かいどうとして万治まんじ2ねん1659ねん)に道中どうちゅう奉行ぶぎょう管轄かんかつにあった[30]街道かいどう付属ふぞくしていた街道かいどうは「佐屋さた美濃みの例幣れいへい使街道かいどう壬生みぶとおる水戸みと佐倉さくらどう本坂ほんざかどおりなどのほか日光にっこうほう成道じょうどう」があった[31]

  • 佐屋さた東海道とうかいどう宮宿みやじゅく熱田あつた宿やど)から桑名くわな宿やどいた街道かいどう東海道とうかいどうななさとわたしを迂回うかいし、宮宿みやじゅくから、佐屋さた佐屋さた宿やどまでの陸路りくろ佐屋さた宿やどから木曽川きそがわ三里さんりわたしを東海道とうかいどう桑名くわな宿やどいたる。
  • 美濃みの東海道とうかいどう宮宿みやじゅく熱田あつた)から中山道なかせんどう垂井たるい宿やどいた街道かいどう東海道とうかいどう鈴鹿峠すずかとうげななさとわた中山道なかせんどう太田おおたわたひとし難所なんしょ迂回うかいできた。
  • 日光にっこう例幣れいへい使街道かいどう中山道なかせんどう倉賀野くらがのから日光にっこういた街道かいどう
  • 壬生みぶとおる日光にっこう街道かいどう小山こやま宿やど(のきた喜沢きざわ追分おいわけ)から壬生みぶ宿やど鹿沼かぬま宿やど経由けいゆして日光にっこう街道かいどう今市いまいち宿やどいたみち日光にっこう西にし街道かいどう
  • 水戸みと街道かいどう日光にっこう街道かいどう奥州おうしゅう街道かいどうわき街道かいどう江戸えどから仙台せんだいまで太平洋たいへいようがんをたどる街道かいどう総称そうしょうして「はま街道かいどう」といい、徳川とくがわ御三家ごさんけのひとつがかれていた水戸みとまでを「水戸みと街道かいどう」としょうする。
  • 佐倉さくらみち中央ちゅうおうより佐渡さどつうじる陸海りくかい古代こだい駅路えきろ北陸ほくりくどう小路こうじ海路かいろ越前えちぜん敦賀つるがより渡船とせんし,越中えっちゅう亘理わたりみなと (わたりみなと) を佐渡さどにいたる。近世きんせいにはわき街道かいどうとして,中山道なかせんどうより分岐ぶんきする北国きたぐにさんこくりょう街道かいどう日光にっこう奥州おうしゅう道中どうちゅうより分岐ぶんきする会津あいづ街道かいどうなどがあった。 (→北国きたぐに街道かいどう , さんこく街道かいどう )
  • 本坂ほんざかどおり東海道とうかいどう見附みつけ宿やど御油ごゆ宿やどむす街道かいどうである。浜名湖はまなこ北側きたがわ本坂ほんざかとうげ経由けいゆして道程どうていやく60キロメートル。中世ちゅうせい以降いこう本坂ほんざかとうげ経由けいゆしたことから本坂ほんざかえつほん坂道さかみち本坂ほんざか街道かいどうなどとばれた。 幕末ばくまつごろからひめ街道かいどう呼称こしょうられている。
  • 日光にっこう成道じょうどう将軍しょうぐん日光にっこう東照宮とうしょうぐう参詣さんけいため利用りようした街道かいどう本郷ほんごう追分おいわけ中山道なかせんどうからかれ、岩淵いわぶち宿やど岩槻いわつき経由けいゆして幸手さって日光にっこう街道かいどう合流ごうりゅうする。「日光にっこう御成おなり街道かいどう」、「岩槻いわつき街道かいどう」ともばれる。

街道かいどう枝道えだみち、また街道かいどうとしてわき往還おうかん設置せっちされ、勘定かんじょう奉行ぶぎょう管轄かんかつかれた。

脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ 東海道とうかいどう神奈川かながわけんにおける『宿やどむら大概たいがいちょう』の記載きさいもとづく統計とうけいてき調査ちょうさでは、全体ぜんたいとして43.5パーセントに並木なみき存在そんざいしていたとられている[21]

出典しゅってん

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  1. ^ a b 浅井あさいけんなんじ 2001, p. 94.
  2. ^ 浅井あさいけんなんじ 2001, p. 114.
  3. ^ a b 浅井あさいけんなんじ 2015, p. 114.
  4. ^ a b c ロム・インターナショナル(へん) 2005, p. 143.
  5. ^ ロム・インターナショナル(へん) 2005, p. 144.
  6. ^ a b c d e f 浅井あさいけんなんじ 2001, pp. 94–95.
  7. ^ 武部たけべけんいち 2015, p. 41.
  8. ^ a b c 武部たけべけんいち 2015, p. 108.
  9. ^ a b c 武部たけべけんいち 2015, p. 109.
  10. ^ a b 浅井あさいけんなんじ 2001, p. 95.
  11. ^ 武部たけべけんいち 2015, p. 126.
  12. ^ 武部たけべけんいち 2015, p. 127.
  13. ^ 武部たけべけんいち 2015, pp. 127–128.
  14. ^ a b 武部たけべけんいち 2015, p. 128.
  15. ^ 武部たけべけんいち 2015, pp. 128–129.
  16. ^ 武部たけべけんいち 2015, pp. 129–130.
  17. ^ 武部たけべけんいち 2015, p. 130.
  18. ^ 武部たけべけんいち 2015, pp. 130–131.
  19. ^ a b c d 武部たけべけんいち 2015, p. 131.
  20. ^ 武部たけべけんいち 2015, p. 132.
  21. ^ a b c 武部たけべけんいち 2015, p. 139.
  22. ^ a b 武部たけべけんいち 2015, pp. 139–140.
  23. ^ 武部たけべけんいち 2015, p. 140.
  24. ^ 武部たけべけんいち 2015, p. 141.
  25. ^ 徳川とくがわ禁令きんれいこうじゅう拝借はいしゃくぜにによる。
  26. ^ 深井ふかい甚三「街道かいどう」(『歴史れきしがく事典じてん 14 ものとわざ』(弘文こうぶんどう、2006ねんISBN 978-4-335-21044-0 P192-193)
  27. ^ 渡辺わたなべ (2000, pp. 29–30)
  28. ^ 武部たけべ(1985)、4ぺーじ
  29. ^ a b 浅井あさいけんなんじ 2015, p. 115.
  30. ^ 豊田とよだ児玉こだま(1970)105ぺーじ
  31. ^ 豊田とよだ児玉こだま(1970)107ぺーじ

参考さんこう文献ぶんけん

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  • 浅井あさいけんなんじみちみちがわかる辞典じてん』(初版しょはん日本にっぽん実業じつぎょう出版しゅっぱんしゃ、2001ねん11がつ10日とおかISBN 4-534-03315-X 
  • 浅井あさいけんなんじ日本にっぽん道路どうろがわかる辞典じてん』(初版しょはん日本にっぽん実業じつぎょう出版しゅっぱんしゃ、2015ねん10がつ10日とおかISBN 978-4-534-05318-3 
  • 武部たけべ健一けんいち招待しょうたい論文ろんぶん 日本にっぽん幹線かんせん道路どうろもう史的してき変遷へんせん特質とくしつ」『土木どぼく学会がっかいろん文集ぶんしゅうだい359しゅうⅣ-3、土木どぼく学会がっかい、1985ねん、1-16ぺーじ
  • 武部たけべ健一けんいち道路どうろ日本にっぽん中央公論ちゅうおうこうろんしんしゃ中公新書ちゅうこうしんしょ〉、2015ねん5がつ25にちISBN 978-4-12-102321-6 
  • 豊田とよだたけし児玉こだまみゆきへん体系たいけい日本にっぽん叢書そうしょ 24、交通こうつう山川やまかわ出版しゅっぱんしゃ、1970ねん
  • ロム・インターナショナル(へん)『道路どうろ地図ちず びっくり!博学はくがく知識ちしき河出書房新社かわでしょぼうしんしゃ〈KAWADEゆめ文庫ぶんこ〉、2005ねん2がつ1にちISBN 4-309-49566-4 
  • 渡辺わたなべ和敏かずとし東海道とうかいどう宿場しゅくば交通こうつう』2、静岡新聞社しずおかしんぶんしゃ東海道とうかいどう双書そうしょ〉、2000ねんISBN 4-7838-1071-0

関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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