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大審院 - Wikipedia

大審院だいしんいん

日本にっぽんのかつての裁判所さいばんしょ
大審院だいしんいんちょうから転送てんそう

大審院だいしんいん(だいしんいん、たいしんいん[1]英語えいご: Supreme Court, Supreme Court of Judicature, Great Court of Cassationなど)は、1875ねん明治めいじ8ねん)から1947ねん昭和しょうわ22ねん)にかけて日本にっぽんにおいて設置せっちされていた司法しほう裁判所さいばんしょなかにおける最上級さいじょうきゅうしん裁判所さいばんしょである。明治めいじ8ねん太政官だじょうかん布告ふこく59ごうにより設置せっちされ、1890ねん明治めいじ23ねん)の裁判所さいばんしょ構成こうせいほうにおいて最上級さいじょうきゅうしん裁判所さいばんしょ規定きていされた。1947ねん昭和しょうわ22ねん)の裁判所さいばんしょほう施行しこうともなって廃止はいしされ、その権能けんのう最高裁判所さいこうさいばんしょいだ[2] [注釈ちゅうしゃく 1]

大審院だいしんいん
2代目だいめ大審院だいしんいん庁舎ちょうしゃ手前てまえ
設置せっち 1875ねん明治めいじ8ねん)- 1947ねん昭和しょうわ22ねん
くに 日本の旗 日本にっぽん
所在地しょざいち 日本の旗 日本にっぽん 東京とうきょう麹町こうじまち
判事はんじ構成こうせい人数にんずう 47にん1919ねん-1941ねんどき

概要がいよう

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大審院だいしんいん

1875ねん明治めいじ8ねん)の立憲政体りっけんせいたい詔書しょうしょもとづき設置せっち[5]1890ねん明治めいじ23ねん)の裁判所さいばんしょ構成こうせいほうにより通常つうじょう司法しほう裁判所さいばんしょなか最上級さいじょうきゅうしんとしての立場たちば確立かくりつされた。

フランス破毀はきいんをモデルとして設置せっちされ、おもに、民事みんじ刑事けいじ終審しゅうしんとして、特別とくべつ裁判所さいばんしょ大日本帝国だいにっぽんていこく憲法けんぽうだい60じょう規定きていされる皇室こうしつ裁判所さいばんしょ軍法ぐんぽう会議かいぎなどのこと)および行政ぎょうせい裁判所さいばんしょどう憲法けんぽう61じょう行政ぎょうせい裁判さいばんほう)の管轄かんかつぞくしない事項じこうについて裁判さいばんおこなった。

大審院だいしんいん終審しゅうしんとして、上告じょうこくおよび控訴こうそいんなどがした決定けってい命令めいれいかんする抗告こうこくけ、また、だいいちしんかつ終審しゅうしんとして刑法けいほう皇室こうしつたいするつみ不敬ふけいざいなど、1947ねん昭和しょうわ22ねん刑法けいほう改正かいせい規定きてい削除さくじょ)、内乱ないらんかんするつみ皇族こうぞくおかしたつみにして禁錮きんこ以上いじょうけいしょすべきものの予審よしんおよび裁判さいばんおこなうものと規定きていされた(裁判所さいばんしょ構成こうせいほう50じょう)。

大審院だいしんいん重要じゅうよう判例はんれいは、1921ねん大正たいしょう10ねん)までのものについては『大審院だいしんいん判決はんけつろく』(みんろくけいろく)に、1922ねん大正たいしょう11ねん以後いごのものは『大審院だいしんいん判例はんれいしゅう』(みんしゅうけいしゅう)に収録しゅうろくされ公刊こうかんされている[6]

大審院だいしんいん庁舎ちょうしゃ戦災せんさい外壁がいへきのこして焼失しょうしつ太平洋戦争たいへいようせんそう屋根やねのぞ復元ふくげんされ、1949ねん昭和しょうわ24ねん)から1974ねん昭和しょうわ49ねん)まで最高さいこう裁判所さいばんしょ庁舎ちょうしゃとして使つかわれた。現在げんざい跡地あとちには東京とうきょう高等こうとう裁判所さいばんしょ東京とうきょう地方裁判所ちほうさいばんしょがある。

沿革えんかく

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初代しょだい大審院だいしんいん庁舎ちょうしゃ

構成こうせい

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大審院だいしんいんには若干じゃっかん民事みんじ刑事けいじかれ、各部かくぶは5にん当初とうしょは7にん)の判事はんじ合議ごうぎたいによって構成こうせいされ、裁判さいばんおこなわれた[7]大審院だいしんいん従前じゅうぜん大審院だいしんいん法令ほうれい解釈かいしゃく判例はんれい)を変更へんこうしようとする場合ばあいは、事件じけん性質せいしつしたがい、民事みんじそうもしくは刑事けいじそう連合れんごうし、または民事みんじおよび刑事けいじそう連合れんごうして合議ごうぎたいつくり、裁判さいばんおこなった(裁判所さいばんしょ構成こうせいほう49じょう。この合議ごうぎたいのことを聯合れんごう連合れんごう、れんごうぶ)といい、各々おのおのその連合れんごうした名称めいしょうり、民事みんじ連合れんごう刑事けいじ連合れんごうみんけい連合れんごうといった。

1920ねん大正たいしょう9ねん)に裁判所さいばんしょ職員しょくいん定員ていいんれい施行しこうされた当時とうじには、大審院だいしんいん判事はんじは26めい大審院だいしんいん検察けんさつきょく検事けんじ総長そうちょうが1めい検事けんじが7めい定員ていいんであった。

最高裁判所さいこうさいばんしょとの比較ひかく

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2代目だいめ大審院だいしんいん庁舎ちょうしゃ大審院だいしんいん法廷ほうてい

ある事件じけん判決はんけつふくまれた判断はんだんについて、最高さいこう裁判所さいばんしょ判例はんれいがなく、大審院だいしんいん判例はんれい相反あいはんするときには、民事みんじ訴訟そしょうほうでは上告じょうこく受理じゅり申立もうした許可きょか抗告こうこく対象たいしょうとなり、刑事けいじ訴訟そしょうほうでは上告じょうこく申立もうしたて理由りゆうとなると同時どうじに、変更へんこうされていない大審院だいしんいん判決はんけつ現在げんざいにおいても判例はんれいとされる。

大審院だいしんいん裁判さいばん独立どくりつたした役割やくわり努力どりょくは、歴史れきしじょう無視むしできないが、制度せいどじょう位置付いちづけは最高さいこう裁判所さいばんしょくらひくかった[8]最高さいこう裁判所さいばんしょは、日本国にっぽんこく憲法けんぽうにより、司法しほう行政ぎょうせい監督かんとくけん規則きそく制定せいていけん違憲いけん立法りっぽう審査しんさけんなどの権限けんげんあたえられているが、大審院だいしんいんにはこれらの権限けんげんがなかった。司法しほう行政ぎょうせいけん司法しほう大臣だいじんぞくしており、大審院だいしんいん下級かきゅう裁判所さいばんしょたいして司法しほう行政ぎょうせいじょう監督かんとくけんたなかった。

大審院だいしんいんちょうおや任官にんかんであるが、宮中きゅうちゅう席次せきじおな親任しんにんかん国務大臣こくむだいじん枢密すうみつ顧問こもんかん陸海りくかいぐん大将たいしょうよりひくく、大審院だいしんいん判事はんじ最高さいこう裁判所さいばんしょ裁判官さいばんかんのような権威けんいのある存在そんざいではなかった。部長ぶちょう判事はんじ一般いっぱん官庁かんちょう次官じかんなみ一般いっぱん判事はんじ局長きょくちょうないし課長かちょうなみ俸給ほうきゅうであった。最高裁さいこうさい裁判官さいばんかん法曹界ほうそうかいをあげた高齢こうれいしゃ任命にんめいされるが、大審院だいしんいん判事はんじ壮年そうねんはたらざかりのもの任命にんめいされやすかったとされる[8]。ただし、退任たいにん貴族きぞくいんみことのりせん議員ぎいんから枢密院すうみついん議長ぎちょう内閣ないかく総理そうり大臣だいじんしょく平沼ひらぬま騏一郎きいちろうのように、親任しんにんであったことを利用りようしてのち権力けんりょく拡大かくだいしたれいもある。

現在げんざい最高さいこう裁判所さいばんしょ裁判官さいばんかん長官ちょうかんおよ判事はんじ)は15めいだが、大審院だいしんいん判事はんじは1919ねん大正たいしょう8ねん)から1941ねん昭和しょうわ16ねん)までが47にん、1942ねん昭和しょうわ17ねん)には37にん、1946ねん昭和しょうわ21ねん)には31にんだった[9]。なお、最高裁判所さいこうさいばんしょ裁判官さいばんかん定員ていいん極端きょくたんすくないため、最高裁判所さいこうさいばんしょ裁判官さいばんかん職務しょくむ補佐ほさする役職やくしょくとして39めい最高さいこう裁判所さいばんしょ調査官ちょうさかん存在そんざいしている(2014ねん現在げんざい)。

歴代れきだい院長いんちょう

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だい 氏名しめい 任官にんかん退官たいかん 出身しゅっしんこう 備考びこう
1 玉乃たまの世履せいり 1875ねん明治めいじ8ねん)5がつ12にち
岩国いわくにはん 院長いんちょう代理だいり
2 玉乃たまの世履せいり 1878ねん明治めいじ11ねん)9がつ13にち 再任さいにん
3 きし良兼りょうけんよう 1879ねん明治めいじ12ねん)10がつ25にち 薩摩さつまはん
4 玉乃たまの世履せいり 1881ねん明治めいじ14ねん)7がつ27にち 再任さいにん
5 尾崎おざき忠治ただはる 1886ねん明治めいじ19ねん)8がつ12にち 土佐とさはん
6 西成にしなり 1890ねん明治めいじ23ねん)8がつ21にち
1891ねん明治めいじ24ねん)4がつ7にち死去しきょ[10]
静岡しずおかはん
7 南部なんぶおとこ 1891ねん明治めいじ24ねん)4がつ8にち 土佐とさはん 院長いんちょう心得こころえ
8 児島こじま惟謙いけん 1891ねん明治めいじ24ねん)5がつ6にち 宇和島うわじまはん
9 名村なむらやすしぞう 1892ねん明治めいじ25ねん)8がつ24にち 長崎ながさき出身しゅっしん 院長いんちょう心得こころえ
10 三好みよし退蔵たいぞう 1893ねん明治めいじ26ねん)3がつ3にち
1896ねん明治めいじ29ねん10月7にち
慶應義塾けいおうぎじゅく
げん慶應義塾大学けいおうぎじゅくだいがく
初代しょだい検事けんじ総長そうちょう
貴族きぞくいん議員ぎいん
11 南部なんぶおとこ 1896ねん明治めいじ29ねん)10がつ7にち
1906ねん明治めいじ39ねん7がつ3にち
枢密すうみつ顧問こもんかん
12 横田よこた国臣くにおみ 1906ねん明治めいじ39ねん)7がつ3にち
1921ねん大正たいしょう10ねん)6がつ13にち
慶應義塾けいおうぎじゅく
げん慶應義塾大学けいおうぎじゅくだいがく
検事けんじ総長そうちょう
13 富谷とみや鉎太ろう 1921ねん大正たいしょう10ねん)6がつ13にち 司法省しほうしょうほう学校がっこう
げん東京大学とうきょうだいがく
14 平沼ひらぬま騏一郎きいちろう 1921ねん大正たいしょう10ねん)10がつ5にち 帝国ていこく大学だいがく法科ほうか大学だいがく
げん東京大学とうきょうだいがく
15 横田よこた秀雄ひでお 1923ねん大正たいしょう12ねん)9がつ6にち
1927ねん昭和しょうわ2ねん)8がつ19にち
帝国ていこく大学だいがく法科ほうか大学だいがく
げん東京大学とうきょうだいがく
慶應義塾大学けいおうぎじゅくだいがく教授きょうじゅ
16 牧野まきの菊之助きくのすけ 1927ねん昭和しょうわ2ねん)8がつ19にち 帝国ていこく大学だいがく法科ほうか大学だいがく
げん東京大学とうきょうだいがく
17 かずひとし貞吉さだきち 1931ねん昭和しょうわ6ねん)12月21にち 帝国ていこく大学だいがく法科ほうか大学だいがく
げん東京大学とうきょうだいがく
18 はやしよりゆき三郎さぶろう 1935ねん昭和しょうわ10ねん)5がつ13にち 東京とうきょうほう学院がくいん
げん中央大学ちゅうおうだいがく
19 池田いけだとら二郎じろう 1936ねん昭和しょうわ11ねん)3がつ13にち 東京とうきょう帝国ていこく大学だいがく
げん東京大学とうきょうだいがく
20 いずみしんくま 1939ねん昭和しょうわ14ねん)2がつ15にち 東京とうきょう帝国ていこく大学だいがく
げん東京大学とうきょうだいがく
21 長島ながしまあつし 1941ねん昭和しょうわ16ねん)1がつ31にち 東京とうきょう帝国ていこく大学だいがく
げん東京大学とうきょうだいがく
22 霜山しもやま精一せいいち 1944ねん昭和しょうわ19ねん)9がつ15にち 東京とうきょう帝国ていこく大学だいがく
げん東京大学とうきょうだいがく
23 細野ほその長良ながら 1946ねん昭和しょうわ21ねん)2がつ8にち
1947ねん昭和しょうわ22ねん)5がつ3にち
裁判所さいばんしょほう施行しこうともない、大審院だいしんいん廃止はいし
京都きょうと帝国ていこく大学だいがく
げん京都大学きょうとだいがく

院長いんちょう以外いがい著名ちょめい歴代れきだい判事はんじ

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氏名しめい 任期にんき 出身しゅっしんこう ぜんしょく こうしょく
古賀こがれんづくり 1902ねん明治めいじ35ねん)-1906ねん明治めいじ39ねん 司法省しほうしょうほう学校がっこう
げん東京大学とうきょうだいがく
大審院だいしんいん検事けんじ慶應義塾大学けいおうぎじゅくだいがく教授きょうじゅ 貴族きぞくいん議員ぎいん
安藤あんどう源五郎げんごろう 慶應義塾けいおうぎじゅく
げん慶應義塾大学けいおうぎじゅくだいがく
検事けんじ
岡村おかむらためぞう 明治めいじ24ねん(1891ねん)- 慶應義塾けいおうぎじゅく
げん慶應義塾大学けいおうぎじゅくだいがく
判事はんじ
長谷川はせがわたかし 明治めいじ24ねん(1891ねん)12月 慶應義塾けいおうぎじゅく
げん慶應義塾大学けいおうぎじゅくだいがく
東京とうきょう控訴こうそ院長いんちょう
伊丹いたみ重賢しげかた 慶應義塾けいおうぎじゅく
げん慶應義塾大学けいおうぎじゅくだいがく
貴族きぞくいん議員ぎいん
しょう疇伝 1910ねん明治めいじ43ねん 東京とうきょう帝国ていこく大学だいがく
げん東京大学とうきょうだいがく
検事けんじ
ぐりづか省吾しょうご 1891ねん明治めいじ24ねん パリ大学だいがく

パリ政治せいじ学院がくいん

東京とうきょうふつ学校がっこうげん法政大学ほうせいだいがく創立そうりつ

司法しほう大臣だいじん秘書官ひしょかん

弁護士べんごし衆議院しゅうぎいん議員ぎいん
西川にしかわ鉄次郎てつじろう 東京大学とうきょうだいがく法学部ほうがくぶ えい吉利よしとし法律ほうりつ学校がっこう創立そうりつ地裁ちさい所長しょちょう控訴こうそ院長いんちょう
波多野はたのたかしただし 大学南だいがくみなみこうげん東京大学とうきょうだいがく
馬場ばばすなお 東京大学とうきょうだいがく法学部ほうがくぶ 中央大学ちゅうおうだいがく学長がくちょう
小林こばやししげる 判事はんじ
小村こむら壽太郎じゅたろう 大学南だいがくみなみこう

ハーバード大学だいがくロースクール

外務がいむ大臣だいじん貴族きぞくいん議員ぎいん
石井いしいただしきょう 京都きょうと地方裁判所ちほうさいばんしょ所長しょちょう 貴族きぞくいん議員ぎいん
磯部いそべ四郎しろう 大学南だいがくみなみこう
げん東京大学とうきょうだいがく
司法しほう官僚かんりょう検事けんじ衆議院しゅうぎいん議員ぎいん 衆議院しゅうぎいん議員ぎいん貴族きぞくいん議員ぎいん東京とうきょう弁護士べんごしかい会長かいちょう
今村いまむら信行のぶゆき 判事はんじ
岩松いわまつ三郎さぶろう 東京とうきょう帝国ていこく大学だいがく法科ほうか大学だいがく
げん東京大学とうきょうだいがく
判事はんじ 最高さいこう裁判所さいばんしょ判事はんじ
馬屋うまやはら二郎じろう 判事はんじ 貴族きぞくいん議員ぎいん
齋藤さいとうゆう 東京とうきょう帝国ていこく大学だいがく法学部ほうがくぶ
げん東京大学とうきょうだいがく
判事はんじ 最高さいこう裁判所さいばんしょ判事はんじ
ほりしん五郎ごろう 判事はんじ 貴族きぞくいん議員ぎいん
本多ほんだかんただし ゲッティンゲン大学だいがく 司法しほう官僚かんりょう日本にっぽん法律ほうりつ学校がっこう創設そうせつ参画さんかく
しまたもつ 東京とうきょう帝国ていこく大学だいがく法学部ほうがくぶ
げん東京大学とうきょうだいがく
判事はんじ 最高さいこう裁判所さいばんしょ判事はんじ
太田黒おおたぐろ惟信いしん きゅう幕府ばくふぐん征討せいとう総督そうとく八代やしろけん参事さんじ 熊本くまもと県民けんみん議会ぎかい議長ぎちょう
大場おおばしげる 東京とうきょうほう学院がくいんげん中央大学ちゅうおうだいがく

ミュンヘン大学だいがく

検事けんじ判事はんじ 弁護士べんごし衆議院しゅうぎいん議員ぎいん
大森おおもりひろしふとし 東京とうきょう帝国ていこく大学だいがく法科ほうか大学だいがく
げん東京大学とうきょうだいがく
判事はんじ司法しほう官僚かんりょう 控訴こうそ院長いんちょう司法しほう次官じかん
岡田おかだ庄作しょうさく 明治めいじ法律ほうりつ学校がっこうげん明治大学めいじだいがく 検事けんじ 東京とうきょう弁護士べんごしかい会長かいちょう明治大学めいじだいがく教授きょうじゅ
松下まつした直美なおみ 司法しほう官僚かんりょう地裁ちさい所長しょちょう 福岡ふくおかちょう統監とうかん判事はんじ
岡村おかむら輝彦てるひこ 克明こくめいかん

大学南だいがくみなみこう
げん東京大学とうきょうだいがく開成かいせい学校がっこう キングス・カレッジ・ロンドン ミドル・テンプル

判事はんじ えい吉利よしとしほう学校がっこう創立そうりつ東京とうきょうほう学院がくいん講師こうし明治めいじ法律ほうりつ学校がっこう講師こうし東京とうきょう弁護士べんごしかい会長かいちょう
奥山おくやままさしけい 文部もんぶ官僚かんりょう 検事けんじ控訴こうそ院長いんちょう貴族きぞくいん議員ぎいん実業じつぎょう
佐竹さたけたけし 明治めいじ法律ほうりつ学校がっこう
げん明治大学めいじだいがく
判事はんじ 明治大学めいじだいがく教授きょうじゅ九州きゅうしゅう帝国ていこく大学だいがく講師こうし
小山こやまあつし 東京とうきょう帝国ていこく大学だいがく法科ほうか大学だいがく
げん東京大学とうきょうだいがく
判事はんじ 弁護士べんごし衆議院しゅうぎいん議員ぎいん
岸本きしもと辰雄たつお 司法省しほうしょうあかりほうりょう

パリ法科ほうか大学だいがく

司法しほう官僚かんりょう明治めいじ法律ほうりつ学校がっこう創設そうせつ初代しょだい校長こうちょう 東京とうきょう弁護士べんごしかい会長かいちょう
柳川やながわ勝二しょうじ 東京とうきょう帝國ていこく大學だいがく法學部ほうがくぶ 東京とうきょう控訴こうそいん判事はんじけん同院どういん部長ぶちょう 早稻田大學わせだだいがく教授きょうじゅ第一高等學校だいちこうとうがっこう講師こうし日本にっぽん大學だいがく講師こうし
草野くさのひょう一郎いちろう 東京とうきょう帝国ていこく大学だいがく法科ほうか大学だいがく
げん東京大学とうきょうだいがく
判事はんじ中央大学ちゅうおうだいがく講師こうし早稲田大学わせだだいがく講師こうし東京とうきょう商科しょうか大学だいがく講師こうし 中央大学ちゅうおうだいがく教授きょうじゅ
永井ながいいわすすむ 判事はんじ
豊島としま直通ちょくつう 東京とうきょう帝国ていこく大学だいがく法科ほうか大学だいがく
げん東京大学とうきょうだいがく
検事けんじ司法しほう官僚かんりょう東京とうきょう控訴こうそいん検事けんじちょう
津田つだ弘道ひろみち 実業じつぎょう
田山たやまたくなんじ かずふつ法律ほうりつ学校がっこうげん法政大学ほうせいだいがく 判事はんじ 弁護士べんごし
吉田よしだひさ 東京とうきょうほう学院がくいん
げん中央大学ちゅうおうだいがく
検事けんじ判事はんじ横濱よこはま専門せんもん学校がっこう教授きょうじゅ中央大学ちゅうおうだいがく講師こうし 貴族きぞくいん議員ぎいん中央大学ちゅうおうだいがく教授きょうじゅ千葉商科大学ちばしょうかだいがく
横田よこた正俊まさとし 東京とうきょう帝国ていこく大学だいがく法学部ほうがくぶ
げん東京大学とうきょうだいがく
判事はんじ 公正こうせい取引とりひき委員いいんかい委員いいんちょう最高裁判所さいこうさいばんしょ長官ちょうかん
山香やまが二郎じろうきち 司法省しほうしょうほう学校がっこう
げん東京大学とうきょうだいがく
判事はんじ検事けんじ
三宅みやけ正太郎しょうたろう 東京とうきょう帝国ていこく大学だいがく法学部ほうがくぶ
げん東京大学とうきょうだいがく
判事はんじ検事けんじ 地裁ちさい所長しょちょう控訴こうそ院長いんちょう貴族きぞくいん議員ぎいん中央ちゅうおう労働ろうどう委員いいんかい会長かいちょう
水内みずうち吉藏よしぞう 明治めいじ法律ほうりつ学校がっこう
げん明治大学めいじだいがく
判事はんじ 高等官こうとうかん
三島みしま中洲ちゅうしゅう 昌平しょうへい
げん東京大学とうきょうだいがく
判事はんじ 二松学舎にしょうがくしゃ設立せつりつ東京大学とうきょうだいがく教授きょうじゅ大審院だいしんいん検事けんじ宮中きゅうちゅう顧問こもんかん
児玉こだまあつし一郎いちろう 明治めいじ23ねん1890ねん)10がつ- 慶應義塾けいおうぎじゅく法律ほうりつ初代しょだい講師こうし
げん慶應義塾大学けいおうぎじゅくだいがく
貴族きぞくいん議員ぎいん
田中たなかみぎたちばな 東京とうきょう帝国ていこく大学だいがく法学部ほうがくぶ
げん東京大学とうきょうだいがく
大阪おおさか地方裁判所ちほうさいばんしょ判事はんじ奈良なら地方裁判所ちほうさいばんしょ所長しょちょう 東京とうきょう地方裁判所ちほうさいばんしょ所長しょちょう東京とうきょう控訴こうそ院長いんちょう八幡やはた大学だいがく学長がくちょう
垂水たるみ克己かつみ[11] 判事はんじ 最高さいこう裁判所さいばんしょ判事はんじ
下飯坂しもいいざかじゅんおっと[11] 判事はんじ 最高さいこう裁判所さいばんしょ判事はんじ
石坂いしざか修一しゅういち[11] 判事はんじ 最高さいこう裁判所さいばんしょ判事はんじ
奥野おくの健一けんいち[11] 判事はんじ 最高さいこう裁判所さいばんしょ判事はんじ
藤田ふじた八郎はちろう[11] 判事はんじ 最高さいこう裁判所さいばんしょ判事はんじ
井上いのうえのぼる[11] 判事はんじ 最高さいこう裁判所さいばんしょ判事はんじ

不祥事ふしょうじ

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おも関連かんれん文献ぶんけん

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脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ 裁判所さいばんしょほう施行しこうしたさいに、大審院だいしんいん事件じけん東京とうきょう高等こうとう裁判所さいばんしょがこれをいだ[3] [4]

出典しゅってん

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  1. ^ NHK放送ほうそう文化ぶんか研究所けんきゅうじょへん『ことばのハンドブック だい2はん』では放送ほうそうじょう表現ひょうげんとしては「だいしんいん」ではなく「たいしんいん」とむと解説かいせつされている(NHK放送ほうそう文化ぶんか研究所けんきゅうじょへん 『ことばのハンドブック だい2はん』 p.122 2005ねん
  2. ^ 旺文社おうぶんしゃ日本にっぽん事典じてん さんていばん (コトバンク) 大審院だいしんいん
  3. ^ 裁判所さいばんしょほう施行しこうほう昭和しょうわ22ねん4がつ16にち法律ほうりつだい60ごう - e-Gov法令ほうれい検索けんさくだい2じょう
  4. ^ 裁判所さいばんしょほう施行しこうれい昭和しょうわ22ねん5がつ3にち政令せいれいだい24ごう - e-Gov法令ほうれい検索けんさくだい1じょう
  5. ^ 元老げんろういん大審院だいしんいんおけ式部しきぶりょうみや内省ないせい左右さゆういんはいス(法令ほうれい全書ぜんしょ 明治めいじ8ねん』、81-82ぺーじNDLJP:787955/102 
  6. ^ 日本にっぽんだい百科全書ひゃっかぜんしょ(ニッポニカ)小学しょうがくかん (コトバンク) 大審院だいしんいん
  7. ^ 百瀬ももせたかし 1990, p. 54.
  8. ^ a b 百瀬ももせたかし 1990, p. 55.
  9. ^ 櫻井さくらい孝一こういち上訴じょうそ制限せいげん」『講座こうざ民事みんじ訴訟そしょうほう』(7)、新堂しんどう幸司こうじへん弘文こうぶんどう、1985ねん、85ぺーじアーカイブされたコピー”. 2004ねん9がつ3にち時点じてんオリジナルよりアーカイブ。2009ねん5がつ21にち閲覧えつらん
  10. ^ 官報かんぽうだい2328ごう明治めいじ24ねん4がつ8にち。「彙報いほう西にし大審院だいしんいんちょう履歷りれき
  11. ^ a b c d e f 野村のむら二郎じろう日本にっぽん裁判さいばん事典じてん
  12. ^ 法務省ほうむしょう歴史れきしつぼ」《法務ほうむ資料しりょう展示てんじしつ便たよ だい21ごう》。2022ねん3がつ2にち閲覧えつらん

参考さんこう文献ぶんけん

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  • 山本やまもと祐司ゆうじ最高裁さいこうさい物語ものがたりうえ)』講談社こうだんしゃ+αあるふぁ文庫ぶんこ、1997ねんISBN 9784062561921 
  • 百瀬ももせたかし事典じてん 昭和しょうわせん前期ぜんき日本にっぽん制度せいど実態じったい吉川弘文館よしかわこうぶんかん、1990ねんISBN 9784642036191 
  • はぎ昌志まさし日本にっぽん裁判所さいばんしょあきらよう書房しょぼう、2004ねんISBN 9784771016026 

関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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