岡本おかもと 曉あきら(おかもと あきら、1887年ねん8月がつ - ?)は、日本にっぽんの地方ちほう公共こうきょう団体だんたい職員しょくいん、拓ひらけ務つとむ官僚かんりょう、実業じつぎょう家か。名なの「曉あかつき」は旧きゅう字体じたいのため、新しん字体じたいで岡本おかもと 暁あきら(おかもと あきら)とも表記ひょうきされる[1]。
隠岐島おきのしま庁ちょう技手ぎしゅ、樺太からふと庁ちょう拓殖たくしょく部ぶ水産すいさん課か課長かちょう、樺太からふと庁ちょう内務ないむ部ぶ水産すいさん課か課長かちょう、樺太からふと庁ちょう水産物すいさんぶつ検査けんさ所しょ所長しょちょう、樺太からふと共同きょうどう漁業ぎょぎょう株式会社かぶしきがいしゃ常務じょうむ、樺太からふと藁工品わらこうひん配給はいきゅう株式会社かぶしきがいしゃ社長しゃちょうなどを歴任れきにんした。
山口やまぐち県けん出身しゅっしんの拓ひらけ務つとむ官僚かんりょうである[1]。島根しまね県庁けんちょうに入いれ庁ちょうし[1]、隠岐島おきのしま庁ちょうで技手ぎしゅを務つとめたのち[1]、樺太からふと庁ちょうに入いれ庁ちょうした[1]。樺太からふと庁ちょうの拓殖たくしょく部ぶや内務ないむ部ぶにて水産すいさん課かの課長かちょうを歴任れきにんするとともに[1]、樺太からふと庁ちょう水産物すいさんぶつ検査けんさ所しょの所長しょちょうを務つとめるなど[1]、主しゅとして漁業ぎょぎょう行政ぎょうせい畑はたけを歩あゆんだ。退官たいかん後ごは樺太からふと共同きょうどう漁業ぎょぎょうの常務じょうむ[1]、樺太からふと藁工品わらこうひん配給はいきゅうの社長しゃちょう[1]、樺太からふと水産すいさん業ぎょうの会長かいちょうを務つとめるなど[1]、水産すいさん業ぎょうに関かかわり続つづけた。樺太からふとの林業りんぎょう政策せいさくを担になった尾澤おざわ淸太郞せいたろう、農業のうぎょう政策せいさくを担になった正せい見み透とおると並ならび、太平洋戦争たいへいようせんそう開戦かいせん前まえから戦中せんちゅうにかけ樺太からふとの産業さんぎょう育成いくせいに尽力じんりょくした人物じんぶつとして知しられている。
1887年ねん8月がつに生うまれ[1]、山口やまぐち県けんにて育そだった[1]。上京じょうきょうして水産すいさん講習こうしゅう所しょで学まなび[1][註釈ちゅうしゃく 1]、1910年ねんに卒業そつぎょうした[1]。水産すいさん講習こうしゅう所しょ卒業そつぎょう後ごは、島根しまね県庁けんちょうに採用さいようされ[1]、隠岐島おきのしま庁ちょうの技手ぎしゅとなった[1]。その後ご、大日本帝国だいにっぽんていこくの樺太からふと庁ちょうに入にゅう庁ちょうすることになり[1]、1917年ねんより樺太からふと庁ちょうの水産すいさん課かに勤務きんむした[1]。当時とうじ、サハリン島とうは北緯ほくい50度ど線せん以北いほくをロシア帝国ていこく、のちのソビエト連邦れんぽうが領有りょうゆうしており、北緯ほくい50度ど線せん以南いなんは大日本帝国だいにっぽんていこくが領有りょうゆうしていた。サハリン島とうの北緯ほくい50度ど線せん以南いなんは「樺太からふと」と呼称こしょうされる外地がいちと位置いちづけられ、地方ちほう行政ぎょうせい官庁かんちょうとして樺太からふと庁ちょうが設置せっちされていた。しかし、1918年ねんに施行しこうされた共通きょうつう法ほうにより、他たの外地がいちと異ことなり樺太からふとには内地ないちの法令ほうれいが適用てきようされることになるなど、樺太からふとは激はげしい変革へんかくの時代じだいを迎むかえていた。
樺太からふと庁ちょうでは、主しゅとして漁業ぎょぎょう行政ぎょうせい畑はたけを歩あゆんだ。樺太からふと庁ちょうに属ぞくとして勤務きんむするとともに[1]、樺太からふと庁ちょう水産すいさん試験場しけんじょうの技師ぎしを兼任けんにんした[1]。1924年ねん、樺太からふと庁ちょうの技師ぎしとして拓殖たくしょく部ぶ水産すいさん課かの課長かちょうに就任しゅうにんした[1]。それに伴ともない、高等官こうとうかん六ろく等とうに叙じょされた[1]。水産すいさん課かでは、樺太からふとにおける水産すいさん、水産すいさん組合くみあい、漁業ぎょぎょう組合くみあい、漁業ぎょぎょう用地ようちといった事項じこうを所管しょかんした[2]。なお、1924年ねん12月に拓殖たくしょく部ぶが内務ないむ部ぶに統合とうごうされることになり[2]、水産すいさん課かも内務ないむ部ぶの所管しょかんとなった[2]。1929年ねんには樺太からふと庁ちょうの内務ないむ部ぶにて水産すいさん課かの課長かちょうを務つとめつつ[1]、並行へいこうして樺太からふと庁ちょう水産物すいさんぶつ検査けんさ所しょの所長しょちょうも兼任けんにんしていた[1]。なお、1929年ねんになると拓ひらけ務つとむ省しょうが新設しんせつされ、朝鮮ちょうせん総督そうとく府ふ、台湾たいわん総督そうとく府ふ、南洋なんよう庁ちょうとともに樺太からふと庁ちょうも拓ひらけ務つとむ省しょうの監督かんとくを受うけることになったが、引ひき続つづき樺太からふと庁ちょうに勤務きんむした。1934年ねん3月がつ、依願いがん免めん本官ほんかんとなり樺太からふと庁ちょうを退官たいかんした[1]。
1934年ねん4月がつ、樺太からふと共同きょうどう漁業ぎょぎょうにて常務じょうむに就任しゅうにんした[1]。1941年ねん2月がつには、樺太からふと藁工品わらこうひん配給はいきゅうの社長しゃちょうに就任しゅうにんした[1]。そのほか、真岡もおか臨港りんこう倉庫そうこの取締とりしまりや樺太からふと糧かて穀こくの監査かんさなどを務つとめていた[1]。1944年ねん2月がつ、樺太からふと水産すいさん業ぎょうの会長かいちょうに就任しゅうにんした[1]。また、1944年ねん5月からは樺太からふと水産すいさん振興しんこうの取締役とりしまりやくも兼任けんにんした[1]。
この項目こうもくは、人物じんぶつに関連かんれんした書かきかけの項目こうもくです。この項目こうもくを加筆かひつ・訂正ていせいなどしてくださる協力きょうりょく者しゃを求もとめています(プロジェクト:人物じんぶつ伝でん、Portal:人物じんぶつ伝でん)。
この項目こうもくは、政府せいふ(地方ちほうの役所やくしょ・公益こうえき法人ほうじんなどを含ふくむ)に関連かんれんした書かきかけの項目こうもくです。この項目こうもくを加筆かひつ・訂正ていせいなどしてくださる協力きょうりょく者しゃを求もとめています(P:政治せいじ学がく/PJ政治せいじ)。
この項目こうもくは、島根しまね県けんに関連かんれんした書かきかけの項目こうもくです。この項目こうもくを加筆かひつ・訂正ていせいなどしてくださる協力きょうりょく者しゃを求もとめています(Portal:日本にっぽんの都道府県とどうふけん/島根しまね県けん)。
この項目こうもくは、山口やまぐち県けんに関連かんれんした書かきかけの項目こうもくです。この項目こうもくを加筆かひつ・訂正ていせいなどしてくださる協力きょうりょく者しゃを求もとめています(Portal:日本にっぽんの都道府県とどうふけん/山口やまぐち県けん)。