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岡本曉 - Wikipedia

岡本おかもとあきら

日本にっぽん地方ちほう公共こうきょう団体だんたい職員しょくいんつぶせつとむ官僚かんりょう

岡本おかもと あきら(おかもと あきら、1887ねん8がつ - ?)は、日本にっぽん地方ちほう公共こうきょう団体だんたい職員しょくいんひらけつとむ官僚かんりょう実業じつぎょうの「あかつき」はきゅう字体じたいのため、しん字体じたい岡本おかもと あきら(おかもと あきら)とも表記ひょうきされる[1]

おかもと あきら

岡本おかもと あきら
生誕せいたん 1887ねん8がつ
日本の旗 山口やまぐちけん
国籍こくせき 日本の旗 日本にっぽん
出身しゅっしんこう 水産すいさん講習こうしゅうしょ卒業そつぎょう
職業しょくぎょう 地方ちほう公共こうきょう団体だんたい職員しょくいん
ひらけつとむ官僚かんりょう
実業じつぎょう
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隠岐島おきのしまちょう技手ぎしゅ樺太からふとちょう拓殖たくしょく水産すいさん課長かちょう樺太からふとちょう内務ないむ水産すいさん課長かちょう樺太からふとちょう水産物すいさんぶつ検査けんさしょ所長しょちょう樺太からふと共同きょうどう漁業ぎょぎょう株式会社かぶしきがいしゃ常務じょうむ樺太からふと藁工品わらこうひん配給はいきゅう株式会社かぶしきがいしゃ社長しゃちょうなどを歴任れきにんした。

概要がいよう

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山口やまぐちけん出身しゅっしんひらけつとむ官僚かんりょうである[1]島根しまね県庁けんちょういれちょう[1]隠岐島おきのしまちょう技手ぎしゅつとめたのち[1]樺太からふとちょういれちょうした[1]樺太からふとちょう拓殖たくしょく内務ないむにて水産すいさん課長かちょう歴任れきにんするとともに[1]樺太からふとちょう水産物すいさんぶつ検査けんさしょ所長しょちょうつとめるなど[1]しゅとして漁業ぎょぎょう行政ぎょうせいはたけあゆんだ。退官たいかん樺太からふと共同きょうどう漁業ぎょぎょう常務じょうむ[1]樺太からふと藁工品わらこうひん配給はいきゅう社長しゃちょう[1]樺太からふと水産すいさんぎょう会長かいちょうつとめるなど[1]水産すいさんぎょうかかわりつづけた。樺太からふと林業りんぎょう政策せいさくになった尾澤おざわ淸太郞せいたろう農業のうぎょう政策せいさくになったせいとおるならび、太平洋戦争たいへいようせんそう開戦かいせんまえから戦中せんちゅうにかけ樺太からふと産業さんぎょう育成いくせい尽力じんりょくした人物じんぶつとしてられている。

来歴らいれき

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1887ねん8がつまれ[1]山口やまぐちけんにてそだった[1]上京じょうきょうして水産すいさん講習こうしゅうしょまな[1][註釈ちゅうしゃく 1]1910ねん卒業そつぎょうした[1]水産すいさん講習こうしゅうしょ卒業そつぎょうは、島根しまね県庁けんちょう採用さいようされ[1]隠岐島おきのしまちょう技手ぎしゅとなった[1]。その大日本帝国だいにっぽんていこく樺太からふとちょうにゅうちょうすることになり[1]1917ねんより樺太からふとちょう水産すいさん勤務きんむした[1]当時とうじサハリンとう北緯ほくい50せん以北いほくロシア帝国ていこく、のちのソビエト連邦れんぽう領有りょうゆうしており、北緯ほくい50せん以南いなん大日本帝国だいにっぽんていこく領有りょうゆうしていた。サハリンとう北緯ほくい50せん以南いなんは「樺太からふと」と呼称こしょうされる外地がいち位置いちづけられ、地方ちほう行政ぎょうせい官庁かんちょうとして樺太からふとちょう設置せっちされていた。しかし、1918ねん施行しこうされた共通きょうつうほうにより、外地がいちことなり樺太からふとには内地ないち法令ほうれい適用てきようされることになるなど、樺太からふとはげしい変革へんかく時代じだいむかえていた。

官界かんかいにて

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樺太からふとちょうでは、しゅとして漁業ぎょぎょう行政ぎょうせいはたけあゆんだ。樺太からふとちょうぞくとして勤務きんむするとともに[1]樺太からふとちょう水産すいさん試験場しけんじょう技師ぎし兼任けんにんした[1]1924ねん樺太からふとちょう技師ぎしとして拓殖たくしょく水産すいさん課長かちょう就任しゅうにんした[1]。それにともない、高等官こうとうかんろくとうじょされた[1]水産すいさんでは、樺太からふとにおける水産すいさん水産すいさん組合くみあい漁業ぎょぎょう組合くみあい漁業ぎょぎょう用地ようちといった事項じこう所管しょかんした[2]。なお、1924ねん12月拓殖たくしょく内務ないむ統合とうごうされることになり[2]水産すいさん内務ないむ所管しょかんとなった[2]1929ねんには樺太からふとちょう内務ないむにて水産すいさん課長かちょうつとめつつ[1]並行へいこうして樺太からふとちょう水産物すいさんぶつ検査けんさしょ所長しょちょう兼任けんにんしていた[1]。なお、1929ねんになるとひらけつとむしょう新設しんせつされ、朝鮮ちょうせん総督そうとく台湾たいわん総督そうとく南洋なんようちょうとともに樺太からふとちょうひらけつとむしょう監督かんとくけることになったが、つづ樺太からふとちょう勤務きんむした。1934ねん3がつ依願いがんめん本官ほんかんとなり樺太からふとちょう退官たいかんした[1]

退官たいかん

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1934ねん4がつ樺太からふと共同きょうどう漁業ぎょぎょうにて常務じょうむ就任しゅうにんした[1]1941ねん2がつには、樺太からふと藁工品わらこうひん配給はいきゅう社長しゃちょう就任しゅうにんした[1]。そのほか、真岡もおか臨港りんこう倉庫そうこ取締とりしまり樺太からふとかてこく監査かんさなどをつとめていた[1]1944ねん2がつ樺太からふと水産すいさんぎょう会長かいちょう就任しゅうにんした[1]。また、1944ねん5月からは樺太からふと水産すいさん振興しんこう取締役とりしまりやく兼任けんにんした[1]

略歴りゃくれき

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著作ちょさく

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寄稿きこう分担ぶんたん執筆しっぴつひとし

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  • 岡本おかもとあきら稿こう「鍊漁ぎょう合同ごうどうかんする經過けいか樺太からふとじき時報じほうしゃへん樺太からふと年鑑ねんかん昭和しょうわ8年版ねんばん樺太からふとじき時報じほうしゃ1933ねん、214-216ぺーじ全国ぜんこく書誌しょし番号ばんごう:46080538

論文ろんぶん

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脚注きゃくちゅう

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註釈ちゅうしゃく

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  1. ^ 水産すいさん講習こうしゅうしょは、のちに東京とうきょう海洋かいよう大学だいがく源流げんりゅうひとつとなった。

出典しゅってん

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関連かんれん人物じんぶつ

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関連かんれん項目こうもく

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参考さんこう文献ぶんけん

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  • 山野井やまのいひろしちょ樺太からふと人物じんぶつろん』ポドゾルしゃ1937ねんNCID BA52536980
  • 帝国ていこく秘密ひみつ探偵たんていしゃへん大衆たいしゅう人事じんじろく』12はん北海道ほっかいどう奥羽おうう関東かんとう中部ちゅうぶ外地がいち満州まんしゅうささえ海外かいがいへん帝国ていこく秘密ひみつ探偵たんていしゃ1938ねん
  • 帝国ていこく秘密ひみつ探偵たんていしゃへん大衆たいしゅう人事じんじろく』14はん外地がいちまんささえ海外かいがいへん帝国ていこく秘密ひみつ探偵たんていしゃ1943ねん
  • 樺太からふと終戦しゅうせん刊行かんこうかいへん樺太からふと終戦しゅうせん全国ぜんこく樺太からふと連盟れんめい1973ねん