建長寺 船
概要
それに
なお、
脚注
注釈
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鎌倉 に生 まれ尾張 国 に遁世 した『沙 石 集 』の筆者 無住 は、『雑談 集 』という著作 のなかで、異国 僧 ばかりの建長寺 はまるで異国 の世界 のようだと評 している。村井 (2004)p.74 - ^
鎌倉 幕府 滅亡 後 も、勝長 寿 院 は鎌倉 を治 めた鎌倉 公方 足利 氏 の崇敬 と保護 を受 けたが、初代 古河 公方 足利 成氏 が享 徳 4年 (1455年 )に鎌倉 から下総 国 古河 に移 ったのち廃絶 した。『鎌倉 事典 』(1992) - ^ 1185
年 (文治 元年 )奈良 仏師 の嫡流 に属 する成 朝 (仏師 康 朝 の子 )が頼朝 の招 きによって鎌倉 に赴 き、勝長 寿 院 の本尊 を造 っている。山本 勉 は、鎌倉 幕府 と奈良 仏師 の関係 はこのときに生 まれたと推定 している。山本 (2006)p.24 - ^
日本 で中国人 船主 のことをこう称 する。中国 では「綱 首 」と表記 するのが一般 的 である。村井 (1989)p.290 - ^
筑前 国 怡土郡 の御家人 中村 孫 四 郎 がこの年 7月 21日 から8月 5日 まで唐船 の警固 を命 じられていることからこの時期 出発 したと思 われる。 - ^
元 側 の史料 では『元 史 』泰 定 帝 紀 泰 定 二 年 十 一 月 庚申 (1325年 12月19日 )条 「倭 舶來 互市 」とある。 - ^
守護 代 に警固 を命 じられたのが中村 孫 四 郎 であった。 - ^
中 巌 円 月 は19歳 のとき元 への渡航 を思 い立 ち博多 に赴 くが「綱 司 許 さず」すなわち船長 が許可 しなかったので渡航 を断念 した。1324年 に鎌倉 建長寺 から九州 へ赴 いたものの正中 の変 のためただちに渡航 できず、その後 、豊後 国 の大友 貞宗 が中 巌 の外 護 者 となっている。村井 章介 は、1325年 の中 巌 の渡航 費用 は貞宗 が出 してくれたものではないかと推定 している。村井 (2004)p.87 - ^ 1976
年 に発見 された韓国 全羅南道 沖 の新 安 沈船の引 き揚 げ遺物 の精査 によると、この船 は1323年 に日本 を出帆 して同年 中 に沈没 したものと推定 され、乗組 員 は中国人 ・日本人 ・朝鮮 人 の三 民族 混成 であったことが判明 した。村井 (1989)p.290
参照
参考 文献
小 栗田 淳 「建長寺 船 」日本 歴史 大 辞典 編集 委員 会 『日本 歴史 大 辞典 第 4巻 く-こ』河出書房新社 、1979年 11月。白井 永二 編 『鎌倉 事典 』東京 堂 出版 、1992年 1月 。ISBN 4-490-10303-4村井 章介 「終末 期 の鎌倉 幕府 」野上 毅 編集 『朝日 百科 日本 の歴史 4中世 Ⅰ』朝日新聞社 、1989年 4月 。ISBN 4-02-380007-4石井 正敏 「建長寺 船 」小学館 編 『日本 大 百科全書 +国語 大 辞典 ―スーパー・ニッポニカ CD-ROM Windows版 』小学館 、1998年 11月。ISBN 4099067211荒川 正夫 「Ⅶ祭祀 と葬送 3中世 寺院 の様態 」小野 正敏 編集 代表 『図解 ・日本 の中世 遺跡 』東京大学 出版 会 、2001年 3月 。ISBN 4-13-026058-8村井 章介 「国際 社会 としての中世 禅林 」吉田 光男 編 『アジア理解 講座 4日 韓 中 の交流 -ひと・モノ・文化 』山川 出版 社 、2004年 12月。ISBN 4-634-47440-9山本 勉 「中世 の仏教 美術 -彫刻 史 を中心 に-」『日本 史 の研究 215』山川 出版 社 、2006年 12月。