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建長寺船 - Wikipedia

建長寺けんちょうじせん(けんちょうじぶね、けんちょうじせん)は、相模さがみこく鎌倉かまくら神奈川かながわけん鎌倉かまくら)に所在しょざいする臨済宗りんざいしゅう寺院じいん勝長かつなが寿ひさしいん建長寺けんちょうじ修復しゅうふくのため、正中せいちゅう2ねん1325ねん)に鎌倉かまくら幕府ばくふ公認こうにんもとにおくられた民間みんかん貿易ぼうえきせん社寺しゃじ造営ぞうえいりょう目的もくてき派遣はけんされた寺社じしゃ造営ぞうえいりょう唐船とうせんのひとつで、特定とくてい条件下じょうけんかにあるいれもとふねである。正確せいかくには「勝長かつなが寿ひさしいん建長寺けんちょうじ造営ぞうえいりょう唐船とうせん」であるが、一般いっぱんに「建長寺けんちょうじせん」としょうされる。典拠てんきょとなる史料しりょうは『広瀬ひろせ文書ぶんしょ』『比志ひしとう文書ぶんしょ』であ

概要がいよう

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鎌倉かまくら山ノ内やまのうち所在しょざいする禅宗ぜんしゅう寺院じいん建長寺けんちょうじは、鎌倉かまくら時代ときよ中期ちゅうきけんちょう5ねん1253ねん)の創建そうけんで、開基かいき創立そうりつしゃ)は鎌倉かまくら幕府ばくふ執権しっけん北条ほうじょうよりゆき1227ねん - 1263ねん)、開山かいさん初代しょだい住職じゅうしょく)はみなみそうから渡来とらいした禅僧ぜんそうらんけい道隆みちたか1213ねん - 1278ねん)である。寺号じごう落慶らっけい供養くよういとなまれた「けんちょう」の元号げんごうによっている。当時とうじは、中国ちゅうごく禅林ぜんりん大人おとなぶつ数多かずおお日本にっぽん渡来とらいしたが、らんけい以降いこう無学むがくもとなど、おもだった渡来とらいそうはまず建長寺けんちょうじにはいってその住持じゅうじとなるのが慣例かんれいとなった[1][注釈ちゅうしゃく 1]

それにたいし、勝長かつなが寿ひさしいん鎌倉かまくら幕府ばくふをひらいたみなもと頼朝よりとも1147ねん - 1199ねん)がもとこよみ元年がんねん1184ねん)に、ちち源義朝みなもとのよしとも菩提ぼだいとむらうために大御堂おおみどうだに鎌倉かまくら雪ノ下ゆきのした)のさだめ、同年どうねん11月26にち地曳じびきはじめおこなった寺院じいんである[注釈ちゅうしゃく 2][注釈ちゅうしゃく 3]

建長寺けんちょうじは、せいおう6ねん1293ねん4がつ12にち発生はっせいした鎌倉かまくらだい地震じしんにより建造けんぞうぶつ大半たいはん倒壊とうかい炎上えんじょうしたが、もとから来日らいにちしたいち山一やまいちやすしによって一旦いったん再建さいけんされる。しかし、勝長かつなが寿ひさしいんえいひとし3ねん(1295ねん)に焼失しょうしつし、建長寺けんちょうじ正和しょうわ4ねん1315ねん)の火災かさい創建そうけん当初とうしょ建物たてものだい部分ぶぶんうしなった。そのため、鎌倉かまくら幕府ばくふ公認こうにんのもとうみしょうによってもと貿易ぼうえきせん寺社じしゃ造営ぞうえいりょう唐船とうせん)がおくられ、修復しゅうふく費用ひよう調達ちょうたつすることとした。これが「建長寺けんちょうじせん」である。のちの関東かんとう大仏だいぶつ造営ぞうえいりょう唐船とうせん1342ねん日本にっぽん出発しゅっぱつした天龍寺てんりゅうじ造営ぞうえいりょう唐船とうせん天龍寺てんりゅうじせん)のさきがけをなし、鎌倉かまくら幕府ばくふ渡航とこう時期じき貿易ぼうえきせんつな船長せんちょう[注釈ちゅうしゃく 4]指定していして、航海こうかいちゅう警備けいびなどをはからい、そのわりに帰国きこくには利潤りじゅんのなかから一定いっていぜに提供ていきょううみしょう約束やくそくさせたものとかんがえられる[2]実際じっさい貿易ぼうえき活動かつどうは、ふね手配てはい準備じゅんびふくめてすべて商人しょうにん担当たんとうした[3]。ただし、帰国きこく舶載はくさいひん搬送はんそうなどは幕府ばくふ九州きゅうしゅう地方ちほう地頭じとう御家人ごけにんめいじている[4]

建長寺けんちょうじせんは、正中せいちゅう2ねん1325ねん7がつ[注釈ちゅうしゃく 5]鎌倉かまくら勝長かつなが寿ひさしいん建長寺けんちょうじ伽藍がらん修繕しゅうぜんりょう捻出ねんしゅつ名目めいもく日本にっぽん出航しゅっこう[注釈ちゅうしゃく 6]よくよしみれき元年がんねん1326ねん9月帰国きこくした。国内こくない航路こうろかんしては、往路おうろ筑前ちくぜんこく守護しゅごだい[注釈ちゅうしゃく 7]復路ふくろ薩摩さつまこく守護しゅごだいにそれぞれ警固けいごめいじられている。本来ほんらい正中せいちゅう元年がんねん1324ねん)に派遣はけんされる予定よていであったが、このとし後醍醐天皇ごだいごてんのう倒幕とうばく運動うんどうによって正中せいちゅうへんこったため翌年よくねん延期えんきされたものである。

日本にっぽん禅僧ぜんそうちゅういわおえんがつ1300ねん - 1375ねん)・聞契聞らが往路おうろ建長寺けんちょうじせん同乗どうじょうし、もと遊学ゆうがくしている[注釈ちゅうしゃく 8]。また、とくむね北条ほうじょうだか1303ねん - 1333ねん)がわたり要請ようせいしていたもと禅僧ぜんそうきよつたなせいきよし復路ふくろふね来日らいにちし、すでにわたりもとしていた日本にっぽんそういにしえさきしるしもと隠元いんげんみそらが同乗どうじょうして帰国きこくたしたとみられる。これにかぎらず、13世紀せいきから14世紀せいきにかけてのにちちゅう両国りょうこくにおける禅僧ぜんそうたちの渡航とこう手段しゅだんは、られるかぎりにおいてすべてが貿易ぼうえきせんへの便乗びんじょうであって、中世ちゅうせいにおけるひがしアジア禅林ぜんりんのさかんな文化ぶんか交流こうりゅう東シナ海ひがししなかいをしきりにするうみしょうたちの活動かつどうによってささえられていた[3][注釈ちゅうしゃく 9]

なお、建長寺けんちょうじ境内けいだい発掘はっくつ調査ちょうさ成果せいかによれば、14世紀せいき以前いぜん建長寺けんちょうじ主要しゅよう建物たてもの現在げんざいよりも西側にしがわ立地りっちしていたことが判明はんめいしている[5]

脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ 鎌倉かまくらまれ尾張おわりこく遁世とんせいした『すなせきしゅう』の筆者ひっしゃ無住むじゅうは、『雑談ざつだんしゅう』という著作ちょさくのなかで、異国いこくそうばかりの建長寺けんちょうじはまるで異国いこく世界せかいのようだとひょうしている。村井むらい(2004)p.74
  2. ^ 鎌倉かまくら幕府ばくふ滅亡めつぼうも、勝長かつなが寿ひさしいん鎌倉かまくらおさめた鎌倉かまくら公方くぼう足利あしかが崇敬すうけい保護ほごけたが、初代しょだい古河ふるかわ公方くぼう足利あしかが成氏しげうじとおるとく4ねん1455ねん)に鎌倉かまくらから下総しもうさこく古河ふるかわうつったのち廃絶はいぜつした。『鎌倉かまくら事典じてん』(1992)
  3. ^ 1185ねん文治ぶんじ元年がんねん奈良なら仏師ぶっし嫡流ちゃくりゅうぞくするなりあさ仏師ぶっしかんちょう)が頼朝よりともまねきによって鎌倉かまくらおもむき、勝長かつなが寿ひさしいん本尊ほんぞんつくっている。山本やまもとつとむは、鎌倉かまくら幕府ばくふ奈良なら仏師ぶっし関係かんけいはこのときにまれたと推定すいていしている。山本やまもと(2006)p.24
  4. ^ 日本にっぽん中国人ちゅうごくじん船主せんしゅのことをこうしょうする。中国ちゅうごくでは「つなくび」と表記ひょうきするのが一般いっぱんてきである。村井むらい(1989)p.290
  5. ^ 筑前ちくぜんこく怡土ぐん御家人ごけにん中村なかむらまごよんろうがこのとし7がつ21にちから8がつ5にちまで唐船とうせん警固けいごめいじられていることからこの時期じき出発しゅっぱつしたとおもわれる。
  6. ^ もとがわ史料しりょうでは『もとやすしていみかどきのたいじょうねんじゅういちがつ庚申こうしん(1325ねん12月19にちじょうやまと舶來はくらい互市ごし」とある。
  7. ^ 守護しゅごだい警固けいごめいじられたのが中村なかむらまごよんろうであった。
  8. ^ ちゅういわおえんがつは19さいのときもとへの渡航とこうおも博多はかたおもむくが「つなゆるさず」すなわち船長せんちょう許可きょかしなかったので渡航とこう断念だんねんした。1324ねん鎌倉かまくら建長寺けんちょうじから九州きゅうしゅうおもむいたものの正中せいちゅうへんのためただちに渡航とこうできず、その豊後ぶんごこく大友おおとも貞宗さだむねちゅういわおそとまもるしゃとなっている。村井むらい章介しょうすけは、1325ねんなかいわお渡航とこう費用ひよう貞宗さだむねしてくれたものではないかと推定すいていしている。村井むらい(2004)p.87
  9. ^ 1976ねん発見はっけんされた韓国かんこく全羅南道ぜんらなんどうおきしんやす沈船遺物いぶつ精査せいさによると、このふね1323ねん日本にっぽん出帆しゅっぱんして同年どうねんちゅう沈没ちんぼつしたものと推定すいていされ、乗組のりくみいん中国人ちゅうごくじん日本人にっぽんじん朝鮮ちょうせんじんさん民族みんぞく混成こんせいであったことが判明はんめいした。村井むらい(1989)p.290

参照さんしょう

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  1. ^ 村井むらい(2004)p.74
  2. ^ しょう栗田くりた(1979)p.275
  3. ^ a b 村井むらい(1989)p.288
  4. ^ 石井いしい(1998)
  5. ^ 荒川あらかわ(2001)p.195

参考さんこう文献ぶんけん

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関連かんれん項目こうもく

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