田口たぐち八重子やえこ

田口たぐち八重子やえこ（たぐち やえこ、1955年ねん〈昭和しょうわ30年ねん〉8月がつ10日とおか - ）は、北朝鮮きたちょうせんによる拉致らち被害ひがい者しゃ（日本にっぽん政府せいふ認定にんていの拉致らち被害ひがい者しゃ）である。日本にっぽん政府せいふは1987年ねん11月29日にちの大韓航空だいかんこうくう機き爆破ばくは事件じけんの実行じっこう犯はん・金賢姫きむひょんひの日本人にっぽんじん化か教育きょういく係がかりを務つとめた「李り恩恵おんけい」を同どう一人物いちじんぶつと見みている 。

たぐち やえこ 田口たぐち八重子やえこ
生誕せいたん	飯塚いいづか八重子やえこ (1955-08-10) 1955年ねん8月がつ10日とおか（68歳さい） 日本にっぽん・埼玉さいたま県けん川口かわぐち市し
失踪しっそう	1978年ねん6月がつ 日本にっぽん・新潟にいがた県けん（推定すいてい）
国籍こくせき	日本にっぽん
別名べつめい	ちとせ 李り恩恵おんけい（リ・ウネ） 高こう恵めぐみ玉だま（コ・ヘオク）
親おや	飯塚いいづかハナ（母はは）
家族かぞく	飯塚いいづか繁雄しげお（兄あに） 飯塚いいづか耕一郎こういちろう（長男ちょうなん）

人物じんぶつ・生おい立たち

田口たぐち八重子やえこは、1955年ねん8月がつ10日とおか、埼玉さいたま県けん川口かわぐち市しに生うまれた。7人にんきょうだいの末すえっ子こ（四よん女じょ）で、長兄ちょうけいの飯塚いいづか繁雄しげおとは17歳さい離はなれていた。戦前せんぜんの飯塚いいづか家かは東京とうきょうにあり、川口かわぐちへは戦後せんご移うつり住すんだ。八重子やえこの母ははハナは新潟にいがた県けん佐渡さど島とうの出身しゅっしんで調理ちょうり師しとして働はたらき、ハナが八重子やえこを出産しゅっさんするとき、定時ていじ制せい高校こうこうに通かよって働はたらいていた繁雄しげおは湯ゆを沸わかすなどして出産しゅっさんを手伝てつだったという。幼おさないころの八重子やえこを最もっともかわいがったのは父親ちちおやで、いつも八重子やえこを膝ひざの上うえにのせていたという。繁雄しげおによれば、八重子やえこはたいへん子こども好すきであった。また、「小ちいさい頃ころから芯しんが強つよく、どんなことにも挫くじけない」、「性格せいかく的てきには負まけず嫌ぎらいで、何なにとしても自分じぶんで生活せいかつを築きずいていくんだという強つよい意志いし」があったと語かたっている。高等こうとう学校がっこうは中退ちゅうたいしたが、スポーツもやっていて活発かっぱつな女性じょせいであった。金賢姫きむひょんひの回想かいそうによれば、「身長しんちょう165センチぐらいのすらっとした背丈せたけ。目鼻めはなだちが大おおきくはっきりしており、西洋せいよう人的じんてきな雰囲気ふんいきの持もち主ぬしで、おしゃれな人ひとだという印象いんしょうを受うけた」。また、沢田さわだ研二けんじの大だいファンだったという。

失踪しっそう

1978年ねん（昭和しょうわ53年ねん）6月がつ、八重子やえこ（当時とうじ22歳さい）は新宿しんじゅく区く高田馬場たかだのばばのベビーホテルに2歳さい半はんの娘むすめと1歳さいの息子むすこを預あづけたまま失踪しっそうした。勤つとめ先さきにも顔かおを出ださなかった。八重子やえこは生活せいかつ能力のうりょくのない別居べっきょ中ちゅうの夫おっととの離婚りこんを決意けついし、女手おんなでひとつで2人ふたりの子こどもを育そだてるため、池袋いけぶくろのキャバレーで働はたらいていた。彼女かのじょは、店みせでは「ちとせ」と名乗なのっていた。彼女かのじょが勤つとめ先さきをキャバレーに決きめたのは、託児たくじ所しょ完備かんびという求人きゅうじん広告こうこくのためだった。最初さいしょのうちは、その託児たくじ所しょに子こどもを預あづけていたが、深夜しんや、仕事しごとが終おわってから寝ねている子こどもを起おこし、自宅じたくアパートまで連つれ帰かえるのがかわいそうに思おもえ、ベビーホテルを利用りようするようになった。仕事しごとを始はじめる前まえ、八重子やえこは夫おっととのことや仕事しごとのことなど兄あにの繁雄しげおに何なん度ども相談そうだんしたという。

ベビーホテルからの連絡れんらくは、まず仕事しごと先さきに入はいり、仕事しごと先さきから八重子やえこの保証人ほしょうにんとなっていた兄あに繁雄しげおのもとに入はいった。繁雄しげおは八重子やえこと幼おさない子供こどもたちが住すんでいた新築しんちくのアパートをたずねたが、家具かぐや食器しょっきはふだんのままで、いつ帰かえってきてもおかしくないような状態じょうたいであったという。7月がつ4日にち、繁雄しげおは警察けいさつに捜索そうさく願ねがいを出だした。そして、八重子やえこの残のこした借金しゃっきんや未払みはらいの部屋へや代だいを肩代かたがわりした。繁雄しげおは、すぐに八重子やえこがもどってくるだろうと考かんがえて、八重子やえこの2人ふたりの子こどもをいったん預あずかった。しかし、半年はんとしの間あいだ、何なんの手てがかりもなかったので、親族しんぞく会議かいぎをひらき、その結果けっか、八重子やえこの長男ちょうなん・耕一郎こういちろうは繁雄しげおが、娘むすめ（耕一郎こういちろうの姉あね）は八重子やえこの姉あね（繁雄しげおの妹いもうと）が引ひき取とることとした。

その後ごも繁雄しげおが警察けいさつから呼よび出だされることがあっても、手てがかりはほとんど得えられなかった。失踪しっそう時じに八重子やえこが働はたらいていた店みせに繁雄しげおが出向でむいて聞きいた話はなしでは、失踪しっそうする前まえ、何人なんにんかの男おとこたちがしばしば八重子やえこを訪おとずれたという。のちの警察けいさつの調しらべで、八重子やえこの店みせの常連じょうれん客きゃくのなかに「宮本みやもと明あきら（みやもと あきら）」を名乗なのる羽振はぶりのよい人物じんぶつがおり、この人物じんぶつが北朝鮮きたちょうせんの工作こうさく員いんを支援しえんする在日ざいにち朝鮮ちょうせん人じんの補助ほじょ工作こうさく員いん、李り京きょう雨う（リ・ギョンウ）だったことが判明はんめいした。また、朝鮮総連ちょうせんそうれん副ふく議長ぎちょうで北朝鮮きたちょうせんに50億おく円えん献金けんきんしたと言いわれる安やす商しょう宅たくという大物おおもの商工しょうこう人じんが彼女かのじょの拉致らちにからんでいたという情報じょうほうもある。「ちとせ」（田口たぐち八重子やえこ）は、勤つとめが終おわった後のちで立たち寄よった池袋いけぶくろのスナックで、「新潟にいがたに2、3日にち出でかける」、新潟にいがたは「景色けしきもよくて、思おもい出でがあるところ」と話はなし、「帰かえってきたら小ちいさなスナックでも開ひらきたい」と語かたっていたという。佐渡さど出身しゅっしんの八重子やえこの母ははも八重子やえこを連つれてよく新潟にいがたや佐渡さどを訪おとずれていた。

なお、八重子やえこ失踪しっそうの時期じきは、福井ふくい県けんで地ち村むら保志やすし・浜本はまもと富貴ふき恵めぐみ拉致らち事件じけん（1978年ねん7月がつ8日にち）、新潟にいがた県けんで蓮池はすいけ薫かおる・奥戸おくど祐ゆう木子きご拉致らち事件じけん（1978年ねん7月がつ31日にち）、鹿児島かごしま県けんで市川いちかわ修一しゅういち・増ぞう元もとるみ子こ拉致らち事件じけん（1978年ねん8月がつ12日にち）、新潟にいがた県けん佐渡さど島とうで曽我そがミヨシ・ひとみ拉致らち事件じけん（1978年ねん8月がつ12日にち）などの拉致らち事件じけんが立たて続つづけに起おこった直前ちょくぜんにあたる。また、彼女かのじょが失踪しっそうした6月がつ中旬ちゅうじゅんから7月がつ上旬じょうじゅんにかけては、北朝鮮きたちょうせんの高速こうそく工作こうさく船せんが佐渡さど島とうの南方なんぽうや東方とうほうで何なん度ども確認かくにんされており、沖合おきあい20キロメートル周辺しゅうへんの海上かいじょうを低速ていそく移動いどうしたり、停泊ていはくしたりなどの不審ふしんな行動こうどうをとっていたとの漁業ぎょぎょう関係かんけい者しゃによる証言しょうげんがある。

彼女かのじょが失踪しっそうして最初さいしょの2年間ねんかんくらいは、飯塚いいづか家かにときどき無言むごん電話でんわがあったという。これは日本にっぽん国内こくないに八重子やえこがいるように思おもわせるための偽装ぎそうだった可能かのう性せいがある。

金賢姫きむひょんひの証言しょうげん

「金賢姫きむひょんひ」および「大韓航空だいかんこうくう機き爆破ばくは事件じけん」も参照さんしょう

ソウルオリンピックを翌年よくねんにひかえた1987年ねん11月29日にち、バグダッド発はつソウル行いきの大韓航空だいかんこうくう機きがビルマ沖おき上空じょうくうで突然とつぜん消息しょうそくを絶たち、乗員じょういん・乗客じょうきゃく全員ぜんいんが行方ゆくえ不明ふめい（のち115人にん全員ぜんいん死亡しぼうと断定だんてい）となり、これが空中くうちゅう爆破ばくはによる墜落ついらくであることが判明はんめいした（大韓航空だいかんこうくう機き爆破ばくは事件じけん）。しかし、途中とちゅうで経由けいゆ地ちアブダビ空港くうこうで日本人にっぽんじん名義めいぎの旅券りょけんを所持しょじする男女だんじょが降おりたことが判明はんめい、事件じけん直後ちょくごよりマークされた。2人ふたりは12月1日にち、バーレーン国際こくさい空港くうこうからローマに向むけ出国しゅっこくしようとしたところを拘束こうそくされた。空港くうこうでの事情じじょう聴取ちょうしゅ中ちゅう、2人ふたりはタバコに仕込しこんであったカプセルで服毒ふくどく自殺じさつをはかり、男性だんせい（金きむ勝一かついち）は死亡しぼう、女性じょせいの方ほうは意識いしきを失うしなったものの一命いちめいを取とりとめ、12月15日にち、ソウルに移送いそうされた。

日本人にっぽんじん化か教育きょういく

女性じょせいは、朝鮮ちょうせん労働党ろうどうとう中央ちゅうおう委員いいん会かい調査ちょうさ部ぶ所属しょぞくの特殊とくしゅ工作こうさく員いん・金賢姫きむひょんひであった。金賢姫きむひょんひはソウルでの取とり調しらべのなかで、1981年ねん7月がつから1983年ねん3月がつにかけて「李り恩恵おんけい」という日本にっぽんから拉致らちされてきた女性じょせいと起居ききょをともにし、一対一いちたいいちで日本人にっぽんじん化か教育きょういくを受うけたと証言しょうげんした。なお、金賢姫きむひょんひは、「李り恩恵おんけい」からマンツーマンの指導しどうを受うける前まえ、金きむ淑よし姫ひめという1歳さい年下とししたの女性じょせいとペアを組くんで北朝鮮きたちょうせん当局とうきょくからの工作こうさく員いん教育きょういくを受うけ、その後ご、1981年ねん4月がつから7月がつまでは金きむ淑よし姫ひめとともに日本にっぽんの小学校しょうがっこうの国語こくご教科書きょうかしょを使つかって日本語にほんご教育きょういくを受うけていた。「李り恩恵おんけい」からの指導しどうがはじまると淑よし姫ひめとのペアは解消かいしょうしたが、1985年ねんからは再ふたたび彼女かのじょとペアを組くんで中国人ちゅうごくじん化か教育きょういくを受うけ、その後ごもしばしば行動こうどうをともにした。

金賢姫きむひょんひの日本人にっぽんじん化か教育きょういくは、日課にっか表ひょうにしたがって進すすめられ、すべての会話かいわに日本語にほんごのみを使用しようし、朝鮮ちょうせん語ごを一切いっさい使つかわないこと、また、言葉ことばだけではなく、所作しょさや習慣しゅうかん、化粧けしょうのしかた、日本人にっぽんじんの考かんがえ方かたに至いたるまで学まなび、完全かんぜんな日本人にっぽんじんになりきることができることを目標もくひょうとした。金賢姫きむひょんひと「李り恩恵おんけい」は寝ねている時間じかんを除のぞいては常つねに一緒いっしょに過すごし、掃除そうじのときも散歩さんぽのときも日本語にほんごで会話かいわしたので、「李り恩恵おんけい」はまるで自分じぶんが日本にっぽんにいるような錯覚さっかくにおちいることがあると言いい、ようやく学まなんだ朝鮮ちょうせん語ごを忘わすれてしまいそうだと気きをもんだ。しかし、これも自分じぶんにあたえられた「課業かぎょう」と考かんがえ、彼女かのじょを日本人にっぽんじん化かすることに全力ぜんりょくを傾かたむけた。自分じぶんの知しっていること、新聞しんぶんや雑誌ざっし・書籍しょせきなど与あたえられているメディアを総動員そうどういんして教材きょうざいとし、彼女かのじょが理解りかいするまで根気こんき強つよく教おしえた。「李り恩恵おんけい」は自分じぶん自身じしんで講義こうぎ録ろくを作つくり、テレビニュース、ニュース解説かいせつ、日本にっぽん映画えいが、ドキュメンタリーなどの録画ろくがテープも教材きょうざいとした。金賢姫きむひょんひは、「瀬戸せとの花嫁はなよめ」「津軽海峡つがるかいきょう・冬ふゆ景色けしき」をはじめとする数すう多おおくの日本にっぽんの歌うた、日本にっぽんの習慣しゅうかんや作法さほう、交通こうつう施設しせつの利用りよう方法ほうほう、各かく地域ちいきの特性とくせい、日本にっぽんの社会しゃかい秩序ちつじょのほか、日本人にっぽんじんの表情ひょうじょう、身みだしなみ、服装ふくそう、履物はきものの整ととのえ方かた、化粧けしょう法ほうといった、ありとあらゆることを「李り恩恵おんけい」から教おそわったのである。

「李り恩恵おんけい」の身みの上うえ話ばなしによれば、彼女かのじょは子こどもが3歳さいと1歳さいのとき、どこかの海岸かいがんに遊あそびに行いき、浜辺はまべを散歩さんぽしているとき北朝鮮きたちょうせんの船ふねに拉致らちされた。船酔ふなよいがひどく、何なん日にちも食たべられないことから昏睡こんすい状態じょうたいに陥おちいった。普段着ふだんぎのままで北朝鮮きたちょうせんに上陸じょうりくし、持もち物ものはハンドバック1つだけだったという。拉致らちされてきたときは、乳ちちが張はってそれを絞しぼっていた。最初さいしょ、彼女かのじょは牡丹ぼたん峰ほうの招待しょうたい所しょに収容しゅうようされ、子こどもと故郷こきょうを偲しのんで泣ないたり、叫さけんだりして食たべることも拒否きょひしたが、やがて諦あきらめて環境かんきょうに順応じゅんのうしようとしたという。世話せわ係がかりの女性じょせいは、「李り恩恵おんけい」はおそらく日本にっぽんの酒場さかばで働はたらいていた女性じょせいだろうと言いっていたが、それは金賢姫きむひょんひも同どう意見いけんであった。彼女かのじょは酒さけとたばこを好このんだ。彼女かのじょは酔ようと窓まどの外そとを眺ながめて、私わたしの子こどもは今いま何なん歳さいかと言いいながら指ゆびを折おって数かぞえたり、泣ないたりすることがよくあった。朝食ちょうしょくはとらず、コーヒーを頻繁ひんぱんに飲のんだ。

金賢姫きむひょんひはまた、1982年ねん2月がつ、酒さけに酔よった「李り恩恵おんけい」より、以下いかのような話はなしを聞きいたと証言しょうげんしている。

金きむ正日じょんいる同志どうしの誕生たんじょう日び（2月がつ16日にち）の晩餐ばんさんに日本人にっぽんじん女性じょせいとして特別とくべつに招待しょうたいされて行いったことがあります。そこで、私わたしのように拉致らちされて来きたらしい日本人にっぽんじん夫婦ふうふに会あいました。でも、このことは絶対ぜったいに口外こうがいしてはいけません

これは、金きむ正日じょんいるの誕生たんじょうパーティーに招まねかれたときの話はなしであり、そのとき芸術げいじゅつ家かがたくさん集あつまり、服ふくを脱ぬぐゲームがあって歌手かしゅの崔ちぇ恵めぐみ玉だまがたくさん脱ぬがされて気きの毒どくだったこと、日本人にっぽんじん拉致らち被害ひがい者しゃの夫婦ふうふも来きていたことを金賢姫きむひょんひに話はなしたが、すぐに後悔こうかいして、今こん自分じぶんが話はなしたことは決けっして口外こうがいしないでくれと懇願こんがんしたものであった。

彼女かのじょは、金賢姫きむひょんひにとっては初はじめて接せっする外国がいこく人じんであった。開あけっぴろげに何なんでもしゃべる人ひとで、酒席しゅせきでの男性だんせいのこともよく話はなし、「男おとこを誘惑ゆうわくすることは難むずかしいことではない。子こどもと同おなじように思おもって尽つくしてあげればいい」と金賢姫きむひょんひに教おしえたことがあったという。招待しょうたい所しょの近ちかくに墓はかがあり、一緒いっしょに散歩さんぽしていると、彼女かのじょはよく立たち止どまってたばこを手向たむけて墓はかに祈いのったという。彼女かのじょは末すえっ子こで父ちちにかわいがられ、大おおきくなってからも一緒いっしょに風呂ふろに入はいったという思おもい出で話ばなしをし、父ちちを思おもい出だしてそうするのだと金賢姫きむひょんひに説明せつめいしていた。母親ははおやの出身しゅっしん地ちが新潟にいがた県けんの佐渡さど島とうであることも教おしえてくれた。

彼女かのじょは自由じゆう奔放ほんぽうな性格せいかくで、山奥やまおくの招待しょうたい所しょに監禁かんきんされて暮くらせるような人ひとではなかった。彼女かのじょは、金賢姫きむひょんひの目めからは、生いきる希望きぼうを失うしなっているように見みえた。また、物欲ぶつよくや金銭きんせん欲よくがなく、外貨がいかショップでは自分じぶんの服ふくさえ買かわず、貯金ちょきんもしなかった。そして、高価こうかなたばこや酒さけなどを買かっては、指導しどう員いんや世話せわ係がかりの女性じょせいに気前きまえよく分わけ与あたえるのだった。金かねを貸かしてくれと言いわれると自分じぶんが困こまっているときも断ことわり切きれず、貸かしていた。1982年ねんの正月しょうがつに贈おくり物ものとして贈おくられてきたカレンダー、酒さけ3本ほん、砂糖さとう1箱はこ、飴あめ、牛肉ぎゅうにく・サンマ・桃ももの缶詰かんづめ、たばこ10箱はこが送おくられてきたが、それも全部ぜんぶ、金賢姫きむひょんひと招待しょうたい所しょの人ひとに分わけ与あたえた。あるとき、彼女かのじょが学生がくせい時代じだいにテニスをしていて痛いためた腰こしの痛いたみが再発さいはつし、915病院びょういんに入院にゅういんしたため、日本語にほんご学習がくしゅうを中断ちゅうだんしたことがあった。

「李り恩恵おんけい」は仮名かめいで、通常つうじょうは「高こう恵めぐみ玉だま（コ・ヘオク）」を朝鮮ちょうせん名めいとしており、幹部かんぶや指導しどう員いんが彼女かのじょをそう呼よぶのを金賢姫きむひょんひは知しっていた。金賢姫きむひょんひ自身じしんは「金玉きんぎょく花はな（キム・オッカ）」と名乗なのっており、互たがいに「ケイ（恩恵おんけい）ちゃん」「タマ（玉たま花はな）ちゃん」と呼よびあった。

「李り恩恵おんけい」には自由じゆうがなかったが、ひどい労働ろうどうをさせられるということはなく、外国がいこく人じんは北朝鮮きたちょうせんの一般人いっぱんじんよりはましな待遇たいぐうを受うけており、仕事しごとは主しゅとして教育きょういく係がかりであった。にもかかわらず、彼女かのじょは北朝鮮きたちょうせんの一般人いっぱんじんと同おなじような待遇たいぐうを受うけることを望のぞんでおり、金賢姫きむひょんひは、拉致らちされている身みの上うえでそのように考かんがえる「李り恩恵おんけい」を不憫ふびんでならないと思おもっていた。「李り恩恵おんけい」は、小ちいさい子こどもたちをとても愛あいし、北朝鮮きたちょうせんの子こどもたちが遊あそんでいるのを見みてうっとりと見入みいることがあり、あんな子こどもを育そだてることができたらどんなによいだろうとつぶやくこともあった。彼女かのじょは、いつも物思ものおもいに沈しずんでおり、夕焼ゆうやけを見みてはため息いきをついていた。

金賢姫きむひょんひは大韓航空だいかんこうくう機き事件じけんを起おこすまで訪日ほうにちしたことは一いち度どもなかったにもかかわらず、日本人にっぽんじん記者きしゃたちと自由じゆうに日本語にほんごで会話かいわできるだけの日本語にほんご能力のうりょくをもっていた。これは、「李り恩恵おんけい」こと田口たぐち八重子やえこの努力どりょくの賜物たまものとみなすことができる。

横田よこためぐみと同居どうきょ

金賢姫きむひょんひが2009年ねんに八重子やえこの長男ちょうなん飯塚いいづか耕一郎こういちろうに語かたったところによれば、田口たぐち八重子やえこ、横田よこためぐみ、金きむ淑よし姫ひめの3人にんは、1984年ねん末すえ頃ごろまで中和ちゅうわ郡ぐん忠ちゅう龍りゅう里さとの招待しょうたい所しょで同居どうきょしていたという。この事実じじつは、金賢姫きむひょんひが1985年ねん1月がつに再ふたたびペアを組くむことになった金きむ淑よし姫ひめと再会さいかいした際さい、淑よし姫ひめ本人ほんにんから聞きいたものである。金きむ淑よし姫ひめは金賢姫きむひょんひに、3人にんが同居どうきょした招待しょうたい所しょについて「電気でんき事情じじょうが悪わるく寒さむいので、服ふくを何なん枚まいも重かさね着ちゃくしていた」と話はなしていたという。日本人にっぽんじん拉致らち被害ひがい者しゃの地ち村むら富貴ふうき恵めぐみは「1984年ねん秋あき、平壌ぴょんやんの南東なんとう約やく20キロにある忠ちゅう龍りゅう里さとという場所ばしょで田口たぐち八重子やえこと再会さいかいした」と証言しょうげんしており、八重子やえこと横田よこためぐみが同居どうきょするようになったのはこの直後ちょくごの可能かのう性せいが高たかいと考かんがえられる。このとき田口たぐち八重子やえこは結婚けっこんしていなかったという。北朝鮮きたちょうせんの説明せつめいでは、田口たぐち八重子やえこは1984年ねん10月19日にちに拉致らち被害ひがい者しゃの原はら敕晁と結婚けっこんし、1986年ねんに原はら・田口たぐちが次々つぎつぎに死亡しぼうしたということであったが、この説明せつめいには嘘うそがまじっていることが判明はんめいした。なお、八重子やえこの兄あにの飯塚いいづか繁雄しげおも、八重子やえこは男性だんせいの好このみがうるさかったので、年齢ねんれい差さが20歳さい近ちかくもある相手あいてを選えらぶとは考かんがえにくいと語かたっている。カップルで拉致らちされた人ひとたちと異ことなり、拉致らち以前いぜんにも2人ふたりには接点せってんがまったくなかったことから、北朝鮮きたちょうせんが勝手かってに組くみ合あわせたとの見方みかたが有力ゆうりょくである。

地ち村むら富貴ふうき恵めぐみは、1985年ねん1月がつ頃ごろ、金きむ淑よし姫ひめと田口たぐち八重子やえこ、横田よこためぐみが同居どうきょしていたが、途中とちゅうで淑よし姫ひめがいなくなって田口たぐち八重子やえこと横田よこためぐみが忠ちゅう龍りゅう里さと一いち地区ちくで2人ふたりで暮くらすようになり、1985年ねん末まつに同おなじ忠ちゅう龍りゅう里さとの二に地区ちくに移うつされ、1986年ねん春はる頃ごろに八重子やえこが腰痛ようつうのため915病院びょういんに入院にゅういんしたため、横田よこためぐみが1人ひとり残のこされたが、そこに近所きんじょに住すんでいた金きむ英男ひでおが通かよい、彼女かのじょから日本語にほんごを習ならったと証言しょうげんしている。

拉致らちの発覚はっかくと身元みもと断定だんてい

日本にっぽんでは、1987年ねんの大韓航空だいかんこうくう機き爆破ばくは事件じけんの発生はっせいを機きに八重子やえこが北朝鮮きたちょうせんに拉致らちされたことが発覚はっかくした。兄あにの繁雄しげおは当初とうしょ、妹いもうとの失踪しっそうと大韓航空だいかんこうくう機きの事件じけんとが結むすびついていると思おもいもしなかったが、金賢姫きむひょんひの記憶きおくにもとづいて描えがかれた「李り恩恵おんけい」のポスターを見みて直観ちょっかん的てきに「似にている」と感かんじた。しかし、多感たかんな年齢ねんれいの子こどもたちへの影響えいきょうも考かんがえて「李り恩恵おんけい」が八重子やえこであることを一いち度どは否定ひていした。ところが、1990年ねんアジア冬季とうき競技きょうぎ大会たいかいのニュースをたまたま視みた金賢姫きむひょんひは、千歳空港ちとせくうこうという名なによって、「李り恩恵おんけい」が日本にっぽん女性じょせいの名前なまえとして教おしえてくれたひとつが「ちとせ」であることを思おもい出だした。雑談ざつだんをしていた「李り恩恵おんけい」が、金賢姫きむひょんひに「かわいい日本にっぽん名めいを付つけてあげる」と言いいながら、紙かみに名前なまえを書かいていって「ちとせ」と書かくと、突然とつぜん狼狽ろうばいし、あわててその名なを消けしたというのである。その瞬間しゅんかん、金賢姫きむひょんひはそれが彼女かのじょの本当ほんとうの名前なまえなのではないかと思おもった。金賢姫きむひょんひは「李り恩恵おんけい」の本名ほんみょうが田口たぐち八重子やえこであることは知しらなかったが、八重子やえこのキャバレーでの名前なまえが「ちとせ」であった。捜索そうさく活動かつどうを再開さいかいした警察けいさつは再度さいど田口たぐち八重子やえこへと辿たどり着ついた。

こうして、再ふたたび事情じじょう聴取ちょうしゅがはじまり、警察けいさつはソウルにあった金賢姫きむひょんひのもとに捜査そうさ官かんを派遣はけんして、田口たぐち八重子やえこの写真しゃしんと「李り恩恵おんけい」とを照合しょうごうさせた。1991年ねん5月がつ、田口たぐち八重子やえこの写真しゃしんを1枚まい入いれた15枚まいの写真しゃしんを金賢姫きむひょんひに示しめしたところ、金賢姫きむひょんひはためらうことなく八重やえ子この写うつった7枚まい目めの写真しゃしんを「恩恵おんけい先生せんせい」として指差ゆびさしたのだった。八重子やえこの写真しゃしんは17歳さいのときのものだったが、金賢姫きむひょんひにはすぐにわかったという。金賢姫きむひょんひがすでに供述きょうじゅつしていた「李り恩恵おんけい」の本籍ほんせき、出生しゅっしょう地ち、誕生たんじょう日び、家族かぞく関係かんけい、身体しんたいの特徴とくちょう、血液けつえき型がた、人柄ひとがら、しぐさや癖くせ、言葉ことばづかい、職業しょくぎょう、趣味しゅみや嗜好しこうなど、60以上いじょうの項目こうもくについて、田口たぐち八重子やえこと「李り恩恵おんけい」の特徴とくちょうが一致いっちした。

1991年ねん（平成へいせい3年ねん）5月15日にち、警察庁けいさつちょうと埼玉さいたま県けん警察けいさつが記者きしゃ会見かいけんを開ひらき、佐藤さとう正夫まさお警備けいび部長ぶちょうが匿名とくめい報道ほうどうを条件じょうけんに「李り恩恵おんけい」が田口たぐち八重子やえこであることが判明はんめいしたと発表はっぴょうした。この直後ちょくごより田口たぐち八重子やえこの家族かぞくはマスメディアの大だい攻勢こうせいにさらされた。八重子やえこの生家せいかには車くるまが何なん台だいも詰つめかけ、深夜しんやにもかかわらず玄関げんかんの戸とが叩たたかれ、テレビカメラが回まわされた。近隣きんりんの住民じゅうみんにもき込きこみが行おこなわれ、親戚しんせき中ちゅうに取材しゅざい陣じんが押おしかけた。八重子やえこたちの母ははハナが身みを寄よせていた養老ようろう院いんや病院びょういんにまでマスコミ陣じんが押おし寄よせた。「李り恩恵おんけい」身元みもと断定だんていの発表はっぴょうのなされた5日にち後ご（5月がつ20日はつか）、日にち朝ちょう国交こっこう正常せいじょう化かにむけた第だい3回かい交渉こうしょうにおいて、日本にっぽん側がわが北朝鮮きたちょうせんに対たいし「李り恩恵おんけい」の消息しょうそく調査ちょうさを持もち出だしたところ、北朝鮮きたちょうせんの交渉こうしょう担当たんとう者しゃが怒いかり、席せきを蹴けって退室たいしつしてしまった。こうしたことが2度ど繰くり返かえされたが、兄あにの繁雄しげおは、それほど怒おこるのならば「李り恩恵おんけい」にまつわる話はなしは本当ほんとうなのだろうと判断はんだんした。当時とうじ、北朝鮮きたちょうせん政府せいふは大韓航空だいかんこうくう機き爆破ばくは事件じけんそのものが韓国かんこく側がわのでっち上あげであり、工作こうさく員いんの金賢姫きむひょんひなる人物じんぶつも実在じつざいしないという立場たちばをとっていたからである。

2002年ねんの「死亡しぼう」報告ほうこく

2002年ねん9月がつ17日にち、日本にっぽんの小泉こいずみ純一郎じゅんいちろう首相しゅしょうが訪問ほうもんして金きむ正日じょんいる国防こくぼう委員いいん長ちょうと会談かいだんを行おこない、日にち朝ちょう平壌ぴょんやん宣言せんげんを発表はっぴょうした。そのとき、北朝鮮きたちょうせん側がわはそれまで「事実無根じじつむこん」と主張しゅちょうしてきた拉致らち問題もんだいを一転いってんして正式せいしきに認みとめ、謝罪しゃざいした。

70〜80年代ねんだいに特殊とくしゅ部署ぶしょが妄動もうどう主義しゅぎ、英雄えいゆう主義しゅぎに駆かられ、工作こうさく員いんの日本語にほんご教育きょういくと、日本人にっぽんじんに成なりすまして韓国かんこくへ侵入しんにゅうするために日本人にっぽんじんを拉致らちしたが、このような誤あやまった指示しじをした幹部かんぶを処罰しょばつした…。工作こうさく船せんは軍部ぐんぶが訓練くんれんの下したでした。私わたしは知しらなかった…。再ふたたびないようにする。

金きむ正日じょんいるは以上いじょうのように弁明べんめいし、チャン・ボンリムとキム・ソンチョルを処罰しょばつしたと説明せつめいした。また、拉致らち被害ひがい者しゃの安否あんぴ情報じょうほうを日本にっぽん側がわに提供ていきょうしたが、それによれば田口たぐち八重子やえこはじめ8人にんはすでに死亡しぼうしたということであった。この内容ないようには日本にっぽん国民こくみんの北朝鮮きたちょうせんに対たいする怒いかりが沸騰ふっとうし、これを受うけるかたちで日本にっぽんの外務省がいむしょうは北朝鮮きたちょうせんに事実じじつ調査ちょうさチームを送おくり、9月28日にちから10月がつ1日にちにかけて調査ちょうさを行おこない、10月2日にち、その結果けっかを発表はっぴょうした。田口たぐち八重子やえこに関かんしては、以下いかのような内容ないようであった。

• 田口たぐち八重子やえこ

（注ちゅう）北朝鮮きたちょうせん側がわは、調査ちょうさの結果けっか、「李り恩恵おんけい」なる日本人にっぽんじん女性じょせいはいない旨むね回答かいとう

1. 朝鮮ちょうせん名めい コ・ヘオク 女おんな
2. 1955年ねん8月がつ10日にち生せい 当時とうじ23 - 24歳さい
3. 本籍ほんせき:埼玉さいたま県けん川口かわぐち市し
4. 出生しゅっしょう地ち:埼玉さいたま県けん
5. 住所じゅうしょ:東京とうきょう都と豊島としま区く
6. 日本にっぽん在住ざいじゅう時じの職業しょくぎょう:飲食いんしょく店てん勤務きんむ
7. 入国にゅうこく経緯けいい:工作こうさく員いんが身分みぶん盗用とうように利用りようする対象たいしょう者しゃを物色ぶっしょく中ちゅう、1978年ねん6月がつ29日にち宮崎みやざき県けん宮崎みやざき市し青島ちんたお海岸かいがんで本人ほんにんが共和きょうわ国こくに3日にち程度ていどなら観光かんこうがてら行いきたいという意向いこうを示しめしたことから、特殊とくしゅ工作こうさく員いんが身分みぶんを偽装ぎそうするのに利用りようするため連つれてきた。辛からし光こう洙は関係かんけいがない。
8. 入国にゅうこく後ご:1978年ねん6月がつから1984年ねん10月がつまで招待しょうたい所しょで朝鮮ちょうせん語ごの習得しゅうとく、現実げんじつ研究けんきゅうおよび現実げんじつ体験たいけんをした。1984年ねん10月がつ19日にち、原はら敕晁と結婚けっこん。1986年ねんまで家庭かてい生活せいかつ。
9. 死亡しぼう経緯けいい:夫おっとの死亡しぼう（1986年ねん7月がつ19日にち）後ご、精神せいしん的てき衝撃しょうげきを受うけていたが、数日すうじつして安定あんていして帰宅きたくする途中とちゅう、1986年ねん7月がつ30日にち、黄海こうかい北道ほくどう麟山郡ぐんのマシク嶺みね峠とうげでトラックの衝突しょうとつ事故じこで死亡しぼう。この事故じこで同人どうじん及および運転うんてん手しゅを含ふくむ3名めいが乗用車じょうようしゃで死亡しぼう、トラックの2人ふたりは重傷じゅうしょうを負おった。
10. 遺骸いがい:黄海こうかい北道ほくどう麟山郡ぐんに墓はかがあったが、1995年ねん7月がつの豪雨ごううで上月こうづき里さとの貯水池ちょすいちダムの堤防ていぼうが壊こわれ、墓はかが流出りゅうしゅつした。
11. 遺品いひん:なし
12. 原はら敕晁と結婚けっこんするも子こどもなし。原はらも麟山郡ぐんで病気びょうきで死亡しぼう。
13. 事故じこでの志望しぼう者しゃと生存せいぞん者しゃに関かんする書類しょるいが存在そんざいするが、今後こんご、法的ほうてき仕組しくみが出来できた時点じてんで証言しょうげんと文書ぶんしょを提供ていきょうすることができる。

北朝鮮きたちょうせん側がわの説明せつめいは、田口たぐち八重子やえこが「李り恩恵おんけい」とはまったく関係かんけいのない別人べつじんであると主張しゅちょうするものであり、「李り恩恵おんけい」なる女性じょせいはいないというものである。換言かんげんすれば、北朝鮮きたちょうせんは田口たぐち八重子やえこを拉致らちしたことは認みとめるものの八重子やえこが金賢姫きむひょんひに日本人にっぽんじん化か教育きょういくをした事実じじつは認みとめない、ということである。したがって、彼女かのじょの死亡しぼう日時にちじも1986年ねんに設定せっていし、1987年ねんの大韓航空だいかんこうくう機き爆破ばくは事件じけん以前いぜんのこととしたものと考かんがえられる。実際じっさいには、大韓航空だいかんこうくう機き爆破ばくは事件じけんは工作こうさく員いん養成ようせい学校がっこうである金きむ正日じょんいる政治せいじ軍事ぐんじ大学だいがくで話題わだいになり、学生がくせいたちも「李り恩恵おんけい」こと田口たぐち八重子やえこがどうなったかに大おおきな関心かんしんを寄よせていたという。当時とうじ、金きむ正日じょんいる政治せいじ軍事ぐんじ大学だいがくの学生がくせいだった安明やすあき進すすむは、田口たぐち八重子やえこは処罰しょばつされずに、所属しょぞくが対外たいがい情報じょうほう調査ちょうさ室しつから社会しゃかい文化ぶんか部ぶ（現在げんざいの対外たいがい連絡れんらく部ぶ）に変かわり、居住きょじゅうの場所ばしょも人目ひとめにつかない郊外こうがいに移うつされただけであるという話はなしを校内こうないで聞きいた。したがって、北朝鮮きたちょうせん側がわの「説明せつめい」は金賢姫きむひょんひ証言しょうげんと安明やすあき進すすむ証言しょうげんの両方りょうほうを否定ひていしたいがために、彼女かのじょの「死亡しぼう」を1986年ねんに設定せっていしたと考かんがえることができる。安明やすあき進しんは、一方いっぽうでは横田よこためぐみや市川いちかわ修一しゅういちらを目撃もくげきしたとも語かたっており、北朝鮮きたちょうせんとしては否定ひていしたい証言しょうげん者しゃであった。

結婚けっこん時期じき、結婚けっこん相手あいてに関かんする疑問ぎもんは上述じょうじゅつの通とおりであり、「拉致らちの場所ばしょが宮崎みやざき県けん宮崎みやざき市し青島ちんたお海岸かいがん」というのも、彼女かのじょには無縁むえんの地ちである。「観光かんこうがてら北朝鮮きたちょうせんに渡わたりたい」というのも、乳飲ちのみ子ご2人にんを残のこしてそのようなことを子こども好すきの彼女かのじょが言いうかは極きわめて疑問ぎもんである。死亡しぼう確認かくにん書しょも、他たの場所ばしょで「死亡しぼう」したことになっている他ほかの拉致らち被害ひがい者しゃと同おなじ平壌ぴょんやんの695病院びょういん発行はっこうとなっていて、まるでコピーしたかのようである。遺骨いこつも墓はかもなく、彼女かのじょが亡なくなったという物的ぶってき証拠しょうこは一ひとつもない状態じょうたいといえる。

なお、2004年ねん11月の第だい3回かい日にち朝ちょう実務じつむ者しゃ協議きょうぎで北朝鮮きたちょうせん側がわは、2002年ねんに日本にっぽん政府せいふ調査ちょうさ団だんに提供ていきょうされた8人にんの死亡しぼう確認かくにん書しょと横田よこためぐみの病院びょういん死亡しぼう台帳だいちょうが「本来ほんらい存在そんざいしないものを捏造ねつぞうした」ものであることを認みとめている。

安否あんぴ・目撃もくげき情報じょうほう

2002年ねん10月がつに帰国きこくした拉致らち被害ひがい者しゃたちの証言しょうげんによれば、田口たぐち八重子やえこは、1978年ねん9月がつから1979年ねん11月がつまで浜本はまもと富貴ふき恵めぐみと同おなじ平壌ぴょんやん市内しないの招待しょうたい所しょで暮くらした。招待しょうたい所しょの指導しどう員いんは、同どう時期じきに田口たぐち八重子やえこの朝鮮ちょうせん名めいを「高こう恵めぐみ玉だま（コ・ヘオク）」、富貴ふうき恵めぐみの朝鮮ちょうせん名めいを「李り英えい玉だま（リ・ヨンオク）」とつけたという。富貴ふうき恵めぐみは田口たぐち八重子やえこの印象いんしょうについて「おない年どしだったので気きがあって、楽たのしく生活せいかつすることができた。背せが高たかくて、外見がいけんは大人おとなっぽく見みえたが、寂さびしがり屋やで甘あまえん坊ぼうだったような気きがする」と話はなしている。なお、八重子やえこが金賢姫きむひょんひの日本人にっぽんじん化か教育きょういく係がかりとして「李り恩恵おんけい」の仮名かめいを用もちいていたことについては、その名前なまえは自分じぶんは「知しらなかった」と述のべた。しかし、1981年ねんから1983年ねんにかけて、八重子やえこが「オッカ」という北朝鮮きたちょうせんの女性じょせい工作こうさく員いんに日本語にほんごを教おしえていたことを証言しょうげんしている。

その後ご、富貴ふうき恵めぐみは福井ふくい県けん小浜おばま市しで一緒いっしょに拉致らちされた地ち村むら保志ほしと結婚けっこんし、1979年ねん11月に中和ちゅうわ郡ぐん忠ちゅう龍りゅう里さとに移うつった。彼女かのじょの証言しょうげんによれば、北朝鮮きたちょうせんに拉致らちされていた際さい、八重子やえこは「子こどもが日本にっぽんにいるから帰かえしてほしい」と訴うったえたという。また、工作こうさく員いんとなって海外かいがいに渡わたり、日本にっぽん大使館たいしかんに駆かけ込こむことも計画けいかくしていたが、北朝鮮きたちょうせん側がわに工作こうさく員いんにはなれないと言いわれ、断念だんねんしたとされている。その後ご、1981年ねん7月がつから1983年ねん3月がつにかけて金賢姫きむひょんひの日本人にっぽんじん化か教育きょういく係がかりを務つとめたのは、金賢姫きむひょんひの証言しょうげんのとおりである。

帰国きこく被害ひがい者しゃたちは、1985年ねん1月がつ前後ぜんこう、忠ちゅう龍りゅう里さと一いち地区ちく3号ごう招待しょうたい所しょに田口たぐち八重子やえこ、横田よこためぐみ、金きむ淑よし姫ひめの3人にんが同居どうきょしているのを見みかけている。金きむ淑よし姫ひめは横田よこためぐみが日本語にほんごを教おしえていた北朝鮮きたちょうせん工作こうさく員いんである。その後ご、スッキ（淑よし姫ひめ）がいなくなり、田口たぐち八重子やえこと横田よこためぐみの2人ふたりが一いち地区ちく3号ごう招待しょうたい所しょで暮くらしていた。八重子やえこはしばしば地ち村むら家かや蓮池はすいけ家かを訪たずね、子こどもたちをかわいがっていた。八重子やえこは自分じぶんがあおむけになって寝ねそべり、小ちいさな子こどもたちの両手りょうて両足りょうあしを自分じぶんの手足てあしに乗のせて持もち上あげて飛行機ひこうき遊あそびをしてくれるので「飛行機ひこうきおねえさん」と呼よばれていたという。

1985年ねん末まつに、同おなじ忠ちゅう龍りゅう里さとの一いち地区ちくから二に地区ちくに移動いどうさせられ、二に地区ちく3号ごう招待しょうたい所しょに田口たぐち八重子やえこと横田よこためぐみ、二に地区ちく4号ごうに地ち村むら一家いっか、二に地区ちく6号ごうに蓮池はすいけ一家かずやが住すみ、1号ごうには小太こぶとりの日本人にっぽんじんらしき中年ちゅうねん男性だんせい、5号ごうには高校生こうこうせいのとき韓国かんこくから拉致らちされてきた金きむ英男ひでおが住すんでいた。1986年ねん春はる頃ごろに八重子やえこが腰痛ようつうで915病院びょういんに入院にゅういん、めぐみのところに金きむ英男ひでおが通かよい彼女かのじょから日本語にほんごを習ならった。その後ご、蓮池はすいけ家かは5号ごうに移うつり、八重子やえこは退院たいいん後ご、3号ごうで一人暮ひとりぐらしをしていた。1986年ねん7月がつ、蓮池はすいけ一家かずやは龍りゅう城じょう区域くいき43号ごう招待しょうたい所しょに引ひっ越こした。そこで、サンメ地区ちく招待しょうたい所しょから数すう日間にちかん来きていた金賢姫きむひょんひの世話せわ係がかりだった女性じょせいに会あい、「田口たぐち八重子やえこが『敵てき工こう区く』で結婚けっこんするらしい」という話はなしを聞きいた。

北朝鮮きたちょうせんの元もと対外たいがい連絡れんらく部ぶ指導しどう員いんの手記しゅきによれば、八重子やえこは1986年ねん7月がつから1991年ねん10月がつまで、烽火ほうか政治せいじ軍事ぐんじ大学だいがくで講師こうしをしていたが、頻繁ひんぱんに脱出だっしゅつを試こころみ、周辺しゅうへんにも自分じぶんの身分みぶんを語かたり、アルコール中毒ちゅうどくにかかっていたので、1996年ねん頃ころからは平壌ぴょんやん市し順安じゅんあん区域くいきの文化ぶんか部ぶ所属しょぞくの招待しょうたい所しょで外出がいしゅつ禁止きんし、隔離かくりされて生活せいかつしているという。

その後ごの安否あんぴはほとんど不明ふめいである。2000年ねんと2009年ねん、日本にっぽん政府せいふは彼女かのじょの生存せいぞんを信しんじるというコメントを発はっしている。なお、『朝鮮日報ちょうせんにっぽう』の伝つたえるところによれば、韓国かんこくの情報じょうほう機関きかんが数すう十じゅう人にんの韓国かんこく人じんと日本にっぽんの拉致らち被害ひがい者しゃが平安へいあん南道みなみどう平原ひらばら郡ぐん元和がんわ里さとに移動いどうさせられたことを報告ほうこくしている。元和がんわ里さと招待しょうたい所しょはもともと韓国かんこくに送おくられた工作こうさく員いんの訓練くんれん施設しせつとして使用しようされていたが、1990年代ねんだい以降いこう北朝鮮きたちょうせんは工作こうさく員いんの数かずを減へらしたので、拉致らち被害ひがい者しゃのための施設しせつに変かわったという。このなかに、田口たぐち八重子やえこが含ふくまれている可能かのう性せいもなくはない。

子こどもたち

田口たぐち八重子やえこの子こどもたちは彼女かのじょの兄弟きょうだいたちによって日本にっぽんで育そだてられた。彼女かのじょの息子むすこの耕一郎こういちろうは、田口たぐちの長兄ちょうけいの飯塚いいづか繁雄しげお夫妻ふさいによって育そだてられ、娘むすめ（耕一郎こういちろうの姉あね）は元もと夫おっととの面会めんかいを禁きんじられたのち、田口たぐちの二に番目ばんめの姉あねに引ひき取とられた。彼かれらが成人せいじんすると、飯塚いいづか繁雄しげおは彼かれらに八重子やえこの子こどもたちであることを伝つたえた。2002年ねん、兄あにの繁雄しげおが北朝鮮きたちょうせんによる拉致らち被害ひがい者しゃ家族かぞく連絡れんらく会かい（通称つうしょう「家族かぞく会かい」）に参画さんかくし、横田よこためぐみの両親りょうしんらと活動かつどうをともにするようになった。彼女かのじょの息子むすこは、東京とうきょうの情報じょうほう技術ぎじゅつ会社かいしゃのエンジニアであり、2004年ねん、北朝鮮きたちょうせんによる彼女かのじょの死しの主張しゅちょうは「ナンセンス」だと公おおやけに主張しゅちょうした。兄あに・繁雄しげおは2008年ねん、横田よこた滋しげるの後任こうにんとして「家族かぞく会かい」の代表だいひょうに就任しゅうにんした。

2008年ねん、飯塚いいづか耕一郎こういちろうは以下いかのように語かたっている。

ちょうど30年ねん前まえ、母ははと引ひき離はなされたとき、私わたしはまだ1歳さいと4か月げつであった。だから、私わたしは母ははのぬくもりも声こえも匂においも覚おぼえていない。私わたしたちは普通ふつうの家族かぞくにもどりたい、そして過去かこ30年ねんの間あいだ失うしなわれた時ときの一部いちぶを取とり戻もどしたい。

金賢姫きむひょんひは2009年ねん3月がつに田口たぐち八重子やえこの兄あに繁雄しげお、長男ちょうなん耕一郎こういちろうと韓国かんこくの釜山ぷさん広域こういき市しで面会めんかいした。金賢姫きむひょんひは飯塚いいづか耕一郎こういちろうに「似にていますね、お母かあさんと」と声こえをかけ、耕一郎こういちろうは「お姉ねえちゃんも似にているんですよ」と答こたえた。金賢姫きむひょんひはこのとき、終始しゅうし一貫いっかんして耕一郎こういちろうに「希望きぼうを持もちなさい」「お母かあさん、生いきていますよ」と語かたり続つづけた。金賢姫きむひょんひは「いつも息子むすこに会あいたいと言いっていた」という話はなしを、直接ちょくせつ耕一郎こういちろうに伝つたえた。耕一郎こういちろうは「母ははが確たしかに生いきているという証拠しょうこを受うけ取とりました。私わたしは私わたしたちの救助きゅうじょ活動かつどうに新あらたな希望きぼうを持もっています」と語かたった。

メディアでの田口たぐち八重子やえこ

スペシャルドラマ「再会さいかい〜横田よこためぐみさんの願ねがい〜」（日本にほんテレビ、2006年ねん）では佐田さた真由美まゆみ、映画えいが「めぐみへの誓ちかい」（アティカス、2020年ねん）では安座間あざま美優みゆによって演えんじられた。金賢姫きむひょんひの生涯しょうがいに関かんするドキュメンタリー「大韓航空だいかんこうくう機き事件じけん 金賢姫きむひょんひを捕とらえた男おとこたち」では、2人ふたりの出会であい、そして彼女かのじょが子供こどもたちにどのように子守こもり歌かを歌うたったかを特集とくしゅうした。彼女かのじょの息子むすこの飯塚いいづか耕一郎こういちろうは『母ははが拉致らちされた時とき 僕ぼくはまだ一いち歳さいだった』という本ほんを書かき、彼かれが叔父おじの子こどもとして養子ようし縁組えんぐみされ、再ふたたび母親ははおやに会あうために要ようした20年間ねんかんの苦悩くのうを描えがいた。それは、蓮池はすいけ透とおる『奪還だっかん』や横田よこた滋しげる・横田よこた早紀さき江こう『めぐみ』などとともに本ほんそういちによって漫画まんが化かされた。

脚注きゃくちゅう

参考さんこう文献ぶんけん　

• 青山あおやま健けん煕ひろし『北朝鮮きたちょうせん 悪魔あくまの正体しょうたい』光文社こうぶんしゃ、2002年ねん12月。ISBN 4-334-97375-2。 
• 荒木あらき和博かずひろ『拉致らち 異常いじょうな国家こっかの本質ほんしつ』勉つとむ誠まこと出版しゅっぱん、2005年ねん2月がつ。ISBN 4-585-05322-0。 
• 石高いしたか健次けんじ『これでもシラを切きるのか北朝鮮きたちょうせん』光文社こうぶんしゃ〈カッパブックス〉、1997年ねん11月。ISBN 978-4334006068。 
• 北朝鮮きたちょうせんによる拉致らち被害ひがい者しゃ家族かぞく連絡れんらく会かい 著ちょ「第だい5章しょう 「子供こどもを守まもりきる」戦たたかい：原はら敕晁・田口たぐち八重子やえこ」、米澤よねざわ仁ひとし次じ・近江おうみ裕ひろし嗣 編へん『家族かぞく』光文社こうぶんしゃ、2003年ねん7月がつ。ISBN 4-334-90110-7。 
• 金賢姫きむひょんひ 著しる、池田いけだ菊きく敏さとし 訳わけ『金賢姫きむひょんひ全ぜん告白こくはく いま、女おんなとして（上うえ）』文藝春秋ぶんげいしゅんじゅう、1991年ねん10月がつ。ISBN 4-16-345640-6。 
• 金賢姫きむひょんひ 著ちょ、池田いけだ菊きく敏さとし 訳やく『金賢姫きむひょんひ全ぜん告白こくはく いま、女おんなとして（下した）』文藝春秋ぶんげいしゅんじゅう、1991年ねん9月がつ。ISBN 4-16-345650-3。 
• 全ぜん富とみ億おく「「狙ねらわれた日本人にっぽんじん」のその後ご」『北朝鮮きたちょうせんの女おんなスパイ』講談社こうだんしゃ、1994年ねん4月がつ。ISBN 4-06-207014-6。 
• 新潟日報社にいがたにっぽうしゃ・特別とくべつ取材しゅざい班はん『祈いのり 北朝鮮きたちょうせん・拉致らちの真相しんそう』講談社こうだんしゃ、2004年ねん10月がつ。ISBN 4-06-212621-4。 
• 西岡にしおか力つとむ『コリア・タブーを解とく』亜紀あき書房しょぼう、1997年ねん2月がつ。ISBN 4-7505-9703-1。 
• 西岡にしおか力つとむ『金きむ正日じょんいるが仕掛しかけた「対たい日大にちだい謀略ぼうりゃく」拉致らちの真実しんじつ』徳間書店とくましょてん、2002年ねん10月がつ。ISBN 4-7505-9703-1。 
• 西岡にしおか力つとむ、趙ちょう甲きのえ濟わたる『金賢姫きむひょんひからの手紙てがみ』草くさ思おもえ社しゃ、2009年ねん5月がつ。ISBN 978-4-7942-1709-7。 
• 畠はたけ奈津子なつこ『拉致らちの悲劇ひげき 日び朝あさ交渉こうしょうへの気概きがいを問とう』高木たかぎ書房しょぼう、2002年ねん10月がつ。ISBN 4-88471-054-1。 

関連かんれん文献ぶんけん

• 飯塚いいづか繁雄しげお『妹いもうとよ―北朝鮮きたちょうせんに拉致らちされた八重子やえこ救出きゅうしゅつをめざして』日本テレビ放送網にほんてれびほうそうもう、2004年ねん5月がつ。ISBN 4-820398911。 
• 飯塚いいづか耕一郎こういちろう、本ほんそういち『母ははが拉致らちされた時とき僕ぼくはまだ1歳さいだった』双葉社ふたばしゃ、2006年ねん9月がつ。ISBN 4-575299197。 

関連かんれん項目こうもく

• 金賢姫きむひょんひ
• 飯塚いいづか繁雄しげお
• 北朝鮮きたちょうせん拉致らち問題もんだい

外部がいぶリンク

• “拉致らち被害ひがい者しゃご家族かぞくビデオメッセージ～必かならず取とり戻もどす! 愛あいする家族かぞくへ／田口たぐち八重子やえこさんの御ご家族かぞくメッセージ”. 北朝鮮きたちょうせんによる日本人にっぽんじん拉致らち問題もんだい. 政府せいふ 拉致らち問題もんだい対策たいさく本部ほんぶ. 2021年ねん12月15日にち閲覧えつらん。