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肥薩線列車退行事故 - Wikipedia

肥薩線ひさつせん列車れっしゃ退行たいこう事故じこ

肥薩線ひさつせん列車れっしゃ退行たいこう事故じこ(ひさつせんれっしゃたいこうじこ)は、だい世界せかい大戦たいせん太平洋戦争たいへいようせんそうだい東亜とうあ戦争せんそう終戦しゅうせん直後ちょくご1945ねん昭和しょうわ20ねん8がつ22にち肥薩線ひさつせん発生はっせいした、列車れっしゃ退行たいこうおよ乗客じょうきゃく轢死れきし事故じこである。

肥薩線ひさつせん列車れっしゃ退行たいこう事故じこ
発生はっせい 1945ねん昭和しょうわ20ねん8がつ22にち[1]
発生はっせい時刻じこく 12-13ごろ[1]
くに 日本の旗 日本にっぽん
場所ばしょ 山ノ神やまのかみだいトンネル[1]
路線ろせん 肥薩線ひさつせん
運行うんこうしゃ 鉄道てつどうしょう
事故じこ種類しゅるい 人身じんしん事故じこ
原因げんいん 列車れっしゃ往生おうじょう退行たいこう
統計とうけい
死者ししゃ 49にん[1]諸説しょせつあり)
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背景はいけい

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1945ねん昭和しょうわ20ねん)8がつ15にち終戦しゅうせんともない、本土ほんど決戦けっせんのためにみなみ九州きゅうしゅう駐屯ちゅうとんしていた部隊ぶたい所属しょぞくする兵士へいしは、兵役へいえきかれて復員ふくいんすることとなった。鹿児島かごしまけん鹿屋かのや姶良あいらぐん宮崎みやざきけん都城みやこのじょう方面ほうめん駐屯ちゅうとんしていたやく3まんにん兵士へいしも、復員ふくいんのために肥薩線ひさつせん吉松よしまつえき集結しゅうけつし、えき周辺しゅうへん民家みんか公会堂こうかいどう宿泊しゅくはくしながら、帰郷ききょうのために運行うんこうされる列車れっしゃっていた[1]。しかし、終戦しゅうせん前後ぜんこう混乱こんらん空襲くうしゅうによる車両しゃりょう線路せんろなど鉄道てつどうインフラの破壊はかい燃料ねんりょうである石炭せきたん品質ひんしつ悪化あっか熟練じゅくれん機関きかん物資ぶっし不足ふそくによる整備せいび不良ふりょうなどにより、列車れっしゃ本数ほんすう便数びんすうともにすくなかった。不足ふそくする列車れっしゃ乗客じょうきゃく客車きゃくしゃ座席ざせきのみではなく、客車きゃくしゃ通路つうろ屋根やね、さらに客車きゃくしゃ牽引けんいんする機関きかんしゃ前面ぜんめんにもすずなりに乗車じょうしゃしており、牽引けんいん能力のうりょく低下ていかした機関きかんしゃのさらなる負担ふたんとなっていた。

肥薩線ひさつせん吉松よしまつえき真幸まさきえきあいだには、「トンネル」とばれるだい山ノ神やまのかみトンネルがあった。だい山ノ神やまのかみトンネルは、吉松よしまつえきからつづく1,000ぶんの25ののぼ勾配こうばいがSカーブとなっている難所なんしょで、熱量ねつりょうひく粗悪そあく石炭せきたんはし蒸気じょうき機関きかんしゃおおきな負担ふたんとなっていた[1]

8がつ22にち正午しょうごぎごろ、D51かたち蒸気じょうき機関きかんしゃ2りょう(1りょう牽引けんいん、もう1りょう後押あとお[注釈ちゅうしゃく 1])に客車きゃくしゃ5りょう貨車かしゃ8りょう[注釈ちゅうしゃく 2]編成へんせいのぼ人吉ひとよし方面ほうめん復員ふくいん列車れっしゃだい山ノ神やまのかみトンネルにさしかかった。しかし列車れっしゃ勾配こうばいのぼれず、先頭せんとう本務ほんむはトンネルからたものの、排煙はいえん充満じゅうまんするトンネルのなか客車きゃくしゃこう立往生たちおうじょうしてしまった。品質ひんしつわる石炭せきたん影響えいきょうで、トンネルないにはくろ排煙はいえん充満じゅうまんし、排煙はいえんのがれようと線路せんろりた乗客じょうきゃく次々つぎつぎとトンネルない入口いりくちあるはじめた[1]

そこへ突如とつじょ列車れっしゃ後退こうたいはじめた[1]貨車かしゃには当然とうぜん車内しゃない放送ほうそう設備せつびがないため車掌しゃしょうから注意ちゅうい喚起かんきできず、またこう乗員じょういん排煙はいえんにむせかえって指示しじせない状態じょうたいだった。待避たいひ場所ばしょ照明しょうめいうえ排煙はいえん充満じゅうまんしたトンネルないで、線路せんろじょうあるいていた乗客じょうきゃく次々つぎつぎ列車れっしゃかれた。

非常ひじょう事態じたいげる機関きかんしゃ汽笛きてきいた地元じもと住民じゅうみん真幸まさき吉松よしまつ警防団けいぼうだんだい山ノ神やまのかみトンネルにかったが、トンネルない排煙はいえんくろくなった遺体いたいやその破片はへん生存せいぞんしゃのうめきごえひび惨状さんじょうだった。この事故じこで、49めい[注釈ちゅうしゃく 3]死亡しぼうした[1]

影響えいきょう

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故郷こきょう目前もくぜんいのちたれた復員ふくいんへいれいのために、事故じこ翌年よくねんから地元じもと住民じゅうみんによる慰霊いれいさい毎年まいとし8がつ22にちおこなわれている。だい山ノ神やまのかみトンネルの真幸まさきがわ出口でぐちには、じゅうなな回忌かいきたる1961ねん昭和しょうわ36ねん)8がつ22にち慰霊いれい建立こんりゅうされた[1]

2019ねん現在げんざいどう区間くかんはし観光かんこう列車れっしゃいさぶろう・しんぺい」の車内しゃないでは、現場げんば付近ふきん案内あんない放送ほうそうでこの事故じこについての説明せつめいおこなわれている。

作家さっかつるつとむは、この事故じこ題材だいざいひとつに小説しょうせつ中央ちゅうおう構造こうぞうせん』(鉱脈社こうみゃくしゃ 2013ねん ISBN 978-4860614867)を発表はっぴょうしている。

脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ じゅうれんではなく、編成へんせいさい後尾こうび連結れんけつしていた。
  2. ^ 不足ふそくする客車きゃくしゃの「代用だいよう」として、無蓋むがい貨車かしゃ連結れんけつしていた。
  3. ^ 53めい、または56めいとのせつもある。

出典しゅってん

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  1. ^ a b c d e f g h i j 大谷おおや節夫せつお「エピソード明治めいじ大正たいしょう昭和しょうわ 14-復員ふくいん軍人ぐんじん殉難じゅんなん倉地くらち英夫ひでお大谷おおや節夫せつお九州きゅうしゅう蒸気じょうき機関きかんしゃ』ぱぴるす文庫ぶんこ05 あし書房しょぼう 1978ねん P.78-80

関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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