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黒塚古墳 - Wikipedia

くろづか古墳こふん

奈良ならけん天理てんりにある古墳こふん

くろづか古墳こふん(くろつかこふん/くろづかこふん)は、奈良ならけん天理てんり柳本やなぎもとまちにある前方後円墳ぜんぽうこうえんふん。33めん三角縁神獣鏡さんかくぶちしんじゅうきょうが、ほぼ埋葬まいそう配置はいち出土しゅつどしたことでられ、くに史跡しせき指定していされている。

くろづか古墳こふん

墳丘ふんきゅう全景ぜんけいみぎこうえんひだりおく前方ぜんぽう
所属しょぞく 柳本やなぎもと古墳こふんぐん
所在地しょざいち 奈良ならけん天理てんり柳本やなぎもとまち
位置いち 北緯ほくい3433ふん35.73びょう 東経とうけい13550ふん35.21びょう / 北緯ほくい34.5599250 東経とうけい135.8431139 / 34.5599250; 135.8431139
形状けいじょう 前方後円墳ぜんぽうこうえんふん
規模きぼ 全長ぜんちょう130mたかさ11m
出土しゅつどひん 三角縁神獣鏡さんかくぶちしんじゅうきょうなど
築造ちくぞう時期じき 3世紀せいき後半こうはん[1]
史跡しせき 平成へいせい13ねん2001ねんこく指定してい
有形ゆうけい文化財ぶんかざい 出土しゅつどひんくに重要じゅうよう文化財ぶんかざい
地図ちず
黒塚古墳の位置(奈良県内)
黒塚古墳
くろづか古墳こふん
奈良なら県内けんない位置いち
地図
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くろづか古墳こふん空中くうちゅう写真しゃしん。2008ねん
国土こくど交通省こうつうしょう 国土こくど地理ちりいん 地図ちず空中くうちゅう写真しゃしん閲覧えつらんサービス空中くうちゅう写真しゃしんもと作成さくせい
しゅうほりかるはし

概要がいよう

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ほん古墳こふんは、奈良盆地ならぼんちひがし南部なんぶ位置いちする柳本やなぎもと古墳こふんぐんぞくし、台地だいち縁辺えんぺん立地りっちしている。最初さいしょ発掘はっくつ調査ちょうさおこなわれたのは1961ねん昭和しょうわ36ねん)の事前じぜん調査ちょうさであり、後世こうせい城郭じょうかくとして利用りようされたことがこのときかった。また、1989ねん平成へいせい元年がんねん)、周囲しゅういいけ護岸ごがん工事こうじ事前じぜん調査ちょうさおこなわれている。1997ねん平成へいせい9ねん)から翌年よくねんにかけて学術がくじゅつ調査ちょうさ奈良なら県立けんりつ橿原考古学研究所かしはらこうこがくけんきゅうしょによっておこなわれ、規模きぼふんがたあきらかになった。

ふんがた形状けいじょう

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全長ぜんちょうやく130メートルの前方後円墳ぜんぽうこうえんふんで、こうえんみちやく72メートル、たかやく11メートル、前方ぜんぽう部長ぶちょうやく48メートル、たかさや6メートル、こうえん3だん前方ぜんぽう2だん[2]前方ぜんぽうこうえん落差らくさおおきい。前方ぜんぽう正面しょうめんにわずかな弧状こじょうのふくらみがらればちがたであることがかる。これらは、前期ぜんき古墳こふん特徴とくちょうである。しゅうほりっている。葺石埴輪はにわ確認かくにんされず、もともとなかった可能かのうせいたか[2]

発掘はっくつ調査ちょうさとその

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1997ねん平成へいせい9ねん)から翌年よくねんにかけて奈良なら県立けんりつ橿原考古学研究所かしはらこうこがくけんきゅうしょおこなっただい3発掘はっくつ調査ちょうさで、三角縁神獣鏡さんかくぶちしんじゅうきょう33めんとそれよりもすこふるぶんたいかみじゅうきょう1めんが、副葬ふくそう当時とうじちか状態じょうたい発見はっけんされた[3]かがみふくめて埋葬まいそう当時とうじ位置いちたもっていて、副葬品ふくそうひん配列はいれつ方法ほうほうとその意味いみがわかるものとなった[4]北東ほくとうすみ大小だいしょう2ほん鉄棒てつぼうをU字形じけいげた用途ようと不明ふめいてつ製品せいひんてかけられていた。大小だいしょう2ほんぼうあいだにはV字形じけい鉄製てつせいかんが、複数ふくすう付着ふちゃくまたは崩落ほうらくし、このかん鋸歯きょしじょう大小だいしょうのU字形じけい鉄棒てつぼうむすけていた形跡けいせきがある[5][注釈ちゅうしゃく 1]

畿内きない前期ぜんき古墳こふんおおあたまきたで、かんがい北側きたがわにはしゅりのたてななめにてかけられていた[7]かんがいきたきょうななめにかれたたて上部じょうぶせられていたとみられる[8]かんがい西側にしがわきた小口こぐちちか部分ぶぶんに、鏃群があり、切先きっさきみなみき、もと隙間すきま矢柄やがらたばがあったと推定すいていする。そのみなみに11てんかたなけん・ヤリがまとめてかれていた[7]かんないには被葬ひそうしゃあたまのところにぶんたいかみじゅうきょう両側りょうがわかたな1・けん1をおき、かんがいひがしかべがわ15めん西にしかべがわ17めん三角縁神獣鏡さんかくぶちしんじゅうきょう鏡面きょうめん内側うちがわけてかんかべのわずかなあいだてられていた。被葬ひそうしゃ上半身じょうはんしんかんないかんがいじゅうかがみ刀剣とうけんでコの字形じけいかこみ、この配列はいれつにより呪術じゅじゅつてき役割やくわりをしていたとみられる[4]かんがい南側みなみがわに、かわつづっただったとみられるやく600てん大量たいりょうしょうさつ(こざね)、おのとヤリガンナの工具こうぐるい土師器はじきなどが配置はいちしてあった[5]たまるいうで装飾そうしょくひんるいていない。

こうえん埋葬まいそう施設しせつ竪穴たてあなしき石室いしむろで、内法うちのりちょうやく8.3メートル、きた小口こぐちはば0.9メートル、たかやく1.7メートルで、二上山にじょうざんふもと春日山かすがやま芝山しばやまいたせきおくんで合掌がっしょうづくりじょう天井てんじょうつくしている。石室いしむろないでは、粘土ねんどかんゆかもうけられ、断面だんめん半円はんえんがた全長ぜんちょう1メートル以上いじょう抜式かんおさめられている。かんには中央ちゅうおうながさ2.8メートルの範囲はんいのみ水銀すいぎんしゅほどこし、りょうはしベンガラ赤色あかいろられていた模様もようである。水銀すいぎんしゅのところに安置あんちされていたものとかんがえられている。

古墳こふん石室いしむろは、通常つうじょう天井てんじょうせき天井てんじょうふさぐことがおおく、合掌がっしょうづくりじょう天井てんじょうめずらしいが、この方法ほうほう地震じしんよわく、中世ちゅうせいきたとおもわれる地震じしん天井てんじょう部分ぶぶん石室いしむろない崩落くずれおちゆかめんうえいたせきによっておおわれていた[2]こうえん中央ちゅうおうには竪穴たてあなしき石室いしむろへの鎌倉かまくら時代じだいだい規模きぼ盗掘とうくつあながあり、石室いしむろおおきく破壊はかいされていた[4]。しかし、これは大量たいりょう崩落ほうらくせきはばまれ、空洞くうどうのこったみなみ小口こぐち部分ぶぶんにだけ侵入しんにゅうしたが、だい部分ぶぶん断念だんねんし、石室いしむろみなみ小口こぐち以外いがいには完全かんぜんかたち副葬品ふくそうひんのこされていた[2]。つまり地震じしん盗掘とうくつしゃから副葬品ふくそうひんまもったことになる[4]室町むろまち時代ときよ後期こうきに楊本(やなぎもとし)がくろづか古墳こふん利用りようしてとりできずき、のち土市どいちとのあらそいで没落ぼつらく。その戦国せんごく時代じだいには古墳こふんに、1575ねん天正てんしょう3ねん)に松永まつなが久秀ひさひでやなぎ本城ほんじょうきずき、のち織田おだ信長のぶなが臣下しんかになりらん江戸えど時代じだい信長のぶながおとうと織田おだちょうえき有楽うらくとき)の5なんなおちょうぶん柳本やなぎもとはんに。寛永かんえい年間ねんかん柳本やなぎもと城址じょうし柳本やなぎもと陣屋じんや構築こうちく柳本やなぎもとはんはんちょうとした。その一部いちぶくろづか古墳こふんんだ[9]ほり転用てんよう石垣いしがき造成ぞうせい江戸えど時代じだいすえまでつづく。1998ねん調査ちょうさで、こうえんふんいただき長方形ちょうほうけい本丸ほんまる前方ぜんぽうけてだんじょう平坦へいたんめん曲輪くるわ墳丘ふんきゅうけずすうだん造成ぞうせいこうえん周囲しゅういにははばせま平坦へいたんめんおびきょく輸をめぐらせ、前方ぜんぽう一番いちばんひく箇所かしょはば6.8メートル、ふかさ3.4メートルのほりあらたに掘削くっさくし、城砦じょうさいとしての機能きのうたせていた[10]戦国せんごく時代じだいから近世きんせい幕末ばくまつまで、武家ぶけ以外いがいくろづか古墳こふんには自由じゆうれなかったため、その盗掘とうくつふせいだせつがある[4]

明治めいじ時代じだいから、陣屋じんやあとだい部分ぶぶんは、天理てんり市立しりつ柳本やなぎもと小学校しょうがっこう敷地しきちとなり、古墳こふん天理てんりによって整備せいびおこなわれ、柳本やなぎもと公園こうえんとなっているほか、古墳こふん隣接りんせつして竪穴たてあなしき石室いしむろ実物じつぶつだい模型もけいぜん銅鏡どうきょうのレプリカなどを展示てんじする「天理てんり市立しりつくろづか古墳こふん展示てんじかん」がもうけられている。平成へいせい13ねん2001ねん1がつ29にちくに史跡しせき指定していされた。また、出土しゅつどひん平成へいせい16ねん(2004)に「奈良ならけんくろづか古墳こふん出土しゅつどひん」(奈良なら県立けんりつ橿原考古学研究所かしはらこうこがくけんきゅうしょ所蔵しょぞう)として重要じゅうよう文化財ぶんかざい指定していされている。

造営ぞうえい時期じき

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くろづか古墳こふんのある天理てんり教育きょういく委員いいんかい文化財ぶんかざいでは、造営ぞうえい時期じきを3世紀せいき後半こうはんころ推定すいていされるとしている[1]考古学こうこがく白石しらいし太一郎たいちろうは、だいI段階だんかいからだいV段階だんかいまでにへんねん分類ぶんるいされる三角縁神獣鏡さんかくぶちしんじゅうきょうのうち、この古墳こふんではだいI段階だんかいからだいIII段階だんかいまでが出土しゅつどし、だいIV段階だんかい以降いこう出土しゅつどしていないので、西暦せいれき260ねんすぎ(3世紀せいき中葉ちゅうよう?後葉こうよう)には造営ぞうえいされていた可能かのうせいたかいとしている[3]

奈良ならけん桜井さくらいはし古墳こふん京都きょうと木津川きづがわ椿井つばい大塚山おおつかやま古墳こふん岡山おかやまけん岡山おかやま浦間うらま茶臼山ちゃうすやま古墳こふんなどとともに出現しゅつげん古墳こふん総称そうしょうされる[11]。なお、くろづか古墳こふん椿井つばい大塚山おおつかやま古墳こふん浦間うらま茶臼山ちゃうすやま古墳こふんはし古墳こふんのちょうど2ぶんの1に企画きかくされた前方後円墳ぜんぽうこうえんふんである可能かのうせいたかいとかんがえられている[11]

文化財ぶんかざい

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重要じゅうよう文化財ぶんかざいくに指定してい

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くに史跡しせき

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  • くろづか古墳こふん - 2001ねん平成へいせい13ねん)1がつ29にち指定してい[13]

周辺しゅうへん情報じょうほう

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脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ これをなんますまいたかしから授与じゅよされただとのせつとなえる研究けんきゅうしゃもいる[6]

出典しゅってん

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  1. ^ a b 奈良ならけん天理てんり(2022)、くろづか古墳こふん竪穴たてあなしき石室いしむろ
  2. ^ a b c d 奈良なら県立けんりつ橿原考古学研究所かしはらこうこがくけんきゅうしょくろづか古墳こふん1998ねん現地げんち説明せつめいかい資料しりょう2020ねん9がつ14にち閲覧えつらん
  3. ^ a b 白石しらいし(2018)pp.30-36
  4. ^ a b c d e 岡林おかばやし 2009.
  5. ^ a b 天理てんり教委きょうい 1994, p. 103.
  6. ^ ひがししおやまと耶の国際こくさい環境かんきょう吉川弘文館よしかわこうぶんかん 2006ねん
  7. ^ a b 天理てんり教委きょうい 1994, p. 102.
  8. ^ 天理てんり教委きょうい 1994, pp. 102–103.
  9. ^ たかきょうにんしろ戦国せんごく どうめたか いかにまもったか』河出書房新社かわでしょぼうしんしゃ <KAWADEゆめ文庫ぶんこ> 2015ねんやなぎ本城ほんじょう
  10. ^ 奈良なら県立けんりつ橿原考古学研究所かしはらこうこがくけんきゅうしょくろづか古墳こふん1999ねん現地げんち説明せつめいかい資料しりょう2020ねん9がつ14にち閲覧えつらん
  11. ^ a b 白石しらいし(2018)pp.41-46
  12. ^ 奈良ならけんくろづか古墳こふん出土しゅつどひん - くに指定してい文化財ぶんかざいとうデータベース(文化庁ぶんかちょう
  13. ^ くろづか古墳こふん - くに指定してい文化財ぶんかざいとうデータベース(文化庁ぶんかちょう

参考さんこう文献ぶんけん

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  • 河上かわかみ邦彦くにひこいずみたけし宮原みやはら晋一しんいち卜部うらべ行弘ゆきひろ岡林おかばやし孝作こうさく名倉なくらさとしくろづか古墳こふん発掘はっくつ調査ちょうさ:奈良ならけん天理てんり柳本やなぎもとまち所在しょざい」『日本にっぽん考古学こうこがくだい6かんだい7ごう日本にっぽん考古学こうこがく協会きょうかい、1999ねん、95-104ぺーじdoi:10.11215/nihonkokogaku1994.6.95ISSN 1340-8488NAID 1300036371472020ねん10がつ17にち閲覧えつらん 
  • 岡林おかばやし孝作こうさく. “くろづか古墳こふん”. 奈良なら県立けんりつ橿原考古学研究所かしはらこうこがくけんきゅうしょ附属ふぞく博物館はくぶつかん. 2009ねん10がつ27にち時点じてんオリジナルよりアーカイブ。2020ねん9がつ15にち閲覧えつらん
  • 白石しらいし太一郎たいちろうだいいちしょう ばしはか古墳こふん大市おおいちはか」『古墳こふん被葬ひそうしゃ推理すいりする』中央公論ちゅうおうこうろんしんしゃ中公叢書ちゅうこうそうしょ〉、2018ねん11月。ISBN 978-4-12-005147-0 

外部がいぶリンク

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