ジョン・アダムズ (John Adams 、1735年 ねん 10月30日 にち - 1826年 ねん 7月 がつ 4日 にち )は、アメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく の政治 せいじ 家 か 。副 ふく 大統領 だいとうりょう (初代 しょだい 、1789年 ねん から1797年 ねん の2期 き )、第 だい 2代 だい 大統領 だいとうりょう (第 だい 2代 だい 、1797年 ねん -1801年 ねん )を務 つと めた。また、アメリカ海軍 かいぐん の創設 そうせつ 者 しゃ である。アメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく 建国 けんこく の父 ちち の中 なか でも最 もっと も影響 えいきょう 力 りょく があった者 もの の1人 ひとり とされている。
アダムズはアメリカ革命 かくめい の初期 しょき に著名 ちょめい になった。大陸 たいりく 会議 かいぎ にはマサチューセッツ湾 わん 植民 しょくみん 地 ち の代表 だいひょう として出席 しゅっせき し、1776年 ねん に大陸 たいりく 会議 かいぎ がアメリカ独立 どくりつ 宣言 せんげん を採択 さいたく するときに指導 しどう 的 てき な役割 やくわり を果 は たした。大陸 たいりく 会議 かいぎ からヨーロッパ に派遣 はけん され、イギリス とのパリ条約 じょうやく 締結 ていけつ では交渉 こうしょう の主役 しゅやく となり、またアムステルダム から重要 じゅうよう な借款 しゃっかん を得 え る中心 ちゅうしん 人物 じんぶつ だった。
アダムズは独立 どくりつ に貢献 こうけん したことで、ジョージ・ワシントン の下 した で2期 き 副 ふく 大統領 だいとうりょう を務 つと め、また第 だい 2代 だい 大統領 だいとうりょう にも選出 せんしゅつ されることになった。この大統領 だいとうりょう としての任期 にんき の間 あいだ 、自身 じしん の連邦 れんぽう 党 とう (アレクサンダー・ハミルトン が率 ひき いる一派 いっぱ )内部 ないぶ での抗 こう 争 そう と、新 あたら しく頭角 とうかく を現 あらわ したジェファーソン流 りゅう 共和 きょうわ 主義 しゅぎ 者 しゃ との党派 とうは 抗争 こうそう に悩 なや まされることになった。また論争 ろんそう の多 おお かった外国 がいこく 人 じん ・治安 ちあん 諸法 しょほう に署名 しょめい した。大統領 だいとうりょう 任期 にんき 中 ちゅう の最大 さいだい の功績 こうせき は1798年 ねん にフランス との擬似 ぎじ 戦争 せんそう 危機 きき を平和 へいわ 的 てき に解決 かいけつ したことである。
1800年 ねん 大統領 だいとうりょう 選挙 せんきょ で、トーマス・ジェファーソン (当時 とうじ の副 ふく 大統領 だいとうりょう )に再選 さいせん を阻 はば まれた後 のち は、マサチューセッツ州 しゅう に引退 いんたい した。妻 つま のアビゲイル・アダムズ とともにアダムズ政治 せいじ 一家 いっか と呼 よ ばれる政治 せいじ 家 か 、外交 がいこう 官 かん および歴史 れきし 家 か の家系 かけい を作 つく り育 そだ てた。彼 かれ の息子 むすこ ジョン・クィンシー・アダムズ は第 だい 6代 だい アメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく 大統領 だいとうりょう になった。アダムズの功績 こうせき は当時 とうじ 他 た の建国 けんこく の父 ちち ほどは評価 ひょうか されなかったが、現代 げんだい ではより大 おお きな評価 ひょうか を受 う けるようになってきた。
2001年 ねん 10月 がつ にロナルド・レーガン に抜 ぬ かれるまでアメリカ歴代 れきだい 大統領 だいとうりょう の中 なか で最 さい 長寿 ちょうじゅ 記録 きろく を誇 ほこ っていた(90歳 さい と247日 にち 、2019年 ねん 3月 がつ 現在 げんざい はジミー・カーター 、ジョージ・H・W・ブッシュ 、ジェラルド・R・フォード 、レーガンに次 つ いで5位 い )。身長 しんちょう は5フィート 7インチ(約 やく 170cm)だった[1] 。
妻 つま のアビゲイル・アダムズは夫 おっと の大統領 だいとうりょう 任期 にんき 中 ちゅう にファーストレディ の役目 やくめ を果 は たした。女性 じょせい の権利 けんり の向上 こうじょう を訴 うった え、奴隷 どれい 制度 せいど には反対 はんたい するなど当時 とうじ としては極 きわ めて進歩 しんぽ 的 てき な考 かんが えの持 も ち主 ぬし であったことで知 し られている。
アダムズは現在 げんざい のマサチューセッツ州 しゅう クインシー (当時 とうじ はブレイントリーの「北地 きたじ 区 く 」と呼 よ ばれた。生誕 せいたん 地 ち は現在 げんざい アダムズ国立 こくりつ 歴史 れきし 公園 こうえん となっている)で1735年 ねん 10月30日 にち に生 う まれた[2] 。3人 にん 兄弟 きょうだい の長男 ちょうなん だった[3] 。アダムズの父親 ちちおや ジョン(1691年 ねん -1761年 ねん )は、1638年 ねん ごろにイングランド のブレイントリーからマサチューセッツに移住 いじゅう してきたヘンリー・アダムズの五 ご 世代 せだい 目 め の子孫 しそん だった。アダムズはウェールズ の「アップ・アダムズ」と呼 よ ばれる男系 だんけい 家族 かぞく の子孫 しそん となる[4] 。父 ちち は農夫 のうふ であり、会衆 かいしゅう 派 は 教会 きょうかい 員 いん すなわちピューリタン の司祭 しさい 、民兵 みんぺい 隊 たい では中尉 ちゅうい 、町 まち では学校 がっこう や道路 どうろ を監督 かんとく した町会 ちょうかい 議員 ぎいん だった。母親 ははおや のスザンナ・ボイルストン・アダムズはブルックリンのボイルストン家 か の出 だし だった[5] 。
アダムズは質実 しつじつ な家庭 かてい に生 う まれたが家族 かぞく の承継 しょうけい 資産 しさん で生活 せいかつ していく責任 せきにん を痛切 つうせつ に感 かん じていた。先祖 せんぞ は1630年代 ねんだい にアメリカの荒野 あらの にやってきて現在 げんざい 在 あ るアメリカの植民 しょくみん 地 ち を造 つく り上 あ げたピューリタンの開拓 かいたく 世代 せだい だった。大 だい 移住 いじゅう 世代 せだい のピューリタンは「聖書 せいしょ の中 なか で生活 せいかつ していると信 しん じた。ステュアート朝 あさ のイングランドはエジプト であり、彼等 かれら はイスラエル に逃 のが れてきた者 もの であり、神 かみ を敬 うやま うために避難 ひなん 所 しょ である丘 おか の上 うえ の都市 とし を造 つく るためにきた」と考 かんが えた[6] 。アダムズが生 う まれた1735年 ねん までに、ピューリタンの予 よ 定説 ていせつ としての信条 しんじょう はもはや広 ひろ く受 う け容 い れられなくなっており、その厳格 げんかく な慣習 かんしゅう の多 おお くは時 じ の経過 けいか と共 とも に瓦解 がかい してきていたが、アダムズは「ピューリタンを自由 じゆう の享受 きょうじゅ 者 しゃ 、依然 いぜん として神聖 しんせい な緊急 きんきゅう 性 せい を持 も っている側 がわ の者 もの と考 かんが えた。」それがアダムズの信 しん じる価値 かち 体系 たいけい であり、それで生活 せいかつ していきたいと願 ねが う英雄 えいゆう 的 てき モデルだった[7] 。
アダムズは1751年 ねん にハーバード大学 だいがく に入学 にゅうがく した[8] 。アダムズの父 ちち は牧師 ぼくし になってくれることを期待 きたい していたが、アダムズはそれを疑問 ぎもん に感 かん じた。1755年 ねん に大学 だいがく を卒業 そつぎょう し、ウースター で数 すう 年間 ねんかん 教師 きょうし の職 しょく を務 つと めながら、その後 ご の職業 しょくぎょう 選択 せんたく について考 かんが える時間 じかん を持 も った。何 なん 度 ど も熟考 じゅっこう を重 かさ ねた後 のち に弁護士 べんごし になることを決断 けつだん し、ウースターで著名 ちょめい な弁護士 べんごし であるジェイムズ・パットナムの法律 ほうりつ 事務所 じむしょ で法律 ほうりつ を学 まな んだ。1758年 ねん に法廷 ほうてい 弁護士 べんごし として認 みと められた。アダムズは幼少 ようしょう 時 じ から出来事 できごと の感想 かんそう や人 ひと の印象 いんしょう を書 か き留 と める習慣 しゅうかん を持 も っており、それはアダムズの日記 にっき の中 なか に散見 さんけん できる。そのやり方 かた を弁護士 べんごし としてうまく利用 りよう し、観察 かんさつ した多 おお くの事件 じけん について書 か き留 と めていたので、それらを研究 けんきゅう し熟考 じゅっこう することができた。彼 かれ の書 か き留 と めたレポートの中 なか で最 もっと も初期 しょき のものは、マサチューセッツ最高 さいこう 裁判所 さいばんしょ におけるジェイムズ・オーティス の援助 えんじょ 令状 れいじょう の合法 ごうほう 性 せい に関 かん する申 もう し立 た てのものである。1761年 ねん に起 お きたこの出来事 できごと は、アダムズにアメリカの植民 しょくみん 地 ち に対 たい する熱意 ねつい を引 ひ き起 お こさせた[9] 。アダムズは年老 としお いた後 のち 、この出来事 できごと を詳細 しょうさい に書 か き上 あ げようと試 こころ みた。
29歳 さい の誕生 たんじょう 日 び の5日 にち 前 まえ にあたる1764年 ねん 10月25日 にち 、マサチューセッツのウェーマスで、アダムズは3世代 せだい 前 まえ からの従姉妹 いとこ [10] にあたり、会衆 かいしゅう 派 は 教会 きょうかい 牧師 ぼくし ウィリアム・スミス師 し の娘 むすめ のアビゲイル・スミス (1744年 ねん -1818年 ねん )と結婚 けっこん した。アダムズ夫妻 ふさい の子供 こども としては、アビゲイル・アダムズ・スミス(1765年 ねん -1813年 ねん )、後 ご の大統領 だいとうりょう ジョン・クィンシー・アダムズ (1767年 ねん -1848年 ねん )、スザンナ(1768年 ねん -1770年 ねん )、チャールズ・アダムズ(1770年 ねん -1800年 ねん )、トマス・ボイルストン・アダムズ(1772年 ねん -1832年 ねん )、および死産 しざん だったエリザベス(1777年 ねん )がいた。
ジョン・アダムズは彼 かれ の又従兄弟 またいとこ サミュエル・アダムズ のようなリーダーシップを備 そな えてはいなかった。彼 かれ が出来事 できごと に影響 えいきょう を与 あた えたのは本質 ほんしつ 的 てき な弁護士 べんごし としてであり、歴史 れきし 上 じょう の先例 せんれい の詳 くわ しい分析 ぶんせき 家 か としてであり[11] 、さらには共和 きょうわ 制 せい 主義 しゅぎ の原理 げんり について深 ふか い法的 ほうてき 知識 ちしき と傾倒 けいとう があったことだった。アダムズは生 う まれついての喧嘩 けんか っ早 はや さがその政 せい 歴 れき で制約 せいやく になると思 おも うことが多 おお かった。彼 かれ は弁護士 べんごし 業 ぎょう に全身全霊 ぜんしんぜんれい を傾 かたむ け、猛烈 もうれつ で果敢 かかん に従事 じゅうじ した。しかし彼 かれ の虚栄 きょえい 心 しん とプライド、闘争 とうそう 心 しん は政治 せいじ 経歴 けいれき における重大 じゅうだい なハンディキャップとなった。これらの特質 とくしつ は後 ご の期間 きかん 、例 たと えば大統領 だいとうりょう 任期 にんき 中 ちゅう に特 とく に明示 めいじ された。
独立 どくりつ までの経歴 けいれき [ 編集 へんしゅう ]
1765年 ねん 印紙 いんし 法 ほう への反対 はんたい [ 編集 へんしゅう ]
イギリスの議会 ぎかい がイギリス軍 ぐん の戦争 せんそう で負 お った負債 ふさい とアメリカ植民 しょくみん 地 ち に軍隊 ぐんたい を駐屯 ちゅうとん させておく費用 ひよう とを賄 まかな わせるために、1765年 ねん 印紙 いんし 法 ほう を植民 しょくみん 地 ち に押 お しつけた時 とき 、アダムズはその反対 はんたい 者 しゃ として初 はじ めて著名 ちょめい な者 もの になった。アダムズが後 のち に述 の べているところでは、ボストンの牧師 ぼくし ジョナサン・メイヒューがローマ人 じん への手紙 てがみ 第 だい 13を解釈 かいしゃく して暴動 ぼうどう の原理 げんり を説明 せつめい している説教 せっきょう を何 なん 度 ど も出版 しゅっぱん されたもので、民衆 みんしゅう の抵抗 ていこう に火 ひ が付 つ けられた[12] 。
1765年 ねん 、アダムズはブレイントリーの住人 じゅうにん からマサチューセッツ議会 ぎかい に送 おく った代議員 だいぎいん に宛 あ てて送 おく られた指示 しじ 書 しょ を起稿 きこう した。この指示 しじ 書 しょ は他 た の町 まち がその代議員 だいぎいん に送 おく った指示 しじ 書 しょ のモデルにされた。同年 どうねん 8月 がつ 、アダムズは「ボストン・ガゼット」紙 し に4つの著名 ちょめい な記事 きじ を匿名 とくめい で寄稿 きこう した(1768年 ねん に「ロンドン・クロニクル」紙 し で「アメリカの真 しん の感情 かんじょう 」として再 さい 掲載 けいさい され、「法令 ほうれい と封建 ほうけん 法 ほう に関 かん する論文 ろんぶん 」とも呼 よ ばれる)。この中 なか でアダムズの先祖 せんぞ であるピューリタンがニューイングランド にもたらしたプロテスタント の概念 がいねん と印紙 いんし 法 ほう に対 たい する抵抗 ていこう の裏 うら にある概念 がいねん との間 あいだ には繋 つな がりがあることを示唆 しさ した。印紙 いんし 法 ほう に対 たい する植民 しょくみん 地 ち の反対 はんたい は、印紙 いんし 法 ほう があらゆるイギリス人 じん に保証 ほしょう されており、あらゆる自由 じゆう 人 じん が受 う けるに値 あたい する2つの基本 きほん 権利 けんり をアメリカの植民 しょくみん 地 ち 人 じん から奪 うば うことになるからであると説明 せつめい した。すなわち同意 どうい によって課税 かぜい される権利 けんり と、対等 たいとう な陪審 ばいしん 員 いん によって裁判 さいばん を受 う ける権利 けんり である。
「ブレイントリー指示 しじ 書 しょ 」は植民 しょくみん 地 ち の権利 けんり と自由 じゆう の簡潔 かんけつ で率直 そっちょく な弁護 べんご であり、論文 ろんぶん は政治 せいじ 教育 きょういく における随筆 ずいひつ だった。
1765年 ねん 12月、アダムズは知事 ちじ や議員 ぎいん の前 まえ で演説 えんぜつ を行 おこな い、マサチューセッツはイギリスの議会 ぎかい に代表 だいひょう を送 おく っていないので、印紙 いんし 法 ほう に同意 どうい していないという根拠 こんきょ で同 どう 法 ほう を無効 むこう と宣言 せんげん した[13] 。
ボストン虐殺 ぎゃくさつ 事件 じけん [ 編集 へんしゅう ]
1770年 ねん 、ボストンの町 まち で起 お こった対立 たいりつ がイギリス軍 ぐん 兵士 へいし による市民 しみん 5人 にん の殺害 さつがい という結果 けっか に至 いた り、ボストン虐殺 ぎゃくさつ 事件 じけん と呼 よ ばれるようになった[14] 。この事件 じけん に関与 かんよ した兵士 へいし 達 たち は逮捕 たいほ され刑事 けいじ 告発 こくはつ をうけたが、法廷 ほうてい 弁護士 べんごし をなかなか見付 みつ けられなかった。最終 さいしゅう 的 てき に兵士 へいし 達 たち はアダムズに弁護 べんご を頼 たの んだ。アダムズは自分 じぶん の評判 ひょうばん が傷 きず つけられることを恐 おそ れたが弁護 べんご を引 ひ き受 う けた。兵士 へいし 達 たち のうち6人 にん は無罪 むざい とされた。2人 ふたり の兵士 へいし が民衆 みんしゅう に直接 ちょくせつ 発砲 はっぽう しており、殺人 さつじん 罪 ざい で起訴 きそ されたが、過失 かしつ 致死傷 ちししょう 罪 ざい で有罪 ゆうざい とされただけだった。
歴史 れきし 家 か のチナードに拠 よ れば、兵士 へいし の1人 ひとり トマス・プレストン大尉 たいい が弁護 べんご 料 りょう として「象徴 しょうちょう 的 てき な1ギニー 」を払 はら い、この事件 じけん でアダムズが得 え た唯一 ゆいいつ の報酬 ほうしゅう になったと主張 しゅちょう した。しかしデビッド・マッカルーはそのアダムズに関 かん する伝記 でんき で、18ギニーの弁護 べんご 料 りょう 以外 いがい 受 う け取 と っていないと述 の べている[15] 。アダムズ自身 じしん の日記 にっき でも、プレストンが頭金 あたまきん 10ギニーを払 はら い、後 のち に8ギニーを払 はら ったのが「私 わたし が14日 にち ないし15日 にち の労働 ろうどう に対 たい して受 う け取 と った金銭 きんせん の全 すべ てであり、私 わたし が弁護 べんご した中 なか でも最 もっと も消耗 しょうもう し骨 ほね の折 お れる仕事 しごと だった」と書 か いている[16] 。
アダムズの心配 しんぱい にも拘 かか わらず、この裁判 さいばん の準備 じゅんび を行 おこな っていた1770年 ねん 6月 がつ にはマサチューセッツ議会 ぎかい (植民 しょくみん 地 ち 議会 ぎかい )の議員 ぎいん に選出 せんしゅつ された[17] 。
イギリスの議会 ぎかい の権限 けんげん に関 かん する議論 ぎろん [ 編集 へんしゅう ]
1772年 ねん マサチューセッツ湾 わん 植民 しょくみん 地 ち 総督 そうとく のトマス・ハッチンソン は、自身 じしん と判事 はんじ 達 たち は今後 こんご イギリス王室 おうしつ が関税 かんぜい 収入 しゅうにゅう からその給与 きゅうよ を払 はら うことにするので、マサチューセッツ議会 ぎかい から給与 きゅうよ を払 はら われる必要 ひつよう は無 な いと宣言 せんげん した。ボストンの急進 きゅうしん 派 は がこれに抗議 こうぎ し、アダムズにはその抗議 こうぎ を説明 せつめい してくれるよう求 もと めた。アダムズは「マサチューセッツ議会 ぎかい からハッチンソン総督 そうとく に宛 あ てる2つの回答 かいとう 」の中 なか で、植民 しょくみん 地 ち 人 じん はイギリスの議会 ぎかい の主権 しゅけん 下 か にあったことは無 な いと主張 しゅちょう した。植民 しょくみん 地 ち の当初 とうしょ の認可 にんか は国王 こくおう その人 ひと のものであり、植民 しょくみん 地 ち 人 じん の忠誠 ちゅうせい は国王 こくおう に対 たい してのみである。議会 ぎかい の主権 しゅけん と植民 しょくみん 地 ち の全的 ぜんてき 独立 どくりつ との間 あいだ に然 しか るべき線 せん が引 ひ かれなければ、植民 しょくみん 地 ち は独立 どくりつ を選 えら ぶ以外 いがい の選択肢 せんたくし が無 な くなると、続 つづ けた。
アダムズは「ニューイングランド:すなわちアメリカとの論争 ろんそう の歴史 れきし 、当初 とうしょ の1754年 ねん から現在 げんざい まで」の中 なか で、ハッチンソンが植民 しょくみん 地 ち に対 たい してイギリスの議会 ぎかい の絶対 ぜったい 的 てき 権限 けんげん を主張 しゅちょう したことを弁護 べんご するダニエル・レナードの数 すう 編 へん の随筆 ずいひつ を攻撃 こうげき した。この「ニューイングランド」の中 なか で、アダムズはレナードの随筆 ずいひつ を1点 てん 1点 てん 反論 はんろん し、イギリス帝国 ていこく 政策 せいさく に対 たい する植民 しょくみん 地 ち 人 じん による最 もっと も広範 こうはん で造詣 ぞうけい の深 ふか い主張 しゅちょう の一 ひと つを与 あた えることになった。
成文 せいぶん となっていないイギリス憲法 けんぽう についてその起源 きげん 、性格 せいかく および法的 ほうてき 権限 けんげん を説明 せつめい するのがアダムズの行 おこな った体系 たいけい 的 てき 試 こころ みだった。アダムズはイギリスと植民 しょくみん 地 ち の法制 ほうせい 史 し に関 かん する幅広 はばひろ い知識 ちしき を活 い かし、植民 しょくみん 地 ち 議会 ぎかい がその内部 ないぶ 事情 じじょう については全 ぜん 権限 けんげん を持 も ち、植民 しょくみん 地 ち は国王 こくおう を通 つう じてのみイギリスと繋 つな がっていることを示 しめ した。
マサチューセッツ湾 わん 植民 しょくみん 地 ち は1774年 ねん の第 だい 一 いち 次 じ 大陸 たいりく 会議 かいぎ および1775年 ねん から1777年 ねん の第 だい 二 に 次 じ 大陸 たいりく 会議 かいぎ にアダムズを代議員 だいぎいん として送 おく った[18] 。1775年 ねん 6月 がつ 、植民 しょくみん 地 ち の統合 とうごう を促進 そくしん するという見解 けんかい によって、バージニア植民 しょくみん 地 ち 出身 しゅっしん のジョージ・ワシントンをボストン周辺 しゅうへん に集結 しゅうけつ していた軍隊 ぐんたい の司令 しれい 長官 ちょうかん に指名 しめい した。大陸 たいりく 会議 かいぎ におけるアダムズの影響 えいきょう 力 りょく は大 おお きく、ほぼその開始 かいし 当初 とうしょ からイギリスとの恒久 こうきゅう 的 てき な分離 ぶんり を求 もと めた。
アメリカの2セント切手 きって 大統領 だいとうりょう シリーズに使 つか われたジョン・アダムズの肖像 しょうぞう
1776年 ねん 5月15日 にち 、大陸 たいりく 会議 かいぎ は13ヶ月 かげつ 前 まえ のレキシントン・コンコードの戦 たたか い で始 はじ まった敵対 てきたい 関係 かんけい が激 はげ しくなったことに対応 たいおう し、植民 しょくみん 地 ち はそれぞれの憲法 けんぽう を確立 かくりつ し、独立 どくりつ した州 しゅう の前身 ぜんしん になることを奨励 しょうれい した。独立 どくりつ した憲法 けんぽう を起草 きそう する決議 けつぎ は、アダムズが言 い っているように「独立 どくりつ そのもの」だった[19] 。
その後 ご の10年間 ねんかん 、あらゆる邦 くに から集 あつ まったアメリカ人 じん が新 あたら しい統治 とうち のための文書 ぶんしょ を考案 こうあん した。憲法 けんぽう を書 か くことが急進 きゅうしん 的 てき であると同様 どうよう に(以前 いぜん に行 おこな われた会議 かいぎ では、政府 せいふ の組織 そしき 形態 けいたい は法制 ほうせい 化 か する必要 ひつよう が無 な く、単一 たんいつ 文書 ぶんしょ に書 か かれた構成 こうせい 法 ほう である必要 ひつよう も無 な いとされていた)、1776年 ねん 夏 なつ が明 あ けたときのアメリカ政治 せいじ 思想 しそう の性格 せいかく は同 おな じくらい急進 きゅうしん 的 てき だった[20] 。
『政府 せいふ に関 かん する考 かんが え方 かた 』 [ 編集 へんしゅう ]
各 かく 邦 くに の何人 なんにん かの代表 だいひょう が新 あたら しい政府 せいふ を形作 かたちづく ることについてアダムズに助言 じょげん を求 もと めた。アダムズは同 おな じ事 ごと を繰 く り返 かえ すのに飽 あ きて、1776年 ねん に小 しょう 冊子 さっし 『政府 せいふ に関 かん する考 かんが え方 かた 』を出版 しゅっぱん し、これがその後 ご 多 おお くの邦 くに 憲法 けんぽう を起草 きそう する際 さい に影響 えいきょう を与 あた えた。多 おお くの歴史 れきし 家 か は『政府 せいふ に関 かん する考 かんが え方 かた 』を混合 こんごう 政府 せいふ の古典 こてん 的 てき 共和 きょうわ 制 せい 理論 りろん を明確 めいかく 化 か したものとして読 よ むべきと主張 しゅちょう している。アダムズはあらゆる政治 せいじ 社会 しゃかい に社会 しゃかい 的 てき 階級 かいきゅう が存在 そんざい すること、および良 よ い政府 せいふ はその現実 げんじつ を受 う け容 い れなければならないと主張 しゅちょう した。アリストテレス に遡 さかのぼ る長 なが い間 あいだ 、混合 こんごう された体制 たいせい が君主 くんしゅ 制 せい 、貴 き 族制 ぞくせい および民主 みんしゅ 制 せい をバランスさせ、すなわち君主 くんしゅ 、貴族 きぞく と人民 じんみん が秩序 ちつじょ と自由 じゆう を保 たも つよう求 もと められると主張 しゅちょう した[21] 。
アメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく における共和 きょうわ 主義 しゅぎ を道具 どうぐ に使 つか った愛国 あいこく 者 しゃ 達 たち は、イギリスによるアメリカの自由 じゆう に対 たい する攻撃 こうげき で罪 つみ があるのは、イギリスの議会 ぎかい とアメリカに駐屯 ちゅうとん している邪悪 じゃあく で無法 むほう な貴族 きぞく 達 たち だと信 しん じた。アダムズは他 た の者 もの 達 たち とは異 こと なり、共和 きょうわ 制 せい の定義 ていぎ はそれが意味 いみ するものよりもむしろその目的 もくてき に関 かか わると考 かんが えた。『政府 せいふ に関 かん する考 かんが え方 かた 』の中 なか で、「共和 きょうわ 制 せい 以外 いがい 良 よ い政府 せいふ は無 な い。イギリスの憲法 けんぽう の唯一 ゆいいつ 価値 かち があるところはそれであり、共和 きょうわ 制 せい の定義 ていぎ そのものが『法律 ほうりつ の帝国 ていこく であり、人 ひと の帝国 ていこく ではないこと』だからである」と記 しる した。『政府 せいふ に関 かん する考 かんが え方 かた 』は両院 りょういん 制 せい を擁護 ようご し、「単一 たんいつ 議会 ぎかい は個人 こじん の悪徳 あくとく 、愚 おろ かさおよび脆 もろ さを集 あつ めたものになりやすい」からだとした[22] 。また行政府 ぎょうせいふ は司法 しほう 府 ふ と同様 どうよう に独立 どくりつ であるべきと提案 ていあん した。『政府 せいふ に関 かん する考 かんが え方 かた 』は影響 えいきょう 力 りょく が大 おお きく、あらゆる邦 くに の憲法 けんぽう を起草 きそう する場 ば で権威 けんい あるものとして引用 いんよう された。
ジョン・トランブル の『独立 どくりつ 宣言 せんげん 』では、大陸 たいりく 会議 かいぎ に独立 どくりつ 宣言 せんげん 草案 そうあん を提出 ていしゅつ する5人 にん 委員 いいん 会 かい が描 えが かれている。アダムズは中央 ちゅうおう に立 た ち、手 て を腰 こし に当 あ てている。
アメリカ独立 どくりつ 宣言 せんげん [ 編集 へんしゅう ]
1776年 ねん 6月7日 にち 、リチャード・ヘンリー・リー が提案 ていあん し「これら植民 しょくみん 地 ち は自由 じゆう で独立 どくりつ した国 くに であり、そうなるべき権利 けんり がある」とした独立 どくりつ 決議 けつぎ 案 あん をアダムズは支持 しじ し、7月 がつ 2日 にち に大陸 たいりく 会議 かいぎ によって採択 さいたく されるまで推進 すいしん した[23] 。
アダムズはトーマス・ジェファーソン、ベンジャミン・フランクリン 、ロバート・リビングストン およびロジャー・シャーマン と共 とも に五 ご 人 にん 委員 いいん 会 かい に指名 しめい され、アメリカ独立 どくりつ 宣言 せんげん を起草 きそう した。この宣言 せんげん は主 おも にジェファーソンによって書 か かれたものではあるが、その採択 さいたく に関 かん する議論 ぎろん ではアダムズが前面 ぜんめん に立 た った。長 なが い年月 としつき の後 のち にジェファーソンはアダムズのことを「会議 かいぎ 場 じょう における(独立 どくりつ 宣言 せんげん )支持 しじ 者 しゃ の柱 はしら であり、その最 もっと も有能 ゆうのう な提案 ていあん 者 しゃ かつそれが遭遇 そうぐう した多種 たしゅ 多様 たよう の攻撃 こうげき に対 たい する守護 しゅご 者 しゃ だった」と称賛 しょうさん した[24] 。
1776年 ねん 8月 がつ 27日 にち のロングアイランドの戦 たたか い で大陸 たいりく 軍 ぐん が敗北 はいぼく した後 のち 、イギリス軍 ぐん の司令 しれい 官 かん ウィリアム・ハウ 将軍 しょうぐん は第 だい 二 に 次 じ 大陸 たいりく 会議 かいぎ に休戦 きゅうせん を協議 きょうぎ するための代表 だいひょう を派遣 はけん するよう要請 ようせい した。このときの代表 だいひょう 団 だん にはアダムズとベンジャミン・フランクリンが含 ふく まれ、9月11日 にち にニューヨーク港 こう のスタテン島 とう でハウと会 あ ったが、そこでハウは他 た の条件 じょうけん を議論 ぎろん する前 まえ に独立 どくりつ 宣言 せんげん を撤回 てっかい するよう要求 ようきゅう した。代表 だいひょう 団 だん はこれを拒否 きょひ し、敵対 てきたい 関係 かんけい が続 つづ いた。1777年 ねん 、アダムズは戦争 せんそう および軍需 ぐんじゅ 品 ひん 理事 りじ 会 かい など他 た の多 おお くの重要 じゅうよう な委員 いいん 会 かい の長 ちょう として務 つと めるために、マサチューセッツ邦 くに 最高裁判所 さいこうさいばんしょ の判事 はんじ 職 しょく を辞任 じにん した[25] 。
大陸 たいりく 会議 かいぎ は新生 しんせい 間 あいだ もない連邦 れんぽう の代表 だいひょう としてまず1777年 ねん 、さらに1779年 ねん の2度 ど アダムズをヨーロッパに派遣 はけん した。どちらの場合 ばあい もアダムズは長男 ちょうなん のジョン・クィンシー(1回 かい 目 め の航海 こうかい では10歳 さい だった)を伴 ともな った。1778年 ねん 2月 がつ 15日 にち には大陸 たいりく 海軍 かいぐん のフリゲート 艦 かん USSボストン でフランスに向 む かった。何 なん 度 ど かイギリスの艦船 かんせん に追跡 ついせき されたこともあったが、航海 こうかい 中 ちゅう に実際 じっさい に戦闘 せんとう になったのはイギリスの私 わたし 掠 かすめ 船 せん を無血 むけつ で捕獲 ほかく した時 とき だけだった[26] 。アダムズは当時 とうじ の外交 がいこう 用 よう 国際 こくさい 言語 げんご だったフランス語 ふらんすご を話 はな せなかったので、ある意味 いみ で似 に つかわしくない人選 じんせん だった[27] 。
最初 さいしょ のヨーロッパ滞在 たいざい は1778年 ねん 4月 がつ 1日 にち から1779年 ねん 6月17日 にち までであり、ほとんど為 な す術 じゅつ もなく、1779年 ねん 8月 がつ 初旬 しょじゅん には故郷 こきょう のブレイントリーに戻 もど った。
同年 どうねん 9月1日 にち から10月30日 にち の間 あいだ は、サミュエル・アダムズやジェイムズ・ボードウィン と共 とも にマサチューセッツ憲法 けんぽう を起草 きそう した。この9月にはフランスに戻 もど るよう人選 じんせん されており、マサチューセッツ憲法 けんぽう 制定 せいてい 会議 かいぎ で結論 けつろん が出 で た後 のち の11月15日 にち にフランス海軍 かいぐん のフリゲ ふりげ ート艦 とかん センシブル でフランスに向 む かった。
この2回 かい 目 め の赴任 ふにん でアダムズはイギリスとの友好 ゆうこう 通商 つうしょう を交渉 こうしょう する任務 にんむ のある特命 とくめい 全権 ぜんけん 公使 こうし に指名 しめい された[28] 。しかし、フランス政府 せいふ はアダムズの指名 しめい を承認 しょうにん せず、その結果 けっか フランス外務 がいむ 大臣 だいじん ヴェルジェンヌ伯 はく の強要 きょうよう により、ベンジャミン・フランクリン、トーマス・ジェファーソン、ジョン・ジェイ およびヘンリー・ローレンス がアダムズと協力 きょうりょく するよう指名 しめい された。ただし、ジェファーソンはヨーロッパに行 い かず、ローレンスはオランダ 駐在 ちゅうざい とされた。その結果 けっか 、ジェイ、アダムズおよびフランクリンが交渉 こうしょう の任 にん にあたった。ジェイとアダムズは、フランクリンの発言 はつげん を封 ふう じ、ヴェルジェンヌ伯 はく を信用 しんよう しなかったので、フランスとは相談 そうだん しないことにした。その代 か わりにイギリスの代理人 だいりにん と直接 ちょくせつ 交渉 こうしょう した[29] 。
アダムズはこの交渉 こうしょう を通 つう じて特 とく にアメリカの大西 おおにし 洋 ひろし 岸 きし の漁業 ぎょぎょう 権 けん を認 みと めさせる決断 けつだん をしていた。アメリカ代表 だいひょう 団 だん は有利 ゆうり な条約 じょうやく 交渉 こうしょう を進 すす めることができ、スペイン に委譲 いじょう される東 ひがし フロリダ と西 にし フロリダ を除 のぞ いて、ミシシッピ川 がわ 以東 いとう の全 すべ ての土地 とち を確保 かくほ することができた。この条約 じょうやく は1782年 ねん 11月30日 にち に調印 ちょういん された。
これらの交渉 こうしょう が始 はじ まった後 のち で、アダムズは当時 とうじ の世界 せかい でも数少 かずすく ない共和 きょうわ 国 こく の一 ひと つだったオランダ大使 たいし として幾 いく らかの時間 じかん を費 つい やした(他 た の共和 きょうわ 国 こく としてはヴェネツィア共和 きょうわ 国 こく とスイス連邦 れんぽう があった)。1780年 ねん 7月 がつ 、以前 いぜん にローレンスに割 わ り当 あ てられていた任務 にんむ を遂行 すいこう するよう実権 じっけん が与 あた えられた。オランダのパトリオット指導 しどう 者 しゃ であるジョーン・ヴァン・デア・カペレン・トート・デン・ポルの援助 えんじょ もあって、1782年 ねん 4月 がつ 19日 にち にはハーグ でアメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく を独立 どくりつ した政府 せいふ としてオランダに認 みと めさせることに成功 せいこう した[注釈 ちゅうしゃく 1] 。このオランダ滞在 たいざい の間 あいだ に、ニコラース・ヴァン・スタップホルストやヴィルヘルム・ヴィリンクが手当 てあ てした500万 まん ギルダー借款 しゃっかん の交渉 こうしょう もした[注釈 ちゅうしゃく 2] 。1782年 ねん 10月 がつ 、アダムズはオランダと友好 ゆうこう 通商 つうしょう 条約 じょうやく の交渉 こうしょう を行 おこな い、1778年 ねん のフランスとの条約 じょうやく に続 つづ いてアメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく と外国 がいこく との間 あいだ に結 むす ばれた2番目 ばんめ の条約 じょうやく となった。アダムズがオランダ滞在 たいざい 中 ちゅう に購入 こうにゅう した家屋 かおく は、世界中 せかいじゅう の外国 がいこく の地 ち にある最初 さいしょ のアメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく が所有 しょゆう する大使館 たいしかん となった[30] 。1783年 ねん の2ヶ月 かげつ 間 あいだ 、アダムズはロンドンの急進 きゅうしん 派 は 出版 しゅっぱん 者 しゃ ジョン・ストックデールのところに寄宿 きしゅく 居 きょ した[31] 。
1784年 ねん と1785年 ねん 、アダムズはアメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく とプロイセン との間 あいだ のその後 ご の貿易 ぼうえき 関係 かんけい を構築 こうちく した者 もの の一人 ひとり となった。ハーグにいたプロイセンの大使 たいし フリードリヒ・ヴィルヘルム・フォン・ツレマイアーが関与 かんよ し、またパリ にいたジェファーソンとフランクリンも関 かか わった[32] 。
1785年 ねん 、アダムズは聖 ひじり ジェームズ宮廷 きゅうてい 駐在 ちゅうざい 初代 しょだい アメリカ公使 こうし (在 ざい イギリス大使 たいし )に指名 しめい された。その昔 むかし の主権 しゅけん 国 こく にいる間 あいだ に、イギリス国王 こくおう ジョージ3世 せい はアダムズがフランス政府 せいふ に信用 しんよう されていないことに気付 きづ いていると報 しら せてきた。アダムズはこれを認 みと め「私 わたし は自分 じぶん の国 くに 以外 いがい に何 なん の愛着 あいちゃく も持 も っていないことを陛下 へいか に明言 めいげん するしかない」と答 こた えた。
イギリス女王 じょおう エリザベス2世 せい は1976年 ねん 7月 がつ 7日 にち にホワイトハウス でこのエピソードに触 ふ れ、次 つぎ のように語 かた った。
アメリカの
初代 しょだい 大使 たいし であるジョン・アダムズは、
私 わたし の
先祖 せんぞ であるジョージ3
世 せい に『
我々 われわれ 2
国 こく の
国民 こくみん の
間 あいだ に
古 ふる い
良 よ き
性格 せいかく と
古 ふる い
良 よ きユーモア』を
取 と り
戻 もど せるようにするのが
望 のぞ みだと
言 い った。その
回復 かいふく は
長 なが い
間 あいだ になされ、
言語 げんご 、
伝統 でんとう および
人的 じんてき 結 むす びつきがそれを
維持 いじ してきた
[33] 。
ジョンとアビゲイルのアダムズ夫妻 ふさい がロンドン に居 い る間 あいだ に、イギリス宮廷 きゅうてい の凝視 ぎょうし と敵意 てきい に悩 なや まされ、ニューイントン・グリーン・ユニタリアン教会 きょうかい の牧師 ぼくし で革命 かくめい 議論 ぎろん の扇動 せんどう 者 しゃ でもあったリチャード・プライスの助 たす けを求 もと めることで、できる限 かぎ りの逃亡 とうぼう を選 えら んだ。夫妻 ふさい 共 ども にプライスを大変 たいへん 崇拝 すうはい し、アビゲイルはプライスやその弟子 でし で『女性 じょせい の権利 けんり の擁護 ようご 』の著者 ちょしゃ であるメアリ・ウルストンクラフト の教 おし えを深 ふか く心 しん に刻 きざ んだ[34] 。
アダムズがロンドンで滞在 たいざい したのはグロブナー・スクェアに近 ちか い家屋 かおく であり、現在 げんざい でも残 のこ っていて、記念 きねん する銘板 めいばん が置 お かれている。アダムズは1788年 ねん にアメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく に戻 もど り、国内 こくない の政界 せいかい に復帰 ふっき した。
憲法 けんぽう の概念 がいねん [ 編集 へんしゅう ]
1780年 ねん に批准 ひじゅん され、その大半 たいはん はアダムズが起草 きそう したマサチューセッツ憲法 けんぽう は、アダムズの政治 せいじ と社会 しゃかい に関 かん する見解 けんかい と密接 みっせつ に結 むす びついて政府 せいふ を構築 こうちく していた[35] 。この憲法 けんぽう は特別 とくべつ の委員 いいん 会 かい で起草 きそう され、人民 じんみん によって批准 ひじゅん されたことでは最初 さいしょ の憲法 けんぽう だった。また両院 りょういん 制 せい の議会 ぎかい 、明白 めいはく で他 ほか とは異 こと なる行政府 ぎょうせいふ (拒否 きょひ 権 けん が行使 こうし できるが、行政 ぎょうせい 委員 いいん 会 かい によって拘束 こうそく される)および独立 どくりつ した司法 しほう 府 ふ があることでも最初 さいしょ のものだった。
アダムズはロンドンに居 い た1787年 ねん に『アメリカ諸 しょ 邦 くに 憲法 けんぽう 擁護 ようご 論 ろん 』と題 だい する著作 ちょさく を出版 しゅっぱん した[36] 。この中 なか でテュルゴー などヨーロッパの著作 ちょさく 家 か が国家 こっか 政府 せいふ の枠組 わくぐ みに関 かん する悪意 あくい について書 か いていることを批判 ひはん した。テュルゴーは貴族 きぞく 制 せい を欠 か く国 くに は両院 りょういん 制 せい 議会 ぎかい を持 も つ必要 ひつよう が無 な いと主張 しゅちょう していた。共和 きょうわ 制 せい 政府 せいふ は「あらゆる権限 けんげん を一 いち 極 きょく に、国 くに の中心 ちゅうしん に」集 あつ めるものと考 かんが えた[37] 。アダムズはその著書 ちょしょ で「裕福 ゆうふく で、生 う まれが良 よ く、有能 ゆうのう な者 もの であれば、上院 じょういん で他 た の者 もの とは別 べつ に置 お かれるべきであり、それで他 た の者 もの が下院 かいん を支配 しはい することを妨 さまた げる」と提案 ていあん した。歴史 れきし 家 か のウッドは、合衆国 がっしゅうこく 憲法 けんぽう が批准 ひじゅん される時 とき までにアダムズは知性 ちせい 上 じょう 不適切 ふてきせつ になっていたと主張 しゅちょう した。この時 とき までにアメリカの政治 せいじ 思想 しそう は、10年 ねん 以上 いじょう にわたる活発 かっぱつ で探求 たんきゅう 的 てき な議論 ぎろん と経験 けいけん に基 もと づく圧力 あつりょく を形成 けいせい することで変化 へんか し、政府 せいふ を社会 しゃかい 的 てき 財産 ざいさん の鏡 かがみ として理解 りかい する古典 こてん 的 てき 政治 せいじ 概念 がいねん を棄 す てていた。アメリカの新 あたら しい人民 じんみん 主権 しゅけん の考 かんが え方 かた は人民 じんみん 全体 ぜんたい を領域 りょういき 内 ない における権力 けんりょく の唯一 ゆいいつ の所有 しょゆう 者 しゃ として見 み ていた。政府 せいふ のあらゆる役人 やくにん は人民 じんみん の権力 けんりょく のほんの一部 いちぶ を限 かぎ られた時間 じかん のみで享受 きょうじゅ する。アダムズはこの概念 がいねん を見失 みうしな っており、古 ふる い政治 せいじ 観 かん に固執 こしつ し続 つづ けていることを示 しめ している[38] 。しかしウッドはアダムズによる「共和 きょうわ 国 こく 」の特別 とくべつ な定義 ていぎ と人民 じんみん によって批准 ひじゅん された憲法 けんぽう への支持 しじ を見落 みお としている[39] 。また抑制 よくせい と均衡 きんこう についてのアダムズの信念 しんねん も過小 かしょう 評価 ひょうか している。アダムズは「権力 けんりょく は権力 けんりょく に対抗 たいこう し利益 りえき は利益 りえき に対抗 たいこう しなければならない」と記 しる しており、この考 かんが え方 かた は後 のち にジェームズ・マディソン の有名 ゆうめい な『ザ・フェデラリスト 』第 だい 51編 へん で、新 しん 憲法 けんぽう 下 か で連邦 れんぽう 政府 せいふ 各 かく 府 ふ の権力 けんりょく を説明 せつめい する際 さい に、「大望 たいぼう は大望 たいぼう に対抗 たいこう させるようにしなければならない」という文章 ぶんしょう で再現 さいげん された[40] [41] 。アダムズはその知的 ちてき 活動 かつどう 域 いき の中 なか で「抑制 よくせい と均衡 きんこう 」という概念 がいねん を他 た の誰 だれ よりも持 も っていた。
アメリカ独立 どくりつ 宣言 せんげん は、後 のち に第 だい 3代 だい 大統領 だいとうりょう になるトーマス・ジェファーソンが原文 げんぶん を起草 きそう し、当初 とうしょ の原文 げんぶん には奴隷 どれい 制 せい 反対 はんたい の立場 たちば を明 あき らかにする文言 もんごん が盛 も り込 こ まれていた。この扱 あつか いを巡 めぐ り、建国 けんこく の父 ちち の間 あいだ で激 はげ しい議論 ぎろん がおきたが、その時 とき に事態 じたい の収拾 しゅうしゅう に動 うご いたのがアダムズである。アダムズは「建国 けんこく の父 ちち 」達 たち に多 おお かった奴隷 どれい 制 せい 大 だい 農園 のうえん 主 ぬし ではなかったが、13植民 しょくみん 地 ち の分裂 ぶんれつ を防 ふせ ぐため、独立 どくりつ 宣言 せんげん の文章 ぶんしょう から奴隷 どれい 制 せい 解放 かいほう の部分 ぶぶん の削除 さくじょ を行 おこな った。アダムズは奴隷 どれい を購入 こうにゅう したことが無 な いし、奴隷 どれい 労働 ろうどう 者 しゃ を雇 やと うことを原則 げんそく 的 てき に拒否 きょひ した[42] 。妻 つま のアビゲイルは奴隷 どれい 制 せい に反対 はんたい し、彼女 かのじょ の父 ちち が持 も っていた家内 かない 奴隷 どれい 2人 にん よりも解放 かいほう された黒人 こくじん を採用 さいよう した。アダムズはマサチューセッツで奴隷 どれい を解放 かいほう する法案 ほうあん 、独立 どくりつ 戦争 せんそう で黒人 こくじん 兵士 へいし を使 つか うことに反対 はんたい し、その問題 もんだい を国内 こくない 政治 せいじ の場 ば から遠 とお ざけておくようにした[43] 。
副 ふく 大統領 だいとうりょう [ 編集 へんしゅう ]
1789年 ねん の大統領 だいとうりょう 選挙 せんきょ で、ワシントンが一般 いっぱん 選挙 せんきょ では何 なん の異論 いろん もなく、選挙 せんきょ 人 じん 選挙 せんきょ でも69票 ひょう を獲得 かくとく したとき、アダムズは選挙 せんきょ 人 じん 選挙 せんきょ で34票 ひょう を得 え て2位 い になり、副 ふく 大統領 だいとうりょう になった。アダムズは上院 じょういん を采配 さいはい したが、1790年代 ねんだい 初期 しょき の政界 せいかい ではあまり重要 じゅうよう な役割 やくわり を果 は たせなかった。1792年 ねん の大統領 だいとうりょう 選挙 せんきょ でも再選 さいせん された。ワシントンはアダムズが副 ふく 大統領 だいとうりょう として任期 にんき にある間 あいだ に政治 せいじ や法律 ほうりつ の問題 もんだい でアダムズに意見 いけん を求 もと めることは滅多 めった に無 な かった[44] 。
ワシントン政権 せいけん の1年 ねん 目 め 、アダムズは大統領 だいとうりょう の公式 こうしき 称号 しょうごう に関 かん して1ヶ月 かげつ に及 およ ぶ上院 じょういん での議論 ぎろん に深 ふか く巻 ま き込 こ まれた。最終 さいしゅう 的 てき に決 き まった単純 たんじゅん な「アメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく 大統領 だいとうりょう 」よりも「大統領 だいとうりょう 閣下 かっか 」(His Majesty the President)あるいは「殿下 でんか 」(His High Mightiness)という仰々 ぎょうぎょう しい肩書 かたが きの方 ほう を好 この んだ。アダムズの姿勢 しせい の尊大 そんだい さは、彼 かれ が太 ふと り気味 ぎみ だったこととともに、「肥満 ひまん 様 さま 」(His Rotundity)という渾名 あだな まで頂戴 ちょうだい した。
アダムズは上院 じょういん 議長 ぎちょう として、29回 かい の決着 けっちゃく 票 ひょう (賛否 さんぴ 同数 どうすう の場合 ばあい に議長 ぎちょう が投 とう ずる票 ひょう )を投 とう じた。これはこれまでの最多 さいた であり、2位 い にくるのはジョン・カルフーン が28回 かい だった[45] 。アダムズの決着 けっちゃく 票 ひょう は被 ひ 指名 しめい 人 じん の排除 はいじょ に関 かん する大統領 だいとうりょう だけの権限 けんげん を守 まも り、また首都 しゅと 建設 けんせつ 地 ち の選定 せんてい に影響 えいきょう を与 あた えた。少 すく なくとも1回 かい は彼 かれ の反対 はんたい した法案 ほうあん に反対 はんたい 票 ひょう を投 とう じるよう上院 じょういん 議員 ぎいん 達 たち を説得 せっとく し、またしばしば上院 じょういん で手続 てつづき や政策 せいさく に関 かん して演説 えんぜつ した。上院 じょういん におけるアダムズの政治 せいじ 見解 けんかい とその役割 やくわり のためにジョージ・ワシントン政権 せいけん の批評 ひひょう 家 か にとってはアダムズが当然 とうぜん の標的 ひょうてき になった。最初 さいしょ の任期 にんき の終 お わりごろには、手続 てつづき や政策 せいさく を除 のぞ いてアダムズを黙 だま らせるような脅迫 きょうはく 的 てき 決議 けつぎ 案 あん があった結果 けっか として、より自制 じせい するようになった。2つの政党 せいとう が作 つく られたときは連邦 れんぽう 党 とう に参加 さんか したが、その勢力 せいりょく ある指導 しどう 者 しゃ であるアレクサンダー・ハミルトンとうまくいっていた訳 わけ ではなかった。アダムズが年長 ねんちょう であり、北部 ほくぶ 出身 しゅっしん の大統領 だいとうりょう が望 のぞ まれていたので、1796年 ねん の大統領 だいとうりょう 選挙 せんきょ ではアダムズが連邦 れんぽう 党 とう の候補者 こうほしゃ に選 えら ばれ、対抗 たいこう する民主 みんしゅ 共和党 きょうわとう の指導 しどう 者 しゃ であるトーマス・ジェファーソンと戦 たたか った。アダムズの成功 せいこう は当時 とうじ の平和 へいわ と繁栄 はんえい のお陰 かげ だった。ワシントンとハミルトンは1795年 ねん のジェイ条約 じょうやく でイギリスとの戦争 せんそう を回避 かいひ していた[46] 。
アダムズの副 ふく 大統領 だいとうりょう としての2期間 きかん は、彼 かれ のような活発 かっぱつ で、知的 ちてき で自惚 うぬぼ れのある者 もの には鬱憤 うっぷん の積 つ もるものだった。妻 つま のアビゲイルには「この国 くに は人 ひと がこれまでに創 つく り出 だ したものあるいはその想像 そうぞう 力 りょく で認識 にんしき できたものの中 なか でも最 もっと も取 と るに足 た りない役職 やくしょく を私 わたし に押 お しつけるという知恵 ちえ を働 はたら かせた。」と嘆 なげ いた[47] 。
1796年 ねん の大統領 だいとうりょう 選挙 せんきょ [ 編集 へんしゅう ]
1796年 ねん の大統領 だいとうりょう 選挙 せんきょ は第 だい 一 いち 政党 せいとう 制 せい の下 した で初 はじ めて争 あらそ われたものとなった。アダムズは連邦 れんぽう 党 とう の候補者 こうほしゃ となり、サウスカロライナ州 しゅう 知事 ちじ のトマス・ピンクニー も連邦 れんぽう 党 とう として立 た った(当時 とうじ 、副 ふく 大統領 だいとうりょう は投票 とうひょう で2位 い になった者 もの が選 えら ばれたので、現代 げんだい の意味 いみ での副 ふく 大統領 だいとうりょう 候補 こうほ というものはいなかった)。連邦 れんぽう 党 とう はジェファーソンに行 い く票 ひょう を潰 つぶ す大統領 だいとうりょう 候補 こうほ としてアダムズを望 のぞ んだ。連邦 れんぽう 党員 とういん の大半 たいはん はハミルトンの方 ほう を候補者 こうほしゃ にしたかった。ハミルトンとその追随 ついずい 者 しゃ 達 たち はアダムズを支持 しじ したが、蟠 わだかま りもあった。彼等 かれら はアダムズを二 ふた つの悪 あく のうちでましなほうと考 かんが えた。しかし、ワシントンを成功 せいこう に導 みちび いた真面目 まじめ さや人気 にんき が無 な いと考 かんが えており、アダムズが余 あま りに自惚 うぬぼ れが強 つよ く、意固地 いこじ で、気 き まぐれでかつ頑固 がんこ で彼等 かれら の指示 しじ に従 したが わないような事態 じたい を恐 おそ れた[48] 。
アダムズの対抗 たいこう 馬 ば は、バージニア州 しゅう 出身 しゅっしん で前 まえ 国務 こくむ 長官 ちょうかん のトーマス・ジェファーソンであり、ニューヨーク州 しゅう 出身 しゅっしん の上院 じょういん 議員 ぎいん アーロン・バー と共 とも に民主 みんしゅ 共和党 きょうわとう の候補者 こうほしゃ となった。
アダムズは従来 じゅうらい の慣習 かんしゅう を踏襲 とうしゅう して選挙 せんきょ 戦 せん の間 あいだ もマサチューセッツ州 しゅう クィンシーの自宅 じたく に留 とど まった。愚 おろ かで危険 きけん なゲームと呼 よ ぶものからは離 はな れていたいと考 かんが えた。しかし、連邦 れんぽう 党 とう はアダムズのために選挙 せんきょ 運動 うんどう を行 おこな い民主 みんしゅ 共和党 きょうわとう はジェファーソンのための選挙 せんきょ 戦 せん を行 おこな った。
アダムズはニューイングランドの票 ひょう を支配 しはい すると予測 よそく され、一方 いっぽう ジェファーソンは南部 なんぶ 州 しゅう で勝利 しょうり すると見 み られていた。結果 けっか を見 み ると選挙 せんきょ 人 じん 選挙 せんきょ ではアダムズは71票 ひょう を獲得 かくとく し、68票 ひょう を得 え たジェファーソンを僅差 きんさ で破 やぶ った。ジェファーソンは副 ふく 大統領 だいとうりょう になった[49] 。
大統領 だいとうりょう 職 しょく [ 編集 へんしゅう ]
大統領 だいとうりょう としてのアダムズはワシントンの路線 ろせん を踏襲 とうしゅう し、大統領 だいとうりょう 職 しょく を共和 きょうわ 制 せい の価値 かち 観 かん の例 れい とし、また市民 しみん 道徳 どうとく を強調 きょうちょう したので、如何 いか なるスキャンダルにも巻 ま き込 こ まれなかった。歴史 れきし 家 か の中 なか には、アダムズが自分 じぶん の息 いき のかかった人物 じんぶつ を登用 とうよう する代 か わりに、ハミルトンが統制 とうせい する以前 いぜん の閣僚 かくりょう をそのまま使 つか ったのが最大 さいだい の誤 あやま りと考 かんが える者 もの がおり、「権力 けんりょく に関 かん する策謀 さくぼう に不慣 ふな れだった」故 ゆえ に、アダムズ自身 じしん が認 みと めているようにまずい政治 せいじ 家 か だったということを肯定 こうてい している[50] 。しかし、アダムズがワシントンの閣僚 かくりょう を使 つか い続 つづ けたことは秩序 ちつじょ ある政権 せいけん 移譲 いじょう についての心配 しんぱい を緩和 かんわ するために政治 せいじ 家 か らしい手段 しゅだん だったと考 かんが える歴史 れきし 家 か もいる。アダムズ自身 じしん が説明 せつめい しているように、「私 わたし は当時 とうじ 閣僚 かくりょう の誰 だれ についても特別 とくべつ な異議 いぎ が無 な かった」からだった[51] 。アダムズはその任期 にんき の大半 たいはん をマサチューセッツ州 しゅう の自宅 じたく で過 す ごし、二 に 大 だい 政党 せいとう の代行 だいこう 者 しゃ が無視 むし することの無 な かった利益 りえき 供与 きょうよ や対話 たいわ の詳細 しょうさい を無視 むし していた。
アダムズの闘争 とうそう 的 てき 精神 せいしん は大統領 だいとうりょう としての作法 さほう に常 つね に役 やく だった訳 わけ ではなく、老年 ろうねん になってアダムズ自身 じしん が認 みと めているように、「(大統領 だいとうりょう としての)私 わたし は黙 だま って苦 くる しむのを拒 こば んだ。ため息 いき をつき、啜 すす り泣 な き、また呻 うめ き声 ごえ を上 あ げ、時 とき には金切 かなき り声 ごえ を上 あ げて叫 さけ んだ。また私 わたし は時 とき として悪態 あくたい を付 つ いたという恥 はじ と後悔 こうかい も告白 こくはく しなければならない。」[52]
アダムズはワシントンの閣僚 かくりょう を引 ひ き継 つ いだだけでなく、ワシントン政権 せいけん の主要 しゅよう な計画 けいかく も継承 けいしょう した。アダムズが新 あたら しく大 おお きな提案 ていあん をすることは無 な かった。その経済 けいざい 政策 せいさく はハミルトンのものの継承 けいしょう であり、ハミルトンは常 つね に主要 しゅよう な閣僚 かくりょう 、特 とく に権勢 けんせい ある財務 ざいむ 長官 ちょうかん のオリヴァー・ウォルコット・ジュニア と相談 そうだん していた[53] 。
アダムズの任期 にんき は外交 がいこう 政策 せいさく とフランスとの限定 げんてい された海洋 かいよう 戦争 せんそう に関 かん する激 はげ しい議論 ぎろん に特徴 とくちょう がある。イギリスとフランスはナポレオン戦争 せんそう による戦闘 せんとう 状態 じょうたい だった。ハミルトンと連邦 れんぽう 党 とう はイギリスの肩 かた を持 も ち、ジェファーソンと民主 みんしゅ 共和党 きょうわとう はフランスの肩 かた を持 も っていた[54] 。
アダムズが就任 しゅうにん したとき、ワシントンの政策 せいさく であるフランスとイギリスの戦争 せんそう からは局外 きょくがい にあることを踏襲 とうしゅう する必要 ひつよう 性 せい を認識 にんしき した。事実 じじつ 、1795年 ねん のジェイ条約 じょうやく に関 かん する激 はげ しい抗 こう 争 そう は国 くに を挙 あ げての恒久 こうきゅう 的 てき な党派 とうは 抗 こう 争 そう となり、第 だい 一 いち 次 じ 政党 せいとう システムが始 はじ まって、大半 たいはん の選挙 せんきょ はこれが焦点 しょうてん に争 あらそ われた[55] 。
フランスはアメリカをイギリスの若 わか いパートナーだと見 み て、イギリスと交易 こうえき するアメリカの商船 しょうせん を捕 つか まえ始 はじ め、世 よ に言 い う「擬似 ぎじ 戦争 せんそう 」となった。どちらの国 くに も公式 こうしき に宣戦 せんせん 布告 ふこく した訳 わけ ではなかったが、危険 きけん 性 せい は高 たか く、連邦 れんぽう 党 とう は戦争 せんそう に備 そな えて国 くに の再 さい 軍備 ぐんび を進 すす め、恐 おそ らくは反戦 はんせん 論 ろん の民主 みんしゅ 共和党 きょうわとう を抑 おさ えるためにも行動 こうどう した[56] 。
如何 いか なる議論 ぎろん も始 はじ められていない前 まえ にフランスが莫大 ばくだい な賄賂 わいろ を要求 ようきゅう したXYZ事件 じけん の屈辱 くつじょく によって、フランスとの全面 ぜんめん 戦争 せんそう に移 うつ る脅威 きょうい が増 ま し、フランスには友好 ゆうこう 的 てき だったジェファーソン支持 しじ 者 しゃ 達 たち を当惑 とうわく させた。擬似 ぎじ 戦争 せんそう と呼 よ ばれるアメリカとフランスの宣戦 せんせん 布告 ふこく 無 な き海洋 かいよう 戦争 せんそう が1798年 ねん に勃発 ぼっぱつ し、格段 かくだん に勢力 せいりょく があり強力 きょうりょく なフランス軍 ぐん による侵略 しんりゃく の可能 かのう 性 せい が生 しょう じた。連邦 れんぽう 党 とう は軍隊 ぐんたい を構築 こうちく して、ワシントンをその長 ちょう に戻 もど し、ハミルトンを軍隊 ぐんたい の指導 しどう 者 しゃ とした。アダムズは海軍 かいぐん を再 さい 構築 こうちく し、USSコンスティチューション など6隻 せき の快速 かいそく かつ強力 きょうりょく なフリゲ ふりげ ート艦 とかん を建造 けんぞう させた。これらの費用 ひよう を賄 まかな うために議会 ぎかい は増税 ぞうぜい もした[57] 。
大統領 だいとうりょう 1ドル硬貨 こうか のうちジョン・アダムズのもの
外国 がいこく 人 じん ・治安 ちあん 諸法 しょほう [ 編集 へんしゅう ]
議会 ぎかい における連邦 れんぽう 党 とう は外国 がいこく 人 じん ・治安 ちあん 諸法 しょほう で政敵 せいてき を破 やぶ り、これにはアダムズが1799年 ねん に署名 しょめい した[58] [59] 。
これらの法 ほう は以下 いか の4つの異 こと なる法 ほう で構成 こうせい されている。
帰化 きか 法 ほう 、1798年 ねん 6月 がつ 18日 にち 成立 せいりつ
外国 がいこく 人 じん 法 ほう 、同年 どうねん 6月 がつ 24日 にち 成立 せいりつ
敵対 てきたい 的 てき 外国 がいこく 人 じん 法 ほう 、同年 どうねん 7月 がつ 6日 にち 成立 せいりつ
治安 ちあん 法 ほう 、同年 どうねん 7月 がつ 14日 にち 成立 せいりつ
これら4つの法 ほう は民主 みんしゅ 共和党 きょうわとう の反対 はんたい を抑圧 よくあつ するために成立 せいりつ した。帰化 きか 法 ほう は外国 がいこく で生 う まれた者 もの をアメリカ人 じん として帰化 きか させるための年限 ねんげん を14年間 ねんかん に変更 へんこう した。移民 いみん の大半 たいはん は民主 みんしゅ 共和党 きょうわとう に投票 とうひょう していたので、この法 ほう の成立 せいりつ は民主 みんしゅ 共和党 きょうわとう に投票 とうひょう する者 もの の比率 ひりつ を減 へ らせると考 かんが えた。外国 がいこく 人 じん 法 ほう と敵対 てきたい 的 てき 外国 がいこく 人 じん 法 ほう は、この国 くに にとって危険 きけん であると大統領 だいとうりょう が考 かんが える外国 がいこく 人 じん を国外 こくがい 退去 たいきょ させる権限 けんげん を大統領 だいとうりょう に与 あた えた。
治安 ちあん 法 ほう は政府 せいふ あるいはその役人 やくにん に対 たい して「偽 いつわ りで、抽象 ちゅうしょう 的 てき でかつ悪意 あくい 有 あ る書物 しょもつ 」を出版 しゅっぱん することを犯罪 はんざい とした。刑罰 けいばつ には2年 ねん ないし5年間 ねんかん の収監 しゅうかん と2,000ドルなし5,000ドルの科料 かりょう があった。アダムズはこれらの法 ほう を考案 こうあん したり促進 そくしん したりしたのではなかったが、それらに署名 しょめい して成案 せいあん させた。
これらの法 ほう 、および連邦 れんぽう 党員 とういん によって多 おお くの新聞 しんぶん 編集 へんしゅう 者 しゃ や連邦 れんぽう 議会 ぎかい 議員 ぎいん 1人 にん に対 たい する注目 ちゅうもく を浴 あ びる告発 こくはつ があったことで、多 おお くの議論 ぎろん を呼 よ んだ。歴史 れきし 家 か の中 なか にはこの外国 がいこく 人 じん ・治安 ちあん 諸法 しょほう が滅多 めった に執行 しっこう されることは無 な かったと指摘 してき する者 もの がいる。この諸法 しょほう の下 した でわずか10人 にん が有罪 ゆうざい とされ、アダムズが国外 こくがい 退去 たいきょ 命令 めいれい 書 しょ に署名 しょめい することは無 な かった。外国 がいこく 人 じん ・治安 ちあん 諸法 しょほう に関 かん する騒動 そうどう は民主 みんしゅ 共和党 きょうわとう によって掻 か き立 た てられたものだった。しかし、他 た の歴史 れきし 家 か はこの諸法 しょほう がその発端 ほったん から高度 こうど に議論 ぎろん を呼 よ ぶものであり、多 おお くの外国 がいこく 人 じん をして自発 じはつ 的 てき に退去 たいきょ させ、連邦 れんぽう 議会 ぎかい の議場 ぎじょう であっても連邦 れんぽう 党 とう に対抗 たいこう することが告発 こくはつ に繋 つな がりうるという雰囲気 ふんいき を醸成 じょうせい たことを強調 きょうちょう している。1800年 ねん の大統領 だいとうりょう 選挙 せんきょ は、辛辣 しんらつ で一色 いっしょく 触発 しょくはつ の争 あらそ いになり、両 りょう 党 とう 共 ども にお互 たが いの党 とう とその政策 せいさく に関 かん する恐怖 きょうふ を過大 かだい に表現 ひょうげん した[60] 。
軍隊 ぐんたい の問題 もんだい に関 かん しては連邦 れんぽう 党 とう の中 なか に深 ふか い亀裂 きれつ が生 う まれた。アダムズはワシントンを新 あたら しい軍隊 ぐんたい の指揮 しき 官 かん に指名 しめい するしかなく、ワシントンはハミルトンをその副 ふく 司令 しれい 官 かん にすることを要求 ようきゅう した。アダムズはこれを渋々 しぶしぶ 承認 しょうにん した[61] 。少将 しょうしょう であるハミルトンが実質 じっしつ 的 てき に陸軍 りくぐん 省 しょう を統制 とうせい した。アダムズとハイ・フェデラリスト(アダムズの敵対 てきたい 者 しゃ がこう呼 よ ばれた)との間 あいだ の亀裂 きれつ が広 ひろ くなった。ハイ・フェデラリストは1798年 ねん の重要 じゅうよう 法案 ほうあん についてアダムズに相談 そうだん するのを拒 こば んだ。彼等 かれら はアダムズの要求 ようきゅう する防衛 ぼうえい 手段 しゅだん を変更 へんこう し、ハミルトンが軍隊 ぐんたい を統制 とうせい することを要求 ようきゅう し、さらにアーロン・バーのような民主 みんしゅ 共和党 きょうわとう の重要 じゅうよう 人物 じんぶつ に軍隊 ぐんたい の上級 じょうきゅう 職 しょく を与 あた える必要 ひつよう 性 せい を否定 ひてい した(アダムズは民主 みんしゅ 共和党 きょうわとう からの支持 しじ を得 え るためにそれを望 のぞ んだ)。ハイ・フェデラリストは大 だい 規模 きぼ な常備 じょうび 軍 ぐん を作 つく ることで大衆 たいしゅう に警告 けいこく を与 あた え、民主 みんしゅ 共和党 きょうわとう の思 おも うつぼに嵌 はま った。彼等 かれら はアダムズとその大 おお きな個人 こじん 的 てき 追随 ついずい 者 しゃ と疎遠 そえん にもなった。連邦 れんぽう 党 とう を自分 じぶん 達 たち の道具 どうぐ とする近視眼 きんしがん 的 てき 見方 みかた をし、国 くに 全体 ぜんたい を纏 まと めてフランスとの戦争 せんそう に直面 ちょくめん する必要 ひつよう 性 せい を無視 むし した[62] 。
アダムズは長期間 ちょうきかん マサチューセッツ州 しゅう の自宅 じたく に引 ひ き籠 こ もった。1799年 ねん 2月 がつ 、アダムズは外交 がいこう 官 かん のウィリアム・ヴァンス・マレーを平和 へいわ 使節 しせつ としてフランスに派遣 はけん することで国内 こくない を驚 おどろ かせた。ナポレオン・ボナパルト はアメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく の敵意 てきい が何 なん の利益 りえき にも繋 つな がらないことを認識 にんしき し、友好 ゆうこう 的 てき な関係 かんけい を作 つく る用意 ようい があることを伝 つた えてきた。ワシントンがその惜別 せきべつ の言葉 ことば で忠告 ちゅうこく していたように、1778年 ねん の同盟 どうめい 条約 じょうやく は破棄 はき され、アメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく は外国 がいこく との関 かか わりで自由 じゆう な立場 たちば だった。アダムズは戦争 せんそう を回避 かいひ したが、その過程 かてい で自分 じぶん の党 とう を分裂 ぶんれつ させた。ジョン・マーシャル を国務 こくむ 長官 ちょうかん に起用 きよう し、緊急 きんきゅう 動員 どういん した軍隊 ぐんたい を解散 かいさん させた[63] 。
新 あたら しい軍隊 ぐんたい の費用 ひよう を賄 まかな うために連邦 れんぽう 議会 ぎかい は新 あたら しい資産 しさん 税 ぜい である1798年 ねん の直接 ちょくせつ 税 ぜい を課 か した。これはそのような連邦 れんぽう 税 ぜい としては最初 さいしょ で最後 さいご のものだった。納税 のうぜい 者 しゃ は怒 いか り、ペンシルベニア州 しゅう 南東 なんとう 部 ぶ のドイツ語 ご を話 はな す農夫 のうふ 達 たち の間 あいだ ではこれがその共和 きょうわ 制 せい の自由 じゆう と教会 きょうかい に対 たい する脅威 きょうい と見 み て抗議 こうぎ し、無血 むけつ ではあるがフリースの反乱 はんらん が最大 さいだい の抵抗 ていこう となった[64] 。
1800年 ねん の大統領 だいとうりょう 選挙 せんきょ [ 編集 へんしゅう ]
1799年 ねん にワシントンが死 し ぬと、連邦 れんぽう 党 とう はその象徴 しょうちょう であり団結 だんけつ させていた人物 じんぶつ を失 うしな ったことで力 ちから が弱 よわ まった。1800年 ねん アメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく 大統領 だいとうりょう 選挙 せんきょ では、アダムズとその仲間 なかま の連邦 れんぽう 党 とう 候補者 こうほしゃ であるチャールズ・コーツワース・ピンクニー が、ジェファーソンとバーという民主 みんしゅ 共和党 きょうわとう の組合 くみあわ せと対抗 たいこう した。ハミルトンはピンクニーが大統領 だいとうりょう になるチャンスを後押 あとお しすることを期待 きたい して、アダムズの選挙 せんきょ 運動 うんどう は邪魔 じゃま する方 ほう に熱心 ねっしん だった。結局 けっきょく 、アダムズは選挙 せんきょ 人 じん 選挙 せんきょ で65票 ひょう 対 たい 73票 ひょう でジェファーソンに敗 やぶ れた。ニューヨーク州 しゅう が結果 けっか を決定 けってい づける投票 とうひょう となった。
アダムズは民主 みんしゅ 共和党 きょうわとう のよりましな組織 そしき と連邦 れんぽう 党 とう の分裂 ぶんれつ のために敗 やぶ れた。さらに外国 がいこく 人 じん ・治安 ちあん 諸法 しょほう を大衆 たいしゅう が認 みと めなかったこと、対抗 たいこう 馬 ば であるジェファーソンの人気 にんき 、およびアーロン・バーがニューヨーク州 しゅう で効果 こうか 的 てき な政治 せいじ 操作 そうさ 工作 こうさく を行 おこな ったことも結果 けっか を左右 さゆう した。ニューヨーク州 しゅう 議会 ぎかい (選挙 せんきょ 人 じん 団 だん を選出 せんしゅつ した)はバーの政治 せいじ マシン によって支配 しはい されたニューヨーク 市 し の幾 いく つかの区 く を地盤 じばん に連邦 れんぽう 党 とう から民主 みんしゅ 共和党 きょうわとう へ票 ひょう を移 うつ させた[65] 。
1800年 ねん 11月1日 にち からアダムズの任期 にんき の最後 さいご の数ヶ月 すうかげつ は首都 しゅと ワシントンD.C. とまだ完成 かんせい はしていないホワイトハウス で政務 せいむ を行 おこ なった最初 さいしょ の大統領 だいとうりょう になった[66] 。ホワイトハウスに移 うつ り住 す んだ際 さい 、「この屋根 やね の下 した に統治 とうち する者 もの は、ただ誠実 せいじつ なる賢者 けんじゃ のみである」という文章 ぶんしょう を書 か きした。
真夜中 まよなか の判定 はんてい [ 編集 へんしゅう ]
アダムズがレイム・ダックとなっていた議会 ぎかい の会期 かいき で1801年 ねん の司法 しほう 権 けん 法 ほう が成立 せいりつ し、連邦 れんぽう 地区 ちく 裁判所 さいばんしょ と最高 さいこう 裁判所 さいばんしょ の間 あいだ に連邦 れんぽう 控訴 こうそ 裁判所 さいばんしょ (複数 ふくすう )を創設 そうせつ した。その任期 にんき が終 お わるまでにこの法 ほう で作 つく られた裁判官 さいばんかん 職 しょく を「真夜中 まよなか の判定 はんてい 」と呼 よ ばれる人事 じんじ で埋 う めた。その大半 たいはん は任期 にんき の終 お わる前 まえ の数日 すうじつ 間 あいだ で公式 こうしき に指名 しめい されたのでこの名 な がある。ジェファーソンとその支持 しじ 者 しゃ 達 たち は1802年 ねん の司法 しほう 権 けん 法 ほう を成立 せいりつ させて、1801年 ねん の法 ほう によって創設 そうせつ された裁判所 さいばんしょ を廃止 はいし し、それ以前 いぜん の連邦 れんぽう 裁判所 さいばんしょ の形 かたち に戻 もど したので、指名 しめい された判事 はんじ の大半 たいはん は正式 せいしき にその職 しょく に就 つ くことは無 な かった。アダムズの最 もっと も大 おお きな遺産 いさん は、健康 けんこう を害 がい して辞任 じにん したオリバー・エルスワース 最高 さいこう 裁判所 さいばんしょ 長官 ちょうかん の後任 こうにん にジョン・マーシャル(第 だい 4代 だい )を指名 しめい したことだった。マーシャルは合衆国 がっしゅうこく 憲法 けんぽう に熟考 じゅっこう を重 かさ ね、丁寧 ていねい に国家 こっか 的 てき 解釈 かいしゃく を行 おこな い、司法 しほう 府 ふ を行政府 ぎょうせいふ や立法府 りっぽうふ と対等 たいとう な立場 たちば のものとして確立 かくりつ したので、その長 なが い任期 にんき は連邦 れんぽう 党 とう の影響 えいきょう を長 なが く続 つづ かせることになった。
大統領 だいとうりょう としての主要 しゅよう な業績 ぎょうせき [ 編集 へんしゅう ]
就任 しゅうにん 演説 えんぜつ [ 編集 へんしゅう ]
一般 いっぱん 教書 きょうしょ 演説 えんぜつ [ 編集 へんしゅう ]
大統領 だいとうりょう 顧問 こもん 団 だん [ 編集 へんしゅう ]
指名 しめい した最高 さいこう 裁判所 さいばんしょ 判事 はんじ [ 編集 へんしゅう ]
大統領 だいとうりょう 退任 たいにん 後 ご [ 編集 へんしゅう ]
ジョン・アダムズが89歳 さい に近 ちか いとき、息子 むすこ のジョン・クィンシー・アダムズの要請 ようせい に応 こた えて最後 さいご の肖像 しょうぞう 画 が を描 えが かせた。ギルバート・スチュアート画 が 、1823年 ねん 制作 せいさく
アダムズは1800年 ねん の選挙 せんきょ で敗 やぶ れた後 のち に私的 してき 生活 せいかつ に戻 もど った。その職 しょく を去 さ るときはふさぎ込 こ み、ジェファーソンの就任 しゅうにん 式 しき にも出 で なかったので、後任 こうにん の就任 しゅうにん 式 しき に出 で なかった4人 にん の大統領 だいとうりょう の一人 ひとり となった(任期 にんき 中 ちゅう に死 し んだものは除 のぞ く)。引継 ひきつ ぎのときにジェファーソンと交 か わした書面 しょめん に拠 よ れば、後 ご の学者 がくしゃ 達 たち が言 い っているような敵意 てきい や恨 うら みを感 かん じてはいなかったことを示唆 しさ している。息子 むすこ のチャールズ・アダムズの死 し (アルコール依存 いぞん 症 しょう のせいだとも言 い われる)による悲 かな しみと、数ヶ月 すうかげつ 前 まえ にマサチューセッツに帰 かえ っていた妻 つま のアビゲイルと早 はや く一緒 いっしょ になりたかったこととで、ジェファーソンの就任 しゅうにん 式 しき 前 まえ にワシントンを離 はな れた。アダムズはクィンシーの町 まち に近 ちか いピースフィールドの自宅 じたく で農業 のうぎょう を再開 さいかい した。クィンシーはアダムズの生誕 せいたん 地 ち であるブレイントリーを吸収 きゅうしゅう していた。アダムズは自叙伝 じじょでん を書 か き始 はじ め(完成 かんせい はしなかった)、ベンジャミン・ウォーターハウス やベンジャミン・ラッシュ といった旧友 きゅうゆう との文通 ぶんつう を再開 さいかい した。また古 ふる い家族 かぞく 付 つ き合 あ いであるマーシー・オーティス・ウォーレンとの苦 くる しく恨 うら みがましい文通 ぶんつう も再開 さいかい し、彼女 かのじょ が1805年 ねん に出 だ したアメリカ独立 どくりつ 戦争 せんそう 史 し で如何 いか にアダムズの政治 せいじ 的 てき 信念 しんねん を戯画 ぎが 化 か し、国 くに に対 たい する貢献 こうけん について事実 じじつ を曲 ま げて伝 つた えているとして抗議 こうぎ した[67] 。
ジェファーソンが2期 き を務 つと めて1809年 ねん に公的 こうてき 生活 せいかつ から引退 いんたい した後 のち 、アダムズは発言 はつげん するようになった。3年間 ねんかん の間 あいだ に、「ボストン・パトリオット」紙 し に一連 いちれん の文書 ぶんしょ を掲載 けいさい し、1800年 ねん にハミルトンがアダムズの行動 こうどう や性格 せいかく を攻撃 こうげき したパンフレットに対 たい する長 なが く一 いち 行 ぎょう 一 いち 行 ぎょう の反論 はんろん を行 おこな った。ハミルトンは1804年 ねん にアーロン・バーとの悪名 あくめい 高 たか い決闘 けっとう で受 う けた傷 きず がもとで死 し んでいたが、ニューヨーク州 しゅう 人 じん の激 はげ しい攻撃 こうげき に対抗 たいこう して、自分 じぶん を正当 せいとう 化 か しておく必要 ひつよう を感 かん じた[68] 。
1812年 ねん 初期 しょき にアダムズはジェファーソンと和解 わかい した。双方 そうほう の友人 ゆうじん でアメリカ独立 どくりつ 宣言 せんげん に署名 しょめい した仲間 なかま でもあるベンジャミン・ラッシュが双方 そうほう と文通 ぶんつう を続 つづ けており、互 たが いに歩 あゆ み寄 よ るよう奨励 しょうれい した。アダムズはジェファーソンに簡潔 かんけつ で友好 ゆうこう 的 てき な手紙 てがみ に「2つの手作 てづく り品 ひん 」すなわちジョン・クィンシー・アダムズによる修辞 しゅうじ 学 がく に関 かん する講演 こうえん 集 しゅう 2巻 かん を添 そ えて送 おく った。ジェファーソンは即座 そくざ に暖 あたた かく友好 ゆうこう 的 てき な手紙 てがみ を返 かえ し、手紙 てがみ による友人 ゆうじん 関係 かんけい を復活 ふっかつ させた。1812年 ねん に再開 さいかい されたこの文通 ぶんつう は2人 ふたり の終生 しゅうせい 続 つづ き、その後 ご はアメリカ文学 ぶんがく の偉大 いだい な遺産 いさん と記念 きねん 碑 ひ に加 くわ えられた[69] 。
2人 ふたり の手紙 てがみ は2人 ふたり の大統領 だいとうりょう と独立 どくりつ の指導 しどう 者 しゃ の事態 じたい と精神 せいしん 双方 そうほう に関 かん する洞察 どうさつ 力 りょく に富 と んでいた。その文通 ぶんつう は14年間 ねんかん 続 つづ き、全部 ぜんぶ で158通 つう に達 たっ した[69] 。2人 ふたり が「自然 しぜん 的 てき 貴族 きぞく 政治 せいじ 」について議論 ぎろん したのもこの時期 じき だった。ジェファーソンは「自然 しぜん 的 てき 貴族 きぞく 政治 せいじ を私 わたし は社会 しゃかい の指導 しどう 、信用 しんよう および政府 せいふ に取 と って最 もっと も貴重 きちょう な自然 しぜん の贈 おく り物 もの と考 かんが える。実 じつ にそれは人 ひと を社会 しゃかい 的 てき な状態 じょうたい に造 つく り上 あ げることには矛盾 むじゅん しており、社会 しゃかい の関心事 かんしんじ をどうにかしていくだけの美徳 びとく も知恵 ちえ も供給 きょうきゅう はしないであろう。政府 せいふ の形態 けいたい はこれら自然 しぜん の貴族 きぞく を政府 せいふ の役職 やくしょく に純粋 じゅんすい に選出 せんしゅつ するために最 もっと も効果 こうか 的 てき に機能 きのう するのが最善 さいぜん であると言 い うまでもないだろう。」と言 い った[70] 。アダムズはそれらの人々 ひとびと がそれほどはっきりしているのならば、「貴方 あなた の言 い う自然 しぜん 的 てき 貴族 きぞく 制 せい と人工 じんこう 的 てき 貴族 きぞく 制 せい の間 あいだ の区別 くべつ はうまく基礎 きそ をおかれていないように見 み える。生 う まれと富 とみ は生 う まれつきの天才 てんさい 、強 つよ さあるいは美 うつく しさと同 おな じくらい傲慢 ごうまん に少数 しょうすう の者 もの に集中 しゅうちゅう される。...貴族 きぞく 制 せい が人間 にんげん の法律 ほうりつ と名誉 めいよ によって設立 せつりつ されるとき、富 とみ と力 ちから は自治 じち 的 てき 法律 ほうりつ と政治 せいじ 的 てき 制度 せいど によって相伝 そうでん され、そうなれば私 わたし は人工 じんこう 的 てき 貴族 きぞく 制 せい が始 はじ まるのを認 みと める。」と考 かんが えた[71] 。運命 うんめい は真 しん の知恵 ちえ や美徳 びとく を備 そな えた者 もの よりも理性 りせい を備 そな えた者 もの に影響 えいきょう を与 あた えるというのは常 つね に当 あ てはまるとアダムズは主張 しゅちょう した。それが自然 しぜん のものであれば、そのような「才能 さいのう 」は生 う まれつきであると考 かんが えた。それ故 ゆえ に良 よ い政府 せいふ はその現実 げんじつ に責任 せきにん を取 と らなければならないと考 かんが えた。
ジョン・アダムズが死 し ぬ16ヶ月 かげつ 前 まえ に、ジョン・クィンシー・アダムズが第 だい 6代 だい アメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく 大統領 だいとうりょう (1825年 ねん -1829年 ねん )となった。親子 おやこ で大統領 だいとうりょう となったのは、その後 ご 2001年 ねん のジョージ・W・ブッシュ まで無 な かった。
アダムズの娘 むすめ 、アビゲイル・"ナビー"はアメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく 下院 かいん 議員 ぎいん のウィリアム・スティーブンス・スミスと結婚 けっこん したが、結婚 けっこん に失敗 しっぱい して両親 りょうしん の家 いえ に戻 もど ってきた。ナビーは1813年 ねん に肺 はい ガンのために死 し んだ。息子 むすこ のチャールズは1800年 ねん にアルコール依存 いぞん 症 しょう で死 し んだ。妻 つま のアビゲイルは1818年 ねん 10月28日 にち に腸 ちょう チフスで死 し んだ。アダムズがその生 せい を終 お えるまでの間 あいだ は、息子 むすこ のトマスとその家族 かぞく がジョン・アダムズやルイーザ・スミス(妻 つま のアビゲイルの兄弟 きょうだい ウィリアムの娘 むすめ )と共 とも に暮 く らした[67] 。
ジョン・アダムズの墓 はか (後方 こうほう )とジョン・クィンシー・アダムズやその妻達 つまたち の墓 はか (前 まえ )、マサチューセッツ州 しゅう クィンシーの統合 とうごう 第 だい 一 いち 教区 きょうく 教会 きょうかい 地下 ちか にある家族 かぞく 墓地 ぼち
ジョン・アダムズは死 し ぬ1ヶ月 かげつ 足 た らず前 まえ にアメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく の宿命 しゅくめい について声明 せいめい を発表 はっぴょう した。これについてジョイ・ハキムのような歴史 れきし 家 か 達 たち は合衆国 がっしゅうこく 市民 しみん に対 たい する「警告 けいこく 」として特徴付 とくちょうづ けてきた。アダムズの声明 せいめい は次 つぎ のようなものだった。
アメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく の
独立 どくりつ から50
周年 しゅうねん を
迎 むか えるその
日 ひ に、
喜 よろこ びと
祝典 しゅくてん および
厳 おごそ かな
任務 にんむ の
中 なか でおいを
言 い いたい。
人類 じんるい の
歴史 れきし の
中 なか で
記念 きねん すべき
出来事 できごと が、
今後 こんご 最 もっと も
輝 かがや かしいページになるか
最 もっと も
黒 くろ いページになるかは、
来 きた るべき
時 とき に
人 ひと の
心 しん によって
形作 かたちづく られる
政治 せいじ 的 てき 制度 せいど を
利用 りよう するかあるいは
悪用 あくよう するかに
掛 か かっている
[72] 。
1826年 ねん 7月 がつ 4日 にち 、この日 ひ がアメリカ独立 どくりつ 宣言 せんげん の採択 さいたく から50周年 しゅうねん だったが、アダムズはクィンシーの自宅 じたく で死 し んだ。「偉大 いだい な日 ひ だ。'良 よ き'日 ひ だ」とはっきり言 い ったのが7月 がつ 4日 にち だとされている。最後 さいご の言葉 ことば は、アダムズの死後 しご も「トーマス・ジェファーソンが生 い き残 のこ る」と報告 ほうこく されてきた。しかし、「トーマス・ジェファーソンが」だけがはっきりとき取 きと れた[73] 。アダムズは、アメリカ独立 どくりつ の時 とき の仲間 なかま で、偉大 いだい な政敵 せいてき 、かつその後 ご の友人 ゆうじん で文通 ぶんつう 相手 あいて でもあったジェファーソンが正 まさ に同 おな じ日 び の数時間 すうじかん 前 まえ に死 し んだことを知 し らなかった。それから間 あいだ もなくして息 いき も絶 た え絶 だ えのなかで、孫娘 まごむすめ のスザンナに「助 たす けてくれ子供 こども よ!助 たす けてくれ!」と囁 ささや き、こときれた。6時 じ 20分 ふん ごろだった。この時点 じてん で、アメリカ独立 どくりつ 宣言 せんげん に署名 しょめい した者 もの で生存 せいぞん しているのはキャロルトンのチャールズ・キャロル ただ一人 ひとり となった。
アダムズの墓所 はかしょ はクィンシーの統合 とうごう 第 だい 一 いち 教区 きょうく 教会 きょうかい (「大統領 だいとうりょう の教会 きょうかい 」とも呼 よ ばれる)地下 ちか にある。当初 とうしょ 教会 きょうかい とは道路 どうろ 向 む かいにあるハンコック墓地 ぼち に埋葬 まいそう されていた。
アダムズは大統領 だいとうりょう 経験 けいけん 者 しゃ として90年 ねん 247日 にち を生 い きたという最長 さいちょう 記録 きろく は長 なが い間 あいだ (175年間 ねんかん )破 やぶ られなかった。2004年 ねん にロナルド・レーガン が、その後 ご にジェラルド・R・フォード の2人 ふたり の大統領 だいとうりょう が長生 ながい きしてその記録 きろく を破 やぶ った。さらに、2015年 ねん 10月 時点 じてん で存命 ぞんめい のジョージ・H・W・ブッシュ とジミー・カーター もすでにアダムズ死去 しきょ 時 じ の年齢 ねんれい を超 こ えているため、アダムズは現在 げんざい 第 だい 5位 い である(2006年 ねん 12月26日 にち に死去 しきょ したフォードは93年 ねん 165日 にち を生 い きた)。
アダムズは会衆 かいしゅう 派 は 教 きょう 会員 かいいん として育 そだ てられたが、ボストン周辺 しゅうへん の会衆 かいしゅう 派 は 教 きょう 会員 かいいん の大半 たいはん がユニテリアン に転向 てんこう したときにアダムズもユニテリアンになった。理 り 神 かみ 論 ろん の影響 えいきょう が増 ま したときにハーバード大学 だいがく で教育 きょういく を受 う けており、その演説 えんぜつ や書 か き物 もの には理 り 神 かみ 論 ろん の用語 ようご を使 つか った。基本 きほん 的 てき に創造 そうぞう 神 しん を信 しん じたが、キリストの神性 しんせい すなわち神 かみ が人事 じんじ に介入 かいにゅう するとは信 しん じなかった。また教会 きょうかい の通常 つうじょう の礼拝 れいはい は人 ひと の道徳 どうとく 観 かん に有益 ゆうえき と考 かんが えた。ロバート・エバレットは「アダムズが一般 いっぱん 的 てき な感覚 かんかく の合理 ごうり 性 せい に基 もと づいて宗教 しゅうきょう のために奮励 ふんれい した」と結論 けつろん づけ、宗教 しゅうきょう は完全 かんぜん なるものに変化 へんか し発展 はってん しなければならないと主張 しゅちょう した(1966年 ねん )[74] 。ハワード・フィールディングはアダムズがその信念 しんねん をピューリタン、理 り 神 しん 論者 ろんしゃ および人道 じんどう 主義 しゅぎ 者 しゃ と同化 どうか したことを示 しめ している(1940年 ねん )。アダムズはキリスト教 きりすときょう 信仰 しんこう はかつて新鮮 しんせん な啓示 けいじ だったが、当時 とうじ は迷信 めいしん 、詐欺 さぎ 行為 こうい 、および無節操 むせっそう な者 もの による権力 けんりょく の追求 ついきゅう の道具 どうぐ になってきたと考 かんが えた[75] 。
統合 とうごう 第 だい 一 いち 教区 きょうく 教会 きょうかい
アダムズは同 どう 時代 じだい 人 じん の多 おお くと同様 どうよう に、ローマ・カトリック教 かとりっくきょう 会 かい によって作 つく られた普遍 ふへん 的 てき 権威 けんい という主張 しゅちょう を批判 ひはん した[76] 。
1796年 ねん 、アダムズは政敵 せいてき トマス・ペイン のキリスト教会 きょうかい 批判 ひはん を非難 ひなん して、「キリスト教 きょう は古代 こだい から現代 げんだい まで行 い き渡 わた りあるいは存在 そんざい したあらゆる宗教 しゅうきょう の上 うえ にあり、知恵 ちえ 、徳 とく 、平等 びょうどう と人道 じんどう 主義 しゅぎ の宗教 しゅうきょう である。悪党 あくとう のペインには言 い いたいことを言 い わせておけばよい。」と言 い った[77] 。
ユニテリアン・ユニバーサリスト歴史 れきし 協会 きょうかい がアダムズの宗教 しゅうきょう 観 かん について情報 じょうほう を提供 ていきょう している[78] 。「私 わたし はあらゆる国 くに であらゆる会派 かいは と共 とも に大衆 たいしゅう 礼拝 れいはい に出席 しゅっせき し、無 む 宗教 しゅうきょう より遙 はる かに良 よ いものだと信 しん じる。ただし、私 わたし が耳 みみ にしたこと全 すべ てを信 しん じなければならないとは思 おも わなかった。」というアダムズからユニバーサリスト思想 しそう の初期 しょき 推進 すいしん 者 しゃ であるベンジャミン・ラッシュに宛 あ てた手紙 てがみ を引用 いんよう している。同 どう 協会 きょうかい はトーマス・ジェファーソンとの多 おお くの苦 にが い政争 せいそう の後 のち で、ラッシュが1812年 ねん に旧友 きゅうゆう とアダムズを和解 わかい させたかについても言及 げんきゅう している。その結果 けっか は哲学 てつがく や宗教 しゅうきょう など多 おお くの話題 わだい に関 かん するアダムズとジェファーソンの文通 ぶんつう になった。この対話 たいわ の中 なか で、アダムズはジェファーソンに「十戒 じっかい と山上 さんじょう の垂 たれ 訓 くん には私 わたし の信条 しんじょう が含 ふく まれている」と告 つ げた。アダムズは別 べつ の手紙 てがみ で、「宇宙 うちゅう の創 つく り主 ぬし に対 たい する私 わたし の崇拝 すうはい は大変 たいへん 豊 ゆたか で大変 たいへん 誠実 せいじつ なものである。神 かみ の愛 あい とその創造 そうぞう 。私 わたし 自身 じしん の存在 そんざい における喜 よろこ び、楽 たの しみ、勝利 しょうり 、精神 せいしん 的 てき 高揚 こうよう と、宇宙 うちゅう における原子 げんし 、分子 ぶんし 構造 こうぞう が私 わたし の宗教 しゅうきょう である。」と書 か いて神 かみ への心 しん からの献身 けんしん を表 あらわ した。さらにアダムズはそのユニバーサリストに対 たい する共感 きょうかん を表 あらわ すことで、伝統 でんとう 的 てき なキリスト教 きりすときょう 教義 きょうぎ への拒絶 きょぜつ 、およびそのような教義 きょうぎ を受 う け容 い れないために真 しん のキリスト教徒 きりすときょうと であるという私論 しろん に展開 てんかい した。「吠 ほ えろ、唸 うな れ、噛 か みつけ、カルビン主義 しゅぎ 者 しゃ よ!アタナシウス派 は の者 もの よ、望 のぞ むなら言 い うがいい。私 わたし はキリスト教徒 きりすときょうと ではないと。私 わたし はあなた方 かた がキリスト教徒 きりすときょうと ではないと言 い おう。それで証言 しょうげん がバランスする。私 わたし はあなた方 かた の中 なか の正直 しょうじき な者 もの 全 すべ てが私 わたし の言葉 ことば の意味 いみ でキリスト教徒 きりすときょうと であると信 しん じる。」同 どう 協会 きょうかい は、アダムズが伝統 でんとう 的 てき キリスト教 きりすときょう 教義 きょうぎ である三位一体 さんみいったい 説 せつ や予 よ 定説 ていせつ を拒否 きょひ し、「天上 てんじょう の対話 たいわ 」すなわち神 かみ からのお告 つ げに対 たい する人 ひと の理解 りかい と人 ひと の意識 いしき を同一 どういつ 視 し したことを示 しめ している。またアダムズが死後 しご の世界 せかい を強 つよ く信 しん じていたこと、すなわち「貴方 あなた はその創 つく り主 ぬし に対 たい して恥 は じるかもしれない」と説明 せつめい していることも示 しめ している[78] 。
^ 1782年 ねん 2月 がつ 、フリースラント州 しゅう がアメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく を認知 にんち した最初 さいしょ のオランダの州 しゅう になった。ただし、フランスは1778年 ねん に外交 がいこう 的 てき 認知 にんち をした最初 さいしょ のヨーロッパ国家 こっか となっていた。
^ 1794年 ねん までに合計 ごうけい 11件 けん のアメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく の借款 しゃっかん がアムステルダムで承認 しょうにん され、総額 そうがく は2,900万 まん ギルダーに上 のぼ った。
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