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アルファフリー

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』

アルファフリーアラビア Kitāb al-Fakhrī)』とは、1302ねんイブン・アッティクタカーによって成立せいりつしたアラビアによる歴史れきししょ帝王ていおうがく著作ちょさくである。原題げんだいは『支配しはいしゃ教養きょうようとイスラームしょ王朝おうちょうかんするファフリー』( الفخري في الآداب السلطانية والدول الاسلامية al-Fakhrī fī al-Ādāb al-Sulṭānīyah wa al-Duwal al-Islāmīyah)とい、イルハンあさだい7だい君主くんしゅガザン・ハン治世ちせいモースル総督そうとくであったファフルッディーン・イーサー・ブン・イブラーヒームに献呈けんていされた。書名しょめいの「ファフリー(al-Fakhrī)」とは本書ほんしょけんじられた相手あいてファフルッディーン・イーサーの尊称そんしょう「ファフルッディーン(Fakhr al-Dīn 「信仰しんこうほこり」の)」に由来ゆらいする。

概要がいよう

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1262ねんまれたイブン・アッティクタカーはシーア信奉しんぽうする正統せいとうカリフアリー一門いちもんサイイド)につらなるラマダーンだい20だい子孫しそんしょうする名門めいもん出身しゅっしんであった。ちちタージュッディーン・アブー・ハサンはイルハンあさだい2だい君主くんしゅアバカ時代じだいにシーア聖地せいちであるイラク地方ちほうクーファバグダードにおけるシーア一門いちもん頭領とうりょう・ナキーブしょく(naqīb)をつとめた人物じんぶつであった。しかし、タージュッディーンは1281ねんどう王朝おうちょうのバグダード方面ほうめん長官ちょうかん(ハーキム)であったアラーウッディーン・アターマリク・ジュヴァイニー讒訴ざんそによって殺害さつがいされ、イブン・アッティクタカーはちちのちぎ、ヒッラおよびシーア大聖たいせいであるナジャフカルバラーにおける同派どうはのナキーブとなった。

上述じょうじゅつのように、本書ほんしょ題名だいめいモースル総督そうとくのファフルッディーン・イーサー・ブン・イブラーヒームにささげたことに由来ゆらいする。イブン・アッティクタカーは本書ほんしょ序文じょぶん執筆しっぴつ動機どうきについてべており、それによると1301ねん、ガザン治世ちせい時代じだいにイブン・アッティクタカーはタブリーズ上京じょうきょうする途中とちゅうモースルで豪雨ごううにあったため、「さむさがやわらぐまで」しばらく同地どうち逗留とうりゅうすることになったという。そこで逗留とうりゅうのモースル総督そうとくのファフルッディーン・イーサー・ブン・イブラーヒームから歓待かんたいされ、政治せいじりょく公正こうせいさや理性りせい寛大かんだいさなどのその人柄ひとがらすぐれていたため、かれつかえようとおもち、本書ほんしょささげて領主りょうしゅとしての手引てびきとしてしいとのぞんだとべている[1]

本書ほんしょ序文じょぶんつづいて、だい1しょう君主くんしゅ政治せいじ政策せいさく」、だい2しょう王朝おうちょう各論かくろん」からっている。 だい1しょう君主くんしゅ政治せいじ政策せいさく」では支配しはいけん宗教しゅうきょう問題もんだいなど法学ほうがく諸派しょはのの見解けんかいもとづくイスラームほうシャリーア)による政治せいじについてろんじたり紹介しょうかいするのではなく、あくまで「諸々もろもろ実際じっさいこった事件じけんあらそいのなかで、臣民しんみん統治とうちし、王国おうこく安全あんぜんまもり、倫理りんり行為こうい改善かいぜんしようとする場合ばあい有効ゆうこう政治せいじとその慣習かんしゅう」を記述きじゅつしたものである、とべている[2]だい1しょう君主くんしゅ政治せいじ政策せいさく」では歴史れきしじょう現実げんじつ政治せいじにおいて、歴代れきだい君主くんしゅたちがおこなった政策せいさく品行ひんこうなどしや優劣ゆうれつについてを人物じんぶつ評価ひょうか基準きじゅんとしており、規範きはんたる君主くんしゅ指導しどうしゃとして古代こだいアレクサンドロス大王だいおうサーサーンあさアルダシール1せいシャープール1せいホスロー1せい預言よげんしゃムハンマド正統せいとうカリフ・ウマルひとしをあげており、ほかにも歴代れきだいカリフたち、宰相さいしょうたちの事蹟じせき逸話いつわ詩文しぶんもちいて比較ひかくする。そのうえですぐれた君主くんしゅとはどのような性質せいしつそなえており、また、そなえるべきこのましい性質せいしつとはなにか、日々ひび品行ひんこう執政しっせいにおける賞罰しょうばつなどの慎重しんちょうさ・公正こうせいさの必要ひつようせいかみからの恩恵おんけいへの感謝かんしゃねん信仰しんこうしん大切たいせつさなどをいている。

また、跋文ばつぶん統治とうちしゃとしてもっと緊要きんよう資質ししつとして理性りせい公正こうせいげている。知識ちしきによって理性りせい獲得かくとくされるものであり、また公平こうへいさをそなえている人物じんぶつならばイスラム教徒きょうとでなくとものぞましい。ただし王者おうじゃ必要ひつよう知識ちしきとは専門せんもん相談そうだんすることを可能かのうにする程度ていど学問がくもんしたしむことである。すべてを必要ひつようはなく、政治せいじ博識はくしきさを宣伝せんでんする必要ひつようはない。王者おうじゃ資質ししつとして信仰しんこうしん強調きょうちょうされており、人間にんげん過失かしつうえっているために憎悪ぞうおいかりの感情かんじょう支配しはいされてはならないように注意ちゅういしなければならない。王者おうじゃ徳目とくもくには気前きまえよさや約束やくそくまも信義しんぎ、そして忍耐にんたいなどもある。ただし王者おうじゃ臣民しんみん種類しゅるい見分みわけた統治とうちおこなわなければならず、上流じょうりゅう階級かいきゅう崇高すうこう人徳にんとくやさしい指導しどう中流ちゅうりゅう階級かいきゅうにはあめむち、そして下流かりゅう階級かいきゅう恐怖きょうふ正義せいぎ強制きょうせいにより統治とうちしなければならない[よう出典しゅってん]、としている。

だい2しょう王朝おうちょう各論かくろん」では初代しょだい正統せいとうカリフアブー・バクルからアッバースあさ最後さいごカリフムスタアスィムまで治世ちせいじゅん配列はいれつしており、正統せいとうカリフ4だいつづき、ウマイヤあさ、アッバースあさ歴代れきだいカリフたちとその治世ちせいでの事蹟じせき事件じけん宰相さいしょうワズィール)たちの事蹟じせき各論かくろんべる形式けいしきとなっている。

本書ほんしょ特徴とくちょう

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本書ほんしょ1869ねんにドイツの東洋とうよう学者がくしゃアールヴァルト Wilhelm Ahlwardt1828ねん1909ねん)のしょうやく紹介しょうかいによってヨーロッパでられるようになり、1895ねんにフランスのドランプール Hartwig Derenbourg による完本かんぽん校訂こうていほん1910ねんおなじくアマル M. Émil Amar によるフランス語ふらんすご完訳かんやく出版しゅっぱんされ、1957ねんにはホワイティング Charles Edward Jewell Whitting が英訳えいやくした。

本書ほんしょでイブン・アッティクタカーは当時とうじ流布るふしていたハリーリーバディーウッザマーン・ハマザーニーの『マカーマート』と比較ひかくし、これらマカーマ文学ぶんがく智恵ちえ工夫くふう経験けいけんなどについてかたっているものの有益ゆうえき部分ぶぶんもありながら往々おうおうにして品性ひんせいいやしくするような有害ゆうがい部分ぶぶんばかりが目立めだっていることを指摘してきして批判ひはんし、本書ほんしょがアッバースあさ時代じだい詩人しじんアブー・タンマームAbū Tammām(805ねん - 845ねん)の『ハマーサ詩集ししゅう』(al-Ḥamāsa)にするような「政治せいじ原理げんり統治とうち手立てだてとして有益ゆうえきなもの」であるとうたっている。また、シーアではとく主要しゅよう文献ぶんけんとしてまなばれていたイマーム・アリー言行げんこうあつめたハディースしゅうナフジュル=バラーガ(Nahj al-Balāgha)』や、ウトビー Abū Naṣr al-ʿUtbī があらわしたガズナあさスルターン・マフムード伝記でんき『ヤミーニー』(Ta'rīkh al-Yamīnī)とも比較ひかくしており、これらはいずれも正則せいそくアラビア修辞しゅうじ技巧ぎこうらした模範もはんとすべき作品さくひんであること、くわえて前者ぜんしゃ宗教しゅうきょうじょう規範きはん神学しんがくまなべる作品さくひんであり、後者こうしゃ面白おもしろ智慧ちえ君主くんしゅ独創どくそうてき生涯しょうがい記述きじゅつしたことすぐれた特徴とくちょうゆうしているてん評価ひょうかしつつも、とき文学ぶんがくてきであるがゆえの誇張こちょうぎる場合ばあいもままられるため、それらと比較ひかくした場合ばあい本書ほんしょ君主くんしゅ品行ひんこう政治せいじろんについてべるという目的もくてきのための表現ひょうげん簡潔かんけつせいにも配慮はいりょしているてんすぐれていることもほのめかしている[3]

本書ほんしょはヨーロッパに紹介しょうかいされてから、ヨーロッパにおける「君主くんしゅかん文学ぶんがくとの比較ひかくや、ペルシア文芸ぶんげい史上しじょうのアンダルズ文学ぶんがくやアラビア文芸ぶんげいのアダブ文学ぶんがくなどのイスラーム世界せかいでの「君主くんしゅかん文学ぶんがくにおける位置いちづけになどがろんじられてた。イギリスのイスラーム思想しそう研究けんきゅうしゃローゼンタール Erwin Isak Jakob Rosenthal は、正確せいかく歴史れきしてき記録きろく公正こうせい事実じじつ評価ひょうか期待きたいすること出来できないものの、精彩せいさい変化へんかんだ文体ぶんたい言葉ことばづかいによって、支配しはいしゃやその大臣だいじんたち言行げんこう当時とうじ物語ものがたり作者さくしゃ詩人しじんたちにどのような生々なまなましい印象いんしょうあたえたのか、今日きょう我々われわれ提供ていきょうしているとべ、「この作者さくしゃ支配しはいしゃ必要ひつようしょ資格しかく支配しはいしゃ行動こうどう、し覇者はしゃ進化しんか関係かんけい支配しはいしゃたいする臣下しんかしょ義務ぎむとうかんしてモラリストとして助言じょげんあたえている」とひょうしており、イスラーム政治せいじ思想しそう史上しじょうからも詳細しょうさい分析ぶんせきおこなっている[4][5]

また、注目ちゅうもくすべきてんとして、だい1しょうでは公正こうせい寛大かんだい君主くんしゅとして古代こだい諸王しょおう預言よげんしゃ、カリフたちにじってアイユーブあさ初代しょだい君主くんしゅサラーフッディーンモンゴル帝国ていこくだい2だい皇帝こうていオゴデイも「公正こうせいなる君主くんしゅ」としてたびたびたたえさんされている。著者ちょしゃイブン・アッティクタカーは14世紀せいき初頭しょとう代表だいひょうするシーア指導しどうしゃのひとりであるが、だいしょう王朝おうちょう各論かくろん」でられるように、本書ほんしょでは正統せいとうカリフ4にんやウマイヤあさ、アッバースあさのカリフたちについても自他じた宗派しゅうは相違そうい問題もんだいとせず、統治とうち有様ありさま統治とうちしゃとしての品行ひんこう資質ししつについてのみを問題もんだいにしているてんでユニークな作品さくひんである。日本にっぽんにおいてもアラビアンナイト日本語にほんごやくした前嶋まえじま信次しんじは、イブン・ムカッファの『カリーラとディムナ』、カイ・カーウースの『カーブース・ナーマ』(Qābūs Nāma)、ガザーリーの『君主くんしゅたちへのすすめ』(Naṣīhat al-Mulūk)やマーワルディー Abū al-Ḥasan ʿAlī al-Māwardī (974?-1058ねん)の『統治とうちしょ規則きそく(al-Aḥkām al-Sulṭānīyya wa al-Wilāyāt al-Dīnīyya)』、あるいは後代こうだいサアディーの『薔薇ばらえん』『果樹かじゅえん』などのイスラームの学者がくしゃ文人ぶんじんたちがあらわして一連いちれん政治せいじろんや「君主くんしゅかん文学ぶんがくとう紹介しょうかいのなかで本書ほんしょげており、日本にっぽん歴代れきだい天皇てんのう徳川とくがわ家康いえやすなどの為政者いせいしゃたちあいだがれてた『さだかんせいよう』との比較ひかく研究けんきゅう必要ひつようせいいている[6][7]あらわされた年代ねんだい1302ねんという『しゅう』の編纂へんさんはじまるイルハンあさガザン・ハン治世ちせいであるイラク地方ちほうであり、モンゴル帝国ていこく研究けんきゅうじょうからも本書ほんしょ内容ないようくわえて「モンゴル時代じだいという東西とうざいえたこの時代じだい独特どくとく雰囲気ふんいきについてもかんがえてみるべきではないか」との時代じだいてき文化ぶんかてきにも注目ちゅうもくすべき作品さくひんとの指摘してきもされている[8]

構成こうせい

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だい1しょう 君主くんしゅ政治せいじ政策せいさく

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だい2しょう 王朝おうちょう各論かくろん

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アブー・バクル (632-634ねん)
632-633ねん ムハンマド離反りはんした背教はいきょうしゃと、リッダ戦争せんそう英語えいごばん。アラビアを統一とういつ
ウマル・イブン・ハッターブ (634-644ねん)
636ねん ヤルムークのたたかひがしマ帝国まていこくち、シリアを征服せいふく
637ねん カーディシーヤのたたかサーサーンあさペルシアにち、イラクを征服せいふく
ウスマーン・ブヌ・アッファーン (644-656ねん)
651ねん ヤズデギルド3せいでサーサーンあさ滅亡めつぼう
アリー・イブン・アビー・ターリブ (656-661ねん)
ハワーリジュイブン・ムルジャム英語えいごばんにより暗殺あんさつされる。
ムアーウィヤ (661-680ねん)
660ねん カリフ宣言せんげん。661ねんのアリー暗殺あんさつ国内こくないから承認しょうにんされる。
ヤジード・ブヌ・ムアーウィヤ(ヤズィード1せい) (680-683ねん)
680ねん アリーのフサインとカルバラーのたたか
ムアーウィヤ・ブヌ・ヤジード・ブヌ・ムアーウィヤ (ムアーウィヤ2せい)(683-684ねん)
マルワーン・ブヌ・アルハカム(マルワーン1せい) (684-685ねん)
カルバラーのたたかいが原因げんいんで、以後いご10ねんだい内乱ないらん
アブド・アルマリク・ブヌ・マルワーン (685-705ねん)
メッカ包囲ほういせん (692ねん)勝利しょうりによりだい内乱ないらん収拾しゅうしゅうし、さい統一とういつ
アルワリード・ブヌ・アブド・アルマリク(ワリード1せい) (705-715ねん)
711ねん イベリア半島はんとう征服せいふく。ウマイヤあさ最大さいだい領土りょうどになる。
スライマーン・ブヌ・アブド・アルマリク (715-717ねん)
ウマル・ブヌ・アブド・アルアジーズ(ウマル2せい) (717-720ねん)
シーア和解わかい。アラブじんアラブじん差別さべつ是正ぜせい
ヤジード・ブヌ・アブド・アルマリク(ヤズィード2せい) (720-724ねん)
ヒシャーム・ブヌ・アブド・アルマリク (724-743ねん)
(732ねん、ガリアへの侵攻しんこう失敗しっぱいトゥール・ポワティエあいだたたか)。その記事きじはない。)
アルワリード・ブヌ・ヤジード(ワリード2せい) (743-744ねん)
かれ以後いごウマイヤあさ内戦ないせん
ヤジード・ブヌ・アルワリード(ヤズィード3せい) (744ねん)
イブラーヒーム・ブヌ・アルワリード (744ねん)
マルワーン・ブヌ・ムハンマド・ブヌ・マルワーン(マルワーン2せい) (744-750ねん)
アッバースぐんたたか敗北はいぼく、エジプトに戦死せんし
アブー・アルアッバース・アッサッファーフ (750-754ねん)
750ねん クーファでカリフと宣言せんげんし、しん王朝おうちょう設立せつりつアッザーブかわたたか英語えいごばんでウマイヤのマルワーン2せいぐん勝利しょうり
(751ねん とうタラス河畔かはんたたか。その記述きじゅつはない。)
アブー・ジャウファル・アルマンスール (754-775ねん)
(756ねん イベリア半島はんとうこうウマイヤあさこり、2人ふたりのカリフが並立へいりつ。その記載きさいはない。)
762-3ねん 首都しゅとバグダード建設けんせつ
ムハンマド・アルマフディー (775-785ねん)
ムーサー・アルハーディー (785-786ねん)
ハールーン・アッ=ラシード (786-809ねん)
803ねん 代々だいだい宰相さいしょうした名家めいかバルマク英語えいごばん打倒だとう
アルアミーン・ムハンマド・ブヌ・ズバイダ (809-813ねん)
アブド・アッラーフ・アルマアムーン (813-833ねん)
832ねん 知恵ちえかん建設けんせつ。ギリシャ文献ぶんけんのアラビアへの翻訳ほんやくすすめる。
アルムウタスィム (833-842ねん)
836ねん サーマッラー遷都せんと。 838ねん アンムーリーヤのたたかひがしローマに勝利しょうり
ハールーン・アルワーシク英語えいごばん (842-847ねん)
ジャウファル・アルムタワッキル (847-861ねん)
長男ちょうなんとトルコじん暗殺あんさつ以後いごの10年間ねんかん、4だいのカリフはみなトルコじんころし、サーマッラーの政府せいふ状態じょうたい英語えいごばんとなる。
アルムンタスィル・ブヌ・アルムタワッキル (861-862ねん)
アルムスタイーン (862-866ねん)
アルムウタッズ・ビ・アッラーフ (866-869ねん)
アルムフタディー・ビ・アッラーフ (869-870ねん)
アルムウタミド・アラー・アッラーフ (870-892ねん)
「サーマッラーの政府せいふ状態じょうたい」は、869-883ねん みなみイラクのザンジュのらん黒人こくじん奴隷どれいらん)の鎮圧ちんあつ収拾しゅうしゅう
エジプトのトゥールーンあさがシリアを支配しはいし、アッバースあさ支配しはい領域りょういきはイラクのみになった。
アルムウタディド (892-902ねん)
王子おうじ時代じだいにザンジュのらん平定へいてい。 892ねん首都しゅとをバグダードへもどした。
アルムクタフィー・ビ・アッラーフ英語えいごばん (902-908ねん)
アルムクタディル・ビ・アッラーフ (908-932ねん)
909ねん、アフリカでシーアファーティマあさ独立どくりつ。イスラムに3にんのカリフが鼎立ていりつ
アルカーヒル (932-934ねん)
アッラーディー・ビ・アッラーフ (934-940ねん)
アルムッタキー・リ・アッラーフ (940-944ねん)
アルムスタクフィー (944-946ねん)
946ねん ブワイフあさムイッズ・アッダウラ英語えいごばんがバグダード入城にゅうじょう以後いごカリフは有名ゆうめい無実むじつ
アルムティーウ・リ・アッラーフ (946-974ねん)
アッターイウ・リ・アムリ・アッラーフ (974-991ねん)
アルカーディル (991-1031ねん)
アルカーイム・ビ・アムリ・アッラーフ (1031-1075ねん)
1038ねんセルジュークあさおこり、1055ねんバグダードに入城にゅうじょう
逃亡とうぼうしたブワイフあさおうは1062ねんシーラーズに、ブワイフあさ滅亡めつぼう
アルムクタディー・ビ・アムリ・アッラーフ英語えいごばん (1075-1094ねん)
アルムスタズヒル・ビ・アッラーフ英語えいごばん (1094-1118ねん)
(1096ねんだい1かい十字軍じゅうじぐん以後いごやく100ねんシリア~エルサレムは十字軍じゅうじぐん国家こっか支配しはい。その記載きさいはなし。)
アルムスタルシド (1118-1135ねん)
イラク・セルジュークあさスルタンマスウードたたかえるだけの軍事ぐんじりょく回復かいふく
アッラーシド・ビ・アッラーフ (1135-1136ねん)
アルムクタフィー・リ・アムリ・アッラーフ (1136-1160ねん)
1157ねんだいセルジュークあさ分裂ぶんれつ。それにじょうじてバグダード周辺しゅうへん支配しはいけん回復かいふく
アルムスタンジド・ビ・アッラーフ (1160-1170ねん)
ファーティマあさ弱体じゃくたいじょうじ、エジプト遠征えんせい
1169ねん サラーフッディーン(サラディン)がファーティマあさ宰相さいしょうになる。アイユーブあさのはじまり 。
アルムスタディー (1170-1180ねん)
1171ねん ファーティマあさカリフのアーディド。ファーティマあさ滅亡めつぼう
アンナースィル・リ・ディーン・アッラーフ (1180-1225ねん)
1194ねん イラク・セルジュークあさ滅亡めつぼう。アッバースあさふたたびイラクを支配しはい最後さいごかがやき。
アッザーヒル・ビ・アムリ・アッラーフ (1225-1226ねん)
アルムスタンスィル・ビ・アッラーフ (1226-1242ねん)
アルムスタアスィム・ビ・アッラーフ (1242-1258ねん)
1253ねん モンゴル帝国ていこくフレグの西にしせい開始かいし
1258ねん バグダードのたたかイルハンあさフレグ敗北はいぼく処刑しょけい

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ 池田いけだおさむ岡本おかもと久美子くみこやく『アルファフリー 1』 4, 25-26ぺーじ
  2. ^ 池田いけだおさむ岡本おかもと久美子くみこやく『アルファフリー 1』 6-7, ぺーじ
  3. ^ 池田いけだおさむ岡本おかもと久美子くみこやく『アルファフリー 1』38 - 40ぺーじ
  4. ^ ローゼンタール『中世ちゅうせいイスラムの政治せいじ思想しそう』82 - 83ぺーじ
  5. ^ 池田いけだおさむ岡本おかもと久美子くみこやく『アルファフリー 1』7 - 8ぺーじ
  6. ^ 池田いけだおさむ岡本おかもと久美子くみこやく『アルファフリー 1』8ぺーじ
  7. ^ 前嶋まえじま信次しんじ やく『アラビアン・ナイト (4)』267 - 276ぺーじ
  8. ^ みや紀子のりこ『モンゴル時代じだい出版しゅっぱん文化ぶんか名古屋大学出版会なごやだいがくしゅっぱんかい、2006ねん1がつ、9-10ぺーじ

参考さんこう文献ぶんけん

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