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イギー・ポップ

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
イギー・ポップ
ザ・ストゥージズ 2016ねんのツアーにて
基本きほん情報じょうほう
出生しゅっしょうめい ジェームズ・ニューエル・オスターバーグ・ジュニア
生誕せいたん
ジャンル
職業しょくぎょう
担当たんとう楽器がっき
活動かつどう期間きかん 1963ねん -
レーベル
共同きょうどう作業さぎょうしゃ
公式こうしきサイト Iggy Pop - Official Site

ジェームズ・ニューエル・オスターバーグ・ジュニアJames Newell Osterberg Jr.1947ねん4がつ21にち - )は、ステージネーム「イギー・ポップ」(Iggy Pop)としてられるアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく出身しゅっしんロックミュージシャンボーカリスト作曲さっきょく音楽おんがくプロデューサー俳優はいゆう過激かげきなステージパフォーマンスでられた同国どうこくロックバンドザ・ストゥージズ」のメンバー。ソロミュージシャンとしてもられ、おおくの作品さくひんのこしている。

ザ・ストゥージズ時代じだい業績ぎょうせきにより「ゴッドファーザー・オブ・パンク」ともばれ、後世こうせいおおきな影響えいきょうあたえていると同時どうじに、本人ほんにん後輩こうはいのミュージシャンたちと積極せっきょくてき交流こうりゅうし、ガレージロックパンク・ロックハードロックアート・ロックニュー・ウェイヴジャズブルースなど、数々かずかずのスタイルをれている。

ザ・ストゥージズ時代じだいの「アイ・ワナ・ビー・ユア・ドッグ英語えいごばん」「サーチ・アンド・デストロイ英語えいごばん」、ソロミュージシャンとしては「ラスト・フォー・ライフ (イギー・ポップのきょく)英語えいごばん」「ザ・パッセンジャー (イギー・ポップのきょく)英語えいごばん」などが代表だいひょうきょくとしてられており、とくにザ・ストゥージズ時代じだい代表だいひょうきょく様々さまざまなミュージシャンにカバーされている[2]

2010ねん、ザ・ストゥージズ名義めいぎで『ロックの殿堂でんどう[3]
2017ねんフランス芸術げいじゅつ文化ぶんか勲章くんしょう最高さいこう『コマンドゥール』を受章じゅしょう[4]
ローリング・ストーン選出せんしゅつ歴史れきしじょうもっと偉大いだいな100にんのシンガー」だい75[5]
Q選出せんしゅつ歴史れきしじょうもっと偉大いだいな100にんのシンガー」だい63[6]

2020ねんだい62かいグラミーしょう 特別とくべつ功労賞こうろうしょう 生涯しょうがい業績ぎょうせきしょう受賞じゅしょう[7]

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ハイスクール時代じだいのイギー、1965ねんごろ

ジェームズ・ニューエル・オスターバーグ・ジュニアはミシガンしゅうマスキーゴンまれた。母親ははおやはノルウェーけいとデンマークけいいたルーエラ(旧姓きゅうせいクリステンセン; 1917–1996)[8][9]父親ちちおやはドイツけい、イギリスけい、アイルランドけいいたジェームズ・ニューエル・オスターバーグ・シニア(1921−2007)[8][9][ちゅう 1]
父親ちちおやはミシガンしゅうディアボーンフォードソン・ハイスクール英語えいごばん英語えいご教師きょうし野球やきゅうのコーチをしていた[10]が、昇給しょうきゅうもとめてミシガンしゅうイプシランティイプシランティ・ハイスクール英語えいごばん転職てんしょく[10]住居じゅうきょ同地どうちトレーラーパーク英語えいごばんさだめると息子むすこをそこでそだてた[11][ちゅう 2]母親ははおやNASAからアポロ計画けいかく使用しようする月面げつめん設置せっちよう計測けいそく機器ききALSEP英語えいごばん)の納入のうにゅうLRV (月面げつめんしゃ)開発かいはつっていたベンディクス (アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく企業きぎょう)英語えいごばんしゃ勤務きんむしていた[10]

2007ねんローリングストーンのインタビューで、イギーはかれ両親りょうしんとの関係かんけいかれ音楽おんがくへの影響えいきょうについて以下いかのようにかたった。

中学校ちゅうがっこうアナーバーにあってそこにとおった。フォード・モーター・カンパニー社長しゃちょう息子むすこ一緒いっしょ学校がっこうかよはじめたんだが、こいつは金持かねもちで差別さべつてきやつだった。だがおれにはそんな連中れんちゅうけない財産ざいさんがあったんだ。両親りょうしんおれ莫大ばくだい投資とうしをしてくれた。おれはいつもかれらにたすけてもらってたよ。両親りょうしんおれ興味きょうみったものをさらにふかるための手助てだすけをしまなかったんだ。最高さいこうレベルの援助えんじょはトレーラーのしゅ寝室しんしつおれわたしてくれたことだな[12]

ミュージシャンとして

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初期しょき音楽おんがく活動かつどう: 1960ねん - 1967ねん

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ザ・プライム・ムーヴァーズ(後方こうほうのドラムスがイギー)

オスターバーグはミシガンしゅうアナーバーの高校こうこう在学ざいがくドラマーとして音楽おんがくキャリアを開始かいしした。いくつかのバンドでプレイしたが、そのうちのひとつ、ジ・イグアナズ英語えいごばんではボ・ディドリーの「モナ (ボ・ディドリーのきょく)英語えいごばん」をカヴァーしたシングルをリリースしている[10][ちゅう 3][ちゅう 4]
1965ねんミシガン大学だいがく進学しんがくしたが翌年よくねんには退学たいがくし、レコードショップ「Discount Records」に勤務きんむしつつ[ちゅう 5]ブールスバンド、ザ・プライム・ムーヴァーズ英語えいごばん加入かにゅうして、はじめてステージネームを名乗なのった[15]
このザ・プライム・ムーヴァーズ在籍ざいせきちゅうポール・バターフィールド・ブルース・バンド偶然ぐうぜん出会であい、そのさいあこがれていたもとメンバーのサム・レイ英語えいごばん連絡れんらくさきをバターフィールドからおしえてもらったため、イギーはシカゴにあるレイの自宅じたくかった[15]
訪問ほうもんにレイは不在ふざいだったがかれつまあたたかくむかえられ、ジャズやブルースをあつかうレコード店長てんちょう紹介しょうかいされた[16][ちゅう 6]。その店長てんちょうやレイの紹介しょうかいもあってリトル・ウォルターマジック・サムといった高名こうみょうなミュージシャンたちと共演きょうえんする機会きかいめぐまれたが、その結果けっか白人はくじん自分じぶん本当ほんとうのブルースを演奏えんそうするのは無理むり痛感つうかんし、8ヶ月かげつ程度ていど滞在たいざいでアナーバーにもどった[17]さいには「自分じぶんのような若者わかものけた音楽おんがく」をプレイしようと決心けっしんしていた[16][18]

アナーバーにもどったイギーは高校こうこうの1ねん後輩こうはい友人ゆうじんだったロン・アシュトン[ちゅう 7]さそってバンドを結成けっせいした。ロンのおとうとスコット・アシュトンドラムスとし[ちゅう 8]、ロンは最初さいしょはベースだったが途中とちゅうでギタリストに転向てんこうして、わりのベーシストとしてアシュトン兄弟きょうだい友人ゆうじんだったデイヴ・アレクサンダー英語えいごばん[19]加入かにゅうさせた[16]

結成けっせい当初とうしょ準備じゅんび期間きかんということもあって表立おもてだった音楽おんがく活動かつどうはしていなかった[16]が、あるきっかけからバンド活動かつどう本腰ほんごしはいる。そのきっかけとしてイギーはニュージャージーしゅうプリンストンのガールズ・ロックバンド、ジ・アンタッチャブルの演奏えんそういたことをげている[20]

おれたちはザ・ダーティ・シェイムズってバンドのコンセプトをってた時期じきがあった。まあ、パーティで自慢じまんするためだけのバンドだよ。「おれたちはザ・ダーティ・シェイムズってバンドをんでるんだぜ。」ってほかのバンドマンにってまわってたんだ。まだ演奏えんそうなんかしちゃいなくて、ザ・ストゥージズだろうがザ・ダーティ・シェイムズだろうがたようなもんだった。ちゃんとバンドとして活動かつどうしないとな、と決心けっしんしたきっかけはニューヨークに旅行りょこうったのちだ。そこでティーンエイジャーのおんなたちから「わたしたちもバンドをんでるの。いてみる?」とわれたんでニュージャージーのプリンストンまでくるまばしてったんだ。彼女かのじょたちの実家じっか地下ちかしつ演奏えんそういたんだが、見事みごとなものでね。おれたちよりもはるかに上手うまかった。あれはずかしかったな[18]

ザ・ストゥージズ: 1968ねん - 1974ねん

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ザ・ストゥージズ: 1968ねん - 1971ねん

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イギーたちはバンドめいをザ・サイケデリック・ストゥージズとめ、あらためて活動かつどう本格ほんかくさせた。最初さいしょギグは、ミシガンしゅうデトロイトにあるいえハロウィンパーティーでおこなわれた[16]。このときはまだイギーはリードヴォーカルを担当たんとうしておらず、インストゥルメンタルバンドとして演奏えんそう披露ひろうした[16][ちゅう 9]。しかし、フロントマンとしてのイギーは、のち自身じしん有名ゆうめいにすることになった観客かんきゃくおどろかせるようなパフォーマンスすで意識いしきてきおこなっており、このギグでは奇抜きばつ服装ふくそう[ちゅう 10]登場とうじょうし、居合いあわせたきゃくたちを困惑こんわくさせた[16]。そのパーティにはMC5のメンバーも出席しゅっせきしていた[10]
1968ねん3月、ザ・サイケデリック・ストゥージズははじめてギャラるギグに出演しゅつえんした。このときにイギーはステージダイブを披露ひろうし、った[16][18]同年どうねん8がつ11にち、ミシガンのMothersというクラブで、観客かんきゃく女性じょせいつかまえていぬ性交せいこうのようにこしり、それからステージじょうのぼって性器せいき露出ろしゅつした。結局けっきょく警察けいさつがやってきてかれ逮捕たいほした[21]。1970ねん8がつのニューヨークのクラブUnganoでも、ステージちゅう嘔吐おうとしたり、性器せいき露出ろしゅつしてアンプのうえかせるパフォーマンスをおこなっている。1979ねんにはデニス・クーパーのLittle Caesar8ごうのカバーで、ヌード写真しゃしん掲載けいさいされた[22]

イギーは、観客かんきゃくおどろかせて困惑こんわくさせる過激かげきなステージパフォーマンスについて、後年こうねんジム・モリソン影響えいきょうにあったとかたっている[11]1967ねんザ・ドアーズがミシガン大学だいがくおこなったギグをており[23]、モリソンがステージで披露ひろうするわるふざけや観客かんきゃくけた敵意てきいおどろかされ、フロントマンとなったさい参考さんこうとしたという。

ドアーズは2かいてるよ。最初さいしょたのは人気にんきはじめのころだったけど、おおきな、おおきな、おおきな影響えいきょうけたよ。ちょうどだいヒットきょくハートにをつけてして出世しゅっせ階段かいだんのぼっていくところで、だからこのおとこ、カールしたかみをオールバックにしてかわジャンをてドラッグにっていたモリソン、にしてみるとステージはせまぎたしひくかった。すべてがふさわしくないかんじだった。本当ほんとう面白おもしろかった。かれのパフォーマンスが大好だいすきだった。おれ一部いちぶは「おい、こいつはすごい。やつ本当ほんとうきゃくおこらせてるぜ」とおもってた。「くそったれ、おまえからっぽからっぽからっぽだ」「マスでもかいてろ」と罵倒ばとうするモリソンにかってきゃくせてた。だが一方いっぽう、こうもおもった。「かれらがレコードをヒットさせたら、こんなさわぎとはおさらばだろう。だったら、おれたちがバンドでこいつをやらないはない」ってね。それは天啓てんけいだったな。「おい、これならできるぜ!」ってね。で、実際じっさいにそうしたのさ[24]

モリソンが人気にんきバンドのフロントマンでありながら極端きょくたんいをせていたため、イギーはそれをさら上回うわまわることを意識いしきした[ちゅう 11]徐々じょじょ過激かげきしていったイギーのステージパフォーマンスは、れたガラスのうえころがりまわったり、群衆ぐんしゅうまえにして局部きょくぶ露出ろしゅつするところまでにいたることになる[11]

バンド活動かつどうつづけていくなか、デトロイトロックシーンの中心ちゅうしんてき存在そんざいだったMC5とつながりを[ちゅう 12]様々さまざまなギグで共演きょうえんつづけていくうちに、エレクトラ・レコードでザ・ドアーズのパブリシティを担当たんとうしていたダニー・フィールズ英語えいごばんまり、1968ねん10がつ8にち、MC5とともにエレクトラ・レコードとレコードリリース契約けいやく締結ていけつすることになった[15]。そのさい、バンドめいながい、ということでザ・ストゥージズに改名かいめいしている[ちゅう 13][18]

ダニー・フィールズがアンディ・ウォーホルとの人脈じんみゃくっていたこともあって、デビューアルバム『イギー・ポップ・アンド・ストゥージズ英語えいごばん』のプロデューサーにはヴェルヴェット・アンダーグラウンド脱退だったいしたばかりのジョン・ケイル起用きようされた。レコーディングちゅうにザ・ストゥージズはウォーホルのファクトリー (アンディ・ウォーホル)英語えいごばん出入でいりできることになり[18]、イギーはニコうことになった[ちゅう 14][16]

1969ねん5月3にちオハイオ・ウェスリアン大学だいがくでのライブでは、ドラムスティックの尖端せんたん自分じぶんむねはじめ、血塗ちまみれのままライブをおこなった。

同年どうねん8がつ5にち、デビュー・アルバム『イギー・ポップ・アンド・ストゥージズ』がリリースされ[ちゅう 15]、ビルボード総合そうごうチャートで最高さいこう106とローカルバンドとしてはまずまずのチャートアクションを記録きろくした[25]が、イギーおよびスコット・アシュトンの薬物やくぶつ依存いぞんとデイヴ・アレクサンダーの過度かど飲酒いんしゅへきによって徐々じょじょにバンドは混乱こんらん状態じょうたいおちいっていくことになる[15]

セカンドアルバム『ファン・ハウス英語えいごばん制作せいさくにあたり、インパクトのある楽器がっき追加ついかしたいというイギーのかんがえから、イギーの大学だいがく後輩こうはいで、カーナル・キッチンというインストゥルメンタルユニットで活動かつどうしていたサックス奏者そうしゃスティーヴ・マッケイをレコーディングに参加さんかさせた[26]

ドン・ガルッチ[ちゅう 16]がプロデューサーをつとめ、デビューまえっていたインストゥルメンタルバンドとしての側面そくめんと、デビューせたロックンロールバンドとしての側面そくめん融合ゆうごうさせたこのアルバムは1970ねん7がつ7にちにリリースされ、著名ちょめい音楽おんがく評論ひょうろんレスター・バングス英語えいごばんクリーム (アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく音楽おんがく雑誌ざっし) 英語えいごばん誌上しじょう絶賛ぜっさんされる[28]が、チャートアクションはデビューアルバムを下回したまわってしまった[ちゅう 17]

1970ねん6がつ13にちのシンシナティでのライブでは、全身ぜんしんにピーナッツバターをるパフォーマンスをおこなった。

ファン・ハウス』が商業しょうぎょうてき失敗しっぱいわったのち、ザ・ストゥージズはツインギター体制たいせいとし、あらたな展開てんかい模索もさくしていたが、メンバーは短期間たんきかんわり[ちゅう 18]、リーダーであるイギーが薬物やくぶつ入手にゅうしゅのためにエレクトラから契約けいやくきんにメンバーに無断むだんをつけ[15]さらにロン・アシュトンをのぞくメンバー全員ぜんいん薬物やくぶつ依存いぞんだった[ちゅう 19]ため、やはり薬物やくぶつ入手にゅうしゅのために機材きざいはらうなど[16]、コントロールをうしなっていった。

そんなバンドにエレクトラは見切みきりをつけ、イギーがメンバー(スコット・アシュトン、ジェームズ・ウィリアムソン)と同居どうきょしていたマンション[30]担当たんとうしゃ派遣はけんすると、次回じかいさくのために準備じゅんびしていた新曲しんきょく確認かくにんし、「出来できくない」とげて契約けいやく解除かいじょした[15]。これにより、ザ・ストゥージズは商業しょうぎょうてきまってしまう。

くわえて、イギーが薬物やくぶつ依存いぞんしょう治療ちりょうのために施設しせつかよはじ[15]当時とうじ作曲さっきょくパートナーでもあったジェームズ・ウィリアムソンも肝炎かんえん罹患りかんして療養りょうよう生活せいかつはい[30]など、メンバーが継続けいぞくてきそろうこともむずかしくなったことから、1971ねん7がつ9にちにザ・ストゥージズは解散かいさん宣言せんげんした[31]

イギー&ザ・ストゥージズ: 1972ねん - 1974ねん

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ザ・ストゥージズ解散かいさん1971ねん9月、ダニー・フィールズからの紹介しょうかいでイギーはデヴィッド・ボウイマクシズ・カンサス・シティ英語えいごばん[32]かれ所属しょぞく事務所じむしょメインマンにさそわれた。イギーはさそいをけて事務所じむしょ契約けいやくし、その結果けっかコロムビアから2まいのアルバムレコーディング契約けいやくれることになった[31]
1972ねん3がつ、イギーはデヴィッド・ボウイのマネージャーでありメインマンの社長しゃちょうだったトニー・デフリーズ英語えいごばんれられてロンドンかうと、バックバンドをさがすように指示しじされた。イギーはまず、ザ・ストゥージズ末期まっき作曲さっきょくパートナーをつとめていたジェームズ・ウィリアムソンをロンドンにび、2人ふたりでバックバンドをさがはじめた[16]事務所じむしょ当初とうしょピンク・フェアリーズ英語えいごばんとのコラボレートを提案ていあんしたが2人ふたりことわ[18]、オーディションであたらしいメンバーをさがしたものの、沿人材じんざいつからず難航なんこうした。ロンドンにかった当初とうしょのイギーはまったあたらしいバンドをむつもりではいたものの[16]最終さいしゅうてきにウィリアムソンの提案ていあん[30]でロン・アシュトンがベーシストへ転向てんこうすることを前提ぜんていに、アシュトン兄弟きょうだいせることにした。この提案ていあんをロン・アシュトンがれたため[ちゅう 20]結果けっかてきにザ・ストゥージズがさい結成けっせいすることになるが、「イギーをメインにえたい」という事務所じむしょ意向いこうからバンドは「イギー&ザ・ストゥージズ」と名乗なのることになり[30]実際じっさいにこのメンバーで製作せいさくされたアルバム『ロー・パワー英語えいごばん』ではそのバンドめいがクレジットされている。

1972ねん7がつ15にち再始動さいしどうしたイギー&ザ・ストゥージズはロンドンのキングスクロス地区ちく英語えいごばんにあるキングスクロス・シネマでお披露目ひろめギグをおこない、これを成功せいこうさせた[ちゅう 21]。ここで披露ひろうしたきょくはザ・ストゥージズ末期まっきかれたものが中心ちゅうしんだったが、事務所じむしょがこれをらず、あらたなきょくくように要求ようきゅうして仕事しごとれなかったため、バンドは2ヶ月かげつほど作曲さっきょくとリハーサルにれることになった[10]。 1972ねん9がつ10日とおかに『ロー・パワー』のレコーディングがはじまったが、予定よていされていたデヴィッド・ボウイのプロデュースをイギーがことわった[ちゅう 22]ことにくわえ、ボウイ自身じしんはつだい規模きぼなワールドツアーの最中さいちゅう事務所じむしょもその対応たいおう忙殺ぼうさつされており、レコーディングスタジオにはスタジオエンジニアがいた程度ていど事務所じむしょ関係かんけいしゃ同席どうせきしておらず、事実じじつじょう放置ほうち状態じょうたい制作せいさくすすめられることになった[16]

十分じゅうぶんにリハーサルされていたこともあってレコーディングは1ヶ月かげつ程度ていど終了しゅうりょうしたが、事務所じむしょ楽曲がっきょくらないことにくわえてミックスが稚拙ちせつなものだったことを問題もんだいし、ボウイにリミックスを依頼いらいするように指示しじするとともにメンバー全員ぜんいんをロサンゼルスに移動いどうさせた[9]。メンバーはビバリーヒルズ・ホテル英語えいごばん滞在たいざいし、そこでボウイとった。ツアースケジュールを1にちだけけて出向でむいたボウイは、24トラックちゅう3トラックしか使用しようされていないじょう、その3トラックも楽器がっきごとに分離ぶんり録音ろくおんされていないというマスターにき、ヴォーカルとギターを目立めだたせる一方いっぽう低音ていおん目立めだたなくなるかたち妥協だきょうすることで仕上しあげた[35][36]。ミックスダウン完了かんりょう事務所じむしょはメンバーをビバリーヒルズからハリウッド移動いどうさせた[9][18]
このような騒動そうどうて『ロー・パワー』は1973ねん2がつにリリースされるが、キングスクロスのギグが当時とうじ基準きじゅんでは過激かげきなものだったことから事務所じむしょはバンドをツアーにすことに消極しょうきょくてき[16]くわえてアルバムの内容ないようらなかったことから、ツアーやプロモーション活動かつどう企画きかくすることなくバンドをハリウッドに放置ほうちした[18]
結果けっかてきに『ロー・パワー』はプロモーションがほとんどおこなわれないことになり、『ファン・ハウス』につづいて商業しょうぎょうてき失敗しっぱいした[10][ちゅう 23]

放置ほうち状態じょうたい苛立いらだちをつのらせていたイギーだったが、ある、イギーが滞在たいざいしていたホテルにデフリーズがおとずれ、ミュージカル「ピーターパン」への出演しゅつえん提案ていあんした。見当けんとうちがいともえる仕事しごと提案ていあんにイギーは激怒げきどしてことわ[ちゅう 24]、これがきっかけとなって、それまでも意向いこう無視むししたかれらの行動こうどういていた事務所じむしょは1973ねん5がつごろにザ・ストゥージズを解雇かいこした[18][38]

事務所じむしょ解雇かいこされたが、コロムビア社長しゃちょうクライヴ・デイヴィスふく社長しゃちょうのスティーヴ・ハリスはかれらを見捨みすてておらず、ハリスはあらたにマネージャーとなったジェフ・ウォルドに『ロー・パワー』のプロモーションツアーを提案ていあんした。ウォルドはこの提案ていあんれ、1973ねん7がつ30にちに「Iggy at Max's at Midnight」と銘打めいうたれたニューヨークのマクシズ・カンサス・シティ公演こうえん皮切かわきりにプロモーションツアーを開始かいしした[38]
このツアーでイギーのステージングはこれまでになくきずてき過激かげきなものとなった[ちゅう 25]。1973ねん7がつ31にちには、マクシズ・カンサス・シティでれたガラステーブルのうえころがるというパフォーマンス(またはアクシデント)が発生はっせいした。れたガラスで怪我けがをするとその傷口きずぐちから観客かんきゃくりまいた。どうなつのミシガンしゅうのライブ[ちゅう 26]では、観客かんきゃくべかけのスイカをげつけ、ステージじょう嘔吐おうとした[38]。スイカがたった女性じょせいかる脳震盪のうしんとうこした。

しかし、あらたなマネージャーが計画けいかくするツアー日程にっていいちじるしく効率こうりつなもので[ちゅう 27]バンドを消耗しょうもうさせ、かつ経済けいざいてきにも十分じゅうぶんたされない[ちゅう 28]など体力たいりょくめん経済けいざいめん双方そうほうきびしい状況じょうきょうつづいた。

1973ねんまつ、クライブ・デイヴィスがコロムビアの社長しゃちょう解任かいにんされ、庇護ひごしゃがいなくなったザ・ストゥージズは2まいのアルバムをリリースすることなく1974ねん初頭しょとう契約けいやく解除かいじょされた[9]。これにより、ザ・ストゥージズは商業しょうぎょうてき先行さきゆきが不透明ふとうめいになってしまう。

1974ねん2がつ、ミシガンしゅうデトロイト近郊きんこう小規模しょうきぼなギグをおこなったザ・ストゥージズはそこでスコーピオンズという暴走ぼうそうぞく暴力ぼうりょく沙汰ざたこし、さら翌日よくじつ、プロモーションのために出演しゅつえんしたラジオ番組ばんぐみで、イギーがデトロイトのミシガン・パレス英語えいごばんでギグをおこなうからいと暴走ぼうそうぞく挑発ちょうはつしたところ、スコーピオンズのメンバーを名乗なの人物じんぶつから殺害さつがい予告よこく電話でんわはいった[41]当日とうじつのギグはこのいちけんでナーバスになったイギーがステージじょうから観客かんきゃく挑発ちょうはつ罵倒ばとうつづけたために様々さまざまなものがステージにげつけられるという大変たいへん状況じょうきょうおちい[34]結果けっか、それまでのツアーで疲弊ひへいしていたバンドは、この騒動そうどうがねとなってイギーの提案ていあん解散かいさんすることになった[10][ちゅう 29][ちゅう 30]

8がつ11にちのロサンジェルスのライブでは、The Murder of a Virginとしょうして自分じぶん鞭打むちうたせるパフォーマンスをおこない、そのだらけになったまま、黒人こくじん観客かんきゃく人種じんしゅ差別さべつてき暴言ぼうげんをはきおこらせ、ステージに持参じさんしていたナイフでみずからをすよう挑発ちょうはつした。

同年どうねんのToledoでのライブでは、イギーをきらうファンたちは、かれ観客かんきゃくかってあたまからダイブすると、観客かんきゃくかれ地面じめんちるようにめずにけた。

デヴィッド・ボウイとのベルリン時代じだい: 1976ねん - 1978ねん

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ミネアポリス州立しゅうりつ劇場げきじょう英語えいごばん 1977ねん10がつ25にち

ザ・ストゥージズを解散かいさんしたイギーはウィリアムソンとともにロサンゼルスにかい、すうかいのギグを開催かいさいする[ちゅう 31]など音楽おんがく活動かつどう継続けいぞく模索もさくした。くわえて薬物やくぶつ依存いぞんがコントロールできない自身じしん危機ききかんいだき、みずか治療ちりょう施設しせつUCLA神経しんけい精神せいしん医学いがく研究所けんきゅうじょ英語えいごばん)にはいった[10]。そんななかでウィリアムソンがイギーと自身じしん音楽おんがくキャリア継続けいぞくのため、ザ・ストゥージズ末期まっき出来上できあがっていた楽曲がっきょくふくしんアルバムの制作せいさく構想こうそうし、自宅じたくのカセットレコーダーにきょく録音ろくおんはじめた。これはのちにデモテープ制作せいさく発展はってんし、イギーも治療ちりょう施設しせつから外出がいしゅつ許可きょかりたさいはレコーディングに参加さんかした。制作せいさくされたデモテープにはどのレーベルも興味きょうみしめさず[43]、この時点じてんではリリースすることができなかったが、のちに『キル・シティ』と名付なづけられ、1977ねん発売はつばいされる[10]

このころ、しばらく疎遠そえんになっていたイギーとボウイの親交しんこう復活ふっかつ[16][ちゅう 32]、『ステイション・トゥ・ステイション』のレコーディング現場げんばかおすなど、あらためて交流こうりゅうはじまった[45]。ボウイは治療ちりょう施設しせつへの訪問ほうもんやコラボレーションの試行しこうなど、ロサンゼルスで散発さんぱつてきにイギーの面倒めんどうていたが、やがて自身じしんのツアー(アイソラー・ツアー)にイギーを同行どうこうさせることをめた[10]。イギーはのちに、このツアーに同行どうこうすることでプロフェッショナルなミュージシャンとはどのように周囲しゅうい協業きょうぎょうしていくものなのかをまなんだとかたっている[16]

1976ねん6がつ、ツアーが終了しゅうりょうすると、イギーとボウイはフランスポントワーズにあるエルヴィルじょう滞在たいざいしてボウイプロデュースのした本格ほんかくてきなコラボレーションを開始かいしする[ちゅう 33]。このスタジオでのレコーディングにはドラムにミシェル・サンタンゲリフランス語ふらんすごばん、ベースにもとマグマローラン・ティボーフランス語ふらんすごばん参加さんかしているが、ボウイが演奏えんそうしたバックトラックがおお採用さいようされている。その、ボウイとイギーは西にしベルリンうつってマンションで共同きょうどう生活せいかつはじめ、薬物やくぶつ依存いぞん治療ちりょうけつつ、コラボレーションを継続けいぞくした[10]

イギーは当時とうじボウイが所属しょぞくしていたレコード会社かいしゃRCAレコードと3まいのレコードリリース契約けいやくむすび、1977ねん3がつ、コラボレーションの成果せいかとしてはつのソロアルバム『イディオット』をリリースした[10]。このアルバムは商業しょうぎょうてき成功せいこう[ちゅう 34]、そのおこなった短期間たんきかんのソロツアー[ちゅう 35]成功せいこうしたことでまとまった収入しゅうにゅうたイギーは、西にしベルリンでマンションをりて恋人こいびとのエスター・フリードマン[ちゅう 36]との同棲どうせい開始かいしし、ボウイとの共同きょうどう生活せいかつ終了しゅうりょうした[16][ちゅう 37][ちゅう 38]

1977ねん8がつふたたびボウイプロデュースのした[ちゅう 39]、『キル・シティ』にも参加さんかしていたセイルズ兄弟きょうだいトニー・セイルズ英語えいごばんハント・セイルズ英語えいごばん)をバックバンドに採用さいようした[ちゅう 40][ちゅう 41]ラスト・フォー・ライフ』を発表はっぴょうする。このアルバムはイギリスでは『イディオット』を上回うわまわるチャートアクションをせたが[48][ちゅう 43]、アメリカでは発売はつばいのタイミングがエルヴィス・プレスリー死去しきょかさなっため、エルヴィスのバックカタログを大量たいりょう保有ほゆうするRCAレコードはほとんどが廃盤はいばんになっていたきゅう再発さいはつ注力ちゅうりょくすることになり、『ラスト・フォー・ライフ』のプロモーションには労力ろうりょくかなくなったため、商業しょうぎょうてき失敗しっぱいした[53]。このあつかいにたいしてRCAレコードに不信ふしんかんったイギーは、『ラスト・フォー・ライフ』のツアー[ちゅう 44]えると契約けいやく消化しょうかするためにライブアルバム『TV Eye:1977 ライヴ』を1978ねん4がつにリリースし、そのままRCAレコードをはなれ、ボウイのしたからもった[10][ちゅう 45]

ソニックス・ランデヴー・バンド: 1978ねん

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TV Eye:1977 ライヴ』リリースまえの1978ねん初頭しょとう、イギーはスコット・サーストンをのぞくそれまでのバンドメンバーを解雇かいこした。これはソニックス・ランデヴー・バンド英語えいごばんをバックバンドにえるための措置そちだった。

1977ねんの『ラスト・フォー・ライフ』ツアーちゅう、デトロイトに里帰さとがえりしたイギーは旧友きゅうゆうのスコット・アシュトンが参加さんかしていたバンド、ソニックス・ランデヴー・バンドとジャムセッションをおこなっていた。このセッションに満足まんぞくしたイギーは、デトロイト・ロックシーンの中心ちゅうしんてき存在そんざいもとMC5のフレッド・“ソニック”・スミス英語えいごばんもとレイショナルズ英語えいごばんスコット・モーガン英語えいごばんもとジ・アップ英語えいごばんのゲイリー・ラスムッセン)があつまっていたこのバンドで、デヴィッド・ボウイとコラボレーションした2さくとは毛色けいろことなるギターロックを志向しこうした演奏えんそうをしたいとかんがえ、かれらへ『TV Eye ライヴ』ツアーへの参加さんか打診だしんした。バンドメンバーのうち、スコット・モーガンは参加さんかことわったが、のメンバーは承諾しょうだくしたため、サウスロンドンのバタシーにあるスタジオでリハーサルを開始かいしした。しかし、最終さいしゅうてきにアルバム制作せいさくまでかんがえていたイギーにたいし、バンドの中心ちゅうしんてきメンバーのフレッド・スミスが「メンバー全員ぜんいん参加さんかしていちから作曲さっきょくをするのでなければ意味いみがない」と主張しゅちょうして、たんなるバックバンドとしてあつかわれるレコーディングには難色なんしょくしめした。
TV Eye ライヴ』ツアー自体じたいは1978ねん5がつから無事ぶじ開始かいしされたが、このみぞ最後さいごまでうずまらず、くわえてフレッド・スミスがパティ・スミスとの交際こうさい開始かいししたため、長期ちょうきわたってアメリカをはなれることに消極しょうきょくてきとなり、さらにバンドはつのシングル「シティ・スラング」がアメリカで発売はつばいされることもあって、イギーとバンドはスタジオレコーディングをすることなく、1ヶ月かげつ程度ていどたもとかった。[10][9][ちゅう 46]

アリスタ時代じだい: 1979ねん - 1981ねん

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ソニックス・ランデヴー・バンドとのコラボレーション終了しゅうりょう、イギーはまだ自宅じたくのあった西にしベルリンにもどって休養きゅうよう新曲しんきょく製作せいさくてた。そのあいだあらたにマネージャーとなったピーター・デイヴィスがアリスタと交渉こうしょうし、3まいのアルバム製作せいさく契約けいやくをまとめた。A&R部門ぶもん統括とうかつしゃベン・エドモンズがイギーを評価ひょうかしていたために実現じつげんした契約けいやくだったが、当時とうじのアリスタ社長しゃちょう、クライヴ・デイヴィスはコロムビア時代じだいにストゥージズを庇護ひごしたにもかかわらず、その期待きたいこたえてもらえなかったことをおぼえており、イギーの作品さくひんのアメリカにおける商業しょうぎょう価値かち懐疑かいぎてきで、アルバムのアメリカ発売はつばい確約かくやくしなかった[10][9]

イギリス・カーディフ・学生がくせい会館かいかん 1979ねん5がつ9にち[57]

キル・シティ』は1974ねん時点じてんではそのデモテープにすべてのレーベルが価値かちみとめなかったが、『イディオット』と『ラスト・フォー・ライフ』の商業しょうぎょうてき成功せいこうにあやかるかたちで1977ねん11月に発売はつばいされると、こう評価ひょうか好調こうちょうなセールスを記録きろくした[10]
この評価ひょうかてイギーは新作しんさくのプロデューサーけんギタリストとしてジェームズ・ウィリアムソンを希望きぼうした[30]
ピーター・デイヴィスは元々もともとウィリアムソンのプロデュース能力のうりょく懐疑かいぎてき[ちゅう 47]、ベン・エドモンズもデモテープを無視むしした人物じんぶつ1人ひとりだったが、2人ふたりともイギー同様どうようにこのこう評価ひょうかかんがえをえ、ウィリアムソンをまねくことに同意どういした[10]
ソニックス・ランデヴー・バンドをバックバンドにすることに失敗しっぱいしたイギーは、レコーディングの開始かいしまでにバンドメンバーをそろえる必要ひつようがあったが、イギーの休養きゅうようちゅう短期間たんきかんアイク&ティナ・ターナーのバックバンドをつとめていたスコット・サーストンが、そのバックバンド、アイク&ティナ・ターナー・レヴュー英語えいごばんからジャッキー・クラークをんでくることに成功せいこうした。ジャッキー・クラークは本来ほんらいギタリストだったがベースもけたため、かれをベーシストとした[10]
ギターはウィリアムソンに担当たんとうさせる予定よていだったが、ながらくギターをいていなかったウィリアムソンはでなく、サーストンがほぼ全編ぜんぺんにわたって担当たんとうすることになった[ちゅう 48]。ドラマーはイギーと西にしベルリンでったもとタンジェリン・ドリームのクラウス・クリューガーを起用きようした[10]
レコーディング場所ばしょは、イギー自身じしんはヨーロッパを希望きぼうしたが、予算よさん関係かんけいからロサンゼルスのパラマウント・スタジオでおこなわれることになった。マネージャーのピーター・デイヴィスはイギーのためにコカインを用意よういするような人物じんぶつだったため、イギーは再度さいど薬物やくぶつ依存いぞんする生活せいかつおくることになったが、サーストンとウィリアムソンが仕切しきったレコーディングは順調じゅんちょうすすみ、新作しんさくニュー・ヴァリューズ』は1979ねん4がつにリリースされた[10]
ニュー・ヴァリューズ』は音楽おんがくメディアにたか評価ひょうかされて[58]ラジオのオンエアも好調こうちょう[9]順調じゅんちょう状況じょうきょうのままイギーはヨーロッパツアーを開始かいしする。
このツアーにウィリアムソンは同行どうこうせず、サーストンはツアーでは基本きほんてきにキーボード専任せんにんだったため、イギーはベーシストとしてレコーディングに参加さんかしたジャッキー・クラークを本来ほんらいのポジションであるギタリストにもど[10]あらたにもとセックス・ピストルズのベーシスト、グレン・マトロック参加さんか打診だしんした。自身じしんのバンド、リッチ・キッズ活動かつどう停止ていししたばかりのマトロックは要請ようせいれてツアーに参加さんかした[ちゅう 49]

評価ひょうかたかかった『ニュー・ヴァリューズ』だが、チャートアクションは『イディオット』『ラスト・フォー・ライフ』といったまえ2さく下回したまわってしまう[ちゅう 50][ちゅう 51]
チャートアクションをたアリスタは、ツアーちゅうのイギーにつぎさく準備じゅんびをするように要請ようせいするとともにウェールズのロックフィールド・スタジオ確保かくほした。そのため、イギーは1979ねん6がつのツアー終了しゅうりょうやすむことなくレコーディングにかることになった[10][ちゅう 52]
ツアーちゅう、イギーはすぐれたソングライターでもあったマトロック[ちゅう 53]あらたな作曲さっきょくパートナーにえることを構想こうそうし、作曲さっきょく参加さんかさせることにした[59]。このうごきをたそれまでの作曲さっきょくパートナーけんバンドマスターのスコット・サーストンは自身じしん解雇かいこ予想よそうしていたが、実際じっさいつぎさくのレコーディングには参加さんかさせないということをイギーからげられると、ツアー終了しゅうりょうにジャッキー・クラークをれてバックバンドから離脱りだつしてしまった[10]
ギタリストとキーボードをいちうしなったイギーは、またあらたにバンドメンバーをあつめる必要ひつようがあったが、そのまえにプロデューサーとしてふたたびジェームズ・ウィリアムソンを確保かくほした。前回ぜんかいことなり、国外こくがい出向でむかねばならないうえ旧友きゅうゆうのサーストンもおらず、そのうえメンバーも確定かくていしてない、という状況じょうきょうのレコーディングにではなかったウィリアムソンだが、当時とうじ大学だいがく在学ざいがくちゅう[ちゅう 54]学費がくひ捻出ねんしゅつせまられていたため、同意どういする[10]
レコーディングまえのリハーサル時点じてんではウィリアムソンがギターを担当たんとうしていたが、「自分じぶんかんがえるレベルにたっしていない」とウィリアムソン自身じしんもうたため、結局けっきょく、マトロックがリッチ・キッズの同僚どうりょうだったスティーヴ・ニュー英語えいごばんして解決かいけつした。キーボードはもとXTCで、当時とうじとく音楽おんがく活動かつどうをしていなかった[ちゅう 55]バリー・アンドリュース英語えいごばん起用きようした[10]
しかし、じょうバンドマスターをまかされたマトロックはバンドマネジメントにれていなかったことからバンドを仕切しきることに失敗しっぱいし、昼間ひるまからメンバーが飲酒いんしゅするような状況じょうきょうおちいった。イギー自身じしん作詞さくしわれてバンドメンバーの面倒めんどうひまがなかったため、ウィリアムソンが現場げんば仕切しきることになったものの、規律きりつみだれたメンバーにたいしてオーヴァーダビングようとして延々えんえんおなじパートのリプレイをもとめたうえに、メンバーからされたレコーディングのアイデアも、まとまっていない段階だんかいであれば時間じかんもないことから容赦ようしゃなく却下きゃっかするという態度たいどせたため、スタジオの雰囲気ふんいきわるかった[10]
雰囲気ふんいきくわえ、予算よさん完成かんせい期日きじつ超過ちょうか懸念けねんされはじめたため[ちゅう 56]、この状況じょうきょうたアリスタのスタッフは、状況じょうきょう打開だかいのためにデヴィッド・ボウイとパティ・スミス・グループのアイヴァン・クラールした[ちゅう 57][10]
ボウイは「プレイ・イット・セーフ」のコーラス参加さんかという名目めいもくいちばんだけの参加さんか合意ごういした[ちゅう 58]が、雰囲気ふんいき改善かいぜんするためにばれたという自身じしん役割やくわりかっており、卑猥ひわい冗談じょうだんマーガレット王妃おうひかんする不敬ふけい冗談じょうだんをそれぞれかたってげた。その雰囲気ふんいきったイギーはその冗談じょうだん応用おうようした歌詞かし即興そっきょうつくげて「プレイ・イット・セーフ」のレコーディングをおこなった。その内容ないようではとてもラジオでオンエアできず、発売はつばいむずかしくなるとかんがえたウィリアムソンが注意ちゅういしたところ、イギーは反発はんぱつし「おまえはこの場所ばしょ相応ふさわしくない」と糾弾きゅうだんしてスタジオは混乱こんらんした。さらに、ボウイが自身じしん恋人こいびとそうとしたと勘違かんちがいしたスティーヴ・ニューがボウイをなぐってしまうという事件じけん[59]、そののレコーディングは混乱こんらんのまま終了しゅうりょうした[ちゅう 59]
翌日よくじつ、ボウイはり、ウィリアムソンもレコーディング終了しゅうりょうたずにイギーに解雇かいこされ、帰国きこくしてしまった[30]。また、スティーヴ・ニューもボウイをなぐったことにたいするイギーからの報復ほうふくおそれて姿すがたをくらませた[59][10]
この騒動そうどうて、アリスタからA&R部門ぶもん統括とうかつしゃターキン・ゴッチと財務ざいむ担当たんとうしゃのビーター・レヴィンソンが事態じたい収拾しゅうしゅうのためにけつけた[ちゅう 60]結果けっか、ロックフィールド・スタジオのハウスエンジニア、パット・モラン[ちゅう 61]をプロデューサーにえ、アイヴァン・クラール指揮しきしたりない部分ぶぶんいそぎレコーディングし、マスターテープを完成かんせいさせた。完成かんせいしたマスターテープはニューヨークのレコード・プラント・スタジオおくられてパティ・スミスやトム・ペティなどとの仕事しごとられるエンジニア、トム・パヌンツィオ英語えいごばん最終さいしゅうミックスがゆだねられることになった[10]

ニュー・ヴァリューズ・ツアー・US

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アリスタは『ソルジャー』のレコーディング完了かんりょうの1979ねん10がつに、アメリカで前作ぜんさくニュー・ヴァリューズ』をリリースすることをめた[9]。これにより、イギーは『ソルジャー』のレコーディング完了かんりょう、すぐに前作ぜんさくのプロモーションのために北米ほくべいツアーにるという奇妙きみょう状況じょうきょうかれることになった[10]
行方ゆくえをくらませたスティーヴ・ニューはツアーのリハーサルにもかおさなかったため[59]にギタリストがりず、イギーはもとダムドで、当時とうじしんバンド、タンズ・ダー・ユースでキャリアを模索もさくしていたブライアン・ジェームズ英語えいごばん参加さんか打診だしんした。ザ・ストゥージズのだいファンだったジェームズは[61]結果けっかてき有名ゆうめいなブリティッシュ・パンクバンドのもとメンバーが2人ふたり参加さんかしたツアーが実現じつげんする[9][ちゅう 62][ちゅう 63]
ツアーは『ニュー・ヴァリューズ』のアメリカリリース直後ちょくご、1979ねん10がつわりころから開始かいしされたが、『ソルジャー』リリースまでに完了かんりょうさせる必要ひつようがあったため、スケジュールが非常ひじょうにタイトで、終了しゅうりょうともにブライアン・ジェームズはこれ以上いじょう同行どうこう拒否きょひした[ちゅう 64][ちゅう 65][ちゅう 66]。また、レコーディングちゅうにアイヴァン・クラールにバンドマスターけん作曲さっきょくパートナーとしての役割やくわりってわられたマトロックも「同行どうこうしている意味いみがない」と判断はんだんし、くわえて『ソルジャー』の最終さいしゅうミックスがらなかったこともあり、ツアー終了しゅうりょう離脱りだつした。イギーのマネージャー、ピーター・デイヴィスもこのころにイギーのまえから姿すがたした[10]
ツアーは1ヶ月かげつ程度ていど終了しゅうりょうした[54]が、『ニュー・ヴァリューズ』のセールス強化きょうかにはむすびつかず、ビルボード最高さいこうは180わった[62]

ソルジャー・ツアー

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様々さまざま混乱こんらん[ちゅう 67]見舞みまわれた『ソルジャー』は1980ねん2がつにリリースされた。こちらはアメリカでもどう時期じき発売はつばいされたため、ヨーロッパと北米ほくべい中心ちゅうしんとした長期ちょうきのツアーが企画きかくされた。
アイヴァン・クラールはニューヨークパンク・シーンの仲間なかま伝手つて辿たどり、補充ほじゅうメンバーとしてもとマンプス英語えいごばんロブ・デュプレイ英語えいごばんをギタリストとして、もとジョニー・サンダース&ザ・ハートブレイカーズ英語えいごばんのビリー・ラスをベーシストとしてれてきた[10]
しんメンバーでイギリスツアーを終了しゅうりょうし、北米ほくべいツアーにうつるが、今度こんどはイギーが「いまのリズムセクションはバンドのみだすからクビにする」とした。元々もともと、イギーがツアーちゅうせる奔放ほんぽう生活せいかつ嫌気いやけしていたドラムスのクリューガーと、おなじく嫌気いやけがさしていたビリー・ラスは解雇かいこれた[10]
そのため、ふたたびクラールはメンバー補充ほじゅうのためにニューヨークにび、ジョン・ケイルとコラボレーションしたさい面識めんしきたセッション・ドラマー、ダグラス・バウンから参加さんか了解りょうかいけた。しかし、ベーシストはつからず、結局けっきょくオーディションでマイケル・ペイジを採用さいようした[ちゅう 68][10]
こののちメンバーは固定こていされ、ツアーは3ヶ月かげつほどつづけられたが、『ソルジャー』のセールスはアリスタの想定そうていする水準すいじゅん、『イディオット』『ラスト・フォー・ライフ』とどう程度ていど水準すいじゅんにはたっしなかったため[ちゅう 69]、マネージャーの庇護ひごもないなか、イギーはアリスタの財務ざいむ担当たんとうしゃのプレッシャーに直接ちょくせつさらされることになった[10]

パーティ

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ソルジャー』のヨーロッパツアー終了しゅうりょう、イギーとクラールはニューヨークに滞在たいざいしてきょくきため[9]つぎさくのレコーディングにのぞんだ。バックバンドはツアーメンバーがそのままつとめ、プロデューサーは『ソルジャー』の最終さいしゅうミックスを担当たんとうしたトム・パヌンツィオがつとめた[10]
いちとおりのレコーディングが完了かんりょうしたのち仕上しあがりを確認かくにんしたアリスタの財務ざいむ担当たんとうしゃ、チャールズ・レヴィンソンは「コマーシャルなきょくがない」とイギーとクラールにプレッシャーをかけた。今回こんかい契約けいやく延長えんちょう最後さいごのチャンスと心得こころえていた2人ふたりはシングルようの「コマーシャルなきょく」の製作せいさくと、スタンダードきょく[ちゅう 70]のカヴァーを承諾しょうだくした[10]
チャールズ・レヴィンソンは収録しゅうろくきょくのラインナップだけでなく、パヌンツィオのプロデュースワークにも不満ふまんっていたためにのプロデューサーをさがし、トミー・ボイスぶことに成功せいこうした。スタンダードきょくカヴァーのためにばれた[ちゅう 71]ボイスは製作せいさくちゅうだった「コマーシャルなきょく」、「バン・バン (イギー・ポップのきょく)英語えいごばん」をり、このきょくをプロデュースすることにも同意どういした[9]
レコーディング終了しゅうりょう、イギーは小規模しょうきぼ北米ほくべいツアーにたが、新作しんさくリリースまえのためアリスタの支援しえんはなく、経費けいひはブッキングエージェントから前借まえがりしていた[ちゅう 72]。その小規模しょうきぼなツアーをつづけていくなかで、ギターとキーボード兼任けんにんだったクラールをギター専任せんにんとし、あらたなキーボード奏者そうしゃぶようクラールにもとめた。クラールはパティ・スミス・グループのかつての同僚どうりょうリチャード・ソール英語えいごばんび、これにこたえた[10]
1981ねん6がつ新作しんさくパーティー (イギー・ポップのアルバム) 英語えいごばん』が発売はつばいされ、ツアーはあらためてパーティ・ツアーと銘打めいうたれてヨーロッパから開始かいしされた。しかし、このころのイギーはアリスタからのプレッシャーとタイトなスケジュールからくるストレスを飲酒いんしゅ薬物やくぶつ糊塗ことしているという悪循環あくじゅんかんからせなくなっており、バンドのマネジメントはすべてクラールにまかせきりだった[10]
ヨーロッパツアーを終了しゅうりょうし、アメリカツアー初回しょかい、8がつのニューヨーク公演こうえん3にち、クラールは、このままでは自身じしんのキャリアがわると危惧きぐおぼえ、ロードマネージャーのヘンリー・マグロガン[ちゅう 73]離脱りだつつたえると、イギーのまえから姿すがたした[ちゅう 74][10]

イギーはクラールの離脱りだつにショックをけた[ちゅう 75]が、ツアーを中止ちゅうしするわけにはいかなかったため、急遽きゅうきょギタリストをさがしたものの、すぐに参加さんかできるプロフェッショナルはつからず、むをずイギーと仕事しごとをしたがっていたもとブロンディのベーシスト、ゲイリー・ヴァレンタイン (ベーシスト)英語えいごばん本職ほんしょくではないギタリストとして起用きようした[10]
パーティ・ツアーはそのつづいたが、クラール離脱りだつから1ヶ月かげつたないうちに、『パーティ』のチャートアクションが期待きたいしたものではないことを理由りゆう[ちゅう 76]アリスタから契約けいやく延長えんちょうはないことがイギーに通告つうこくされ、混乱こんらんのアリスタ時代じだい終了しゅうりょうした[ちゅう 77]
アリスタからのプレッシャーとプロモーションと収益しゅうえき確保かくほねたためにタイトになったツアースケジュールになやまされ、アルコールと薬物やくぶつたよっていたこの時期じきを、のちにイギーは「一番いちばんからかった時期じき」と総括そうかつしている。

いまでこそおれはソロアーティストとしてみとめられてるけど、それはおれにとっちゃえらんでそうなったわけじゃなく、自然しぜんながれでそうなっただけだったから、まだ完全かんぜんにその状況じょうきょうれちゃいなくてさ、きちんとしたプロダクションをつくげるのにも手間取てまどったし、ツアーちゅう自分じぶんをコントロールするのが大変たいへんだった。気分きぶんてきにも高低こうていなみおおきすぎたね[16]
おれ自分じぶんじゃ、反抗はんこうてきになろうなんておもったこといちもなかった。ただ、ちゃんとやろう、自分じぶんのやりかたでやろうっておもってただけさ。自分じぶん音楽おんがく音楽おんがくだってこともわかってた。ただひとつだけおれにできなかったのは、業界ぎょうかい責任せきにんある立場たちばにある人間にんげんに、おれもの見方みかたをわかってもらうことだったね。[68]

また、それぞれのアルバムについては『ニュー・ヴァリューズ』は「ほこりをっている。」、『ソルジャー』は「随分ずいぶんながいこときになれなかった。」、『パーティ』は「ぜん作中さくちゅう一番いちばんきらいなアルバム」と評価ひょうかしている[16][ちゅう 78][ちゅう 79][ちゅう 80]

ゾンビー・バードハウス: 1982ねん

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フォロー・ザ・サン・ツアー

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イギーはアリスタとの契約けいやく終了しゅうりょうするとツアーめいからアルバムタイトル『パーティ』をはずし、あらためてフォロー・ザ・サン・ツアーと銘打めいうってツアーを続行ぞっこうした。このタイミングにわせて、デヴィッド・ボウイの常連じょうれんギタリスト、カルロス・アロマー英語えいごばんがゲストとして参加さんかした[ちゅう 81]
このツアーのハイライトは1981ねん11月30にちと12月1にちポンティアック・シルバードームおこなわれたスタジアムライブで、ローリング・ストーンズのサポートアクトとして参加さんかした[ちゅう 82][ちゅう 83][9]
このときのイギーのステージ衣装いしょうは、かわジャンにミニスカートというわせで、ミニスカートのした下着したぎなしでストッキングをいており、事実じじつじょう局部きょくぶ露出ろしゅつした状態じょうたいだった。この服装ふくそう観客かんきゃく罵倒ばとうはじめたため、様々さまざまなものがステージ目掛めがけてげつけられた[73]。ステージが終了しゅうりょうし、バンドがバックヤードにもどると、プロモーターのビル・グレアム英語えいごばん意外いがいにもだいよろこびしていて、片付かたづけたスタッフにつくらせた投擲とうてきぶつのリストをイギーにしめし、つぎにメインのローリング・ストーンズがひかえている[73]にもかかわらず、イギーにステージへもどってそのリストをげて「おくもの」のおれいおうとけしかけた。イギーはこれにこたえ、グレアムとともにステージにもどり「以下いかおくもの感謝かんしゃする。」とべたのち戸惑とまど観客かんきゃくたちにけて雄叫おたけびでいのれながら、リストにかれた投擲とうてきぶつを1つ1つをげた[74][ちゅう 84][ちゅう 85]
それから1週間しゅうかんほどのちに、フォロー・ザ・サン・ツアーは終了しゅうりょうし、イギーはニューヨークにもどった。[ちゅう 86]
乱痴気騒らんちきさわぎのようなフォロー・ザ・サン・ツアーの状況じょうきょうをゲストのカルロス・アロマーや、クレム・バークはたのしんでいた[ちゅう 87]が、ギタリストのゲイリー・ヴァレンタインはついていけず、ツアー終了しゅうりょうにバンドを離脱りだつした[9]

ゾンビー・バードハウス

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ニューヨークにいたイギーはブロンディの中心ちゅうしん人物じんぶつクリス・ステイン英語えいごばんから、かれ設立せつりつしたインディーレーベル、アニマル・レコーズ[76]からの新作しんさくリリースを提案ていあんされた[ちゅう 88]。インディーレーベルにしては十分じゅうぶん前渡金ぜんときんったイギーは、ギタリストのロブ・デュプレイに前渡金ぜんときん一部いちぶわたして作曲さっきょくパートナーとし、1982ねん初頭しょとうからきょく準備じゅんび開始かいしした[10]
レコーディングは、ニューヨークのブランクテープ・スタジオ[78]おこなわれ、同年どうねん4がつごろ終了しゅうりょうする[ちゅう 89]と、イギーは恋人こいびと写真しゃしんのエスター・フリードマンとともにジャケット写真しゃしん撮影さつえいのためにハイチにわたった。当初とうしょ予定よていではすう週間しゅうかん程度ていど滞在たいざい予定よていだったが、様々さまざま騒動そうどうまれて滞在たいざい使つかたしてしまい、フリードマンの金策きんさくみのるまで3ヶ月かげつほど滞在たいざいすることになった[ちゅう 90][ちゅう 91]
フリードマンは帰国きこくにイギーにアルコールと薬物やくぶつ依存いぞんしょう治療ちりょうけさせるため、ハイチからはなれるまえにイギーのもと内縁ないえんつまであるポーレット・ベンソン[ちゅう 92]連絡れんらくり、ノースリッジ病院びょういん英語えいごばんへの入院にゅういん承諾しょうだくさせた[ちゅう 93]。ロサンゼルスの空港くうこうで3にんうと、ベンソンが承諾しょうだくしょにサインして、イギーはそのまま入院にゅういんすることになった。フリードマンはニューヨークにもどってジャケット写真しゃしんをステインにわたし、まっていた新作しんさくのリリース準備じゅんびすすむことになった[10]
イギー退院たいいんの1982ねん9がつ新作しんさくゾンビー・バードハウス英語えいごばん』がアニマル・レコーズからクリサリス・レコード配給はいきゅうでリリースされ、ローリング・ストーンといった音楽おんがくメディアで比較的ひかくてきたか評価ひょうかることに成功せいこうした[80][81]
よく10がつ、イギーは『ゾンビー・バードハウス』のプロモーションと収入しゅうにゅう確保かくほ[ちゅう 94]ねたはつのワールドツアーを開始かいしした。2ヶ月かげつあいだでヨーロッパと北米ほくべいまわり、ニューヨークで短期間たんきかん休息きゅうそくとメジャーレーベルとの契約けいやく目指めざした活動かつどう[ちゅう 95]おこなったのちに、それまでは「ゾンビー・バードハウス・ツアー」と名乗なのっていたツアーの名称めいしょうを「ブレイキング・ポイント・ツアー」と変更へんこうして、1983ねん2がつから再開さいかいした。しばらく北米ほくべいめぐったのち、6がつ日本にっぽんかった[54][ちゅう 96]日本にっぽんでは将来しょうらい配偶はいぐうしゃとなるアサノ・スチと[82]、そのままツアーに同行どうこうさせてオセアニア方面ほうめんかうが、オーストラリアでライブちゅう負傷ふしょうした女性じょせいから訴訟そしょうこされたため、そののツアーはすべてキャンセルし、7がつにアメリカに帰国きこくすることになった[10]

休養きゅうよう期間きかん、そしてデヴィッド・ボウイとの再会さいかい: 1983ねん - 1985ねん

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ブレイキング・ポイント・ツアーを終了しゅうりょうしてからのイギーは、依存いぞんしょう治療ちりょうむとともに心身しんしん生活せいかつなおしに専念せんねんし、音楽おんがく業界ぎょうかいおもて舞台ぶたいからしばらくくことになった。

レポマン

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1983ねん7がつ、スチとともにロサンゼルスに滞在たいざいしたイギーは、ふたたびダニー・シュガーマンにすすめられ、著名ちょめい医学いがくしゃマレイ・ザッカー[83]指導しどうもとで、再度さいど依存いぞんしょう治療ちりょうんだ[10][ちゅう 97][ちゅう 98]
イギーは最終さいしゅうてきに11月までロサンゼルスに滞在たいざいし、そのあいだにシュガーマンにさそわれて映画えいがレポマン」のサウンドトラック製作せいさく参加さんかすることになった。このサウンドトラックでイギーは、チェッカード・パスト英語えいごばんのメンバー[ちゅう 99]をバックバンドにしたがえて、表題ひょうだいきょくのヴォーカルをつとめるとともに、どうきょく作曲さっきょくにもかかわった。[ちゅう 100][10]

デヴィッド・ボウイとの再会さいかい

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1983ねん8がつ、デヴィッド・ボウイがイギーとのきょう作曲さっきょくチャイナ・ガール」をだいヒットさせ、このヒットからもたらされた印税いんぜい収入しゅうにゅうにより、イギーの経済けいざいてき苦境くきょう一気いっき解決かいけつされることになった[ちゅう 101]
1983ねん12月、シリアス・ムーンライト・ツアー終了しゅうりょうしたボウイからのさそいをけて、休暇きゅうかさきのインドネシアにかったイギーは、のちにアルバム『トゥナイト』に収録しゅうろくされることになる「タンブル・アンド・トゥワール」をボウイときょうさくし、『ラスト・フォー・ライフ以来いらいのコラボレーションを復活ふっかつさせた。
よく1984ねん5がつ、ボウイが『トゥナイト』のレコーディングを開始かいしし、イギーはこれに5日間にちかん参加さんかして「ダンシング・ウィズ・ザ ・ビッグボーイズ」のともさくとデュエットをおこなった[ちゅう 102]。この『トゥナイト』への参加さんかは、収入しゅうにゅうめんだけでなく、表立おもてだった音楽おんがく活動かつどうひかえていたイギーの名前なまえひろめるのに役立やくだった。スーパースターとなっていたボウイと頻繁ひんぱん協業きょうぎょうしたことでセレブ仲間入なかまいりをたし、ピープル生活せいかつりがげられるような存在そんざいとなっていった[10]
1984ねん9がつ、ボウイがNMEのインタビューで来年らいねん予定よていしているプロジェクトとして「イギーとのアルバムレコーディング」をげ、イギーが新作しんさく準備じゅんびかっていることを示唆しさした。一方いっぽうで、イギーは当初とうしょ単独たんどく準備じゅんびおこな予定よていだったが、おもうような進捗しんちょくとならなかったため、「レポマン」で協業きょうぎょうしたスティーヴ・ジョーンズにこえをかけ、1985ねん6がつごろから2人ふたり作曲さっきょく開始かいしした。10月ごろ2人ふたりで9きょく収録しゅうろくのデモテープをつくげると、11月ごろボウイに披露ひろうし、これをボウイがったことから、レコーディングプロジェクトが本格ほんかくてき始動しどうした[10]
また、おなじ1985ねん、イギーはあたらしいマネージャー、アート・コリンズ[ちゅう 103]契約けいやくし、ビジネスめんでも準備じゅんびすすめていった[10]

ブラー・ブラー・ブラー: 1986ねん - 1987ねん

[編集へんしゅう]
おれのやったあらゆる過激かげきことは、もともとおれなかにあったものなんだ。ただこのところ、刺激しげきたよらずに自分じぶん作品さくひんをもっと覚醒かくせいしたものにする、というあたらしいやりかたれたんだ。10ふんほどさかなみたいにのたうちまわってあとはひっくりかえっちゃうなんていうのじゃなく、今後こんごはおそらくもっと興奮こうふんのエネルギーが長続ながつづきするようになるだろうね[68]

ブラー・ブラー・ブラー

[編集へんしゅう]
ピンクポップ1987 バークトスポーツ公園こうえん 1987ねん6がつ8にち[85]

1985ねん12月、イギーとボウイはカリブ海かりぶかいマスティクとう滞在たいざいし、3ヶ月かげつかけて新作しんさくのためのきょくともさくした[ちゅう 104]
よく1986ねん5がつスイスモントルーマウンテン・スタジオうつり、ボウイとの共同きょうどうプロデューサーとしてデヴィッド・リチャーズ英語えいごばんむかえ、レコーディングをおこなった[ちゅう 105][ちゅう 106]
レコーディング終了しゅうりょう配布はいふされたテープにはA&Mヴァージン・アメリカが反応はんのうし、最終さいしゅうてきににA&Mが500,000ドルの契約けいやくきん提示ていじして、配給はいきゅうけん獲得かくとくした[10]
1986ねん10がつ23にち、『ブラー・ブラー・ブラー英語えいごばん』と名付なづけられた4ねんりの新作しんさくがリリースされた。A&Mはこのアルバムを慎重しんちょうにプロモートすることをこころがけた。PR写真しゃしん休養きゅうよう期間きかんちゅう獲得かくとくしたセレブレティイメージそのままのもの使用しよう[ちゅう 107]、リリースにともなうツアーはイギーの人気にんきたかく、集客しゅうきゃく見込みこめ、そののプロモートよう映像えいぞう使用しようするさいにも好都合こうつごう大都市だいとし重点的じゅうてんてきまわ短期間たんきかんのものにめた[54]。その地域ちいきではテレビ出演しゅつえん中心ちゅうしんとしたプロモートにてっし、新曲しんきょくリアル・ワイルド・チャイルド (ワイルド・ワン)英語えいごばん」の宣伝せんでんつとめた[ちゅう 108]。イギーもこれまでとことなり、レーベルの期待きたいどおりの応対おうたい各所かくしょせ、アルバムやシングルのセールス寄与きよくばった[ちゅう 109][10][9][90]
結果けっかてきに『ブラー・ブラー・ブラー』は、イギーのアルバムとしては『イディオット以来いらいのビルボード100以内いないにチャートイン(最高さいこう72)し[91]、イギリスでも『ラスト・フォー・ライフ以来いらいの50以内いない最高さいこう43)を記録きろくした[48]。イギリスではこれにくわえてシングル「リアル・ワイルド・チャイルド (ワイルド・ワン)」がチャート最高さいこう10記録きろく[48]、イギーのヨーロッパにおける人気にんきたかさと、商業しょうぎょうてき可能かのうせいあらためて証明しょうめいすることになり、音楽おんがく業界ぎょうかいだい一線いっせんへの復帰ふっきはなえた。

リスキー

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1987ねん、リリースにともな短期間たんきかんのツアーから、プリテンダーズのサポートアクトとしてツアーを再開さいかいさせる[54]までのあいだ、イギーは坂本さかもと龍一りゅういちのアルバム『ネオ・ジオ』に歌詞かしとヴォーカルを提供ていきょうした。これは坂本さかもとからの要望ようぼうではなく[ちゅう 110]ほんさく共同きょうどうプロデュースをつとめたビル・ラズウェルからの要請ようせいこたえたもので[ちゅう 111]、イギーはラズウェルとともにハワイにあるジョージ・ベンソン所有しょゆうのスタジオでヴォーカルを収録しゅうろくした[9]。このきょくリスキー」は日本にっぽん国内こくない坂本さかもと出演しゅつえんした日産にっさんセドリックのCMに採用さいようされ[92]日本にっぽん国内こくないでのイギーの知名度ちめいど向上こうじょう寄与きよした。また、このコラボレーションが成功せいこうしたことで、イギーとラズウェルのあいだ交流こうりゅうまれ、2人ふたりはイギーの自宅じたくつぎさくかんするプランを頻繁ひんぱんはなうことになった[10]

ブラー・ブラー・ブラー以降いこう

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そのも、ヘヴィメタルグランジといったハードロックあらたなムーヴメントがこるたびに評価ひょうかたかまるというキャリアをおくなかもとセックス・ピストルズスティーヴ・ジョーンズ(『ブラー・ブラー・ブラー』『インスティンクト』『アメリカン・シーザー』)、ガンズ・アンド・ローゼズスラッシュダフ・マッケイガン(『ブリック・バイ・ブリック』)、ライ・クーダージャクソン・ブラウンとのセッションでられるデヴィッド・リンドレー(『ブリック・バイ・ブリック』)、ボブ・ディランローリング・ストーンズボニー・レイットがけたプロデューサーのドン・ワズ(『ブリック・バイ・ブリック』『アベニューB』)など充実じゅうじつしたメンバーたちと活動かつどうする。

USAオースティン公演こうえん(2007ねん5がつ

1996ねんだいヒットした映画えいがトレインスポッティング』の挿入歌そうにゅうかに『ラスト・フォー・ライフ』が使用しようされたこと世界せかいてきさい評価ひょうかされる。
1999ねんにはそれまでんでいたニューヨークをり、マイアミに移住いじゅう。そのときった女性じょせいNina Aluとは2008ねん正式せいしき再婚さいこん[93]する。

2003ねんに、ベーシストにもとミニットメンマイク・ワットむかえ、29ねんぶりに「ストゥージズ」をさい結成けっせいし、のちにはきゅうメンバーらも合流ごうりゅうふたたびパワフルなサウンド・ステージを展開てんかいした。並行へいこうして、ソロでも精力せいりょくてき活動かつどうする。

2010ねん、ストゥージズ名義めいぎで『ロックの殿堂でんどうりをたす。しかし2016ねんころに、バンドはふたた活動かつどう停止ていし

2012ねんケシャのアルバム『Warrior』の収録しゅうろくきょく「ダーティー・ラヴ(Dirty Love)」に参加さんか[94]

ジンジャー・ベイカーとのコラボで、ブラック・キーズのトリビュートアルバム『Black On Blues - A tribute to the Black Keys』で「Lonely Boy」をカバー。

同年どうねん、ミシガンのロックンロール伝説でんせつ殿堂でんどう(Michigan Rock and Roll Legends Hall of Fame)りをたした。[95]

2014ねん3がつ、NYのカーネギー・ホールで開催かいさいされた<Tibet House US Benifit Concert 2014>に出演しゅつえんしたさいニュー・オーダージョイ・ディヴィジョンきょく、「Californian Grass」「Transmission」「Love Will Tear Us Apart」をパフォーマンスした。[96]10月にBBC主催しゅさいするジョン・ピール講座こうざで、「資本しほん主義しゅぎ社会しゃかいにおける無償むしょう音楽おんがく[97]というだい講演こうえんおこなった。[98]

布袋ほてい寅泰ともやすのアルバム『New Beginnings』(2014)、『STRANGERS』(2015)にヴォーカルと作詞さくし参加さんか。(「How The Cookie Crumbles」 「Walking Through The Night」 )[99]

2015ねんアレックス・コックス監督かんとく映画えいがBill the Galactic Superhero』にテーマきょく「Bill the Galactic Superhero」を提供ていきょう

えいBBCラジオ・ドキュメンタリー『Burroughs at 100』で、ウィリアム・バロウズのドキュメンタリーのナレーションをつとめる。

えいBBCラジオ6ミュージックで、自身じしん選曲せんきょく、パーソナリティをつとめる2あいだのラジオ番組ばんぐみ『イギー・コンフィデンシャル(Iggy Confidential)』が毎週まいしゅう金曜日きんようびえい時間じかん19:00よりスタート。パンクからブルースやジャズ、新旧しんきゅう様々さまざまなアーティストをフィーチャーしている。

ニュー・オーダーのアルバム『Music Complete』の「Stray Dog」に参加さんか

2016ねんクイーンズ・オブ・ザ・ストーン・エイジのジョシュ・ホーミとんだ『ポスト・ポップ・ディプレッション』が歴代れきだい自身じしんのアルバム史上しじょう最大さいだいセールスを記録きろく[ちゅう 112]えいラフ・トレードの2016ねん年間ねんかんアルバムTOP100のだいいち[102]かがやいたほかグラミーしょうの2017ねん最優秀さいゆうしゅうオルタナティヴ・ミュージック・アルバムしょうにノミネート[103]されるとうかく方面ほうめんだい絶賛ぜっさんる。10月、ライブ作品さくひん『Post Pop Depression Live at The Royal Albert Hall』をリリース。[104]

また、5月にジム・ジャームッシュ監督かんとくストゥージズのドキュメンタリー映画えいがギミー・デンジャーGimme Danger)』が、だい69かいカンヌ国際映画祭かんぬこくさいえいがさいでプレミア上映じょうえいされ、会見かいけんにも出席しゅっせきした。[105]

2017ねん、フランスにて これまでの業績ぎょうせきひょうされ、芸術げいじゅつ文化ぶんか勲章くんしょう最高さいこう『コマンドゥール』を受章じゅしょう[106]映画えいがグッド・タイム』では、ワンオートリックス・ポイント・ネヴァーの「The Pure and the Damned」のヴォーカルを担当たんとう[107]べいガレージ・ロックバンド、デス・ヴァレイ・ガールズ(Death Valley Girls[108])のミュージックビデオ「Disaster (Is What We're After)」出演しゅつえん[109]

2018ねん7がつアンダーワールドとのコラボレーションEP『Teatime Dub Encounters』をリリース。(両者りょうしゃダニー・ボイルの1996ねん映画えいがトレインスポッティング』にきょく提供ていきょうしたことでられている。)

ウィリアム・シャートナーのクリスマス・アルバム『Shatner Claus - The Christmas Album』にも参加さんかする。音楽おんがく以外いがい活動かつどうとしては映画えいがバンクシーをぬすんだおとこ』のナレーションを担当たんとう[110]

2019ねん、フェミーナ『Resist』、パン・アムステルダムの『Mobile』に参加さんか[111]一方いっぽうべいケーブルテレビのEpix放映ほうえいされた音楽おんがくドキュメンタリー『PUNK』のエグゼクティブ・プロデューサーをつとめる。[112]また、ナレーションをつとめた前衛ぜんえい映画えいが『イン・プレイズ・オブ・ナッシング(原題げんだい:In Praise of Nothing)』がストリーミング配信はいしんされる。[113]6がつにはジム・ジャームッシュ映画えいがデッド・ドント・ダイ』に俳優はいゆうとして出演しゅつえんアラ・ニの『アッカ(ACCA)』にポエトリー・リーディングで参加さんか[114]

9月6にちやく3ねんはんぶり、通算つうさん18まいのソロアルバム『フリー』をリリース。キャリア集大成しゅうたいせい書籍しょせき『'Til Wrong Feels Right: Lyrics and More』を刊行かんこう[115]

2020ねん1がつだい62かいグラミーしょう 特別とくべつ功労賞こうろうしょう生涯しょうがい業績ぎょうせきしょう受賞じゅしょう[116]

べいガレージ・パンク・バンドのケイジ・ジ・エレファント(Cage The Elephant)の「Broken Boy」に参加さんか[117]

2がつ、NYのカーネギー・ホールで開催かいさいされた<Tibet House Benefit Concert 2020>に、フィリップ・グラスパティ・スミスローリー・アンダーソンらと出演しゅつえん[118]

影響えいきょう

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パンクのゴッドファーザーという異名いみょうち、ライブにおける過激かげきなパフォーマンス、そしてストゥージス自体じたいは、セックス・ピストルズダムドスレイヤーデフ・レパードガンズ・アンド・ローゼズレッド・ホット・チリ・ペッパーズサウンドガーデンレイジ・アゲインスト・ザ・マシーンホワイト・ストライプスマッドハニーなどにふか影響えいきょうあたえ、かれらにこぞってカバーされている。とくにホワイト・ストライプスのジャック・ホワイトは2ndアルバム『ファン・ハウス』を、セックス・ピストルズのジョニー・ロットンニルヴァーナカート・コバーンもとザ・スミスモリッシージョニー・マーエコー&ザ・バニーメンイアン・マッカロクは3rdアルバム『ロー・パワー』をフェイバリットにげている。

日本にっぽんとの関係かんけい

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  • はつ来日らいにちは『イディオット』のプロモーションで来日らいにちした1977ねん。アルバム・プロデューサーであるデヴィッド・ボウイ同伴どうはんでの来日らいにちだった。このとき写真しゃしんすきでん正義まさよしかれ2人ふたり原宿はらじゅくのスタジオで撮影さつえい。それがのちに『ヒーローズ』(ボウイ)と『パーティー』(イギー)のアルバム・ジャケットとなる。
  • 1979ねんには『ニュー・ヴァリューズ』のプロモーションでさい来日らいにち写真しゃしん佐藤さとうジンとのフォトセッション[119]おこなう。
  • 1983ねんはつ来日らいにち公演こうえん観客かんきゃくとしてステージをていた日本人にっぽんじん女性じょせいスチを見初みそめ、その結婚けっこんした[82](1998ねん(1999ねんせつあり)に離婚りこん)。
  • 1998ねんフジロックフェスティバルでは、熱狂ねっきょうした観客かんきゃく100にん以上いじょうをイギーがステージにげてしまい、きゃくにマイクをられるなどパニック状態じょうたいになったが会場かいじょうだいがりになった。

ディスコグラフィ

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ザ・ストゥージズ

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イギー・アンド・ザ・ストゥージズ

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イギー・ポップ・アンド・ジェームズ・ウィリアムソン

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イギー・ポップ

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関連かんれん項目こうもく

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来日らいにち公演こうえん

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  • プロモーションのみの来日らいにち
1977ねん4がつ(『イディオット』のプロモーション。デヴィット・ボウイ同伴どうはん
1979ねん7がつ(『ニュー・ヴァリューズ』のプロモーション。)
6月17にち 大阪おおさか厚生こうせい年金ねんきん会館かいかん
6月18にち 名古屋なごや公会堂こうかいどう
6月19にち20日はつか 東京とうきょう中野なかのサンプラザ
6月21にち 東京とうきょう日本にっぽん青年せいねんかん
6月22にち 東京とうきょう・ツバキハウス
4がつ20日はつか 大阪おおさかサンケイホール
4がつ21にち・22にち 東京とうきょう日本にっぽん青年せいねんかん
1がつ23にち・24にち 東京とうきょう中野なかのサンプラザ
1がつ26にち 大阪おおさか・サンケイホール
1がつ28にち 福岡ふくおか郵便ゆうびん貯金ちょきんホール
1がつ22にち・23にち 川崎かわさきクラブチッタ
1がつ24にち 名古屋なごやクラブクアトロ
1がつ26にち 福岡ふくおか・クロッシングホール
1がつ27にち・28にち 大阪おおさかクラブクアトロ
1がつ30にち・31にち 東京とうきょう 渋谷しぶやON AIR
7がつ31にち 東京とうきょう豊洲とよすベイサイドスクエア・フジ・ロック・フェスティバル'98
7がつ26にち 新潟にいがた苗場なえばスキーじょう・フジ・ロック・フェスティバル'03
3月19にち 大阪おおさかACTホール・Magic Rock Out Osaka
3がつ20日はつか 東京とうきょう幕張まくはりメッセ・Magic Rock Out Tokyo
3月22にち 東京とうきょう渋谷しぶやAX単独たんどく公演こうえん
7がつ28にち 新潟にいがた苗場なえばスキーじょう・フジ・ロック・フェスティバル'07

注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ 父親ちちおやはスウェーデンけい家庭かてい養子ようし縁組えんぐみされてオスターバーグと名乗なのった[9]
  2. ^ 経済けいざいてきくるしかったわけではなく、父親ちちおやが「トレイラーパークでじゅうふん」というかんがかたぬしだったためにつづけたのだという[10]
  3. ^ かれのステージネーム「イギー・ポップ」の「イギー」は、オスターバーグがこのバンドにいたことをっていたレコードショップの店長てんちょうが、かれを「イグアナ」をりゃくしてんだことが発端ほったんになっている[10]
  4. ^ 「ポップ」はまゆかみりあげたジミー・ポップという友人ゆうじん真似まねをしてまゆったところ「ポップと名乗なのっていいよ」とわれたからだという[13]
  5. ^ このショップにはのちにザ・ストゥージズのメンバーとなるアシュトン兄弟きょうだいやデイヴ・アレクサンダーが毎日まいにちのようにかおしていたという[14]
  6. ^ レイの息子むすこによると、イギーはレイの自宅じたくゆか寝泊ねとまりしながら数日すうじつ滞在たいざいしたという[15]
  7. ^ 高校こうこう時代じだいから面識めんしきはあったが、友人ゆうじんとしてのいがはじまったのはイギーの高校こうこう卒業そつぎょうだった[16]
  8. ^ ロンのおとうとということでったが、イギーが大学だいがく中退ちゅうたい勤務きんむしていたレコードショップをおとずれてはドラムの演奏えんそう方法ほうほうおしえてしいとたのんでいたという[16][18]
  9. ^ このときにイギーが担当たんとうしたのはハワイアンギター[16]
  10. ^ マタニティ・ドレス、しろいサテンのパンツ、ゴルフシューズという格好かっこうだった[16]
  11. ^ そのにステージじょういの参考さんこうとしたミュージシャンとしては、ミック・ジャガージェームズ・ブラウンげている[11]
  12. ^ ただし、かれらの政治せいじてき活動かつどうには深入ふかいりしなかった[18]
  13. ^ メジャーデビューにあたり、ロン・アシュトンはバンドめい参考さんこうとした「さんばか大将たいしょう(The Three Stooges)」のモー・ハワード連絡れんらく許可きょかている。かれ許可きょか言葉ことばは「さんばかでなきゃ勝手かってにしろ。」だったという[18]
  14. ^ ニコはその、アナーバーにかえるイギーののちい、そこでイギーがそれまで使用しようしていなかったハードドラッグをおしえることになる[16]
  15. ^ イギーの名前なまえは「イギー・ストゥージ」とクレジットされている。
  16. ^ もとキングスメン英語えいごばんもとタッチのキーボード担当たんとう当時とうじはエレクトラでハウスプロデューサーをつとめていた[27]
  17. ^ ビルボード総合そうごうチャートの200にランクインしなかった。
  18. ^ ベーシストのデイヴ・アレクサンダーは過度かど飲酒いんしゅへき原因げんいんで1970ねん8がつ解雇かいこされ[16]、その半年はんとしもしない期間きかんジーク・ゼトナー英語えいごばんジミー・レッカ英語えいごばんわった。ツインギター体制たいせいにしても、当初とうしょローディだったビル・チーザム英語えいごばんまかせたが、本人ほんにんではなく技術ぎじゅつめんでも問題もんだいがあったために数ヶ月すうかげつジェームズ・ウィリアムソンわっている[29]。また、スティーヴ・マッケイもイギーとの衝突しょうとつ原因げんいん参加さんかから9ヶ月かげつ程度ていど離脱りだつした[26]
  19. ^ そのためにロン・アシュトンとイギーは疎遠そえんになり、しん加入かにゅうのジェームズ・ウィリアムソンがあらたな作曲さっきょくパートナーとなった[16]
  20. ^ この決定けっていについて、イギーはのちに「かれにはもうわけないことをした」という主旨しゅし発言はつげんをしている[33]
  21. ^ 観客かんきゃくなかセックス・ピストルズジョン・ライドンザ・クラッシュミック・ジョーンズがいた[34]
  22. ^ プロデューサークレジットはイギー自身じしんだが、バックトラックの制作せいさくはウィリアムソンにまかせていた[18]
  23. ^ ビルボードの総合そうごうチャートでは最高さいこう186で1しゅうのみTop 200にランクインした[37]
  24. ^ おれえんじるならチャールズ・マンソンだ」とってことわったという[18]
  25. ^ このころのイギーは深刻しんこく薬物やくぶつ依存いぞんかかえていた。イギリス滞在たいざいちゅう帰国きこく直後ちょくごはそれほどひどくはなかったが、ハリウッド滞在たいざいちゅう再度さいど薬物やくぶつ依存いぞんおちいった[9]
  26. ^ キーボードのスコット・サーストン英語えいごばんはこのころ加入かにゅうしている[38]
  27. ^ イギーはこの時期じきのことを「おれらがロックンロールのまぼろしみんとして放浪ほうろうしていたころ」とかた[33]、ウィリアムソンはツアー日程にっていのことを「デスマーチ」とかたっている[39]
  28. ^ スコット・サーストンは「一文いちぶんしという重圧じゅうあつでバンドは崩壊ほうかいした。」とかたっている[40]
  29. ^ このときのギグの模様もようはアルバム『メタリック K.O.英語えいごばん』に収録しゅうろくされている。
  30. ^ 騒動そうどう発端ほったんとなった暴走ぼうそうぞくスコーピオンズが実際じっさい会場かいじょうあらわれていたのかは確認かくにんされていない[10]
  31. ^ ジュリアン・ワッサーの写真しゃしん有名ゆうめいまみれになってロン・アシュトンに自分じぶん鞭打むちうたせているギグはこのころのもの[42][34]
  32. ^ イギーは「懇意こんいにしていたドラッグの売人ばいにんフレディ・セスラー英語えいごばん)がどう一人物いちじんぶつで、かれとのなかってくれた」とかたっている[16][44]
  33. ^ ボウイ自身じしんのアルバム『ロウ』の制作せいさくねた滞在たいざいだった[46]
  34. ^ ビルボード総合そうごうチャートで最高さいこう72[47]、イギリスのオフィシャルチャーツで最高さいこう30。また『イディオット発売はつばい、『ロー・パワー』がイギリスでリバイバルヒットした[48]
  35. ^ ボウイがキーボードけんバッキングヴォーカルとして参加さんかしている[49]。また、イギーの当時とうじ恋人こいびと写真しゃしんのエスター・フリードマンがツアーカメラマンをつとめている[50]
  36. ^ 写真しゃしん当時とうじ)。1978ねんから1983ねんにかけてイギーのツアー写真しゃしんやプライベート写真しゃしんおお撮影さつえいした[50]。このころ撮影さつえいされた写真しゃしん写真しゃしんしゅう「The Passenger : Iggy Pop」として2013ねん発表はっぴょうされている[51]
  37. ^ イギーはのちに「自宅じたくれてから、ふたた薬物やくぶつはじめた。」とかたっている[16]
  38. ^ イディオット』ツアー終了しゅうりょう前後ぜんこうにイギーとボウイはアルバムプロモーションのために来日らいにちしている。イギーにとってはつ訪日ほうにちだった[52]
  39. ^ イギーは『イディオット』のときほどボウイは制作せいさくかかわっていない、とかたっている[16][53]
  40. ^ セイルズ兄弟きょうだいは『イディオット』リリースのツアーから参加さんかしていた[54]
  41. ^ セイルズ兄弟きょうだいはイギーが作詞さくしをするさいのポリシーに影響えいきょうあたえたコメディアン、スーピー・セイルズ英語えいごばん息子むすこだった[18]
  42. ^ きゅう邦題ほうだい: 「欲情よくじょうのロックンロール」
  43. ^ イギリスではそのも1996ねん映画えいがトレインスポッティング」のオープニングきょくとしてアルバムタイトルきょく[ちゅう 42]がノーカットで使用しようされたことが話題わだいとなってリバイバルヒットしている。また、どうアルバムの収録しゅうろくきょくザ・パッセンジャー (イギー・ポップのきょく)英語えいごばん」も1998ねんトヨタ・アベンシスのイギリスでのCMに採用さいようされた[55]ことがきっかけとなりヒットした[48]
  44. ^ イギー&ザ・ストゥージズ末期まっきのメンバーだったスコット・サーストンがキーボードとして参加さんかした[54]
  45. ^ この時期じきのボウイとのコラボレーションとしては、プロデュースさくの2まいほかに、『ロウ』へのイギーのコーラス参加さんかがある[56]
  46. ^ スコット・サーストンは「タイミングがわるかった。タイミングがえばレコーディングまで実行じっこうできたとおもうが、そのようなながれにできなかった。」とのちかたっている。[10]
  47. ^ ウィリアムソンによれば『キル・シティ製作せいさくちゅうにウィリアムソンがイギーへの連絡れんらく希望きぼうしてもつなごうとしなかったという[10]
  48. ^ ウィリアムソンは「ドント・レット・ミー・ダウン」と「エンドレス・シー」の2きょくでギターをいている[29]
  49. ^ イギーとリッチキッズのエージェントがどう一人物いちじんぶつ(ジョン・ギディングス)で、イギーはその人物じんぶつからマトロックを推薦すいせんされた[59]
  50. ^ イギリスのオフィシャルチャーツで最高さいこう60[48]
  51. ^ アメリカではクライヴ・デイヴィスの意向いこうもあってこの時点じてんではリリースされず、その時期じきめかねていた[10]
  52. ^ レコーディングまえにイギーはベン・エドモンズからA&R部門ぶもん統括とうかついだターキン・ゴッチ英語えいごばんから「いま最新さいしんだったらニュー・ウェイヴ調ちょう」と提案ていあんされている[9]
  53. ^ 勝手かってにしやがれ!!』の収録しゅうろくきょく半分はんぶんちかくがマトロックによって作曲さっきょくされた。くわしくはどうアルバムの項目こうもく参照さんしょう
  54. ^ このころのウィリアムソンは音楽おんがく業界ぎょうかいでキャリアをむことをあきらめ、公立こうりつポモナ大学だいがくでコンピューターエンジニアリングの勉強べんきょうをしていた。くわしくはジェームズ・ウィリアムソンこう参照さんしょう
  55. ^ 一時期いちじき、ロンドン動物どうぶつえんでアルバイトをしていた[10]
  56. ^ ウィリアムソンが48トラック録音ろくおんかかわったことも一因いちいんだという[10][9]。このけんについてウィリアムソンはのちに「レコード会社かいしゃからイギーを最新さいしん(ニュー・ウェイヴ)にしてくれと提案ていあんされていたので、最新さいしん機材きざいかかわった。最新さいしん機材きざい操作そうさするのはたのしかった。」とかたっている[29]。イギーはウィリアムソンのこのかかわりが不満ふまんで「おまえはフィル・スペクターか?これはおれのアルバムだ。」と抗議こうぎし、ウィリアムソン解雇かいこ一因いちいんとなった[9]
  57. ^ アイヴァン・クラールは当時とうじのアリスタの看板かんばんミュージシャンだったパティ・スミスの作曲さっきょくパートナーでバンドマスターもつとめていたが、このころのパティ・スミスはフレッド・スミスとの交際こうさい優先ゆうせんしていてバンド活動かつどう停滞ていたいしている状態じょうたいだった[9]
  58. ^ プレイ・イット・セーフ」にはおなじロックフィールド・スタジオでセカンドアルバム『リアル・トゥ・リアル・カコフォニー』をレコーディングしていたシンプル・マインズおなじアリスタ所属しょぞくだったことからコーラス参加さんかしている[10]
  59. ^ クラールによれば、レコーディング参加さんか初日しょにちからバンドマスターとしてはじめたクラールにたいし、ボウイから「イギーはわたし友達ともだちだが、わたしうことはかない。だから、のちはよろしくたのむ。」と耳打みみうちされたとう。実際じっさい、こののちからクラールはイギーの右腕うわんとして様々さまざま要求ようきゅうこたえていくことになる[9]
  60. ^ イギーのマネージャー、ビーター・デイヴィスはマネジメントを放棄ほうきして「(ウィリアムソンにつづいて)つぎ自分じぶんがクビになるばんだ。」となげくだけだったという[10]
  61. ^ プログレッシブ・ロックバンド、スプリング (ブログレッシブ・ロックバンド)英語えいごばんもとメンバー。こののちロバート・プラントルー・グラム常連じょうれんプロデューサーとして活躍かつやくする[60]
  62. ^ キーボードのバリー・アンドリュースもレコーディング終盤しゅうばんされるようなあつかいをけたため、ツアーには同行どうこうしなかった。キーボードはアイヴァン・クラールがギター兼任けんにんつとめた[10]
  63. ^ イギーはツアーの開始かいしわせて、西にしベルリンをはなれてニューヨークにしている[9]
  64. ^ ブライアン・ジェームズはこのときのツアーの様子ようすを「ひたすらホテルとステージを往復おうふくしているだけで、 途中とちゅうからどのホテルにいるのか、それがなんなのかさえもからなくなるような状況じょうきょうだった。」とかたっている[9]
  65. ^ クラールによると、当時とうじのイギーはクラールもふくめ、雇用こよう関係かんけいにあるバックバンドのメンバーは対等たいとうなバンドメイトとしてあつかわないふしがあり、ブライアンはそのてんについても不満ふまんらしていたという[10]
  66. ^ こののちにメンバーとなるマイケル・ペイジによれば、この時期じきのイギーはライブのチケット売上うりあげおも収入しゅうにゅうげんだったこともスケジュールがタイトになった原因げんいんだという。イギーの集客しゅうきゃくりょくはアルバムセールスに関係かんけいなくたかかったため、ブッキングエージェントも多数たすう会場かいじょう確保かくほ可能かのうだった[10]
  67. ^ ロックフィールド・スタジオにめていたアリスタのスタッフ(ジュリー・フッカー)は「レコーディングの終了しゅうりょうすくいだった。」とかたっている[10]
  68. ^ もとニューヨーク・ドールズシルヴェイン・シルヴェイン英語えいごばん結成けっせいしたザ・クリミナルズをて、チャビー・チェッカージェリー・リー・ルイスのバックバンドに在籍ざいせきしていた。またストゥージズを解散かいさんしてロサンゼルスにんでいたころのイギーとは面識めんしきがあった。ペイジはのちに「いまのバンドメンバーは外国がいこくまればかりだから1人ひとりくらいアメリカまれをびたい。」とイギーがいいだしたから、自分じぶん演奏えんそうかせていないのに合格ごうかくした、とかたっている[63]
  69. ^ アメリカのビルボードでは最高さいこう126[64]、イギリスのオフィシャルチャーツでは最高さいこう62[48]だった。
  70. ^ フィル・フィリップス英語えいごばんの「シー・オブ・ラブ」とジ・アウトサイダーズ英語えいごばんの「タイム・ウォント・レット・ミー英語えいごばん」。
  71. ^ モンキーズのソングライターチーム「トミー&ボイス」のメンバーとして著名ちょめいだが、このころは50’sロックンロールのリバイバルバンド、ダーツ (バンド)英語えいごばんをプロデュースし、ヒットさせていた。
  72. ^ これらのツアーはイギーの収入しゅうにゅう確保かくほおも目的もくてきだった。さいわいイギーの集客しゅうきゃくりょくたかかったため、ブッキングエージェントから経費けいひ前借まえがりが可能かのうだった[9]
  73. ^ 2020ねん現在げんざい、マネジメント会社かいしゃセントラル・ヨーロピアン・オーガニゼーションの代表だいひょう。イギーの活動かつどう全般ぜんぱんのマネジメントをおこなっている[65]。リッチ・キッズのロードマネージャーだったが、バンド解散かいさんもとメンバーのグレン・マトロックがイギーのバンドに参加さんかしたさいさそわれた。以降いこうながくイギーのロードマネージャーをつとめることになった[9][10]
  74. ^ ロン・アシュトンによると、イギーのあつかいについてクラールから電話でんわ相談そうだんがあったので「イギーはいつも自分じぶん中心ちゅうしんでいたがるから、やりたいようにやらせるしかない。」とこたえたという[9][66]
  75. ^ クラールによると、のちにイギーがボウイと一緒いっしょにいるところに偶然ぐうぜんくわしたさい、ボウイから「きみはイギーにりがあるらしいな」とめられたという[9]
  76. ^ ビルボードチャート最高さいこう166[67]、オフィシャルチャーツでは100はいらず正確せいかく順位じゅんい公表こうひょうされていない[48]
  77. ^ イギーにプレッシャーをかけていたものの、アリスタないでは庇護ひごしゃでもあったチャールズ・レヴィンソンがWEA(当時とうじ移籍いせきしていたことも影響えいきょうした[10]
  78. ^ 当時とうじのアリスタのA&R部門ぶもん統括とうかつしゃターキン・ゴッチは「イギーから信頼しんらい努力どりょくをしようとしなかったこちらにも問題もんだいがあったとおもう」とのちかたっている[10]
  79. ^ ゲイリー・ヴァレンタインはのちに「イギーはたしかにパンクのゴッドファーザーだったが、当時とうじのアメリカにはそもそもパンクスが地方ちほうにいなかった。1つの地方ちほう都市としにせいぜいすうひゃくにん単位たんい程度ていどだった。」とかたり、この肩書かたがきは当時とうじのアメリカのマーケットにかなかったのではないか、という見解けんかいしめした[9]
  80. ^ 1990年代ねんだいまでは評価ひょうかひくかったアリスタ時代じだい作品さくひんだが[69]、2000ねんにアリスタがリマスタリングばん再発さいはつしたことをきっかけにピクシーズブラック・フランシスが『ニュー・ヴァリューズ』を自身じしんのベストアルバムにげるなど評価ひょうかたかまっている[70]。また、豪華ごうかなメンバーがそろったこの当時とうじのライブばんえいイージーアクションレーベルから多数たすうリリースされている(『ホエア・ザ・フェイシズ・サンシャイン[71]、『カリフォルニア・ヒッチハイク[72]など。)。
  81. ^ デヴィッド・ボウイが『スケアリー・モンスターズ』のリリースにともなうツアーを中止ちゅうししたため、スケジュールにきができていた。
  82. ^ キース・リチャーズさそいで参加さんかした。また、このときはドラマーのダグラス・バウンが離脱りだつしていたが、代役だいやくがブロンディのドラマー、クレム・バーク英語えいごばんで、かなり豪華ごうかなメンバー構成こうせいとなっていた[9]
  83. ^ クレム・バークによると、キース・リチャーズはさくな態度たいどってくれたが、ミック・ジャガーは挨拶あいさつひとつしてくれなかったため、イギーをかなりおこらせていたという[73]
  84. ^ ライター、ヘアブラシ、スニーカー、帽子ぼうし、ブラジャー、コルセットといったものが記載きさいされていたという[74]
  85. ^ ビル・グレアムは自身じしん回顧かいころくで「ローリング・ストーンズのサポートアクトのなかもっと印象いんしょうのこった」「世界せかいもっともステージにものまれたライブ」として、このけん紹介しょうかいしている[74]
  86. ^ ローリング・ストーンズのサポートアクトをつとめる直前ちょくぜんにサンフランシスコでおこなわれたライブが、イギーのライブとしてははじめて全編ぜんぺん映像えいぞうされている。「Live in S.F.[75]
  87. ^ アロマーはいつビールをびても大丈夫だいじょうぶなようにいつもかわジャンをていた[10]
  88. ^ ブロンディはファーストアルバム『妖女ようじょブロンディ英語えいごばん』リリース全米ぜんべいツアー(1977)でイギーのサポートアクトをつとめていた[77]ため、全員ぜんいん面識めんしきがあった。イギーのバックバンドにブロンディのメンバーがよく参加さんかしているのはこのような理由りゆうもあった[73]
  89. ^ ロブ・デュプレイがギターとキーボード、クレム・バークがドラムスというてんはツアーとわらなかったが、ベースはプロデューサーのクリス・ステインがねた。
  90. ^ ハイチではドラッグが安価あんかはいったためにイギーは滞在たいざいちゅうずっと酩酊めいてい状態じょうたいだった。そのため、ホテルで下半身かはんしん露出ろしゅつし、クラブでさけしてほうされるなどの騒動そうどうかえしながら滞在たいざい乱費らんぴつづけた[9]くわえて交通こうつう事故じこにもって治療ちりょう必要ひつようになったことから、フリードマンがもうれた借金しゃっきんける知人ちじんつかるまで、帰国きこく費用ひよう捻出ねんしゅつできなかった[10]
  91. ^ フリードマンは、2人ふたりでブードゥーの儀式ぎしき見学けんがくしたさい、イギーが儀式ぎしき乱入らんにゅうして司祭しさいおこらせたため、のろいをかけられたことが原因げんいんかたっている[79]
  92. ^ イギーとのあいだいち・エリックをもうけている[10]
  93. ^ 病院びょういんダニー・シュガーマン手配てはいした。イギーとシュガーマンは『キル・シティ時代じだいから面識めんしきがあった[10]
  94. ^ ゾンビー・バードハウス』の評価ひょうかたかかったが、小規模しょうきぼなインディーレーベルからのリリースだったため、おおきな収入しゅうにゅうつながるだい規模きぼセールスを期待きたいできなかった[10]
  95. ^ ミニストリーのアル・ジュールゲンセン、カーズリック・オケイセック2人ふたり協力きょうりょくしたにデモを作成さくせいしたが契約けいやくにはつながらなかった[10]
  96. ^ それまでプロモーションとして来日らいにちしたことはあったが、ライブははつだった。
  97. ^ アメリカ国内こくないでのツアーちゅう比較的ひかくてきクリーンな状態じょうたいだったが、アジア・オセアニア方面ほうめんへのツアーちゅう大量たいりょうのアルコール飲料いんりょうむようになっていた[10]
  98. ^ アサノ・スチはイギーが入院にゅういんちゅう施設しせつかよつづけ、おたがいのなかふかめていったという[10]
  99. ^ スティーヴ・ジョーンズ、クレム・バーク、ナイジェル・ハリソン英語えいごばん、1983ねん来日らいにちメンバーだったフランク・インファンテ英語えいごばん。チェッカード・パストには『ラスト・フォー・ライフ』のレコーディングメンバーだったトニー・セイルズも参加さんかしていたが、「レポマン」のバックバンドにはえらばれなかった[9]
  100. ^ シュガーマンは「レポマン」に音楽おんがくアドバイザーという肩書かたがき参加さんかしていた。チェッカード・パストもシュガーマンがマネジメントしていたバンドだった[10]
  101. ^ 音楽おんがく評論ひょうろんニック・ケント英語えいごばんは、このヒットでイギーはアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく内国ないこく歳入さいにゅうちょうに750,000ドルを支払しはらうことになったとかたっている[9]当時とうじのアメリカの国税こくぜいりつ[84]から換算かんさんすると、このヒットでもたらされた収入しゅうにゅうは1,500,000ドルということになる。
  102. ^ トゥナイト』のプロデューサー、ヒュー・パジャムは「このときのボウイはスタジオではタバコをかすばかりでやるせてくれなかったが、イギーが参加さんかしたときだけは積極せっきょくてき仕事しごとんでくれた。イギーがもうすこながくいてくれたら、あのアルバムは傑作けっさくになったとおもう。」とかたっている[10]
  103. ^ マリアンヌ・フェイスフルジョー・ジャクソンピーター・トッシュジム・キャロル英語えいごばんのマネージャーでもあった。伝記でんき「ギミー・デンジャー」では「ある世代せだいにとっての反抗はんこうのアイコンのうち、つぎ世代せだいにとっての商品しょうひんとなりうる存在そんざい見抜みぬちからけていた」とひょうしている[9]。もう1つの伝記でんき「オープン・アップ・アンド・ブリード」では、「イギーのプライベートなめんでも面倒めんどうて、プロフェッショナルにつづけるための援助えんじょしまなかった。」とひょうしている[10]
  104. ^ デモテープのきょくはミドルテンポのものがおおかったため、ボウイはテンポのちがうものをくわえたほうがいとかんがえてきょく追加ついかした[10]
  105. ^ デモテープ製作せいさく参加さんかしたスティーヴ・ジョーンズは、この時期じきアンディ・テイラー英語えいごばんはつソロアルバム『サンダー (アンディ・テイラーのアルバム)英語えいごばん』にプロデューサーとして参加さんかしていたこと[9]くわえ、滞在たいざいビザにも不備ふびがあり[10]同行どうこうできなかった。わってケヴィン・アームストロング英語えいごばんがギタリストをつとめた。
  106. ^ クライ・フォー・ラヴ」のギターソロはデモテープからサンプリングしたスティーヴ・ジョーンズのソロが使用しようされている[10]
  107. ^ アルバムカヴァーをふくめたメインヴィジュアルは、ロックアルバムカヴァー[86]やバスキアの写真しゃしん[87]著名ちょめい写真しゃしんマイケル・ハルスバンド[88]撮影さつえいした[9]
  108. ^ ジョニー・オキーフ英語えいごばんのカヴァーきょく
  109. ^ 例外れいがいもあり、イギリスITV子供こども番組ばんぐみNo .73 (イギリスのテレビ番組ばんぐみ)英語えいごばん」に出演しゅつえんしたさい様々さまざま事情じじょうかさなって苛立いらだっていたイギーは、セットとしてかざられていたテディベアを相手あいてにセックスの真似事まねごと披露ひろうし、抗議こうぎ電話でんわきょく次々つぎつぎせられる事態じたいこした[9][89]
  110. ^ 坂本さかもと希望きぼうピーター・ガブリエルだったが、ラズウェルをとおして要望ようぼうしたものの、ことわられた[54]
  111. ^ ラズウェルは、音楽おんがくキャリアを1970年代ねんだいのデトロイトで開始かいししていて、ストゥージズにつよ影響えいきょうけていた。グースレイクフェスティバル英語えいごばん出演しゅつえんしたストゥージズを当地とうちたこともあるという。一方いっぽう、イギーは『ブラー・ブラー・ブラー』のレコーディング準備じゅんびちゅう発売はつばいされた『アルバム (パブリック・イメージ・リミテッドのアルバム)英語えいごばん』をボウイとともいて、ラズウェルのプロデュースワークに感心かんしんしていた[10]
  112. ^ アメリカではビルボード総合そうごうチャート17[100]、イギリスではオフィシャル・チャーツ5[101]
  113. ^ 1991ねんにパリで収録しゅうろくされたライブ
  114. ^ イギーの半生はんせいった1998ねん制作せいさくのテレビドキュメンタリー
  115. ^ 1999ねん12月2にちベルギーブリュッセル収録しゅうろくされたライブ
  116. ^ 1981ねん11月25にちサンフランシスコ収録しゅうろくされたライブ。1983ねんこめターゲット・ビデオ英語えいごばんからリリースされた『Live in S.F.[124]』のDVD
  117. ^ ジョシュ・ホーミらとコラボレートしたポスト・ポップ・ディプレッション・ツアーの模様もよう。2016ねん5がつ13にち収録しゅうろく
  118. ^ ツアーメンバー1983:ロブ・デュプレイ英語えいごばん(ギター)、フランク・インファンテ(ギター)、ラリー・ミゼルウィッチ(ドラム)、マイケル・ペイジ(ベース)[54]
  119. ^ ツアーメンバー1987:ケヴィン・アームストロング英語えいごばん(ギター)、シェイマス・ビーゲン(キーボード/ギター)、フィル・ブッチャー(ベース)、アンディ・アンダーソン (イギリスのミュージシャン)英語えいごばん(ドラム)[54]
  120. ^ U.K.サブスのベーシスト
  121. ^ ツアーメンバー1989:シェイマス・ビーゲン(キーボード/ギター)、ポール・ガリスト(ドラム)、アルヴィン・ギブス(ベース)[ちゅう 120]アンディ・マッコイ(ギター)[54]
  122. ^ ツアーメンバー1994:ハル・クラジン(ベース)、ラリー・ミューレン (トビー・ダミット)英語えいごばん(ドラム)、エリック・シャーメルホーン英語えいごばん(ギター)[54]
  123. ^ ツアーメンバー1998:ハル・クラジン(ベース)、ラリー・ミューレン (トビー・ダミット)(ドラム)、ホワイティ・カースト英語えいごばん(ギター)、ピート・マーシャル(ギター)[54]
  124. ^ ツアーメンバー2003:ホワイティ・カースト(ギター)、ピート・マーシャル(ベース)、アレックス・カースト(ドラム)[54]
  125. ^ ザ・ストゥージズとして来日らいにち(2004ねん
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脚注きゃくちゅう

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外部がいぶリンク

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