イギー・ポップ
イギー・ポップ | |
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ザ・ストゥージズ 2016 | |
ジェームズ・ニューエル・オスターバーグ・ジュニア | |
ジャンル | |
1963 | |
レーベル | |
Iggy Pop - Official Site |
ジェームズ・ニューエル・オスターバーグ・ジュニア(James Newell Osterberg Jr.、1947
ザ・ストゥージズ
ザ・ストゥージズ
2010
2017
ローリング・ストーン
Q
2020
生 い立 ち
[ジェームズ・ニューエル・オスターバーグ・ジュニアはミシガン
2007
中学校 はアナーバーにあってそこに通 った。フォード・モーター・カンパニーの社長 の息子 と一緒 に学校 に通 い始 めたんだが、こいつは金持 ちで差別 的 な奴 だった。だが俺 にはそんな連中 に負 けない財産 があったんだ。両親 は俺 に莫大 な投資 をしてくれた。俺 はいつも彼 らに助 けてもらってたよ。両親 は俺 が興味 を持 ったものをさらに深 く知 るための手助 けを惜 しまなかったんだ。最高 レベルの援助 はトレーラーの主 寝室 を俺 に明 け渡 してくれた事 だな[12]。
ミュージシャンとして
[初期 の音楽 活動 : 1960年 - 1967年
[オスターバーグはミシガン
1965
このザ・プライム・ムーヴァーズ
アナーバーに
俺 たちはザ・ダーティ・シェイムズってバンドのコンセプトを持 ってた時期 があった。まあ、パーティで自慢 するためだけのバンドだよ。「俺 たちはザ・ダーティ・シェイムズってバンドを組 んでるんだぜ。」って他 のバンドマンに言 って回 ってたんだ。まだ演奏 なんかしちゃいなくて、ザ・ストゥージズだろうがザ・ダーティ・シェイムズだろうが似 たようなもんだった。ちゃんとバンドとして活動 しないとな、と決心 したきっかけはニューヨークに旅行 に行 った後 だ。そこでティーンエイジャーの女 の子 たちから「私 たちもバンドを組 んでるの。聞 いてみる?」と言 われたんでニュージャージーのプリンストンまで車 を飛 ばして行 ったんだ。彼女 たちの実家 の地下 室 で演奏 を聞 いたんだが、見事 なものでね。俺 たちよりもはるかに上手 かった。あれは恥 ずかしかったな[18]。
ザ・ストゥージズ: 1968年 - 1974年
[ザ・ストゥージズ: 1968年 - 1971年
[イギーたちはバンド
1968
イギーは、
ドアーズは2回 見 てるよ。最初 に見 たのは人気 が出 始 めの頃 だったけど、大 きな、大 きな、大 きな影響 を受 けたよ。ちょうど大 ヒット曲 「ハートに火 をつけて」を出 して出世 の階段 を駆 け上 っていくところで、だからこの男 、カールした髪 をオールバックにして革 ジャンを着 てドラッグに酔 っていたモリソン、にしてみるとステージは狭 過 ぎたし低 かった。全 てがふさわしくない感 じだった。本当 に面白 かった。彼 のパフォーマンスが大好 きだった。俺 の一部 は「おい、こいつはすごい。奴 は本当 に客 を怒 らせてるぜ」と思 ってた。「くそったれ、お前 ら空 っぽ空 っぽ空 っぽだ」「マスでもかいてろ」と罵倒 するモリソンに向 かって客 が押 し寄 せてた。だが一方 、こうも思 った。「彼 らがレコードをヒットさせたら、こんな騒 ぎとはおさらばだろう。だったら、俺 達 がバンドでこいつをやらない手 はない」ってね。それは天啓 だったな。「おい、これならできるぜ!」ってね。で、実際 にそうしたのさ[24]。
モリソンが
バンド
ダニー・フィールズがアンディ・ウォーホルとの
1969
セカンドアルバム『ファン・ハウス』
ドン・ガルッチ[
1970
『ファン・ハウス』が
そんなバンドにエレクトラは
イギー&ザ・ストゥージズ: 1972年 - 1974年
[ザ・ストゥージズ
1972
1972
このような
このツアーでイギーのステージングはこれまでになく
しかし、
1973
1974
8
ザ・ストゥージズを
この
1976
イギーは
1977
ソニックス・ランデヴー・バンド: 1978年
[『TV Eye:1977 ライヴ』リリース
1977
『TV Eye ライヴ』ツアー
ソニックス・ランデヴー・バンドとのコラボレーション
『キル・シティ』は1974
この
ピーター・デイヴィスは
ソニックス・ランデヴー・バンドをバックバンドにすることに
ギターはウィリアムソンに
レコーディング
『ニュー・ヴァリューズ』は
このツアーにウィリアムソンは
チャートアクションを
ツアー
ギタリストとキーボードを
レコーディング
しかし、
ボウイは「プレイ・イット・セーフ」のコーラス
この
ニュー・ヴァリューズ・ツアー・US
[アリスタは『ソルジャー』のレコーディング
ツアーは『ニュー・ヴァリューズ』のアメリカリリース
ツアーは1
ソルジャー・ツアー
[
アイヴァン・クラールはニューヨークパンク・シーンの
そのため、
この
パーティ
[『ソルジャー』のヨーロッパツアー
チャールズ・レヴィンソンは
レコーディング
1981
ヨーロッパツアーを
イギーはクラールの
パーティ・ツアーはその
アリスタからのプレッシャーとプロモーションと
今 でこそ俺 はソロアーティストとして認 められてるけど、それは俺 にとっちゃ選 んでそうなったわけじゃなく、自然 な流 れでそうなっただけだったから、まだ完全 にその状況 に慣 れちゃいなくてさ、きちんとしたプロダクションを作 り上 げるのにも手間取 ったし、ツアー中 も自分 をコントロールするのが大変 だった。気分 的 にも高低 の波 が大 きすぎたね[16]。
俺 は自分 じゃ、反抗 的 になろうなんて思 った事 は一 度 もなかった。ただ、ちゃんとやろう、自分 のやり方 でやろうって思 ってただけさ。自分 の音楽 が良 い音楽 だって事 もわかってた。ただ一 つだけ俺 にできなかったのは、業界 で責任 ある立場 にある人間 に、俺 の物 の見方 をわかってもらう事 だったね。[68]
また、それぞれのアルバムについては『ニュー・ヴァリューズ』は「
ゾンビー・バードハウス: 1982年
[フォロー・ザ・サン・ツアー
[イギーはアリスタとの
このツアーのハイライトは1981
この
それから1
ゾンビー・バードハウス
[ニューヨークに
レコーディングは、ニューヨークのブランクテープ・スタジオ[78]で
フリードマンは
イギー
休養 期間 、そしてデヴィッド・ボウイとの再会 : 1983年 - 1985年
[ブレイキング・ポイント・ツアーを
レポマン
[1983
イギーは
デヴィッド・ボウイとの再会
[1983
1983
1984
また、
ブラー・ブラー・ブラー: 1986年 - 1987年
[俺 のやったあらゆる過激 な事 は、もともと俺 の中 にあったものなんだ。ただこのところ、刺激 に頼 らずに自分 の作品 をもっと覚醒 したものにする、という新 しいやり方 を取 り入 れたんだ。10分 ほど魚 みたいにのたうち回 ってあとはひっくり返 っちゃうなんていうのじゃなく、今後 はおそらくもっと興奮 のエネルギーが長続 きするようになるだろうね[68]。
ブラー・ブラー・ブラー
[1985
レコーディング
1986
リスキー
[1987
ブラー・ブラー・ブラー以降
[その
1996
1999
2003
2010
2012
ジンジャー・ベイカーとのコラボで、ブラック・キーズのトリビュートアルバム『Black On Blues - A tribute to the Black Keys』で「Lonely Boy」をカバー。
2014
2015
ニュー・オーダーのアルバム『Music Complete』の「Stray Dog」に
2016
また、5月にジム・ジャームッシュ
2017
2018
ウィリアム・シャートナーのクリスマス・アルバム『Shatner Claus - The Christmas Album』にも
2019
9月6
2020
2
影響
[パンクのゴッドファーザーという
日本 との関係
[初 来日 は『イディオット』のプロモーションで来日 した1977年 。アルバム・プロデューサーであるデヴィッド・ボウイ同伴 での来日 だった。この時 、写真 家 の鋤 田 正義 が彼 ら2人 を原宿 のスタジオで撮影 。それが後 に『ヒーローズ』(ボウイ)と『パーティー』(イギー)のアルバム・ジャケットとなる。- 1979
年 には『ニュー・ヴァリューズ』のプロモーションで再 来日 。写真 家 の佐藤 ジンとのフォトセッション[119]を行 なう。 - 1983
年 の初 来日 公演 時 に観客 としてステージを見 ていた日本人 女性 スチを見初 め、その後 結婚 した[82](1998年 (1999年 説 あり)に離婚 )。 - 1998
年 のフジロックフェスティバルでは、熱狂 した観客 100人 以上 をイギーがステージに上 げてしまい、客 にマイクを取 られるなどパニック状態 になったが会場 が大 盛 り上 がりになった。
ディスコグラフィ
[ザ・ストゥージズ
[- 1969
年 - イギー・ポップ・アンド・ストゥージズ - 1970
年 - ファン・ハウス - 2007
年 - ザ・ウィヤードネス
イギー・アンド・ザ・ストゥージズ
[- 1973
年 - ロー・パワー (旧 邦題 :『淫 力 魔 人 』) - 2013
年 - レディ・トゥ・ダイ (ザ・ストゥージズのアルバム)
イギー・ポップ・アンド・ジェームズ・ウィリアムソン
[- 1977
年 - キル・シティ
イギー・ポップ
[- 1977
年 - イディオット - 1977
年 - ラスト・フォー・ライフ - 1979
年 - ニュー・ヴァリューズ - 1980
年 - ソルジャー - 1981
年 - パーティー (イギー・ポップのアルバム) - 1982
年 - ゾンビー・バードハウス - 1986
年 - ブラー・ブラー・ブラー - 1988
年 - インスティンクト - 1990
年 - ブリック・バイ・ブリック - 1993
年 - アメリカン・シーザー - 1996
年 - ノーティー・リトル・ドギー - 1999
年 - アヴェニューB (イギー・ポップのアルバム) - 2001
年 - ブチノメセ! - 2003
年 - スカル・リング - 2009
年 - プレリミネール - 2012
年 - アプレ (イギー・ポップのアルバム) - 2016
年 - ポスト・ポップ・ディプレッション - 2019
年 - フリー(イギー・ポップのアルバム)
DVD
[- 1991
年 - キス・マイ・ブラッド[120][注 113] - 2005
年 - ア・パッション・フォー・リビング[121][注 114] - 2005
年 - ライヴ・アット・アヴェニュー・B[122][注 115] - 2005
年 - Live San Fran 1981[123][注 116] - 2016
年 - ポスト・ポップ・ディプレッション:ライヴ・アット・ザ・ロイヤル・アルバート・ホール[125][注 117]
関連 項目
[来日 公演
[- プロモーションのみの
来日
- 1977
年 4月 (『イディオット』のプロモーション。デヴィット・ボウイ同伴 ) - 1979
年 7月 (『ニュー・ヴァリューズ』のプロモーション。)
- 1983
年 [注 118]
- 1987
年 [注 119]
- 4
月 20日 大阪 ・サンケイホール - 4
月 21日 ・22日 東京 ・日本 青年 館
- 1989
年 [注 121]
- 1
月 23日 ・24日 東京 ・中野 サンプラザ - 1
月 26日 大阪 ・サンケイホール - 1
月 28日 福岡 ・郵便 貯金 ホール
- 1994
年 [注 122]
- 1
月 22日 ・23日 川崎 ・クラブチッタ - 1
月 24日 名古屋 ・クラブクアトロ - 1
月 26日 福岡 ・クロッシングホール - 1
月 27日 ・28日 大阪 ・クラブクアトロ - 1
月 30日 ・31日 東京 渋谷 ON AIR
- 1998
年 [注 123]
- 7
月 31日 東京 ・豊洲 ベイサイドスクエア・フジ・ロック・フェスティバル'98
- 2003
年 [注 124]
- 7
月 26日 新潟 ・苗場 スキー場 ・フジ・ロック・フェスティバル'03
- 2004
年 [注 125]
- 2007
年 [注 126]
- 7
月 28日 新潟 ・苗場 スキー場 ・フジ・ロック・フェスティバル'07
注釈
[- ^
父親 はスウェーデン系 の家庭 に養子 縁組 されてオスターバーグと名乗 った[9]。 - ^
経済 的 に苦 しかった訳 ではなく、父親 が「トレイラーパークで十 分 」という考 え方 の持 ち主 だったために住 み続 けたのだという[10] - ^
彼 のステージネーム「イギー・ポップ」の「イギー」は、オスターバーグがこのバンドにいたことを知 っていたレコードショップの店長 が、彼 を「イグアナ」を略 して呼 んだことが発端 になっている[10]。 - ^ 「ポップ」は
眉 も髪 の毛 も剃 りあげたジミー・ポップという友人 の真似 をして眉 を剃 ったところ「ポップと名乗 っていいよ」と言 われたからだという[13]。 - ^ このショップには
後 にザ・ストゥージズのメンバーとなるアシュトン兄弟 やデイヴ・アレクサンダーが毎日 のように顔 を出 していたという[14]。 - ^ レイの
息子 によると、イギーはレイの自宅 の床 で寝泊 まりしながら数日 滞在 したという[15] - ^
高校 時代 から面識 はあったが、友人 としての付 き合 いが始 まったのはイギーの高校 卒業 後 だった[16]。 - ^ ロンの
弟 ということで知 り合 ったが、イギーが大学 中退 後 に勤務 していたレコードショップを訪 れてはドラムの演奏 方法 を教 えて欲 しいと頼 んでいたという[16][18]。 - ^ この
時 にイギーが担当 したのはハワイアンギター[16]。 - ^ マタニティ・ドレス、
白 いサテンのパンツ、ゴルフシューズという格好 だった[16] - ^ その
他 にステージ上 の立 ち振 る舞 いの参考 としたミュージシャンとしては、ミック・ジャガーとジェームズ・ブラウンを挙 げている[11]。 - ^ ただし、
彼 らの政治 的 な活動 には深入 りしなかった[18]。 - ^ メジャーデビューにあたり、ロン・アシュトンはバンド
名 の参考 とした「三 ばか大将 (The Three Stooges)」のモー・ハワードに連絡 し許可 を得 ている。彼 の許可 の言葉 は「三 ばかでなきゃ勝手 にしろ。」だったという[18]。 - ^ ニコはその
後 、アナーバーに帰 るイギーの後 を追 い、そこでイギーがそれまで使用 していなかったハードドラッグを教 えることになる[16]。 - ^ イギーの
名前 は「イギー・ストゥージ」とクレジットされている。 - ^
元 キングスメン、元 タッチのキーボード担当 。当時 はエレクトラでハウスプロデューサーを務 めていた[27]。 - ^ ビルボード
総合 チャートの200位 にランクインしなかった。 - ^ ベーシストのデイヴ・アレクサンダーは
過度 の飲酒 癖 が原因 で1970年 8月 に解雇 され[16]、その後 、半年 もしない期間 でジーク・ゼトナー、ジミー・レッカと入 れ替 わった。ツインギター体制 にしても、当初 はローディだったビル・チーザムに任 せたが、本人 は乗 り気 ではなく技術 面 でも問題 があったために数ヶ月 でジェームズ・ウィリアムソンと入 れ替 わっている[29]。また、スティーヴ・マッケイもイギーとの衝突 が原因 で参加 から9ヶ月 程度 で離脱 した[26] - ^ そのためにロン・アシュトンとイギーは
疎遠 になり、新 加入 のジェームズ・ウィリアムソンが新 たな作曲 パートナーとなった[16]。 - ^ この
決定 について、イギーは後 に「彼 には申 し訳 ない事 をした」という主旨 の発言 をしている[33]。 - ^
観客 の中 にセックス・ピストルズのジョン・ライドンやザ・クラッシュのミック・ジョーンズがいた[34]。 - ^ プロデューサークレジットはイギー
自身 だが、バックトラックの制作 はウィリアムソンに任 せていた[18]。 - ^ ビルボードの
総合 チャートでは最高 位 186位 で1週 のみTop 200にランクインした[37]。 - ^ 「
俺 が演 じるならチャールズ・マンソンだ」と言 って断 ったという[18]。 - ^ この
頃 のイギーは深刻 な薬物 依存 も抱 えていた。イギリス滞在 中 と帰国 直後 はそれほど酷 くはなかったが、ハリウッド滞在 中 に再度 の薬物 依存 に陥 った[9]。 - ^ キーボードのスコット・サーストンはこの
頃 加入 している[38]。 - ^ イギーはこの
時期 のことを「俺 らがロックンロールの幻 の民 として放浪 していた頃 」と語 り[33]、ウィリアムソンはツアー日程 のことを「デスマーチ」と語 っている[39]。 - ^ スコット・サーストンは「
一文 無 しという重圧 でバンドは崩壊 した。」と語 っている[40]。 - ^ この
時 のギグの模様 はアルバム『メタリック K.O.』に収録 されている。 - ^
騒動 の発端 となった暴走 族 スコーピオンズが実際 に会場 に現 れていたのかは確認 されていない[10]。 - ^ ジュリアン・ワッサーの
写真 で有名 な血 まみれになってロン・アシュトンに自分 を鞭打 たせているギグはこの頃 のもの[42][34] - ^ イギーは「
懇意 にしていたドラッグの売人 (フレディ・セスラー)が同 一人物 で、彼 との仲 を取 り持 ってくれた」と語 っている[16][44] - ^ ボウイ
自身 のアルバム『ロウ』の制作 も兼 ねた滞在 だった[46]。 - ^ ビルボード
総合 チャートで最高 位 72位 [47]、イギリスのオフィシャルチャーツで最高 位 30位 。また『イディオット』発売 後 、『ロー・パワー』がイギリスでリバイバルヒットした[48]。 - ^ ボウイがキーボード
兼 バッキングヴォーカルとして参加 している[49]。また、イギーの当時 の恋人 で写真 家 のエスター・フリードマンがツアーカメラマンを務 めている[50]。 - ^
写真 家 (当時 )。1978年 から1983年 にかけてイギーのツアー写真 やプライベート写真 を多 く撮影 した[50]。この頃 に撮影 された写真 は写真 集 「The Passenger : Iggy Pop」として2013年 に発表 されている[51]。 - ^ イギーは
後 に「自宅 を手 に入 れてから、再 び薬物 に手 を出 し始 めた。」と語 っている[16]。 - ^ 『イディオット』ツアー
終了 前後 にイギーとボウイはアルバムプロモーションのために来日 している。イギーにとって初 の訪日 だった[52]。 - ^ イギーは『イディオット』の
時 ほどボウイは制作 に関 わっていない、と語 っている[16][53]。 - ^ セイルズ
兄弟 は『イディオット』リリース後 のツアーから参加 していた[54]。 - ^ セイルズ
兄弟 はイギーが作詞 をする際 のポリシーに影響 を与 えたコメディアン、スーピー・セイルズの息子 だった[18]。 - ^
旧 邦題 : 「欲情 のロックンロール」 - ^ イギリスではその
後 も1996年 の映画 「トレインスポッティング」のオープニング曲 としてアルバムタイトル曲 [注 42]がノーカットで使用 されたことが話題 となってリバイバルヒットしている。また、同 アルバムの収録 曲 「ザ・パッセンジャー (イギー・ポップの曲 )」も1998年 にトヨタ・アベンシスのイギリスでのCMに採用 された[55]ことがきっかけとなりヒットした[48]。 - ^ イギー&ザ・ストゥージズ
末期 のメンバーだったスコット・サーストンがキーボードとして参加 した[54]。 - ^ この
時期 のボウイとのコラボレーションとしては、プロデュース作 の2枚 の他 に、『ロウ』へのイギーのコーラス参加 がある[56]。 - ^ スコット・サーストンは「タイミングが
悪 かった。タイミングが合 えばレコーディングまで実行 できたと思 うが、そのような流 れにできなかった。」と後 に語 っている。[10] - ^ ウィリアムソンによれば『キル・シティ』
製作 中 にウィリアムソンがイギーへの連絡 を希望 しても繋 ごうとしなかったという[10]。 - ^ ウィリアムソンは「ドント・レット・ミー・ダウン」と「エンドレス・シー」の2
曲 でギターを弾 いている[29]。 - ^ イギーとリッチキッズのエージェントが
同 一人物 (ジョン・ギディングス)で、イギーはその人物 からマトロックを推薦 された[59] - ^ イギリスのオフィシャルチャーツで
最高 位 60位 [48] - ^ アメリカではクライヴ・デイヴィスの
意向 もあってこの時点 ではリリースされず、その時期 も決 めかねていた[10]。 - ^ レコーディング
前 にイギーはベン・エドモンズからA&R部門 の統括 を引 き継 いだターキン・ゴッチから「今 の最新 だったらニュー・ウェイヴ調 」と提案 されている[9]。 - ^ 『
勝手 にしやがれ!!』の収録 曲 は半分 近 くがマトロックによって作曲 された。詳 しくは同 アルバムの項目 を参照 。 - ^ この
頃 のウィリアムソンは音楽 業界 でキャリアを積 むことを諦 め、公立 ポモナ大学 でコンピューターエンジニアリングの勉強 をしていた。詳 しくはジェームズ・ウィリアムソンの項 を参照 。 - ^
一時期 、ロンドン動物 園 でアルバイトをしていた[10]。 - ^ ウィリアムソンが48トラック
録音 に拘 ったことも一因 だという[10][9]。この件 についてウィリアムソンは後 に「レコード会社 からイギーを最新 (ニュー・ウェイヴ)にしてくれと提案 されていたので、最新 の機材 に拘 った。最新 機材 を操作 するのは楽 しかった。」と語 っている[29]。イギーはウィリアムソンのこの拘 りが不満 で「お前 はフィル・スペクターか?これは俺 のアルバムだ。」と抗議 し、ウィリアムソン解雇 の一因 となった[9]。 - ^ アイヴァン・クラールは
当時 のアリスタの看板 ミュージシャンだったパティ・スミスの作曲 パートナーでバンドマスターも務 めていたが、この頃 のパティ・スミスはフレッド・スミスとの交際 を優先 していてバンド活動 が停滞 している状態 だった[9]。 - ^ 「プレイ・イット・セーフ」には
同 じロックフィールド・スタジオでセカンドアルバム『リアル・トゥ・リアル・カコフォニー』をレコーディングしていたシンプル・マインズも同 じアリスタ所属 だったことからコーラス参加 している[10]。 - ^ クラールによれば、レコーディング
参加 初日 からバンドマスターとして振 る舞 い始 めたクラールに対 し、ボウイから「イギーは私 の友達 だが、私 の言 うことは聞 かない。だから、後 はよろしく頼 む。」と耳打 ちされたと言 う。実際 、この後 からクラールはイギーの右腕 として様々 な要求 に応 えていくことになる[9]。 - ^ イギーのマネージャー、ビーター・デイヴィスはマネジメントを
放棄 して「(ウィリアムソンに続 いて)次 は自分 がクビになる番 だ。」と嘆 くだけだったという[10]。 - ^ プログレッシブ・ロックバンド、スプリング (ブログレッシブ・ロックバンド)の
元 メンバー。この後 、ロバート・プラントやルー・グラムの常連 プロデューサーとして活躍 する[60]。 - ^ キーボードのバリー・アンドリュースもレコーディング
終盤 に干 されるような扱 いを受 けたため、ツアーには同行 しなかった。キーボードはアイヴァン・クラールがギター兼任 で務 めた[10]。 - ^ イギーはツアーの
開始 に合 わせて、西 ベルリンを離 れてニューヨークに引 っ越 している[9]。 - ^ ブライアン・ジェームズはこの
時 のツアーの様子 を「ひたすらホテルとステージを往復 しているだけで、途中 からどのホテルにいるのか、それが何 時 なのかさえも分 からなくなるような状況 だった。」と語 っている[9]。 - ^ クラールによると、
当時 のイギーはクラールも含 め、雇用 関係 にあるバックバンドのメンバーは対等 なバンドメイトとして扱 わない節 があり、ブライアンはその点 についても不満 を漏 らしていたという[10]。 - ^ この
後 にメンバーとなるマイケル・ペイジによれば、この時期 のイギーはライブのチケット売上 が主 な収入 源 だったこともスケジュールがタイトになった原因 だという。イギーの集客 力 はアルバムセールスに関係 なく高 かったため、ブッキングエージェントも多数 の会場 確保 が可能 だった[10]。 - ^ ロックフィールド・スタジオに
詰 めていたアリスタのスタッフ(ジュリー・フッカー)は「レコーディングの終了 は救 いだった。」と語 っている[10]。 - ^
元 ニューヨーク・ドールズのシルヴェイン・シルヴェインが結成 したザ・クリミナルズを経 て、チャビー・チェッカー、ジェリー・リー・ルイスのバックバンドに在籍 していた。またストゥージズを解散 してロサンゼルスに住 んでいた頃 のイギーとは面識 があった。ペイジは後 に「今 のバンドメンバーは外国 生 まればかりだから1人 くらいアメリカ生 まれを呼 びたい。」とイギーがい出 したから、自分 は演奏 を聴 かせていないのに合格 した、と語 っている[63]。 - ^ アメリカのビルボードでは
最高 位 126位 [64]、イギリスのオフィシャルチャーツでは最高 位 62位 [48]だった。 - ^ フィル・フィリップスの「シー・オブ・ラブ」とジ・アウトサイダーズの「タイム・ウォント・レット・ミー」。
- ^ モンキーズのソングライターチーム「トミー&ボイス」のメンバーとして
著名 だが、この頃 は50’sロックンロールのリバイバルバンド、ダーツ (バンド)をプロデュースし、ヒットさせていた。 - ^ これらのツアーはイギーの
収入 確保 が主 な目的 だった。幸 いイギーの集客 力 は高 かったため、ブッキングエージェントから経費 の前借 りが可能 だった[9]。 - ^ 2020
年 現在 、マネジメント会社 セントラル・ヨーロピアン・オーガニゼーションの代表 。イギーの活動 全般 のマネジメントを行 っている[65]。リッチ・キッズのロードマネージャーだったが、バンド解散 後 、元 メンバーのグレン・マトロックがイギーのバンドに参加 した際 に誘 われた。以降 、長 くイギーのロードマネージャーを務 めることになった[9][10]。 - ^ ロン・アシュトンによると、イギーの
扱 いについてクラールから電話 で相談 があったので「イギーはいつも自分 中心 でいたがるから、やりたいようにやらせるしかない。」と答 えたという[9][66]。 - ^ クラールによると、
後 にイギーがボウイと一緒 にいるところに偶然 出 くわした際 、ボウイから「君 はイギーに借 りがあるらしいな」と責 められたという[9]。 - ^ ビルボードチャート
最高 位 166位 [67]、オフィシャルチャーツでは100位 に入 らず正確 な順位 は公表 されていない[48]。 - ^ イギーにプレッシャーをかけていたものの、アリスタ
内 では庇護 者 でもあったチャールズ・レヴィンソンがWEA(当時 )に移籍 していたことも影響 した[10]。 - ^
当時 のアリスタのA&R部門 の統括 者 ターキン・ゴッチは「イギーから信頼 を得 る努力 をしようとしなかったこちらにも問題 があったと思 う」と後 に語 っている[10]。 - ^ ゲイリー・ヴァレンタインは
後 に「イギーは確 かにパンクのゴッドファーザーだったが、当時 のアメリカにはそもそもパンクスが地方 にいなかった。1つの地方 都市 にせいぜい数 百 人 単位 程度 だった。」と語 り、この肩書 きは当時 のアメリカのマーケットに向 かなかったのではないか、という見解 を示 した[9]。 - ^ 1990
年代 までは評価 の低 かったアリスタ時代 の作品 だが[69]、2000年 にアリスタがリマスタリング盤 を再発 したことをきっかけにピクシーズのブラック・フランシスが『ニュー・ヴァリューズ』を自身 のベストアルバムに挙 げるなど評価 が高 まっている[70]。また、豪華 なメンバーが揃 ったこの当時 のライブ盤 が英 イージーアクションレーベルから多数 リリースされている(『ホエア・ザ・フェイシズ・サンシャイン』[71]、『カリフォルニア・ヒッチハイク』[72]など。)。 - ^ デヴィッド・ボウイが『スケアリー・モンスターズ』のリリースに
伴 うツアーを中止 したため、スケジュールに空 きができていた。 - ^ キース・リチャーズの
誘 いで参加 した。また、この時 はドラマーのダグラス・バウンが離脱 していたが、代役 がブロンディのドラマー、クレム・バークで、かなり豪華 なメンバー構成 となっていた[9]。 - ^ クレム・バークによると、キース・リチャーズは
気 さくな態度 を取 ってくれたが、ミック・ジャガーは挨拶 一 つしてくれなかったため、イギーをかなり怒 らせていたという[73]。 - ^ ライター、ヘアブラシ、スニーカー、
帽子 、ブラジャー、コルセットといったものが記載 されていたという[74] - ^ ビル・グレアムは
自身 の回顧 録 で「ローリング・ストーンズのサポートアクトの中 で最 も印象 に残 った」「世界 で最 もステージに物 が投 げ込 まれたライブ」として、この件 を紹介 している[74]。 - ^ ローリング・ストーンズのサポートアクトを
務 める直前 にサンフランシスコで行 われたライブが、イギーのライブとしては初 めて全編 映像 化 されている。「Live in S.F.[75]」 - ^ アロマーはいつビールを
浴 びても大丈夫 なようにいつも革 ジャンを着 ていた[10]。 - ^ ブロンディはファーストアルバム『
妖女 ブロンディ』リリース後 の全米 ツアー(1977)でイギーのサポートアクトを務 めていた[77]ため、全員 面識 があった。イギーのバックバンドにブロンディのメンバーがよく参加 しているのはこのような理由 もあった[73]。 - ^ ロブ・デュプレイがギターとキーボード、クレム・バークがドラムスという
点 はツアーと変 わらなかったが、ベースはプロデューサーのクリス・ステインが兼 ねた。 - ^ ハイチではドラッグが
安価 に手 に入 ったためにイギーは滞在 中 ずっと酩酊 状態 だった。そのため、ホテルで下半身 を露出 し、クラブで叫 び出 して放 り出 されるなどの騒動 を繰 り返 しながら滞在 費 を乱費 し続 けた[9]。加 えて交通 事故 にも遭 って治療 費 も必要 になったことから、フリードマンが申 し入 れた借金 を引 き受 ける知人 が見 つかるまで、帰国 費用 を捻出 できなかった[10]。 - ^ フリードマンは、
2人 でブードゥーの儀式 を見学 した際 、イギーが儀式 に乱入 して司祭 を怒 らせたため、呪 いをかけられたことが原因 と語 っている[79]。 - ^ イギーとの
間 に一 子 ・エリックを儲 けている[10]。 - ^
病院 はダニー・シュガーマンが手配 した。イギーとシュガーマンは『キル・シティ』時代 から面識 があった[10]。 - ^ 『ゾンビー・バードハウス』の
評価 は高 かったが、小規模 なインディーレーベルからのリリースだったため、大 きな収入 に繋 がる大 規模 セールスを期待 できなかった[10]。 - ^ ミニストリーのアル・ジュールゲンセン、カーズのリック・オケイセックの
2人 の協力 の下 にデモを作成 したが契約 には繋 がらなかった[10]。 - ^ それまでプロモーションとして
来日 したことはあったが、ライブは初 だった。 - ^ アメリカ
国内 でのツアー中 は比較的 クリーンな状態 だったが、アジア・オセアニア方面 へのツアー中 に大量 のアルコール飲料 を飲 むようになっていた[10]。 - ^ アサノ・スチはイギーが
入院 中 の施設 に通 い続 け、お互 いの仲 を深 めていったという[10]。 - ^ スティーヴ・ジョーンズ、クレム・バーク、ナイジェル・ハリソン、1983
年 の来日 メンバーだったフランク・インファンテ。チェッカード・パストには『ラスト・フォー・ライフ』のレコーディングメンバーだったトニー・セイルズも参加 していたが、「レポマン」のバックバンドには選 ばれなかった[9]。 - ^ シュガーマンは「レポマン」に
音楽 アドバイザーという肩書 で参加 していた。チェッカード・パストもシュガーマンがマネジメントしていたバンドだった[10]。 - ^
音楽 評論 家 のニック・ケントは、このヒットでイギーはアメリカ合衆国 内国 歳入 庁 に750,000ドルを支払 うことになったと語 っている[9]。当時 のアメリカの国税 率 [84]から換算 すると、このヒットでもたらされた収入 は1,500,000ドルということになる。 - ^ 『トゥナイト』のプロデューサー、ヒュー・パジャムは「この
時 のボウイはスタジオではタバコを吹 かすばかりでやる気 を見 せてくれなかったが、イギーが参加 した時 だけは積極 的 に仕事 に取 り組 んでくれた。イギーがもう少 し長 くいてくれたら、あのアルバムは傑作 になったと思 う。」と語 っている[10]。 - ^ マリアンヌ・フェイスフル、ジョー・ジャクソン、ピーター・トッシュ、ジム・キャロルのマネージャーでもあった。
伝記 「ギミー・デンジャー」では「ある世代 にとっての反抗 のアイコンのうち、次 の世代 にとっての商品 となりうる存在 を見抜 く力 に長 けていた」と評 している[9]。もう1つの伝記 「オープン・アップ・アンド・ブリード」では、「イギーのプライベートな面 でも面倒 を見 て、プロフェッショナルに振 る舞 い続 けるための援助 を惜 しまなかった。」と評 している[10]。 - ^ デモテープの
曲 はミドルテンポのものが多 かったため、ボウイはテンポの違 うものを加 えたほうが良 いと考 えて曲 を追加 した[10]。 - ^ デモテープ
製作 に参加 したスティーヴ・ジョーンズは、この時期 、アンディ・テイラーの初 ソロアルバム『サンダー (アンディ・テイラーのアルバム)』にプロデューサーとして参加 していたこと[9]に加 え、滞在 ビザにも不備 があり[10]、同行 できなかった。代 わってケヴィン・アームストロングがギタリストを務 めた。 - ^ 「クライ・フォー・ラヴ」のギターソロはデモテープからサンプリングしたスティーヴ・ジョーンズのソロが
使用 されている[10]。 - ^ アルバムカヴァーを
含 めたメインヴィジュアルは、ロックアルバムカヴァー[86]やバスキアの写真 [87]で著名 な写真 家 マイケル・ハルスバンド[88]が撮影 した[9]。 - ^ ジョニー・オキーフのカヴァー
曲 。 - ^
例外 もあり、イギリスITVの子供 番組 「No .73 (イギリスのテレビ番組 )」に出演 した際 、様々 な事情 が重 なって苛立 っていたイギーは、セットとして飾 られていたテディベアを相手 にセックスの真似事 を披露 し、抗議 の電話 が局 に次々 と寄 せられる事態 を引 き起 こした[9][89]。 - ^
坂本 の希望 はピーター・ガブリエルだったが、ラズウェルを通 して要望 したものの、断 られた[54]。 - ^ ラズウェルは、
音楽 キャリアを1970年代 のデトロイトで開始 していて、ストゥージズに強 い影響 を受 けていた。グースレイクフェスティバルに出演 したストゥージズを当地 で見 たこともあるという。一方 、イギーは『ブラー・ブラー・ブラー』のレコーディング準備 中 に発売 された『アルバム (パブリック・イメージ・リミテッドのアルバム)』をボウイと共 に聴 いて、ラズウェルのプロデュースワークに感心 していた[10]。 - ^ アメリカではビルボード
総合 チャート17位 [100]、イギリスではオフィシャル・チャーツ5位 [101] - ^ 1991
年 にパリで収録 されたライブ - ^ イギーの
半生 を追 った1998年 制作 のテレビドキュメンタリー - ^ 1999
年 12月2日 にベルギーのブリュッセルで収録 されたライブ - ^ 1981
年 11月25日 にサンフランシスコで収録 されたライブ。1983年 に米 ターゲット・ビデオからリリースされた『Live in S.F.[124]』のDVD化 - ^ ジョシュ・ホーミらとコラボレートしたポスト・ポップ・ディプレッション・ツアーの
模様 。2016年 5月 13日 収録 - ^ ツアーメンバー1983:ロブ・デュプレイ(ギター)、フランク・インファンテ(ギター)、ラリー・ミゼルウィッチ(ドラム)、マイケル・ペイジ(ベース)[54]
- ^ ツアーメンバー1987:ケヴィン・アームストロング(ギター)、シェイマス・ビーゲン(キーボード/ギター)、フィル・ブッチャー(ベース)、アンディ・アンダーソン (イギリスのミュージシャン)(ドラム)[54]
- ^ U.K.サブスのベーシスト
- ^ ツアーメンバー1989:シェイマス・ビーゲン(キーボード/ギター)、ポール・ガリスト(ドラム)、アルヴィン・ギブス(ベース)[
注 120]、アンディ・マッコイ(ギター)[54] - ^ ツアーメンバー1994:ハル・クラジン(ベース)、ラリー・ミューレン (トビー・ダミット)(ドラム)、エリック・シャーメルホーン(ギター)[54]
- ^ ツアーメンバー1998:ハル・クラジン(ベース)、ラリー・ミューレン (トビー・ダミット)(ドラム)、ホワイティ・カースト(ギター)、ピート・マーシャル(ギター)[54]
- ^ ツアーメンバー2003:ホワイティ・カースト(ギター)、ピート・マーシャル(ベース)、アレックス・カースト(ドラム)[54]
- ^ ザ・ストゥージズとして
来日 (2004年 ) - ^ ザ・ストゥージズとして
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