クヴァーケンブリュック旧 きゅう 市街 しがい の街並 まちな みと聖 きよし ジルヴェスター教会 きょうかい の塔 とう
クヴァーケンブリュック (ドイツ語 ご : Quakenbrück , [kvaːk̩nˈbrʏk] [2] ) は、ドイツ連邦 れんぽう 共和 きょうわ 国 こく ニーダーザクセン州 しゅう オスナブリュック郡 ぐん 北部 ほくぶ のザムトゲマインデ・アルトラント を構成 こうせい する市 し で、バートベルゲン 、メンスラーゲ 、ノルトルプ とともに構成 こうせい する同 どう ザムトゲマインデの本部 ほんぶ 所在地 しょざいち である。本 ほん 市 し はハーゼ川 がわ (ドイツ語 ご 版 ばん 、英語 えいご 版 ばん ) 沿 そ いに位置 いち している。クヴァーケンブリュックはオスナブリュッカー・ノルトラントとオルデンブルガー・ミュンスターラントとの間 あいだ に位置 いち するアルトラントの歴史 れきし 的 てき ・経済 けいざい 的 てき ・文化 ぶんか 的 てき 中心 ちゅうしん である。
クヴァーケンブリュックは1235年 ねん に初 はじ めて文献 ぶんけん に記録 きろく されている。本 ほん 市 し はブルクマン(城 しろ 兵 へい )の街 まち であり、後 のち にはハンザ都市 とし でもあった。ブルクマンスホーフに住 す んだ城 しろ 兵 へい は、かつてオスナブリュック司教 しきょう 領 りょう の北 きた の防衛 ぼうえい 拠点 きょてん の役割 やくわり を負 お った本市 もといち の城 しろ の防衛 ぼうえい にあたった。
本市 もといち の象徴 しょうちょう 的 てき 建造 けんぞう 物 ぶつ は福音 ふくいん 主義 しゅぎ のジルヴェスター教会 きょうかい 、カトリックのマリエン教会 きょうかい 、かつて5つあった市 し 門 もん のうち唯一 ゆいいつ 現存 げんそん するホーエ・プフォルテである。歴史 れきし 的 てき 旧 きゅう 市街 しがい は、約 やく 100棟 むね の様々 さまざま な時代 じだい の木組 きぐ み建築 けんちく を特徴 とくちょう とする。
この街 まち は2010年 ねん に創設 そうせつ 775年 ねん を祝 いわ った。
クヴァーケンブリュック周辺 しゅうへん 地図 ちず
クヴァーケンブリュックは北 きた ドイツ低地 ていち 内 うち の、アルトラント沼沢 しょうたく 地 ち の中心 ちゅうしん に位置 いち する。ここは谷 たに の砂地 すなじ の土地 とち と湿 しめ った低地 ていち に細分 さいぶん される平地 ひらち である[3] 。南 みなみ のトイトブルクの森 もり から流 なが れてくるハーゼ川 がわ は、クロッペンブルガー・ゲーストに至 いた り、その登 のぼ り勾配 こうばい のために西向 にしむ きに流 ながれ 路 ろ を変 か える[4] 。ハーゼ川 がわ が分岐 ぶんき して、北 きた のエムス=フント=ゲーストの尾根 おね を迂回 うかい するために川筋 かわすじ が西 にし に曲 ま がる辺 あた りにクヴァーケンブリュックがある。
都市 とし 文書 ぶんしょ 官 かん のハービヒは1700年 ねん 頃 ごろ にこの街 まち の立地 りっち について以下 いか のように記 しる している。
そしてこの街 まち が大変 たいへん 良 よ い場所 ばしょ に位置 いち していることを書 か き留 と めておく。ハーゼ川 がわ は、この街 まち のすぐ上流 じょうりゅう 側 がわ で6本 ほん の流 なが れに分岐 ぶんき して、流 なが れており、すべての不潔 ふけつ なものを流 なが し去 さ る。また、多 おお くの橋 はし が架 か けられている。
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ハインリヒ・ベーニング、Quakenbrück. Geschichte einer norddeutschen Kleinstadt [5]
第 だい 三紀 みき の高地 こうち の北側 きたがわ に位置 いち する低地 ていち 内 ない 、ハーゼ川 がわ の氷河 ひょうが 谷 だに では勾配 こうばい 差 さ が小 ちい さいため内陸 ないりく デルタ(ドイツ語 ご 版 ばん 、英語 えいご 版 ばん ) が形成 けいせい されている。内陸 ないりく デルタの土地 とち は、その大 だい 部分 ぶぶん がアルトラントに位置 いち し[6] 、氷 こおり 期 き の間 あいだ に氷河 ひょうが から融 と け出 だ した水 みず の作用 さよう によって生 しょう じた堆積 たいせき 物 ぶつ で主 おも に形成 けいせい されている。このデルタは17世紀 せいき 以降 いこう 人 じん の手 て によってその姿 すがた や大 おお きさを大 おお きく変 か えている。運河 うんが が造 つく られ、排水 はいすい がなされ、川 かわ には堤防 ていぼう や堰 せき が建設 けんせつ された。特 とく にシュッツェンホーフ近 ちか くの越 こし 水口 みずぐち 建設 けんせつ とグローセ・ハーゼ川 がわ (ハーゼ川本 かわもと 流 りゅう )の迂回 うかい 工事 こうじ によって、1683年 ねん 以降 いこう クヴァーケンブリュック旧 きゅう 市街 しがい は洪水 こうずい から護 まも られている。
ボーリング 調査 ちょうさ の結果 けっか は、最 さい 上層 じょうそう がローム 質 しつ および砂 すな 質 しつ の更新 こうしん 世 よ の堆積 たいせき 物 ぶつ からなることを示 しめ している。最 さい 上層 じょうそう の厚 あつ さはおよそ 5 -7 メートルであることを示 しめ している。この層 そう の下 した には約 やく 10 メートルの厚 あつ さのローム質 しつ および泥 どろ 灰 はい 質 しつ の堆積 たいせき 層 そう がある。25 - 30 メートルの深 ふか さにある砂 すな 質 しつ の地層 ちそう は、地下水 ちかすい の豊 ゆた かな帯 おび 水 すい 層 そう を形成 けいせい している。帯 おび 水 すい 層 そう の最 もっと も浅 あさ い箇所 かしょ は 2 - 6 メートルの深 ふか さにある[7] 。
この街 まち は、何 なに 世紀 せいき もの間 あいだ 半円 はんえん 形 がた に発展 はってん してきた。これは、マルクト広場 ひろば の北 きた わずか 500 メートルをオルデンブルガー・ラント (ドイツ語 ご 版 ばん ) との国境 こっきょう があり、北側 きたがわ への発展 はってん は不可能 ふかのう であったためである。1972年 ねん の地域 ちいき 再編 さいへん によって、それまでエッセン (オルデンブルク) (ドイツ語 ご 版 ばん 、英語 えいご 版 ばん ) に属 ぞく していたヘンゲラーゲが合併 がっぺい したことでこの状況 じょうきょう は解消 かいしょう した。南 みなみ は市内 しない を西 にし に向 む かって流 なが れるクライネ・ハーゼ川 かわ が自然 しぜん の境界 きょうかい となっていたが、中世 ちゅうせい 初期 しょき にはすでに橋 はし が架 か けられた。ここには衛星 えいせい 集落 しゅうらく 「アントーニオルト」が発展 はってん した。
半円 はんえん 形 がた の街 まち の形状 けいじょう は現在 げんざい もはっきりと認識 にんしき でき、街 まち の西 にし 、北 きた 、東 ひがし を通 とお る連邦 れんぽう 道 どう B68号線 ごうせん によって一層 いっそう 強調 きょうちょう されている。連邦 れんぽう 道 どう を挟 はさ んで北東 ほくとう 側 がわ がハーケンカンプ地区 ちく である。アルトシュタット(旧 きゅう 市街 しがい )から鉄道 てつどう で分 わ けられた南西 なんせい 側 がわ 部分 ぶぶん が20世紀 せいき 初 はじ めに建設 けんせつ されたノイシュタット(新 しん 市街 しがい )である。
市域 しいき の南北 なんぼく の最大 さいだい 幅 はば は約 やく 5.0 キロメートル、東西 とうざい 軸 じく のそれは約 やく 7.0 キロメートルである。
クヴァーケンブリュックの主要 しゅよう 部 ぶ 地図 ちず
市域 しいき は以下 いか の地区 ちく で構成 こうせい されている: アルトシュタット(旧 きゅう 市街 しがい 、人口 じんこう 約 やく 4,000人 にん )、ノイシュタット(新 しん 市街 しがい 、約 やく 5,000人 にん )、ハーケンカンプ(約 やく 2,500人 にん )、ヘンゲラーゲ(約 やく 2,000人 にん )、アントーニオルト、グート・フェール、エアホールングスゲビート・シュッツェンホーフ(シュッツェンホーフ保養 ほよう 地 ち )[8] 。
クヴァーケンブリュックの「アルトシュタット」は五角形 ごかっけい のマルクト広場 ひろば の周囲 しゅうい に集 あつ まっており、ランゲ通 どお りをメインストリートとしている。アルトシュタット全域 ぜんいき は、歩行 ほこう の速度 そくど で自動車 じどうしゃ の通行 つうこう が許 ゆる されている。ランゲ通 どお りは一方 いっぽう 通行 つうこう で、自動車 じどうしゃ レーン、自転車 じてんしゃ レーン、歩行 ほこう 者 しゃ レーンに分 わ かれている。一段 いちだん 高 たか くなっている歩行 ほこう 者 しゃ レーンは色分 いろわ けされて示 しめ されている。歩行 ほこう 者 しゃ 専用 せんよう 地区 ちく の整備 せいび は放棄 ほうき されている。
1348年 ねん にハンセン病 はんせんびょう とペスト がこの街 まち を襲 おそ った時 とき 、クライネ・ハーゼ川 がわ の対岸 たいがん を通 とお るシュタイン通 どお りのシュタイン門外 もんがい に聖 せい アントーニ施療 せりょう 院 いん が開設 かいせつ された。この周辺 しゅうへん はその後 ご たちまち発展 はってん し、「ザンクト・アントーニ・ハルベ・シュタット」と呼 よ ばれる衛星 えいせい 都市 とし となった。「ハルベ・シュタット」(半 はん 都市 とし )とは、そこに住 す む住民 じゅうみん が住民 じゅうみん 集会 しゅうかい で半 はん 票 ひょう の投票 とうひょう 権 けん を行使 こうし できる地区 ちく で、内 うち 市街 しがい の城 しろ 兵 へい によるこの衛星 えいせい 都市 とし に対 たい する措置 そち を否決 ひけつ できない状態 じょうたい を指 さ す概念 がいねん である。1398年 ねん には、シュタイン通 どお りに対 たい してザンクト・アントーニオルト、5つの市 し 門 もん のうち南 みなみ の門 もん であるシュタイン門 もん に対 たい してアントーニ門 もん という呼称 こしょう が定着 ていちゃく した。
かつては「ヴィーラーゲ」と呼 よ ばた北西 ほくせい 部 ぶ の「ヘンゲラーゲ」は、グート・フェールの領域 りょういき に建設 けんせつ された。この地区 ちく は1972年 ねん までオルデンブルガー・ラントに属 ぞく しており、クヴァーケンブリュックの市域 しいき に棘 とげ のように張 は り出 だ してクヴァーケンブリュックが北西 ほくせい 方向 ほうこう に広 ひろ がるのを長 なが らく阻止 そし していた。
ノイシュタットの発展 はってん は1920年代 ねんだい に始 はじ まった。鉄道 てつどう の南西 なんせい 側 がわ 約 やく 250 ヘクタール以上 いじょう のメルシュラントとよばれる無人 むじん の湿地 しっち に飛行場 ひこうじょう が造 つく られ、1935年 ねん に空軍 くうぐん 基地 きち に拡充 かくじゅう された。第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん 中 ちゅう には飛行機 ひこうき 整備 せいび 工場 こうじょう が設 もう けられた。1945年 ねん にイギリス軍 ぐん によって占領 せんりょう され、同 おな じ年 ねん にポーランド軍 ぐん に引 ひ き渡 わた された。1947年 ねん 末 まつ にこの土地 とち は占領 せんりょう 軍 ぐん 兵士 へいし から解放 かいほう され、1948年 ねん から軍事 ぐんじ 施設 しせつ の撤去 てっきょ が始 はじ まった。拡充 かくじゅう された軍事 ぐんじ 施設 しせつ の多 おお くの建物 たてもの が保存 ほぞん され、企業 きぎょう がこれに入居 にゅうきょ した。かつての軍事 ぐんじ 病院 びょういん 地区 ちく は民間 みんかん 病院 びょういん となり、東 ひがし プロイセン のレッツェン(現在 げんざい のギジツコ )で1909年 ねん に創設 そうせつ された婦人 ふじん 社会 しゃかい 奉仕 ほうし 団 だん 母 はは の家 いえ ベターニエンもこうした建物 たてもの に入居 にゅうきょ した。1948年 ねん から1973年 ねん まで兵舎 へいしゃ の建物 たてもの にはブレーメン 上級 じょうきゅう 郵政 ゆうせい 局 きょく の郵便 ゆうびん 学校 がっこう が入居 にゅうきょ していた。宿営 しゅくえい は主 おも に民間 みんかん 人 じん の居室 きょしつ として利用 りよう された。これに隣接 りんせつ する周辺 しゅうへん 地域 ちいき に集落 しゅうらく が形成 けいせい されたことが新 あら たな市区 しく の成立 せいりつ に寄与 きよ した。
シュッツェンホーフ・レジャー地区 ちく は、1847年 ねん にクヴァーケンブリュック射撃 しゃげき 協会 きょうかい 1589 e.V. によって市 し の東部 とうぶ 、ハーゼ川越 かわごえ 水口 みずぐち の近 ちか くに宿泊 しゅくはく 施設 しせつ を有 ゆう する射撃 しゃげき 場 じょう を設 もう けたことに始 はじ まる。ここはその後 ご すぐにハイキング の目的 もくてき 地 ち となり、「シャウプラッツ・ファーターレンディシャー・フェアアンシュタルトゥンゲン」(直訳 ちょくやく すると「愛国 あいこく 的 てき 行事 ぎょうじ 開催 かいさい 場 じょう 」)に発展 はってん した。広大 こうだい な公園 こうえん 内 ない の約 やく 2 キロメートルにおよぶオークの並木道 なみきみち をアプローチに持 も つローマ風 ふう の建物 たてもの は、1970年代 ねんだい に解体 かいたい され、カフェ=レストラン、テニスコートやミニゴルフ場 じょう を備 そな えた近代 きんだい 的 てき な建物 たてもの に建 た て替 か えられた。だがこの建物 たてもの は先代 せんだい の建物 たてもの に比 くら べて人気 にんき があるとは言 い えない[9] 。それでもここは、湖 みずうみ に近 ちか く、様々 さまざま なスポーツ施設 しせつ が充実 じゅうじつ した、広大 こうだい で、多 おお くの人 ひと が訪 おとず れるレジャー施設 しせつ に発展 はってん した。射撃 しゃげき 場 じょう では毎年 まいとし 射撃 しゃげき 祭 さい が開催 かいさい される。
隣接 りんせつ する市町村 しちょうそん [ 編集 へんしゅう ]
クヴァーケンブリュックは、北 きた はアッドルプ村 むら のあるエッセン (オルデンブルク) (ドイツ語 ご 版 ばん 、英語 えいご 版 ばん ) (約 やく 6 キロメートル)、東 ひがし はディンクラーゲ (ドイツ語 ご 版 ばん 、英語 えいご 版 ばん ) (13 キロメートル)、南 みなみ はバートベルゲン (5 キロメートル)、西 にし はメンスラーゲ (12 キロメートル) と境 さかい を接 せっ する。
バートベルゲンとメンスラーゲは、クヴァーケンブリュックおよびノルトルプ とともにオスナブリュック郡 ぐん 内 うち でザムトゲマインデ・アルトラント を形成 けいせい している。ディンクラーゲはフェヒタ郡 ぐん (ドイツ語 ご 版 ばん 、英語 えいご 版 ばん ) 、エッセン (オルデンブルク) はクロッペンブルク郡 ぐん (ドイツ語 ご 版 ばん 、英語 えいご 版 ばん ) に属 ぞく す。
クヴァーケンブリュックは、北 きた 海岸 かいがん の海洋 かいよう 性 せい 気候 きこう から南部 なんぶ および東部 とうぶ の大陸 たいりく 性 せい 気候 きこう への移行 いこう 部 ぶ に位置 いち するニーダーザクセンの温帯 おんたい 気候 きこう 域 いき に属 ぞく しており、北海 ほっかい からの湿 しめ った北西 ほくせい 風 ふう により影響 えいきょう を受 う ける海岸 かいがん 性 せい 気候 きこう の特徴 とくちょう を持 も つ。
クヴァーケンブリュックの年間 ねんかん 平均 へいきん 気温 きおん は 8.5 - 9.0 ℃、年間 ねんかん 降水 こうすい 量 りょう は約 やく 616 mm である(ドイツ全土 ぜんど の平均 へいきん 年間 ねんかん 降水 こうすい 量 りょう は約 やく 800 mm)。最 もっと も暖 あたた かい月 つき は7月 がつ と8月 がつ で、その平均 へいきん 気温 きおん は 17.2 ℃ および 16.9 ℃ である。最 もっと も寒 さむ いのは1月と2月 がつ で、平均 へいきん 気温 きおん は 1.6 ℃ と 2.2 ℃ である。最 もっと も多 おお くの降水 こうすい があるのは6月と7月 がつ で平均 へいきん 月間 げっかん 降水 こうすい 量 りょう は 69 mm および 75 mm、最 もっと も少 すく ないのは2月と3月 がつ で 36 mm と 42 mm である。5月から8月 がつ までの間 あいだ に平均 へいきん 20 -25日 にち の夏 なつ 日 び がある。雨 あめ の日数 にっすう は12月が10日 とおか で最 もっと も多 おお いが、降水 こうすい 量 りょう 49 mm は平均 へいきん 程度 ていど である。
また、クヴァーケンブリュック地域 ちいき とベルゼンブリュック地域 ちいき を比較 ひかく すると、前者 ぜんしゃ の方 ほう が降水 こうすい 量 りょう が少 すく ないことに注意 ちゅうい すべきである。さらに 40 キロメートル西南 せいなん 西 にし のエムスラント (ドイツ語 ご 版 ばん 、英語 えいご 版 ばん ) に位置 いち するリンゲン における平均 へいきん 年間 ねんかん 降水 こうすい 量 りょう の長期 ちょうき 平均 へいきん 値 ち は 789 mm で、200 mm 近 ちか い差 さ がある。こうした降水 こうすい 量 りょう 分布 ぶんぷ は、おそらく一部 いちぶ は、この地域 ちいき の地理 ちり 的 てき 環境 かんきょう に原因 げんいん がある。クヴァーケンブリュックの南西 なんせい に、氷河期 ひょうがき のモレーン でできた丘陵 きゅうりょう であるアンクム高地 こうち が延 の びている。この高地 こうち は北 きた ドイツ低地 ていち から南北 なんぼく に隆起 りゅうき しており、その北端 ほくたん がベルゲ の近 ちか くに位置 いち している。通常 つうじょう の北 きた ドイツの海洋 かいよう 性 せい 気候 きこう は南西 なんせい から北西 ほくせい の風 かぜ が支配 しはい 的 てき である。この地域 ちいき に降水 こうすい をもたらす南西 なんせい からの風 かぜ が吹 ふ くと、この地域 ちいき で唯一 ゆいいつ の隆起 りゅうき であるアンクム高地 こうち で若干 じゃっかん の風上 かざかみ と風下 かざしも が生 しょう じる。その結果 けっか 、隆起 りゅうき の東 ひがし から北東 ほくとう 地域 ちいき では、西 にし から南西 なんせい の地域 ちいき に比 くら べて乾燥 かんそう する。
クヴァーケンブリュックの人口 じんこう 推移 すいい
16世紀 せいき 初頭 しょとう になって初 はじ めて街 まち の人口 じんこう についての資料 しりょう が出現 しゅつげん する。主 おも に租税 そぜい 台帳 だいちょう で世帯 せたい 数 すう が記 しる されており、ここから人口 じんこう の概数 がいすう を算定 さんてい することができる。ニーダーザクセン州 しゅう の州立 しゅうりつ 文書 ぶんしょ 館 かん であるオスナブリュック州立 しゅうりつ 文書 ぶんしょ 館 かん [10] は16世紀 せいき の台帳 だいちょう を3冊 さつ 所蔵 しょぞう している。これを基礎 きそ に1512年 ねん 、1532年 ねん 、1599年 ねん の人口 じんこう が推定 すいてい されるが、ここから2度 ど のペストの流行 りゅうこう (1522年 ねん と1576年 ねん から1578年 ねん )や八 はち 十 じゅう 年 ねん 戦争 せんそう の影響 えいきょう を算出 さんしゅつ することはできなかった。2度目 どめ のペストの流行 りゅうこう では710人 にん が死亡 しぼう したと別 べつ の文書 ぶんしょ が伝 つた えている。1667年 ねん から教会 きょうかい 記録 きろく 簿 ぼ 、1672年 ねん から Rauchschutzregister の運用 うんよう が開始 かいし され、文献 ぶんけん の状況 じょうきょう は良 よ くなっている。1772年 ねん からは人口 じんこう 調査 ちょうさ 結果 けっか が存在 そんざい する。
第 だい 一 いち 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん が人口 じんこう 推移 すいい に及 およ ぼした影響 えいきょう に関 かん する研究 けんきゅう はない。ドイツ国 こく の人口 じんこう 調査 ちょうさ は1925年 ねん に初 はじ めて行 おこな われたためである。第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん の影響 えいきょう は看過 かんか できない。1946年 ねん の人口 じんこう は追放 ついほう された人々 ひとびと で大 おお きく増加 ぞうか したにもかかわらず、1939年 ねん の人口 じんこう よりも少 すく なかった。
第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん 後 ご 、人口 じんこう のわずかな減少 げんしょう は繰 く り返 かえ しあったものの、実質 じっしつ 的 てき には故郷 こきょう を逐 お われた人々 ひとびと や引 ひ き揚 あ げ者 しゃ たちの流入 りゅうにゅう で、クヴァーケンブリュックの人口 じんこう は絶 た えず増加 ぞうか していった。人口 じんこう 密度 みつど は、1939年 ねん の約 やく 530人 にん /km2 から2008年 ねん には 714人 にん /km2 にまで増加 ぞうか した。
年 とし
人口 じんこう (人 ひと )
1512
900
1532
1,200
1599
1,600
1630
2,400
1670
1,700
1772
1,755
1793
1,748
1803
1,855
年 とし
人口 じんこう (人 ひと )
1816
1,989
1900
3,074
1910
3,910
1925
4,368
1933
4,497
1939
7,678
1946
6,917
1956
8,096
年 とし
人口 じんこう (人 ひと )
1961
8,777
1968
9,542
1970
9,970
1975
10,203
1980
9,807
1985
9,639
1990
10,478
1995
12,290
年 とし
人口 じんこう (人 ひと )
2000
12,534
2005
12,829
2007
12,822
2008
13,068
2011
13,223
2013
13,820
第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん 後 ご 、クヴァーケンブリュック地方 ちほう には、シレジア 、東 ひがし プロイセン 、ポンメルン 、ズデーテン 地方 ちほう から逐 お われた人々 ひとびと が住 す み着 つ いた。これに加 くわ えて、1960年代 ねんだい からはトランシルヴァニア の、1970年代 ねんだい からはオーバーシレジア (英語 えいご 版 ばん ) やその他 た のポーランド 地域 ちいき のドイツ系 けい 住民 じゅうみん が移 うつ り住 す み、1980年 ねん からはドイツ系 けい ロシア人 じん 、さらに1993年 ねん 以降 いこう はドイツ語 ご が話 はな せない家族 かぞく も主 おも にロシア やカザフスタン から移住 いじゅう してきた[11] 。
その上 うえ 、他 た のドイツの大 おお きな都市 とし と同様 どうよう に、経済 けいざい 成長 せいちょう 期 き に労働 ろうどう 力 りょく の需要 じゅよう を外国 がいこく 人 じん 労働 ろうどう 者 しゃ の募集 ぼしゅう で補 おぎな い、その一部 いちぶ がこの街 まち に永続 えいぞく 的 てき に定住 ていじゅう した。こうして、20世紀 せいき 末 まつ の数 すう 十 じゅう 年間 ねんかん で流入 りゅうにゅう したロシア人 じん やギリシア人 じん は約 やく 900人 にん ないし700人 にん となり、人口 じんこう の上 うえ ではクヴァーケンブリュックで最 もっと も有力 ゆうりょく な民族 みんぞく コミュニティを形成 けいせい した。ポーランド人 じん も比較的 ひかくてき 大 おお きな民族 みんぞく グループで約 やく 250人 にん であるが、トルコ人 じん などの「古典 こてん 的 てき 外国 がいこく 人 じん 労働 ろうどう 者 しゃ 」は約 やく 100人 にん のとても小 ちい さなグループに見 み える。しかしこれらの労働 ろうどう 者 しゃ がギリシア国籍 こくせき を有 ゆう する主 おも に西 にし トラキア のトルコ人 じん であることを考慮 こうりょ しなければならない[12] 。全 ぜん 人口 じんこう に占 し める外国 がいこく 人 じん の割合 わりあい は、2008年 ねん 12月1日 にち 現在 げんざい 1,520人 にん 、11.63 % である。このうち男性 だんせい が 840人 にん (13.23 %)、女性 じょせい が 680人 にん (10.18 %) である[13] 。2011年 ねん の人口 じんこう 調査 ちょうさ によれば、クヴァーケンブリュック住民 じゅうみん の 36.6 % が移民 いみん を祖先 そせん に持 も つ[14] 。
クヴァーケンブリュック住民 じゅうみん は、70以上 いじょう の異 こと なる国籍 こくせき を持 も つ人々 ひとびと の集 あつ まりである。これには移民 いみん のほかにバスケットボールクラブ アルトラント・ドラゴンズで活動 かつどう する選手 せんしゅ やスタッフも含 ふく まれている。いくつかの国 くに は1人 ひとり または1家族 かぞく だけがその国籍 こくせき を保有 ほゆう している。
クヴァーケンブリュック市 し の2008年 ねん 12月時点 じてん の男女 だんじょ 別 べつ 人口 じんこう ピラミッド
人口 じんこう ピラミッドと男女 だんじょ 別 べつ 分布 ぶんぷ [ 編集 へんしゅう ]
クヴァーケンブリュックの未成年 みせいねん (20歳 さい 未満 みまん )の比率 ひりつ は 22.5 %(ドイツ全土 ぜんど では 21.3 %)、20歳 さい 以上 いじょう 60歳 さい 未満 みまん は 48.7 % (55.7 %)、高齢 こうれい 者 しゃ (60歳 さい 以上 いじょう )は 28.8 % (23 %) である。青年 せいねん と老人 ろうじん の比 ひ は 46:29、ドイツ全土 ぜんど のそれは 38:41 である[15] 。
クヴァーケンブリュックは伝統 でんとう 的 てき に福音 ふくいん 主義 しゅぎ の街 まち である。しかし時代 じだい によってとても小 ちい さなカトリック 組織 そしき も形成 けいせい された。1628年 ねん には1人 ひとり だけカトリック教会 きょうかい に属 ぞく すフーゴ・マイヤーという名前 なまえ の人物 じんぶつ がいた[16] 。その後 ご の数 すう 的 てき な発展 はってん については不明 ふめい である。クヴァーケンブリュック住民 じゅうみん の宗教 しゅうきょう 分布 ぶんぷ についての統計 とうけい が常 つね に記録 きろく されていないためである。1600年 ねん 頃 ごろ 、カトリック住民 じゅうみん は100人 にん いた[17] 。1624年 ねん には37人 にん のカトリック信者 しんじゃ が記録 きろく されている。この数値 すうち はその後 ご 150から200人 にん 程度 ていど にまで増加 ぞうか した[16] 。1662年 ねん のビンデルスの Geistlicher Polizei-Ordnung には以下 いか のように記 しる されている。
80人 にん を超 こ えない、最大 さいだい に見積 みつ もっても 90人 にん 程度 ていど の信者 しんじゃ が教会 きょうかい を建設 けんせつ した
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リヒャルト・ビンデル、Geistliche Polizei-Ordnung des Fürstentums Osnabrück vom Jahre 1662[16]
住民 じゅうみん 登録 とうろく 台帳 だいちょう が信頼 しんらい できる数値 すうち を初 はじ めて伝 つた えている。1803年 ねん の人口 じんこう 調査 ちょうさ は宗教 しゅうきょう 分布 ぶんぷ の内容 ないよう を含 ふく んでおり、プロテスタント 1,603人 にん 、カトリック 182人 にん と記録 きろく している。カトリック住民 じゅうみん の比率 ひりつ はその後 ご 増加 ぞうか した。1833年 ねん の人口 じんこう 調査 ちょうさ では、その比率 ひりつ は 20 % を超 こ え、2,279人 にん の住民 じゅうみん のうち、1,799人 にん がルター派 は 、473人 にん がカトリック、7人 にん が改革 かいかく 派 は であった。1900年 ねん には 2,082人 にん の福音 ふくいん 主義 しゅぎ 信者 しんじゃ と 992人 にん のカトリック信者 しんじゃ がクヴァーケンブリュックに住 す んでいた。
20世紀 せいき の後半 こうはん から、主 おも に故郷 こきょう を逐 お われた人々 ひとびと が流入 りゅうにゅう したことでカトリック組織 そしき はさらに拡大 かくだい した。
シナゴーグ跡 あと を示 しめ す記念 きねん 板 ばん
1844年 ねん 、クヴァーケンブリュックに最初 さいしょ のユダヤ人 じん 家族 かぞく が定住 ていじゅう した。その後 ご 数 すう 十 じゅう 年 ねん の間 あいだ にユダヤ系 けい 住民 じゅうみん は増加 ぞうか した。1867年 ねん に 17人 にん 、1895年 ねん に37人 にん と増 ふ え、1926年 ねん には最 さい 多数 たすう の約 やく 100人 にん に達 たっ した[18] 。1897年 ねん にクヴァーケンブリュックにシナゴーグ が建設 けんせつ された。バートベルゲンにあった古 ふる い礼拝 れいはい 所 しょ が解体 かいたい され売却 ばいきゃく されたためであった。1913年 ねん の会則 かいそく により、クヴァーケンブリュックは公式 こうしき にシナゴーグ教区 きょうく の本部 ほんぶ 所在地 しょざいち となった。シナゴーグと並行 へいこう してクヴァーケンブリュックにはユダヤ人 じん 小学校 しょうがっこう が設 もう けられた。最初 さいしょ の教師 きょうし は1898年 ねん に就任 しゅうにん した。10人 にん に満 み たない少 すく ない生徒 せいと 数 すう のため学校 がっこう の存続 そんぞく が危 あや ぶまれ、役所 やくしょ は学校 がっこう の閉鎖 へいさ を何 なん 度 ど も考 かんが えた。ユダヤ教団 きょうだん はこれに対 たい して長 なが らく抵抗 ていこう し、クヴァーケンブリュック市 し からの援助 えんじょ を引 ひ き出 だ した。1924年 ねん 、この学校 がっこう はついに閉鎖 へいさ され、最後 さいご の2人 ふたり の生徒 せいと は福音 ふくいん 主義 しゅぎ の学校 がっこう に編入 へんにゅう された。旧 きゅう ユダヤ人 じん 墓地 ぼち はシュタイメラーゲ・ヴェークにある。この墓地 ぼち は1930/31人 にん に設 もう けられた。バートベルゲン近郊 きんこう のグローテにあったこの教団 きょうだん の古 ふる い墓地 ぼち は荒 あ らされてしまった[18] 。
2008年 ねん 12月1日 にち のクヴァーケンブリュック住民 じゅうみん 登録 とうろく 課 か の統計 とうけい によれば、福音 ふくいん 主義 しゅぎ ルター派 は は 5,604人 にん 、ローマ=カトリック信者 しんじゃ は 4,050人 にん で、やはり25 % 弱 じゃく であった。2011年 ねん の人口 じんこう 調査 ちょうさ は、福音 ふくいん 主義 しゅぎ 信者 しんじゃ が 46.5 %、ローマ=カトリック信者 しんじゃ が 30 %、正 せい 教徒 きょうと が 3.2 %、その他 た の宗教 しゅうきょう の信者 しんじゃ またはいずれの宗教 しゅうきょう 団体 だんたい にも属 ぞく さない者 もの が 19.2 % であった[19] 。
宗派 しゅうは [20]
男声 だんせい
女性 じょせい
計 けい
AK 復古 ふっこ カトリック教会 きょうかい
1
0
1
LT 福音 ふくいん 主義 しゅぎ =ルター派 は
2,584
3,020
5,604
NW 不明 ふめい
12
20
32
RF 福音 ふくいん 主義 しゅぎ =改革 かいかく 派 は
12
17
29
RK ローマ=カトリック
1,915
2,135
4,050
VD その他 ほか
1,870
1,482
3,352
計 けい
6,394
6,674
13,068
1235年 ねん に quakenbrugge という表記 ひょうき で初 はじ めて登場 とうじょう するこの奇妙 きみょう な街 まち の名前 なまえ の確 かく たる意味 いみ はほとんど分 わ かっていない。後半 こうはん 部分 ぶぶん が川 かわ を渡 わた る橋 はし (ドイツ語 ご : Brücke ) であることは明 あき らかであるが、前半 ぜんはん 部分 ぶぶん については数 すう 多 おお くの推測 すいそく がなされている。ビャクシン の古 ふる い表記 ひょうき が quakeln であり、少 すく なくない研究 けんきゅう 者 しゃ がこの街 まち の名前 なまえ を「たもとにビャクシンのある橋 はし 」と解釈 かいしゃく している。しかし、大昔 おおむかし はハーゼ川 がわ の沼地 ぬまち であったこの地域 ちいき に、いつビャクシンがあったのか疑 うたが わしい。これに対 たい して、「小径 しょうけい 」「小 ちい さな橋 はし 」を意味 いみ する古 ふる いオランダ語 ご の kwak だとする説 せつ がある。ほとんどの研究 けんきゅう 者 しゃ は歴史 れきし 家 か ヘルマン・ロテールトが唱 とな える以下 いか の説 せつ に賛同 さんどう している。
クヴァーケンブリュックという名前 なまえ は、カウキー族 ぞく (Chauken) と同様 どうよう 、アングロサクソン語 ご の Chauken (震 ふる える)に由来 ゆらい する。古 こ 英語 えいご の quagmire 、ユトランド語 ご の kvag はこの言葉 ことば に由来 ゆらい するが、どちらも「沼地 ぬまち 」を意味 いみ する。カウキー族 ぞく は海岸 かいがん の沼地 ぬまち に住 す む人 ひと であり、クヴァーケンブリュックは揺 ゆ れる小径 しょうけい に架 か かる橋 はし 、あるいはもっと直接的 ちょくせつてき に揺 ゆ れる沼地 ぬまち の上 うえ に架 か かる橋 はし を意味 いみ している。
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ヘルマン・ロテールト、Geschichte der Stadt Quakenbrück in älterer Zeit[21]
近代 きんだい のこの街 まち を示 しめ すキャラクターであるオタマジャクシ (ドイツ語 ご : Kaulquappen ) やカエル とは関係 かんけい がない。
始 はじ まりと街 まち の創設 そうせつ [ 編集 へんしゅう ]
クヴァーケンブリュックの創設 そうせつ に関 かん する文献 ぶんけん は存在 そんざい しない。1383年 ねん の大火 たいか が古 ふる い基盤 きばん を焼 や き尽 つ くしてしまった。研究 けんきゅう 者 しゃ はオスナブリュック司教 しきょう 文書 ぶんしょ の1235年 ねん の文献 ぶんけん を最初 さいしょ の資料 しりょう としているが、入植 にゅうしょく の始 はじ まりはかなり古 ふる いと推測 すいそく されている。この最初 さいしょ の文献 ぶんけん ですでに水車 みずぐるま が話題 わだい となっているからである。これはおそらく堅牢 けんろう な司教 しきょう の荘園 しょうえん について述 の べたものと推測 すいそく される。この荘園 しょうえん は、地理 ちり 的 てき に重要 じゅうよう な場所 ばしょ にあるハーゼ川 がわ の徒渉 としょう 地 ち を護 まも っていた[21] [22] 。参事 さんじ 会 かい を創設 そうせつ した司教 しきょう の狙 ねら いは、クヴァーケンブリュックは、テックレンブルク伯 はく (ドイツ語 ご 版 ばん 、英語 えいご 版 ばん ) 、ラーヴェンスベルク伯 はく 、オルデンブルク伯 はく (ドイツ語 ご 版 ばん 、英語 えいご 版 ばん ) に対 たい する司教 しきょう 区 く 最 さい 北 きた の砦 とりで とすることであった[23] 。
城 しろ 、城 しろ 兵 へい とその館 かん [ 編集 へんしゅう ]
クヴァーケンブリュックの城 しろ に関 かん する最初 さいしょ の文献 ぶんけん 記録 きろく は1279年 ねん のもの(ただしその写本 しゃほん )であり、司教 しきょう 区 く の創設 そうせつ と同時 どうじ か、それ以前 いぜん に建設 けんせつ された。この城砦 じょうさい の取 と り壊 こわ しは15世紀 せいき 末 すえ から16世紀 せいき 初頭 しょとう に行 おこな われた。現在 げんざい その遺構 いこう は見 み られず、1970年 ねん に新 あたら しい建物 たてもの が周囲 しゅうい の城 しろ 兵 へい の館 かん を消 け し去 さ った。マリエン教会 きょうかい のすぐ裏手 うらて にある隆起 りゅうき は明 あき らかに識別 しきべつ できる[5] 。遺 のこ されているのは、3棟 むね のかつての城 しろ 兵 へい の館 かん である。これらは、防衛 ぼうえい の脆弱 ぜいじゃく な場所 ばしょ を防衛 ぼうえい する役割 やくわり を負 お って戦略 せんりゃく 的 てき に建 た てられている。
防衛 ぼうえい の必要 ひつよう 性 せい がなくなると、城 しろ 兵 へい の重要 じゅうよう 性 せい は失 うしな われ、19世紀 せいき の初 はじ めまでその名前 なまえ だけが残 のこ った。市民 しみん 階級 かいきゅう の興隆 こうりゅう によりクヴァーケンブリュックは大 おお きなマルクト広場 ひろば を有 ゆう する市民 しみん 都市 とし として発展 はってん した。マルクト広場 ひろば はかつて城 しろ 兵 へい の馬上 もうえ 試合 しあい 場 じょう であった場所 ばしょ だが、商業 しょうぎょう の中心 ちゅうしん 地 ち となった。手工業 しゅこうぎょう 者 しゃ 連合 れんごう 会 かい が成立 せいりつ し、周辺 しゅうへん 地域 ちいき と取引 とりひき 関係 かんけい が締結 ていけつ された。クヴァーケンブリュックは内陸 ないりく 地方 ちほう と海岸 かいがん 地方 ちほう との流通 りゅうつう 交易 こうえき の中心 ちゅうしん 地 ち となった。初 はじ めは城 しろ 兵 へい のみが司法 しほう 権 けん を行使 こうし したが、1469年 ねん 以降 いこう は、市民 しみん 階級 かいきゅう も議会 ぎかい でこれを代行 だいこう するようになった。城 しろ 兵 へい と市 し はこの頃 ころ から独自 どくじ の印章 いんしょう を使用 しよう するようになった。1492年 ねん からは4人 にん の城 しろ 兵 へい と4人 にん の市民 しみん が議会 ぎかい を形成 けいせい した。この議会 ぎかい は16世紀 せいき 末 まつ から6人 にん の市民 しみん だけで形成 けいせい されるようになった[24] 。
ヘルマン・ボンヌス
宗教 しゅうきょう 改革 かいかく [ 編集 へんしゅう ]
クヴァーケンブリュックのヘルマン・ボンヌスがもたらした宗教 しゅうきょう 改革 かいかく はこの街 まち に根付 ねつ き、変革 へんかく をもたらした。ボンヌスは、オスナブリュック司 し 教区 きょうく のみならず、北 きた ドイツ全体 ぜんたい の教会 きょうかい の発展 はってん に寄与 きよ した。クヴァーケンブリュックでは抵抗 ていこう はなく、住民 じゅうみん の一部 いちぶ はすぐに福音 ふくいん 主義 しゅぎ に改宗 かいしゅう し、あるいは中立 ちゅうりつ の立場 たちば を取 と った。参事 さんじ 会 かい 教会 きょうかい はこれにより福音 ふくいん 主義 しゅぎ に改宗 かいしゅう された。
いくらかの
例外 れいがい を
除 のぞ き、カトリック
教徒 きょうと はその
後 ご 福音 ふくいん 主義 しゅぎ の
信仰 しんこう を
受 う け
容 い れた。ボンヌス
自身 じしん はその
郷里 きょうり と
常 つね に
連帯 れんたい し、
福音 ふくいん 主義 しゅぎ の
信仰 しんこう が
急速 きゅうそく に
広 ひろ まることを
喜 よろこ ばしく
思 おも った。
1536年 ねん に
低地 ていち ドイツ語 ご の
聖書 せいしょ の
手 て 稿 こう を
故郷 こきょう の
教会 きょうかい に
寄贈 きぞう したことがそのきっかけの1つであった。これは『ボンヌス
聖書 せいしょ 』という
名 な で
知 し られている。
1544年 ねん にハンザ同盟 どうめい に加盟 かめい し、裕福 ゆうふく な市民 しみん の小 しょう 都市 とし となったクヴァーケンブリュックでは、100年 ねん 以上 いじょう にわたる宗教 しゅうきょう の転変 てんぺん が始 はじ まった。主 おも にカトリック住民 じゅうみん に囲 かこ まれた福音 ふくいん 主義 しゅぎ 少数 しょうすう 派 は 地域 ちいき が発展 はってん したためである。それは様々 さまざま な災厄 さいやく の時代 じだい でもあった。1565年 ねん にグローセ・ミューレン通 どお り沿 ぞ いの32軒 けん の家屋 かおく が焼失 しょうしつ 、1522年 ねん にすでにこの街 まち で猛威 もうい をふるい住民 じゅうみん の大 だい 部分 ぶぶん の命 いのち を奪 うば ったペスト が1576年 ねん から1578年 ねん に再 さい 流行 りゅうこう した。この時 とき は110軒 けん の家 いえ で710人 にん が死亡 しぼう した。グローセ・ミューレン通 どお り沿 ぞ いだけで70人 にん が亡 な くなった。
三 さん 十 じゅう 年 ねん 戦争 せんそう [ 編集 へんしゅう ]
クヴァーケンブリュックにおける三 さん 十 じゅう 年 ねん 戦争 せんそう は、1623年 ねん にカトリック連盟 れんめい が「驚愕 きょうがく と過激 かげき さとともに」[26] 入城 にゅうじょう したことから始 はじ まった。それは様々 さまざま な戦闘 せんとう 部隊 ぶたい が入 い れ替 か わり立 た ち替 か わり本市 もといち を占領 せんりょう することに耐 た える時代 じだい の始 はじ まりであった。カトリック連盟 れんめい の司令 しれい 官 かん ティリー伯 はく は1627年 ねん にクヴァーケンブリュックに対 たい して保護 ほご 状 じょう を発行 はっこう したが、実際 じっさい には何 なん の効力 こうりょく も持 も たなかった。その1年 ねん 後 ご に225人 にん の「防衛 ぼうえい 部隊 ぶたい 」がこの街 まち に宿営 しゅくえい し、その後 ご スウェーデン軍 ぐん もこの街 まち に滞在 たいざい した。1635年 ねん 、スウェーデンの中隊 ちゅうたい がカトリック軍 ぐん の攻撃 こうげき を受 う け、この街 まち は両 りょう 軍 ぐん の兵士 へいし によって略奪 りゃくだつ された。両 りょう 軍 ぐん の戦闘 せんとう を前 まえ に本 ほん 市 し に残 のこ された最後 さいご の防衛 ぼうえい 策 さく は、ハーゼ川 がわ に架 か かる橋 はし を破壊 はかい し、請願 せいがん 書 しょ をオスナブリュックに送 おく り、救 すく いを乞 こ うことだけであった[27] 。
フェルデン (ドイツ語 ご 版 ばん 、英語 えいご 版 ばん ) の教区 きょうく 監督 かんとく フィトゥス・ビューシャーはスウェーデン軍 ぐん の同意 どうい を得 え てこの地域 ちいき に福音 ふくいん 主義 しゅぎ の信仰 しんこう を根付 ねつ かせる努力 どりょく を行 おこな った。オスナブリュックの司教 しきょう 領主 りょうしゅ に復位 ふくい したフランツ・ヴィルヘルム・フォン・ヴァルテンベルク (ドイツ語 ご 版 ばん 、英語 えいご 版 ばん ) は、1650年 ねん にフランシスコ会 かい に対 たい し、クヴァーケンブリュックに拠点 きょてん を置 お き、わずかに残 のこ ったカトリック信者 しんじゃ の魂 たましい の救済 きゅうさい に努 つと めるよう委託 いたく した。
三 さん 十 じゅう 年 ねん 戦争 せんそう 終戦 しゅうせん 後 ご 、Capitulatio perpetua Osnabrugensis (オスナブリュック恒久 こうきゅう 降伏 ごうぶく 協定 きょうてい )に基 もと づき、参事 さんじ 会 かい 礼拝 れいはい 堂 どう の所領 しょりょう は両 りょう 宗派 しゅうは に分割 ぶんかつ された。カトリック側 がわ は主 おも に旧 きゅう 主席 しゅせき 司祭 しさい 館 かん および助 じょ 任 にん 司祭 しさい 館 かん の土地 とち と建物 たてもの を得 え た。これらは福音 ふくいん 主義 しゅぎ 側 がわ に 762帝国 ていこく ターラー(ドイツ語 ご 版 ばん 、英語 えいご 版 ばん ) で買 か い戻 もど された。カトリック教区 きょうく 組織 そしき はこの売却 ばいきゃく 益 えき をマルクト広場 ひろば と旧 きゅう 城砦 じょうさい との間 あいだ の土地 とち の購入 こうにゅう に充 あ てた。ここにはかつての城 しろ 兵 へい の屋敷 やしき 跡 あと やこれに付属 ふぞく の防衛 ぼうえい 塔 とう があった[28] 。フランツ・ヴィルヘルム・フォン・ヴァールテンベルクは1652年 ねん 、この場所 ばしょ にマリエン教会 きょうかい の礎石 そせき を据 す えた。その完成 かんせい は1696年 ねん にまで長引 ながび いた。
この街 まち は17世紀 せいき 末 まつ に再 ふたた び興隆 こうりゅう した。1667年 ねん には縮 ちぢみ 絨装置 そうち や亜麻 あま 布 ぬの 倉庫 そうこ をもつ2基 き の市営 しえい 水車 みずぐるま の周辺 しゅうへん に 44軒 けん の織物 おりもの 職人 しょくにん が住 す んでいた。1750年 ねん には、シュレーダー・アム・マルクト商店 しょうてん が設立 せつりつ された。この商店 しょうてん は、ヨーロッパ全土 ぜんど で活動 かつどう する商人 しょうにん 一族 いちぞく の本店 ほんてん として機能 きのう した。クヴァーケンブリュックは、1769年 ねん には 10軒 けん の錫 すず 職人 しょくにん を擁 よう するニーダーザクセン西部 せいぶ の錫 すず 加工 かこう の中心 ちゅうしん 地 ち となっていた。「クヴァーケンブリュックの壺 つぼ 」は専門 せんもん 家 か の間 あいだ で評判 ひょうばん を博 はく した[29] 。
1800年 ねん 頃 ごろ のクヴァーケンブリュック市 し の絵図 えず
クヴァーケンブリュックは1795年 ねん にイギリス軍 ぐん によって占領 せんりょう され、この占領 せんりょう 状態 じょうたい は5年間 ねんかん 続 つづ いた。さらに1802年 ねん 6月3日 にち にフランス 統治 とうち 時代 じだい が始 はじ まり、オスナブリュック侯 ほう 領 りょう (ドイツ語 ご 版 ばん 、英語 えいご 版 ばん ) はブラウンシュヴァイク=リューネブルク選 せん 帝 みかど 侯 ほう 領 りょう に編入 へんにゅう された。1806年 ねん 、プロイセン の勝利 しょうり によりプロイセン王国 おうこく 領 りょう となり、軍隊 ぐんたい が駐留 ちゅうりゅう する都市 とし となった。1807年 ねん 、ナポレオン・ボナパルト が勝利 しょうり し、この街 まち はヴェストファーレン王国 おうこく の一部 いちぶ となった。オルデンブルク公 おおやけ 領 りょう との境界 きょうかい に位置 いち し、それまでも物資 ぶっし の積 つ み替 か え地 ち であったこの街 まち は、イギリスと大陸 たいりく との交易 こうえき を阻 はば む大陸 たいりく 封鎖 ふうさ により、密 みつ 貿易 ぼうえき の中心 ちゅうしん 地 ち へと一層 いっそう の発展 はってん を遂 と げた。大陸 たいりく 封鎖 ふうさ の緩和 かんわ によって1811年 ねん 1月 がつ 1日 にち 、Départements Nord が再 ふたた び失 うしな われ、ナポレオンによるフランス王国 おうこく の直接 ちょくせつ 統治 とうち 領 りょう となった[30] 。1811年 ねん から1814年 ねん までクヴァーケンブリュックは、アンクム 小郡 おごおり 、クロッペンブルク (ドイツ語 ご 版 ばん 、英語 えいご 版 ばん ) 小郡 おごおり 、フリーゾイテ (ドイツ語 ご 版 ばん 、英語 えいご 版 ばん ) 小郡 おごおり 、レーニンゲン (ドイツ語 ご 版 ばん 、英語 えいご 版 ばん ) 小郡 おごおり 、フェヒタ (ドイツ語 ご 版 ばん 、英語 えいご 版 ばん ) 小郡 おごおり 、フェルデン (ドイツ語 ご 版 ばん 、英語 えいご 版 ばん ) 小郡 おごおり 、ヴィルデスハウゼン (ドイツ語 ご 版 ばん 、英語 えいご 版 ばん ) 小郡 おごおり の56町村 ちょうそん を含 ふく む、人口 じんこう 約 やく 10万 まん 人 にん に相当 そうとう する郡 ぐん の行政 ぎょうせい 中心 ちゅうしん 地 ち となった。高等 こうとう 裁判所 さいばんしょ がクヴァーケンブリュックに設 もう けられた[31] 。ライプツィヒ 近郊 きんこう の諸 しょ 国民 こくみん 戦争 せんそう の結果 けっか 、1813年 ねん にナポレオンの衰退 すいたい が明白 めいはく になり、1815年 ねん のウィーン会議 かいぎ でクヴァーケンブリュックは新 あら たに建国 けんこく されたハノーファー王国 おうこく 領 りょう となり、新 あら たな都市 とし 行政 ぎょうせい 機構 きこう となり、商人 しょうにん のアントン・シュレーダーが初代 しょだい 市長 しちょう となった。
クヴァーケンブリュックでは19世紀 せいき に染色 せんしょく 産業 さんぎょう 、皮革 ひかく 産業 さんぎょう およびブラシ ・コットン ・銀 ぎん 製品 せいひん 製造 せいぞう 業 ぎょう が盛 さか んになった。1875年 ねん 10月15日 にち にオルデンブルク からクヴァーケンブリュックを経由 けいゆ してオスナブリュック に至 いた る鉄道 てつどう が開通 かいつう した。この鉄道 てつどう は1849年 ねん にすでに最初 さいしょ の計画 けいかく が立案 りつあん されていたが、当時 とうじ の小国 しょうこく 分立 ぶんりつ 状態 じょうたい では、各国 かっこく の利益 りえき の調整 ちょうせい が困難 こんなん であった[32] 。
開通 かいつう 当初 とうしょ 、クヴァーケンブリュックには駅舎 えきしゃ がなかった。初 はじ めはレストラン・イムブッシュ(後 のち にレストラン・ゲスリング)で切符 きっぷ が販売 はんばい されていた。1875年 ねん 末 まつ に暫定 ざんてい 的 てき な仮 かり 駅舎 えきしゃ が設 もう けられ、1910年 ねん にやっと最終 さいしゅう 的 てき な駅舎 えきしゃ に引 ひ き継 つ がれた。かつてこの駅 えき は、軽便鉄道 けいべんてつどう リンゲン - ベルゲ - クヴァーケンブリュック線 せん の駅 えき と区別 くべつ するために、中央 ちゅうおう 駅 えき と呼 よ ばれていた。
世界 せかい 大戦 たいせん と国家 こっか 社会 しゃかい 主義 しゅぎ [ 編集 へんしゅう ]
第 だい 一 いち 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん では、クヴァーケンブリュック出身 しゅっしん の兵士 へいし が168人 にん 死亡 しぼう した。1930年 ねん 、シュッツェンホーフアレーに彼 かれ らの栄誉 えいよ 林 りん が設 もう けられた。このほかの記念 きねん の場所 ばしょ としては、ショルレマー=リーザー男爵 だんしゃく クレメンスが1916年 ねん 5月29日 にち にクヴァーケンブリュック市 し に寄贈 きぞう した「鉄 てつ の城 しろ 兵 へい 」や寄附 きふ 金 きん で建立 こんりゅう された「ナーゲルング」がある。クヴァーケンブリュック市庁舎 しちょうしゃ の議会 ぎかい 場 じょう ロビーに設置 せっち されたこの像 ぞう はフランスのポプラ 材 ざい で創 つく られており、鎖帷子 くさりかたびら を身 み につけ、盾 たて と剣 けん を持 も つ13世紀 せいき から14世紀 せいき の城 しろ 兵 へい の姿 すがた である。この像 ぞう はショルレマー大隊 だいたい の2人 ふたり の兵士 へいし を象 かたど っている[33] 。
「黄金 おうごん の20年代 ねんだい 」に本 ほん 市 し は一時 いちじ 的 てき に経済 けいざい の立 た て直 なお しがなされた。経済 けいざい 危機 きき のピークとなった1932年 ねん にこの小康 しょうこう 状態 じょうたい は過去 かこ のものとなった。この年 とし 、220人 にん の失業 しつぎょう 者 しゃ が発生 はっせい し、営業 えいぎょう 税 ぜい は2年間 ねんかん で60,000ライヒスマルク から16,000ライヒスマルクにまで減少 げんしょう した。1932年 ねん 11月6日 にち の国会 こっかい 議員 ぎいん 選挙 せんきょ で NSDAP は 650票 ひょう を獲得 かくとく し、1933年 ねん 3月5日 にち の国会 こっかい 議員 ぎいん 選挙 せんきょ では得票 とくひょう 率 りつ 36.4 % にあたる1,019票 ひょう を獲得 かくとく した。この得票 とくひょう 率 りつ は、ドイツ全体 ぜんたい の得票 とくひょう 率 りつ 43.9 % よりもかなり低 ひく いが、ナチス はクヴァーケンブリュックでも最 もっと も大 おお きな力 ちから を持 も った政党 せいとう となった[5] [18] [34] 。この結果 けっか と、1933年 ねん から採 と られた国家 こっか 社会 しゃかい 主義 しゅぎ 的 てき 環境 かんきょう の強化 きょうか によって、クヴァーケンブリュックでも夏 なつ までにナチスによる権力 けんりょく 掌握 しょうあく がなされた。特 とく に「メルツゲファレーネ」[訳注 やくちゅう 1] には住民 じゅうみん の多 おお くがNSDAPやその下部 かぶ 組織 そしき に入会 にゅうかい した。その際 さい に有用 ゆうよう であったのは、保守 ほしゅ 的 てき でカトリック環境 かんきょう 下 か にあったエリート階級 かいきゅう の一部 いちぶ をNSDAP地方 ちほう グループのトップに就 つ けたり、新 あたら しい帝国 ていこく 宰相 さいしょう に有利 ゆうり になるような形 かたち で公的 こうてき に忠誠 ちゅうせい 心 しん の表明 ひょうめい をさせたりすることであった[35] 。これらは、「経済 けいざい 活性 かっせい 化 か 」のための国家 こっか 投資 とうし によって実施 じっし された。それはあたかもイギリスの経済 けいざい 学者 がくしゃ ケインズ (英語 えいご 版 ばん ) が提唱 ていしょう する経済 けいざい 政策 せいさく を実地 じっち 応用 おうよう したようであった。クヴァーケンブリュックにとって重要 じゅうよう であったのは、1928年 ねん にアルトラント航空 こうくう 協会 きょうかい によって後 のち のノイシュタットにあたるメルシュラント(1993年 ねん まで公式 こうしき にはメルシュラント地区 ちく と呼 よ ばれていた)に設 もう けられた飛行場 ひこうじょう が、ナチスの権力 けんりょく 掌握 しょうあく 後 ご 1933年 ねん に再 さい 軍備 ぐんび に伴 ともな って拡張 かくちょう されたことであった。同 おな じ年 ねん に航空 こうくう 中隊 ちゅうたい がクヴァーケンブリュックに配備 はいび されることになった。1935年 ねん に飛行場 ひこうじょう の拡張 かくちょう 工事 こうじ が始 はじ まり、「クヴァドラート」という偽名 ぎめい で呼 よ ばれた。1940年 ねん から戦闘 せんとう 飛行 ひこう 団 だん が駐留 ちゅうりゅう した。この戦闘 せんとう 飛行 ひこう 隊 たい はハインケル He111 爆 ばく 撃 げき 機 き やユンカー Ju 88 爆 ばく 撃 げき 機 き 、戦争 せんそう 後期 こうき には連合 れんごう 国軍 こくぐん の爆 ばく 撃 げき 機 き に対 たい する防衛 ぼうえい として戦闘 せんとう 機 き 部隊 ぶたい が配備 はいび された。
旧 きゅう 空軍 くうぐん 基地 きち
特 とく に重要 じゅうよう なのはクヴァーケンブリュックが、損傷 そんしょう した動力 どうりょく 機械 きかい を修復 しゅうふく する大 おお きな飛行機 ひこうき 修理 しゅうり 工場 こうじょう を得 え たことであった。1943年 ねん 初 はじ めに修理 しゅうり 工場 こうじょう の大 だい 部分 ぶぶん は南 みなみ フランスに移転 いてん した。その後 ご 連合 れんごう 国軍 こくぐん はこの飛行 ひこう 基地 きち を察知 さっち し、再三 さいさん にわたって空爆 くうばく 目標 もくひょう とした。1944年 ねん の聖 せい 土曜日 どようび に行 おこな われた最 もっと も激 はげ しい攻撃 こうげき によって内 うち 市街 しがい も被害 ひがい を受 う け、数 すう 多 おお くの建物 たてもの が損傷 そんしょう または全壊 ぜんかい した。終戦 しゅうせん 直前 ちょくぜん に飛行 ひこう 基地 きち の航空機 こうくうき は撤退 てったい した。1945年 ねん 4月 がつ 11日 にち にイギリス軍 ぐん がこの飛行場 ひこうじょう を占領 せんりょう し、クヴァーケンブリュックにおける第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん は終了 しゅうりょう した[36] 。イギリス軍 ぐん はこの基地 きち をポーランド軍 ぐん に委託 いたく した。ポーランド軍 ぐん は1947年 ねん まで駐留 ちゅうりゅう した。
1933年 ねん 6月 がつ 時点 じてん でクヴァーケンブリュックには 46人 にん ユダヤ系 けい 住民 じゅうみん がいた。その後 ご 生 う まれた人 ひと や移住 いじゅう してきた人 ひと を含 ふく めると、国家 こっか 社会 しゃかい 主義 しゅぎ の時代 じだい にクヴァーケンブリュックに住 す んでいたユダヤ人 じん は約 やく 60人 にん と推測 すいそく される[18] 。1935年 ねん から反 はん ユダヤ的 てき 事件 じけん が増加 ぞうか する。1935年 ねん 8月 がつ 、市営 しえい プールに「ユダヤ人 じん お断 ことわ り」の看板 かんばん が立 た てられた。オスナブリュック行政 ぎょうせい 区 く 長官 ちょうかん の命令 めいれい によって、公務員 こうむいん がユダヤ人 じん の家 いえ に住 す むことは禁止 きんし された。1936年 ねん 初 はじ め、クヴァーケンブリュックの役所 やくしょ に勤 つと める公務員 こうむいん や従業 じゅうぎょう 員 いん がユダヤ人 じん の商店 しょうてん で買 か い物 もの をすることが禁 きん じられた。1938年 ねん 11月10日 にち 、クロッペンブルクのSA 大佐 たいさ はクヴァーケンブリュックの突撃 とつげき 隊 たい 少佐 しょうさ にシナゴーグ に放火 ほうか し、ユダヤ人 じん 全員 ぜんいん を逮捕 たいほ するよう命令 めいれい を下 くだ した。5人 にん のクヴァーケンブリュックのユダヤ人 じん がSAに逮捕 たいほ されたが、オランダ人 じん の家畜 かちく 商 しょう ラザルス・コーンは釈放 しゃくほう された。55歳 さい 以上 いじょう は釈放 しゃくほう せよという郡 ぐん 役場 やくば の命令 めいれい は実行 じっこう されなかった。保護 ほご 拘禁 こうきん が繰 く り返 かえ され、他 た の3人 にん とともにブーヘンヴァルト強制 きょうせい 収容 しゅうよう 所 しょ に送致 そうち された。宗教 しゅうきょう 指導 しどう 者 しゃ のエルンスト・ベールはここで(公的 こうてき な記録 きろく によれば)「心不全 しんふぜん 」発作 ほっさ のために死亡 しぼう した。他 た の3人 にん は12月または1月 がつ に命令 めいれい により「間近 まぢか に迫 せま った移送 いそう に煩 わずら わされる」ことを免 まぬか れた[37] 。
1939年 ねん 5月 がつ 23日 にち 、クヴァーケンブリュックにはユダヤ人 じん 世帯 せたい 主 ぬし がいなくなった。しかし1939年 ねん 5月 がつ 17日 にち の住民 じゅうみん 調査 ちょうさ では本 ほん 市 し には10人 にん のユダヤ人 じん が登録 とうろく されており、いずれもハーゼ通 どお り6番地 ばんち の家 いえ に住 す んでいた。1941年 ねん 3月 がつ 12日 にち 、市 し 当局 とうきょく は、クヴァーケンブリュックは「ユダヤ人 じん フリー」であると宣言 せんげん した。
第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん 後 ご 、クヴァーケンブリュックで「水晶 すいしょう の夜 よる 」を煽動 せんどう した6人 にん が裁判 さいばん に掛 か けられた。被告人 ひこくにん の1人 ひとり は無罪 むざい 、5人 にん は2年 ねん 2ヶ月 かげつ の自由 じゆう 刑 けい とされた[18] 。
戦後 せんご 、3人 にん のクヴァーケンブリュックのユダヤ人 じん が故郷 こきょう の街 まち に戻 もど ってきた。シナゴーグがあった場所 ばしょ には1983年 ねん に記念 きねん 板 ばん が設 もう けられた。
クヴァーケンブリュックは1969年 ねん に再 ふたた び軍隊 ぐんたい の駐屯 ちゅうとん 地 ち となった。ドイツ連邦 れんぽう 軍 ぐん の救護 きゅうご 業務 ぎょうむ 軍 ぐん 中隊 ちゅうたい がノイシュタットに駐屯 ちゅうとん した。北部 ほくぶ 司令 しれい 部 ぶ のクヴァーケンブリュック救護 きゅうご 業務 ぎょうむ 軍 ぐん 中央倉庫 ちゅうおうそうこ が設 もう けられた。
現代 げんだい に至 いた るまで、クヴァーケンブリュックは国境 こっきょう の砦 とりで として設立 せつりつ され、機能 きのう してきた。現在 げんざい は地域 ちいき 再編 さいへん によって幾分 いくぶん 北 きた に移動 いどう したが、1972年 ねん まで、マルクト広場 ひろば から直線 ちょくせん 距離 きょり でわずか 500 メートルにあったオルデンブルガー・ラントとの国境 こっきょう は、何 なに 世紀 せいき もの間 あいだ この町 まち の発展 はってん の妨 さまた げとなっていた。ここは、古代 こだい ザクセン時代 じだい にはフォルンガウとハーゼガウとを分 わ けており、後 のち にはオスナブリュック司教 しきょう 領 りょう とミュンスター領 りょう の境界 きょうかい であり、さらにはプロイセン王国 おうこく のハノーファー州 しゅう (ドイツ語 ご 版 ばん 、英語 えいご 版 ばん ) とオルデンブルク大公 たいこう 国 こく (ドイツ語 ご 版 ばん 、英語 えいご 版 ばん ) との国境 こっきょう となっていた。
1972年 ねん の地域 ちいき 再編 さいへん 以降 いこう クヴァーケンブリュックはバートベルゲン 、メンスラーゲ 、ノルトルプ とともにザムトゲマインデ・アルトラント を形成 けいせい している。さらにヘンゲラーゲとグート・フェールを合併 がっぺい した。1972年 ねん までクヴァーケンブリュックが属 ぞく していたベルゼンブリュック郡 ぐん がオスナブリュック郡 ぐん の一部 いちぶ となったため、クヴァーケンブリュックは現在 げんざい オスナブリュック郡 ぐん に属 ぞく している。
戦後 せんご ドイツにおいてクヴァーケンブリュックは、多 おお くの中央 ちゅうおう 機関 きかん や工業 こうぎょう 系 けい 企業 きぎょう をノイシュタットに誘致 ゆうち した。最大 さいだい の製造 せいぞう 業者 ぎょうしゃ がキナスト社 しゃ であった。この会社 かいしゃ は1960年代 ねんだい に従業 じゅうぎょう 員 いん 1,000人 にん 以上 いじょう を擁 よう するクヴァーケンブリュックおよびこの地域 ちいき の最大 さいだい の雇用 こよう 主 ぬし に発展 はってん した。1984年 ねん には1,500万 まん 台 だい の自転車 じてんしゃ を販売 はんばい し、13万 まん 平方 へいほう メートルの工場 こうじょう で1,600人 にん の従業 じゅうぎょう 員 いん が働 はたら くヨーロッパの自転車 じてんしゃ 製造 せいぞう 業 ぎょう におけるリーディングカンパニーに成長 せいちょう した。しかしアジアを中心 ちゅうしん とする競合 きょうごう 相手 あいて が現 あらわ れたことで1990年代 ねんだい 初 はじ めから国内外 こくないがい の販売 はんばい 台数 だいすう が劇的 げきてき に減少 げんしょう し、1999年 ねん にキナスト社 しゃ は倒産 とうさん を宣言 せんげん した。様々 さまざま な改善 かいぜん 策 さく や新 しん 事業 じぎょう がなされたが、自転車 じてんしゃ 、レジャー家具 かぐ 、芝刈 しばか り機 き の製造 せいぞう では成果 せいか が上 あ がらず、2005年 ねん に閉鎖 へいさ された。2006年 ねん から新 あら たに開始 かいし したキナスト=シュテール GmbH では、鉄 てつ パイプの製造 せいぞう が引 ひ き続 つづ き行 おこな われている。
何 なん 十 じゅう 年 ねん もの間 あいだ クヴァーケンブリュックのノイシュタットで権勢 けんせい を誇 ほこ ったキナストのほかにも、多 おお くの製造 せいぞう 業者 ぎょうしゃ があった。マットレス製造 せいぞう 業者 ぎょうしゃ シュララフィア、リア・コーポレーションや、1980年代 ねんだい 初 はじ めには毎日 まいにち 180万 まん 個 こ の卵 たまご を選別 せんべつ ・包装 ほうそう して年間 ねんかん 売上 うりあげ 額 がく 約 やく 1億 おく ドイツ・マルクに成長 せいちょう したドイチェ・フリューシュテュックスアイ=ゲゼルシャフトの支店 してん があった。1985年 ねん には民間 みんかん の工業 こうぎょう 開発 かいはつ 研究所 けんきゅうじょ DIL がクヴァーケンブリュックに開設 かいせつ された。
しかし1980年代 ねんだい の構造 こうぞう 危機 きき を切 き り抜 ぬ けられた工業 こうぎょう 系 けい 企業 きぎょう はわずかであった。ベッカー車体 しゃたい ・自動車 じどうしゃ 製造 せいぞう 、ルフ食品 しょくひん 工場 こうじょう 、JCK ホールディング GmbH テキスタイル KG などが存続 そんぞく に成功 せいこう した例 れい である。ルフ食品 しょくひん 工場 こうじょう は、従業 じゅうぎょう 員 いん 365人 にん を擁 よう する生産 せいさん 工場 こうじょう を内 うち 市街 しがい に持 も つ唯一 ゆいいつ の会社 かいしゃ である。テキスタイル分野 ぶんや の企業 きぎょう 家 か ギュンター・コルマンは、JCK ホールディング GmbH テキスタイル KG を経営 けいえい している。この会社 かいしゃ はテキスタイル部門 ぶもん の数 すう 多 おお くの企業 きぎょう (その一部 いちぶ はクヴァーケンブリュックに存在 そんざい する)を傘下 さんか に持 も つ上位 じょうい 会社 かいしゃ である。かつてバスケットボール・ドイツ代表 だいひょう チームの選手 せんしゅ であったコルマンは[38] 、地元 じもと バスケットボールクラブ「アルトラント・ドラゴンズ」のサポーターであり、メインスポンサーである。
市町村 しちょうそん 合併 がっぺい [ 編集 へんしゅう ]
1972年 ねん 7月 がつ 1日 にち に、隣接 りんせつ するエッセン (オルデンブルク) (ドイツ語 ご 版 ばん 、英語 えいご 版 ばん ) (クロッペンブルク郡 ぐん (ドイツ語 ご 版 ばん 、英語 えいご 版 ばん ) )の、当時 とうじ の人口 じんこう で1,000人 にん 以上 いじょう が住 す む地域 ちいき (ヘンゲラーゲ)を合併 がっぺい した[39] 。
クヴァーケンブリュック市庁舎 しちょうしゃ
本市 もといち の市議会 しぎかい は、31議席 ぎせき で構成 こうせい されている[40] 。
1968年 ねん まで: アロイス・ゲールス (SPD )
1968年 ねん - 1972年 ねん : カール・メラー (CDU )
1972年 ねん - 1979年 ねん : ホルスト・マグヌス (CDU)
1979年 ねん - 1988年 ねん : ヴェルナー・コルフハーゲ (FDP )
1988年 ねん - 1991年 ねん : ユルゲン・ガーデベルク (SPD)
1991年 ねん - 2000年 ねん : クラウス・アルフェス (CDU)
2000年 ねん - 2011年 ねん : ヴォルフガング・ベッカー (CDU)
2011年 ねん - 2014年 ねん : クラウス・ペーター・ポッペ (SPD)
2014年 ねん - 2016年 ねん : パウル・ゲルトナー (SPD)
2016年 ねん - : マティアス・ブリュッゲマン (CDU)
紋章 もんしょう と印章 いんしょう [ 編集 へんしゅう ]
クヴァーケンブリュックの紋章 もんしょう は、おそらくこの街 まち の創設 そうせつ 期 き である13世紀 せいき に、マルクト広場 ひろば 背後 はいご の高台 たかだい に建設 けんせつ された城砦 じょうさい に掲 かか げられた。ここに住 す む城 しろ 兵 へい たちは印章 いんしょう を使用 しよう しており、それは1286年 ねん のものが初出 しょしゅつ である。印章 いんしょう には様式 ようしき 化 か された城 しろ が描 えが かれており、その中央 ちゅうおう にはゴシック様式 ようしき のトレサリーが見 み られる。1401年 ねん からは城 しろ 兵 へい の秘密 ひみつ 印 しるし の使用 しよう も知 し られている。これは両側 りょうがわ に2本 ほん 並 なら んだ木 こ の間 ま に扉 とびら の開 ひら いた城砦 じょうさい が描 えが かれている。この秘密 ひみつ 印 しるし が1926年 ねん 頃 ごろ のオットー・フップ (ドイツ語 ご 版 ばん 、英語 えいご 版 ばん ) の紋章 もんしょう 記述 きじゅつ の元 もと になっている。この紋章 もんしょう 記述 きじゅつ は「銀地 ぎんじ に、2本 ほん の鋸 のこ 壁 かべ を戴 いただ く脇 わき 塔 とう を有 ゆう する扉 とびら の開 ひら いた赤 あか い城砦 じょうさい 。その両側 りょうがわ に2本 ほん の木 き 」とされている。城 しろ 兵 へい はこの街 まち の支配 しはい 階級 かいきゅう であったため、これが市 し の印章 いんしょう として用 もち いられた。19世紀 せいき に創 つく られた紋章 もんしょう は2つの紋章 もんしょう を基 もと にしている。すなわち、秘密 ひみつ 印 しるし と同 おな じように開 ひら いた扉 とびら を有 ゆう している城 しろ が描 えが かれているが、本 ほん 印 しるし と同 おな じく木 き は描 えが かれていない。20世紀 せいき になると、城 しろ を近代 きんだい 的 てき な様式 ようしき にすることで19世紀 せいき の紋章 もんしょう との区別 くべつ がなされた[41] 。2001年 ねん のクヴァーケンブリュック市 し の基本 きほん 条例 じょうれい では、もはや城 しろ ではなく、3つの塔 とう を持 も つ入 い り口 くち の門 もん とされている[42] 。
現在 げんざい の紋章 もんしょう デザインは以下 いか の通 とお り: 銀地 ぎんじ に、3つの塔 とう を有 ゆう する赤 あか い入 い り口 くち の門 もん 。クヴァーケンブリュック市 し の色 いろ は白 しろ と赤 あか であり、市 し の旗 はた はこの配色 はいしょく で塗 ぬ り分 わ けられ紋章 もんしょう が描 えが かれている。印章 いんしょう は紋章 もんしょう に「Stadt Quakenbrück」という文言 もんごん が書 か かれている。
クヴァーケンブリュックは以下 いか の都市 とし と姉妹 しまい 都市 とし 関係 かんけい にある。
1969年 ねん 6月 がつ 27日 にち にノルマンディー地方 ちほう の街 まち アランソンとの姉妹 しまい 都市 とし 協定 きょうてい が調印 ちょういん された。これは1950年代 ねんだい から行 おこな われているアルトラント=ギムナジウムとアランソンのリセ ・アランとの交換 こうかん 留学 りゅうがく の交流 こうりゅう に基 もと づくものである。
1989年 ねん の政治 せいじ 上 じょう の変革 へんかく と東西 とうざい 間 あいだ の新 あら たな宥和 ゆうわ に基 もと づき、郡 ぐん や都市 とし レベルでのポーランド - ドイツ間 あいだ の関係 かんけい 強化 きょうか がなされた。このため1998年 ねん にオスナブリュック郡 ぐん と旧 きゅう 東 ひがし プロイセン のアレンシュタイン郡 ぐん から成立 せいりつ したポーランドのヴァルミア=マズールィ県 けん との姉妹 しまい 自治体 じちたい 協定 きょうてい が結 むす ばれ、郡 ぐん の努力 どりょく によって市町村 しちょうそん レベルでの一連 いちれん の姉妹 しまい 自治体 じちたい 関係 かんけい が成立 せいりつ した。クヴァーケンブリュック市 し も2000年 ねん にドブレ・ミアストと姉妹 しまい 都市 とし 協定 きょうてい を締結 ていけつ した。
ヴェーゼンベルクとの姉妹 しまい 都市 とし 協定 きょうてい は、1990年 ねん 9月 がつ 21日 にち に結 むす ばれた。
コンウェイとの姉妹 しまい 都市 とし 協定 きょうてい は1992年 ねん 4月 がつ 1日 にち に調印 ちょういん された。その経緯 けいい は小話 こばなし のようである。コンウェイは、1982年 ねん から毎年 まいとし 5月 がつ にヒキガエル を主役 しゅやく とするトード・サック・デイズ・フェスティバルを開催 かいさい しており、ヒキガエルレース世界 せかい 選手権 せんしゅけん が行 おこな われている[43] 。1984年 ねん の春 はる にアメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく アーカンソー州 しゅう の代理人 だいりにん の書状 しょじょう が届 とど いた。コンウェイという街 まち がヒキガエルを紋章 もんしょう デザインに採用 さいよう しているヨーロッパの街 まち を姉妹 しまい 都市 とし 協定 きょうてい 締結 ていけつ のために探 さが しており、クヴァーケンブリュックがこれにあたるかどうかという問 と い合 あ わせであった。この誤 あやま りを晴 は らすために、このアメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく の小 しょう 都市 とし と書簡 しょかん のやりとりが始 はじ まった。コンウェイのローカル紙 し 「ログ・キャビン・ドモクラート」は新 あら たな「姉妹 しまい 関係 かんけい 」について興奮 こうふん して報道 ほうどう した。ただし興奮 こうふん のあまり小 ちい さな誤 あやま りがあった。この報道 ほうどう ではクヴァーケンブリュックがバイエルン とされてしまい、風刺 ふうし 画 が としてバイエルンの民俗 みんぞく 衣装 いしょう を着 き てプレッツェル を振 ふ るヒキガエルを掲載 けいさい した。このため、最初 さいしょ の使節 しせつ 団 だん はミュンヘン空港 くうこう に向 む かってしまい、そこからバスでおよそ9時 じ 間 あいだ かけてクヴァーケンブリュックに到着 とうちゃく した[44] 。公式 こうしき に姉妹 しまい 都市 とし となるのにそれから8年 ねん を要 よう した。クヴァーケンブリュックは活発 かっぱつ な文化 ぶんか 交流 こうりゅう や若者 わかもの の交流 こうりゅう だけでなく、クヴァーケンブリュックをカエル都市 とし として商品 しょうひん 化 か するマーケティングアイデアを考 かんが えている。
クヴァーケンブリュックは、ニーダーザクセン州 しゅう 西部 せいぶ とオランダ東部 とうぶ の約 やく 130の郡 ぐん や市町村 しちょうそん で形成 けいせい するドイツ=オランダ自治体 じちたい 連合 れんごう EUREGIO (ドイツ語 ご 版 ばん 、英語 えいご 版 ばん ) に加盟 かめい している[45] 。
クヴァーケンブリュックは多 おお くの木組 きぐ み建築 けんちく が立 た ち並 なら ぶ中世 ちゅうせい の街並 まちな みを有 ゆう するため、旅行 りょこう 宣伝 せんでん などでは「北 きた のローテンブルク 」と呼 よ ばれる[46] 。ただし、この呼 よ び名 な はブルクドルフ 、ノイブランデンブルク 、ハルバーシュタット 、ヒルデスハイム など多 おお くの街 まち に使 つか われる。1980年代 ねんだい 、UNESCO 世界 せかい 遺産 いさん への登録 とうろく を住民 じゅうみん たちが拒否 きょひ した[47] 。
ポッゲンパッドのパネル
ポッゲンパッド(カエルの小径 しょうけい )は、内 うち 市街 しがい を通 とお る全長 ぜんちょう 3.1 キロメートルの観光 かんこう に適 てき した小径 しょうけい である。この小径 しょうけい は歩道 ほどう に芸術 げいじゅつ 的 てき なカエルの足跡 あしあと のパネルがはめ込 こ まれて標識 ひょうしき されている。この小径 しょうけい は、マルクト広場 ひろば に面 めん したクヴァーケンブリュック市庁舎 しちょうしゃ 前 まえ を起点 きてん として、ヘーエ・プフォルテを経由 けいゆ して街 まち の重要 じゅうよう な見所 みどころ 30か所 しょ を巡 めぐ る[48] 。
1988年 ねん に公益 こうえき 協会 きょうかい 「テアターヴェルクシュタット・クヴァーケンブリュック e.V.」が設立 せつりつ された。この協会 きょうかい は市民 しみん 大学 だいがく の演劇 えんげき コースから設立 せつりつ されたもので、当初 とうしょ は様々 さまざま な場所 ばしょ で作品 さくひん を上演 じょうえん していた。1990年 ねん にバーンホーフ通 どお り 35番地 ばんち の建物 たてもの に入居 にゅうきょ し、それ以後 いご 毎年 まいとし 2 - 3本 ほん の自主 じしゅ 公演 こうえん と、客演 きゃくえん を行 おこな っている。この劇団 げきだん は1995年 ねん からニーダーザクセン州 しゅう アマチュア演劇 えんげき 連盟 れんめい に加盟 かめい している。これは1999年 ねん にオスナブリュッカー・ラントシャフツフェアバントの文化 ぶんか 奨励 しょうれい 賞 しょう 、2000年 ねん にクヴァーケンブリュッカー・シュタットシュティフトゥングの奨励 しょうれい 賞 しょう を受賞 じゅしょう した[49] 。
このほかに、クヴァーケンブリュック市 し 交通 こうつう ・郷土 きょうど 協会 きょうかい の文化 ぶんか サークルは、巡業 じゅんぎょう 劇団 げきだん の公演 こうえん を定期 ていき 的 てき に行 い っている。公演 こうえん は、座席 ざせき 数 すう 約 やく 700のアルトラント=ギムナジウムの講堂 こうどう や座席 ざせき 数 すう 3,000以上 いじょう のアルトラント=アレーナで行 おこな われる。
1938年 ねん にはすでに絵 え はがき に名所 めいしょ として描 えが かれているフィルムテアター・シャウブルク[50] は、2005年 ねん から3つのスクリーンで上映 じょうえい している。1999年 ねん シャウムブルクは、その特別 とくべつ プログラムやプログラムシリーズの構成 こうせい に対 たい してニーダーザクセン・フィルム&メディアビューロから表彰 ひょうしょう された[51] 。
クヴァーケンブリュック市立 しりつ 博物館 はくぶつかん
市立 しりつ 博物館 はくぶつかん [ 編集 へんしゅう ]
市立 しりつ 博物館 はくぶつかん は、マルクト広場 ひろば の1790年 ねん 頃 ごろ に建設 けんせつ された古典 こてん 主義 しゅぎ 様式 ようしき 3階 かい 建 だ て切妻 きりづま 造 づく りの建物 たてもの に1983年 ねん から入居 にゅうきょ している。この博物館 はくぶつかん はかつてのベルゼンブリュック郡 ぐん 郷土 きょうど 連盟 れんめい 副 ふく 会長 かいちょう で、方言 ほうげん 文学 ぶんがく 作品 さくひん の著者 ちょしゃ であるハインリヒ・ベーニングが代表 だいひょう を務 つと めている。入 い れ替 か えの特別 とくべつ 展示 てんじ のほかに、市立 しりつ 博物館 はくぶつかん のテーマである都市 とし 、学校 がっこう 、教会 きょうかい の歴史 れきし に沿 そ った常設 じょうせつ 展示 てんじ や、歴史 れきし 的 てき な薬局 やっきょく 設備 せつび 、礼拝 れいはい 堂 どう の内部 ないぶ 、都市 とし 農民 のうみん の台所 だいどころ が再現 さいげん され、膨大 ぼうだい な錫 すず 製品 せいひん コレクションが展示 てんじ されている。地域 ちいき ・実用 じつよう 書 しょ 図書館 としょかん と、遺族 いぞく や企業 きぎょう から提供 ていきょう された多数 たすう の地図 ちず や写真 しゃしん 資料 しりょう を収蔵 しゅうぞう する歴史 れきし 文書 ぶんしょ 館 かん が市立 しりつ 博物館 はくぶつかん に隣接 りんせつ している[52] 。
税務署 ぜいむしょ 前 まえ の「貧 まず しい納税 のうぜい 者 しゃ 」
屋外 おくがい 芸術 げいじゅつ 作品 さくひん [ 編集 へんしゅう ]
税務署 ぜいむしょ 前 まえ にハンス・ゲルト・ルーヴェの彫刻 ちょうこく 作品 さくひん 「Der arme Steuerbürger」(直訳 ちょくやく すると「貧 まず しい納税 のうぜい 者 しゃ 」)が設置 せっち されている。シュッツェンホーフ近郊 きんこう ハーゼ川 がわ の流 ながれ 越 えつ 口 こう のすぐ近 ちか くにカローラ・ヴェーデルの塑像 そぞう 「Flügel wachsen über dem Delta」(直訳 ちょくやく すると「翼 つばさ は中州 なかす を越 こ えて伸 の びる」)がある。この像 ぞう は、ベルゼンブリュックからメッペンに至 いた る全長 ぜんちょう 約 やく 100 キロメートル以上 いじょう のハーゼタール芸術 げいじゅつ ルートのステーションとなっている。
ホーエ・プフォルテ
クヴァーケンブリュックの街 まち の景観 けいかん は、福音 ふくいん 主義 しゅぎ 聖 せい ジルヴェスター教会 きょうかい の13世紀 せいき の塔 とう と、カトリックのマリエン教会 きょうかい の17世紀 せいき に建造 けんぞう された塔 とう によって決定 けってい づけられている。
市 し の北側 きたがわ にホーエ・プフォルテのあるランゲ通 どお りが通 かよ っている。ホーエ・プフォルテは、かつては5つあった市 し 門 もん のうち唯一 ゆいいつ 現存 げんそん する門 もん である。この通 とお り沿 ぞ いの旧 きゅう 市街 しがい には、主 おも に歴史 れきし 的 てき 住居 じゅうきょ や城 しろ 兵 へい の館 かん からなる約 やく 100軒 けん の修復 しゅうふく された木組 きぐ み建築 けんちく が存在 そんざい する。ネオルネサンス様式 ようしき の旧 きゅう 区 く 裁判所 さいばんしょ には税務署 ぜいむしょ が入居 にゅうきょ している。
古典 こてん 主義 しゅぎ 様式 ようしき の市庁舎 しちょうしゃ 、城 しろ 兵 へい の館 かん 跡 あと に建設 けんせつ されたマリエン教会 きょうかい 、フォスハーゲン邸 てい が建 た つ中央 ちゅうおう のマルクト広場 ひろば 周辺 しゅうへん は、歴史 れきし 的 てき な住居 じゅうきょ や商店 しょうてん が集 あつ まっているもう一 ひと つの例 れい である。1990年 ねん にマルクト広場 ひろば に造 つく られたエウロペ の泉 いずみ はフライブルクの芸術 げいじゅつ 家 か フランツ・グートマンの作品 さくひん で、「たくましい雄 お 牛 うし とエウロペによって、この街 まち とヨーロッパ全体 ぜんたい との連携 れんけい を象徴 しょうちょう している」ものである[53] 。
旧 きゅう 市街 しがい の西側 にしがわ に1909年 ねん から1910年 ねん に建設 けんせつ されたユーゲントシュティール 様式 ようしき の駅舎 えきしゃ がある。印象 いんしょう 的 てき なロクスター邸 てい は、戦後 せんご の革新 かくしん への陶酔 とうすい 感 かん の中 なか で医療 いりょう センターの近代 きんだい 的 てき な建物 たてもの のために、1964年 ねん に取 と り壊 こわ された。このほかの城 しろ 兵 へい の館 かん はグローセ・ミューレン通 どお り沿 ぞ いにあり、ディックラーゲ家 か の館 かん は古 ふる い水車 みずぐるま と調和 ちょうわ している。クライネ・ミューレは1235年 ねん にはすでに創建 そうけん されており、グローセ・ミューレとともに修道 しゅうどう 参事 さんじ 会 かい に管理 かんり を委託 いたく されている。現在 げんざい も穀物 こくもつ の粉 こな 挽 ひ き装置 そうち が遺 のこ されているクライネ・ミューレの本館 ほんかん は1726年 ねん に建設 けんせつ された。城 しろ 兵 へい の館 かん はブルク通 どお り2番地 ばんち (現在 げんざい は、カトリックの司祭 しさい 館 かん )および7番地 ばんち 、ランゲ通 どお り18番地 ばんち 、37番地 ばんち (区 く 裁判所 さいばんしょ )、45番地 ばんち 、47番地 ばんち にも遺 のこ されている。
クヴァーケンブリュックには上述 じょうじゅつ のほかに2つの教会 きょうかい がある。ノイシュタットにある福音 ふくいん 主義 しゅぎ の聖 せい ペトルス教会 きょうかい とヘンゲラーゲにあるカトリックの聖 せい パウルス教会 きょうかい で、ともに1960年代 ねんだい に建 た てられた。1955年 ねん まではノイシュタットに聖霊 せいれい 礼拝 れいはい 堂 どう があった。
クヴァーケンブリュック市立 しりつ 公園 こうえん
クヴァーケンブリュックは緑地 りょくち が豊 ゆた かな街 まち である。ノイシュタットには市民 しみん 公園 こうえん がある。アルトシュタットの端 はし に2006年 ねん に新 あら たに市立 しりつ 公園 こうえん が設 もう けられた。スイミングプールとスポーツ広場 ひろば の傍 かたわ らを抜 ぬ けるハーゼ川 かわ 沿 ぞ いの遊歩道 ゆうほどう は、ダイヒ湖 こ を通 とお ってシュッツェンホーフに至 いた る。
市 し の森 もり は中心 ちゅうしん 部 ぶ から数 すう キロメートル北東 ほくとう にある。ダイヒ湖 こ の北 きた には、1990年 ねん にハイラーツヴァルトが造成 ぞうせい された。ここでは新郎 しんろう 新婦 しんぷ や恋人 こいびと が植樹 しょくじゅ することができる。クヴァーケンブリュック市 し は木 き の販売 はんばい などの営利 えいり 業務 ぎょうむ を放棄 ほうき している。さらに植樹 しょくじゅ の料金 りょうきん も規則 きそく もない。単 たん に、土着 どちゃく の種 たね で健康 けんこう で寿命 じゅみょう の長 なが い広葉樹 こうようじゅ 、たとえばヨーロッパナラ 、フユナラ 、ヨーロッパブナ 、セイヨウシデ (ドイツ語 ご 版 ばん 、英語 えいご 版 ばん ) 、ノルウェーカエデ (ドイツ語 ご 版 ばん 、英語 えいご 版 ばん ) 、セイヨウミザクラ 、シナノキ属 ぞく 、ニレ などを植 う えることが推奨 すいしょう されている。
ダイヒ湖 こ と市 し の森 もり との間 あいだ に広 ひろ さ 18 ヘクタール のハーゼパルクがある。周 まわ りをハーゼ川 がわ が流 なが れるこの公園 こうえん は1902年 ねん に造成 ぞうせい された。2つのビオトープ と多 おお くの茂 しげ みが公園 こうえん 風 ふう の外観 がいかん を形成 けいせい しており。ここでは伝統 でんとう 的 てき なクヴァーケンブリュッカー・レンタークが開催 かいさい される。
クヴァーケンブリュックの屋外 おくがい プール
クヴァーケンブリュックのカヌーポロ
市 し の中心 ちゅうしん 部 ぶ の東側 ひがしがわ に、アルトラント=アレーナ、広 ひろ い体育館 たいいくかん 、様々 さまざま なスポーツグラウンド、アンツーカー トラック、屋外 おくがい ・屋内 おくない プール、テニスコート を備 そな えたスポーツ・レジャーゲレンデがある。
ディクラーガー通 どお り沿 ぞ いのハーゼパルクでは、9月の第 だい 1日曜日 にちようび にアルトレンダー・レンフェラインが主催 しゅさい するレンタークが行 おこな われる。このイベントは湖上 こじょう 障害 しょうがい 競走 きょうそう で全国 ぜんこく 的 てき に知 し られている。
ニーダーザクセン通 どお り/フリードリヒ通 どお り沿 ぞ いの旧 きゅう 軽便鉄道 けいべんてつどう 駅 えき から、廃 はい 線 せん になったクヴァーケンブリュック - ノルトルプ間 あいだ の軌道 きどう を利用 りよう したハンドカーを楽 たの しむことができる。
ノイシュタットの旧 きゅう 航空 こうくう 基地 きち は、模型 もけい 飛行機 ひこうき やグライダー 用 よう の飛行場 ひこうじょう として利用 りよう されている。
バスケットボール クラブ「アルトラント・ドラゴンズ (ドイツ語 ご 版 ばん 、英語 えいご 版 ばん ) 」のチームは2003年 ねん から2015年 ねん までバスケットボール・ブンデスリーガ でプレイした。2006/07年 ねん シーズンにドイツ選手権 せんしゅけん 準 じゅん 優勝 ゆうしょう 、2008年 ねん 5月 がつ には BBL杯 はい で優勝 ゆうしょう し、クラブ史上 しじょう 初 はつ のタイトルを獲得 かくとく した。2010/11年 ねん シーズンにバスケットッボール・ブンデスリーガのプレイオフ準決勝 じゅんけっしょう に進出 しんしゅつ した[54] 。
2015年 ねん 5月 がつ 3日 にち 、アルトラント・ドラゴンズはバスケットッボール・ブンデスリーガからの撤退 てったい を発表 はっぴょう した[55] 。
若手 わかて 世代 せだい の育成 いくせい は、アルトラント・ドラゴンズの母体 ぼたい クラブであるクヴァーケンブリュック体操 たいそう およびスポーツフェライン (QTSV) と共同 きょうどう で行 おこな われている[56] 。
年中 ねんじゅう 行事 ぎょうじ [ 編集 へんしゅう ]
アルトラント・アレーナでのアルトラント・ドラゴンズのバスケットボールの国内 こくない ・国際 こくさい 試合 しあい のほか、9月第 だい 1週 しゅう 末 まつ のアルトレンダー・レンターク[57] 、9月 がつ 半 なか ばのブルクマンフェスト[58] 、11月の「音楽 おんがく の日 ひ 」がこの街 まち の重要 じゅうよう な年中 ねんじゅう 行事 ぎょうじ である。
クヴァーケンブリュックの音楽 おんがく の日 ひ [ 編集 へんしゅう ]
クヴァーケンブリュックの音楽 おんがく の日 ひ は、1985年 ねん にクヴァーケンブリュックの学校 がっこう 音楽家 おんがくか ギュンター・シューリーメンによって創設 そうせつ され、2年 ねん に1度 ど 11月に開催 かいさい されている[59] 。このイベントは年 とし ごとに入 い れ替 か わるクラシック音楽 おんがく のコンサートシリーズで構成 こうせい されているが、そのほかのコンサートや演劇 えんげき 上演 じょうえん も行 おこな われる。イベントは、アルトラント=アレーナ、アルトラント=ギムナジウム、教会 きょうかい で開催 かいさい される。
2001年 ねん にはこれに加 くわ えて音楽 おんがく の日 ひ のサマーフェスティバルが開催 かいさい された。このフェスティバルは、以前 いぜん は毎年 まいとし 初夏 しょか にバートベルゲンのホーフ・ニートフェルトで開催 かいさい されていたもので(現在 げんざい は2年 ねん ごとに開催 かいさい )、通常 つうじょう 8つのイベントが行 おこな われる[59] 。
ザムトゲマインデは、2007年 ねん に予算 よさん 上 じょう の理由 りゆう から、サマーフェスティバルと音楽 おんがく の日 ひ を1年 ねん おきに交互 こうご に行 おこな うことを決定 けってい した。これにより約 やく 3万 まん ユーロの節約 せつやく が期待 きたい された。
名物 めいぶつ 料理 りょうり ・食材 しょくざい [ 編集 へんしゅう ]
パンハスのバリエーションである「ヴェプケブラウト」は、かつては朝食 ちょうしょく と昼食 ちゅうしょく の間 あいだ の軽食 けいしょく として好 この んで食 た べられていたが、現在 げんざい ではほとんど見 み られなくなった。ピッケルト もメニューから姿 すがた を消 け し、グリュンコールのような副 ふく 菜 さい が上位 じょうい を占 し めるようになった。ソバ粉 こ のパンケーキ 「ボークヴェーテンヤンヒンネルク」は、ソバ粉 こ のスープとともによく食 た べられる日 ひ 常食 じょうしょく で、かつてはエムスラントの地方 ちほう 料理 りょうり であったが、やがてアルトラントの地方 ちほう 料理 りょうり として知 し られるようになった。
経済 けいざい と社会 しゃかい 資本 しほん [ 編集 へんしゅう ]
水車 みずぐるま の存在 そんざい を初 はじ めて記述 きじゅつ した1235年 ねん の記録 きろく は、中世 ちゅうせい 盛期 せいき に根付 ねつ いた産業 さんぎょう 分野 ぶんや を示 しめ している。カール=ハンス・ハウプトマイヤーは、その論文 ろんぶん 「13世紀 せいき から16世紀 せいき のクヴァーケンブリュックの経済 けいざい 史 し 」[60] において、この集落 しゅうらく を農業 のうぎょう の中心 ちゅうしん 地 ち で、1278年 ねん 以降 いこう は組合 くみあい 方式 ほうしき に組織 そしき された地方 ちほう 貴族 きぞく や領主 りょうしゅ が保護 ほご する交易 こうえき 地 ち であったと見 み なしている。ここでは近隣 きんりん 集落 しゅうらく からの家畜 かちく 、穀物 こくもつ 、その他 た の作物 さくもつ が売買 ばいばい され、地元 じもと の聖堂 せいどう 参事 さんじ 会 かい に利益 りえき がもたらされた。
15世紀 せいき 半 なか ば、城 しろ 兵 へい の衰退 すいたい と時 じ を同 おな じくして、この街 まち の小 しょう 都市 とし 型 がた 経済 けいざい 生活 せいかつ が発展 はってん した。1435年 ねん に製靴 せいか 業者 ぎょうしゃ 、1443年 ねん に織 お 布 ぬの 手工業 しゅこうぎょう 者 しゃ 、1476年 ねん に仕立屋 したてや が組合 くみあい を結成 けっせい した。こうしたクヴァーケンブリュックのギルド は、当初 とうしょ は男女 だんじょ を含 ふく む宗教 しゅうきょう 的 てき 兄弟 きょうだい 会 かい から形成 けいせい された。1407年 ねん に聖母 せいぼ ギルド、1435年 ねん に聖 せい ジルヴェスター=ギルドが設立 せつりつ されたが、これらはどうやらこの街 まち の名士 めいし の集 あつ まりであったようで、職人 しょくにん や商人 しょうにん の組合 くみあい と見 み なすことはできない[61] 。1494年 ねん に毛織 けお り工 こう のツンフト が結成 けっせい された。毛織物 けおりもの は1488年 ねん から街 まち の外 そと で交易 こうえき されていたことが証明 しょうめい されている。彼 かれ らに市 し の縮 ちぢみ 絨工場 こうじょう やいくつかの染色 せんしょく 場 じょう が使 つか えるよう便宜 べんぎ が図 はか られた。
17世紀 せいき 後半 こうはん からクヴァーケンブリュックで錫 すず 鋳造 ちゅうぞう が行 おこな われていたことが証明 しょうめい されている。18世紀 せいき には同時 どうじ に4か所 しょ の鋳造 ちゅうぞう 所 しょ があり、この時代 じだい の高 たか い錫 すず 食器 しょっき 需要 じゅよう に応 こた えていた。クヴァーケンブリュッカー・クリューゲはその製品 せいひん の一 ひと つで、打 う ち出 だ し細工 ざいく された蓋 ぶた が造 つく られた工場 こうじょう を示 しめ していた。通常 つうじょう 、工場 こうじょう はその家族 かぞく に引 ひ き継 つ がれ、このためバールマン、シュナッケンベルク、エックホルト、ヘルシャーといった錫 すず 鋳造 ちゅうぞう マイスターの苗字 みょうじ が工場 こうじょう 名 めい の由来 ゆらい となった。最 もっと も生産 せいさん 量 りょう が多 おお かったのが1710年 ねん 生 う まれのルーベルト・ディードリヒ・バールマンで、今 いま も残 のこ る錫 すず 食器 しょっき にもしばしば彼 かれ のスタンプが刻印 こくいん されている。ゲルハルト・マティアス・ヘルシャー(1753年 ねん - 1841年 ねん )の刻印 こくいん もこれと同 おな じくらい存在 そんざい している。これらは、クロッペンブルク博物館 はくぶつかん 村 むら やクヴァーケンブリュック市立 しりつ 博物館 はくぶつかん で見 み ることができる。1850年 ねん 以降 いこう クヴァーケンブリュックの錫 すず 鋳造 ちゅうぞう 業 ぎょう は急速 きゅうそく に衰退 すいたい した。その数 すう 年 ねん 前 まえ からこの街 まち や周辺 しゅうへん 集落 しゅうらく から職人 しょくにん の移住 いじゅう が始 はじ まっていた。これはナポレオン統治 とうち 時代 じだい にツンフト制度 せいど が廃止 はいし されたことに端 はし を発 はっ している[29] 。
クヴァーケンブリュック周辺 しゅうへん 地域 ちいき の収穫 しゅうかく 指数 しすう (土壌 どじょう の肥沃 ひよく さを示 しめ す指数 しすう )は 35 - 45 で、これに隣接 りんせつ する地域 ちいき に比 くら べて良好 りょうこう と評価 ひょうか されている[62] 。この地域 ちいき は比較的 ひかくてき 遅 おそ い時期 じき に開墾 かいこん された砂地 すなじ 、湿地 しっち 、荒 あ れ地 ち であった。しかし、勾配 こうばい がわずかで、多 おお くの分流 ぶんりゅう となったハーゼ川 かわ がオスナブリュッカー・ベルクラントから長年 ながねん にわたってミネラルが豊富 ほうふ で肥沃 ひよく な沖積 ちゅうせき 土 ど を運 はこ び、蓄 たくわ えたことで、良質 りょうしつ な土壌 どじょう が形成 けいせい された。
アルトラントは、オスナブリュッカー・ラント全域 ぜんいき がそうであるように、伝統 でんとう 的 てき に小作農 こさくのう による耕作 こうさく がなされてきた地域 ちいき である。クヴァーケンブリュック周辺 しゅうへん では多 おお くの耕作 こうさく が営 いとな まれており、家畜 かちく 密度 みつど は低 ひく い。肥沃 ひよく な耕作 こうさく 地 ち では、カラスムギ 、ライムギ 、オオムギ 、さらには耕作 こうさく が難 むずか しいコムギ が栽培 さいばい されている。しばしば穀物 こくもつ 生産 せいさん の余剰 よじょう が生 う まれたため、「オスナブリュック司教 しきょう 領 りょう 」の穀物 こくもつ 庫 こ と呼 よ ばれていた[63] 。何 なに 世紀 せいき も経過 けいか するうち、裕福 ゆうふく な豪農 ごうのう 階級 かいきゅう が形成 けいせい されていった。その豊 ゆた かさは、現在 げんざい もアルトラント文化財 ぶんかざい に登録 とうろく されている数 すう 多 おお くの装飾 そうしょく 豊 ゆた かな古 ふる い館 かん に見 み ることができる。現在 げんざい では、こうした館 かん の大 だい 部分 ぶぶん の住人 じゅうにん が農場 のうじょう の主 しゅ たる相続 そうぞく 者 しゃ というわけではない。
2003年 ねん 時点 じてん で、クヴァーケンブリュックでは23軒 けん が農業 のうぎょう を営 いとな んでおり、1,269 ヘクタールが農地 のうち として利用 りよう されていた。このうち12軒 けん が飼料 しりょう 用 よう 作物 さくもつ 栽培 さいばい 、6軒 けん が穀物 こくもつ 栽培 さいばい 、2軒 けん が野菜 やさい ・果樹 かじゅ 栽培 さいばい に従事 じゅうじ していた。このほかの2軒 けん は接 つ ぎ木 き による品種 ひんしゅ 改良 かいりょう 、1軒 けん は畜産 ちくさん を行 おこな っていた。7軒 けん が専業 せんぎょう 農家 のうか であった。全部 ぜんぶ で74人 にん が農業 のうぎょう に携 たずさ わっており、このうち23人 にん がフルタイムの農業 のうぎょう 従事 じゅうじ 者 しゃ であった。耕作 こうさく 地 ち の約 やく 50 % がトウモロコシ や豚 ぶた および家禽 かきん 用 よう の飼料 しりょう 作物 さくもつ を中心 ちゅうしん とした穀物 こくもつ 栽培 さいばい に利用 りよう されており、約 やく 35 % が緑地 りょくち (放牧 ほうぼく 地 ち )であった。
100年 ねん 前 まえ までクヴァーケンブリュック周辺 しゅうへん には樹木 じゅもく が非常 ひじょう に少 すく なかった。市域 しいき の居住 きょじゅう 地 ち の外側 そとがわ は、薮 やぶ 状 じょう の荒 あ れ地 ち や湿地 しっち であるため乱作 らんさく が妨 さまた げられており、森林 しんりん が形成 けいせい されていた。アルトラントでは普通 ふつう に見 み られる古 ふる いオーク の木 き は、専 もっぱ ら私有地 しゆうち の農場 のうじょう 内 ない にあった。農民 のうみん 解放 かいほう 後 ご の農地 のうち 整理 せいり の過程 かてい で、入会地 いりあいち として利用 りよう されていた土地 とち の大 だい 部分 ぶぶん が私有地 しゆうち 化 か され、乱作 らんさく は急速 きゅうそく に減少 げんしょう した。新 あたら しい所有 しょゆう 者 しゃ は新 あら たに得 え た土地 とち の価値 かち を高 たか め、入会 にゅうかい 地 ち を計画 けいかく 的 てき に手入 てい れした。こうしてクヴァーケンブリュック市 し の北部 ほくぶ に 140 ヘクタールのシュタットヴァルト(市 し の森 もり )が形成 けいせい された。シュタットヴァルトは、2008年 ねん に1300本 ほん のオークが植林 しょくりん され、0.5 ヘクタール拡大 かくだい し、ハイラーツヴァルトとつながった。現在 げんざい では、シュタットヴァルトとハーゼ川 がわ の川岸 かわぎし は主 おも にオークとシラカバ からなる豊 ゆた かな混交 こんこう 林 りん となっている。
長年 ながねん にわたって、この街 まち にとって最 もっと も重要 じゅうよう な企業 きぎょう はキナスト社 しゃ であった。この会社 かいしゃ は2度 ど の倒産 とうさん を経 へ て2005年 ねん に新 あら たにキナスト=シュテール GmbH として再興 さいこう されたが、その重要 じゅうよう 性 せい は失 うしな われている。このほかにもクヴァーケンブリュックは1950年代 ねんだい からマットレス製造 せいぞう 、機械 きかい 製造 せいぞう 、化学 かがく 染料 せんりょう 工業 こうぎょう の中心 ちゅうしん 地 ち に成長 せいちょう した。化学 かがく 染料 せんりょう の会社 かいしゃ は、1950年 ねん に企業 きぎょう 12社 しゃ から設立 せつりつ された。
これ以外 いがい で現存 げんそん している大 おお きな企業 きぎょう はルフ社 しゃ だけである。この会社 かいしゃ は1920年 ねん から焼 や き菓子 かし の添加 てんか 物 ぶつ 、デザート、焼 や き菓子 かし 用 よう ミックスパウダーを製造 せいぞう している。この会社 かいしゃ は従業 じゅうぎょう 員 いん 数 すう 350人 にん で、2007年 ねん には18億 おく パックを製造 せいぞう した。1985年 ねん にドイツ食品 しょくひん 技術 ぎじゅつ 研究所 けんきゅうじょ (DIL) がクヴァーケンブリュックに設立 せつりつ された。この研究 けんきゅう 機関 きかん には150人 にん が従事 じゅうじ しており、400万 まん ユーロの予算 よさん を執行 しっこう し、主 おも な食品 しょくひん 関連 かんれん 企業 きぎょう との共同 きょうどう で公的 こうてき 研究 けんきゅう を行 おこな っている。自動車 じどうしゃ 産業 さんぎょう 下請 したう けのエアル・コーポレーションは1988年 ねん にこの街 まち に拠点 きょてん を置 お き、約 やく 250人 にん の従業 じゅうぎょう 員 いん で高級 こうきゅう 自動車 じどうしゃ シートを製造 せいぞう している。
ミュンスター/オスナブリュック国際 こくさい 空港 くうこう とブレーメン国際 こくさい 空港 くうこう はどちらもクヴァーケンブリュックからそれぞれ 80 キロメートルの距離 きょり にある。
クヴァーケンブリュックはクロッペンブルク (ドイツ語 ご 版 ばん 、英語 えいご 版 ばん ) からの連邦 れんぽう 道 どう B68号線 ごうせん 経由 けいゆ でオスナブリュック およびノルトライン=ヴェストファーレン州 しゅう 方面 ほうめん と結 むす ばれている。この連邦 れんぽう 道 どう は、アルトシュタットとヘンゲラーゲ地区 ちく との間 あいだ にあたる市域 しいき の北部 ほくぶ を通 とお っており、市 し の中心 ちゅうしん 部 ぶ の東側 ひがしがわ と南側 みなみがわ を迂回 うかい するバイパス道路 どうろ となっている。最寄 もよ りのアウトバーン のインターチェンジは、東 ひがし 約 やく 15 キロメートルに位置 いち する連邦 れんぽう アウトバーン A1号線 ごうせん のローネ/ディンクラーゲ・インターチェンジで、州 しゅう 道 どう L845号線 ごうせん でアクセスできる。西側 にしがわ 方面 ほうめん へは州 しゅう 道 どう L60号線 ごうせん がメンスラーゲ に伸 の びており、ここでレーニンゲン (ドイツ語 ご 版 ばん 、英語 えいご 版 ばん ) へ続 つづ くL74号線 ごうせん に接続 せつぞく する。レーニンゲンでは連邦 れんぽう 道 どう B213号線 ごうせん (欧州 おうしゅう 自動車 じどうしゃ 道路 どうろ E233号線 ごうせん )に接続 せつぞく しており、これを利用 りよう してアウトバーン A31号線 ごうせん (リンゲン およびメッペン (ドイツ語 ご 版 ばん 、英語 えいご 版 ばん ) /エメン )に向 む かうことができる。
クヴァーケンブリュック駅 えき
クヴァーケンブリュックは、ノルトヴェストバーン により運行 うんこう されている鉄道 てつどう ヴィルヘルムスハーフェン - オスナブリュック線 せん に接続 せつぞく している。この路線 ろせん のオルデンブルク までの一部 いちぶ 区間 くかん と当時 とうじ 国境 こっきょう 駅 えき のクヴァーケンブリュック駅 えき が開業 かいぎょう したのは1875年 ねん 10月 がつ 15日 にち であった。この非 ひ 電化 でんか 路線 ろせん では、気動車 きどうしゃ Type Lint 41 を使 つか ったレギオナルエクスプレス RE18 が運行 うんこう している。
ライン鉄道 てつどう 会社 かいしゃ によって1879年 ねん に開通 かいつう したデュースブルク - クヴァーケンブリュック線 せん は、数 すう 十 じゅう 年間 ねんかん 、ドイツ最後 さいご の大 だい 規模 きぼ 鉄道 てつどう 建設 けんせつ 工事 こうじ 計画 けいかく であった[64] 。これはヴァンネ=アイケル - ハンブルク 線 せん の競合 きょうごう 路線 ろせん として策定 さくてい され、特 とく に第 だい 一 いち 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん 中 ちゅう は、ルール地方 ちほう とヴィルヘルムスハーフェン軍港 ぐんこう とを結 むす ぶ最短 さいたん 経路 けいろ として重要 じゅうよう 視 し された。しかしこの路線 ろせん は、本来 ほんらい の目的 もくてき であるヴァンネ=アイケル - ハンブルク線 せん 「ロルバーン」の競合 きょうごう 路線 ろせん とはならなかった。
クヴァーケンブリュックとライネ との間 あいだ の旅客 りょかく 運行 うんこう は1969年 ねん に廃止 はいし され、同 おな じく間 あいだ の貨物 かもつ 輸送 ゆそう もその9年 ねん 後 ご に廃止 はいし された。これ以前 いぜん にライネ - クヴァーケンブリュック間 あいだ をインターシティー 実験 じっけん の試験 しけん 線 せん として整備 せいび する計画 けいかく があった。この計画 けいかく は、数 すう キロメートルの北西 ほくせい で同時 どうじ に建設 けんせつ されるエムスラント・トランスラピッド実験 じっけん 線 せん を補完 ほかん するものとして計画 けいかく された。やがてレジャー用 よう ハンドカーが利用 りよう しないクヴァーケンブリュック - シュペレ間 あいだ の軌道 きどう が撤去 てっきょ された。
1952年 ねん には、クヴァーケンブリュックからメンスラーゲ、ベルゲ を経由 けいゆ してリンゲンに至 いた る軽便鉄道 けいべんてつどう が開通 かいつう した。この軽便鉄道 けいべんてつどう は、連邦 れんぽう 鉄道 てつどう の駅 えき の西側 にしがわ に固有 こゆう の駅 えき を設 もう けた。
公共 こうきょう 旅客 りょかく 交通 こうつう は、オスナブリュック交通 こうつう 会社 かいしゃ のバス部門 ぶもん が担 にな っており、そのほかにもVOS-ノルト、ヴァーザー=エムス=リニーの様々 さまざま なバス路線 ろせん がある。
クヴァーケンブリュックは全長 ぜんちょう 142 キロメートルの観光 かんこう 街道 かいどう アルトラント=ルートの起点 きてん である[65] 。観光 かんこう 客 きゃく のグループは、廃止 はいし されたクヴァーケンブリュック=ライネ線 せん でハンドカーを楽 たの しむことができる[66] 。さらにアルトラントを旅 たび するサイクリング愛好 あいこう 者 しゃ にはクヴァーケンブリュック市内 しない を多 おお くの自転車 じてんしゃ 道 どう が通 かよ っている[67] 。
フェリエン湖 こ
釣 つ りの愛好 あいこう 者 しゃ は、ゲストカードによってクヴァーケンブリュック・スポーツフィッシングクラブ「フィッシェ」の管理 かんり する数 すう 多 おお くの水域 すいいき で釣 つ りをすることができる。このクラブが管理 かんり する水域 すいいき は、グローセ・ハーゼ川 がわ 、クライネ・ハーゼ川 がわ 、市域 しいき 内 ない のグローター運河 うんが 、ダイヒハーゼ川 がわ 、グローセ・ミューレンハーゼ川 がわ 、ハーゼ越 こし 水口 みずぐち 、ヴラウ川 がわ 、フェリエン湖 こ 、ダイヒ湖 こ 、バッガークーレ、レンプラッツ池 ち 、イム・フラッハ水域 すいいき である[68] 。
「ベルゼンブリュッカー・クライスブラット」は「ノイエ・オスナブリュッカー・ツァイトゥング」のローカル紙 し であり、クヴァーケンブリュックに編集 へんしゅう 本部 ほんぶ を置 お いている。同 おな じ建物 たてもの には、ザムトゲマインデ・アルトラントの図書館 としょかん やクヴァーケンブリュック市立 しりつ 図書館 としょかん が入居 にゅうきょ している。合 あ わせて2万 まん 冊 さつ を越 こ える書籍 しょせき を収蔵 しゅうぞう している。
さらにオスナブリュック郡 ぐん 北部 ほくぶ 、オルデンブルク南部 なんぶ およびエムスラントの一部 いちぶ (狭 せま い地域 ちいき のみ)を対象 たいしょう とする地方 ちほう 誌 し 「フォルトレッファー」が刊行 かんこう されている。この雑誌 ざっし は隔週 かくしゅう 刊 かん であるが、夏季 かき には数 すう 週間 しゅうかん 休刊 きゅうかん となる。「マルクトプラッツ」は、アルトラント=アトリエの隔月 かくげつ 間 あいだ の雑誌 ざっし である。「ON アム・ゾンターク」は、オスナブリュックおよびオスナブリュッカー・ラント向 む け情報 じょうほう 面 めん を有 ゆう する雑誌 ざっし で、日曜日 にちようび に刊行 かんこう されている。
1971年 ねん までクヴァーケンブリュックには2つの病院 びょういん 、福音 ふくいん 主義 しゅぎ のベターニエン病院 びょういん とカトリックのボロメウス病院 びょういん があったが、1971年 ねん 9月 がつ 23日 にち に統合 とうごう された。ニーダーザクセン州 しゅう 社会 しゃかい 省 しょう との共同 きょうどう 作業 さぎょう で420床 しょう の病院 びょういん 建設 けんせつ が計画 けいかく され、1974年 ねん 5月 がつ 14日 にち に定礎 ていそ がなされた。3年 ねん 後 ご に工事 こうじ は完成 かんせい し、ハウス I として業務 ぎょうむ が開始 かいし し、糖尿 とうにょう 病 びょう 関連 かんれん の医療 いりょう サービスが拡充 かくじゅう された。その1年 ねん 後 ご にベターニエン病院 びょういん が改築 かいちく 、改修 かいしゅう された。ハウス II には、新 あたら しい医療 いりょう 科 か である神経 しんけい 科 か と精神 せいしん 科 か が入居 にゅうきょ した。1999年 ねん のハウス II の近代 きんだい 化 か に伴 ともな い、神経 しんけい 科 か がハウス I に移転 いてん した。病院 びょういん のロビーや、エキュメニズムの礼拝 れいはい 堂 どう 「アルケ」では、定期 ていき 的 てき にコンサート、朗読 ろうどく 会 かい 、展示 てんじ 会 かい といった文化 ぶんか イベントが開催 かいさい されており、その多 おお くが無料 むりょう で入場 にゅうじょう できる[69] 。
アルトラント=ギムナジウム
クヴァーケンブリュックは学園 がくえん 都市 とし と称 しょう される。この街 まち には、北 きた ドイツで最 もっと も古 ふる いギムナジウム であるアルトラント=ギムナジウムがある。この学校 がっこう は、1354年 ねん に設立 せつりつ されたラテン語 らてんご 学校 がっこう にまで遡 さかのぼ る。3校 こう の基礎 きそ 課程 かてい 学校 がっこう 、1校 こう の本 ほん 課程 かてい ・実科 じっか 学校 がっこう (アルトラント本 ほん 課程 かてい ・実科 じっか 学校 がっこう )、1校 こう の養護 ようご 学校 がっこう (1966年 ねん に学習 がくしゅう 障害 しょうがい 者 しゃ のための特殊 とくしゅ 学校 がっこう として設立 せつりつ されたハーゼタールシューレ)、オスナブリュック郡 ぐん 立 りつ 経済 けいざい 学 がく ・経営 けいえい 学 がく 職業 しょくぎょう 専門 せんもん 学校 がっこう 、治療 ちりょう 教育 きょういく 、ポドロジー、糖尿 とうにょう 病 びょう 学 がく 、物理 ぶつり 療法 りょうほう 学 がく の専門 せんもん 学校 がっこう 、看護 かんご 学校 がっこう 、市民 しみん 大学 だいがく と様々 さまざま な教育 きょういく 施設 しせつ を完備 かんび している。また、オスナブリュック大学 だいがく 学士 がくし 課程 かてい の分校 ぶんこう 設立 せつりつ が計画 けいかく されている。さらにオスナブリュック郡 ぐん 立 りつ 音楽 おんがく 学校 がっこう 、ブルクマンスカペレ・クヴァーケンブリュック e.V. の音楽 おんがく 学校 がっこう 、市立 しりつ のスピーチ学校 がっこう 、多 おお くの予備校 よびこう がこの街 まち に存在 そんざい する。
クヴァーケンブリュックで最初 さいしょ の高等 こうとう 教育 きょういく 施設 しせつ がいつ設立 せつりつ されたかは、現在 げんざい も明 あき らかではない。確実 かくじつ なのは1354年 ねん に「rector scolarum in Quakenbr. 」(クヴァーケンブリュックの校長 こうちょう )という記述 きじゅつ が文献 ぶんけん に遺 のこ されていることである[70] 。この学校 がっこう が聖 せい ジルヴェスター修道 しゅうどう 会 かい の施設 しせつ で、元々 もともと は若 わか い聖職 せいしょく 者 しゃ を教育 きょういく していたという点 てん については、年代 ねんだい 記 き 作者 さくしゃ の見解 けんかい が一致 いっち している。一連 いちれん の会計 かいけい 記録 きろく から、遅 おそ くとも1507年 ねん からは市 し がこの学校 がっこう に関与 かんよ していることが判 わか っている。1893年 ねん まで学校 がっこう は聖 せい ジルヴェスター教会 きょうかい の付属 ふぞく 建造 けんぞう 物 ぶつ に入居 にゅうきょ していた。
1647年 ねん に首席 しゅせき 司祭 しさい フィトゥス・ビューシャーは新 あら たに学校 がっこう を設立 せつりつ した。古 ふる いラテン語 らてんご 学校 がっこう は福音 ふくいん 主義 しゅぎ の国民 こくみん 学校 がっこう と関連 かんれん しており、これとは別 べつ にカトリックの学校 がっこう があった。19世紀 せいき になるとラテン語 らてんご 教育 きょういく の独占 どくせん 体制 たいせい が弱体 じゃくたい 化 か し、クヴァーケンブリュック市 し 当局 とうきょく はプロギムナジウムへの変革 へんかく を要望 ようぼう した。この学校 がっこう は1832年 ねん に3人 にん の教師 きょうし 、3つのクラス、40人 にん の生徒 せいと で開校 かいこう した。その後 ご 生徒 せいと 数 すう は減少 げんしょう し続 つづ けたが、レアルギムナジウムに改編 かいへん されると生徒 せいと 数 すう は上昇 じょうしょう に転 てん じた。1874年 ねん に学校 がっこう はグローセ・ミューレン通 どお りの新 しん 校舎 こうしゃ に移転 いてん し、その後 ご 何 なん 度 ど も増 ふえ 改築 かいちく が繰 く り返 かえ された。しかし1964年 ねん に生徒 せいと 数 すう が550人 にん にまで増加 ぞうか したため、またしても新 しん 校舎 こうしゃ が必要 ひつよう となった。約 やく 700人 にん まで学 まな ぶことができる新 あたら しい学校 がっこう 建築 けんちく 群 ぐん は1967年 ねん 1月 がつ 20日 はつか に完成 かんせい した。この際 さい 、クヴァーケンブリュック出身 しゅっしん の当時 とうじ の経済 けいざい ・交通 こうつう 大臣 だいじん カール・メラーが祝辞 しゅくじ を述 の べた。
この街 まち の最 もっと も有名 ゆうめい な出身 しゅっしん は、1504年 ねん にクヴァーケンブリュックで生 う まれた宗教 しゅうきょう 改革 かいかく 家 か ヘルマン・ボンヌスである。このほかにこの街 まち で活動 かつどう した歴史 れきし 上 じょう の人物 じんぶつ としては、以下 いか の人物 じんぶつ がいる。バートベルク出身 しゅっしん の彫刻 ちょうこく 家 か で画家 がか 、さらにはヴァイオリン製作 せいさく 者 しゃ でもあるカール・アレダー、詩人 しじん のルートヴィヒ・ブリル、ノーベル賞 しょう 受賞 じゅしょう 者 しゃ クラウス・クリッツィング。クヴァーケンブリュック出身 しゅっしん 者 しゃ には、映画 えいが 歴史 れきし 家 か のエンノ・パタラスもいる。
ケッセ夫妻 ふさい ユルクとミンヒェンの泉 いずみ
ケッセ夫妻 ふさい ユルクとミンヒェン [ 編集 へんしゅう ]
おしどり夫婦 ふうふ の「ケッセ夫妻 ふさい ユルクとミンヒェン」、本来 ほんらい の名 な はゲルハルトとヴィルヘルミーネのケッセ夫妻 ふさい はクヴァーケンブリュック出身 しゅっしん である[71] 。彼 かれ らは晩年 ばんねん をクヴァーケンブリュックの救貧 きゅうひん 院 いん で暮 く らし、かごを編 あ んで生計 せいけい を立 た てていた。ユルクは1910年 ねん に、ミンヒェンは1917年 ねん に亡 な くなった。彼 かれ らは福音 ふくいん 主義 しゅぎ 墓地 ぼち の共同 きょうどう 墓地 ぼち に葬 ほうむ られた。彼 かれ らに泉 いずみ が捧 ささ げられた。
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これらの文献 ぶんけん は、翻訳 ほんやく 元 もと であるドイツ語 ご 版 ばん の参考 さんこう 文献 ぶんけん として挙 あ げられていたものであり、日本語 にほんご 版 ばん 作成 さくせい に際 さい し直接 ちょくせつ 参照 さんしょう してはおりません。
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