クヴァーケンブリュック

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紋章もんしょう 地図ちず
ぐん位置いち
基本きほん情報じょうほう
連邦れんぽうしゅう: ニーダーザクセンしゅう
ぐん: オスナブリュックぐん
ザムトゲマインデ: ザムトゲマインデ・アルトラント
緯度いど経度けいど: 北緯ほくい5240ふん38びょう 東経とうけい0757ふん27びょう / 北緯ほくい52.67722 東経とうけい7.95750 / 52.67722; 7.95750座標ざひょう: 北緯ほくい5240ふん38びょう 東経とうけい0757ふん27びょう / 北緯ほくい52.67722 東経とうけい7.95750 / 52.67722; 7.95750
標高ひょうこう: 海抜かいばつ 24 m
面積めんせき: 17.96 km2
人口じんこう:

13,612にん(2021ねん12月31にち現在げんざい[1]

人口じんこう密度みつど: 758 にん/km2
郵便ゆうびん番号ばんごう: 49610
市外しがい局番きょくばん: 05431
ナンバープレート: OS, BSB, MEL, WTL
自治体じちたいコード:

03 4 59 030

行政ぎょうせい庁舎ちょうしゃ住所じゅうしょ: Markt 1
49610 Quakenbrück
ウェブサイト: www.artland.de
首長しゅちょう: Tülay Tsolak
ぐんない位置いち
地図ちず
地図
クヴァーケンブリュックきゅう市街しがい街並まちなみときよしジルヴェスター教会きょうかいとう

クヴァーケンブリュック (ドイツ: Quakenbrück, [kvaːk̩nˈbrʏk][2]) は、ドイツ連邦れんぽう共和きょうわこくニーダーザクセンしゅうオスナブリュックぐん北部ほくぶザムトゲマインデ・アルトラント構成こうせいするで、バートベルゲンメンスラーゲノルトルプとともに構成こうせいするどうザムトゲマインデの本部ほんぶ所在地しょざいちである。ほんハーゼがわドイツばん英語えいごばん沿いに位置いちしている。クヴァーケンブリュックはオスナブリュッカー・ノルトラントとオルデンブルガー・ミュンスターラントとのあいだ位置いちするアルトラントの歴史れきしてき経済けいざいてき文化ぶんかてき中心ちゅうしんである。

クヴァーケンブリュックは1235ねんはじめて文献ぶんけん記録きろくされている。ほんはブルクマン(しろへい)のまちであり、のちにはハンザ都市としでもあった。ブルクマンスホーフにんだしろへいは、かつてオスナブリュック司教しきょうりょうきた防衛ぼうえい拠点きょてん役割やくわりった本市もといちしろ防衛ぼうえいにあたった。

本市もといち象徴しょうちょうてき建造けんぞうぶつ福音ふくいん主義しゅぎのジルヴェスター教会きょうかい、カトリックのマリエン教会きょうかい、かつて5つあったもんのうち唯一ゆいいつ現存げんそんするホーエ・プフォルテである。歴史れきしてききゅう市街しがいは、やく100むね様々さまざま時代じだい木組きぐ建築けんちく特徴とくちょうとする。

このまちは2010ねん創設そうせつ775ねんいわった。

地理ちり[編集へんしゅう]

クヴァーケンブリュック周辺しゅうへん地図ちず

位置いち[編集へんしゅう]

クヴァーケンブリュックはきたドイツ低地ていちうちの、アルトラント沼沢しょうたく中心ちゅうしん位置いちする。ここはたに砂地すなじ土地とち湿しめった低地ていち細分さいぶんされる平地ひらちである[3]みなみトイトブルクのもりからながれてくるハーゼがわは、クロッペンブルガー・ゲーストにいたり、そののぼ勾配こうばいのために西向にしむきにながれえる[4]。ハーゼがわ分岐ぶんきして、きたのエムス=フント=ゲーストの尾根おね迂回うかいするために川筋かわすじ西にしがるあたりにクヴァーケンブリュックがある。

都市とし文書ぶんしょかんのハービヒは1700ねんごろにこのまち立地りっちについて以下いかのようにしるしている。

そしてこのまち大変たいへん場所ばしょ位置いちしていることをめておく。ハーゼがわは、このまちのすぐ上流じょうりゅうがわで6ほんながれに分岐ぶんきして、ながれており、すべての不潔ふけつなものをながる。また、おおくのはしけられている。
ハインリヒ・ベーニング、Quakenbrück. Geschichte einer norddeutschen Kleinstadt[5]

地学ちがく[編集へんしゅう]

だい三紀みき高地こうち北側きたがわ位置いちする低地ていちない、ハーゼがわ氷河ひょうがだにでは勾配こうばいちいさいため内陸ないりくデルタドイツばん英語えいごばん形成けいせいされている。内陸ないりくデルタの土地とちは、そのだい部分ぶぶんがアルトラントに位置いち[6]こおりあいだ氷河ひょうがからしたみず作用さようによってしょうじた堆積たいせきぶつおも形成けいせいされている。このデルタは17世紀せいき以降いこうじんによってその姿すがたおおきさをおおきくえている。運河うんがつくられ、排水はいすいがなされ、かわには堤防ていぼうせき建設けんせつされた。とくにシュッツェンホーフちかくのこし水口みずぐち建設けんせつとグローセ・ハーゼがわ(ハーゼ川本かわもとりゅう)の迂回うかい工事こうじによって、1683ねん以降いこうクヴァーケンブリュックきゅう市街しがい洪水こうずいからまもられている。

ボーリング調査ちょうさ結果けっかは、さい上層じょうそうロームしつおよびすなしつ更新こうしん堆積たいせきぶつからなることをしめしている。さい上層じょうそうあつさはおよそ 5 -7 メートルであることをしめしている。このそうしたにはやく 10 メートルのあつさのロームしつおよびどろはいしつ堆積たいせきそうがある。25 - 30 メートルのふかさにあるすなしつ地層ちそうは、地下水ちかすいゆたかなおびすいそう形成けいせいしている。おびすいそうもっとあさ箇所かしょは 2 - 6 メートルのふかさにある[7]

市域しいきひろがり[編集へんしゅう]

このまちは、なに世紀せいきものあいだ半円はんえんがた発展はってんしてきた。これは、マルクト広場ひろばきたわずか 500 メートルをオルデンブルガー・ラントドイツばんとの国境こっきょうがあり、北側きたがわへの発展はってん不可能ふかのうであったためである。1972ねん地域ちいき再編さいへんによって、それまでエッセン (オルデンブルク)ドイツばん英語えいごばんぞくしていたヘンゲラーゲが合併がっぺいしたことでこの状況じょうきょう解消かいしょうした。みなみ市内しない西にしかってながれるクライネ・ハーゼかわ自然しぜん境界きょうかいとなっていたが、中世ちゅうせい初期しょきにはすでにはしけられた。ここには衛星えいせい集落しゅうらく「アントーニオルト」が発展はってんした。

半円はんえんがたまち形状けいじょう現在げんざいもはっきりと認識にんしきでき、まち西にしきたひがしとお連邦れんぽうどう B68号線ごうせんによって一層いっそう強調きょうちょうされている。連邦れんぽうどうはさんで北東ほくとうがわがハーケンカンプ地区ちくである。アルトシュタット(きゅう市街しがい)から鉄道てつどうけられた南西なんせいがわ部分ぶぶんが20世紀せいきはじめに建設けんせつされたノイシュタット(しん市街しがい)である。

市域しいき南北なんぼく最大さいだいはばやく 5.0 キロメートル、東西とうざいじくのそれはやく 7.0 キロメートルである。

構成こうせい[編集へんしゅう]

クヴァーケンブリュックの主要しゅよう地図ちず

市域しいき以下いか地区ちく構成こうせいされている: アルトシュタット(きゅう市街しがい人口じんこうやく 4,000にん)、ノイシュタット(しん市街しがいやく 5,000にん)、ハーケンカンプ(やく 2,500にん)、ヘンゲラーゲ(やく 2,000にん)、アントーニオルト、グート・フェール、エアホールングスゲビート・シュッツェンホーフ(シュッツェンホーフ保養ほよう[8]

クヴァーケンブリュックの「アルトシュタット」は五角形ごかっけいのマルクト広場ひろば周囲しゅういあつまっており、ランゲどおりをメインストリートとしている。アルトシュタット全域ぜんいきは、歩行ほこう速度そくど自動車じどうしゃ通行つうこうゆるされている。ランゲどおりは一方いっぽう通行つうこうで、自動車じどうしゃレーン、自転車じてんしゃレーン、歩行ほこうしゃレーンにかれている。一段いちだんたかくなっている歩行ほこうしゃレーンは色分いろわけされてしめされている。歩行ほこうしゃ専用せんよう地区ちく整備せいび放棄ほうきされている。

1348ねんハンセン病はんせんびょうペストがこのまちおそったとき、クライネ・ハーゼがわ対岸たいがんとおるシュタインどおりのシュタイン門外もんがいせいアントーニ施療せりょういん開設かいせつされた。この周辺しゅうへんはそのたちまち発展はってんし、「ザンクト・アントーニ・ハルベ・シュタット」とばれる衛星えいせい都市としとなった。「ハルベ・シュタット」(はん都市とし)とは、そこに住民じゅうみん住民じゅうみん集会しゅうかいはんひょう投票とうひょうけん行使こうしできる地区ちくで、うち市街しがいしろへいによるこの衛星えいせい都市としたいする措置そち否決ひけつできない状態じょうたい概念がいねんである。1398ねんには、シュタインどおりにたいしてザンクト・アントーニオルト、5つのもんのうちみなみもんであるシュタインもんたいしてアントーニもんという呼称こしょう定着ていちゃくした。

かつては「ヴィーラーゲ」とばた北西ほくせいの「ヘンゲラーゲ」は、グート・フェールの領域りょういき建設けんせつされた。この地区ちくは1972ねんまでオルデンブルガー・ラントにぞくしており、クヴァーケンブリュックの市域しいきとげのようにしてクヴァーケンブリュックが北西ほくせい方向ほうこうひろがるのをながらく阻止そししていた。

ノイシュタットの発展はってんは1920年代ねんだいはじまった。鉄道てつどう南西なんせいがわやく 250 ヘクタール以上いじょうのメルシュラントとよばれる無人むじん湿地しっち飛行場ひこうじょうつくられ、1935ねん空軍くうぐん基地きち拡充かくじゅうされた。だい世界せかい大戦たいせんちゅうには飛行機ひこうき整備せいび工場こうじょうもうけられた。1945ねんイギリスぐんによって占領せんりょうされ、おなねんポーランドぐんわたされた。1947ねんまつにこの土地とち占領せんりょうぐん兵士へいしから解放かいほうされ、1948ねんから軍事ぐんじ施設しせつ撤去てっきょはじまった。拡充かくじゅうされた軍事ぐんじ施設しせつおおくの建物たてもの保存ほぞんされ、企業きぎょうがこれに入居にゅうきょした。かつての軍事ぐんじ病院びょういん地区ちく民間みんかん病院びょういんとなり、ひがしプロイセンのレッツェン(現在げんざいギジツコ)で1909ねん創設そうせつされた婦人ふじん社会しゃかい奉仕ほうしだんははいえベターニエンもこうした建物たてもの入居にゅうきょした。1948ねんから1973ねんまで兵舎へいしゃ建物たてものにはブレーメン上級じょうきゅう郵政ゆうせいきょく郵便ゆうびん学校がっこう入居にゅうきょしていた。宿営しゅくえいおも民間みんかんじん居室きょしつとして利用りようされた。これに隣接りんせつする周辺しゅうへん地域ちいき集落しゅうらく形成けいせいされたことがあらたな市区しく成立せいりつ寄与きよした。

シュッツェンホーフ・レジャー地区ちくは、1847ねんにクヴァーケンブリュック射撃しゃげき協会きょうかい1589 e.V. によって東部とうぶ、ハーゼ川越かわごえ水口みずぐちちかくに宿泊しゅくはく施設しせつゆうする射撃しゃげきじょうもうけたことにはじまる。ここはそのすぐにハイキング目的もくてきとなり、「シャウプラッツ・ファーターレンディシャー・フェアアンシュタルトゥンゲン」(直訳ちょくやくすると「愛国あいこくてき行事ぎょうじ開催かいさいじょう」)に発展はってんした。広大こうだい公園こうえんないやく 2 キロメートルにおよぶオークの並木道なみきみちをアプローチにつローマふう建物たてものは、1970年代ねんだい解体かいたいされ、カフェ=レストラン、テニスコートやミニゴルフじょうそなえた近代きんだいてき建物たてものえられた。だがこの建物たてもの先代せんだい建物たてものくらべて人気にんきがあるとはえない[9]。それでもここは、みずうみちかく、様々さまざまなスポーツ施設しせつ充実じゅうじつした、広大こうだいで、おおくのひとおとずれるレジャー施設しせつ発展はってんした。射撃しゃげきじょうでは毎年まいとし射撃しゃげきさい開催かいさいされる。

隣接りんせつする市町村しちょうそん[編集へんしゅう]

クヴァーケンブリュックは、きたアッドルプむらのあるエッセン (オルデンブルク)ドイツばん英語えいごばんやく 6 キロメートル)、ひがしディンクラーゲドイツばん英語えいごばん (13 キロメートル)、みなみバートベルゲン (5 キロメートル)、西にしメンスラーゲ (12 キロメートル) とさかいせっする。

バートベルゲンとメンスラーゲは、クヴァーケンブリュックおよびノルトルプとともにオスナブリュックぐんうちザムトゲマインデ・アルトラント形成けいせいしている。ディンクラーゲはフェヒタぐんドイツばん英語えいごばん、エッセン (オルデンブルク) はクロッペンブルクぐんドイツばん英語えいごばんぞくす。

気候きこう[編集へんしゅう]

クヴァーケンブリュックは、きた海岸かいがん海洋かいようせい気候きこうから南部なんぶおよび東部とうぶ大陸たいりくせい気候きこうへの移行いこう位置いちするニーダーザクセンの温帯おんたい気候きこういきぞくしており、北海ほっかいからの湿しめった北西ほくせいふうにより影響えいきょうける海岸かいがんせい気候きこう特徴とくちょうつ。

クヴァーケンブリュックの年間ねんかん平均へいきん気温きおんは 8.5 - 9.0 ℃、年間ねんかん降水こうすいりょうやく 616 mm である(ドイツ全土ぜんど平均へいきん年間ねんかん降水こうすいりょうやく 800 mm)。もっとあたたかいつきは7がつと8がつで、その平均へいきん気温きおんは 17.2 ℃ および 16.9 ℃ である。もっとさむいのは1月と2がつで、平均へいきん気温きおんは 1.6 ℃ と 2.2 ℃ である。もっとおおくの降水こうすいがあるのは6月と7がつ平均へいきん月間げっかん降水こうすいりょうは 69 mm および 75 mm、もっとすくないのは2月と3がつで 36 mm と 42 mm である。5月から8がつまでのあいだ平均へいきん 20 -25にちなつがある。あめ日数にっすうは12月が10日とおかもっとおおいが、降水こうすいりょう 49 mm は平均へいきん程度ていどである。

また、クヴァーケンブリュック地域ちいきとベルゼンブリュック地域ちいき比較ひかくすると、前者ぜんしゃほう降水こうすいりょうすくないことに注意ちゅういすべきである。さらに 40 キロメートル西南せいなん西にしエムスラントドイツばん英語えいごばん位置いちするリンゲンにおける平均へいきん年間ねんかん降水こうすいりょう長期ちょうき平均へいきんは 789 mm で、200 mm ちかがある。こうした降水こうすいりょう分布ぶんぷは、おそらく一部いちぶは、この地域ちいき地理ちりてき環境かんきょう原因げんいんがある。クヴァーケンブリュックの南西なんせいに、氷河期ひょうがきモレーンでできた丘陵きゅうりょうであるアンクム高地こうちびている。この高地こうちきたドイツ低地ていちから南北なんぼく隆起りゅうきしており、その北端ほくたんベルゲちかくに位置いちしている。通常つうじょうきたドイツの海洋かいようせい気候きこう南西なんせいから北西ほくせいかぜ支配しはいてきである。この地域ちいき降水こうすいをもたらす南西なんせいからのかぜくと、この地域ちいき唯一ゆいいつ隆起りゅうきであるアンクム高地こうち若干じゃっかん風上かざかみ風下かざしもしょうじる。その結果けっか隆起りゅうきひがしから北東ほくとう地域ちいきでは、西にしから南西なんせい地域ちいきくらべて乾燥かんそうする。

住民じゅうみん[編集へんしゅう]

クヴァーケンブリュックの人口じんこう推移すいい

人口じんこう推移すいい[編集へんしゅう]

16世紀せいき初頭しょとうになってはじめてまち人口じんこうについての資料しりょう出現しゅつげんする。おも租税そぜい台帳だいちょう世帯せたいすうしるされており、ここから人口じんこう概数がいすう算定さんていすることができる。ニーダーザクセンしゅう州立しゅうりつ文書ぶんしょかんであるオスナブリュック州立しゅうりつ文書ぶんしょかん[10]は16世紀せいき台帳だいちょうを3さつ所蔵しょぞうしている。これを基礎きそに1512ねん、1532ねん、1599ねん人口じんこう推定すいていされるが、ここから2のペストの流行りゅうこう(1522ねんと1576ねんから1578ねん)やはちじゅうねん戦争せんそう影響えいきょう算出さんしゅつすることはできなかった。2度目どめのペストの流行りゅうこうでは710にん死亡しぼうしたとべつ文書ぶんしょつたえている。1667ねんから教会きょうかい記録きろく簿、1672ねんから Rauchschutzregister の運用うんよう開始かいしされ、文献ぶんけん状況じょうきょうくなっている。1772ねんからは人口じんこう調査ちょうさ結果けっか存在そんざいする。

だいいち世界せかい大戦たいせん人口じんこう推移すいいおよぼした影響えいきょうかんする研究けんきゅうはない。ドイツこく人口じんこう調査ちょうさは1925ねんはじめておこなわれたためである。だい世界せかい大戦たいせん影響えいきょう看過かんかできない。1946ねん人口じんこう追放ついほうされた人々ひとびとおおきく増加ぞうかしたにもかかわらず、1939ねん人口じんこうよりもすくなかった。

だい世界せかい大戦たいせん人口じんこうのわずかな減少げんしょうかえしあったものの、実質じっしつてきには故郷こきょうわれた人々ひとびとしゃたちの流入りゅうにゅうで、クヴァーケンブリュックの人口じんこうえず増加ぞうかしていった。人口じんこう密度みつどは、1939ねんやく530にん/km2 から2008ねんには 714にん/km2 にまで増加ぞうかした。

とし 人口じんこうひと
1512 900
1532 1,200
1599 1,600
1630 2,400
1670 1,700
1772 1,755
1793 1,748
1803 1,855
とし 人口じんこうひと
1816 1,989
1900 3,074
1910 3,910
1925 4,368
1933 4,497
1939 7,678
1946 6,917
1956 8,096
とし 人口じんこうひと
1961 8,777
1968 9,542
1970 9,970
1975 10,203
1980 9,807
1985 9,639
1990 10,478
1995 12,290
とし 人口じんこうひと
2000 12,534
2005 12,829
2007 12,822
2008 13,068
2011 13,223
2013 13,820

移住いじゅうしゃ[編集へんしゅう]

だい世界せかい大戦たいせん、クヴァーケンブリュック地方ちほうには、シレジアひがしプロイセンポンメルンズデーテン地方ちほうからわれた人々ひとびといた。これにくわえて、1960年代ねんだいからはトランシルヴァニアの、1970年代ねんだいからはオーバーシレジア英語えいごばんやそのポーランド地域ちいきのドイツけい住民じゅうみんうつみ、1980ねんからはドイツけいロシアじん、さらに1993ねん以降いこうはドイツはなせない家族かぞくおもロシアカザフスタンから移住いじゅうしてきた[11]

そのうえのドイツのおおきな都市とし同様どうように、経済けいざい成長せいちょう労働ろうどうりょく需要じゅよう外国がいこくじん労働ろうどうしゃ募集ぼしゅうおぎない、その一部いちぶがこのまち永続えいぞくてき定住ていじゅうした。こうして、20世紀せいきまつすうじゅう年間ねんかん流入りゅうにゅうしたロシアじんギリシアじんやく900にんないし700にんとなり、人口じんこううえではクヴァーケンブリュックでもっと有力ゆうりょく民族みんぞくコミュニティを形成けいせいした。ポーランドじん比較的ひかくてきおおきな民族みんぞくグループでやく250にんであるが、トルコじんなどの「古典こてんてき外国がいこくじん労働ろうどうしゃ」はやく100にんのとてもちいさなグループにえる。しかしこれらの労働ろうどうしゃがギリシア国籍こくせきゆうするおも西にしトラキアのトルコじんであることを考慮こうりょしなければならない[12]ぜん人口じんこうめる外国がいこくじん割合わりあいは、2008ねん12月1にち現在げんざい1,520にん、11.63 % である。このうち男性だんせいが 840にん (13.23 %)、女性じょせいが 680にん (10.18 %) である[13]。2011ねん人口じんこう調査ちょうさによれば、クヴァーケンブリュック住民じゅうみんの 36.6 % が移民いみん祖先そせん[14]

クヴァーケンブリュック住民じゅうみんは、70以上いじょうことなる国籍こくせき人々ひとびとあつまりである。これには移民いみんのほかにバスケットボールクラブ アルトラント・ドラゴンズで活動かつどうする選手せんしゅやスタッフもふくまれている。いくつかのくに1人ひとりまたは1家族かぞくだけがその国籍こくせき保有ほゆうしている。

クヴァーケンブリュックの2008ねん12月時点じてん男女だんじょべつ人口じんこうピラミッド

人口じんこうピラミッドと男女だんじょべつ分布ぶんぷ[編集へんしゅう]

クヴァーケンブリュックの未成年みせいねん(20さい未満みまん)の比率ひりつは 22.5 %(ドイツ全土ぜんどでは 21.3 %)、20さい以上いじょう60さい未満みまんは 48.7 % (55.7 %)、高齢こうれいしゃ(60さい以上いじょう)は 28.8 % (23 %) である。青年せいねん老人ろうじんは 46:29、ドイツ全土ぜんどのそれは 38:41 である[15]

宗教しゅうきょう[編集へんしゅう]

クヴァーケンブリュックは伝統でんとうてき福音ふくいん主義しゅぎまちである。しかし時代じだいによってとてもちいさなカトリック組織そしき形成けいせいされた。1628ねんには1人ひとりだけカトリック教会きょうかいぞくすフーゴ・マイヤーという名前なまえ人物じんぶつがいた[16]。そのすうてき発展はってんについては不明ふめいである。クヴァーケンブリュック住民じゅうみん宗教しゅうきょう分布ぶんぷについての統計とうけいつね記録きろくされていないためである。1600ねんごろ、カトリック住民じゅうみんは100にんいた[17]。1624ねんには37にんのカトリック信者しんじゃ記録きろくされている。この数値すうちはその150から200にん程度ていどにまで増加ぞうかした[16]。1662ねんのビンデルスの Geistlicher Polizei-Ordnung には以下いかのようにしるされている。

80にんえない、最大さいだい見積みつもっても 90にん程度ていど信者しんじゃ教会きょうかい建設けんせつした
リヒャルト・ビンデル、Geistliche Polizei-Ordnung des Fürstentums Osnabrück vom Jahre 1662[16]

住民じゅうみん登録とうろく台帳だいちょう信頼しんらいできる数値すうちはじめてつたえている。1803ねん人口じんこう調査ちょうさ宗教しゅうきょう分布ぶんぷ内容ないようふくんでおり、プロテスタント 1,603にん、カトリック 182にん記録きろくしている。カトリック住民じゅうみん比率ひりつはその増加ぞうかした。1833ねん人口じんこう調査ちょうさでは、その比率ひりつは 20 % をえ、2,279にん住民じゅうみんのうち、1,799にんルター、473にんがカトリック、7にん改革かいかくであった。1900ねんには 2,082にん福音ふくいん主義しゅぎ信者しんじゃと 992にんのカトリック信者しんじゃがクヴァーケンブリュックにんでいた。

20世紀せいき後半こうはんから、おも故郷こきょうわれた人々ひとびと流入りゅうにゅうしたことでカトリック組織そしきはさらに拡大かくだいした。

シナゴーグあとしめ記念きねんばん

1844ねん、クヴァーケンブリュックに最初さいしょユダヤじん家族かぞく定住ていじゅうした。そのすうじゅうねんあいだにユダヤけい住民じゅうみん増加ぞうかした。1867ねんに 17にん、1895ねんに37にんえ、1926ねんにはさい多数たすうやく 100にんたっした[18]。1897ねんにクヴァーケンブリュックにシナゴーグ建設けんせつされた。バートベルゲンにあったふる礼拝れいはいしょ解体かいたいされ売却ばいきゃくされたためであった。1913ねん会則かいそくにより、クヴァーケンブリュックは公式こうしきにシナゴーグ教区きょうく本部ほんぶ所在地しょざいちとなった。シナゴーグと並行へいこうしてクヴァーケンブリュックにはユダヤじん小学校しょうがっこうもうけられた。最初さいしょ教師きょうしは1898ねん就任しゅうにんした。10にんたないすくない生徒せいとすうのため学校がっこう存続そんぞくあやぶまれ、役所やくしょ学校がっこう閉鎖へいさなんかんがえた。ユダヤ教団きょうだんはこれにたいしてながらく抵抗ていこうし、クヴァーケンブリュックからの援助えんじょした。1924ねん、この学校がっこうはついに閉鎖へいさされ、最後さいご2人ふたり生徒せいと福音ふくいん主義しゅぎ学校がっこう編入へんにゅうされた。きゅうユダヤじん墓地ぼちはシュタイメラーゲ・ヴェークにある。この墓地ぼちは1930/31にんもうけられた。バートベルゲン近郊きんこうのグローテにあったこの教団きょうだんふる墓地ぼちらされてしまった[18]

2008ねん12月1にちのクヴァーケンブリュック住民じゅうみん登録とうろく統計とうけいによれば、福音ふくいん主義しゅぎルターは 5,604にん、ローマ=カトリック信者しんじゃは 4,050にんで、やはり25 % じゃくであった。2011ねん人口じんこう調査ちょうさは、福音ふくいん主義しゅぎ信者しんじゃが 46.5 %、ローマ=カトリック信者しんじゃが 30 %、せい教徒きょうとが 3.2 %、その宗教しゅうきょう信者しんじゃまたはいずれの宗教しゅうきょう団体だんたいにもぞくさないものが 19.2 % であった[19]

宗派しゅうは[20] 男声だんせい 女性じょせい けい
AK 復古ふっこカトリック教会きょうかい 1 0 1
LT 福音ふくいん主義しゅぎ=ルター 2,584 3,020 5,604
NW 不明ふめい 12 20 32
RF 福音ふくいん主義しゅぎ改革かいかく 12 17 29
RK ローマ=カトリック 1,915 2,135 4,050
VD そのほか 1,870 1,482 3,352
けい 6,394 6,674 13,068

歴史れきし[編集へんしゅう]

地名ちめい語源ごげん[編集へんしゅう]

1235ねんquakenbrugge という表記ひょうきはじめて登場とうじょうするこの奇妙きみょうまち名前なまえかくたる意味いみはほとんどかっていない。後半こうはん部分ぶぶんかわわたはし(ドイツ: Brücke) であることはあきらかであるが、前半ぜんはん部分ぶぶんについてはすうおおくの推測すいそくがなされている。ビャクシンふる表記ひょうきquakeln であり、すくなくない研究けんきゅうしゃがこのまち名前なまえを「たもとにビャクシンのあるはし」と解釈かいしゃくしている。しかし、大昔おおむかしはハーゼがわ沼地ぬまちであったこの地域ちいきに、いつビャクシンがあったのかうたがわしい。これにたいして、「小径しょうけい」「ちいさなはし」を意味いみするふるオランダkwak だとするせつがある。ほとんどの研究けんきゅうしゃ歴史れきしヘルマン・ロテールトがとなえる以下いかせつ賛同さんどうしている。

クヴァーケンブリュックという名前なまえは、カウキーぞく (Chauken) と同様どうよう、アングロサクソンChaukenふるえる)に由来ゆらいする。英語えいごquagmire、ユトランドkvag はこの言葉ことば由来ゆらいするが、どちらも「沼地ぬまち」を意味いみする。カウキーぞく海岸かいがん沼地ぬまちひとであり、クヴァーケンブリュックはれる小径しょうけいかるはし、あるいはもっと直接的ちょくせつてきれる沼地ぬまちうえかるはし意味いみしている。
ヘルマン・ロテールト、Geschichte der Stadt Quakenbrück in älterer Zeit[21]

近代きんだいのこのまちしめすキャラクターであるオタマジャクシ (ドイツ: Kaulquappen) やカエルとは関係かんけいがない。

はじまりとまち創設そうせつ[編集へんしゅう]

クヴァーケンブリュックの創設そうせつかんする文献ぶんけん存在そんざいしない。1383ねん大火たいかふる基盤きばんくしてしまった。研究けんきゅうしゃはオスナブリュック司教しきょう文書ぶんしょの1235ねん文献ぶんけん最初さいしょ資料しりょうとしているが、入植にゅうしょくはじまりはかなりふるいと推測すいそくされている。この最初さいしょ文献ぶんけんですでに水車みずぐるま話題わだいとなっているからである。これはおそらく堅牢けんろう司教しきょう荘園しょうえんについてべたものと推測すいそくされる。この荘園しょうえんは、地理ちりてき重要じゅうよう場所ばしょにあるハーゼがわ徒渉としょうまもっていた[21][22]参事さんじかい創設そうせつした司教しきょうねらいは、クヴァーケンブリュックは、テックレンブルクはくドイツばん英語えいごばんラーヴェンスベルクはくオルデンブルクはくドイツばん英語えいごばんたいする司教しきょうさいきたとりでとすることであった[23]

しろしろへいとそのかん[編集へんしゅう]

クヴァーケンブリュックのしろかんする最初さいしょ文献ぶんけん記録きろく1279ねんのもの(ただしその写本しゃほん)であり、司教しきょう創設そうせつ同時どうじか、それ以前いぜん建設けんせつされた。この城砦じょうさいこわしは15世紀せいきすえから16世紀せいき初頭しょとうおこなわれた。現在げんざいその遺構いこうられず、1970ねんあたらしい建物たてもの周囲しゅういしろへいかんった。マリエン教会きょうかいのすぐ裏手うらてにある隆起りゅうきあきらかに識別しきべつできる[5]のこされているのは、3むねのかつてのしろへいかんである。これらは、防衛ぼうえい脆弱ぜいじゃく場所ばしょ防衛ぼうえいする役割やくわりって戦略せんりゃくてきてられている。

防衛ぼうえい必要ひつようせいがなくなると、しろへい重要じゅうようせいうしなわれ、19世紀せいきはじめまでその名前なまえだけがのこった。市民しみん階級かいきゅう興隆こうりゅうによりクヴァーケンブリュックはおおきなマルクト広場ひろばゆうする市民しみん都市としとして発展はってんした。マルクト広場ひろばはかつてしろへい馬上もうえ試合しあいじょうであった場所ばしょだが、商業しょうぎょう中心ちゅうしんとなった。手工業しゅこうぎょうしゃ連合れんごうかい成立せいりつし、周辺しゅうへん地域ちいき取引とりひき関係かんけい締結ていけつされた。クヴァーケンブリュックは内陸ないりく地方ちほう海岸かいがん地方ちほうとの流通りゅうつう交易こうえき中心ちゅうしんとなった。はじめはしろへいのみが司法しほうけん行使こうししたが、1469ねん以降いこうは、市民しみん階級かいきゅう議会ぎかいでこれを代行だいこうするようになった。しろへいはこのころから独自どくじ印章いんしょう使用しようするようになった。1492ねんからは4にんしろへいと4にん市民しみん議会ぎかい形成けいせいした。この議会ぎかいは16世紀せいきまつから6にん市民しみんだけで形成けいせいされるようになった[24]

ヘルマン・ボンヌス

宗教しゅうきょう改革かいかく[編集へんしゅう]

クヴァーケンブリュックのヘルマン・ボンヌスがもたらした宗教しゅうきょう改革かいかくはこのまち根付ねつき、変革へんかくをもたらした。ボンヌスは、オスナブリュック教区きょうくのみならず、きたドイツ全体ぜんたい教会きょうかい発展はってん寄与きよした。クヴァーケンブリュックでは抵抗ていこうはなく、住民じゅうみん一部いちぶはすぐに福音ふくいん主義しゅぎ改宗かいしゅうし、あるいは中立ちゅうりつ立場たちばった。参事さんじかい教会きょうかいはこれにより福音ふくいん主義しゅぎ改宗かいしゅうされた。

いくらかの例外れいがいのぞき、カトリック教徒きょうとはその福音ふくいん主義しゅぎ信仰しんこうれた。ボンヌス自身じしんはその郷里きょうりつね連帯れんたいし、福音ふくいん主義しゅぎ信仰しんこう急速きゅうそくひろまることをよろこばしくおもった。1536ねん低地ていちドイツ聖書せいしょ稿こう故郷こきょう教会きょうかい寄贈きぞうしたことがそのきっかけの1つであった。これは『ボンヌス聖書せいしょ』というられている。
せいジルヴェスター教会きょうかい[25]

1544ねんハンザ同盟どうめい加盟かめいし、裕福ゆうふく市民しみんしょう都市としとなったクヴァーケンブリュックでは、100ねん以上いじょうにわたる宗教しゅうきょう転変てんぺんはじまった。おもにカトリック住民じゅうみんかこまれた福音ふくいん主義しゅぎ少数しょうすう地域ちいき発展はってんしたためである。それは様々さまざま災厄さいやく時代じだいでもあった。1565ねんにグローセ・ミューレンどお沿いの32けん家屋かおく焼失しょうしつ1522ねんにすでにこのまち猛威もういをふるい住民じゅうみんだい部分ぶぶんいのちうばったペスト1576ねんから1578ねんさい流行りゅうこうした。このときは110けんいえで710にん死亡しぼうした。グローセ・ミューレンどお沿いだけで70にんくなった。

さんじゅうねん戦争せんそう[編集へんしゅう]

クヴァーケンブリュックにおけるさんじゅうねん戦争せんそうは、1623ねんカトリック連盟れんめいが「驚愕きょうがく過激かげきさとともに」[26]入城にゅうじょうしたことからはじまった。それは様々さまざま戦闘せんとう部隊ぶたいわりわり本市もといち占領せんりょうすることにえる時代じだいはじまりであった。カトリック連盟れんめい司令しれいかんティリーはく1627ねんにクヴァーケンブリュックにたいして保護ほごじょう発行はっこうしたが、実際じっさいにはなん効力こうりょくたなかった。その1ねんに225にんの「防衛ぼうえい部隊ぶたい」がこのまち宿営しゅくえいし、そのスウェーデンぐんもこのまち滞在たいざいした。1635ねん、スウェーデンの中隊ちゅうたいがカトリックぐん攻撃こうげきけ、このまちりょうぐん兵士へいしによって略奪りゃくだつされた。りょうぐん戦闘せんとうまえほんのこされた最後さいご防衛ぼうえいさくは、ハーゼがわかるはし破壊はかいし、請願せいがんしょをオスナブリュックにおくり、すくいをうことだけであった[27]

フェルデンドイツばん英語えいごばん教区きょうく監督かんとくフィトゥス・ビューシャーはスウェーデンぐん同意どういてこの地域ちいき福音ふくいん主義しゅぎ信仰しんこう根付ねつかせる努力どりょくおこなった。オスナブリュックの司教しきょう領主りょうしゅ復位ふくいしたフランツ・ヴィルヘルム・フォン・ヴァルテンベルクドイツばん英語えいごばんは、1650ねんフランシスコかいたいし、クヴァーケンブリュックに拠点きょてんき、わずかにのこったカトリック信者しんじゃたましい救済きゅうさいつとめるよう委託いたくした。

さんじゅうねん戦争せんそう終戦しゅうせんCapitulatio perpetua Osnabrugensis(オスナブリュック恒久こうきゅう降伏ごうぶく協定きょうてい)にもとづき、参事さんじかい礼拝れいはいどう所領しょりょうりょう宗派しゅうは分割ぶんかつされた。カトリックがわおもきゅう主席しゅせき司祭しさいかんおよびじょにん司祭しさいかん土地とち建物たてものた。これらは福音ふくいん主義しゅぎがわに 762帝国ていこくターラードイツばん英語えいごばんもどされた。カトリック教区きょうく組織そしきはこの売却ばいきゃくえきをマルクト広場ひろばきゅう城砦じょうさいとのあいだ土地とち購入こうにゅうてた。ここにはかつてのしろへい屋敷やしきあとやこれに付属ふぞく防衛ぼうえいとうがあった[28]。フランツ・ヴィルヘルム・フォン・ヴァールテンベルクは1652ねん、この場所ばしょにマリエン教会きょうかい礎石そせきえた。その完成かんせいは1696ねんにまで長引ながびいた。

このまちは17世紀せいきまつふたた興隆こうりゅうした。1667ねんにはちぢみ装置そうち亜麻あまぬの倉庫そうこをもつ2市営しえい水車みずぐるま周辺しゅうへんに 44けん織物おりもの職人しょくにんんでいた。1750ねんには、シュレーダー・アム・マルクト商店しょうてん設立せつりつされた。この商店しょうてんは、ヨーロッパ全土ぜんど活動かつどうする商人しょうにん一族いちぞく本店ほんてんとして機能きのうした。クヴァーケンブリュックは、1769ねんには 10けんすず職人しょくにんようするニーダーザクセン西部せいぶすず加工かこう中心ちゅうしんとなっていた。「クヴァーケンブリュックのつぼ」は専門せんもんあいだ評判ひょうばんはくした[29]

1800ねんごろのクヴァーケンブリュック絵図えず

ナポレオン時代じだい[編集へんしゅう]

クヴァーケンブリュックは1795ねんイギリスぐんによって占領せんりょうされ、この占領せんりょう状態じょうたいは5年間ねんかんつづいた。さらに1802ねん6月3にちフランス統治とうち時代じだいはじまり、オスナブリュックほうりょうドイツばん英語えいごばんブラウンシュヴァイク=リューネブルクせんみかどほうりょう編入へんにゅうされた。1806ねんプロイセン勝利しょうりによりプロイセン王国おうこくりょうとなり、軍隊ぐんたい駐留ちゅうりゅうする都市としとなった。1807ねんナポレオン・ボナパルト勝利しょうりし、このまちヴェストファーレン王国おうこく一部いちぶとなった。オルデンブルクおおやけりょうとの境界きょうかい位置いちし、それまでも物資ぶっしであったこのまちは、イギリスと大陸たいりくとの交易こうえきはば大陸たいりく封鎖ふうさにより、みつ貿易ぼうえき中心ちゅうしんへと一層いっそう発展はってんげた。大陸たいりく封鎖ふうさ緩和かんわによって1811ねん1がつ1にち、Départements Nord がふたたうしなわれ、ナポレオンによるフランス王国おうこく直接ちょくせつ統治とうちりょうとなった[30]1811ねんから1814ねんまでクヴァーケンブリュックは、アンクム小郡おごおりクロッペンブルクドイツばん英語えいごばん小郡おごおりフリーゾイテドイツばん英語えいごばん小郡おごおりレーニンゲンドイツばん英語えいごばん小郡おごおりフェヒタドイツばん英語えいごばん小郡おごおりフェルデンドイツばん英語えいごばん小郡おごおりヴィルデスハウゼンドイツばん英語えいごばん小郡おごおりの56町村ちょうそんふくむ、人口じんこうやく10まんにん相当そうとうするぐん行政ぎょうせい中心ちゅうしんとなった。高等こうとう裁判所さいばんしょがクヴァーケンブリュックにもうけられた[31]ライプツィヒ近郊きんこうしょ国民こくみん戦争せんそう結果けっか1813ねんにナポレオンの衰退すいたい明白めいはくになり、1815ねんウィーン会議かいぎでクヴァーケンブリュックはあらたに建国けんこくされたハノーファー王国おうこくりょうとなり、あらたな都市とし行政ぎょうせい機構きこうとなり、商人しょうにんのアントン・シュレーダーが初代しょだい市長しちょうとなった。

工業こうぎょう[編集へんしゅう]

クヴァーケンブリュックでは19世紀せいき染色せんしょく産業さんぎょう皮革ひかく産業さんぎょうおよびブラシコットンぎん製品せいひん製造せいぞうぎょうさかんになった。1875ねん10月15にちオルデンブルクからクヴァーケンブリュックを経由けいゆしてオスナブリュックいた鉄道てつどう開通かいつうした。この鉄道てつどうは1849ねんにすでに最初さいしょ計画けいかく立案りつあんされていたが、当時とうじ小国しょうこく分立ぶんりつ状態じょうたいでは、各国かっこく利益りえき調整ちょうせい困難こんなんであった[32]

開通かいつう当初とうしょ、クヴァーケンブリュックには駅舎えきしゃがなかった。はじめはレストラン・イムブッシュ(のちにレストラン・ゲスリング)で切符きっぷ販売はんばいされていた。1875ねんまつ暫定ざんていてきかり駅舎えきしゃもうけられ、1910ねんにやっと最終さいしゅうてき駅舎えきしゃがれた。かつてこのえきは、軽便鉄道けいべんてつどうリンゲン - ベルゲ - クヴァーケンブリュックせんえき区別くべつするために、中央ちゅうおうえきばれていた。

世界せかい大戦たいせん国家こっか社会しゃかい主義しゅぎ[編集へんしゅう]

だいいち世界せかい大戦たいせんでは、クヴァーケンブリュック出身しゅっしん兵士へいしが168にん死亡しぼうした。1930ねん、シュッツェンホーフアレーにかれらの栄誉えいよりんもうけられた。このほかの記念きねん場所ばしょとしては、ショルレマー=リーザー男爵だんしゃくクレメンスが1916ねん5月29にちにクヴァーケンブリュック寄贈きぞうした「てつしろへい」や寄附きふきん建立こんりゅうされた「ナーゲルング」がある。クヴァーケンブリュック市庁舎しちょうしゃ議会ぎかいじょうロビーに設置せっちされたこのぞうはフランスのポプラざいつくられており、鎖帷子くさりかたびらにつけ、たてけんつ13世紀せいきから14世紀せいきしろへい姿すがたである。このぞうはショルレマー大隊だいたい2人ふたり兵士へいしかたどっている[33]

黄金おうごんの20年代ねんだい」にほん一時いちじてき経済けいざいなおしがなされた。経済けいざい危機ききのピークとなった1932ねんにこの小康しょうこう状態じょうたい過去かこのものとなった。このとし、220にん失業しつぎょうしゃ発生はっせいし、営業えいぎょうぜいは2年間ねんかんで60,000ライヒスマルクから16,000ライヒスマルクにまで減少げんしょうした。1932ねん11月6にち国会こっかい議員ぎいん選挙せんきょNSDAP は 650ひょう獲得かくとくし、1933ねん3月5にち国会こっかい議員ぎいん選挙せんきょでは得票とくひょうりつ 36.4 % にあたる1,019ひょう獲得かくとくした。この得票とくひょうりつは、ドイツ全体ぜんたい得票とくひょうりつ 43.9 % よりもかなりひくいが、ナチスはクヴァーケンブリュックでももっとおおきなちからった政党せいとうとなった[5][18][34]。この結果けっかと、1933ねんからられた国家こっか社会しゃかい主義しゅぎてき環境かんきょう強化きょうかによって、クヴァーケンブリュックでもなつまでにナチスによる権力けんりょく掌握しょうあくがなされた。とくに「メルツゲファレーネ」[訳注やくちゅう 1]には住民じゅうみんおおくがNSDAPやその下部かぶ組織そしき入会にゅうかいした。そのさい有用ゆうようであったのは、保守ほしゅてきでカトリック環境かんきょうにあったエリート階級かいきゅう一部いちぶをNSDAP地方ちほうグループのトップにけたり、あたらしい帝国ていこく宰相さいしょう有利ゆうりになるようなかたち公的こうてき忠誠ちゅうせいしん表明ひょうめいをさせたりすることであった[35]。これらは、「経済けいざい活性かっせい」のための国家こっか投資とうしによって実施じっしされた。それはあたかもイギリスの経済けいざい学者がくしゃケインズ英語えいごばん提唱ていしょうする経済けいざい政策せいさく実地じっち応用おうようしたようであった。クヴァーケンブリュックにとって重要じゅうようであったのは、1928ねんにアルトラント航空こうくう協会きょうかいによってのちのノイシュタットにあたるメルシュラント(1993ねんまで公式こうしきにはメルシュラント地区ちくばれていた)にもうけられた飛行場ひこうじょうが、ナチスの権力けんりょく掌握しょうあく1933ねんさい軍備ぐんびともなって拡張かくちょうされたことであった。おなねん航空こうくう中隊ちゅうたいがクヴァーケンブリュックに配備はいびされることになった。1935ねん飛行場ひこうじょう拡張かくちょう工事こうじはじまり、「クヴァドラート」という偽名ぎめいばれた。1940ねんから戦闘せんとう飛行ひこうだん駐留ちゅうりゅうした。この戦闘せんとう飛行ひこうたいハインケル He111 ばくげきユンカー Ju 88 ばくげき戦争せんそう後期こうきには連合れんごう国軍こくぐんばくげきたいする防衛ぼうえいとして戦闘せんとう部隊ぶたい配備はいびされた。

きゅう空軍くうぐん基地きち

とく重要じゅうようなのはクヴァーケンブリュックが、損傷そんしょうした動力どうりょく機械きかい修復しゅうふくするおおきな飛行機ひこうき修理しゅうり工場こうじょうたことであった。1943ねんはじめに修理しゅうり工場こうじょうだい部分ぶぶんみなみフランスに移転いてんした。その連合れんごう国軍こくぐんはこの飛行ひこう基地きち察知さっちし、再三さいさんにわたって空爆くうばく目標もくひょうとした。1944ねんせい土曜日どようびおこなわれたもっとはげしい攻撃こうげきによってうち市街しがい被害ひがいけ、すうおおくの建物たてもの損傷そんしょうまたは全壊ぜんかいした。終戦しゅうせん直前ちょくぜん飛行ひこう基地きち航空機こうくうき撤退てったいした。1945ねん4がつ11にちにイギリスぐんがこの飛行場ひこうじょう占領せんりょうし、クヴァーケンブリュックにおけるだい世界せかい大戦たいせん終了しゅうりょうした[36]。イギリスぐんはこの基地きちをポーランドぐん委託いたくした。ポーランドぐん1947ねんまで駐留ちゅうりゅうした。

1933ねん6がつ時点じてんでクヴァーケンブリュックには 46にんユダヤけい住民じゅうみんがいた。そのまれたひと移住いじゅうしてきたひとふくめると、国家こっか社会しゃかい主義しゅぎ時代じだいにクヴァーケンブリュックにんでいたユダヤじんやく 60にん推測すいそくされる[18]1935ねんからはんユダヤてき事件じけん増加ぞうかする。1935ねん8がつ市営しえいプールに「ユダヤじんことわり」の看板かんばんてられた。オスナブリュック行政ぎょうせい長官ちょうかん命令めいれいによって、公務員こうむいんがユダヤじんいえむことは禁止きんしされた。1936ねんはじめ、クヴァーケンブリュックの役所やくしょつとめる公務員こうむいん従業じゅうぎょういんがユダヤじん商店しょうてんものをすることがきんじられた。1938ねん11月10にち、クロッペンブルクのSA大佐たいさはクヴァーケンブリュックの突撃とつげきたい少佐しょうさシナゴーグ放火ほうかし、ユダヤじん全員ぜんいん逮捕たいほするよう命令めいれいくだした。5にんのクヴァーケンブリュックのユダヤじんがSAに逮捕たいほされたが、オランダじん家畜かちくしょうラザルス・コーンは釈放しゃくほうされた。55さい以上いじょう釈放しゃくほうせよというぐん役場やくば命令めいれい実行じっこうされなかった。保護ほご拘禁こうきんかえされ、の3にんとともにブーヘンヴァルト強制きょうせい収容しゅうようしょ送致そうちされた。宗教しゅうきょう指導しどうしゃのエルンスト・ベールはここで(公的こうてき記録きろくによれば)「心不全しんふぜん発作ほっさのために死亡しぼうした。の3にんは12月または1がつ命令めいれいにより「間近まぢかせまった移送いそうわずらわされる」ことをまぬかれた[37]

1939ねん5がつ23にち、クヴァーケンブリュックにはユダヤじん世帯せたいぬしがいなくなった。しかし1939ねん5がつ17にち住民じゅうみん調査ちょうさではほんには10にんのユダヤじん登録とうろくされており、いずれもハーゼどおり6番地ばんちいえんでいた。1941ねん3がつ12にち当局とうきょくは、クヴァーケンブリュックは「ユダヤじんフリー」であると宣言せんげんした。

だい世界せかい大戦たいせん、クヴァーケンブリュックで「水晶すいしょうよる」を煽動せんどうした6にん裁判さいばんけられた。被告人ひこくにん1人ひとり無罪むざい、5にんは2ねん2ヶ月かげつ自由じゆうけいとされた[18]

戦後せんご、3にんのクヴァーケンブリュックのユダヤじん故郷こきょうまちもどってきた。シナゴーグがあった場所ばしょには1983ねん記念きねんばんもうけられた。

現代げんだい[編集へんしゅう]

クヴァーケンブリュックは1969ねんふたた軍隊ぐんたい駐屯ちゅうとんとなった。ドイツ連邦れんぽうぐん救護きゅうご業務ぎょうむぐん中隊ちゅうたいがノイシュタットに駐屯ちゅうとんした。北部ほくぶ司令しれいのクヴァーケンブリュック救護きゅうご業務ぎょうむぐん中央倉庫ちゅうおうそうこもうけられた。

現代げんだいいたるまで、クヴァーケンブリュックは国境こっきょうとりでとして設立せつりつされ、機能きのうしてきた。現在げんざい地域ちいき再編さいへんによって幾分いくぶんきた移動いどうしたが、1972ねんまで、マルクト広場ひろばから直線ちょくせん距離きょりでわずか 500 メートルにあったオルデンブルガー・ラントとの国境こっきょうは、なに世紀せいきものあいだこのまち発展はってんさまたげとなっていた。ここは、古代こだいザクセン時代じだいにはフォルンガウとハーゼガウとをけており、のちにはオスナブリュック司教しきょうりょうとミュンスターりょう境界きょうかいであり、さらにはプロイセン王国おうこくハノーファーしゅうドイツばん英語えいごばんオルデンブルク大公たいこうこくドイツばん英語えいごばんとの国境こっきょうとなっていた。

1972ねん地域ちいき再編さいへん以降いこうクヴァーケンブリュックはバートベルゲンメンスラーゲノルトルプとともにザムトゲマインデ・アルトラント形成けいせいしている。さらにヘンゲラーゲとグート・フェールを合併がっぺいした。1972ねんまでクヴァーケンブリュックがぞくしていたベルゼンブリュックぐんオスナブリュックぐん一部いちぶとなったため、クヴァーケンブリュックは現在げんざいオスナブリュックぐんぞくしている。

戦後せんごドイツにおいてクヴァーケンブリュックは、おおくの中央ちゅうおう機関きかん工業こうぎょうけい企業きぎょうをノイシュタットに誘致ゆうちした。最大さいだい製造せいぞう業者ぎょうしゃがキナストしゃであった。この会社かいしゃは1960年代ねんだい従業じゅうぎょういん1,000にん以上いじょうようするクヴァーケンブリュックおよびこの地域ちいき最大さいだい雇用こようぬし発展はってんした。1984ねんには1,500まんだい自転車じてんしゃ販売はんばいし、13まん平方へいほうメートルの工場こうじょうで1,600にん従業じゅうぎょういんはたらくヨーロッパの自転車じてんしゃ製造せいぞうぎょうにおけるリーディングカンパニーに成長せいちょうした。しかしアジアを中心ちゅうしんとする競合きょうごう相手あいてあらわれたことで1990年代ねんだいはじめから国内外こくないがい販売はんばい台数だいすう劇的げきてき減少げんしょうし、1999ねんにキナストしゃ倒産とうさん宣言せんげんした。様々さまざま改善かいぜんさくしん事業じぎょうがなされたが、自転車じてんしゃ、レジャー家具かぐ芝刈しばか製造せいぞうでは成果せいかがらず、2005ねん閉鎖へいさされた。2006ねんからあらたに開始かいししたキナスト=シュテール GmbH では、てつパイプの製造せいぞうつづおこなわれている。

なんじゅうねんものあいだクヴァーケンブリュックのノイシュタットで権勢けんせいほこったキナストのほかにも、おおくの製造せいぞう業者ぎょうしゃがあった。マットレス製造せいぞう業者ぎょうしゃシュララフィア、リア・コーポレーションや、1980年代ねんだいはじめには毎日まいにち180まんたまご選別せんべつ包装ほうそうして年間ねんかん売上うりあげがくやく1おくドイツ・マルクに成長せいちょうしたドイチェ・フリューシュテュックスアイ=ゲゼルシャフトの支店してんがあった。1985ねんには民間みんかん工業こうぎょう開発かいはつ研究所けんきゅうじょ DIL がクヴァーケンブリュックに開設かいせつされた。

しかし1980年代ねんだい構造こうぞう危機ききけられた工業こうぎょうけい企業きぎょうはわずかであった。ベッカー車体しゃたい自動車じどうしゃ製造せいぞう、ルフ食品しょくひん工場こうじょう、JCK ホールディング GmbH テキスタイル KG などが存続そんぞく成功せいこうしたれいである。ルフ食品しょくひん工場こうじょうは、従業じゅうぎょういん 365にんようする生産せいさん工場こうじょううち市街しがい唯一ゆいいつ会社かいしゃである。テキスタイル分野ぶんや企業きぎょうギュンター・コルマンは、JCK ホールディング GmbH テキスタイル KG を経営けいえいしている。この会社かいしゃはテキスタイル部門ぶもんすうおおくの企業きぎょう(その一部いちぶはクヴァーケンブリュックに存在そんざいする)を傘下さんか上位じょうい会社かいしゃである。かつてバスケットボール・ドイツ代表だいひょうチームの選手せんしゅであったコルマンは[38]地元じもとバスケットボールクラブ「アルトラント・ドラゴンズ」のサポーターであり、メインスポンサーである。

市町村しちょうそん合併がっぺい[編集へんしゅう]

1972ねん7がつ1にちに、隣接りんせつするエッセン (オルデンブルク)ドイツばん英語えいごばんクロッペンブルクぐんドイツばん英語えいごばん)の、当時とうじ人口じんこうで1,000にん以上いじょう地域ちいき(ヘンゲラーゲ)を合併がっぺいした[39]

行政ぎょうせい[編集へんしゅう]

クヴァーケンブリュック市庁舎しちょうしゃ

市議会しぎかい[編集へんしゅう]

本市もといち市議会しぎかいは、31議席ぎせき構成こうせいされている[40]

市長しちょう[編集へんしゅう]

  • 1968ねんまで: アロイス・ゲールス (SPD)
  • 1968ねん - 1972ねん: カール・メラー (CDU)
  • 1972ねん - 1979ねん: ホルスト・マグヌス (CDU)
  • 1979ねん - 1988ねん: ヴェルナー・コルフハーゲ (FDP)
  • 1988ねん - 1991ねん: ユルゲン・ガーデベルク (SPD)
  • 1991ねん - 2000ねん: クラウス・アルフェス (CDU)
  • 2000ねん - 2011ねん: ヴォルフガング・ベッカー (CDU)
  • 2011ねん - 2014ねん: クラウス・ペーター・ポッペ (SPD)
  • 2014ねん - 2016ねん: パウル・ゲルトナー (SPD)
  • 2016ねん - : マティアス・ブリュッゲマン (CDU)

紋章もんしょう印章いんしょう[編集へんしゅう]

クヴァーケンブリュックの紋章もんしょうは、おそらくこのまち創設そうせつである13世紀せいきに、マルクト広場ひろば背後はいご高台たかだい建設けんせつされた城砦じょうさいかかげられた。ここにしろへいたちは印章いんしょう使用しようしており、それは1286ねんのものが初出しょしゅつである。印章いんしょうには様式ようしきされたしろえがかれており、その中央ちゅうおうにはゴシック様式ようしきのトレサリーがられる。1401ねんからはしろへい秘密ひみつしるし使用しようられている。これは両側りょうがわに2ほんならんだとびらひらいた城砦じょうさいえがかれている。この秘密ひみつしるしが1926ねんごろオットー・フップドイツばん英語えいごばん紋章もんしょう記述きじゅつもとになっている。この紋章もんしょう記述きじゅつは「銀地ぎんじに、2ほんのこかべいただわきとうゆうするとびらひらいたあか城砦じょうさい。その両側りょうがわに2ほん」とされている。しろへいはこのまち支配しはい階級かいきゅうであったため、これが印章いんしょうとしてもちいられた。19世紀せいきつくられた紋章もんしょうは2つの紋章もんしょうもとにしている。すなわち、秘密ひみつしるしおなじようにひらいたとびらゆうしているしろえがかれているが、ほんしるしおなじくえがかれていない。20世紀せいきになると、しろ近代きんだいてき様式ようしきにすることで19世紀せいき紋章もんしょうとの区別くべつがなされた[41]。2001ねんのクヴァーケンブリュック基本きほん条例じょうれいでは、もはやしろではなく、3つのとうくちもんとされている[42]

現在げんざい紋章もんしょうデザインは以下いかとおり: 銀地ぎんじに、3つのとうゆうするあかくちもん。クヴァーケンブリュックいろしろあかであり、はたはこの配色はいしょくけられ紋章もんしょうえがかれている。印章いんしょう紋章もんしょうに「Stadt Quakenbrück」という文言もんごんかれている。

姉妹しまい都市とし[編集へんしゅう]

クヴァーケンブリュックは以下いか都市とし姉妹しまい都市とし関係かんけいにある。

1969ねん6がつ27にちノルマンディー地方ちほうまちアランソンとの姉妹しまい都市とし協定きょうてい調印ちょういんされた。これは1950年代ねんだいからおこなわれているアルトラント=ギムナジウムとアランソンのリセ・アランとの交換こうかん留学りゅうがく交流こうりゅうもとづくものである。

1989ねん政治せいじじょう変革へんかく東西とうざいあいだあらたな宥和ゆうわもとづき、ぐん都市としレベルでのポーランド - ドイツあいだ関係かんけい強化きょうかがなされた。このため1998ねんにオスナブリュックぐんきゅうひがしプロイセンのアレンシュタインぐんから成立せいりつしたポーランドのヴァルミア=マズールィけんとの姉妹しまい自治体じちたい協定きょうていむすばれ、ぐん努力どりょくによって市町村しちょうそんレベルでの一連いちれん姉妹しまい自治体じちたい関係かんけい成立せいりつした。クヴァーケンブリュックも2000ねんにドブレ・ミアストと姉妹しまい都市とし協定きょうてい締結ていけつした。

ヴェーゼンベルクとの姉妹しまい都市とし協定きょうていは、1990ねん9がつ21にちむすばれた。

コンウェイとの姉妹しまい都市とし協定きょうていは1992ねん4がつ1にち調印ちょういんされた。その経緯けいい小話こばなしのようである。コンウェイは、1982ねんから毎年まいとし5がつヒキガエル主役しゅやくとするトード・サック・デイズ・フェスティバルを開催かいさいしており、ヒキガエルレース世界せかい選手権せんしゅけんおこなわれている[43]。1984ねんはるアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくアーカンソーしゅう代理人だいりにん書状しょじょうとどいた。コンウェイというまちがヒキガエルを紋章もんしょうデザインに採用さいようしているヨーロッパのまち姉妹しまい都市とし協定きょうてい締結ていけつのためにさがしており、クヴァーケンブリュックがこれにあたるかどうかというわせであった。このあやまりをらすために、このアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくしょう都市とし書簡しょかんのやりとりがはじまった。コンウェイのローカル「ログ・キャビン・ドモクラート」はあらたな「姉妹しまい関係かんけい」について興奮こうふんして報道ほうどうした。ただし興奮こうふんのあまりちいさなあやまりがあった。この報道ほうどうではクヴァーケンブリュックがバイエルンとされてしまい、風刺ふうしとしてバイエルンの民俗みんぞく衣装いしょうプレッツェルるヒキガエルを掲載けいさいした。このため、最初さいしょ使節しせつだんミュンヘン空港くうこうかってしまい、そこからバスでおよそ9あいだかけてクヴァーケンブリュックに到着とうちゃくした[44]公式こうしき姉妹しまい都市としとなるのにそれから8ねんようした。クヴァーケンブリュックは活発かっぱつ文化ぶんか交流こうりゅう若者わかもの交流こうりゅうだけでなく、クヴァーケンブリュックをカエル都市としとして商品しょうひんするマーケティングアイデアをかんがえている。

クヴァーケンブリュックは、ニーダーザクセンしゅう西部せいぶとオランダ東部とうぶやく130のぐん市町村しちょうそん形成けいせいするドイツ=オランダ自治体じちたい連合れんごう EUREGIOドイツばん英語えいごばん加盟かめいしている[45]

文化ぶんか見所みどころ[編集へんしゅう]

クヴァーケンブリュックはおおくの木組きぐ建築けんちくなら中世ちゅうせい街並まちなみをゆうするため、旅行りょこう宣伝せんでんなどでは「きたローテンブルク」とばれる[46]。ただし、このブルクドルフノイブランデンブルクハルバーシュタットヒルデスハイムなどおおくのまち使つかわれる。1980年代ねんだいUNESCO世界せかい遺産いさんへの登録とうろく住民じゅうみんたちが拒否きょひした[47]

ポッゲンパッドのパネル

ポッゲンパッド[編集へんしゅう]

ポッゲンパッド(カエルの小径しょうけい)は、うち市街しがいとお全長ぜんちょう 3.1 キロメートルの観光かんこうてきした小径しょうけいである。この小径しょうけい歩道ほどう芸術げいじゅつてきなカエルの足跡あしあとのパネルがはめまれて標識ひょうしきされている。この小径しょうけいは、マルクト広場ひろばめんしたクヴァーケンブリュック市庁舎しちょうしゃまえ起点きてんとして、ヘーエ・プフォルテを経由けいゆしてまち重要じゅうよう見所みどころ30かしょめぐ[48]

演劇えんげき[編集へんしゅう]

1988ねん公益こうえき協会きょうかい「テアターヴェルクシュタット・クヴァーケンブリュック e.V.」が設立せつりつされた。この協会きょうかい市民しみん大学だいがく演劇えんげきコースから設立せつりつされたもので、当初とうしょ様々さまざま場所ばしょ作品さくひん上演じょうえんしていた。1990ねんにバーンホーフどおり 35番地ばんち建物たてもの入居にゅうきょし、それ以後いご毎年まいとし2 - 3ほん自主じしゅ公演こうえんと、客演きゃくえんおこなっている。この劇団げきだんは1995ねんからニーダーザクセンしゅうアマチュア演劇えんげき連盟れんめい加盟かめいしている。これは1999ねんにオスナブリュッカー・ラントシャフツフェアバントの文化ぶんか奨励しょうれいしょう、2000ねんにクヴァーケンブリュッカー・シュタットシュティフトゥングの奨励しょうれいしょう受賞じゅしょうした[49]

このほかに、クヴァーケンブリュック交通こうつう郷土きょうど協会きょうかい文化ぶんかサークルは、巡業じゅんぎょう劇団げきだん公演こうえん定期ていきてきっている。公演こうえんは、座席ざせきすうやく700のアルトラント=ギムナジウムの講堂こうどう座席ざせきすう3,000以上いじょうのアルトラント=アレーナでおこなわれる。

映画えいが[編集へんしゅう]

1938ねんにはすでにはがき名所めいしょとしてえがかれているフィルムテアター・シャウブルク[50]は、2005ねんから3つのスクリーンで上映じょうえいしている。1999ねんシャウムブルクは、その特別とくべつプログラムやプログラムシリーズの構成こうせいたいしてニーダーザクセン・フィルム&メディアビューロから表彰ひょうしょうされた[51]

クヴァーケンブリュック市立しりつ博物館はくぶつかん

市立しりつ博物館はくぶつかん[編集へんしゅう]

市立しりつ博物館はくぶつかんは、マルクト広場ひろばの1790ねんごろ建設けんせつされた古典こてん主義しゅぎ様式ようしき 3かい切妻きりづまづくりの建物たてものに1983ねんから入居にゅうきょしている。この博物館はくぶつかんはかつてのベルゼンブリュックぐん郷土きょうど連盟れんめいふく会長かいちょうで、方言ほうげん文学ぶんがく作品さくひん著者ちょしゃであるハインリヒ・ベーニングが代表だいひょうつとめている。えの特別とくべつ展示てんじのほかに、市立しりつ博物館はくぶつかんのテーマである都市とし学校がっこう教会きょうかい歴史れきし沿った常設じょうせつ展示てんじや、歴史れきしてき薬局やっきょく設備せつび礼拝れいはいどう内部ないぶ都市とし農民のうみん台所だいどころ再現さいげんされ、膨大ぼうだいすず製品せいひんコレクションが展示てんじされている。地域ちいき実用じつようしょ図書館としょかんと、遺族いぞく企業きぎょうから提供ていきょうされた多数たすう地図ちず写真しゃしん資料しりょう収蔵しゅうぞうする歴史れきし文書ぶんしょかん市立しりつ博物館はくぶつかん隣接りんせつしている[52]

税務署ぜいむしょまえの「まずしい納税のうぜいしゃ

屋外おくがい芸術げいじゅつ作品さくひん[編集へんしゅう]

税務署ぜいむしょまえにハンス・ゲルト・ルーヴェの彫刻ちょうこく作品さくひん「Der arme Steuerbürger」(直訳ちょくやくすると「まずしい納税のうぜいしゃ」)が設置せっちされている。シュッツェンホーフ近郊きんこうハーゼがわながれえつこうのすぐちかくにカローラ・ヴェーデルの塑像そぞう「Flügel wachsen über dem Delta」(直訳ちょくやくすると「つばさ中州なかすえてびる」)がある。このぞうは、ベルゼンブリュックからメッペンにいた全長ぜんちょうやく100 キロメートル以上いじょうのハーゼタール芸術げいじゅつルートのステーションとなっている。

建築けんちく[編集へんしゅう]

ホーエ・プフォルテ

クヴァーケンブリュックのまち景観けいかんは、福音ふくいん主義しゅぎせいジルヴェスター教会きょうかいの13世紀せいきとうと、カトリックのマリエン教会きょうかいの17世紀せいき建造けんぞうされたとうによって決定けっていづけられている。

北側きたがわにホーエ・プフォルテのあるランゲどおりがかよっている。ホーエ・プフォルテは、かつては5つあったもんのうち唯一ゆいいつ現存げんそんするもんである。このとお沿いのきゅう市街しがいには、おも歴史れきしてき住居じゅうきょしろへいかんからなるやく100けん修復しゅうふくされた木組きぐ建築けんちく存在そんざいする。ネオルネサンス様式ようしききゅう裁判所さいばんしょには税務署ぜいむしょ入居にゅうきょしている。

古典こてん主義しゅぎ様式ようしき市庁舎しちょうしゃしろへいかんあと建設けんせつされたマリエン教会きょうかい、フォスハーゲンてい中央ちゅうおうのマルクト広場ひろば周辺しゅうへんは、歴史れきしてき住居じゅうきょ商店しょうてんあつまっているもうひとつのれいである。1990ねんにマルクト広場ひろばつくられたエウロペいずみはフライブルクの芸術げいじゅつフランツ・グートマンの作品さくひんで、「たくましいうしとエウロペによって、このまちとヨーロッパ全体ぜんたいとの連携れんけい象徴しょうちょうしている」ものである[53]

きゅう市街しがい西側にしがわに1909ねんから1910ねん建設けんせつされたユーゲントシュティール様式ようしき駅舎えきしゃがある。印象いんしょうてきなロクスターていは、戦後せんご革新かくしんへの陶酔とうすいかんなか医療いりょうセンターの近代きんだいてき建物たてもののために、1964ねんこわされた。このほかのしろへいかんはグローセ・ミューレンどお沿いにあり、ディックラーゲかんふる水車みずぐるま調和ちょうわしている。クライネ・ミューレは1235ねんにはすでに創建そうけんされており、グローセ・ミューレとともに修道しゅうどう参事さんじかい管理かんり委託いたくされている。現在げんざい穀物こくもつこな装置そうちのこされているクライネ・ミューレの本館ほんかんは1726ねん建設けんせつされた。しろへいかんはブルクどおり2番地ばんち現在げんざいは、カトリックの司祭しさいかん)および7番地ばんち、ランゲどおり18番地ばんち、37番地ばんち裁判所さいばんしょ)、45番地ばんち、47番地ばんちにものこされている。

クヴァーケンブリュックには上述じょうじゅつのほかに2つの教会きょうかいがある。ノイシュタットにある福音ふくいん主義しゅぎせいペトルス教会きょうかいとヘンゲラーゲにあるカトリックのせいパウルス教会きょうかいで、ともに1960年代ねんだいてられた。1955ねんまではノイシュタットに聖霊せいれい礼拝れいはいどうがあった。

クヴァーケンブリュック市立しりつ公園こうえん

公園こうえん[編集へんしゅう]

クヴァーケンブリュックは緑地りょくちゆたかなまちである。ノイシュタットには市民しみん公園こうえんがある。アルトシュタットのはしに2006ねんあらたに市立しりつ公園こうえんもうけられた。スイミングプールとスポーツ広場ひろばかたわらをけるハーゼかわ沿いの遊歩道ゆうほどうは、ダイヒとおってシュッツェンホーフにいたる。

もり中心ちゅうしんからすうキロメートル北東ほくとうにある。ダイヒきたには、1990ねんにハイラーツヴァルトが造成ぞうせいされた。ここでは新郎しんろう新婦しんぷ恋人こいびと植樹しょくじゅすることができる。クヴァーケンブリュック販売はんばいなどの営利えいり業務ぎょうむ放棄ほうきしている。さらに植樹しょくじゅ料金りょうきん規則きそくもない。たんに、土着どちゃくたね健康けんこう寿命じゅみょうなが広葉樹こうようじゅ、たとえばヨーロッパナラフユナラヨーロッパブナセイヨウシデドイツばん英語えいごばんノルウェーカエデドイツばん英語えいごばんセイヨウミザクラシナノキぞくニレなどをえることが推奨すいしょうされている。

ダイヒもりとのあいだひろさ 18 ヘクタール のハーゼパルクがある。まわりをハーゼがわながれるこの公園こうえんは1902ねん造成ぞうせいされた。2つのビオトープおおくのしげみが公園こうえんふう外観がいかん形成けいせいしており。ここでは伝統でんとうてきなクヴァーケンブリュッカー・レンタークが開催かいさいされる。

スポーツ[編集へんしゅう]

クヴァーケンブリュックの屋外おくがいプール
クヴァーケンブリュックのカヌーポロ

スポーツ施設しせつ[編集へんしゅう]

中心ちゅうしん東側ひがしがわに、アルトラント=アレーナ、ひろ体育館たいいくかん様々さまざまなスポーツグラウンド、アンツーカートラック、屋外おくがい屋内おくないプール、テニスコートそなえたスポーツ・レジャーゲレンデがある。

ディクラーガーどお沿いのハーゼパルクでは、9月のだい1日曜日にちようびにアルトレンダー・レンフェラインが主催しゅさいするレンタークがおこなわれる。このイベントは湖上こじょう障害しょうがい競走きょうそう全国ぜんこくてきられている。

ニーダーザクセンどおり/フリードリヒどお沿いのきゅう軽便鉄道けいべんてつどうえきから、はいせんになったクヴァーケンブリュック - ノルトルプあいだ軌道きどう利用りようしたハンドカーをたのしむことができる。

ノイシュタットのきゅう航空こうくう基地きちは、模型もけい飛行機ひこうきグライダーよう飛行場ひこうじょうとして利用りようされている。

バスケットボール[編集へんしゅう]

バスケットボールクラブ「アルトラント・ドラゴンズドイツばん英語えいごばん」のチームは2003ねんから2015ねんまでバスケットボール・ブンデスリーガでプレイした。2006/07ねんシーズンにドイツ選手権せんしゅけんじゅん優勝ゆうしょう、2008ねん5がつには BBLはい優勝ゆうしょうし、クラブ史上しじょうはつのタイトルを獲得かくとくした。2010/11ねんシーズンにバスケットッボール・ブンデスリーガのプレイオフ準決勝じゅんけっしょう進出しんしゅつした[54]

2015ねん5がつ3にち、アルトラント・ドラゴンズはバスケットッボール・ブンデスリーガからの撤退てったい発表はっぴょうした[55]

若手わかて世代せだい育成いくせいは、アルトラント・ドラゴンズの母体ぼたいクラブであるクヴァーケンブリュック体操たいそうおよびスポーツフェライン (QTSV) と共同きょうどうおこなわれている[56]

年中ねんじゅう行事ぎょうじ[編集へんしゅう]

アルトラント・アレーナでのアルトラント・ドラゴンズのバスケットボールの国内こくない国際こくさい試合しあいのほか、9月だい1しゅうまつのアルトレンダー・レンターク[57]、9がつなかばのブルクマンフェスト[58]、11月の「音楽おんがく」がこのまち重要じゅうよう年中ねんじゅう行事ぎょうじである。

クヴァーケンブリュックの音楽おんがく[編集へんしゅう]

クヴァーケンブリュックの音楽おんがくは、1985ねんにクヴァーケンブリュックの学校がっこう音楽家おんがくかギュンター・シューリーメンによって創設そうせつされ、2ねんに111月に開催かいさいされている[59]。このイベントはとしごとにわるクラシック音楽おんがくのコンサートシリーズで構成こうせいされているが、そのほかのコンサートや演劇えんげき上演じょうえんおこなわれる。イベントは、アルトラント=アレーナ、アルトラント=ギムナジウム、教会きょうかい開催かいさいされる。

2001ねんにはこれにくわえて音楽おんがくのサマーフェスティバルが開催かいさいされた。このフェスティバルは、以前いぜん毎年まいとし初夏しょかにバートベルゲンのホーフ・ニートフェルトで開催かいさいされていたもので(現在げんざいは2ねんごとに開催かいさい)、通常つうじょう8つのイベントがおこなわれる[59]

ザムトゲマインデは、2007ねん予算よさんじょう理由りゆうから、サマーフェスティバルと音楽おんがくを1ねんおきに交互こうごおこなうことを決定けっていした。これによりやく3まんユーロの節約せつやく期待きたいされた。

名物めいぶつ料理りょうり食材しょくざい[編集へんしゅう]

パンハスのバリエーションである「ヴェプケブラウト」は、かつては朝食ちょうしょく昼食ちゅうしょくあいだ軽食けいしょくとしてこのんでべられていたが、現在げんざいではほとんどられなくなった。ピッケルトもメニューから姿すがたし、グリュンコールのようなふくさい上位じょういめるようになった。ソバパンケーキ「ボークヴェーテンヤンヒンネルク」は、ソバのスープとともによくべられる常食じょうしょくで、かつてはエムスラントの地方ちほう料理りょうりであったが、やがてアルトラントの地方ちほう料理りょうりとしてられるようになった。

経済けいざい社会しゃかい資本しほん[編集へんしゅう]

水車みずぐるま存在そんざいはじめて記述きじゅつした1235ねん記録きろくは、中世ちゅうせい盛期せいき根付ねついた産業さんぎょう分野ぶんやしめしている。カール=ハンス・ハウプトマイヤーは、その論文ろんぶん「13世紀せいきから16世紀せいきのクヴァーケンブリュックの経済けいざい[60]において、この集落しゅうらく農業のうぎょう中心ちゅうしんで、1278ねん以降いこう組合くみあい方式ほうしき組織そしきされた地方ちほう貴族きぞく領主りょうしゅ保護ほごする交易こうえきであったとなしている。ここでは近隣きんりん集落しゅうらくからの家畜かちく穀物こくもつ、その作物さくもつ売買ばいばいされ、地元じもと聖堂せいどう参事さんじかい利益りえきがもたらされた。

15世紀せいきなかば、しろへい衰退すいたいおなじくして、このまちしょう都市としがた経済けいざい生活せいかつ発展はってんした。1435ねん製靴せいか業者ぎょうしゃ、1443ねんぬの手工業しゅこうぎょうしゃ、1476ねん仕立屋したてや組合くみあい結成けっせいした。こうしたクヴァーケンブリュックのギルドは、当初とうしょ男女だんじょふく宗教しゅうきょうてき兄弟きょうだいかいから形成けいせいされた。1407ねん聖母せいぼギルド、1435ねんせいジルヴェスター=ギルドが設立せつりつされたが、これらはどうやらこのまち名士めいしあつまりであったようで、職人しょくにん商人しょうにん組合くみあいなすことはできない[61]。1494ねん毛織けおこうツンフト結成けっせいされた。毛織物けおりものは1488ねんからまちそと交易こうえきされていたことが証明しょうめいされている。かれらにちぢみ工場こうじょうやいくつかの染色せんしょくじょう使つかえるよう便宜べんぎはかられた。

すず鋳造ちゅうぞう[編集へんしゅう]

17世紀せいき後半こうはんからクヴァーケンブリュックですず鋳造ちゅうぞうおこなわれていたことが証明しょうめいされている。18世紀せいきには同時どうじに4かしょ鋳造ちゅうぞうしょがあり、この時代じだいたかすず食器しょっき需要じゅようこたえていた。クヴァーケンブリュッカー・クリューゲはその製品せいひんひとつで、細工ざいくされたぶたつくられた工場こうじょうしめしていた。通常つうじょう工場こうじょうはその家族かぞくがれ、このためバールマン、シュナッケンベルク、エックホルト、ヘルシャーといったすず鋳造ちゅうぞうマイスターの苗字みょうじ工場こうじょうめい由来ゆらいとなった。もっと生産せいさんりょうおおかったのが1710ねんまれのルーベルト・ディードリヒ・バールマンで、いまのこすず食器しょっきにもしばしばかれのスタンプが刻印こくいんされている。ゲルハルト・マティアス・ヘルシャー(1753ねん - 1841ねん)の刻印こくいんもこれとおなじくらい存在そんざいしている。これらは、クロッペンブルク博物館はくぶつかんむらやクヴァーケンブリュック市立しりつ博物館はくぶつかんることができる。1850ねん以降いこうクヴァーケンブリュックのすず鋳造ちゅうぞうぎょう急速きゅうそく衰退すいたいした。そのすうねんまえからこのまち周辺しゅうへん集落しゅうらくから職人しょくにん移住いじゅうはじまっていた。これはナポレオン統治とうち時代じだいにツンフト制度せいど廃止はいしされたことにはしはっしている[29]

農林のうりんぎょう[編集へんしゅう]

クヴァーケンブリュック周辺しゅうへん地域ちいき収穫しゅうかく指数しすう土壌どじょう肥沃ひよくさをしめ指数しすう)は 35 - 45 で、これに隣接りんせつする地域ちいきくらべて良好りょうこう評価ひょうかされている[62]。この地域ちいき比較的ひかくてきおそ時期じき開墾かいこんされた砂地すなじ湿地しっちであった。しかし、勾配こうばいがわずかで、おおくの分流ぶんりゅうとなったハーゼかわがオスナブリュッカー・ベルクラントから長年ながねんにわたってミネラルが豊富ほうふ肥沃ひよく沖積ちゅうせきはこび、たくわえたことで、良質りょうしつ土壌どじょう形成けいせいされた。

アルトラントは、オスナブリュッカー・ラント全域ぜんいきがそうであるように、伝統でんとうてき小作農こさくのうによる耕作こうさくがなされてきた地域ちいきである。クヴァーケンブリュック周辺しゅうへんではおおくの耕作こうさくいとなまれており、家畜かちく密度みつどひくい。肥沃ひよく耕作こうさくでは、カラスムギライムギオオムギ、さらには耕作こうさくむずかしいコムギ栽培さいばいされている。しばしば穀物こくもつ生産せいさん余剰よじょうまれたため、「オスナブリュック司教しきょうりょう」の穀物こくもつばれていた[63]なに世紀せいき経過けいかするうち、裕福ゆうふく豪農ごうのう階級かいきゅう形成けいせいされていった。そのゆたかさは、現在げんざいもアルトラント文化財ぶんかざい登録とうろくされているすうおおくの装飾そうしょくゆたかなふるかんることができる。現在げんざいでは、こうしたかんだい部分ぶぶん住人じゅうにん農場のうじょうしゅたる相続そうぞくしゃというわけではない。

2003ねん時点じてんで、クヴァーケンブリュックでは23けん農業のうぎょういとなんでおり、1,269 ヘクタールが農地のうちとして利用りようされていた。このうち12けん飼料しりょうよう作物さくもつ栽培さいばい、6けん穀物こくもつ栽培さいばい、2けん野菜やさい果樹かじゅ栽培さいばい従事じゅうじしていた。このほかの2けんによる品種ひんしゅ改良かいりょう、1けん畜産ちくさんおこなっていた。7けん専業せんぎょう農家のうかであった。全部ぜんぶで74にん農業のうぎょうたずさわっており、このうち23にんがフルタイムの農業のうぎょう従事じゅうじしゃであった。耕作こうさくやく 50 % がトウモロコシぶたおよび家禽かきんよう飼料しりょう作物さくもつ中心ちゅうしんとした穀物こくもつ栽培さいばい利用りようされており、やく 35 % が緑地りょくち放牧ほうぼく)であった。

100ねんまえまでクヴァーケンブリュック周辺しゅうへんには樹木じゅもく非常ひじょうすくなかった。市域しいき居住きょじゅう外側そとがわは、やぶじょう湿地しっちであるため乱作らんさくさまたげられており、森林しんりん形成けいせいされていた。アルトラントでは普通ふつうられるふるオークは、もっぱ私有地しゆうち農場のうじょうないにあった。農民のうみん解放かいほう農地のうち整理せいり過程かていで、入会地いりあいちとして利用りようされていた土地とちだい部分ぶぶん私有地しゆうちされ、乱作らんさく急速きゅうそく減少げんしょうした。あたらしい所有しょゆうしゃあらたに土地とち価値かちたかめ、入会にゅうかい計画けいかくてき手入ていれした。こうしてクヴァーケンブリュック北部ほくぶに 140 ヘクタールのシュタットヴァルト(もり)が形成けいせいされた。シュタットヴァルトは、2008ねんに1300ほんのオークが植林しょくりんされ、0.5 ヘクタール拡大かくだいし、ハイラーツヴァルトとつながった。現在げんざいでは、シュタットヴァルトとハーゼがわ川岸かわぎしおもにオークとシラカバからなるゆたかな混交こんこうりんとなっている。

地元じもと企業きぎょう[編集へんしゅう]

長年ながねんにわたって、このまちにとってもっと重要じゅうよう企業きぎょうはキナストしゃであった。この会社かいしゃは2倒産とうさんて2005ねんあらたにキナスト=シュテール GmbH として再興さいこうされたが、その重要じゅうようせいうしなわれている。このほかにもクヴァーケンブリュックは1950年代ねんだいからマットレス製造せいぞう機械きかい製造せいぞう化学かがく染料せんりょう工業こうぎょう中心ちゅうしん成長せいちょうした。化学かがく染料せんりょう会社かいしゃは、1950ねん企業きぎょう12しゃから設立せつりつされた。

これ以外いがい現存げんそんしているおおきな企業きぎょうはルフしゃだけである。この会社かいしゃは1920ねんから菓子かし添加てんかぶつ、デザート、菓子かしようミックスパウダーを製造せいぞうしている。この会社かいしゃ従業じゅうぎょういんすう 350にんで、2007ねんには18おくパックを製造せいぞうした。1985ねんにドイツ食品しょくひん技術ぎじゅつ研究所けんきゅうじょ (DIL) がクヴァーケンブリュックに設立せつりつされた。この研究けんきゅう機関きかんには150にん従事じゅうじしており、400まんユーロの予算よさん執行しっこうし、おも食品しょくひん関連かんれん企業きぎょうとの共同きょうどう公的こうてき研究けんきゅうおこなっている。自動車じどうしゃ産業さんぎょう下請したうけのエアル・コーポレーションは1988ねんにこのまち拠点きょてんき、やく250にん従業じゅうぎょういん高級こうきゅう自動車じどうしゃシートを製造せいぞうしている。

交通こうつう[編集へんしゅう]

ミュンスター/オスナブリュック国際こくさい空港くうこうブレーメン国際こくさい空港くうこうはどちらもクヴァーケンブリュックからそれぞれ 80 キロメートルの距離きょりにある。

クヴァーケンブリュックはクロッペンブルクドイツばん英語えいごばんからの連邦れんぽうどうB68号線ごうせん経由けいゆオスナブリュックおよびノルトライン=ヴェストファーレンしゅう方面ほうめんむすばれている。この連邦れんぽうどうは、アルトシュタットとヘンゲラーゲ地区ちくとのあいだにあたる市域しいき北部ほくぶとおっており、中心ちゅうしん東側ひがしがわ南側みなみがわ迂回うかいするバイパス道路どうろとなっている。最寄もよりのアウトバーンのインターチェンジは、ひがしやく 15 キロメートルに位置いちする連邦れんぽうアウトバーン A1号線ごうせんのローネ/ディンクラーゲ・インターチェンジで、しゅうどう L845号線ごうせんでアクセスできる。西側にしがわ方面ほうめんへはしゅうどう L60号線ごうせんメンスラーゲびており、ここでレーニンゲンドイツばん英語えいごばんつづくL74号線ごうせん接続せつぞくする。レーニンゲンでは連邦れんぽうどう B213号線ごうせん欧州おうしゅう自動車じどうしゃ道路どうろ E233号線ごうせん)に接続せつぞくしており、これを利用りようしてアウトバーン A31号線ごうせんリンゲンおよびメッペンドイツばん英語えいごばん/エメン)にかうことができる。

クヴァーケンブリュックえき

クヴァーケンブリュックは、ノルトヴェストバーンにより運行うんこうされている鉄道てつどうヴィルヘルムスハーフェン - オスナブリュックせん接続せつぞくしている。この路線ろせんオルデンブルクまでの一部いちぶ区間くかん当時とうじ国境こっきょうえきのクヴァーケンブリュックえき開業かいぎょうしたのは1875ねん10がつ15にちであった。この電化でんか路線ろせんでは、気動車きどうしゃ Type Lint 41 を使つかったレギオナルエクスプレス RE18 が運行うんこうしている。

ライン鉄道てつどう会社かいしゃによって1879ねん開通かいつうしたデュースブルク - クヴァーケンブリュックせんは、すうじゅう年間ねんかん、ドイツ最後さいごだい規模きぼ鉄道てつどう建設けんせつ工事こうじ計画けいかくであった[64]。これはヴァンネ=アイケル - ハンブルクせん競合きょうごう路線ろせんとして策定さくていされ、とくだいいち世界せかい大戦たいせんちゅうは、ルール地方ちほうとヴィルヘルムスハーフェン軍港ぐんこうとをむす最短さいたん経路けいろとして重要じゅうようされた。しかしこの路線ろせんは、本来ほんらい目的もくてきであるヴァンネ=アイケル - ハンブルクせん「ロルバーン」の競合きょうごう路線ろせんとはならなかった。

クヴァーケンブリュックとライネとのあいだ旅客りょかく運行うんこうは1969ねん廃止はいしされ、おなじくあいだ貨物かもつ輸送ゆそうもその9ねん廃止はいしされた。これ以前いぜんにライネ - クヴァーケンブリュックあいだインターシティー実験じっけん試験しけんせんとして整備せいびする計画けいかくがあった。この計画けいかくは、すうキロメートルの北西ほくせい同時どうじ建設けんせつされるエムスラント・トランスラピッド実験じっけんせん補完ほかんするものとして計画けいかくされた。やがてレジャーようハンドカーが利用りようしないクヴァーケンブリュック - シュペレあいだ軌道きどう撤去てっきょされた。

1952ねんには、クヴァーケンブリュックからメンスラーゲ、ベルゲ経由けいゆしてリンゲンにいた軽便鉄道けいべんてつどう開通かいつうした。この軽便鉄道けいべんてつどうは、連邦れんぽう鉄道てつどうえき西側にしがわ固有こゆうえきもうけた。

公共こうきょう旅客りょかく交通こうつうは、オスナブリュック交通こうつう会社かいしゃのバス部門ぶもんになっており、そのほかにもVOS-ノルト、ヴァーザー=エムス=リニーの様々さまざまなバス路線ろせんがある。

観光かんこうぎょう[編集へんしゅう]

クヴァーケンブリュックは全長ぜんちょう 142 キロメートルの観光かんこう街道かいどうアルトラント=ルートの起点きてんである[65]観光かんこうきゃくのグループは、廃止はいしされたクヴァーケンブリュック=ライネせんでハンドカーをたのしむことができる[66]。さらにアルトラントをたびするサイクリング愛好あいこうしゃにはクヴァーケンブリュック市内しないおおくの自転車じてんしゃどうかよっている[67]

フェリエン

りの愛好あいこうしゃは、ゲストカードによってクヴァーケンブリュック・スポーツフィッシングクラブ「フィッシェ」の管理かんりするすうおおくの水域すいいきりをすることができる。このクラブが管理かんりする水域すいいきは、グローセ・ハーゼがわ、クライネ・ハーゼがわ市域しいきないのグローター運河うんが、ダイヒハーゼがわ、グローセ・ミューレンハーゼがわ、ハーゼこし水口みずぐち、ヴラウがわ、フェリエン、ダイヒ、バッガークーレ、レンプラッツ、イム・フラッハ水域すいいきである[68]

メディア[編集へんしゅう]

「ベルゼンブリュッカー・クライスブラット」は「ノイエ・オスナブリュッカー・ツァイトゥング」のローカルであり、クヴァーケンブリュックに編集へんしゅう本部ほんぶいている。おな建物たてものには、ザムトゲマインデ・アルトラントの図書館としょかんやクヴァーケンブリュック市立しりつ図書館としょかん入居にゅうきょしている。わせて2まんさつえる書籍しょせき収蔵しゅうぞうしている。

さらにオスナブリュックぐん北部ほくぶ、オルデンブルク南部なんぶおよびエムスラントの一部いちぶせま地域ちいきのみ)を対象たいしょうとする地方ちほう「フォルトレッファー」が刊行かんこうされている。この雑誌ざっし隔週かくしゅうかんであるが、夏季かきにはすう週間しゅうかん休刊きゅうかんとなる。「マルクトプラッツ」は、アルトラント=アトリエの隔月かくげつあいだ雑誌ざっしである。「ON アム・ゾンターク」は、オスナブリュックおよびオスナブリュッカー・ラント情報じょうほうめんゆうする雑誌ざっしで、日曜日にちようび刊行かんこうされている。

医療いりょうサービス[編集へんしゅう]

1971ねんまでクヴァーケンブリュックには2つの病院びょういん福音ふくいん主義しゅぎのベターニエン病院びょういんとカトリックのボロメウス病院びょういんがあったが、1971ねん9がつ23にち統合とうごうされた。ニーダーザクセンしゅう社会しゃかいしょうとの共同きょうどう作業さぎょうで420しょう病院びょういん建設けんせつ計画けいかくされ、1974ねん5がつ14にち定礎ていそがなされた。3ねん工事こうじ完成かんせいし、ハウス I として業務ぎょうむ開始かいしし、糖尿とうにょうびょう関連かんれん医療いりょうサービスが拡充かくじゅうされた。その1ねんにベターニエン病院びょういん改築かいちく改修かいしゅうされた。ハウス II には、あたらしい医療いりょうである神経しんけい精神せいしん入居にゅうきょした。1999ねんのハウス II の近代きんだいともない、神経しんけいがハウス I に移転いてんした。病院びょういんのロビーや、エキュメニズムの礼拝れいはいどう「アルケ」では、定期ていきてきにコンサート、朗読ろうどくかい展示てんじかいといった文化ぶんかイベントが開催かいさいされており、そのおおくが無料むりょう入場にゅうじょうできる[69]

アルトラント=ギムナジウム

教育きょういく[編集へんしゅう]

クヴァーケンブリュックは学園がくえん都市とししょうされる。このまちには、きたドイツでもっとふるギムナジウムであるアルトラント=ギムナジウムがある。この学校がっこうは、1354ねん設立せつりつされたラテン語らてんご学校がっこうにまでさかのぼる。3こう基礎きそ課程かてい学校がっこう、1こうほん課程かてい実科じっか学校がっこう(アルトラントほん課程かてい実科じっか学校がっこう)、1こう養護ようご学校がっこう(1966ねん学習がくしゅう障害しょうがいしゃのための特殊とくしゅ学校がっこうとして設立せつりつされたハーゼタールシューレ)、オスナブリュックぐんりつ経済けいざいがく経営けいえいがく職業しょくぎょう専門せんもん学校がっこう治療ちりょう教育きょういく、ポドロジー、糖尿とうにょうびょうがく物理ぶつり療法りょうほうがく専門せんもん学校がっこう看護かんご学校がっこう市民しみん大学だいがく様々さまざま教育きょういく施設しせつ完備かんびしている。また、オスナブリュック大学だいがく学士がくし課程かてい分校ぶんこう設立せつりつ計画けいかくされている。さらにオスナブリュックぐんりつ音楽おんがく学校がっこう、ブルクマンスカペレ・クヴァーケンブリュック e.V. の音楽おんがく学校がっこう市立しりつのスピーチ学校がっこうおおくの予備校よびこうがこのまち存在そんざいする。

クヴァーケンブリュックで最初さいしょ高等こうとう教育きょういく施設しせつがいつ設立せつりつされたかは、現在げんざいあきらかではない。確実かくじつなのは1354ねんに「rector scolarum in Quakenbr.」(クヴァーケンブリュックの校長こうちょう)という記述きじゅつ文献ぶんけんのこされていることである[70]。この学校がっこうせいジルヴェスター修道しゅうどうかい施設しせつで、元々もともとわか聖職せいしょくしゃ教育きょういくしていたというてんについては、年代ねんだい作者さくしゃ見解けんかい一致いっちしている。一連いちれん会計かいけい記録きろくから、おそくとも1507ねんからはがこの学校がっこう関与かんよしていることがわかっている。1893ねんまで学校がっこうせいジルヴェスター教会きょうかい付属ふぞく建造けんぞうぶつ入居にゅうきょしていた。

1647ねん首席しゅせき司祭しさいフィトゥス・ビューシャーはあらたに学校がっこう設立せつりつした。ふるラテン語らてんご学校がっこう福音ふくいん主義しゅぎ国民こくみん学校がっこう関連かんれんしており、これとはべつにカトリックの学校がっこうがあった。19世紀せいきになるとラテン語らてんご教育きょういく独占どくせん体制たいせい弱体じゃくたいし、クヴァーケンブリュック当局とうきょくはプロギムナジウムへの変革へんかく要望ようぼうした。この学校がっこうは1832ねんに3にん教師きょうし、3つのクラス、40にん生徒せいと開校かいこうした。その生徒せいとすう減少げんしょうつづけたが、レアルギムナジウムに改編かいへんされると生徒せいとすう上昇じょうしょうてんじた。1874ねん学校がっこうはグローセ・ミューレンどおりのしん校舎こうしゃ移転いてんし、そのなんふえ改築かいちくかえされた。しかし1964ねん生徒せいとすうが550にんにまで増加ぞうかしたため、またしてもしん校舎こうしゃ必要ひつようとなった。やく700にんまでまなぶことができるあたらしい学校がっこう建築けんちくぐんは1967ねん1がつ20日はつか完成かんせいした。このさい、クヴァーケンブリュック出身しゅっしん当時とうじ経済けいざい交通こうつう大臣だいじんカール・メラーが祝辞しゅくじべた。

人物じんぶつ[編集へんしゅう]

このまちもっと有名ゆうめい出身しゅっしんは、1504ねんにクヴァーケンブリュックでまれた宗教しゅうきょう改革かいかくヘルマン・ボンヌスである。このほかにこのまち活動かつどうした歴史れきしじょう人物じんぶつとしては、以下いか人物じんぶつがいる。バートベルク出身しゅっしん彫刻ちょうこく画家がか、さらにはヴァイオリン製作せいさくしゃでもあるカール・アレダー、詩人しじんのルートヴィヒ・ブリル、ノーベルしょう受賞じゅしょうしゃクラウス・クリッツィング。クヴァーケンブリュック出身しゅっしんしゃには、映画えいが歴史れきしのエンノ・パタラスもいる。

出身しゅっしんしゃ[編集へんしゅう]

ゆかりの人物じんぶつ[編集へんしゅう]

ケッセ夫妻ふさいユルクとミンヒェンのいずみ

ケッセ夫妻ふさいユルクとミンヒェン[編集へんしゅう]

おしどり夫婦ふうふの「ケッセ夫妻ふさいユルクとミンヒェン」、本来ほんらいはゲルハルトとヴィルヘルミーネのケッセ夫妻ふさいはクヴァーケンブリュック出身しゅっしんである[71]かれらは晩年ばんねんをクヴァーケンブリュックの救貧きゅうひんいんらし、かごをんで生計せいけいてていた。ユルクは1910ねんに、ミンヒェンは1917ねんくなった。かれらは福音ふくいん主義しゅぎ墓地ぼち共同きょうどう墓地ぼちほうむられた。かれらにいずみささげられた。

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

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  • Heinrich Böning: Quakenbrück. Geschichte einer norddeutschen Kleinstadt, Thoben-Verlag, Quakenbrück 1979, ISBN 3-921176-50-6.
  • Heinrich Böning: Entlang der Hase: Von Osnabrück über Quakenbrück nach Meppen, Sutton-Verlag, 2004, ISBN 3-89702-750-X.
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  • Christian Peters: Nationalsozialistische Machtdurchsetzung in Kleinstädten. Eine vergleichende Studie zu Quakenbrück und Heide/Holstein, Transcript Verlag, Bielefeld 2015, ISBN 978-3-8376-3091-6.
  • Christian Wüst, Hein Böning, Claudia Wüst, Heiko Bockstiegel, Josef Hauertmann: Das Artland: Kulturschatz im Nordwesten, Artland-Atelier Quakenbrück, 2006, ISBN 3-00-018542-9.

これらの文献ぶんけんは、翻訳ほんやくもとであるドイツばん参考さんこう文献ぶんけんとしてげられていたものであり、日本語にほんごばん作成さくせいさい直接ちょくせつ参照さんしょうしてはおりません。

訳注やくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ 1848ねんドイツ革命かくめいや1920ねんカップ一揆いっきさい犠牲ぎせいしゃ。またその追悼ついとう行事ぎょうじ

出典しゅってん[編集へんしゅう]

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外部がいぶリンク[編集へんしゅう]