ローテンブルク・オプ・デア・タウバー (ドイツ語 ご : Rothenburg ob der Tauber サウンド ⓘ )は、ドイツ 南部 なんぶ のバイエルン州 しゅう ミッテルフランケン行政 ぎょうせい 管区 かんく のアンスバッハ郡 ぐん にある大 だい 規模 きぼ 郡 ぐん 都市 とし 。
ローテンブルク・オプ・デア・タウバーは、タウバー川 がわ 沿 ぞ いのフランケンヘーエ自然 しぜん 公園 こうえん 周縁 しゅうえん 部 ぶ に位置 いち している。
市 し の構成 こうせい
本 ほん 市 し は、公式 こうしき には39の地区 ちく (Ort) からなる[ 2] 。このうち小 しょう 集落 しゅうらく や孤立 こりつ 農場 のうじょう などを除 のぞ く集落 しゅうらく を以下 いか に列記 れっき する。
ベッテンフェルト
デトヴァング
ハンスレーダーミューレ
ヘルンヴィンデン
カイザーシュトゥール
ルードレスミューレ
ミッテルミューレ
ローテンブルク・オプ・デア・タウバー
シュレースライン
ウンテーレ・ヴァルクミューレ
(南 みなみ から時計 とけい 回 まわ り)
ローテンブルク遠望 えんぼう 。街 まち は丘 おか の上 うえ にある
ローテンブルクの起源 きげん は、現在 げんざい は一 いち 市区 しく となっているデトヴァングにあった。この小 しょう 教区 きょうく は、970年 ねん 頃 ころ にライニガーという名 な の東 ひがし フランケン地方 ちほう の貴族 きぞく によって創設 そうせつ された。この貴族 きぞく はついでコムブルク(現在 げんざい はシュヴェービッシュ・ハル 市 し の一部 いちぶ )を創設 そうせつ した。この貴族 きぞく が、タウバー川 がわ を望 のぞ む丘 おか の上 うえ に (oberhalb der Tauber) 城 しろ を建 た てたことが、現在 げんざい の地名 ちめい である "ob der Tauber " の由来 ゆらい である。
このコムブルク=ローテンブルク伯 はく が断絶 だんぜつ する1108年 ねん までには、皇帝 こうてい の城 しろ が築 きず かれていた。この伯 はく 家 か の最後 さいご の当主 とうしゅ となったハインリヒ・フォン・ローテンブルクは、城 しろ をコムブルク修道院 しゅうどういん に遺贈 いぞう した。
しかし、皇帝 こうてい ハインリヒ5世 せい は、この遺贈 いぞう を認 みと めず、甥 おい のコンラート・フォン・ホーエンシュタウフェン にレーエン としてこの所領 しょりょう を与 あた えた。コンラートは1137年 ねん にローマ王 おう (在位 ざいい 1138年 ねん -1152年 ねん )に即位 そくい してコンラート3世 せい となると、1142年 ねん にローテンブルクに帝国 ていこく の城 しろ を築 きず き、ここに宮廷 きゅうてい を置 お いた。しかしローテンブルクの宮殿 きゅうでん において政務 せいむ を執 と った国王 こくおう はコンラート3世 せい のみである。
彼 かれ の息子 むすこ のフリードリヒ・フォン・ローテンブルク は、父親 ちちおや が亡 な くなったときはまだ成人 せいじん 前 まえ であったため、従兄弟 いとこ のフリードリヒ1世 せい の後見 こうけん 下 か に置 お かれ、1157年 ねん に「ローテンブルク公 こう 」という称号 しょうごう で刀 かたな 礼 れい を受 う けた。フリードリヒ1世 せい により、フリードリヒ・フォン・ローテンブルクにはエーガーラント 地方 ちほう も与 あた えられた。フリードリヒは1167年 ねん に亡 な くなり、彼 かれ の兄 あに も早 はや 逝していたため、ローテンブルクの城 しろ は意味 いみ を失 うしな った。
1170年 ねん にローテンブルク市 し が設置 せっち された。当時 とうじ の町 まち の中心 ちゅうしん は市場 いちば とヤコブ教会 きょうかい であった。この当時 とうじ から街 まち の要塞 ようさい 化 か が始 はじ まったとみられる。その時代 じだい の遺物 いぶつ として、古 ふる い地下 ちか 室 しつ ・古 ふる い堀 ほり や牛乳 ぎゅうにゅう 市場 いちば などを見 み る事 こと が出来 でき る。13世紀 せいき になると、塔 とう や城壁 じょうへき が造 つく られた。その中 なか で現在 げんざい まで残 のこ っているものはレーダー・アーチとマルクス塔 とう である。
1194年 ねん から1254年 ねん まで、ホーエンシュタウフェン朝 あさ の代官 だいかん がローテンブルク周辺 しゅうへん の地域 ちいき を支配 しはい した。この頃 ころ 、聖 ひじり ヨハネ修道 しゅうどう 会 かい やその他 た の修道 しゅうどう 会 かい がヤコブ教会 きょうかい やドミニコ会 かい の修道院 しゅうどういん の近 ちか くに設置 せっち された。
1274年 ねん にローテンブルクはハプスブルク家 か のルドルフ1世 せい から帝国 ていこく 都市 とし の特権 とっけん を与 あた えられた[ 3] 。市内 しない には3つの有名 ゆうめい な市場 いちば が出来 でき 、その後 ご の数 すう 世紀 せいき にわたり街 まち は発展 はってん した。市内 しない の住民 じゅうみん と郊外 こうがい の騎士 きし らはフランシスコ会 かい の修道院 しゅうどういん と聖霊 せいれい 病院 びょういん を設置 せっち した(1376年 ねん - 1378年 ねん に市 し の防壁 ぼうへき に組 く み込 こ まれた)。ドイツ騎士 きし 団 だん は1311年 ねん に聖 せい ヤコブ教会 きょうかい の建設 けんせつ をはじめ、1336年 ねん から市民 しみん が使 つか えるようになった(完成 かんせい は1485年 ねん )。聖 せい ヤコブ教会 きょうかい には、十字軍 じゅうじぐん 遠征 えんせい に伴 ともな いローテンブルクにもたらされた聖 せい 遺物 いぶつ とされる聖 せい 血 ち (英語 えいご 版 ばん ) が置 お かれた。これが多 おお くの巡礼 じゅんれい 者 しゃ を引 ひ き寄 よ せ、中世 ちゅうせい のローテンブルクは第 だい 一 いち 級 きゅう の巡礼 じゅんれい 地 ち であった。その当時 とうじ は神 かみ 聖 きよし ロ ろ ーマ帝国 まていこく 内 うち の上位 じょうい 20都市 とし の中 なか に入 はい っていた。市 し 壁 かべ の内側 うちがわ の人口 じんこう は約 やく 5500人 にん で、これに加 くわ えて周辺 しゅうへん の390平方 へいほう キロメートルの領地 りょうち の中 なか に14,000人 にん が居住 きょじゅう していた。
1350年 ねん には皇帝 こうてい から徴税 ちょうぜい 権 けん と関税 かんぜい 権 けん を認 みと められ、この頃 ころ からローテンブルクは帝国 ていこく 自由 じゆう 都市 とし とみなされるようになる。
1356年 ねん のバーゼル地震 じしん で古 ふる い城塞 じょうさい が崩壊 ほうかい した。今 いま もなお聖 せい バルシウス教会 きょうかい が残 のこ っている所 ところ である。その廃墟 はいきょ の切石 きりいし は当時 とうじ としては貴重 きちょう な資材 しざい であり、市 し 壁 かべ の建造 けんぞう に用 もち いられた。
中世 ちゅうせい のこの町 まち で最 もっと も有名 ゆうめい な人物 じんぶつ は、エネルギッシュな政策 せいさく で知 し られた市長 しちょう ハインリヒ・トップラー(1340年 ねん 頃 ごろ 生 せい - 1408年 ねん 没 ぼつ )であろう。1373年 ねん にはトップラーが市長 しちょう に就任 しゅうにん した(1408年 ねん まで在任 ざいにん )。ヤコブ教会 きょうかい の増築 ぞうちく を決定 けってい 。また1398年 ねん には聖 せい ヤコブ教会 きょうかい の建設 けんせつ をドイツ騎士 きし 団 だん から引 ひ き継 つ ぎ、聖 せい ヤコブ教会 きょうかい は市 し 所有 しょゆう の教会 きょうかい となった。それと同時 どうじ に、ゴシック 様式 ようしき の市庁舎 しちょうしゃ の建設 けんせつ も始 はじ まった。1378年 ねん 、ローテンブルクはウルム を盟主 めいしゅ とするシュヴァーベン都市 とし 連盟 れんめい に加盟 かめい した。1400年 ねん ごろまでには、ローテンブルクはフランケン地方 ちほう の中 なか ではニュルンベルク に次 つ ぐ第 だい 二 に 位 い の人口 じんこう を抱 かか える都市 とし となった。
1485年 ねん には、170年 ねん 掛 か けて建設 けんせつ された聖 せい ヤコブ教会 きょうかい が落成 らくせい し、現在 げんざい までよく保存 ほぞん されている。
1525年 ねん 、ドイツ農民 のうみん 戦争 せんそう において、ローテンブルクはフロリアン・ガイアー 率 ひき いる反乱 はんらん 軍 ぐん 側 がわ につき、プロテスタント に改宗 かいしゅう しようとしたが、最終 さいしゅう 的 てき にローテンブルクの守将 しゅしょう Kasimir は降伏 ごうぶく した。Johann Teuschlein ら反乱 はんらん 者 しゃ が処刑 しょけい された。
17世紀 せいき のローテンブルク
1544年 ねん 、ローテンブルクは Johann Hornburg 市長 しちょう の時代 じだい に遂 つい にプロテスタントへの改宗 かいしゅう を達成 たっせい した。いわゆる宗教 しゅうきょう 改革 かいかく である。
1559年 ねん にはプロテスタントの教会 きょうかい 規則 きそく が公布 こうふ された。聖 ひじり ジョンの騎士 きし 団 だん とドイツ騎士 きし 団 だん だけが引 ひ き続 つづ きカトリック を信仰 しんこう したが、これらの騎士 きし 修道 しゅうどう 会 かい もそれぞれの教会 きょうかい (聖 ひじり ジョン教会 きょうかい 、聖 ひじり ヨハネ教会 きょうかい )への権利 けんり を手放 てばな さねばならなかった。
1572年 ねん 、1501年 ねん に焼失 しょうしつ した市庁舎 しちょうしゃ の東側 ひがしがわ の再建 さいけん が始 はじ まった。その後 ご 、三 さん 十 じゅう 年 ねん 戦争 せんそう が勃発 ぼっぱつ するまでの間 あいだ 、街 まち は繁栄 はんえい した。
1618年 ねん に勃発 ぼっぱつ し1648年 ねん まで続 つづ いた三 さん 十 じゅう 年 ねん 戦争 せんそう の時代 じだい 、ローテンブルクも戦費 せんぴ の負担 ふたん や通過 つうか する友軍 ゆうぐん への便宜 べんぎ 供与 きょうよ などを行 おこな った。1631年 ねん 、1634年 ねん 、1645年 ねん にローテンブルク付近 ふきん で戦闘 せんとう があった。
1631年 ねん 10月 がつ にカトリック のティリー伯 はく ヨハン・セルクラエス が、プロテスタント のルター派 は のローテンブルクに40,000人 にん の軍隊 ぐんたい の宿営 しゅくえい を求 もと めた。街 まち はこれを拒否 きょひ し、籠城 ろうじょう して守 まも り抜 ぬ こうとした。しかしながら、ティリー伯 はく の軍隊 ぐんたい は300人 にん の兵 へい を失 うしな っただけで、間 ま もなくローテンブルクを陥落 かんらく させた。「街 まち に火 ひ を放 はな ち掠奪 りゃくだつ する」と脅 おど したティリー伯 はく から旧 きゅう 市長 しちょう のヌッシュが街 まち を救 すく った成 な り行 ゆ きは、現在 げんざい も毎年 まいとし 開催 かいさい される街 まち の祝祭 しゅくさい 劇 げき 『マイスタートゥルンク』 の話 はなし の元 もと になっている。
帝国 ていこく 都市 とし 連合 れんごう は1632年 ねん -1634年 ねん にかけてスウェーデン と同盟 どうめい した。
1634年 ねん にはペスト の大 だい 流行 りゅうこう によって多 おお くの死者 ししゃ が出 で た。
1645年 ねん にフランス の軍隊 ぐんたい に占領 せんりょう された。
1650年 ねん に最後 さいご の兵士 へいし が街 まち を去 さ ると、この街 まち にはもはや財産 ざいさん も権力 けんりょく もなくなり、ローテンブルクの街 まち の発展 はってん は停滞 ていたい し、街 まち はその重要 じゅうよう 性 せい を失 うしな っていった。これは、街 まち が17世紀 せいき のままの状態 じょうたい で保存 ほぞん された理由 りゆう である。
1688年 ねん の大 だい 同盟 どうめい 戦争 せんそう では、フランスの侵攻 しんこう を受 う けてドイツ側 がわ の軍隊 ぐんたい (ラントヴェーア )は大 だい 損害 そんがい を受 う けたがローテンブルクは占領 せんりょう されなかった。街 まち の再建 さいけん は18世紀 せいき まで続 つづ いた。
1793年 ねん のフランス革命 かくめい 戦争 せんそう もこの地 ち に大 おお きな騒乱 そうらん をもたらした。この頃 ころ 、既 すで にアンスバッハ侯 ほう 領 りょう とバイロイト侯 ほう 領 りょう を引 ひ き継 つ いだプロイセン王国 おうこく はローテンブルクとの間 あいだ で国境 こっきょう を画定 かくてい する合意 ごうい 書 しょ に署名 しょめい している。
この事 こと は、ローテンブルクのような小 ちい さな帝国 ていこく 都市 とし であっても、その独立 どくりつ 性 せい を認 みと められていた事 こと を意味 いみ している。
1900年 ねん 頃 ごろ のローテンブルク
フランス革命 かくめい 戦争 せんそう ではオーストリア 軍 ぐん および帝国 ていこく クライス軍 ぐん がフランスに敗北 はいぼく した。この賠償 ばいしょう のために神 かみ 聖 きよし ロ ろ ーマ帝国 まていこく はライン川 がわ 左岸 さがん 地域 ちいき をフランス に割譲 かつじょう する事 こと となった。このとき神 かみ 聖 きよし ロ ろ ーマ帝国 まていこく が失 うしな ったライン川 がわ 左岸 さがん 地域 ちいき の領土 りょうど を領有 りょうゆう していた諸侯 しょこう に対 たい しては、残 のこ っている神聖 しんせい ロ ろ ーマ帝国 まていこく 領 りょう を再 さい 分割 ぶんかつ して領地 りょうち を補償 ほしょう する事 こと となり、そのために招集 しょうしゅう された帝国 ていこく 代表 だいひょう 者 しゃ 会議 かいぎ 主要 しゅよう 決議 けつぎ において1803年 ねん に決議 けつぎ が成立 せいりつ した。この決議 けつぎ により、500年 ねん にわたる独立 どくりつ 都市 とし としての歴史 れきし を持 も つローテンブルクは、その意思 いし に反 はん してバイエルン 領 りょう に併合 へいごう された。帝国 ていこく の負債 ふさい のため、バイエルンは多 おお くの公共 こうきょう 建築 けんちく 物 ぶつ や土地 とち を売却 ばいきゃく した(例 たと えば現在 げんざい の教会 きょうかい 広場 ひろば となっている牛乳 ぎゅうにゅう 市場 いちば の Marienkapelle や、Stauferburg の大 おお きな塔 とう など)。帝国 ていこく クライス会議 かいぎ の代議士 だいぎし を勤 つと めた名門 めいもん の家系 かけい も土地 とち を失 うしな い、von Stadt 家 か を除 のぞ いて他所 よそ へ移 うつ って行 い った。
1806年 ねん にはナポレオン の圧 あつ 力 りょく により、フランス主導 しゅどう でバイエルン王国 おうこく が成立 せいりつ 。同時 どうじ にライン同盟 どうめい に加盟 かめい し、フランスの影響 えいきょう 下 か に置 お かれた。ローテンブルクは辺境 へんきょう 地帯 ちたい となり、経済 けいざい 危機 きき はさらに悪化 あっか した。
1813年 ねん にはナポレオン敗退 はいたい によりライン同盟 どうめい は解消 かいしょう 、1815年 ねん のウィーン会議 かいぎ によりバイエルン王国 おうこく はオーストリアを盟主 めいしゅ とするドイツ連邦 れんぽう に加入 かにゅう した。
このドイツ連邦 れんぽう も、1866年 ねん の普 ひろし 墺 おう 戦争 せんそう のプロイセン 勝利 しょうり をもって解消 かいしょう された。1871年 ねん にドイツ帝国 ていこく が成立 せいりつ すると、バイエルン王国 おうこく もドイツ帝国 ていこく に組 く み込 こ まれた。また、1873年 ねん には鉄道 てつどう が開通 かいつう した。これらの理由 りゆう によりドイツ帝国 ていこく 内 ない からの旅行 りょこう が容易 ようい になり、次第 しだい に観光 かんこう 客 きゃく が増 ふ え始 はじ めた。また工業 こうぎょう 化 か (乳母車 うばぐるま 工場 こうじょう など)も進 すす め、経済 けいざい は回復 かいふく を始 はじ めた。
1880年代 ねんだい になると、ロマン主義 しゅぎ の画家 がか らによってローテンブルクが再 さい 発見 はっけん され、イギリス やフランスからも人気 にんき の観光 かんこう 地 ち となっていった。街並 まちな みに大 おお きな変更 へんこう を加 くわ える事 こと を禁 きん ずる法律 ほうりつ が作 つく られた。第 だい 一 いち 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん 前 まえ には、現在 げんざい も存在 そんざい しているホテル・アイゼンフートに滞在 たいざい するバスツアーまであった。
ヴァイマール共和 きょうわ 国 こく 時代 じだい 、この都市 とし とその周辺 しゅうへん の選挙 せんきょ 区 く は、NSDAP 支持 しじ 者 しゃ の多 おお い地区 ちく となり、1933年 ねん の選挙 せんきょ でこの政党 せいとう は80%もの票 ひょう を獲得 かくとく した。
ローテンブルクはナチスの運動 うんどう 家 か たちにとって特別 とくべつ に重要 じゅうよう なものであった。彼 かれ らにとってローテンブルクはドイツ人 じん の「故郷 こきょう の町 まち 」の典型 てんけい であり、ドイツ的 てき な要素 ようそ を余 あま すところなく体現 たいげん した街 まち とされた。1930年代 ねんだい を通 つう じて、ナチスの下部 かぶ 組織 そしき である歓喜 かんき 力行 りっこう 団 だん は国 くに 中 ちゅう からローテンブルクへの日帰 ひがえ り旅行 りょこう を定期 ていき 的 てき に組織 そしき した。この運動 うんどう はローテンブルクの住民 じゅうみん からは強 つよ く支持 しじ された。それは、この運動 うんどう がもたらす経済 けいざい 的 てき な利益 りえき のみならず、ローテンブルクは「ドイツの街 まち の中 なか で最 もっと もドイツ的 てき である」と称揚 しょうよう されていたからでもあり、住民 じゅうみん の多 おお くは国家 こっか 社会 しゃかい 主義 しゅぎ に好意 こうい 的 てき であった。1938年 ねん 10月 がつ 、ローテンブルクはユダヤ人 じん 市民 しみん を追放 ついほう した。これはナチスや、ドイツ中 ちゅう のナチス支持 しじ 者 しゃ たちから支持 しじ された[ 4] 。
ここに理想 りそう 的 てき なナチスの地域 ちいき 社会 しゃかい が作 つく り出 だ されることで、ドイツの人々 ひとびと はナチスが求 もと める家族 かぞく や地域 ちいき 社会 しゃかい としての生活 せいかつ のありようを連想 れんそう した。ローテンブルクは、ナチスの思想 しそう を理想 りそう 的 てき な家庭 かてい 生活 せいかつ として明瞭 めいりょう に具現 ぐげん 化 か していた。更 さら に、他 た のドイツの街 まち もナチスを支持 しじ してローテンブルクに作 つく られた「例 れい 」に続 つづ くようになり、これが、ローテンブルクに「理想 りそう 的 てき な」ナチスの地域 ちいき 社会 しゃかい を作 つく るということにつながるナチスのドイツ国家 こっか 主義 しゅぎ の傾向 けいこう の始 はじ まりとなっていった。これが発展 はってん して、当時 とうじ のプロパガンダで描 えが かれていたような、理想 りそう 的 てき なナチスの家族 かぞく 像 ぞう を示 しめ すことにつながっていった。ナチスやヒトラーユーゲント の中 なか で育 そだ ち、そして市民 しみん としてあるいは軍人 ぐんじん としてナチスドイツの思想 しそう と総統 そうとう アドルフ・ヒトラー を守 まも るというナチスドイツの少年 しょうねん 教育 きょういく が始 はじ まると、理想 りそう 的 てき なライフスタイルは更 さら に奨励 しょうれい された。これがナチスの愛国 あいこく 主義 しゅぎ の中核 ちゅうかく 思想 しそう を形成 けいせい し、彼 かれ らの信条 しんじょう となっていく。多 おお くの方法 ほうほう で、ローテンブルクはナチスの運動 うんどう の鍵 かぎ となる要素 ようそ を示 しめ し、国家 こっか 社会 しゃかい 主義 しゅぎ 者 しゃ の考 かんが えをドイツ中 ちゅう 、およびヨーロッパ中 ちゅう のドイツ語 どいつご 圏 けん 地域 ちいき に広 ひろ めるためのモデル地域 ちいき となっていたのである。
連合 れんごう 軍 ぐん による爆撃 ばくげき 後 ご のローテンブルク(1945年 ねん )
第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん の終戦 しゅうせん 直前 ちょくぜん の1945年 ねん 3月 がつ 、ドイツ軍 ぐん の兵士 へいし がローテンブルクに駐屯 ちゅうとん して街 まち を守備 しゅび していた。3月31日 にち 、ローテンブルクは、16機 き のアメリカ空軍 くうぐん 機 き の爆 ばく 撃 げき を受 う け、39人 にん が死亡 しぼう し、306軒 けん の家屋 かおく 、6つの公共 こうきょう 建築 けんちく 物 ぶつ 、9つの望楼 ぼうろう 、そして市 し 壁 かべ が600mにわたって破壊 はかい された。
これは、保存 ほぞん されていた建造 けんぞう 物 ぶつ の約 やく 40%以上 いじょう を占 し める旧 きゅう 市街 しがい 東部 とうぶ が損傷 そんしょう または破壊 はかい された事 こと になる[ 5] 。
この爆 ばく 撃 げき 作戦 さくせん の本来 ほんらい の目標 もくひょう は、オーバーフランケン のエーブラハ であったが、霧 きり に覆 おお われていたため攻撃 こうげき できず、このため代理 だいり の目標 もくひょう として、軍事 ぐんじ 的 てき な意義 いぎ などないにもかかわらず、ローテンブルクが攻撃 こうげき されたのであった。損害 そんがい の大 だい 部分 ぶぶん は、旧 きゅう 市街 しがい でも比較的 ひかくてき 新 あたら しい地域 ちいき であったため、最 もっと も重要 じゅうよう な記念 きねん 建造 けんぞう 物 ぶつ は、被害 ひがい を免 まぬか れた。後 のち に質問 しつもん されたパイロットは、自分 じぶん たちが文化 ぶんか 遺産 いさん 都市 とし を爆撃 ばくげき していることにまったく気 き づいていなかったと答 こた えている。
かつての米国 べいこく 国防省 こくぼうしょう 副 ふく 長官 ちょうかん ジョン・ジェイ・マックロイ は、文書 ぶんしょ で以下 いか の証言 しょうげん を行 おこな った。ローテンブルクへの進軍 しんぐん に際 さい して、デーヴァーズ将軍 しょうぐん の部隊 ぶたい による砲撃 ほうげき が計画 けいかく されたのだが、これを阻止 そし したというのである。彼 かれ は、戦前 せんぜん にこの街 まち を訪 おとず れ、この中世 ちゅうせい 都市 とし に魅了 みりょう された母親 ははおや の話 はなし で、この街 まち を知 し っていたのだという。ドイツ軍 ぐん 守備 しゅび 隊長 たいちょう のThommes少佐 しょうさ はヒトラー の「全 すべ ての街 まち は最後 さいご まで戦 たたか え」との命令 めいれい を無視 むし し、降伏 ごうぶく した。これによって、砲撃 ほうげき による街 まち の完全 かんぜん 破壊 はかい は免 まぬか れた。4月 がつ 17日 にち 、ドイツが降伏 ごうぶく する3週間 しゅうかん 前 まえ に、米 べい 軍 ぐん が街 まち を占領 せんりょう した。
戦後 せんご 、街 まち の多 おお くが再建 さいけん された[ 6] 。全 ぜん 世界 せかい から再建 さいけん のための寄付 きふ が寄 よ せられ、アメリカからも多額 たがく の再建 さいけん 資金 しきん 援助 えんじょ を行 おこな っている。この時 とき の寄付 きふ 者 しゃ の名前 なまえ は、市 し 壁 かべ の内側 うちがわ 通路 つうろ に掲示 けいじ されている。
1972年 ねん まで、この街 まち はローテンブルク郡 ぐん の郡 ぐん 庁 ちょう 所在地 しょざいち であった。バイエルン州 しゅう の市町村 しちょうそん 再編 さいへん により、この街 まち とその郡 ぐん はアンスバッハ郡 ぐん に編入 へんにゅう されることとなった。この都市 とし は、大 だい 規模 きぼ 郡 ぐん 都市 とし の地位 ちい を保持 ほじ した。
マルクト広場 ひろば に面 めん して建 た つ市庁舎 しちょうしゃ 。
歴代 れきだい 市長 しちょう
第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん 後 ご の上級 じょうきゅう 市長 しちょう を列記 れっき する。
1945–1952: フリードリヒ・ヘルナー (Friedrich Hörner) SPD
1952–1964: エーリヒ・ラウターバッハ (Erich Lauterbach) 無所属 むしょぞく
1964–1976: アルフレート・レーダータイル (Alfred Ledertheil) SPD
1976–1988: オスカー・シュバルト (Oskar Schubart) CSU
1988–2006: ヘルベルト・ハハテル (Herbert Hachtel) SPD
2006–2020: ヴァルター・ハルトル (Walter Hartl) 無所属 むしょぞく
2020– : マルクス・ナーザー (Markus Naser) 無所属 むしょぞく 、Freien Rothenburger Vereinigung (FRV) の候補 こうほ
銀地 ぎんじ に、赤 あか い2本 ほん の胸壁 きょうへき のある塔 とう のある城 しろ 。塔 とう の間 あいだ には三角 さんかく 屋根 やね の小 しょう 楼 ろう 。
市議会 しぎかい は、24議席 ぎせき からなる。
小 しょう ローテンブルク
よく保存 ほぞん された中世 ちゅうせい 都市 とし を代表 だいひょう するシンボルとして「ローテンブルク」の名 な はフランケン地方 ちほう の外 そと でも転用 てんよう されている(日本 にっぽん で「小 しょう 京都 きょうと 」が多 おお くあるようなもの)。
オーバーバイエルン 地方 ちほう のランツベルク・アム・レヒ は、ローテンブルク・オプ・デア・タウバー同様 どうよう に保存 ほぞん 状態 じょうたい のよい中世 ちゅうせい 建造 けんぞう 物 ぶつ 群 ぐん から『バイエルンのローテンブルク』と呼 よ ばれる。
モーゼル川 かわ に面 めん したバイルシュタイン (英語 えいご 版 ばん ) は「小 しょう ローテンブルク」と称 しょう している。
1945年 ねん に甚大 じんだい な被害 ひがい を受 う け、ドイツの帰属 きぞく から離 はな れるまで、プジッツェ (Pyrzyce) やパスウェンク (Pasłęk) は、それぞれ「ポンメルンの」あるいは「東 ひがし プロイセンの」ローテンブルクと呼 よ ばれていた。
ローテンブルクでは、観光 かんこう 産業 さんぎょう が大 おお きなウェイトを占 し めている。
しかしこの他 ほか にも、大手 おおて 家具 かぐ 製造 せいぞう 業者 ぎょうしゃ の工場 こうじょう が一 ひと つ、大手 おおて 建設 けんせつ 機械 きかい 製造 せいぞう 業者 ぎょうしゃ の工場 こうじょう が一 ひと つ、中小 ちゅうしょう の機械 きかい 製造 せいぞう 業者 ぎょうしゃ がいくつか、それにヨーロッパで2番目 ばんめ に大 おお きな焼 や き菓子 かし の生産 せいさん 工場 こうじょう がある。
AEG-Electrolux (レンジ、調理 ちょうり 容器 ようき )
Ebalta(プラスチック、鋳造 ちゅうぞう プラスチック、接着 せっちゃく 剤 ざい )
Erhard Sport International(スポーツ用品 ようひん )
Käthe Wohlfahrt(クリスマスの飾 かざ り付 づ け)
Lechner(焼 や き菓子 かし 製造 せいぞう )
ROTABENE Medienhaus(出版 しゅっぱん 『Fränkischer Anzeiger』(フランケン新聞 しんぶん )や『 Evangelisches Sonntagsblatt aus Bayern』(バイエルン福音 ふくいん 派 は 日曜 にちよう 紙 し ))
Schaeff-Terex(パワーショベル 、建設 けんせつ 機械 きかい )
Neuberger(建設 けんせつ オートメーション)
市街 しがい の約 やく 1km東 ひがし に、ローテンブルク・オプ・デア・タウバー・スポーツ飛行場 ひこうじょう (荷重 かじゅう 5,700kg、滑走 かっそう 路 ろ 600m)がある。ここでは、時折 ときおり 、メルセデス・ベンツ・ツーリングカー・レーシング・チームがテスト走行 そうこう を行 おこな っている。
この街 まち は、幹線 かんせん 鉄道 てつどう トロイヒトリンゲン - ヴュルツブルク線 せん とシュタイナハ から分岐 ぶんき する形 かたち で1873年 ねん 11月1日 にち に開業 かいぎょう した、鉄道 てつどう 路線 ろせん の終着 しゅうちゃく 点 てん である。現在 げんざい この路線 ろせん は、ニュルンベルク広域 こういき 鉄道 てつどう 網 もう の一 ひと つ、近郊 きんこう 鉄道 てつどう RB82として運営 うんえい されている。1905年 ねん から1971年 ねん までの間 あいだ はさらにシリングスフュルスト を経由 けいゆ してドムビュール へ至 いた り、幹線 かんせん ニュルンベルク - クライルスハイム線 せん に接続 せつぞく していたが、同 どう 区間 くかん は現在 げんざい 廃止 はいし されている。
鉄道 てつどう で移動 いどう する際 さい には、バイエルン州 しゅう ゼルビッツ 郊外 こうがい にローテンビュ ルク(de:Rothenbürg (Selbitz) 、u にウムラウトが付 つ いている)というまぎらわしい駅 えき があるので注意 ちゅうい が必要 ひつよう である。
間違 まちが えてローテンビュルクに向 む かってしまう観光 かんこう 客 きゃく が少 すく なくないようで、ローテンビュルクからローテンブルク・オプ・デア・タウバーに行 い く方法 ほうほう を複数 ふくすう の言語 げんご で案内 あんない するパンフレットがローテンビュルク駅 えき には用意 ようい されている[ 7] 。
ローテンブルク・オプ・デア・タウバーは、アウトバーン A7号線 ごうせん 沿 ぞ いに位置 いち し、市街 しがい からわずかな距離 きょり にローテンブルク・オプ・デア・タウバー・インターチェンジ がある。
旧 きゅう 連邦 れんぽう 道 どう B25号線 ごうせん がローテンブルクを南北 なんぼく に縦断 じゅうだん して走 はし っており、東西 とうざい に走 はし る古城 こじょう 街道 かいどう と市内 しない で交差 こうさ する。
ローテンブルク・オプ・デア・タウバーには多 おお くのサイクリングロードが通 かよ っている。
聖 せい 血 ち の祭壇 さいだん
建築 けんちく 物 ぶつ
旧 きゅう 市街 しがい 全体 ぜんたい が見応 みごた えのある建造 けんぞう 物 ぶつ で造 つく られていると言 い っても過言 かごん ではない。夜 よる の旧 きゅう 市街 しがい をまわる、ナイトウォッチマンツアー(夜警 やけい ツアー)もある。
マルクト広場 ひろば に面 めん して建 た つ歴史 れきし 的 てき な市庁舎 しちょうしゃ とマイスタートルンクのからくり時計 とけい がある市 し 参事 さんじ 会 かい 酒宴 しゅえん 館 かん
聖 せい ヤーコプス教会 きょうかい :ティルマン・リーメンシュナイダー 作 さく の聖 せい 血 ち の祭壇 さいだん がある。ローテンブルク郊外 こうがい のデトヴァングの教会 きょうかい にもリーメンシュナイダー作 さく の祭壇 さいだん (聖 せい 十字架 じゅうじか 祭壇 さいだん )がある。
市 し 壁 かべ 、市 し 門 もん (北 きた から時計 とけい 回 まわ りに、クリンゲン門 もん 、ヴュルツブルク門 もん 、レーダー門 もん 、シュピタール門 もん 、コーボルツェラー門 もん )
プレーンライン
ブルク門 もん 、マルクス塔 とう ・レーダーアーチ、ヴァイサー塔 とう :現在 げんざい のものより古 ふる い時代 じだい 、12世紀 せいき の市 し 壁 かべ に設 もう けられた門 もん 。
シュピタール堡塁 ほうるい
クリンゲン門 もん に近 ちか いヴォルフガング教会 きょうかい (自衛 じえい 教会 きょうかい )
ブラジウス礼拝 れいはい 堂 どう
二重橋 にじゅうばし :タウバー川 がわ に架 か かる上下 じょうげ 二 に 層 そう の橋 はし
ヴィルトバート・ローテンブルク:1898年 ねん から1903年 ねん にフリードリヒ・ヘッシングにより温泉 おんせん ホテルとして建設 けんせつ された。1982年 ねん 以降 いこう は、プロテスタントの集会 しゅうかい 場 じょう として用 もち いられている。
市 し 壁 かべ
市 し 門 もん の一 ひと つ、クリンゲン門 もん
市 し 門 もん の一 ひと つ、レーダー門 もん
マルクス塔 とう ・レーダーアーチ
旧 きゅう 市街 しがい を取 と り囲 かこ む市 し 壁 かべ
ジーバー塔 とう
シュピタール堡塁 ほうるい
ヴィルトバート・ローテンブルク
市庁舎 しちょうしゃ
市庁舎 しちょうしゃ 通 どお り
保存 ほぞん された旧 きゅう 市街 しがい の中世 ちゅうせい の町並 まちな み(プレーンライン)
1900年 ねん のプレーンライン
ローテンブルクは、入 い り組 く んだ路地 ろじ や小 ちい さな公園 こうえん それを取 と り巻 ま く木組 きぐ み住宅 じゅうたく といった中世 ちゅうせい さながらのよく保存 ほぞん された旧 きゅう 市街 しがい で知 し られている。この旧 きゅう 市街 しがい は、ドイツの街 まち のプロトタイプ として、世界中 せかいじゅう の観光 かんこう 客 きゃく の目的 もくてき 地 ち となっている。特 とく に日本 にっぽん からの観光 かんこう 客 きゃく は、ヨーロッパ・ツアーの一環 いっかん としてこの街 まち で宿泊 しゅくはく する。この街 まち には、ホテルや民宿 みんしゅく の他 ほか に、キャンプ場 じょう やオートキャンプ場 じょう 、ユースホステル などがある。ユースホステルは、かつて馬 うま を動力 どうりょく とした街 まち の粉 こな 挽 ひ き場 じょう として使 つか われていたものである。
博物館 はくぶつかん
帝国 ていこく 都市 とし 博物館 はくぶつかん
中世 ちゅうせい 犯罪 はんざい 博物館 はくぶつかん :拷問 ごうもん や処刑 しょけい の様子 ようす や道具 どうぐ が展示 てんじ されているが、より重要 じゅうよう なのは、法制 ほうせい 史 し に関 かん する書類 しょるい のコレクションである。
人形 にんぎょう とおもちゃの博物館 はくぶつかん
羊 ひつじ 飼 か いの踊 おど り博物館 はくぶつかん
クリスマス博物館 はくぶつかん
職人 しょくにん の家 いえ
市 し 参事 さんじ 会 かい 酒宴 しゅえん 場 じょう のマイスタートゥルンクのからくり時計 とけい
マイスタートルンク:毎年 まいとし 、聖霊 せいれい 降誕祭 こうたんさい で、三 さん 十 じゅう 年 ねん 戦争 せんそう のローテンブルクを舞台 ぶたい とした芝居 しばい が上演 じょうえん される。また、帝国 ていこく 自由 じゆう 都市 とし 祭 さい や秋 あき の収穫 しゅうかく 祭 さい に合 あ わせて演 えん じられることも多 おお い。この芝居 しばい は、以下 いか のようなアダム・ヘルバーの歴史 れきし 劇 げき である。この街 まち を攻略 こうりゃく したティリー伯 はく ヨハン・セルクラエス は、参事 さんじ 会員 かいいん らの罪 つみ を断 だん じ、街 まち を焼 や き払 はら うと宣言 せんげん した。参事 さんじ らは困惑 こんわく しながら、歓迎 かんげい のワインを供 きょう した。それは3.25リットルのガラスコップに注 そそ がれていた。ティリー伯 はく は少 すこ し穏 おだ やかな気持 きも ちを取 と り直 なお し、誰 だれ かこれを一気 いっき に飲 の み干 ほ す者 もの があれば、街 まち に危害 きがい を加 くわ えるのを中止 ちゅうし しようと言 い った。老 ろう 市長 しちょう ヌッシュが進 すす み出 で ると、一気 いっき にコップを空 そら にして皆 みな を驚 おどろ かせた。ティリー伯 はく は、これに感銘 かんめい を受 う け、街 まち に手出 てだ しするのを止 と めたという。ただし、実際 じっさい には、ティリー伯 はく 自身 じしん がこの街 まち に足 あし を踏 ふ み入 い れたという記録 きろく はない。
ローテンブルク・オプ・デア・タウバーの貨幣 かへい 鋳造 ちゅうぞう
帝国 ていこく 自由 じゆう 都市 とし 祭 さい :9月 がつ 初 はじ め。
タウバータール・フェスティバル:野外 やがい ロック・コンサート
クリスマス市 し 「ライターレスマルクト」:11月下旬 げじゅん から12月22日 にち まで。
羊 ひつじ 飼 か いの踊 おど り:4月 がつ から10月 がつ までの間 あいだ に数 すう 回 かい 、マルクト広場 ひろば で開 ひら かれる。
タウバータール・オープンエア
ローテンブルク・オプ・デア・タウバー市立 しりつ 青少年 せいしょうねん ブラス・オーケストラ
聖 ひじり ヨハネ教会 きょうかい 合唱 がっしょう 団 だん
ProChor
ローテンブルクのよく保存 ほぞん された旧 きゅう 市街 しがい は、様々 さまざま な映画 えいが の舞台 ぶたい 装置 そうち としても利用 りよう されている(例 れい 『カスパー・ハウザー 』)。また、日本 にっぽん のアニメ 作品 さくひん 『ちっちゃな雪 ゆき 使 づか いシュガー 』の舞台 ぶたい である架空 かくう の街 まち 「ミューレンブルク」、日本 にっぽん のコンピュータゲーム 作品 さくひん 『アトリエシリーズ 』の舞台 ぶたい である架空 かくう の街 まち 「ザールブルグ 」、などのモデルともなっている。
音楽 おんがく
バンド、ブラックモアズ・ナイト のアルバム『ウィンター・キャロルズ』のカバーにはプレーンラインの風景 ふうけい が使 つか われている。
全般 ぜんぱん 国立 こくりつ 図書館 としょかん 地理 ちり その他 た