スキーブーム

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スキーブームとは、日本にっぽんにおいて、1960年代ねんだい以降いこう[1]おそくとも1970年代ねんだい後半こうはん[2]から1990年代ねんだい前半ぜんはんにかけてスキー人口じんこう非常ひじょうえた事象じしょうのことである。概要がいようべるように日本にっぽんにおいては複数ふくすうのスキーブームがあったが、はしてきにスキーブームと場合ばあいは、おもに1985ねんごろから1995ねんごろのブームのことをす。

戦前せんぜんだい1戦後せんごの1960年代ねんだい~1970年代ねんだいだい2、バブル~ポストバブルだい3スキーブームと場合ばあいがある[3]、1960年代ねんだい初頭しょとうだい1、1970年代ねんだい初頭しょとうだい2、1980年代ねんだい後半こうはんだい3とする場合ばあいもある[4]

概要がいよう[編集へんしゅう]

スキーの日本にっぽんでのひろまり[編集へんしゅう]

1902ねん明治めいじ35ねん1がつ八甲田はっこうだせつちゅう行軍こうぐん遭難そうなん事件じけん以降いこう帝国ていこく陸軍りくぐんでは厳冬げんとうにおける装備そうび行動こうどう技術ぎじゅつ研究けんきゅう必要ひつようせいもとめられていた。

欧米おうべい留学りゅうがくちゅうだった永井ながい道明みちあきスウェーデンにいたころ、スキーに興味きょうみって練習れんしゅうしていた永井ながい姿すがた公使こうし杉村すぎむら虎一とらいちあやまって現地げんちおおきく報道ほうどうされた。このことがえんとなって杉村すぎむらもスキーに興味きょうみち、1910ねん明治めいじ43ねん)に杉村すぎむらから日本にっぽんに2くみスキー指導しどうしょおくられてくる。

雪国ゆきぐにである高田たかだ衛戍えいじゅとしていただい13師団しだん師団しだんちょう長岡ながおか外史がいし部下ぶかめいじてこれらの技術ぎじゅつ研究けんきゅう道具どうぐ複製ふくせいおこなわせた。

やがてにち戦争せんそう勝利しょうり日本にっぽん視察しさつするために来日らいにちしていたオーストリア=ハンガリー帝国ていこく軍人ぐんじんにしてスキー熟達じゅくたつしゃテオドール・エードラー・フォン・レルヒがスキー技術ぎじゅつ指導しどうのために高田たかだにやってくる。

1911ねん明治めいじ44ねん)1がつ12にち隊員たいいんからえらばれた10すうめいのスキー専修せんしゅういん対象たいしょう技術ぎじゅつ指導しどうはじめられた。

レルヒによる指導しどう様子ようす地元じもと新聞しんぶんなどでも連日れんじつ報道ほうどうされ、周辺しゅうへん学校がっこう教師きょうしなどもこの講習こうしゅうかい参加さんか技術ぎじゅつ習得しゅうとくこころみるものがあらわれた。

翌年よくねん以降いこう高田たかだでスキー講習こうしゅうかいつづき、鉄道てつどう営林えいりん逓信ていしんといった実業じつぎょうのためにスキーを必要ひつようとする職業しょくぎょうほかに、長岡ながおか闊達かったつ人柄ひとがらもあって軍人ぐんじん以外いがいにも学生がくせい婦人ふじん一般いっぱんにもひろがりをせた。

スキー技術ぎじゅつ発祥はっしょうである新潟にいがたけん以外いがいにも北海道ほっかいどう長野ながのけん山形やまがたけん秋田あきたけんなど各地かくち伝播でんぱしていった。またこの潮流ちょうりゅう信越線しんえつせんなどの鉄道てつどうとおして東京とうきょう学生がくせいたちにも伝播でんぱすることとなった(信越線しんえつせん全通ぜんつうは1893ねん)。

国土こくどやく半分はんぶん雪国ゆきぐにである日本にっぽんにおいて、ただえるだけだったふゆたいする認識にんしきおおきくわった時期じきであり、国産こくさんのスキー道具どうぐ生産せいさんはじまったり、各地かくちにスキーじょうまれるなどふゆごしかた人々ひとびとかんがかた経済けいざい活動かつどうとう変化へんかしょうじた。

戦前せんぜんのスキーブーム[編集へんしゅう]

レルヒのつたえたスキーはぞく一本いっぽんつえスキーとしょうされるMathias_Zdarsky(英語えいごばんつらなる急斜面きゅうしゃめん山岳さんがく地帯ちたいきなオウストリしきのリリエンフェルト・スキーであった。

一方いっぽうでストックを2ほん形式けいしき競技きょうぎき、ノルウェーしきなどと呼称こしょうされた。

遠藤えんどう吉三郎きちさぶろう1916ねん大正たいしょう5ねん)に帰国きこくすると、北海道ほっかいどうではノルウェーしき一般いっぱんてきとなった。

1923ねん大正たいしょう12ねん)にだい1かい全日本ぜんにほんスキー選手権せんしゅけん大会たいかいひらかれると、ノルウェーしき北海道ほっかいどうぜい上位じょういめたことなどもあり、試行錯誤しこうさくご時代じだいて2本式ほんしき定着ていちゃくしていった。

1925ねん大正たいしょう14ねん)に全日本ぜんにほんスキー連盟れんめい(SAJ)誕生たんじょう[5]

1928ねん昭和しょうわ3ねん)にはサンモリッツのだい2かい冬季とうきオリンピックはじめて日本人にっぽんじん選手せんしゅだん参加さんか日本にっぽん代表だいひょう早大そうだいせいおおくをめた。

同年どうねん全日本ぜんにほん学生がくせいスキー選手権せんしゅけん大会たいかい開催かいさい。こちらは北大ほくだい初代しょだい総合そうごう優勝ゆうしょうかざった。

1930ねん昭和しょうわ5ねん)に玉川学園たまがわがくえん招聘しょうへいによってハンネス・シュナイダー来日らいにちする。ハンネスの上梓じょうしした「アールベルグ・バイブル」によってほぼ現代げんだいのスキーのすべかた確立かくりつする。

昭和しょうわはいり、鉄道てつどうもう発達はったつなどもあってスキーが大衆たいしゅうしたことで、スピードやテクニックをきそう「競技きょうぎスキー」のほかに「一般いっぱんスキー」という概念がいねんまれる[6]

1936ねん昭和しょうわ11ねん)、鉄道てつどうしょう国鉄こくてつ)が大穴おおあなスキーじょうでスキー講習こうしゅうかいひらく。翌年よくねんにはスキー道場どうじょう岩原いわはら開催かいさい[7]

1939ねん昭和しょうわ14ねん)、SAJは「一般いっぱんスキーじゅつ要領ようりょう」を発行はっこうし、一般いっぱんスキーの普及ふきゅう発展はってん目指めざすようになる。スキー技術ぎじゅつあきら検定けんてい現在げんざいスキーバッジテスト)が開始かいしされ、指導しどういん検定けんてい制度せいどはじまった[5]

戦前せんぜんのスキーブームにおいては、おおむ近代きんだい登山とざんにおける登山とざんこう適地てきちちかほか宿泊しゅくはく施設しせつとしての旅館りょかんひとしすで存在そんざいしていた降雪こうせつ地帯ちたいにある山間さんかん温泉おんせんおも発展はってんした(越後湯沢えちごゆざわ温泉おんせん草津くさつ温泉おんせん野沢温泉のざわおんせん蔵王温泉ざおうおんせんなど)。

れいとして川端かわばた康成やすなり小説しょうせつ雪国ゆきぐに』には主人公しゅじんこう島村しまむら温泉おんせん旅館りょかんからゲレンデのスキーきゃく様子ようす記述きじゅつ存在そんざいする(上越線じょうえつせん全通ぜんつう1931ねん昭和しょうわ6ねん〉、雪国ゆきぐに発表はっぴょうはじまったのが1935ねん昭和しょうわ10ねん〉)。

国防こくぼううえでのスキーの重要じゅうようせい依然いぜんとしてあったが、戦時せんじにおいて観光かんこう自粛じしゅくさけばれ、1942ねん昭和しょうわ17ねん)から1945ねん昭和しょうわ20ねん)までSAJが一時いちじ解散かいさんする[5]など、ひとまず一般いっぱんスキーは下火したびとなる。

戦後せんごのスキーブーム[編集へんしゅう]

終戦しゅうせんむかえると日本にっぽんおもだったスキーじょう進駐軍しんちゅうぐん慰安いあん休暇きゅうかのために接収せっしゅうされた。各地かくち本格ほんかくてき機械きかいしきのリフトが懸架けんかされたり、ブルドーザーをはじめとした重機じゅうきるいだい規模きぼ造成ぞうせいおこなわれたりするなど設備せつびおおきく近代きんだいされ、そののブームの揺籃ようらんとなった。

このころになると用具ようぐ進歩しんぽしており、当初とうしょいちまいいただったスキーばんにはエッジがそなわり、素材そざい合板ごうはん、スチール、そしてグラスファイバーへと徐々じょじょ発展はってんした。

プラスチックブーツの誕生たんじょう、バインディングの改良かいりょうといった技術ぎじゅつ革新かくしんもこれにつづいた。以前いぜんのスキー道具どうぐ脱着だっちゃくには若干じゃっかん専門せんもん知識ちしきようしたが、器具きぐ改良かいりょうあつかいの平易へいいさと安全あんぜんせい向上こうじょう提供ていきょうした。

1959ねん国鉄こくてつ臨時りんじ特殊とくしゅ割引わりびき乗車じょうしゃけんあつかいをはじめたことなどをふくめて、戦後せんご最初さいしょのスキーブームは1961ねん昭和しょうわ36ねん)にはじまる。このとしにはスキーきゃく年間ねんかん100まんにん突破とっぱした。スキーじょうきの夜行やこうバスが誕生たんじょうしたとし[8]であり、「レジャー」が流行りゅうこうになった。

くに国際こくさいてき競争きょうそうりょくやしなうため、観光かんこう基本きほんほう成立せいりつし、競争きょうそうりょくたかいスキーじょうを「国際こくさいスキーじょう」に指定していするなど後押あとおしした。

背景はいけいには高度こうど経済けいざい成長せいちょうによる処分しょぶん所得しょとく増加ぞうかだい7かい冬季とうきオリンピックにおけるいのたに千春ちはるぎんメダル獲得かくとくといった活躍かつやくどうオリンピックで回転かいてん大回転だいかいてん滑降かっこうの3だい競技きょうぎ制覇せいはするなどして活躍かつやくしたトニー・ザイラー俳優はいゆうぎょう転向てんこうつくられた一連いちれん映画えいが白銀はくぎんまねくよ!』(1959ねん公開こうかい)や『銀嶺ぎんれい王者おうじゃ』(1960ねん公開こうかいがある。

ニセコ高原こうげん比羅夫ひらふスキーじょう苗場なえば国際こくさいスキーじょうがこのとし営業えいぎょう開始かいししている。日本にっぽんへのスキー伝来でんらいから50ねんっていた。

1961ねん11月発行はっこうの『週刊しゅうかん平凡へいぼん』45ごう(平凡へいぼん出版しゅっぱん)には、「あなたのスキー準備じゅんびはできましたか!?」という特集とくしゅうがある。平凡へいぼんはその毎年まいとしスキーシーズンがちかくなると特集とくしゅう記事きじ掲載けいさいしブームの拡大かくだい一役ひとやくった。

1962ねんには自身じしんもスキーで国体こくたい出場しゅつじょう経験けいけんのある加山かやま雄三ゆうぞう主演しゅえん映画えいが銀座ぎんざわか大将たいしょう』が封切ふうぎられ、どうシリーズの1966ねん公開こうかいアルプスのわか大将たいしょう』は同年どうねん東宝とうほう配給はいきゅう映画えいがとしては1のヒットを記録きろくした。

このころ『アサヒグラフ』もスキーシーズンになると国内こくない海外かいがいのスキーじょう景色けしき表紙ひょうしげた。またスキー雑誌ざっしの『スキージャーナル』は1966ねん創刊そうかんしている。

1964ねんにはゲレンデスキーヤー(一般いっぱんスキー、基礎きそスキー)の頂点ちょうてんきそ大会たいかい全日本ぜんにほんデモンストレーター選考せんこうかい」(現在げんざい全日本ぜんにほんスキー技術ぎじゅつ選手権せんしゅけん大会たいかい)がはつ開催かいさいされた。

東京とうきょうオリンピックむかえてスポーツにたいするねつ益々ますますさかんとなり、1967ねんには皇太子こうたいし明仁あきひと夫妻ふさいがスキーをする光景こうけい話題わだいになった。

このころベビーブーム世代せだい青年せいねんむかえ、ゲレンデは若者わかものあふれた。

1967ねんには上越線じょうえつせん複線ふくせんにより輸送ゆそうりょく増大ぞうだいし、スキーきゃく目当めあてとしたスキー列車れっしゃ登場とうじょうした。

旅行りょこう代理だいりてんによるセット旅行りょこう商品しょうひん開発かいはつされ、国鉄こくてつ代理だいりてん経由けいゆして発行はっこうするエック(エコノミー・クーポン)といった割引わりびき切符きっぷさかんに宣伝せんでんした。

ブームは1972ねん札幌さっぽろオリンピック1973ねん苗場なえば日本にっぽんはつ開催かいさいアルペンスキー・ワールドカップ最高潮さいこうちょうむかえる。

1971ねんには新潟にいがたけん製造せいぞうされるスキー台数だいすうが210まんだいえ、輸出ゆしゅつ積極せっきょくてきおこなわれた[9]

スキーじょう周辺しゅうへん民宿みんしゅくやペンションがえたのもこの時期じきである[10][11]

その一転いってんして団塊だんかい世代せだい就職しゅうしょくむかえたことや、オイルショックによる景況けいきょうかん悪化あっかかさなりブームはややきをせる。

一般いっぱん家庭かていとしては支出ししゅつおおきなレジャーであるスキーには緊縮きんしゅく風潮ふうちょうぎゃくふうであったが、一方いっぽう田中たなか角栄かくえい日本にっぽん列島れっとう改造かいぞうろんによりリゾートでは不動産ふどうさん投機とうきてき買占かいしめがき、そのだい規模きぼなスキーじょう開業かいぎょう相次あいつぐなどスキーそのものが文化ぶんかとして定着ていちゃくした。

バブル景気けいき到来とうらい[編集へんしゅう]

80年代ねんだいはいると1982ねん昭和しょうわ57ねん)に東北新幹線とうほくしんかんせん上越新幹線じょうえつしんかんせん営業えいぎょう運行うんこう開始かいしされ、高速こうそく道路どうろ1985ねん昭和しょうわ60ねん)に関越かんえつ自動車じどうしゃどう全線ぜんせん開通かいつうするなど全国ぜんこくてき交通こうつうもう整備せいびすすみ、大量たいりょう輸送ゆそう時代じだいおとずれる。

1987ねん公開こうかい映画えいがわたしをスキーにれてって』のヒットや、団塊だんかいジュニア世代せだい青年せいねんかっていたこと、バブル景気けいきによって消費しょうひ好調こうちょうだったことなどがかさなってスキーブームが再来さいらいした。背景はいけい要因よういんにはほかにも週休しゅうきゅうにちせい一般いっぱん、スキー用品ようひんてい価格かかく企業きぎょう多角たかく経営けいえいによるスキー産業さんぎょう不動産ふどうさん、スキー用品ようひん)への参入さんにゅう既存きそんスキーじょう拡張かくちょう新規しんきのスキーじょう営業えいぎょう開始かいしなどがある。レジャー白書はくしょによれば、最盛さいせいであった1993ねんには、スキー人口じんこうは1860まんにんにまで増加ぞうかした。なおこの当時とうじはまだスノーボード一般いっぱんしていなかった。

JRのスキー臨時りんじ列車れっしゃシュプールごう」が設定せっていされたのもこのころで、国鉄こくてつ末期まっきの1986ねん運転うんてん開始かいし関東かんとう中京ちゅうきょう近畿きんきから長野ながのけん新潟にいがたけんをメインに、近畿きんきからは山陰やまかげへも、関東かんとうからは東北とうほく方面ほうめんへも運行うんこうされた。寝台しんだい特急とっきゅう北斗星ほくとせいトマムスキー/ニセコスキー」が運行うんこうされていたのもこの時期じきである。おな時期じき国鉄こくてつ北海道ほっかいどう総局そうきょくJR北海道ほっかいどうでは札幌さっぽろ千歳空港ちとせくうこうからトマム富良野ふらのニセコへのリゾート特急とっきゅうを、東武鉄道とうぶてつどうでは南会津みなみあいづへのスキーヤー夜行やこう列車れっしゃスノーパル」の運行うんこう開始かいししている。

大都市だいとしからスキーじょうへのツアーバス多数たすう運行うんこうされたが、この当時とうじのスキーじょうへのアクセスは自家用車じかようしゃおおかったため、大都市だいとしからスキーじょうエリアへの高速こうそく道路どうろ並行へいこうする幹線かんせん道路どうろ断続だんぞくてき渋滞じゅうたい発生はっせいしていた[2]。たとえば関越かんえつ自動車じどうしゃどうでは当時とうじ東京とうきょうがいたまき自動車じどうしゃどう開通かいつうだったこともあって、通常つうじょう金曜きんよう深夜しんやにかかわらず50km以上いじょうおおきい渋滞じゅうたいしょうじたり、都内とないたまきはちとおにおいては、東名とうめい高速こうそく東京とうきょうICから関越道かんえつどう東京とうきょうがわ入口いりくちとなる練馬ねりまICまで15km程度ていど距離きょりであるにもかかわらず、3あいだ~5あいだかかることもよくあった(深夜しんや出発しゅっぱつにもかかわらず大井おおいまち (埼玉さいたまけん)付近ふきんよるけることもあった)という。

ブームの只中ただなかである1990ねん前後ぜんこうには林間りんかん学校がっこう修学旅行しゅうがくりょこう(とく高校こうこう)がスキーという学校がっこうもかなりあった。

スキー人口じんこう増加ぞうかともない、当時とうじ非常ひじょう高価こうかであったスキー用品ようひん大量たいりょう生産せいさんによっててい価格かかくすすみ、ブーム以前いぜんは10まんえん程度ていどだったスキーセットがディスカウントストアとうで2まんえん程度ていどになるなど安価あんか購入こうにゅうできるようになったことも流行りゅうこう後押あとおしした。またスポーツショップのCMソングもふゆ風物詩ふうぶつしとして定着ていちゃくした。しろゆきじょうでも目立めだ派手はででカラフルなスキーウェアも一般いっぱんした(ゲレンデ美人びじん)。

この当時とうじ人気にんきスキーじょうではリフトゴンドラ時間じかんすうじゅうふんから1あいだというのもめずらしくなかった[2]。また当時とうじはスキー人口じんこうたいして宿泊しゅくはく施設しせつ供給きょうきゅうかず、ロッジ予約よやくれない、れたとしても相部屋あいべやですしめで食事しょくじ貧弱ひんじゃく、などといったことも常態じょうたいしていた[2]。ブームの時期じきバブルかさなっていたこともあり、しんスキーじょう多数たすうオープンし、既存きそんのスキーじょうではゲレンデの拡張かくちょう既存きそんリフト・ゴンドラのえなどが相次あいついだ。1993ねんには千葉ちばけん船橋ふなばし屋内おくないスキーじょうとして日本にっぽん最大さいだいであったららぽーとスキードームSSAWS開業かいぎょうし、2002ねん閉鎖へいさ、のちに解体かいたいされている。

そのころ各地かくちのスキーじょう付近ふきん高原こうげんエリアにリゾートマンション急速きゅうそく建設けんせつされ、販売はんばいされるとすぐにれとなった。新潟にいがた湯沢ゆざわまちれいとなる。それらのきゅうなリゾートマンションの建設けんせつによってその地域ちいきでの水不足みずぶそく心配しんぱいされることもあった。

1987ねん制定せいていリゾートほう一連いちれん動向どうこう拍車はくしゃをかけた。

産業さんぎょう反応はんのう[編集へんしゅう]

1992ねん東京とうきょうディズニーリゾート(TDL)のきゃくったため、オリエンタルランドがわCMで、「スキーよりミッキー」という宣伝せんでんおこなった。このCMのストーリーは、スキーにかう途中とちゅうくるまなかで、渋滞じゅうたいにうんざりする仲間なかまのうちの一人ひとり女性じょせいが「スキーよりミッキー」と突然とつぜんいだし、スキーばんんだくるまのまま、ディズニーランドの駐車ちゅうしゃじょうくち同様どうようくるまかうというもので、スキー業界ぎょうかい人々ひとびとおどろきをあたえた。事実じじつ、スキーブームには前述ぜんじゅつのSSAWSが近隣きんりん出来できことから、TDLの入場にゅうじょうしゃすうっていた。

楽器がっきメーカーでは、ヤマハ音源おんげん内蔵ないぞうシーケンサーQY10を1990ねん発売はつばいしている。これは、「スキーバスのなかんで手軽てがる作曲さっきょくたのしめるもの」というコンセプトのした設計せっけいされている。

自動車じどうしゃメーカーでは、先述せんじゅつ映画えいがげきちゅう登場とうじょうしたGT-FOURがヒットしたほかスバルのステーションワゴン「レガシィ」(1989ねん発売はつばい)が"金曜きんようよる高速こうそく道路どうろはしり、あさからスキーをたのしむ"というライフスタイルにマッチしたことや、ゆきどう走行そうこう不可欠ふかけつよんりん駆動くどうきゅうといった機能きのう搭載とうさいしていたことなどで爆発ばくはつてき普及ふきゅうした[12]。また各社かくしゃがこれに追随ついずいしワゴンのカテゴリにちかられる結果けっかとなった(三菱みつびしRVRなど)。現代げんだいSUVにつながるRVという区分くぶん一般いっぱんした(パジェロなど)。

アマチュア無線むせんでは、当時とうじまだ一般いっぱんてきでなかった携帯けいたい電話でんわにかわってゲレンデでの連絡れんらく手段しゅだんや、仲間なかま同士どうし交信こうしん手段しゅだんとして車載しゃさいされるなどした結果けっか基地きちきょく増加ぞうかした。パーソナル無線むせんしょう電力でんりょくトランシーバー売上うりあげばした[13]

鎮静ちんせい[編集へんしゅう]

バブル時代じだい象徴しょうちょうともいわれたスキーブームも、その崩壊ほうかいとともに鎮静ちんせいかった(平成へいせい不況ふきょう就職しゅうしょく氷河期ひょうがき)。1980年代ねんだい以降いこう一貫いっかんして増加ぞうかしていたスキー人口じんこうは、バブル景気けいきのこただよっていた1993ねんの1860まんにんをピークに減少げんしょうてんじた。

レジャー白書はくしょでは娯楽ごらく多様たようや、不景気ふけいきおも原因げんいんとしている。なお余暇よか市場いちばそのものも、1996ねんがピークである[14]

ブーム当時とうじ過密かみつ状態じょうたいつづいたことや、急激きゅうげきしんスキーじょうのオープンが過当かとう競争きょうそうまねいたこと、一般いっぱんしすぎたことできられた(陳腐ちんぷまねいた)こと、下降かこう局面きょくめんはいっても依然いぜんとしてサービスのわるさが改善かいぜんされなかったことなどもいた。中核ちゅうかくになっていた団塊だんかいジュニア世代せだい結婚けっこんおよび子育こそだてのためゲレンデからっていったことや、時代じだい変化へんかともなうスキー人気にんき低迷ていめい若者わかもののスキーばなれ)、1990年代ねんだいより慢性まんせいてきつづいた暖冬だんとう傾向けいこうによるゆき不足ふそくあいまって、2000年代ねんだい前半ぜんはんにはスキー人口じんこうが800まんにんるなどやく10ねんでピークの4わりにまで減少げんしょうした。また、それにともないスキーじょうやく2わり減少げんしょうした。

1997ねん消費しょうひぜいげも逆風ぎゃくふうとなった(スキーをおこなうためには用具ようぐ調達ちょうたつ交通こうつう手段しゅだん確保かくほ宿泊しゅくはく施設しせつ手配てはい飲食いんしょく、リフトチケットだい、スクール講習こうしゅうりょうとうおおきな支出ししゅつ必要ひつようとする)。

市場いちばおおくをめていた国内こくないのスキーばんのメーカーも、1990ねんのスキーばんへの輸入ゆにゅう関税かんぜい撤廃てっぱい価格かかく競争きょうそうによる低廉ていれんきょう影響えいきょう倒産とうさん事業じぎょう撤退てったい相次あいつぎ、国産こくさんだいメーカーのうち1991ねんハガスキーが、1996ねんカザマスキーがそれぞれ倒産とうさんした。また1997ねんにはヤマハが、長野ながのオリンピック国内こくないいた1998ねんには西沢にしざわがそれぞれスキー事業じぎょうから撤退てったいしている。

1990年代ねんだい登場とうじょうしたスノーボード人口じんこう増加ぞうかは、上記じょうきおぎなうにはいたらなかった。

1991ねん開始かいしされたJR SKISKIキャンペーンも、1998-1999シーズンを最後さいご一旦いったん終了しゅうりょうした(その2006-2007シーズンたん年度ねんど復活ふっかつはさんで2012-2013シーズンより本格ほんかくてきさい展開てんかい)。

その動向どうこう[編集へんしゅう]

2000年代ねんだい後半こうはん以降いこうはスキー人口じんこう減少げんしょう度合どあいは比較的ひかくてきゆるやかになっているものの、少子化しょうしか傾向けいこう歯止はどめがかからないことや、依然いぜんとして景況けいきょうかん改善かいぜんられないことなどから、客層きゃくそう主体しゅたい当時とうじスキーブームを堪能たんのういま中高年ちゅうこうねんになった世代せだいおおくをめるなど、若者わかもののスキーばなれの抜本ばっぽんてき改善かいぜんにはいたっていない。

スキーじょうによっては最寄もよえきからスキーじょうへのシャトルバスの無料むりょう駐車ちゅうしゃ料金りょうきん無料むりょうしたり、特定とくてい年代ねんだい対象たいしょうにリフトけん無料むりょう設定せっていしているスキーじょうもあり(ゆきマジ19など)、またJR東日本ひがしにっぽんJR SKI SKIキャンペーンを再開さいかいするなどして、かく業界ぎょうかいがウィンタースポーツの振興しんこうんでいる。NEXCO東日本ひがしにっぽんでは毎年まいとしスキーじょうまでの高速こうそく道路どうろ料金りょうきん割引わりびきになるウィンターパスのもうみをけている[1]

2010年代ねんだい以降いこうは、海外かいがいからの訪日ほうにちきゃく増加ぞうかともな外国がいこくじんきゃくむことで活気かっきもどそうとこころみるスキーじょう自治体じちたいえている。

業種ぎょうしゅからのスキーじょう経営けいえい参入さんにゅう企業きぎょう[編集へんしゅう]

かつてスキーじょう経営けいえい参入さんにゅうしていた業種ぎょうしゅ企業きぎょう

本業ほんぎょう以外いがいからのスキー用品ようひん参入さんにゅう企業きぎょう[編集へんしゅう]

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

出典しゅってん[編集へんしゅう]

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