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チャムドの戦 たたか い (中国 ちゅうごく 語 ご : 昌 あきら 都 と 之 の 战 )は、中華人民共和国 ちゅうかじんみんきょうわこく が、チベットとの交渉 こうしょう の失敗 しっぱい 後 ご 、事実 じじつ 上 じょう チベット 地域 ちいき で独立 どくりつ していたチベット に対 たい して行 い った戦役 せんえき [9] 。目的 もくてき はチャムド にいたチベット軍 ぐん を攻略 こうりゃく し、ガンデンポタン の士気 しき を下 さ げ、チベットに対 たい する中国 ちゅうごく の主権 しゅけん を認 みと めさせるために北京 ぺきん に交渉 こうしょう 人 じん を送 おく るように強力 きょうりょく な圧力 あつりょく をかけることであった[10] 。戦闘 せんとう の結果 けっか 中国 ちゅうごく はチャムドを攻略 こうりゃく し[6] 、その後 ご の両者 りょうしゃ の代表 だいひょう 者 しゃ による交渉 こうしょう で最終 さいしゅう 的 てき に中華人民共和国 ちゅうかじんみんきょうわこく によるチベットの編入 へんにゅう が行 おこな われた。
1950年 ねん 3月 がつ 7日 にち 、チベット政府 せいふ 代表 だいひょう 団 だん が新 あたら しく成立 せいりつ した中華人民共和国 ちゅうかじんみんきょうわこく と対話 たいわ を行 おこな い、中国 ちゅうごく 側 がわ がチベットの特 とく に「領域 りょういき 保全 ほぜん 」を尊重 そんちょう し、安全 あんぜん を保障 ほしょう するためにカリンポン を訪 おとず れた。対話 たいわ の開始 かいし はチベット、インド 、英国 えいこく 、中国 ちゅうごく の代表 だいひょう 団 だん の間 あいだ で開催 かいさい 場所 ばしょ についての議論 ぎろん によって遅 おく れた。チベットはシンガポール か香港 ほんこん での開催 かいさい を支持 しじ しており、英国 えいこく はインドでの開催 かいさい を支持 しじ 、インドと中国 ちゅうごく は北京 ぺきん を支持 しじ しており、また、インドと英国 えいこく は対話 たいわ を好 この まなかった。チベット代表 だいひょう 団 だん は最終 さいしゅう 的 てき に1950年 ねん 9月 がつ 16日 にち にデリーで中国 ちゅうごく 側 がわ 大使 たいし の袁仲賢 けん (英語 えいご 版 ばん ) と会 あ った。袁は「チベットが中国 ちゅうごく の一部 いちぶ とみなす」「中国 ちゅうごく がチベットの国防 こくぼう を担当 たんとう する」「中国 ちゅうごく がチベットの貿易 ぼうえき と外交 がいこう を担当 たんとう する」三 さん 点 てん の提案 ていあん を伝 つた え、受 う け入 い れれば平和 へいわ 的 てき な「解放 かいほう 」になり、さもなくば戦争 せんそう であるとした。チベットは法王 ほうおう とパトロンとしての中 なか 藏 ぞう 関係 かんけい 維持 いじ を考 かんが えており、9月19日 にち に代表 だいひょう 長 ちょう のツェポン(蔵相 ぞうしょう )ワンチュク・デデン・シャカッパ (英語 えいご 版 ばん ) は協力 きょうりょく を推進 すいしん し、実施 じっし に幾 いく つかの条件 じょうけん をつけた。特 とく に中国 ちゅうごく 軍 ぐん のチベット駐留 ちゅうりゅう は、当時 とうじ チベットには周辺 しゅうへん 国家 こっか に脅威 きょうい がなく、もしインドやネパールから攻撃 こうげき されれば中国 ちゅうごく に軍事 ぐんじ 的 てき 支援 しえん を求 もと めることができたため必要 ひつよう ないとされており、これは大 おお きな議論 ぎろん となった。
ラサで議論 ぎろん が行 おこな われている間 あいだ 、10月7日 にち に中国 ちゅうごく 兵 へい は東 ひがし チベットへと侵攻 しんこう し、5地点 ちてん から「事実 じじつ 上 じょう 」の国境 こっきょう [11] を超 こ えた。目的 もくてき はチベット侵攻 しんこう 自体 じたい ではなく、チベット軍 ぐん をチャムドで包囲 ほうい 殲滅 せんめつ し、ラサ政府 せいふ の思惑 おもわく をくじき、その圧力 あつりょく 下 か で北京 ぺきん に交渉 こうしょう 者 しゃ を送 おく らせて平和 へいわ 的 てき にチベット編入 へんにゅう を行 おこな う条約 じょうやく に署名 しょめい させることであった[10] 。10月21日 にち 、ラサは共産党 きょうさんとう 政府 せいふ との協議 きょうぎ のために北京 ぺきん に駐在 ちゅうざい していた代表 だいひょう 団 だん に直 ただ ちに去 さ るように指示 しじ し、ダライ・ラマの身柄 みがら が保障 ほしょう されるのであれば、他 た の2項 こう を除 のぞ く最初 さいしょ の要求 ようきゅう には合意 ごうい するとした。
後 のち にマハーカーラ神 しん の前 まえ で占 うらな い、これらの3点 てん は受 う け入 い れられず、チベットは外国 がいこく の手 て に落 お ちるだろうと告 つ げられたため最初 さいしょ の要求 ようきゅう への合意 ごうい も取 と り消 け された[12] [13] [14] 。
人民 じんみん 解放 かいほう 軍 ぐん の侵入 しんにゅう 以前 いぜん 、カム人 じん とチベット政府 せいふ の間 あいだ の関係 かんけい は酷 ひど く悪 わる かった。このためにカム人 じん はかろうじて反対 はんたい するか、あるいはチャムドでの共産党 きょうさんとう の行動 こうどう に加 くわ わった。人民 じんみん 解放 かいほう 軍 ぐん はカム人 じん から抵抗 ていこう をあまり受 う けずにカム を占領 せんりょう した。カム人 じん とチベット政府 せいふ の関係 かんけい はきわめて乏 とぼ しいものであった。パンダツァン・ラプガはンガプー・ンガワン・ジクメ に、いくらかのカム人 じん の戦士 せんし をチベット政府 せいふ がカムの独立 どくりつ を認 みと めることと引 ひ き換 か えに抵抗 ていこう に参加 さんか させることを提案 ていあん したが、ンガプーはこれは拒否 きょひ した。
チャムドでの戦闘 せんとう 中 ちゅう 、ラプガとトプゲーは中国 ちゅうごく と共 とも に交渉 こうしょう に従事 じゅうじ した。カム人 じん の多 おお くは人民 じんみん 解放 かいほう 軍 ぐん に参加 さんか するか戦 たたか わないかのどちらかであり、人民 じんみん 解放 かいほう 軍 ぐん の進行 しんこう はスムーズに成功 せいこう した[15] 。
交渉 こうしょう 失敗 しっぱい から1ヵ月 かげつ 後 ご [9] 、チベットは安全 あんぜん 保障 ほしょう で外国 がいこく からの支援 しえん と援助 えんじょ を引 ひ き出 だ そうと試 こころ み[16] 、人民 じんみん 解放 かいほう 軍 ぐん [17] とチベット軍 ぐん の双方 そうほう が増強 ぞうきょう された。人民 じんみん 解放 かいほう 軍 ぐん はディチュ河 かわ を10月の6〜7日 にち に超 こ えた[18] 。
数 かず で圧倒 あっとう する人民 じんみん 解放 かいほう 軍 ぐん 2個 こ 部隊 ぶたい は10月19日 にち にチベット軍 ぐん を国境 こっきょう から近 ちか いチャムド周辺 しゅうへん ですばやく包囲 ほうい し、114名 めい の人民 じんみん 解放 かいほう 軍 ぐん 兵士 へいし [6] と180人 にん のチベット兵 へい [6] [7] [8] が死傷 ししょう した。トマス・レアード (英語 えいご 版 ばん ) によると5,000人 にん のチベット兵 へい が殺害 さつがい されたとされる[2] 。活発 かっぱつ な戦闘 せんとう はサルウィン川 がわ の北東 ほくとう 部 ぶ と96度 ど 線 せん 以東 いとう のチベット政府 せいふ が管理 かんり する国境 こっきょう 近辺 きんぺん に限 かぎ られていた[19] 。チャムド 占領 せんりょう 後 ご 、人民 じんみん 解放 かいほう 軍 ぐん は交戦 こうせん を停止 ていし し[7] [20] 、捕虜 ほりょ としたンガプー・ンガワン・ジクメ をラサ に送 おく り交渉 こうしょう 条件 じょうけん を改 あらた めて提示 ていじ し、チベットが北京 ぺきん に代表 だいひょう 者 しゃ を送 おく るのを待 ま った[21] 。
人民 じんみん 解放 かいほう 軍 ぐん はンガプー・ンガワン・ジクメ を解放 かいほう してラサに送 おく り、人民 じんみん 解放 かいほう 軍 ぐん の代理 だいり としてダライラマと交渉 こうしょう させた。中国 ちゅうごく はチベットが「平和 へいわ 的 てき に解放 かいほう された」場合 ばあい 、チベットの上層 じょうそう 部 ぶ は地位 ちい と権力 けんりょく を保 たも てるとの約束 やくそく を伝 つた えた[22] 。チベット政府 せいふ は交渉 こうしょう を行 おこな うために北京 ぺきん に代表 だいひょう を送 おく った。
人民 じんみん 解放 かいほう 軍 ぐん に加 くわ わった一部 いちぶ のカム人 じん は4年 ねん 後 ご にカム反乱 はんらん を起 お こす。地元 じもと の武将 ぶしょう たちは後 のち に共通 きょうつう 目的 もくてき の下 した で団結 だんけつ し、CIAの援助 えんじょ を受 う けてチュシ・ガンドゥク を結成 けっせい した。
共産党 きょうさんとう 政府 せいふ はこの戦 たたか いを「英国 えいこく 主義 しゅぎ 、奴隷 どれい 主義 しゅぎ の分離 ぶんり 主義 しゅぎ 者 しゃ 」で「前 まえ にダライラマの師 し であったレティン・リンポチェ (英語 えいご 版 ばん ) 、ジャムペル・イェーシェー・ギャルツェン (英語 えいご 版 ばん ) の死 し に責任 せきにん がある」タクタ・リンポチェ、ガワン・スンラプ・ストブ (英語 えいご 版 ばん ) に対抗 たいこう するものと定義 ていぎ している[23] 。
^ Mackerras, Colin. Yorke, Amanda. The Cambridge Handbook of Contemporary China . [1991] (1991). Cambridge University Press. ISBN 0521387558 . pg 100.
^ a b c Laird 2006, pp. 301-307
^ Shakya 1999, pg. 43
^ The Tibetan Army, Gyajong , was established according to the 29-point reform installed by Emperor Qianlong. See Goldstein, M.C., "The Snow Lion and the Dragon" , p20
^ Freedom in Exile: The Autobiography of the Dalai Lama , 14th Dalai Lama, London: Little, Brown and Co, 1990 ISBN 0-349-10462-X
^ a b c d e Jiawei Wang et Nima Gyaincain, The historical Status of China's Tibet , China Intercontinental Press, 1997, p.209 (see also The Local Government of Tibet Refused Peace Talks and the PLA Was Forced to Fight the Qamdo Battle , china.com.cn ): "The Quamdo battle thus came to a victorious end on October 24, with 114 PLA soldiers and 180 Tibetan troops killed or wounded."
^ a b c Shakya 1999, p.45. Shakya also quotes PRC sources reporting 5738 enemy troops "liquidated" and over 5700 "destroyed". Shakya does not provide an estimate of PRC casualties.
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^ a b Melvin C. Goldstein, A History of Modern Tibet, vol.2, pp.48–9.
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^ W. D. Shakabpa,One hundred thousand moons, BRILL, 2010 trans. Derek F. Maher, Vol.1, pp.916–917, and ch.20 pp.928–942, esp.pp.928–33.
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^ Shakya 1999 p.32 (6 Oct). Goldstein 1997 p.45 (7 Oct).
^ Shakya 1999 map p.xiv
^ Goldstein 1997 p.45
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参照 さんしょう 文献 ぶんけん [ 編集 へんしゅう ]
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Knaus, Robert Kenneth. Orphans of the Cold War: America and the Tibetan Struggle for Survival (1999) PublicAffairs . ISBN 978-1-891620-18-8
Laird, Thomas. The Story of Tibet: Conversations with the Dalai Lama (2006) Grove Press. ISBN 0-8021-1827-5
Shakya, Tsering. The Dragon In The Land Of Snows (1999) Columbia University Press. ISBN 0-231-11814-7
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