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チャムドのたたか

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チャムドのたたか

かわわたってチベットへかう中国ちゅうごくぐん
戦争せんそう中華人民共和国ちゅうかじんみんきょうわこくによるチベット併合へいごう
年月日ねんがっぴ1950ねん10月6にち24にち
場所ばしょチベットチャムド
結果けっか中国ちゅうごく勝利しょうり人民じんみん解放かいほうぐんによるチャムド制圧せいあつ
交戦こうせん勢力せいりょく
中華人民共和国の旗 中華人民共和国ちゅうかじんみんきょうわこく チベット(ガンデンポタン)の旗 チベット
指導しどうしゃ指揮しきかん
チベット(ガンデンポタン)の旗 ンガプー・ンガワン・ジクメ[1]
チベット(ガンデンポタン)の旗 ラル・ツェワン・ドルジェ英語えいごばん
戦力せんりょく
中華人民共和国の旗 人民じんみん解放かいほうぐん : 40,000めい[2][3] チベット(ガンデンポタン)の旗 チベットぐん[4] 8,500めい[5]
損害そんがい
114[6] 死者ししゃ180[6][7][8]
(〜5,000[2])
冷戦れいせん

チャムドのたたか中国ちゅうごく: あきら)は、中華人民共和国ちゅうかじんみんきょうわこくが、チベットとの交渉こうしょう失敗しっぱい事実じじつじょうチベット地域ちいき独立どくりつしていたチベットたいしてった戦役せんえき[9]目的もくてきチャムドにいたチベットぐん攻略こうりゃくし、ガンデンポタン士気しきげ、チベットにたいする中国ちゅうごく主権しゅけんみとめさせるために北京ぺきん交渉こうしょうじんおくるように強力きょうりょく圧力あつりょくをかけることであった[10]戦闘せんとう結果けっか中国ちゅうごくはチャムドを攻略こうりゃく[6]、その両者りょうしゃ代表だいひょうしゃによる交渉こうしょう最終さいしゅうてき中華人民共和国ちゅうかじんみんきょうわこくによるチベットの編入へんにゅうおこなわれた。

衝突しょうとつ以前いぜん[編集へんしゅう]

1950ねん3がつ7にち、チベット政府せいふ代表だいひょうだんあたらしく成立せいりつした中華人民共和国ちゅうかじんみんきょうわこく対話たいわおこない、中国ちゅうごくがわがチベットのとくに「領域りょういき保全ほぜん」を尊重そんちょうし、安全あんぜん保障ほしょうするためにカリンポンおとずれた。対話たいわ開始かいしはチベット、インド英国えいこく中国ちゅうごく代表だいひょうだんあいだ開催かいさい場所ばしょについての議論ぎろんによっておくれた。チベットはシンガポール香港ほんこんでの開催かいさい支持しじしており、英国えいこくはインドでの開催かいさい支持しじ、インドと中国ちゅうごく北京ぺきん支持しじしており、また、インドと英国えいこく対話たいわこのまなかった。チベット代表だいひょうだん最終さいしゅうてきに1950ねん9がつ16にちにデリーで中国ちゅうごくがわ大使たいし袁仲けん英語えいごばんった。袁は「チベットが中国ちゅうごく一部いちぶとみなす」「中国ちゅうごくがチベットの国防こくぼう担当たんとうする」「中国ちゅうごくがチベットの貿易ぼうえき外交がいこう担当たんとうする」さんてん提案ていあんつたえ、れれば平和へいわてきな「解放かいほう」になり、さもなくば戦争せんそうであるとした。チベットは法王ほうおうとパトロンとしてのなかぞう関係かんけい維持いじかんがえており、9月19にち代表だいひょうちょうのツェポン(蔵相ぞうしょう)ワンチュク・デデン・シャカッパ英語えいごばん協力きょうりょく推進すいしんし、実施じっしいくつかの条件じょうけんをつけた。とく中国ちゅうごくぐんのチベット駐留ちゅうりゅうは、当時とうじチベットには周辺しゅうへん国家こっか脅威きょういがなく、もしインドやネパールから攻撃こうげきされれば中国ちゅうごく軍事ぐんじてき支援しえんもとめることができたため必要ひつようないとされており、これはおおきな議論ぎろんとなった。

ラサで議論ぎろんおこなわれているあいだ、10月7にち中国ちゅうごくへいひがしチベットへと侵攻しんこうし、5地点ちてんから「事実じじつじょう」の国境こっきょう[11]えた。目的もくてきはチベット侵攻しんこう自体じたいではなく、チベットぐんをチャムドで包囲ほうい殲滅せんめつし、ラサ政府せいふ思惑おもわくをくじき、その圧力あつりょく北京ぺきん交渉こうしょうしゃおくらせて平和へいわてきにチベット編入へんにゅうおこな条約じょうやく署名しょめいさせることであった[10]。10月21にち、ラサは共産党きょうさんとう政府せいふとの協議きょうぎのために北京ぺきん駐在ちゅうざいしていた代表だいひょうだんただちにるように指示しじし、ダライ・ラマの身柄みがら保障ほしょうされるのであれば、の2こうのぞ最初さいしょ要求ようきゅうには合意ごういするとした。

のちマハーカーラしんまえうらない、これらの3てんれられず、チベットは外国がいこくちるだろうとげられたため最初さいしょ要求ようきゅうへの合意ごういされた[12][13][14]

経過けいか[編集へんしゅう]

人民じんみん解放かいほうぐん侵入しんにゅう以前いぜんカムじんとチベット政府せいふあいだ関係かんけいひどわるかった。このためにカムじんはかろうじて反対はんたいするか、あるいはチャムドでの共産党きょうさんとう行動こうどうくわわった。人民じんみん解放かいほうぐんはカムじんから抵抗ていこうをあまりけずにカム占領せんりょうした。カムじんとチベット政府せいふ関係かんけいはきわめてとぼしいものであった。パンダツァン・ラプガはンガプー・ンガワン・ジクメに、いくらかのカムじん戦士せんしをチベット政府せいふがカムの独立どくりつみとめることとえに抵抗ていこう参加さんかさせることを提案ていあんしたが、ンガプーはこれは拒否きょひした。

チャムドでの戦闘せんとうちゅう、ラプガとトプゲーは中国ちゅうごくとも交渉こうしょう従事じゅうじした。カムじんおおくは人民じんみん解放かいほうぐん参加さんかするかたたかわないかのどちらかであり、人民じんみん解放かいほうぐん進行しんこうはスムーズに成功せいこうした[15]

交渉こうしょう失敗しっぱいから1ヵ月かげつ[9]、チベットは安全あんぜん保障ほしょう外国がいこくからの支援しえん援助えんじょそうとこころ[16]人民じんみん解放かいほうぐん[17]とチベットぐん双方そうほう増強ぞうきょうされた。人民じんみん解放かいほうぐんはディチュかわを10月の6〜7にちえた[18]

かず圧倒あっとうする人民じんみん解放かいほうぐん2部隊ぶたいは10月19にちにチベットぐん国境こっきょうからちかいチャムド周辺しゅうへんですばやく包囲ほういし、114めい人民じんみん解放かいほうぐん兵士へいし[6]と180にんのチベットへい[6][7][8]死傷ししょうした。トマス・レアード英語えいごばんによると5,000にんのチベットへい殺害さつがいされたとされる[2]活発かっぱつ戦闘せんとうサルウィンがわ北東ほくとうと96せん以東いとうのチベット政府せいふ管理かんりする国境こっきょう近辺きんぺんかぎられていた[19]チャムド占領せんりょう人民じんみん解放かいほうぐん交戦こうせん停止ていし[7][20]捕虜ほりょとしたンガプー・ンガワン・ジクメラサおく交渉こうしょう条件じょうけんあらためて提示ていじし、チベットが北京ぺきん代表だいひょうしゃおくるのをった[21]

その[編集へんしゅう]

人民じんみん解放かいほうぐんンガプー・ンガワン・ジクメ解放かいほうしてラサにおくり、人民じんみん解放かいほうぐん代理だいりとしてダライラマと交渉こうしょうさせた。中国ちゅうごくはチベットが「平和へいわてき解放かいほうされた」場合ばあい、チベットの上層じょうそう地位ちい権力けんりょくたもてるとの約束やくそくつたえた[22]。チベット政府せいふ交渉こうしょうおこなうために北京ぺきん代表だいひょうおくった。

人民じんみん解放かいほうぐんくわわった一部いちぶのカムじんは4ねんカム反乱はんらんこす。地元じもと武将ぶしょうたちはのち共通きょうつう目的もくてきした団結だんけつし、CIAの援助えんじょけてチュシ・ガンドゥク結成けっせいした。

共産党きょうさんとう政府せいふはこのたたかいを「英国えいこく主義しゅぎ奴隷どれい主義しゅぎ分離ぶんり主義しゅぎしゃ」で「まえにダライラマのであったレティン・リンポチェ英語えいごばんジャムペル・イェーシェー・ギャルツェン英語えいごばん責任せきにんがある」タクタ・リンポチェ、ガワン・スンラプ・ストブ英語えいごばん対抗たいこうするものと定義ていぎしている[23]

[編集へんしゅう]

  1. ^ Mackerras, Colin. Yorke, Amanda. The Cambridge Handbook of Contemporary China. [1991] (1991). Cambridge University Press. ISBN 0521387558. pg 100.
  2. ^ a b c Laird 2006, pp. 301-307
  3. ^ Shakya 1999, pg. 43
  4. ^ The Tibetan Army, Gyajong, was established according to the 29-point reform installed by Emperor Qianlong. See Goldstein, M.C., "The Snow Lion and the Dragon", p20
  5. ^ Freedom in Exile: The Autobiography of the Dalai Lama, 14th Dalai Lama, London: Little, Brown and Co, 1990 ISBN 0-349-10462-X
  6. ^ a b c d e Jiawei Wang et Nima Gyaincain, The historical Status of China's Tibet, China Intercontinental Press, 1997, p.209 (see also The Local Government of Tibet Refused Peace Talks and the PLA Was Forced to Fight the Qamdo Battle, china.com.cn): "The Quamdo battle thus came to a victorious end on October 24, with 114 PLA soldiers and 180 Tibetan troops killed or wounded."
  7. ^ a b c Shakya 1999, p.45. Shakya also quotes PRC sources reporting 5738 enemy troops "liquidated" and over 5700 "destroyed". Shakya does not provide an estimate of PRC casualties.
  8. ^ a b Feigon 1996, p.144.
  9. ^ a b Shakya 1999 pp.28–32
  10. ^ a b Melvin C. Goldstein, A History of Modern Tibet, vol.2, pp.48–9.
  11. ^ Melvin C. Goldstein, A History of Modern Tibet: The Calm Before the Storm: 1951–1955, University of California Press, 2009, Vol.2,p.48.
  12. ^ Shakya 1999 pp.27–32 (entire paragraph).
  13. ^ W. D. Shakabpa,One hundred thousand moons, BRILL, 2010 trans. Derek F. Maher, Vol.1, pp.916–917, and ch.20 pp.928–942, esp.pp.928–33.
  14. ^ Melvin C. Goldstein, A History of Modern Tibet: The Calm Before the Storm: 1951–1955, Vol.2, ibid.pp.41–57.
  15. ^ John Kenneth Knaus (2000). Orphans of the Cold War America and the Tibetan Struggle for Survival (illustrated ed.). PublicAffairs. p. 71. ISBN 1-891620-85-1. https://books.google.com/books?id=FwaJCAU8mr8C&pg=PA71&dq=rapga+chinese&hl=en&ei=WI_FTdqrJoiugQeJxvnKBA&sa=X&oi=book_result&ct=result&resnum=6&ved=0CEcQ6AEwBQ#v=onepage&q=rapga%20chinese&f=false 2011ねん12月27にち閲覧えつらん 
  16. ^ Shakya 1999 p.12,20,21
  17. ^ Feigon 1996 p.142. Shakya 1999 p.37.
  18. ^ Shakya 1999 p.32 (6 Oct). Goldstein 1997 p.45 (7 Oct).
  19. ^ Shakya 1999 map p.xiv
  20. ^ Goldstein 1997 p.45
  21. ^ Shakya 1999 p.49
  22. ^ Laird, 2006 p.306.
  23. ^ アーカイブされたコピー”. 2012ねん4がつ1にち時点じてんオリジナルよりアーカイブ。2011ねん10がつ25にち閲覧えつらん

参照さんしょう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

  • Feigon, Lee. Demystifying Tibet: Unlocking the Secrets of the Land of Snows (1996) Ivan R. Dee Inc. ISBN 1-56663-089-4
  • Ford, Robert. Wind Between The Worlds The extraordinary first-person account of a Westerner's life in Tibet as an official of the Dalai Lama (1957) David Mckay Co., Inc.
  • Goldstein, Melvyn C. A History of Modern Tibet, 1913–1951: The Demise of the Lamaist State (1989) University of California Press. ISBN 978-0-520-06140-8
  • Goldstein, Melvyn C. The Snow Lion and the Dragon: China, Tibet, and the Dalai Lama (1997) University of California Press. ISBN 0-520-21254-1
  • Grunfeld, A. Tom. The Making of Modern Tibet (1996) East Gate Book. ISBN 978-1-56324-713-2
  • Knaus, Robert Kenneth. Orphans of the Cold War: America and the Tibetan Struggle for Survival (1999) PublicAffairs . ISBN 978-1-891620-18-8
  • Laird, Thomas. The Story of Tibet: Conversations with the Dalai Lama (2006) Grove Press. ISBN 0-8021-1827-5
  • Shakya, Tsering. The Dragon In The Land Of Snows (1999) Columbia University Press. ISBN 0-231-11814-7
  • Robert W. Ford Captured in Tibet, Oxford University Press, 1990, ISBN 978-0-19-581570-2

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]