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トニー・ブルックス

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
トニー・ブルックス
Tony Brooks
基本きほん情報じょうほう
フルネーム チャールズ・アンソニー・スタンディッシュ・ブルックス
Charles Anthony Standish Brooks
国籍こくせき イギリスの旗 イギリス
出身しゅっしん イングランドの旗 イングランド
チェシャーしゅうデューキンフィールド
生年月日せいねんがっぴ (1932-02-25) 1932ねん2がつ25にち
ぼつ年月日ねんがっぴ (2022-05-03) 2022ねん5月3にち(90さいぼつ
F1での経歴けいれき
活動かつどう時期じき 1956-1961
所属しょぞくチーム '56,'61 BRM
'57-'58,'59,'60 ヴァンウォール
'59 フェラーリ
'60 クーパー
出走しゅっそう回数かいすう 39 (38スタート)
タイトル 0
優勝ゆうしょう回数かいすう 6
表彰台ひょうしょうだい(3以内いない)回数かいすう 10
通算つうさん獲得かくとくポイント 75
ポールポジション 3
ファステストラップ 3
初戦しょせん 1956ねんモナコGP
はつ勝利しょうり 1957ねんイギリスGP
最終さいしゅう勝利しょうり 1959ねんドイツGP
最終さいしゅうせん 1961ねんアメリカGP
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チャールズ・アンソニー・"トニー"・スタンディッシュ・ブルックスCharles Anthony "Tony" Standish Brooks, 1932ねん2がつ25にち[1] - 2022ねん5月3にち[2])は、イギリスもとレーシングドライバー[1]

元々もともと歯科医しかいせいという経歴けいれきち、レースは趣味しゅみ[1]で、クラブイベントからレースをスタートした。

1955ねんのル・マン24あいだレース[1]アストンマーティン[1]DB3Sの25号車ごうしゃったのが、国際こくさいレースへの最初さいしょ出場しゅつじょうとなった[注釈ちゅうしゃく 1]が、バッテリー破損はそんで9あいだにリタイヤとなった[3]1955ねんF2への参戦さんせんで、はじめてシングルシーターしゃをドライブした。また同年どうねんコンノートからF1のノンタイトルせんにも参戦さんせんした。

1956ねんだい2せんモナコグランプリにて、BRMからF1にはつ参戦さんせん予選よせんを13通過つうかしたが、決勝けっしょう走行そうこうできずデビューはならなかった。その地元じもととなるだい6せんイギリスグランプリにて、ふたたびBRMから参戦さんせん予選よせん9から決勝けっしょう走行そうこうし、F1デビューをたした(結果けっかはリタイヤ)。

1956ねんのル・マン24あいだレースではDBR1/250[4]の14号車ごうしゃ[4]り、すさまじいエンジンおん[4]、ユノディエールで最高さいこう速度そくど210.897km/hを記録きろく[4]し、夜中よなかには4にのしがる[4]などかなり目立めだったはし[4]をしたが、24あいだはいってから7走行そうこうちゅう[4]ミュルサンヌで[4]リアアクスルが故障こしょう[4]しリタイヤとなった[4]

1957ねんは、BRM同様どうようイギリスチームであるヴァンウォール[1]移籍いせきし、F1本格ほんかく参戦さんせん初陣ういじんとなるだい2せんモナコグランプリでは、予選よせん4から2入賞にゅうしょうはつ表彰台ひょうしょうだい記録きろくした。アストンマーティン[1]ニュルブルクリンク1000kmレース[1]優勝ゆうしょう[1]した。

形式けいしきじょうまれていたにぎないだい3せんアメリカグランプリ、ル・マン24あいだレースでの負傷ふしょうえていなかっただい4せんフランスグランプリの2せん欠場けつじょうだい5せんイギリスグランプリでは予選よせん3獲得かくとく決勝けっしょうでは、エースドライバースターリング・モスとのシェアドライブ[注釈ちゅうしゃく 2][1]ながら優勝ゆうしょう記録きろくし、自身じしん・チームにくわえ、イギリスしゃ全般ぜんぱんにおいてもF1はつとなる勝利しょうりを、地元じもと達成たっせいする結果けっかとなった[注釈ちゅうしゃく 3]

また最終さいしゅうせんイタリアグランプリでは、最終さいしゅうてきにリタイヤとなったものの、はつFL記録きろくした。

1957ねんのル・マン24あいだレースではDBR1[5]り6走行そうこうちゅう[5]あさの2ごろにトニー・ブルックスに交代こうたいしてすぐテルトルルージュ[5]でコースからはみした[5]ところにウンベルト・マリオーリ[5]のポルシェに激突げきとつされて病院びょういん搬送はんそう[5]され、2人ふたりとも奇跡きせきてききずだけでんだ[5]もののリタイヤとなった。

1958ねんもヴァンウォールに残留ざんりゅう[1]。チームが開幕かいまくせんアルゼンチングランプリ欠場けつじょうしたため、だい2せんモナコグランプリが初陣ういじんとなった。ブルックスはその予選よせんにおいて、自身じしんはつPP獲得かくとくしている(決勝けっしょうはリタイヤ)。

だい4せんベルギーグランプリでは、予選よせん5から序盤じょばんにトップに優勝ゆうしょう単独たんどくでのはつ優勝ゆうしょう[1]達成たっせいした。そのだい8せんドイツグランプリ[1]だい10せんイタリアグランプリ[1]優勝ゆうしょう、どちらも予選よせん2からの勝利しょうりだった。

このけい3しょうなどで、ドライバーズランクではマイク・ホーソーンスターリング・モスぐ3獲得かくとくし、またチームの初代しょだいコンストラクターズタイトル獲得かくとくにも貢献こうけん。このとし引退いんたいしたファン・マヌエル・ファンジオは、自身じしんりしのちのF1牽引けんいんしゃとして、さきにブルックスのげたという。

1958ねんのル・マン24あいだレースではモーリス・トランティニアンんでDBR1[6]り3-4あらそっていた[6]が、あさの550ふんごろ[6]トランスミッション不調ふちょう[6]のためミュルサンヌでリタイヤ[6]となった。

このとしのTTレースではスターリング・モスとんで勝利しょうりした[1]

1959ねんはヴァンウォールが活動かつどう大幅おおはば縮小しゅくしょうし、参戦さんせんだい5せんイギリスグランプリのみとなった。ブルックスは、そのレースのみどうチームからエントリーしたが、のこりのレースはフェラーリ[1]から出走しゅっそう開幕かいまくせんモナコグランプリで2はいり、幸先さいさきいスタートをった。

シーズン中盤ちゅうばんだい4せんフランスグランプリにおいて予選よせんでPPを獲得かくとくし、決勝けっしょうでも優勝ゆうしょう[1]自身じしんはつポールトゥーウィン達成たっせいした。しかしイギリスグランプリをフェラーリのストライキにより欠場けつじょうしポイントをかさねることができず、これがチャンピオンシップにおおきくひびいた。2ヒートせいとなっただい6せんドイツグランプリでも、2度目どめのポールトゥーウィンを記録きろくしての勝利しょうり[1]。このさいは、FLも獲得かくとくしての完全かんぜん勝利しょうりだった。世界せかいチャンピオンはまえだったがイタリアグランプリのスタートでクラッチをいてしまい、結果けっかとしてタイトルをのがした[1]最終さいしゅうせんアメリカグランプリでの3により、ジャック・ブラバムぐランキング2[1]でシーズンを終了しゅうりょう。これが自身じしんのベストランクとなった。

1960ねんはBRPに移籍いせきし、プライベーター使用しようクーパーから参戦さんせん。しかし前年ぜんねん同様どうよう、ヴァンウォールがだい6せんフランスグランプリの1せんのみエントリーし、そのレースはどうチームから出走しゅっそうした。

ブルックスはだい2せんモナコグランプリが初陣ういじんとなり、そのレースでは予選よせん3から4入賞にゅうしょう。まただい5せんベルギーグランプリでは、予選よせん2獲得かくとくしている(決勝けっしょうはリタイヤ)。しかし、のレースでは下位かいグリッドにしずみ、モナコグランプリ以後いご入賞にゅうしょうだい7せんイギリスグランプリ・だい8せんポルトガルグランプリにおける2の5とどまった。

1961ねんはデビューチームであるBRMにもどったが、前年ぜんねん以上いじょう低迷ていめい完走かんそうしても入賞にゅうしょう圏外けんがいというレースがつづき、だい6せんドイツグランプリ終了しゅうりょう時点じてんではいまだノーポイントであった[注釈ちゅうしゃく 4]

そのだい7せんイタリアグランプリで5はいり、シーズンはつ入賞にゅうしょうつづ最終さいしゅうせんアメリカグランプリでは3はいり、2ねんぶりに表彰台ひょうしょうだいったが、結局けっきょくこのレースをもってレースキャリアを終了しゅうりょう。29さいでの引退いんたいだった。その歯科しか専念せんねんしている[1]

レース戦績せんせき

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とし エントラント シャシー エンジン 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 WDC ポイント
1956ねん オーウェンBRM P25 BRM L4 ARG MON
DNS
500 BEL FRA GBR
Ret
GER ITA NC 0
1957ねん ヴァンダーヴェルヴァンウォール VW 5 ヴァンウォール L4 ARG MON
2
500 FRA GBR
1*
GER
9
PES
Ret
ITA
7**
5 11
1958ねん ARG MON
Ret
NED
Ret
500 BEL
1
FRA
Ret
GBR
7
GER
1
POR
Ret
ITA
1
MOR
Ret
3 24
1959ねん フェラーリ Dino 246F1 フェラーリ V6 MON
2
500 NED
Ret
FRA
1
GER
1**
POR
9
ITA
Ret
USA
3
2 27
ヴァンダーヴェルヴァンウォール VW 59 ヴァンウォール L4 GBR
Ret
1960ねん ヨーマン・クレジットクーパー T51 クライマックス L4 ARG MON
4
500 NED
Ret
BEL
Ret
GBR
5
POR
5
ITA USA
Ret
11 7
ヴァンダーヴェルヴァンウォール VW 11 ヴァンウォール L4 FRA
Ret
1961ねん オーウェンBRM P48/57 クライマックス L4 MON
13
NED
9
BEL
13
FRA
Ret
GBR
9
GER
Ret
ITA
5
USA
3
10 6
  • 太字ふとじポールポジションはすファステストラップ。(key)
  • * : おな車両しゃりょう使用しようしたドライバーに順位じゅんいとポイントが配分はいぶんされた。(スターリング・モス
  • ** : ファステストラップを記録きろくした場合ばあい1ポイントがあたえられる。どうタイムのドライバーがいた場合ばあい平等びょうどうてられた。

フォーミュラ1 (ノン・チャンピオンシップ)

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とし エントラント シャシー エンジン 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21
1955ねん エキップ・エンデヴァー コンノートType A リー・フランシス L4 BUE VLN PAU GLV BOR INT NAP ALB CUR CRN LON
4
REC RDX TLG
4
OUL AVO
5
コンノート・エンジニアリング コンノートType B アルタ L4 SYR
1
1956ねん オーウェン・レーシング・オーガニゼーション BRMP25 BRM L4 NZL BUE GLO
Ret
SYR BAR
2
INT NAP AIN
Ret
VAN CAE SUS BRS AUS
1957ねん ヴァンダーヴェル・プロダクツ・Ltd. ヴァンウォール ヴァンウォール L4 BUE SYR
Ret
PAU GLV
6
NAP RMS MOR
Ret
トニー・ブルックス クーパーT43 クライマックス L4 CAE
Ret
INT
Ret
MOD
1958ねん クーパーT45 BUE GLV SYR AIN
3
INT
Ret
CAE
1959ねん スクーデリア・フェラーリ フェラーリ246 フェラーリ V6 GLV AIN
2
INT
Ret
OUL SIL
1960ねん G.A. ヴァンダーヴェル ヴァンウォール ヴァンウォール L4 GLV
7
INT
DNA
ヨーマン・クレジット・レーシング・チーム クーパーT51 クライマックス L4 SIL
Ret
ヴァンダーヴェル・プロダクツ・Ltd. ロータス18 ヴァンウォール L4 LOM
DNS
OUL
1961ねん オーウェン・レーシング・オーガニゼーション BRMP48/57 BRM L4 LOM GLV
Ret
PAU BRX VIE AIN
7
SYR
Ret
NAP LON SIL
3
SOL KAN DAN MOD
6
FLG OUL
4
LEW VAL RAN NAT RSA

ル・マン24あいだレース

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とし チーム コ・ドライバー 車両しゃりょう クラス 周回しゅうかいすう 総合そうごう
順位じゅんい
クラス
順位じゅんい
1955ねん イギリスの旗 アストンマーティン・ラゴンダ・Ltd. イギリスの旗 ジョン・リズリー=プリチャード アストンマーティンDB3S S
3.0
83 DNF DNF
1956ねん イギリスの旗 アストンマーティン・Ltd. イギリスの旗 レグ・パーネル アストンマーティンDBR1/250 246 DNF DNF
1957ねん イギリスの旗 ノエル・カニングハム=リード アストンマーティンDBR1/300 140 DNF DNF
1958ねん フランスの旗 モーリス・トランティニアン 173 DNF DNF

注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ 『ハイスピード・ドライビング』p.124は「1954ねん」とするが、『ル・マンの英国えいこくしゃ』pp.54-56「1954」アストンマーティンのドライバーはDB3SがR・パーネル/R・サルヴァドーリぐみ、P・コリンズ/プリンス・ビラぐみ、G・ホワイトヘッド/I・ステュワートぐみ、C・シェルビー/P・フレールぐみ、の4だい、DB2/4がJ・P・コラス/H・ダ・シルヴァ・ラモスフレールぐみの1だいけい5だいであり、トニー・ブルックスの名前なまえ発見はっけんできず。イギリスしゃにトライアンフ1だいとジャガー4だい出場しゅつじょうしているがそちらのドライバーにも見当みあたらない。ゆえに『ハイスピード・ドライビング』p.124の「1954ねん」を「1955ねん」の誤植ごしょくとし、1955ねん国際こくさいレースデビューとしてあつかった。
  2. ^ 当時とうじは、チームないでのマシンの交換こうかんゆるされており、その場合ばあいそれぞれに半分はんぶんのポイントがあたえられていた。
  3. ^ ただしレース内容ないようは、リタイヤしていたモスが9走行そうこうしていたブルックスと交代こうたいした後追あとおげるというもので、優勝ゆうしょうはモスによるちからおおきかった。このため資料しりょうによってはブルックスの勝利しょうりくわえられていない場合ばあいもある。
  4. ^ だい5せんイギリスグランプリではFLを記録きろくしたが、前年ぜんねんよりFLはポイントの対象たいしょうがいとなっていた。

出典しゅってん

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  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u 『ハイスピード・ドライビング』p.124。
  2. ^ Morto a 90 anni Tony Brooks, gareggiò anche in Ferrari - F1” (イタリア). Agenzia ANSA (2022ねん5がつ3にち). 2022ねん5がつ3にち閲覧えつらん
  3. ^ 『ル・マンの英国えいこくしゃ』pp.57-59「1955」。
  4. ^ a b c d e f g h i j 『ル・マンの英国えいこくしゃ』pp.60-63「1956」。
  5. ^ a b c d e f g 『ル・マンの英国えいこくしゃ』pp.64-67「1957」。
  6. ^ a b c d e 『ル・マンの英国えいこくしゃ』pp.68-73「1958」。

参考さんこう文献ぶんけん

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関連かんれん項目こうもく

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