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トニー・サウスゲート

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
トニー・サウスゲート
生誕せいたん (1940-05-25) 1940ねん5月25にち(84さい
イングランドの旗 イングランド
ウェスト・ミッドランズしゅうコヴェントリー
国籍こくせき イギリスの旗 イギリス
業績ぎょうせき
専門せんもん分野ぶんや レーシングカーデザイナー
設計せっけい BRM・P160シャドウ・DN1フォード・RS200ジャガー・XJR-9、ほか多数たすう
成果せいか

トニー・サウスゲートTony Southgate, 1940ねん5月25にち - )は、イギリス出身しゅっしんのレースカーデザイナーである[1]。そのキャリアにおいて、フォーミュラカースポーツプロトタイプ設計せっけい手掛てがけ、F1だけで20ねん以上いじょうのキャリアをち、スポーツプロトタイプでは1988ねんのル・マン24あいだレース優勝ゆうしょう車両しゃりょうであるジャガー・XJR-9LM設計せっけいとくられる。設計せっけいした車両しゃりょうがF1のグランプリレース、ル・マン24あいだレースインディ500のいずれにおいても優勝ゆうしょうしているただいちにんのカーデザイナーであるとされる[2][1][注釈ちゅうしゃく 1]

1960年代ねんだい~1980年代ねんだい(F1の時代じだい[編集へんしゅう]

10代のころにモータースポーツにせられ、1950年代ねんだい当時とうじのイギリスレースファンのあいだでよくられていた750モータークラブ(750MC)の会員かいいんとなった[4][注釈ちゅうしゃく 2]

1958ねん会員かいいんとなったサウスゲートはローラに入社にゅうしゃするまでどうクラブで車両しゃりょう製作せいさくおこない、自身じしん運転うんてんすることもあったという[3][5][注釈ちゅうしゃく 3]

ローラ[編集へんしゅう]

1962ねんローラ・カーズ製図せいずとしてやとわれてプロとしてのキャリアをはじ[6]、ローラの創業そうぎょうしゃでエンジニアであるエリック・ブロードレイした当時とうじのローラが手掛てがけていたF1カーのマーク4英語えいごばん、レーシングスポーツカーのT70英語えいごばんフォード・GT40[7]たずさわった[8][9][10]

1964ねんのインディ500英語えいごばんけて、ブラバム車両しゃりょう製作せいさく協力きょうりょくすることになり、ロン・トーラナックした出向しゅっこう翌年よくねんにはふたたびブロードレイのした先進せんしんてきなインディカーのローラ・T80の製作せいさくかかわる[2]

1966ねんにはインディカーのローラ・T90の製作せいさくをブロードレイに立場たちば担当たんとう[注釈ちゅうしゃく 4]グラハム・ヒルによってられた車両しゃりょうがインディ500で重要じゅうよう勝利しょうりげる[注釈ちゅうしゃく 5]。この優勝ゆうしょうにサウスゲートはブロードレイに優勝ゆうしょう記念きねんのステッカー作成さくせい提案ていあんするが、しぶられたため結局けっきょく自費じひ作成さくせいする[2]

1967ねん、ローラの株主かぶぬし当時とうじホンダF1所属しょぞくしていたジョン・サーティースからの相談そうだんにより、ブロードレイがT90を流用りゅうようするかたちでホンダようのF1車両しゃりょうRA300、ローラ・T130)をほぼ一人ひとり設計せっけいし、サウスゲートはそれに製図せいず担当たんとう主任しゅにんという立場たちばかかわった[11][注釈ちゅうしゃく 6]製図せいず担当たんとうっても、作業さぎょう現物げんぶつわせですすめられていたということを当時とうじホンダからローラに派遣はけんされていた佐野さの彰一しょういち後年こうねん証言しょうげんしている[13]

サウスゲートはローラのことはっていたが、ローラではつねにブロードレイのナンバー2の立場たちばあまんじるほかないということに不満ふまんかんじ、新天地しんてんちもとめることになる[1]

オール・アメリカン・レーサーズ[編集へんしゅう]

イーグル・1968
イーグル・1969
1968ねんのインディ500で優勝ゆうしょうした車両しゃりょう(#3)と1969ねんのインディ500で6はいった車両しゃりょう(#44)。1969ねん車両しゃりょう先端せんたんくほどうすくなるくさびかたち変更へんこうされていることがわかる。

1967ねんまつにローラをったサウスゲートは、ローラでの経験けいけんわれてダン・ガーニーオール・アメリカン・レーサーズ(AAR)にやとわれ、インディカーやフォーミュラ5000車両しゃりょう開発かいはつたずさわる[2]。ガーニーは当初とうしょはF1を設計せっけいさせるつもりでサウスゲートをやとっており、サウスゲートはイギリスにあるAARのファクトリーではたらはじめたが、ほどなくして、AARがF1での活動かつどう縮小しゅくしょうすることになったため、サウスゲートはカリフォルニアうつり、インディカーの設計せっけい集中しゅうちゅうすることになる[1]結果けっか、サウスゲートが設計せっけいした「イーグル」は1968ねんのインディ500英語えいごばんにおいてボビー・アンサーとAARにインディ500はつ優勝ゆうしょうをもたらした[2]

1969ねんのインディ500英語えいごばんけて設計せっけいした新型しんがたイーグルでは、ロータス・56影響えいきょうけて、くさびがたのデザインを採用さいようした[2]。しかしながら、風洞ふうどう実験じっけんそらりょく確認かくにんするということは当時とうじまだ一般いっぱんてきではなかったため[注釈ちゅうしゃく 7]そらりょくはいねつ、エアインテークといった複数ふくすう箇所かしょ問題もんだいかかえていることが実車じっしゃ完成かんせい判明はんめい[2]完成かんせいした車両しゃりょう高速こうそく走行そうこう車体しゃたい前部ぜんぶ揚力ようりょく発生はっせいアンダーステアこすという欠陥けっかん[2]、インディ500ではジョー・レオナルド英語えいごばんった(スモーキー・ユニック整備せいびしたことでられる)車両しゃりょうが6はいったものの、サウスゲートは前年ぜんねんからの後退こうたいあじわう[2]

AARはサウスゲートにローラ時代じだいの2ばい報酬ほうしゅう支払しはらい、当時とうじのカリフォルニアの物価ぶっかはサウスゲートがイギリスでんでいたスラウよりずっとやすかったこともあり、サウスゲート本人ほんにん生活せいかつ満足まんぞくしていたが、つまのスーはアメリカでの生活せいかつになじめず、重度じゅうどのホームシックとなっていた[1]。そうした事情じじょうかかえていたときBRMチームからのオファーがあり、サウスゲート自身じしんもF1の設計せっけいをしたいと以前いぜんから希望きぼうしていたこともあり、そのもうけた[1]

BRM[編集へんしゅう]

BRM・P153(1970ねん

1969ねん、イギリスにもどったサウスゲートはBRMのチーフデザイナーとなり、自身じしん中心ちゅうしんとなって手掛てがけた最初さいしょのF1カーとなるP153完成かんせいさせる[1]

P153は1970ねんのF1世界せかい選手権せんしゅけん投入とうにゅうされ、4せん優勝ゆうしょうかざるなどこうそうし、よく1971ねん投入とうにゅうされたP160たか競争きょうそうりょく発揮はっきしたため、このりょう車両しゃりょう成功せいこうはサウスゲートのおおいにたかめることとなる。

しかしながら、1971ねん選手権せんしゅけんおこなわれた選手権せんしゅけんレースちゅう事故じこでエースドライバーのジョー・シフェールうしなったことや、1972ねん新車しんしゃP180失敗しっぱいにより、チームは退潮たいちょう傾向けいこうとなり、サウスゲートは1972ねんかぎりでチームをはなれることとなる。結果けっかとして、シフェールの代役だいやくとして加入かにゅうしたジャン=ピエール・ベルトワーズこのとしのモナコグランプリ旧型きゅうがたのP160でげた勝利しょうりが、BRMにとってはF1での最後さいご勝利しょうりとなった。

サウスゲートがBRMに移籍いせきした当時とうじわりでBRMからったトニー・ラッド英語えいごばんピーター・ライトはチーム在籍ざいせきグランド・エフェクト研究けんきゅうをしており、サウスゲートはそれを一部いちぶいだ[14]二人ふたり試作しさくのこしていったウィングカーのコンセプトは完成かんせいだったため役立やくだつものではなかったが[注釈ちゅうしゃく 8]、サウスゲートは二人ふたり利用りようしていたインペリアル・カレッジ風洞ふうどう施設しせつはBRMからったのちつづ使つかつづけることになる[14]

シャドウ[編集へんしゅう]

シャドウ・DN1(1973ねん

1972ねんまつ、BRMをはなれたサウスゲートはシャドウ加入かにゅうした。シャドウは1972ねん当時とうじ北米ほくべいCan-Am参戦さんせんしていたが、1973ねんからのF1参戦さんせん目論もくろんで、1972ねんおおくのエンジニアやスタッフをやとれており、デザイナーとしてサウスゲートに白羽しらはてたという経緯けいいである。当時とうじ、Can-Amでシャドウのためにはしっていたジャッキー・オリバーはF1ではBRMから出走しゅっそうしていたことがあり、サウスゲートの移籍いせきはオリバーが仲介ちゅうかいした[1][注釈ちゅうしゃく 9]

サウスゲートはシャドウにとってはつのF1カーとなるDN1試作しさくしゃを、イギリスのリンカンシャーにあるかれ個人こじんのガレージで完成かんせいさせた[16]実車じっしゃ製作せいさくはアメリカでおこなわれたため、サウスゲートもふたたびアメリカにきょうつすこととなる。

1973ねんのF1世界せかい選手権せんしゅけんで、はつ参戦さんせんのシャドウはジャッキー・オリバーとジョージ・フォルマーようし、かれらにられたDN1はこうはしせ、デビュー初年度しょねんどに2かい表彰台ひょうしょうだい獲得かくとくした。

サウスゲートは1973ねんと1974ねんにシャドウのCan-Amようのレースカーも手掛てがけ、1974ねん英語えいごばんにはF1とおなじくオリバーとフォルマーがDN4をってシリーズランキングの1と2めた。

F1では、1974ねんDN3のテストちゅう事故じこピーター・レブソン死亡しぼう

シャドウ・DN5(1975ねん
風洞ふうどう活用かつよう

1975ねんDN5では、設計せっけいにあたりファーンボロにあるローリングロードきの風洞ふうどう実験じっけん設備せつび使用しようした[注釈ちゅうしゃく 10]。これによりDN5はダウンフォースの前後ぜんごバランスが適切てきせつはかられるなど、当時とうじとしてはそらりょくてき洗練せんれんされた車体しゃたい仕上しあがった[14]。しかしながら、DN5はドライバーのジャン=ピエール・ジャリエトム・プライスりょうともに予選よせんでポールポジションをもたらすなど、はやさこそしめしたものの、信頼しんらいせいひくかったため、結果けっかにはつながらないくるまとなった。

ロータス[編集へんしゅう]

1976ねんはじめ、コーリン・チャップマンまねきにおうじて、サウスゲートはロータス移籍いせきする[1]

移籍いせきしたものの、当時とうじのロータスは設計せっけいじんマーティン・オグルヴィラルフ・ベラミージェフ・オールドリッチ、ピーター・ライトといったすぐれたデザイナーがそろっていた時期じきでもあり、製図せいずばん機会きかいはなく、チーフエンジニアとしてはたら[1][注釈ちゅうしゃく 11]

ロータス・78(1977ねん)。サウスゲートはサイドスカートのテストにかかわった。

1977ねんなかばまで所属しょぞくしてロータス・77ロータス・78たずさわったが、1ねんはんほどでることになる[1]

なお、サウスゲートがBRMに加入かにゅうする以前いぜんどうチームでグラウンド・エフェクトの研究けんきゅうをしていたラッドとライトはその研究けんきゅうつづけ、マーチ研究けんきゅう成果せいか反映はんえいして完成かんせいさせたのがロータス・78である。サウスゲートは同車どうしゃ重要じゅうようパーツであるサイドスカート[注釈ちゅうしゃく 12]実験じっけん開発かいはつをエンジニアとして担当たんとうしており、グラウンド・エフェクト(ベンチュリ効果こうか)の活用かつようについての知見ちけんをいちはやることになった[14]

アロウズ[編集へんしゅう]

シャドウ・DN9
シャドウ・DN9(1978ねん
アロウズ・FA1
アロウズ・FA1(1978ねん
アロウズ・A1
アロウズ・A1(1978ねん

1977ねんにロータスをったサウスゲートは一時いちじてきにシャドウにもどったが、このとし年末ねんまつにはシャドウのアラン・リーズジャッキー・オリバー、デイブ・ウォスとともに独立どくりつし、自身じしんふくむ4にん出資しゅっししゃフランコ・アンブロジオ英語えいごばんくわえた5にんあらたなF1チームのアロウズ創設そうせつした[1][注釈ちゅうしゃく 13]

コピー車両しゃりょう問題もんだい

1978ねんだい2せんブラジルGP英語えいごばんでデビューしたアロウズはデビュー初戦しょせんからアロウズ・FA1はしらせ、2せんみなみアフリカGP英語えいごばんではリカルド・パトレーゼ前年ぜんねんにシャドウからF1デビューしサウスゲートらとともにアロウズにうつった)がレースをリードし、結果けっかはリタイアにわったものの当初とうしょからはやさをせた。しかしながら、このくるまはサウスゲートが前年ぜんねんにシャドウで1978ねんようとして開発かいはつしていたシャドウ・DN9酷似こくじしていたため、シャドウから工業こうぎょう所有しょゆうけん侵害しんがいとしてイギリスで訴訟そしょうこされ、同年どうねん7がつ31にちにそのうったえをみとめる判決はんけつたことで、アロウズはシーズン途中とちゅうでFA1の使用しよう禁止きんしされる事態じたいとなった。敗訴はいそすることは事前じぜん想定そうていされていたため、オリバーにめいじられていたサウスゲートは新車しんしゃアロウズ・A1開発かいはつをあらかじめすすめており[3][18]設計せっけい開始かいしからわずか52にちでA1を完成かんせいさせ[18]、シーズン終盤しゅうばん使用しようした[注釈ちゅうしゃく 14]

アロウズ・A2(1979ねん
不発ふはつわったウィングカー

アロウズではよく1979ねん後半こうはんA2、1980ねんA3設計せっけい手掛てがけた。サウスゲートはロータスでたベンチュリ効果こうか知識ちしきをA2では本格ほんかくてき投入とうにゅうし、フロントウィングだけでなく、リアウィングも存在そんざいしない斬新ざんしん車体しゃたい設計せっけいしたが、車体しゃたい剛性ごうせい不足ふそく起因きいんして失敗しっぱいわる。そのため、翌年よくねんのA3では標準ひょうじゅんてき外観がいかん車体しゃたい設計せっけいしたものの、こちらは信頼しんらいせい問題もんだいかかえた。

パトレーゼの健闘けんとうによりどちらの車両しゃりょう中団ちゅうだんはしったが、ここで(シャドウのとき同様どうよう)チームの資金しきん問題もんだい発生はっせいし、開発かいはつ資金しきん枯渇こかつする[1]。そんななか、オーナーぎょう専念せんねんしていたジャッキー・オリバーはメインスポンサーだったドイツ企業きぎょうヴァルシュタイナー英語えいごばんとの契約けいやく維持いじするため、グスタフ・ブルナーをはじめとするドイツけいエンジニアを突如とつじょとしてやとれた[1][注釈ちゅうしゃく 15]。そうした状況じょうきょうによって居場所いばしょうしなったサウスゲートは、1980ねんにはチームをしてフリーランスのエンジニアとなった[1]

チーム創設そうせつしゃ一人ひとりであったサウスゲートはチーム株式かぶしきの10%ぶん保有ほゆうしていたが、最終さいしゅうてきにアロウズはオリバーによって全体ぜんたいをわずか5まんポンドとして買収ばいしゅうされることになり、サウスゲートの手元てもとはいったがくは5000ポンドだけだった[1]。サウスゲートはアロウズについては時間じかん無駄むだだったと述懐じゅっかいしている[1]

セオドール~オゼッラ[編集へんしゅう]

セオドール・レーシングとの契約けいやくにより、1980ねん後半こうはんどうチームの翌年よくねんよう車両しゃりょう設計せっけいし、完成かんせいしたセオドール・TY01はデビューせんとなる1981ねんアメリカ西にしグランプリでいきなり6入賞にゅうしょうしたものの、これが唯一ゆいいつ入賞にゅうしょうとなった。

1983ねんけてオゼッラ契約けいやくし、オゼッラ・FA1D改修かいしゅうオゼッラ・FA1E設計せっけい手掛てがける。オゼッラは資金しきんりょくとぼしいチームで、FA1Eの開発かいはつにあたっては、それまでのフォード・DFVエンジンからアルファロメオせいV12エンジンにエンジンを変更へんこうするにあたって、新規しんきのシャシーを用意よういする余裕よゆうはなく、リアサスペンションなどをふくおおくをFA1Dから流用りゅうようするかたち設計せっけいすることを余儀よぎなくされた。FA1Eは1983ねんから1984ねんにかけて13せんにエントリーして、のべ20だいはしったが、決勝けっしょう完走かんそうしたのはわずか3にとどまり、グスタフ・ブルナーからは1983ねん最悪さいあくくるまだと酷評こくひょうされた。

1980年代ねんだい~1990年代ねんだい(スポーツプロトタイプの時代じだい[編集へんしゅう]

サウスゲートは1980年代ねんだい以降いこうはグループCカーやIMSA GTPといったスポーツプロトタイプ車両しゃりょうおも手掛てがけている。

1980年代ねんだい前半ぜんはんにフォードの仕事しごとい、1982ねん世界せかい耐久たいきゅう選手権せんしゅけんようグループCカーであるフォード・C100や、世界せかいラリー選手権せんしゅけん(WRC)ようグループBカーであるフォード・RS200車体しゃたい設計せっけい手掛てがけた[注釈ちゅうしゃく 16]

TWR[編集へんしゅう]

XJR-9のルマン仕様(シルクカットジャガー)とIMSA仕様(カストロール)。 XJR-9のルマン仕様(シルクカットジャガー)とIMSA仕様(カストロール)。
XJR-9のルマン仕様しよう(シルクカットジャガー)とIMSA仕様しようカストロール)。

1984ねんトム・ウォーキンショー・レーシング(TWR)にやとわれ、ジャガーのスポーツプロトタイプのXJRシリーズの設計せっけい手掛てがけることとなる。トム・ウォーキンショーとの面識めんしきはなかったが、以前いぜんシャドウのスタッフで当時とうじTWRのチーム監督かんとくになっていたロジャー・シルマンから打診だしんされ移籍いせき実現じつげんした[19]

当時とうじのグループCはポルシェ・956独壇場どくだんじょうであったが、サウスゲートは、ポルシェ・956は信頼しんらいせいおおきなつよみをつものの車体しゃたい剛性ごうせいそらりょく性能せいのうなど車体しゃたいとうじられている技術ぎじゅつはF1にしてそれほど高水準こうすいじゅんではないと分析ぶんせきし、はやさによってける可能かのうせい見出みいだ[19][1]

TWRで最初さいしょ設計せっけいしたのは1985ねんジャガー・XJR-6で、このときにF1で知見ちけんれ、スポーツプロトタイプとしては先駆さきがけてカーボンモノコックを採用さいようし、堅牢けんろう車体しゃたい実現じつげんした[19][1]。シャシー性能せいのうたかかった一方いっぽうで、エンジンとギアボックスの信頼しんらいせいひくく、後継こうけい車両しゃりょうでも課題かだいとなる[19]。3ねん挑戦ちょうせんとなる1988ねんのル・マン24あいだレースでは信頼しんらいせいひくさを出走しゅっそう台数だいすうでカバーする方針ほうしんり、「5だいはしらせて3だい完走かんそうすればいい」というかんがえで5だいXJR-9LM投入とうにゅうし、目論見もくろみどおり3だい完走かんそうし、そのうちの1だい(2号車ごうしゃ)が優勝ゆうしょうにした[19]

その、1990ねんにTWRを離脱りだつするまでの活動かつどう期間きかんで、サウスゲートが設計せっけいした車両しゃりょうはスポーツカー世界せかい選手権せんしゅけんではタイトル獲得かくとく2かい1987ねんXJR-8LM1988ねん・XJR-9LM)、ル・マン24あいだレースでは総合そうごう優勝ゆうしょう2かい1988ねん・XJR-9LM、1990ねんXJR-12LM)、デイトナ24あいだレースでは総合そうごう優勝ゆうしょう2かい(1988ねん・XJR-9、1990ねん・XJR-12D)という結果けっかのこしている。

ル・マン24あいだレースにおける結果けっかについて、サウスゲート自身じしんはベストレースとして、優勝ゆうしょうした1988ねんや1990ねんではなく、投入とうにゅうした3だいすべ[注釈ちゅうしゃく 17]完走かんそう(2~4フィニッシュ)した1991ねんげている[19]

ウォーキンショーとの関係かんけい良好りょうこうだったが、アストンマーティンルマン参戦さんせんプロジェクトこう待遇たいぐうさそわれたため、TWRを離脱りだつする[19][注釈ちゅうしゃく 18]

TWR離脱りだつ[編集へんしゅう]

日産にっさん・R390(1997ねん~1998ねん)※写真しゃしんは1998ねん車両しゃりょう

結果けっかてきにアストンマーティンの計画けいかくすうげつ白紙はくしとなり[19]、そのトヨタ・TS010(1991ねん[注釈ちゅうしゃく 19]フェラーリ・333SP(1994ねん[注釈ちゅうしゃく 20]日産にっさん・R390(1997ねん[注釈ちゅうしゃく 21]といったいくつかのスポーツプロトタイプ車両しゃりょう開発かいはつたずさわった[1]

この時期じき仕事しごと基本きほんてきにいずれもアドバイザーとしてのもので、みずか設計せっけい手掛てがけた日産にっさん・R390にしても、TWR離脱りだつ以前いぜん自身じしん手掛てがけたジャガー・XJR-15手直てなおしして設計せっけいしたもので、完全かんぜん新規しんき設計せっけいしたものではない[注釈ちゅうしゃく 22]

最後さいご仕事しごととして、アウディがル・マン24あいだレースにはつ参戦さんせんするさい製作せいさくしたR8C英語えいごばんR8R開発かいはつ技術ぎじゅつコンサルタントとしてたずさわっている[1]

2000ねん、R8C、R8Rの後継こうけい車両しゃりょうであるアウディ・R8[注釈ちゅうしゃく 23]完成かんせい見届みとどけ、60さいときにエンジニア生活せいかつから引退いんたいした[5][1]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

  1. ^ インディのイーグル・Mk4(1968ねんのインディ500英語えいごばん優勝ゆうしょう)、F1のBRM車両しゃりょうP160B1972ねんモナコグランプリ優勝ゆうしょう)など、ルマンのTWRジャガー車両しゃりょう後述こうじゅつ)がそれぞれ達成たっせい世界せかいさんだいレースすべっていることになる。のデザイナーでいずれか2つのレースの優勝ゆうしょう車両しゃりょう設計せっけいしたものとしては、ヴィットリオ・ヤーノ(ルマン・F1)、ルドルフ・ウーレンハウト(ルマン・F1)、コーリン・チャップマン(F1・インディ500)、ジョン・バーナード(インディ500・F1)、エイドリアン・ニューウェイ(インディ500・F1)、ゴードン・マレー(F1・ルマン)など、複数ふくすうめいいるが、3つ達成たっせいしていないか、そもそも車両しゃりょう設計せっけいする機会きかいてていない。サウスゲートのやとぬしとなるエリック・ブロードレイ後述こうじゅつ)は、インディ500とF1で優勝ゆうしょう車両しゃりょう設計せっけいしているほか、フォード・GT40設計せっけいにもかかわっているが、ルマン優勝ゆうしょう車両しゃりょうのGT40 Mk.II(1966ねん)のころには開発かいはつかかわっていないため、単独たんどく設計せっけいしゃとはみなしがた[1]世界せかいさんだいレースをすべせいしたことは、サウスゲートも自身じしんのキャリアで最大さいだい業績ぎょうせき自認じにんしている[3]
  2. ^ 750モータークラブはオースチン・7の750ccエンジンを使つかったレースカー制作せいさく目的もくてきとして1939ねん発足ほっそくした同好どうこうかいで、のちにサウスゲートのやとぬしとなるエリック・ブロードレイコーリン・チャップマンといった、イギリスレースかい代表だいひょうするようなエンジニアたちが会員かいいんとしてつらねていた[4]
  3. ^ はや運転うんてんするのは下手へただと自覚じかくしたと述懐じゅっかいしている[3]
  4. ^ ただし、設計せっけいかかわったものはブロードレイをふくめ3めいだったとサウスゲートはかた[2]
  5. ^ グラハム・ヒルにとってインディ500での唯一ゆいいつ優勝ゆうしょうで、こののち、ヒルは1972ねんにル・マン24あいだレースを優勝ゆうしょうし、世界せかいさんだいレースすべての優勝ゆうしょう達成たっせいする。
  6. ^ RA300の流用りゅうようもととなった車両しゃりょうたんに「T90」とされることがおおいが、正確せいかくにはT90をアップデートした1967ねんがた仕様しようで、区別くべつして「T92」あるいは「T90 MkII」とばれることもある[12]
  7. ^ サウスゲートの発言はつげんによる[2]
  8. ^ この時点じてんではラッドとライトも車体しゃたい底面ていめん側面そくめん密閉みっぺいするという発想はっそうにまでいたっていなかった。
  9. ^ どう時期じきにアラン・リースもシャドウに加入かにゅう[15]
  10. ^ サウスゲートはDN5のことを「ローリングロードを使つかって開発かいはつされた最初さいしょのF1カー」だとかた[14]
  11. ^ この奇妙きみょう移籍いせきについては、チャップマンを非常ひじょう尊敬そんけいしておりその仕事しごとちかくでたかったというのが最大さいだい理由りゆうだった、と、サウスゲートは後年こうねんかたっている[17]くわえて、チャップマンがサウスゲートにシャドウ時代じだいばい報酬ほうしゅう支払しはらった[5]、など、理由りゆうもいくつかあったらしい[17]
  12. ^ ロータス・78の登場とうじょうチームははやさの秘密ひみつやサイドスカートがたす効果こうか理解りかいされていなかった[14]
  13. ^ アロウズは、前年ぜんねんにシャドウの債務さいむけて債権さいけんしゃとなったオリバーと、シャドウのオーナーのドン・ニコルズ交渉こうしょう決裂けつれつはしはっして創設そうせつされている(バーニー・エクレストン仲裁ちゅうさいはいりオリバーがシャドウを買収ばいしゅうするという交渉こうしょうをしたが、ニコルズが拒否きょひしたためオリバーはしんチームをつくった)[18]基本きほんてきにシャドウの主要しゅようメンバーはチームに不満ふまんっていたため、しんチームのためのファクトリーをオリバーが用意よういしたさい主要しゅようメンバーのほぼ全員ぜんいんがオリバーとの移籍いせき交渉こうしょう即決そっけつしたが、サウスゲートは(なぜか)一旦いったん保留ほりゅうしたとオリバーは述懐じゅっかいしている[18]
  14. ^ 判決はんけつたのは7がつ31にちで、FA1は7がつ30にち決勝けっしょうだい11せんドイツGPを最後さいご使つかわれなくなり、新車しんしゃのA1は2週間しゅうかんだい12せんオーストリアGPから投入とうにゅうされた。シャドウのオーナーのドン・ニコルズはA1もDN9のコピーにちがいないとかさねて法的ほうてきうったえたが、A1は主要しゅよう部分ぶぶんはDN9と設計せっけいえていたため、ニコルズの主張しゅちょう退しりぞけられた[3][1]。アロウズ設立せつりつ一連いちれんあらそいで、ドン・ニコルズはジャッキー・オリバーやアラン・リースとは完全かんぜん決別けつべつしたが、サウスゲートとはそれほど険悪けんあく関係かんけいにはならず、そのあたらしいチームの構想こうそうにサウスゲートをさそうことがあったという[3]
  15. ^ 結果けっかてきにこのこころみは失敗しっぱいして、アロウズはヴァルシュタイナーをうしない、ブルナーらも早期そうきっている。
  16. ^ サウスゲートは、RS200を設計せっけいするまでラリーカーの設計せっけい経験けいけんまったくなかったが、それだけに「新鮮しんせんだった」として、生涯しょうがい自身じしん中心ちゅうしんとなって設計せっけいした40だい以上いじょうくるまなかでも、RS200をとくにおりの1だいげている[3]
  17. ^ サウスゲートがかかわっていないXJR-14と、プライベーターあつかいの車両しゃりょうのぞく。
  18. ^ サウスゲートは引退いんたいにTWR時代じだい述懐じゅっかいして、ウォーキンショーとの関係かんけいきわめて良好りょうこうで、わたあるいたほか数々かずかずのチームとくらべてもTWRは「おそらくキャリアで最良さいりょうだった」としている[3]
  19. ^ 設計せっけい開発かいはつTRD童夢どうむおこなっており、サウスゲートはアドバイザーとしてかかわった[20]。TS010は開発かいはつ方針ほうしん変更へんこうしたことで完成かんせいおくれているが、この方針ほうしん変更へんこうはチーム監督かんとく齋藤さいとう治彦はるひこ決断けつだんによるもので[21]、サウスゲートの意向いこうによるものというわけではないという[20]
  20. ^ 設計せっけいダラーラおこなった。
  21. ^ 車体しゃたい設計せっけいおこなった。R390の原型げんけいであるジャガー・XJR-15車体しゃたい設計せっけいもサウスゲートがしている。
  22. ^ 設計せっけい流用りゅうようしているものの、車体しゃたいはTWRに保管ほかんされていたXJR-15そのものを流用りゅうようしたわけではなく、メインモノコックのように流用りゅうようしたパーツもあるにはあるものの、車体しゃたいすべ新造しんぞうしている[22]
  23. ^ サウスゲートはかかわっていない。

出典しゅってん[編集へんしゅう]

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参考さんこう資料しりょう[編集へんしゅう]

書籍しょせき
雑誌ざっし
ウェブサイト
  • Tony Southgate (2006ねん1がつ). “In the hot seat - Tony Southgate” (英語えいご). Motor Sport Magazine. p. 34. 2017ねん11月22にち閲覧えつらん
  • Simon Taylor (2012ねん6がつ). “Lunch with .... Tony Southgate” (英語えいご). Motor Sport Magazine. p. 81. 2017ねん11月22にち閲覧えつらん

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]