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ヨッヘン・マス

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ヨッヘン・マス
基本きほん情報じょうほう
フルネーム ヨッヘン・リヒャルト・マス
国籍こくせき ドイツの旗 ドイツ
出身しゅっしん 西ドイツの旗 西にしドイツバイエルンしゅうドルフェン
生年月日せいねんがっぴ (1946-09-30) 1946ねん9月30にち(77さい
F1での経歴けいれき
活動かつどう時期じき 1973-1982
所属しょぞくチーム '73-'74 サーティース
'74-'77 マクラーレン
'78 ATS
'79-'80 アロウズ
'82 マーチ
出走しゅっそう回数かいすう 105
タイトル 0
優勝ゆうしょう回数かいすう 1
表彰台ひょうしょうだい(3以内いない)回数かいすう 8
通算つうさん獲得かくとくポイント 71
ポールポジション 0
ファステストラップ 2
初戦しょせん 1973ねんイギリスGP
はつ勝利しょうり 1975ねんスペインGP
最終さいしゅう勝利しょうり 1975ねんスペインGP
最終さいしゅうせん 1982ねんフランスGP
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ヨッヘン・リヒャルト・マス(Jochen Richard Mass、1946ねん9月30にち - ) はドイツのレーシングドライバーである。1989ねんル・マン24あいだレース覇者はしゃバイエルンしゅうドルフェン出身しゅっしん

経歴けいれき

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キャリア初期しょき

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レーシングドライバーに転向てんこうするまえ、マスは船乗ふなのだった[1]。マスは当初とうしょからツーリングカーレースを得意とくいとしており、ヨーロッパツーリングカー選手権せんしゅけん、イギリスツーリングカー選手権せんしゅけんなどに参戦さんせん勝利しょうり記録きろくした。とくに1972ねんのヨーロッパツーリングカー選手権せんしゅけんでは5しょうげた。

一方いっぽうイギリス・F3選手権せんしゅけん、ドイツ・F3選手権せんしゅけんなどのフォーミュラカー・レースにも参戦さんせんし、1973ねんヨーロッパF2選手権せんしゅけんでは2しょうでシリーズ2となった。

ツーリングカーレースへの参戦さんせんつづける一方いっぽう、それまでの活躍かつやく評価ひょうかされ、1973ねんにはF1サーティースからスポット参戦さんせんした。よく1974ねんより正規せいきシートをるが、マシンの競争きょうそうりょくくるしんだマスは、無得点むとくてんのままシーズン途中とちゅうでチームを離脱りだつした。

マクラーレン時代じだい

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マクラーレン・M23をドライブするマス(1976ねんイギリスグランプリ

サーティース離脱りだつは2レースを欠場けつじょうのち終盤しゅうばん2せんよりマクラーレンから出走しゅっそうした。

1975ねんはマクラーレンよりフル参戦さんせん前年ぜんねんのワールドチャンピオンであるエマーソン・フィッティパルディ完全かんぜんナンバー1ドライバーであったが、マスはだい2せんブラジルGPで3はつ入賞にゅうしょう記録きろくし、つづだい3せんみなみアフリカGPでも6入賞にゅうしょう着実ちゃくじつ結果けっかかさねた。

だい4せんスペインGPでは、予選よせん11から優勝ゆうしょうした。クラッシュの多発たはつにより、大幅おおはば短縮たんしゅくされたレースだったが、直前ちょくぜんジャッキー・イクスいての勝利しょうりだった。これはマス唯一ゆいいつのF1での勝利しょうりであり、17ねん1992ねんベルギーGPミハエル・シューマッハ)まで、ドイツじんがF1で優勝ゆうしょうすることはなかった。マスはぜん14戦中せんちゅう8せんで6以内いないでチェッカーをけ、ドライバーズ・ランキング8でシーズンをえた。

1976ねん、フィッティパルディが自身じしんのチームをげてマクラーレンをり、後任こうにんわかいイギリスじんジェームス・ハント移籍いせき加入かにゅうしマスのチームメイトとなった。マスは前年ぜんねんおなじく着実ちゃくじつに6以内いない完走かんそうしチームにポイントをもたらしつづけていたが、ハントが粗削あらけずりだが優勝ゆうしょうかリタイアかというレースでニキ・ラウダとチャンピオンあらそいを展開てんかいするシーズンとなり、最終さいしゅうてき同年どうねんのワールド・チャンピオンを獲得かくとく。マスは着実ちゃくじつではあったが、ドライバーズ・ランキング9終了しゅうりょうとなり、パドックの関係かんけいしゃからはチームのナンバー2ドライバーとして認識にんしきされた。

1977ねんもマクラーレンに残留ざんりゅうしたが、新型しんがたM26熟成じゅくせい時間じかんようしたことと、前作ぜんさくであるM23が依然いぜんたか戦闘せんとうりょくしめしていたことで、M26への完全かんぜん移行いこうおくれ、M26ではリタイヤが増加ぞうかした。くわえてだい16せんカナダグランプリでは、ハントがマスを周回しゅうかいおくれにしようとしたさい追突ついとつし、ハントは勝利しょうりのがした。リタイヤしたハントは激昂げっこうし、周回しゅうかいつづけるマスにこぶしげ、なだめようとしたコースマーシャルなぐたおした。このけんでハントには合計ごうけい2750ドル罰金ばっきんせられる[2]という不協和音ふきょうわおんしょうじた。ハントの来季らいきチーム残留ざんりゅうまっていたことから、マクラーレンはあらたにパトリック・タンベイ加入かにゅう決定けっていし、マスは放出ほうしゅつされた。

マスはマクラーレンに在籍ざいせきした3シーズンで、前述ぜんじゅつした1しょうくわえて2ファステストラップ、ランキング最高さいこう(1977ねんの6)とキャリアベストのすべてをマクラーレン在籍ざいせきちゅう記録きろく。コンスタントに入賞にゅうしょうするはしりから、「ベストセカンドドライバー」と評価ひょうかされた。

1978ねん以後いご

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マクラーレン離脱りだつは、下位かい中堅ちゅうけんチームをわたあるいた。1978ねんはドイツのATS移籍いせきしたが、最高さいこう7でノーポイントにわった。3予選よせんちも経験けいけんし、失望しつぼうしたマスは終盤しゅうばん3レースをのこしてチームから離脱りだつした。

1979ねんアロウズ移籍いせきし、3の6入賞にゅうしょうたした。マクラーレン離脱りだつではもっと入賞にゅうしょう回数かいすうおおいシーズンとなったが、だい14せんカナダGP最終さいしゅうせんアメリカひがしGP終盤しゅうばん2せんでは、連続れんぞく予選よせんちをきっした。1980ねんもアロウズに残留ざんりゅうし、41かい・61かいで4ポイントを獲得かくとくした。

1981ねんはF1をはなれツーリングカーレースに専念せんねん1982ねんマーチ・821使用しようするマーチ・グランプリマーチ・エンジニアリングとはべつ組織そしきのプライベイトチーム)からF1に復帰ふっきしたが、だい5せんベルギーGP予選よせんではジル・ヴィルヌーヴとの接触せっしょく事故じこ(後述こうじゅつ)に遭遇そうぐう決勝けっしょう最高さいこうだい10せん終了しゅうりょうで7とどまっていた。だい11せんフランスGPでは決勝けっしょうレース序盤じょばんの11しゅうなが直線ちょくせん「ミストラル」をぬけたのちみぎ高速こうそくコーナー・シーニュの進入しんにゅうでインがわにラインをりマスをこうとしたアロウズマウロ・バルディ接触せっしょくしたマスのマシンは横転おうてんし、高速こうそく頭上ずじょうしたけたまま観客かんきゃくせき防護ぼうごネットにさるだいクラッシュとなった。幸運こううんだったのは出火しゅっかく、マスが軽傷けいしょう救出きゅうしゅつされたのが不思議ふしぎおもえるようなおおきい事故じこであったが、これを最後さいごにF1から引退いんたいすることを[3]、シーズン途中とちゅうであったがチームから離脱りだつした。そのおおきな理由りゆうは「5がつ友人ゆうじんでもあるジルがくなったときわたしかれおさな子供こどもおくさんがとてもかなしいだろうととてもつらく、れることが困難こんなんだったがF1をつづけた。我々われわれはレーサーです。事故じこった当人とうにんにとってはつらいことではないのです。しかしのこされた人々ひとびとにとってはつらいことです。その2かげつわたし自身じしんがこの事故じこい、ジルとあまりにもているようにマシンがそらび、ネットにさった。そらんでいるときはスローモーションのようにうつくしく、いままでの人生じんせい子供こどもたちの姿すがたがゆっくりとゆめのようにながれた。わたし家族かぞくもジルの家族かぞくおな試練しれん経験けいけんしたかもれなかったというきびしい現実げんじつ痛感つうかんした。」とべている[4]

以後いご、マスは世界せかい耐久たいきゅう選手権せんしゅけんグループC)やツーリングカー選手権せんしゅけんへの参戦さんせん専念せんねんすることとなった。

スポーツカーレース

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マスがドライブするフォード・カプリターボ(グループ5仕様しよう、1980ねん

マスはF1参戦さんせんちゅうも、ヨーロッパツーリングカー選手権せんしゅけん世界せかいメーカー選手権せんしゅけんなど、スポーツカーレースに参戦さんせんつづけていた。1978ねんからはポルシェ活躍かつやくし、1987ねんまでの在籍ざいせき期間きかんおおくのカテゴリーで勝利しょうり記録きろくした。1987ねんには、ボビー・レイホールとのコンビでセブリング12あいだレース勝利しょうりした。

ポルシェが撤退てったいするとザウバー移籍いせきし、メルセデスをドライブした。1989ねんには、1972ねんより参戦さんせんしていたル・マン24あいだレースでマニュエル・ロイタースタンレー・ディケンズとのトリオではつ勝利しょうりげた。

1990ねん、メルセデス・ベンツはドライバー育成いくせいプログラムとして、前年ぜんねんまでF3ドライバーだったミハエル・シューマッハ、カール・ヴェンドリンガーハインツ=ハラルド・フレンツェン交替こうたいでスポーツカー世界せかい選手権せんしゅけん参戦さんせんさせたが、マスはこの3にんのパートナーとしてぜんせん参戦さんせんした。

逸話いつわ

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ヴィルヌーヴの死亡しぼう事故じこ

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1982ねんだい5せんベルギーGPの予選よせん終盤しゅうばんにおいて、アタックをえスロー走行そうこうをしていたマスと、タイムアタックをしていたジル・ヴィルヌーヴがS遭遇そうぐう。ヴィルヌーヴに走行そうこうラインをゆずろうとしたマスと、マスをこうとしたヴィルヌーヴはどう方向ほうこうみぎ)にうごいてしまい、ヴィルヌーヴのフェラーリは、マスのマーチにちゅうった。

フェラーリは落下らっか衝撃しょうげき大破たいはし、マシンからされたヴィルヌーヴは死亡しぼう死亡しぼう事故じこ当事とうじしゃとなってしまったマスだが、この接触せっしょくにおいては当時とうじから「ヴィルヌーヴのドライビングミス」「レーシングアクシデント」とされた。ヴィルヌーヴがまえせんサンマリノGP終了しゅうりょうより、ディディエ・ピローニとの確執かくしつから非常ひじょう苛立いらだっていて、無理むり予選よせんアタックをおこなったこともあきらかとなり、マスがめられることはなかった。

人物じんぶつ

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恩師おんしとしてシューマッハをそだてたことほこりをっており、しばしばかれことはなしていた[5]

レース戦績せんせき

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ドイツ・フォーミュラ3選手権せんしゅけん

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とし エントラント シャーシ エンジン 1 2 3 4 5 6 7 8 順位じゅんい ポイント
1971ねん Jochen Mass ブラバム・BT35 フォード NÜR BRE DIE NIE KAS MEN
1
10 20
1972ねん Autozeitung マーチ・723 フォード NÜR
9
NÜR2 SAL HOC FRE NÜR3
1
KAS ZOL 9 22
とし 所属しょぞくチーム シャシー 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 WDC ポイント
1973ねん サーティース TS14A ARG BRA RSA ESP BEL MON SWE FRA GBR
Ret
NED GER
7
AUT ITA CAN USA
Ret
NC
(24)
0
1974ねん TS16 ARG
Ret
BRA
17
RSA
Ret
ESP
Ret
BEL
Ret
MON
DNS
SWE
Ret
NED
Ret
FRA
Ret
GBR
14
GER
Ret
NC
(23)
0
マクラーレン M23 AUT ITA CAN
16
USA
7
1975ねん テキサコ (マクラーレン) ARG
14
BRA
3
RSA
6
ESP
1
MON
6
BEL
Ret
SWE
Ret
NED
Ret
FRA
3
GBR
7
GER
Ret
AUT
4
ITA
Ret
USA
3
8 20
1976ねん マクラーレン BRA
6
RSA
3
USW
5
ESP
Ret
BEL
6
MON
5
SWE
11
FRA
15
GBR
Ret
GER
3
AUT
7
ITA
Ret
CAN
5
USA
4
JPN
Ret
9 19
M26 NED
9
1977ねん M23 ARG
Ret
BRA
Ret
RSA
5
USW
Ret
ESP
4
MON
4
BEL
Ret
SWE
2
FRA
9
6 25
M26 GBR
4
GER
Ret
AUT
6
NED
Ret
ITA
4
USA
Ret
CAN
3
JPN
Ret
1978ねん ATS HS1 ARG
11
BRA
7
RSA
Ret
USW
Ret
MON
DNQ
BEL
11
ESP
9
SWE
13
FRA
13
GBR
NC
GER
Ret
AUT
DNQ
NED
DNQ
ITA USA CAN NC
(24)
0
1979ねん アロウズ A1 ARG
8
BRA
7
RSA
12
USW
9
ESP
8
BEL
Ret
MON
6
18 3
A2 FRA
15
GBR
Ret
GER
6
AUT
Ret
NED
6
ITA
Ret
CAN
DNQ
USA
DNQ
1980ねん A3 ARG
Ret
BRA
10
RSA
6
USW
7
BEL
Ret
MON
4
FRA
10
GBR
13
GER
8
AUT
DNQ
NED
DNS
ITA CAN
11
USA
Ret
17 4
1982ねん マーチ 821 RSA
12
BRA
8
USW
8
SMR BEL
Ret
MON
DNQ
DET
7
CAN
11
NED
Ret
GBR
10
FRA
Ret
GER AUT SUI ITA CPL NC
(28)
0
  • 太字ふとじポールポジションはすファステストラップ。(key)
  • しるしはハーフポイント。レース周回しゅうかいすうが75%未満みまん終了しゅうりょうしたため、得点とくてん半分はんぶんとなる。

世界せかい耐久たいきゅう選手権せんしゅけん/世界せかいスポーツプロトタイプカー選手権せんしゅけん/スポーツカー世界せかい選手権せんしゅけん

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とし チーム 使用しよう車両しゃりょう クラス 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 順位じゅんい ポイント
1982ねん ロスマンズ・ポルシェ・システム ポルシェ・956 C MNZ SIL NÜR
LMN
2
SPA
1
MUG FSW
1
BRH 7 55
1983ねん ロスマンズ・ポルシェ AG C MNZ
2
SIL
Ret
NÜR
1
LMN
Ret
SPA
1
FSW
2
KYA
3
3 82
1984ねん C1 MNZ
2
SIL
1
LMN NÜR
7
MOS
1
SPA
2
FSW
2
KYA SUN
2
2 127
ヨースト・レーシング BRH
2
IMO
3
1985ねん ロスマンズ・ポルシェ AG ポルシェ・962C C1 MUG
1
MNZ
4
SIL
1
LMN
10
HOC
Ret
MOS
2
SPA
Ret
BRH
2
FSW
Ret
SHA
1
3 101
1986ねん C1 MNZ
6
SIL
Ret
LMN
Ret
NOR BRH JER NÜR
Ret
SPA
7
FSW 44 10
1987ねん C1 JAR JER
Ret
MNZ
6
SIL
4
LMN
Ret
8 58
ブルン・モータースポーツ NOR
2
BRH
5
NÜR
3
SPA
3
FSW
4
1988ねん チーム・ザウバー メルセデス ザウバー・C9 C1 JER
1
JAR MNZ
2
SIL
2
LMN
DNS
BRN
1
BRH
Ret
NÜR
1
SPA
3
FSW
5
SUN
1
5 108
1989ねん C1 SUZ
2
DIJ
2
JAR
1
BRH
3
NÜR
1
DON
1
SPA
Ret
MEX
1
2 107
1990ねん メルセデス・ベンツ・C11 C1 SUZ
2
MNZ
2
SIL
DNQ
SPA
1
DIJ
2
NÜR
2
DON
2
MTL
9
MEX
1
3 48
1991ねん C2 SUZ
2
MNZ
3
SIL
4
LMN
Ret
7 45
メルセデス・ベンツ・C291 C1 NÜR
Ret
MAG
Ret
MEX
Ret
AUT
5

ル・マン24あいだレース

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ル・マン24あいだレース 結果けっか
とし チーム コ・ドライバー 使用しよう車両しゃりょう クラス 周回しゅうかい 順位じゅんい クラス
順位じゅんい
1972ねん ドイツの旗 フォード・モーターカンパニー・ドイッチュラント ドイツの旗 ハンス=ヨアヒム・スタック フォード・カプリ 2600RS T
3.0
152 DNF DNF
1978ねん ドイツの旗 マルティーニ・レーシング ポルシェ・システム ベルギーの旗 ジャッキー・イクス
フランスの旗 アンリ・ペスカロロ
ポルシェ・936/78 S
+2.0
255 DNF DNF
1981ねん ドイツの旗 ポルシェ・システム オーストラリアの旗 ヴァーン・シュパン
アメリカ合衆国の旗 ハーレイ・ヘイウッド
ポルシェ・936 S
+2.0
312 12 2
1982ねん ドイツの旗 ロスマンズ ポルシェ・システム オーストラリアの旗 ヴァーン・シュパン

ポルシェ・956 C 320 DNF DNF
1983ねん ドイツの旗 ロスマンズ ポルシェ AG ドイツの旗 ステファン・ベロフ

C 354 6 6
1985ねん ベルギーの旗 ジャッキー・イクス

ポルシェ・962C C1 360 6 6
1986ねん フランスの旗 ボブ・ウォレク
オーストラリアの旗 ヴァーン・シュパン
C1 180 DNF DNF
1987ねん フランスの旗 ボブ・ウォレク
オーストラリアの旗 ヴァーン・シュパン
C1 16 DNF DNF
1988ねん スイスの旗 チーム・ザウバー・メルセデス イギリスの旗 ジェームス・ウィーバー
イタリアの旗 マウロ・バルディ
ザウバー・C9-メルセデス C1 0 DNS DNS
1989ねん ドイツの旗 チーム・ザウバー・メルセデス ドイツの旗 マヌエル・ロイター
スウェーデンの旗 スタンレー・ディケンズ
C1 389 1 1
1991ねん フランスの旗 ジャン=ルイ・シュレッサー
フランスの旗 アラン・フェルテ
メルセデス・ベンツ・C11 C2 319 DNF DNF
1995ねん イギリスの旗 ウェスト・コンペティション
イギリスの旗 デビッド・プライス・レーシング
デンマークの旗 ジョン・ニールセン
ドイツの旗 トマス・ブシャー
マクラーレン・F1-GTR GT1 131 DNF DNF

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ オートスポーツ三栄書房さんえいしょぼう、1976ねん8がつ15ごう、115ぺーじ
  2. ^ “トップ10:チームメイト同士どうし衝突しょうとつ. ESPN F1. (2010ねん7がつ8にち). http://ja.espnf1.com/f1/motorsport/story/22485.html 2012ねん1がつ20日はつか閲覧えつらん 
  3. ^ German's decision to depart F1 after a fiery collision with Mauro Baldi in the 1982 French GP. AUTO SPORT 2020ねん4がつ19にち
  4. ^ Mass explains why he quit racing after fatal Villeneuve crash グローブ・アンド・メール 2012ねん5がつ7にち
  5. ^ わたしがいなければミハエル・シューマッハはウィリアムズと契約けいやくしていた」ともとF1ドライバー”. f1-gate.com (2020ねん11月13にち). 2023ねん10がつ20日はつか閲覧えつらん

関連かんれん項目こうもく

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タイトル
先代せんだい
ヤン・ラマース
ジョニー・ダンフリーズ
アンディ・ウォレス
ル・マン24あいだ優勝ゆうしょうしゃ
1989 with:
マヌエル・ロイター
スタンレー・ディケンズ
次代じだい
ジョン・ニールセン
プライス・コブ
マーティン・ブランドル