レン・テリー
レン・テリー Len Terry | |
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1924![]() ロンドン ハックニー | |
2014![]() リンカンシャー リンカン[W 1] | |
![]() | |
|
レオナルド・E・テリー(Leonard E. Terry、1924
概要
[テリーは1960
経歴
[初期
[14
1945
この
そうして、『オートスポーツ』
ロータス
[1954
イラストレーターの
1959
ギルビー
[テリーにとって
ギルビーにおける
テリーが
ロータスへの復帰
[1962
チャップマンは、その
この
インディ500
[1960
1962
この
1965
(1962年 にロータスに)戻 りたくはありませんでした。コーリン・チャップマンと私 は異 なる惑星 から来 た人間 だとわかっていましたからね。私 たちは互 いに敬意 を払 ってはいましたが、波長 が合 っていたとは言 えませんでした。彼 は私 のユーモアのセンスを理解 していませんでしたし、私 もまた彼 にユーモアのセンスが欠如 していることを理解 していませんでした。ただ、インディカーの仕事 には興味 があったから戻 ったのです。子供 の頃 からインディカーの設計 をしてみたいと考 えていましたし、1962年 当時 のインディカーの設計 が停滞 していることは明 らかでもありました。F1の手法 を用 いれば、インディで勝 つのは容易 だと考 えたわけです。[W 3] — レン・テリー[注釈 6]
AAR (イーグル)
[1964
AARは
とはいえ、ガーニーはレースの
イーグル・Mk1はテリーが
テリーがイーグル・Mk1を
TAC
[AARから
どちらの
デザイン・オート
[ニコルズと
- JWオートモーティヴ
- 1967
年 中 にJWオートモーティヴ・エンジニアリングからの注文 を受 け、ミラージュ製 の車両 (ガルフ・ミラージュ)のプロトタイプ化 を依頼 され、製造 した車両 (ミラージュ・M2)をJWオートモーティブに引 き渡 した[22]。 - エンジンは
当初 はBRM製 を搭載 していたが、1969年 にはフォード・コスワース製 に換 装 することになり、車体 後部 を大 きく変更 し、クローズドボディだったM2をオープンボディ仕様 としたミラージュ・M3も製造 している。
- サーティース / ホンダF1
- 1968
年 、ジョン・サーティースからF1車両 であるホンダ・RA301の複製 の依頼 を受 けた[26]。サーティースは、日本 の本田技研工業 (ホンダ)のF1参戦 プロジェクト(ホンダF1・第 1期 )に深 く関与 しており、ホンダの中村 良夫 と組 み、自身 のチーム・サーティースを中核 として、イギリスでホンダ・レーシングを運営 していた。サーティースと中村 は、前年 にローラ・カーズと組 んでホンダ・RA300を完成 させたが、ホンダ側 の技術 的 な独立 性 を確保 するため、次 のRA301はチーム・サーティースで設計 を行 っていた[27]。1号車 の車体 は1968年 初 めに完成 しており、その2号車 の製造 がテリーに依頼 された[26]。 依頼 は1号車 を手本 とした「複製 」だったが、テリーに与 えられたのは1号車 のラフレイアウト図 と5、6枚 の写真 のみで、テリーが手間 を惜 しんだため、実車 は見 ず、設計 者 であるデリック・ホワイトとの打 ち合 わせもしないまま製造 が進 められた[24][23][注釈 12]。そのため、1号車 とは構成 がかなり異 なっており[23]、下記 の違 いがある。- 1
号車 は車体 (モノコック)がマグネシウム合金 製 、2号車 はアルミニウム合金 製 [23][注釈 13]。この違 いにより、2号車 のコクピット脇 にはリブ状 の突出 部 がある[23](画像 を参照 )。 - 2
号車 はリアサスペンションのロアアームをパラレルリンク式 に変更 し[26][23]、当時 一般 的 だった逆 Aアーム(1号車 はこの形 )ではなく、平行 等 長 の2本 のIアームによって支持 する形 とした[26][23]。この変更 は、1号車 の完全 なコピーとすることをよしとしなかったテリーが加 えたもので、この変更 によりサスペンション調整 を簡素 化 している[23][注釈 14]。しかし、2号車 の完成 後 にリアサスアームは1号車 と同 じ逆 A型 に改 められたため[23]、テリーによるこの変更 が存在 した期間 は短 い。 前部 のアッパー/ダンパーユニットの支点 などを補強 した[23]。この変更 は後 に1号車 にも取 り入 れられている[23]。
- 1
- 1
号車 はサーティースのレースカーとなっていたが、セカンドドライバー用 に用意 された2号車 はホンダ側 の事情 でエンジンの用意 がシーズン最終 盤 まで整 わず[29]、車体 はサーティース用 のTカー(予備 車両 )として扱 われた[25][注釈 15]。この2台 は水温 の特性 や車 重 にも違 いがあり、サーティースは1号車 を好 んだため、テリーが製造 した2号車 がレースに出走 したのはヨアキム・ボニエに貸 し出 されて出走 した1968年 シーズンの最終 戦 メキシコGPのみである[25]。
- サーティース / F5000
- RA301の2
号車 を引 き渡 した後 、テリーはネーザン・レーシングからの依頼 でフォーミュラ5000車両 の設計 と製造 を行 っていたが、依頼 された3台 の完成 が間近 となった1968年 9月 にネーザン・レーシングから依頼 をキャンセルされてしまう[26]。折 よく、F5000車両 を欲 しがっていたサーティースがそのことを知 り、車両 をそっくり引 き取 った[26]。 - 「サーティース・TS5」と
命名 されたこの車両 は、F5000レースでは無敵 の強 さを誇 り、テリーには続 く数 か月 間 の内 に追加 で4台 の完成 車 、複数 のモノコックの製作 依頼 が舞 い込 んだ[26]。
- BMW / F2
- サーティースにTS5を
引 き渡 した頃 、BMWからフォーミュラ2(F2)車両 の設計 を依頼 され、図面 を渡 した[26]。同社 は1969年 にデビューし、成績 も悪 くなかったのだが、製造 はドイツの航空機 メーカーのドルニエによって行 われ、モノコックとして設計 した車体 に無断 で大 きな開口 部 を追加 された上 [30]、開発 テストの様子 や不具合 などのレポートも得 られず、テリーにとっては不満 の残 る仕事 となり[26]、この経験 により、テリーは「レダ」の創設 を決断 した[31]。
- AAR / インディカー
- 1969
年 、同年 のインディ500を観戦 しに行 った際 、ダン・ガーニーと偶然 再会 し、(トニー・サウスゲートが離脱 したことでチーフデザイナーが不在 だったため)インディカーの設計 を依頼 され、着手 した[31]。 - この
車両 (イーグル・70)は翌 1970年 のインディ500に投入 され、ガーニーが3位 を獲得 した。
レダ
[![](https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/3/32/McRae-Chevrolet_GM1_-_Flickr_-_exfordy.jpg/220px-McRae-Chevrolet_GM1_-_Flickr_-_exfordy.jpg)
4
この
その後
[レーシングカーの
1993
作品
[車両
[テリーが
-
マーク3(1960
年 )
ギルビー・A型
クラブレース用 -
マーク5(1961
年 )
ギルビー・B型
テリーにとって初 のF1車両 で、同 じく初 のリアミッドシップ車 -
マーク7(1962
年 )
テリヤー・マーク7
クラブレース用 -
マーク8(1962
年 )
テリヤー・マーク8
アルピーヌの依頼 で設計 したレーシングスポーツカー -
マーク18(1968
年 )
BMW・F2
F2車両 -
マーク19(1969
年 )
ガルフ・ミラージュ・フォード(ミラージュ・M3)車体 はM2のオープンボディ型 -
マーク20(1969
年 )
レダ・マーク1
F5000車両 -
マーク22(1970
年 )
レダ・マーク2
F5000車両 -
LT25(1971
年 )
レダ・マーク3
F5000車両 -
LT26(1971
年 )
LT26
F5000車両 -
LT27(1972
年 )
マクレー・GM1
F5000車両
著書
[- 『Racing Car Design and Development』(1973
年刊 ) -自身 の経歴 、設計 した車両 の詳細 のほか、同 時代 の他 の設計 者 についての評 も書 いている。- 『レーシングカー:その
設計 の秘訣 』(1975年刊 ) -上記 書籍 の日本語 版 。武田 秀夫 (ホンダ・RA273の設計 者 )が翻訳 。
- 『レーシングカー:その
エンジニアとしての特徴
[「 | 」 | |
—テリーによる |
テリーは
ロータス
テリーは、
脚注
[注釈
[- ^ この
後 でテリーを雇 うロータスのコーリン・チャップマンは750モータークラブの中心 人物 。なお、テリーには「レース専用 車 」を持 つような資金 的 な余裕 などなく、テリヤー・マーク1はこの後 のロータス社 への通勤 など、自家用車 としても使 われた。 - ^ この
時期 に知 り合 ったブライアン・ハートの依頼 によるもので、ハートは400~500ポンドという当時 のクラブレースでは大金 と言 える額 を開発 予算 として提示 したため、テリーは、市販 車 を改造 しただけのマーク1とは異 なり、マーク2をレース専用 の車両 として新規 設計 することが可能 になった[4]。製作 作業 には依頼 者 のハートも協力 し、エンジンのチューニングはハートが行 った[5]。 - ^
主因 として、テリーが指示 を無視 したからというわけではなく、ル・マン24時 間 レースを主催 していたフランス西部 自動車 クラブ(ACO)が、チャップマンのロータス・23の性能 の高 さを警戒 して車両 規則 を改正 して締 め出 しを図 ったことの影響 を受 けた[8]。テリーが設計 した車両 も同様 の箇所 で違反 があったため、出走 させることが不可能 となった[8]。テリー本人 にはこの経緯 がきちんと伝 わっていなかったようで、アルピーヌが車両 規則 に合 わせて独自 に開発 した「M63」について、テリーは自著 の中 で「(アルピーヌが)設計 図 を勝手 に変更 してしまった」と書 いている[9]。 - ^
残 り20周 の時点 でレースをリードしていたパーネリ・ジョーンズの車両 がオイル漏 れを起 こし、後方 ではそのオイルが原因 と考 えられる事故 が発生 し、レースは最終 盤 で一時 中断 された[W 3]。レース主催 者 はジョーンズを失格 とすることも検討 したが、何 の処分 も出 さずにレースを再開 させ、ジョーンズがトップでゴールした[W 3]。 - ^ それまでのロータスではロータス・25で
導入 されたバスタブ式 モノコックが踏襲 され用 いられていた[W 2]。テリーは、チャップマンがタスマンシリーズのために4ヶ月 ほど留守 にしていた間 にロータス・38を完成 させ、車体 の設計 を全 く変 えてしまったことは帰国 したチャップマンを驚 かせることになる[W 2]。 - ^ なお、「
容易 だと考 えた」のはテリーではなく、ダン・ガーニーで、1962年 オランダグランプリでロータス・25を見 たガーニーがその先進 性 に驚 き、チャップマンにインディ500への参戦 を勧 めたことが、ロータスのインディ500参戦 の端緒 となった[15]。 - ^ AARの
車両 は全 てサンタアナで製造 されたが、ウェスレイクが所在 するライにもF1用 車両 を整備 する施設 が置 かれた[W 5]。 - ^
重量 については、ホンダ・RA273や、H16エンジンを積 んだBRM・P83といったより重 い車両 も参戦 しており、それらと比較 すればまだ軽 かった[17]。テリーの離脱 後 に、AARはマグネシウム合金 製 のモノコックを導入 するなどして軽量 化 を実現 した[20]。 - ^ チャップマンの
時 と異 なり、人間 関係 には問題 なかったものの、この頃 のテリーは設計 後 の開発 や熟成 といった作業 には関心 がなく、そうしたテリーの不足 した部分 を、ガーニーとAARには(これもまたチャップマンと異 なり)埋 めることができそうもなかったため[W 2]、いずれ破綻 するとテリーは考 えた。 - ^ チーム・サーティースのデリック・ホワイトが
設計 し、車体 パーツはイギリスのサーティース(ホンダ・レーシング)とローラで製造 され、最終 組立 は日本 の本田 技術 研究所 で行 われた[23]。 - ^
車体 パーツをテリーのデザイン・オート社 で製造 し、最終 組立 はイギリスのサーティース(ホンダ・レーシング)で行 われた[24][23]。この車両 はホンダ・第 1期 の終了 後 はサーティースのショールームでしばらく展示 され、その後 、日本 の自動車 コレクターの林 良 至 (ガレーヂ伊太利屋 の創業 者 として知 られる)が保有 していたが[25]、現在 はホンダコレクションホールの所蔵 品 となっている。 - ^ テリーが
希望 すれば実車 を見 ることもホワイトに構造 などを教 わることも可能 だったのだが、テリーの事務所 からサーティースのファクトリーまでは160 kmほどあり、往復 4時 間 ほどかかるため、テリーは「時間 がもったいないし面倒 くさくもあり」そうした機会 を使 わずに製造 した[24]。 - ^ 1
号車 のボディを製造 したローラが持 っていた高価 なアルゴン溶接 機 を、デザイン・オート社 は持 っていなかったため、1号車 が用 いていた鋼板 ブラケット類 を製作 できなかったことから、違 いが生 じた[24][23]。ブラケット板 の組 み方 が1号車 と異 なるため、モノコック本体 の設計 にも多少 の違 いが生 じた[24]。 - ^ テリーはパラレルリンク
式 サスペンションを以前 から他 のカテゴリーの車両 で用 いていたが、他 のコンストラクターを含 めても、F1でこの方式 を採用 したのはRA301-2号車 が初 の例 にあたる[26][23]。翌年 にマトラも追従 し、後 に多 くのコンストラクターがこの方式 を採用 するようになる[28][23]。 - ^ 9月の
第 9戦 イタリアGPで初 めて運 び込 まれ、その後 、最終 戦 (第 12戦 )メキシコGPまでの4レースでTカーとして扱 われた[25]。 - ^ この
名称 はAARを成功 させていたダン・ガーニーにあやかったもので、「Len」と「Dan」に由来 する[W 3]。 - ^ フォーミュラ・リブレとして
設計 したもので、4.7リッターのフォード・V型 8気筒 エンジンを搭載 したフォーミュラカー[38]。フォーミュラ5000が創設 される以前 の車両 であり、このクラスのエンジンを搭載 した車両 としては、世界 初 のシングルシーターにあたる[14]。ロータスに復帰 した直後 の時期 に依頼 を受 けて設計 したもので、テリーはチャップマンと専属 契約 を結 んだばかりだったため、この車両 は、ロータスの製図 士 だったマーティン・ウェイド(Martin Wade)を名目 上 のチーフデザイナーに据 えた[38]。 - ^
部品 が全 てロータスの既製 品 であるため、テリヤー・ナンバーは振 られていない[14]。
出典
[出版 物
- ^ a b c d e レーシングカー:その
設計 の秘訣 (テリー/ベーカー/武田 1975)、「2. レン・テリーの経歴 」 pp.17–26中 のp.17 - ^ a b c d e レーシングカー:その
設計 の秘訣 (テリー/ベーカー/武田 1975)、「2. レン・テリーの経歴 」 pp.17–26中 のp.18 - ^ a b c d e f g h i j k l レーシングカー:その
設計 の秘訣 (テリー/ベーカー/武田 1975)、「2. レン・テリーの経歴 」 pp.17–26中 のp.19 - ^ a b レーシングカー:その
設計 の秘訣 (テリー/ベーカー/武田 1975)、「3. テリーの作品 テリヤー」 pp.27–101中 のp.30 - ^ レーシングカー:その
設計 の秘訣 (テリー/ベーカー/武田 1975)、「3. テリーの作品 テリヤー」 pp.27–101中 のp.35 - ^ a b レーシングカー:その
設計 の秘訣 (テリー/ベーカー/武田 1975)、「3. テリーの作品 テリヤー」 pp.27–101中 のp.41 - ^ a b レーシングカー:その
設計 の秘訣 (テリー/ベーカー/武田 1975)、「3. テリーの作品 テリヤー」 pp.27–101中 のp.43 - ^ a b c d e f マートラ アルピーヌ(
檜垣 2010)、p.141 - ^ a b c d レーシングカー:その
設計 の秘訣 (テリー/ベーカー/武田 1975)、「2. レン・テリーの経歴 」 pp.17–26中 のp.20 - ^ オートスポーツ 1992
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設計 の秘訣 (テリー/ベーカー/武田 1975)、「補足 ─1 テリーの作品 総覧 」 pp.244–245 - ^ レーシングカー:その
設計 の秘訣 (テリー/ベーカー/武田 1975)、「訳者 あとがき」 pp.261–262 - ^
歴史 に残 るレーシングカー(ナイ/高 齋 1991)、「1963年 インディアナポリス・ロータス・フォード・タイプ29」 pp.207–212中 のp.208 - ^ a b c レーシングカー:その
設計 の秘訣 (テリー/ベーカー/武田 1975)、「3. テリーの作品 テリヤー」 pp.27–101中 のp.49 - ^
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設計 の秘訣 (テリー/ベーカー/武田 1975)、「2. レン・テリーの経歴 」 pp.17–26中 のp.21 - ^ a b c d オートスポーツ 1992
年 9/1号 (No.614)、「歴史 に残 る名 F1マシン第 15回 1966~67年 イーグルF1」 pp.104–106 - ^ レーシングカー:その
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歴史 に残 るレーシングカー(ナイ/高 齋 1991)、「1967~68年 イーグル-ウェスレイク V型 12気筒 」 pp.218–221中 のp.220 - ^ レーシングカー:その
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設計 の秘訣 (テリー/ベーカー/武田 1975)、「2. レン・テリーの経歴 」 pp.17–26中 のp.23 - ^ HONDA F1 1964-1968(
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中村 1979)、p.247 - ^ レーシングカー:その
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設計 の秘訣 (テリー/ベーカー/武田 1975)、「2. レン・テリーの経歴 」 pp.17–26中 のp.26 - ^ a b レーシングカー:その
設計 の秘訣 (テリー/ベーカー/武田 1975)、「3. テリーの作品 テリヤー」 pp.27–101中 のp.27 - ^ a b c d レーシングカー:その
設計 の秘訣 (テリー/ベーカー/武田 1975)、「3. テリーの作品 テリヤー」 pp.27–101中 のp.89 - ^ レーシングカー:その
設計 の秘訣 (テリー/ベーカー/武田 1975)、「3. テリーの作品 テリヤー」 pp.27–101中 のp.39 - ^ a b レーシングカー:その
設計 の秘訣 (テリー/ベーカー/武田 1975)、「3. テリーの作品 テリヤー」 pp.27–101中 のp.48 - ^ a b c レーシングカー:その
設計 の秘訣 (テリー/ベーカー/武田 1975)、「3. テリーの作品 テリヤー」 pp.27–101中 のp.73 - ^ a b レーシングカー:その
設計 の秘訣 (テリー/ベーカー/武田 1975)、「15.第 一線 デザイナーの評価 」 - 「コーリン・チャップマン」 p.232 - ^ レーシングカー:その
設計 の秘訣 (テリー/ベーカー/武田 1975)、「15.第 一線 デザイナーの評価 」 - 「ロン・トーラナック」 p.233 - ^ レーシングカー:その
設計 の秘訣 (テリー/ベーカー/武田 1975)、「15.第 一線 デザイナーの評価 」 - 「レン・テリー」 p.237
- ウェブサイト
- ^ a b c d e f g “Len Terry” (
英語 ). OldRacingCars.com (2014年 8月 29日 ). 2023年 10月 8日 閲覧 。 - ^ a b c d e f g h i j k l m n o Paul Fearnley (2014
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英語 ). Autosport (2014年 8月 27日 ). 2023年 10月 8日 閲覧 。 - ^ a b c “Eagle F1 Story” (
英語 ). All American Racers. 2023年 10月 8日 閲覧 。
参考 資料
[書籍
- Len Terry, Alan Baker (1973-04). Racing Car Design and Development. Motor Racing Publication Ltd. ASIN 0837600804. ISBN 978-0837600802
- レン・テリー(
著 )、アラン・ベーカー(著 )、武田 秀夫 (訳 )『レーシングカー:その設計 の秘訣 』二玄社 、1975年 12月20日 。 NCID BN04167692。 - レン・テリー(
著 )、アラン・ベーカー(著 )、武田 秀夫 (訳 )『レーシングカー:その設計 の秘訣 』二玄社 、1989年 6月 。ASIN 4544040205。ISBN 978-4544040203。
- レン・テリー(
中村 良夫 『グランプリレース ──ホンダF-1と共 に──』山海 堂 、1979年 12月25日 。ASIN B000J8BT9O。 NCID BA34300064。中村 良夫 『F-1グランプリ ──ホンダF-1と共 に 1963~1968──』三樹 書房 、1988年 8月 。ASIN 4895221296。ISBN 978-4895221290。中村 良夫 『F-1グランプリ ──ホンダF-1と共 に 1963~1968──愛蔵 版 』三樹 書房 、1998年 10月 。ASIN 4895222330。ISBN 978-4895222334。 NCID BA45272539。
中村 良夫 、神田 重 巳 、CAR GRAPHIC『HONDA F1 1964-1968』二玄社 、1984年 7月 30日 。ASIN B000J73UYW。 NCID BN04381353。- Doug Nye (1989). Famous Racing Cars: Fifty of the Greatest, from Panhard to Williams-Honda. Harpercollins. ASIN 1852600365. ISBN 978-1852600365
- ダグ・ナイ(
著 )、高 齋 正 『歴史 に残 るレーシングカー』グランプリ出版 、1991年 9月 21日 。ASIN 4876871124。ISBN 4-87687-112-4。 NCID BA62606550。
- ダグ・ナイ(
檜垣 和夫 『マートラ アルピーヌ』二玄社 、2010年 3月 25日 。ASIN 4544400473。ISBN 978-4-544-40047-2。 NCID BB15813036。
雑誌 / ムック
- 『オートスポーツ』(NCID AA11437582)
- 『1992
年 4/15号 (No.604)』三栄書房 、1992年 4月 15日 。ASB:AST19920415。 - 『1992
年 9/1号 (No.614)』三栄書房 、1992年 9月 1日 。ASB:AST19920901。
- 『1992