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レン・テリー

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レン・テリー
Len Terry
生誕せいたん (1924-02-11) 1924ねん2がつ11にち
イギリスの旗 イギリス
ロンドン ハックニー[W 1]
死没しぼつ (2014-08-25) 2014ねん8がつ25にち(90さいぼつ
イギリスの旗 イギリス
リンカンシャー リンカン[W 1]
国籍こくせき イギリスの旗 イギリス
職業しょくぎょう 自動車じどうしゃ技術ぎじゅつしゃ
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レオナルド・E・テリー(Leonard E. Terry、1924ねん2がつ11にち[W 1] - 2014ねん8がつ25にち[W 1])は、レン・テリー(Len Terry)としてられる人物じんぶつで、イギリスの自動車じどうしゃ技術ぎじゅつしゃである。

概要がいよう

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テリーは1960年代ねんだいから1970年代ねんだいにかけてレーシングカーの車両しゃりょう設計せっけいしゃとして活動かつどうし、1965ねんインディ500英語えいごばん優勝ゆうしょう車両しゃりょうであるロータス・38英語えいごばん設計せっけいしゃとしてとくられ、イーグル・Mk1(T1G)やロータス・33といったF1車両しゃりょう設計せっけいしたことでもられる。

車両しゃりょう設計せっけい手腕しゅわんには定評ていひょうがあったものの、協調きょうちょうせい問題もんだいかかえていたことからコンストラクター(車両しゃりょう設計せっけい製造せいぞうおこな会社かいしゃ組織そしき)に従業じゅうぎょういんとして所属しょぞくして設計せっけいおこなうことはまれだった[W 2]。キャリアのおおくをフリーランスのエンジニアとしておくり、設計せっけい完成かんせいしゃ依頼いらいぬしであるコンストラクターやチームに提供ていきょうするというかたちはたらいた[W 2]。そのため、さきげた車両しゃりょうチーム・ロータスオール・アメリカン・レーサーズ(AAR。くるまめいは「イーグル」)のほか、関与かんよした依頼いらいぬしアルピーヌアストンマーティンBMWBRMエルヴァギルビ-・エンジニアリング英語えいごばんシェルビー・アメリカンチーム・サーティースホンダ・レーシング)、など、多数たすうおよ[W 2]

経歴けいれき

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初期しょき

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少年しょうねん時代じだいからブルックランズクリスタル・パレス英語えいごばんかよってレースを観戦かんせんし、いずれレーシングカーを設計せっけいしたいとかんがえるようになった[W 3]

14さい学校がっこうて、そのはロンドンの劇団げきだん事務じむいんとしてはたらいた[W 3]だい世界せかい大戦たいせん(1939ねん - 1945ねん)がはじまり、同僚どうりょうたちが兵役へいえきのため劇団げきだんっていったため、テリーの昇進しょうしんはやく、もとから得意とくいだったうでわれてポスターえがきなどの仕事しごとまかされた[W 3]。1943ねん自身じしん兵役へいえきによりイギリス空軍くうぐんはいり、計器けいき修理しゅうりはん製図せいずがかりつとめた[1]。このあいだ航空機こうくうきようカメラを専門せんもんとする機器ききメーカーときょうはたらけすることにもなり、インド北部ほくぶパキスタンたる地域ちいき)に展開てんかいする部隊ぶたい従軍じゅうぐんした[W 1]

1945ねん(21さいごろ)、兵役へいえきわって除隊じょたいしたのち電池でんち製造せいぞう会社かいしゃエバー・レディしゃ入社にゅうしゃし、バッテリー設計せっけい従事じゅうじした[1]。テリーはここでも才能さいのうわれ、製品せいひん設計せっけい以外いがいに、説明せつめいしょよう説明せつめいなどの仕事しごとまかされるようになった[1]

この時期じき750モータークラブはいり、レースに出場しゅつじょうするようになった[W 3]。しかし、てなかったため、車体しゃたい設計せっけいについての書籍しょせきむさぼるようにみ、雑誌ざっしにF1のイラストをおくってみをするようになった[W 3]

そうして、『オートスポーツ英語えいごばん編集へんしゅうで、テクニカルイラストレーション車両しゃりょう断面だんめんなど[W 4])の仕事しごとまかされるようになった[1][W 3]。その仕事しごと副業ふくぎょうだったが、次第しだいにイラストによる収入しゅうにゅうのほうが本業ほんぎょうである製図せいずとしての収入しゅうにゅうよりもおおきくなったため、1952ねん専業せんぎょうのイラストレーターとなった[1]。こののちすうねん、テリーはイラストレーターの仕事しごとにたびたびき、イラストレーターと仕事しごとを2ねんほどの周期しゅうきする。

ロータス

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1954ねんにテリーは受託じゅたく設計せっけいせんもんあつか設計せっけい会社かいしゃ入社にゅうしゃし、イギリスの自動車じどうしゃ会社かいしゃ各社かくしゃからの依頼いらいおうじて様々さまざま部品ぶひん設計せっけいを2ねんほど手掛てがけたが、1956ねんにイラストレーターにもどった[2]。イラストレーターの仕事しごとひまだったため、750モータークラブでみずか設計せっけい製作せいさくした車両しゃりょう参戦さんせんすることを決意けついした[2]。このときつくった車両しゃりょうがテリーにとっての処女しょじょさくである「テリヤー・マーク1」である[2]。この車両しゃりょう成功せいこうし、テリー自身じしん運転うんてん活躍かつやくしたことから、テリーのどうクラブでられるようになった[2][注釈ちゅうしゃく 1]

イラストレーターの仕事しごときたテリーはふたた自動車じどうしゃ関連かんれん仕事しごとくことにし、1958ねんに、ちょうど欠員けついんしょうじていたロータス・エンジニアリングしゃやとわれた[2]。ロータスの仕事しごといそがしいものだったが、ここにいたってテリーはようやく満足まんぞくできる仕事しごと出会であい、ロータス・11英語えいごばんロータス・エリートなどの設計せっけい製図せいずとしてたずさわった[3]。そうして、短期間たんきかんうちにロータスの製図せいずチーフに昇進しょうしんした[3]

1959ねん余暇よかふたたびレーシングカー製作せいさくついやすようになり、「テリヤー・マーク2」を完成かんせいさせた[3][注釈ちゅうしゃく 2]同車どうしゃ設計せっけい依頼いらいしゃであるブライアン・ハートられてレースに参戦さんせんし、ハートはロータスの車両しゃりょうらし、同年どうねん開催かいさいされた21レースちゅう18レースで優勝ゆうしょうしてしまった[3][W 3]必然ひつぜんてきに、アマチュアレーサーたちは(ロータスの車両しゃりょうではなく)テリーのくるましがることになり、テリヤー・マーク2はもとめにおうじて販売はんばいされた[W 3]。テリーはロータスの社長しゃちょうであるコーリン・チャップマンとのいが普段ふだんからわるく、そうしたなかきたこのいちけん駄目押だめおしとなり、ロータスをわれてしまう[3][W 4]

ギルビー

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実力じつりょくをつけつつあったテリーがつぎ仕事しごとつけるのは容易よういで、ロータスを追放ついほうされてからあいだかず、ギルビ-・エンジニアリング英語えいごばんにチーフデザイナーとしてむかれられた[3]。ギルビーには2ねんほど在籍ざいせきし、そのあいだ同社どうしゃのスポーツカーを設計せっけいし、1961ねん1962ねんには同社どうしゃせいフォーミュラ1カー(F1車両しゃりょう)を設計せっけいした[3]

テリーにとってはつF1車両しゃりょうとなった1961ねんよう車両しゃりょう(ギルビー・Bがた)について、当初とうしょ、テリーは先進せんしんてきモノコックシャシーとして設計せっけいしていた[3][6]。しかし、ギルビーしゃ技術ぎじゅつ水準すいじゅんでは製造せいぞう困難こんなんがあったため、あえてスペースフレームシャシーにあらためた[3][6]。チーム体制たいせいよわさとドライバーの技量ぎりょうひくさから、この車両しゃりょう戦績せんせきのこせなかったが、設計せっけいそのものはたか評価ひょうかされ、ブルース・マクラーレンがこの車両しゃりょうグッドウッド・サーキットでテストしたさいにはF1のコースレコードにちかいタイムを記録きろくしている[W 4]

ギルビーにおける仕事しごと順調じゅんちょうだったが、ここでテリーはまたしても奇禍きか見舞みまわれる。休日きゅうじつオウルトン・パークでテリヤー・マーク2をはしらせていたところ、路面ろめんにこぼれていたオイルをんだことでコースアウトし、コースわき激突げきとつしてしまったのである[3][7]。この事故じこにより、あし骨折こっせつしたほか、肺炎はいえん血栓けっせんしょう併発へいはつし、のちにテリーが「全快ぜんかいできたのは奇跡きせきちかかった」と述懐じゅっかいするほどおも症状しょうじょうとなり、長期ちょうき入院にゅういん必要ひつようとなった[3]

テリーが入院にゅういんしているうちに、ギルビーしゃ売却ばいきゃくされることになり、あらたな経営けいえいしゃ今後こんごレースをおこなうつもりはないと発表はっぴょうし、テリーはかえ職場しょくばうしなった[3]

ロータスへの復帰ふっき

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退院たいいん、かつてのやとぬしであるコーリン・チャップマンとの関係かんけい修復しゅうふくさせる出来事できごとが1962ねん短期間たんきかんあいだつづいた。

1962ねんにチャップマンはレーシングスポーツカーのロータス・23英語えいごばん開発かいはつし、その優秀ゆうしゅうさをみとめたフランスのアルピーヌからレーシングスポーツカーの設計せっけい依頼いらいされた[8]。チャップマンは、多忙たぼうだったため、アルピーヌにテリーを紹介しょうかいして、その仕事しごとがテリーにまわってきた[8](1962ねん後半こうはん[W 3])。アルピーヌ社長しゃちょうジャン・レデレはテリーにたいして、なるべくルノー(アルピーヌの親会社おやがいしゃ)の市販しはんしゃ部品ぶひん使つかうよう指示しじしたが、テリーはそれを無視むしし、ルノーから流用りゅうようしたのはステアリングギアボックスアップライト英語えいごばんくらいで、独自どくじ設計せっけいした[8]結局けっきょく、アルピーヌがこのくるま実際じっさい製造せいぞうすることはなかった[8][注釈ちゅうしゃく 3]

チャップマンは、その短期間たんきかんうちロータス・22英語えいごばんフォーミュラ・ジュニア車両しゃりょう)のボディの設計せっけいであるとか、ロータス・エランコルティナ英語えいごばんようのエンジン部品ぶひんといったものの図面ずめん作成さくせいをテリーに依頼いらいするようになった[9]。テリーの仕事しごと出来栄できばえに満足まんぞくしたチャップマンは機嫌きげんなおし、それまでロータスしゃのナンバー2だったマイク・コスティン離脱りだつ自身じしん創業そうぎょうしたコスワース専念せんねんするため同年どうねん8がつ移籍いせき)するタイミングだったこともあって、1962ねんちゅうにテリーをロータスにもどし、チーフデザイナーに任命にんめいした[9]

この招聘しょうへいによりふたたびロータスではたらくことになったテリーは、基本きほんてきインディカー仕事しごとまかされたが、F1でも、チャップマンの指揮しきしたロータス・25をベースにロータス・33設計せっけいした[W 4]。この車両しゃりょうはロータス・25のホイールベースを伸長しんちょうした程度ていどのマイナーチェンジしゃだが[10]、1964ねんにダンロップが導入どうにゅうしたしんタイヤにより最適さいてきしたサスペンションをそなえるとともに、車体しゃたい剛性ごうせいも25よりたかくなり、製造せいぞう工程こうてい簡素かんそされた。投入とうにゅう2ねん1965ねんシーズンジム・クラークがこの車両しゃりょうだけでも5しょうげ(シーズン通算つうさん6しょう)、ロータスにダブルタイトルをもたらした[W 4]

インディ500

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ロータス・38(英語版)(1965年インディ500(英語版)優勝車両)。テリーは、「9割はテリー、1割はチャップマン」の作品だと述べている[11][12]。
ロータス・38英語えいごばん1965ねんインディ500英語えいごばん優勝ゆうしょう車両しゃりょう)。テリーは、「9わりはテリー、1わりはチャップマン」の作品さくひんだとべている[11][12]

1960年代ねんだいはじめまで、創設そうせつあいだもないチーム・ロータスはフォーミュラ1などのヨーロッパを中心ちゅうしん開催かいさいされている自動車じどうしゃレースカテゴリーを中心ちゅうしん活動かつどうしていたが、アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく開催かいさいされているインディ500への参戦さんせんを1963ねんからはじめるという予定よていてており[W 2]、チャップマンがテリーをもどしたのはその車両しゃりょう開発かいはつまかせることがしゅ目的もくてきだった。

1962ねんにロータスに復帰ふっきしたテリーは、インディカーの設計せっけい全面ぜんめんてきまかされ、まず、ロータス・29英語えいごばん設計せっけいおこなった[W 3]。このとき設計せっけいはチャップマンの指示しじしたがい、基本きほんてきにF1のロータス・25踏襲とうしゅうし、インディカーの規則きそくわせてホイールベースを伸長しんちょうしたり、レースにわせて燃料ねんりょうタンクのぞうそう車体しゃたい剛性ごうせい補強ほきょうといった変更へんこうくわえることがおも作業さぎょうとなった[13]

この車両しゃりょう1963ねんのインディ500英語えいごばん投入とうにゅうされ、クラークが優勝ゆうしょうあらそいにからむが、レースリーダーへの不可解ふかかい裁定さいていもあって2わった[W 3][W 4][注釈ちゅうしゃく 4]

よく1964ねんのインディ500英語えいごばんでは、ロータス・34英語えいごばん投入とうにゅうし、予選よせんではクラークがトップタイムを記録きろくし、ポールポジション獲得かくとくした。しかし、車両しゃりょう完成かんせいダンロップタイヤを事前じぜんテストするときあいだ確保かくほできていなかったことがわざわいし、レースでタイヤトラブルをこして、リタイアにわった[W 3]

1965ねんのインディ500英語えいごばんけ、テリーはロータス・38英語えいごばん設計せっけいした[W 3]。ロータス・25を踏襲とうしゅうするよう指示しじされた1963ねんや、前年ぜんねんがた改良かいりょうのみゆるされた1964ねんとはことなり、1965ねんよう車両しゃりょう設計せっけいはチャップマンから白紙はくし委任いにんけたため、テリーはロータス・38をロータスとしてははつのフルモノコック車両しゃりょうとして設計せっけいした[14][W 2][注釈ちゅうしゃく 5]同車どうしゃは、参戦さんせん3ねんのクラークに念願ねんがんのインディ500優勝ゆうしょうをもたらした。しかし、レース開催かいさい数日すうじつまえにテリーはロータスとの契約けいやく終了しゅうりょうし、後述こうじゅつするAARへと移籍いせきしたため、実際じっさいにこのレースをにすることはなかった[W 3]

(1962ねんにロータスに)もどりたくはありませんでした。コーリン・チャップマンとわたしことなる惑星わくせいから人間にんげんだとわかっていましたからね。わたしたちはたがいに敬意けいいはらってはいましたが、波長はちょうっていたとはえませんでした。かれわたしのユーモアのセンスを理解りかいしていませんでしたし、わたしもまたかれにユーモアのセンスが欠如けつじょしていることを理解りかいしていませんでした。ただ、インディカーの仕事しごとには興味きょうみがあったからもどったのです。子供こどもころからインディカーの設計せっけいをしてみたいとかんがえていましたし、1962ねん当時とうじのインディカーの設計せっけい停滞ていたいしていることはあきらかでもありました。F1の手法しゅほうもちいれば、インディでつのは容易よういだとかんがえたわけです。[W 3] — レン・テリー[注釈ちゅうしゃく 6]

AAR (イーグル)

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イーグル・Mk1(T1G)。その外観は「史上最も美しいF1車両」としばしば称賛される[W 4]。ノーズ先端の特徴的な「鷲のクチバシ」はガーニーとテリーが考案した[W 5]。テリーがAARを去った後の1967年ベルギーGPで1勝を挙げた。
イーグル・Mk1(T1G)。その外観がいかんは「史上しじょうもっとうつくしいF1車両しゃりょう」としばしば称賛しょうさんされる[W 4]。ノーズ先端せんたん特徴とくちょうてきな「わしのクチバシ」はガーニーとテリーが考案こうあんした[W 5]。テリーがAARをったのち1967ねんベルギーGPで1しょうげた。

1964ねん、ロータスにいたテリーは、ダン・ガーニーのために、レーシングスポーツカーのロータス・19英語えいごばん改良かいりょうくわえたワンオフくるまの「ロータス・19B」を設計せっけいした[9]。このえんで、ガーニーが1964ねん設立せつりつしたオール・アメリカン・レーサーズ(AAR)にやとわれることになった[16]

AARはアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくサンタアナカリフォルニアしゅう)を本拠地ほんきょちとする一方いっぽう、イギリスのライイースト・サセックス)にウェスレイク・エンジニアリングしゃ英語えいごばん設立せつりつして、F1ようVがた12気筒きとうエンジンの開発かいはつ目指めざしていた[16]。1965ねんなかばにチーフデザイナーとしてAARにはいったテリーは、2つの拠点きょてん工場こうじょう監督かんとくしつつ[注釈ちゅうしゃく 7]、F1と米国べいこくインディカー(USACチャンピオンシリーズ)の両方りょうほう対応たいおうできるシングルシーターの車両しゃりょう開発かいはつはじめた[16][17]

とはいえ、ガーニーはレースの賞金しょうきんがくおおきいインディカーのほうを本命ほんめいかんがえていたことから、テリーもインディカーにせて車両しゃりょう設計せっけいし、F1についてはその車両しゃりょう手直てなおしして対応たいおうする方針ほうしんとし[18]、まずインディ仕様しよう設計せっけいした[19]つづいてF1仕様しよう設計せっけいし、これが3リッターF1車両しゃりょうの「イーグル・Mk1」(T1G)としてさき完成かんせいすることになる[19]

イーグル・Mk1はテリーが設計せっけいしたインディ500優勝ゆうしょうしゃのロータス・38(前述ぜんじゅつ)をベースとして設計せっけいされたため、この2車両しゃりょう車体しゃたい基本きほん構成こうせい似通にかよったものになっている[17]結果けっか投入とうにゅうされた1966ねんシーズンほかのF1車両しゃりょうくらべると全幅ぜんぷくひろく、くるまじゅうおも[17]、テリーの設計せっけいにより完成かんせいした当初とうしょは、F1の規定きてい最低さいてい重量じゅうりょうを82 kgも超過ちょうかする[20][注釈ちゅうしゃく 8]、といった弊害へいがいしょうじた。インディカーとしても、燃料ねんりょうタンクをF1ようにコンパクトな設計せっけいとしたため、インディ500をたたかうには容量ようりょうちいささが不利ふりとなり[21]、ドライバーによっては燃料ねんりょうタンクの増設ぞうせつぞうそう)をおこなった。この車両しゃりょうには画期的かっきてきチタニウムせい排気はいきシステムが開発かいはつされ、その設計せっけいもテリーがおこなった[W 5]

テリーがイーグル・Mk1を完成かんせいさせるまでには入社にゅうしゃからすうげつほどの期間きかんしかかからなかったが、このころにはガーニーとは仕事しごとすすめるうえでの相性あいしょうわるさをかんじるようになり[注釈ちゅうしゃく 9]友人ゆうじんであるガーニーとの関係かんけいこわまえにテリーはAARをった[22][W 2]

AARから離脱りだつすることになったショックがいたことにより、テリーは1966ねん無為むいごすが、1967ねんはじめにエルヴァしゃのフランク・ニコルズからのさそいをけ、トランスアトランティック・オートモーティブ・コンサルタンツしゃ(TAC)を共同きょうどう設立せつりつして、委託いたくけて車両しゃりょう設計せっけい製造せいぞうおこな事業じぎょうはじめた[22]

同社どうしゃでは、シェルビー・アメリカン依頼いらいによりCan-Amよう車両しゃりょうシェルビー・キングコブラ英語えいごばん)をさい設計せっけいし、ブリティッシュ・レーシング・モータース(BRM)の依頼いらいにより、F1車両しゃりょうBRM・P126設計せっけいおこなった[22]

どちらのくるまるべき成果せいかはなく、ニコルズとの関係かんけい悪化あっかし、TACは1967ねんまつという設立せつりつから1ねんらずのうち解散かいさんした[22]

デザイン・オート

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ニコルズとたもとかったテリーは、独自どくじにデザイン・オートしゃ(Design Auto)をあらたにげ、TACのとき同様どうよう事業じぎょうはじめた[22]。このあいだにテリーが手掛てがけた仕事しごとうちおもだったものは下記かきとおり。

  • JWオートモーティヴ
1967ねんちゅうJWオートモーティヴ・エンジニアリングからの注文ちゅうもんけ、ミラージュ英語えいごばんせい車両しゃりょうガルフ・ミラージュ)のプロトタイプ依頼いらいされ、製造せいぞうした車両しゃりょう(ミラージュ・M2)をJWオートモーティブにわたした[22]
エンジンは当初とうしょはBRMせい搭載とうさいしていたが、1969ねんにはフォードコスワースせいかわそうすることになり、車体しゃたい後部こうぶおおきく変更へんこうし、クローズドボディだったM2をオープンボディ仕様しようとしたミラージュ・M3も製造せいぞうしている。
  • サーティース / ホンダF1
    ホンダ・RA301の1号車
    RA301の1号車ごうしゃ(RA301-801)[注釈ちゅうしゃく 10]
    ホンダ・RA301の2号車
    テリーが製造せいぞうした2号車ごうしゃ(RA301-802)[注釈ちゅうしゃく 11]外観がいかんでは、コクピットわき突出とっしゅつゆうするてんが1号車ごうしゃとの顕著けんちょ相違そういてんとなる[23]
1968ねんジョン・サーティースからF1車両しゃりょうであるホンダ・RA301複製ふくせい依頼いらいけた[26]。サーティースは、日本にっぽん本田技研工業ほんだぎけんこうぎょう(ホンダ)のF1参戦さんせんプロジェクト(ホンダF1だい1)にふか関与かんよしており、ホンダの中村なかむら良夫よしおみ、自身じしんチーム・サーティース中核ちゅうかくとして、イギリスでホンダ・レーシングを運営うんえいしていた。サーティースと中村なかむらは、前年ぜんねんローラ・カーズんでホンダ・RA300完成かんせいさせたが、ホンダがわ技術ぎじゅつてき独立どくりつせい確保かくほするため、つぎのRA301はチーム・サーティースで設計せっけいおこなっていた[27]。1号車ごうしゃ車体しゃたいは1968ねんはじめに完成かんせいしており、その2号車ごうしゃ製造せいぞうがテリーに依頼いらいされた[26]
依頼いらいは1号車ごうしゃ手本てほんとした「複製ふくせい」だったが、テリーにあたえられたのは1号車ごうしゃのラフレイアウトと5、6まい写真しゃしんのみで、テリーが手間てましんだため、実車じっしゃず、設計せっけいしゃであるデリック・ホワイトとのわせもしないまま製造せいぞうすすめられた[24][23][注釈ちゅうしゃく 12]。そのため、1号車ごうしゃとは構成こうせいがかなりことなっており[23]下記かきちがいがある。
  • 1号車ごうしゃ車体しゃたい(モノコック)がマグネシウム合金ごうきんせい、2号車ごうしゃアルミニウム合金ごうきんせい[23][注釈ちゅうしゃく 13]。このちがいにより、2号車ごうしゃのコクピットわきにはリブじょう突出とっしゅつがある[23]画像がぞう参照さんしょう)。
  • 2号車ごうしゃはリアサスペンションのロアアームをパラレルリンクしき変更へんこう[26][23]当時とうじ一般いっぱんてきだったぎゃくAアーム(1号車ごうしゃはこのかたち)ではなく、平行へいこうとうちょうの2ほんのIアームによって支持しじするかたちとした[26][23]。この変更へんこうは、1号車ごうしゃ完全かんぜんなコピーとすることをよしとしなかったテリーがくわえたもので、この変更へんこうによりサスペンション調整ちょうせい簡素かんそしている[23][注釈ちゅうしゃく 14]。しかし、2号車ごうしゃ完成かんせいにリアサスアームは1号車ごうしゃおなぎゃくAがたあらためられたため[23]、テリーによるこの変更へんこう存在そんざいした期間きかんみじかい。
  • 前部ぜんぶのアッパー/ダンパーユニットの支点してんなどを補強ほきょうした[23]。この変更へんこうのちに1号車ごうしゃにもれられている[23]
1号車ごうしゃはサーティースのレースカーとなっていたが、セカンドドライバーよう用意よういされた2号車ごうしゃはホンダがわ事情じじょうでエンジンの用意よういがシーズン最終さいしゅうばんまでととのわず[29]車体しゃたいはサーティースようのTカー(予備よび車両しゃりょう)としてあつかわれた[25][注釈ちゅうしゃく 15]。この2だい水温すいおん特性とくせいくるまじゅうにもちがいがあり、サーティースは1号車ごうしゃこのんだため、テリーが製造せいぞうした2号車ごうしゃがレースに出走しゅっそうしたのはヨアキム・ボニエされて出走しゅっそうした1968ねんシーズンの最終さいしゅうせんメキシコGPのみである[25]
  • サーティース / F5000
RA301の2号車ごうしゃわたしたのち、テリーはネーザン・レーシングからの依頼いらいでフォーミュラ5000車両しゃりょう設計せっけい製造せいぞうおこなっていたが、依頼いらいされた3だい完成かんせい間近まぢかとなった1968ねん9がつにネーザン・レーシングから依頼いらいをキャンセルされてしまう[26]おりよく、F5000車両しゃりょうしがっていたサーティースがそのことをり、車両しゃりょうをそっくりった[26]
サーティース・TS5英語えいごばん」と命名めいめいされたこの車両しゃりょうは、F5000レースでは無敵むてきつよさをほこり、テリーにはつづすうげつあいだうち追加ついかで4だい完成かんせいしゃ複数ふくすうのモノコックの製作せいさく依頼いらいんだ[26]
  • BMW / F2
サーティースにTS5をわたしたころBMWからフォーミュラ2(F2)車両しゃりょう設計せっけい依頼いらいされ、図面ずめんわたした[26]同社どうしゃは1969ねんにデビューし、成績せいせきわるくなかったのだが、製造せいぞうはドイツの航空機こうくうきメーカーのドルニエによっておこなわれ、モノコックとして設計せっけいした車体しゃたい無断むだんおおきな開口かいこう追加ついかされたじょう[30]開発かいはつテストの様子ようす不具合ふぐあいなどのレポートもられず、テリーにとっては不満ふまんのこ仕事しごととなり[26]、この経験けいけんにより、テリーは「レダ」の創設そうせつ決断けつだんした[31]
  • AAR / インディカー
1969ねん同年どうねんのインディ500英語えいごばん観戦かんせんしにったさい、ダン・ガーニーと偶然ぐうぜん再会さいかいし、(トニー・サウスゲート離脱りだつしたことでチーフデザイナーが不在ふざいだったため)インディカーの設計せっけい依頼いらいされ、着手ちゃくしゅした[31]
この車両しゃりょうイーグル・70英語えいごばん)はよく1970ねんのインディ500英語えいごばん投入とうにゅうされ、ガーニーが3獲得かくとくした。
レダ・LT27(マクレー・GM1)

自身じしんのデザイン・オートしゃでレーシングカーの設計せっけい依頼いらいけてっていくうち、テリーは、設計せっけい完成かんせいしゃわたしたり、製造せいぞうノウハウや製造せいぞう必要ひつようわたしたりしているだけでは「てる車両しゃりょう」の開発かいはつには不十分ふじゅうぶんで、その走行そうこうテストなどの結果けっかをフィードバックして熟成じゅくせいしていかないかぎり、てるくるまつくることはできないというかんがえにいたり、自身じしんのコンストラクターとして「レダ」(Leda)を創設そうせつした[31][注釈ちゅうしゃく 16]

最初さいしょ車両しゃりょうとしてF5000の開発かいはつはじめ、1970ねん2がつにレダ・マーク1が完成かんせいした[32]設計せっけいにあたり、テリーは前述ぜんじゅつしたサーティースに配慮はいりょし、サーティースに売却ばいきゃくしたF5000車両しゃりょうのTS5とはないよう心掛こころがけた[W 3]。レダのかんしたF5000車両しゃりょうは、目論見もくろみどおり、車体しゃたい初期しょきトラブルを解消かいしょうしつつ熟成じゅくせいすすめられていったものの、車体しゃたい起因きいんしないトラブルがつづけにきたことで最初さいしょの2ねんえない結果けっかわった[32]

4代目だいめとなる「LT26」は、F5000のトップクラスのドライバーであるグラハム・マクレー英語えいごばんによってられ、1972ねんはじめに開催かいさいされたタスマンシリーズ1972ねんシーズン英語えいごばん)を席巻せっけんする[32]。しかし、同年どうねん7がつ、テリーの共同きょうどう出資しゅっししゃ唐突とうとつにレース活動かつどう中止ちゅうし発表はっぴょうし、テリーにはなん相談そうだんもなくレダしゃ設備せつびや、保有ほゆうする図面ずめん部品ぶひんといった一切いっさいをマクレーに売却ばいきゃくしてしまった[32][33]。マクレーはF5000の強豪きょうごうしゃとなったLT26や、その後継こうけいしゃとしてテリーが設計せっけいしていたLT27をそのままつくつづけ、みずからのイニシアルから「GM1」と改名かいめいして販売はんばいするようになった[34]

この裏切うらぎりにより、1972ねんちゅうにテリーはデザイン・オートしゃ設備せつびうしなってしまい、設立せつりつした会社かいしゃ解散かいさんにあう。そのもいくつかの計画けいかくたずさわることはあったものの、1977ねんのF1シーズンよう設計せっけいしたBRM・P207失敗しっぱい評価ひょうかちたことなどもあって、レーシングカーの設計せっけいから引退いんたいした[34][W 2]

その

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レーシングカーの設計せっけいから引退いんたいしたのちメルセデス・ベンツ・SSKのレプリカや[W 3]、ヴィンテージバンのレプリカの製作せいさく販売はんばい仕事しごととした[W 4][W 1]。そうした仕事しごとを68さいとき(1992ねんごろ)に引退いんたいするまでつづけた[W 3]

1993ねんかる脳卒中のうそっちゅうこしたものの、その健康けんこうごし[W 1]、2014ねん死去しきょするまで、晩年ばんねんはクラシック・チーム・ロータスの活動かつどう(ロータスのふるいF1車両しゃりょう動態どうたい保存ほぞん)にも熱心ねっしん協力きょうりょくしていた[W 4]

作品さくひん

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車両しゃりょう

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テリーが設計せっけいした車両しゃりょうには番号ばんごう(テリヤー・ナンバー、"Terrier Number")がられている[35]。「13」をすうとしてけたため、「マーク13」は存在そんざいしない[24]。「23」以降いこうは、それまでの「テリヤー・マーク~」という表記ひょうきから「LT~」という表記ひょうき変更へんこうしている[36]

著書ちょしょ

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  • Racing Car Design and Development』(1973年刊ねんかん) - 自身じしん経歴けいれき設計せっけいした車両しゃりょう詳細しょうさいのほか、どう時代じだいほか設計せっけいしゃについてのひょういている。

エンジニアとしての特徴とくちょう

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わたしには、それを説明せつめいしても理解りかいできないとおもわれるひとたちにそれを説明せつめいするだけの忍耐にんたいりょくはありませんでした。[W 2]

—テリーによる述懐じゅっかい

直感ちょっかんてき感覚かんかくったエンジニアで、設計せっけいはやさでもられ、レーシングカーがきゅう必要ひつようになったさいにはたよりにされた[W 3]一方いっぽう率直そっちょくすぎる物言ものいいなどにより、他者たしゃ協調きょうちょうして作業さぎょうたることがむずかしいという、自他じたともにみとめるところの欠点けってんがあった[W 2]

テリーは車両しゃりょう設計せっけいについては定評ていひょうがあったものの、完成かんせいした車両しゃりょう開発かいはつ熟成じゅくせいしていくというプロセスには関心かんしんがなかった[W 2]。そのため、チームに所属しょぞくして設計せっけいした車両しゃりょうでも、結果けっかころにはたいていチームを離脱りだつしたのちであり、成功せいこうすればチームのちからによるものとされ、失敗しっぱいした場合ばあいにはテリーが批判ひはんされるということになりがちだった[W 2]

そらりょく設計せっけいかんたよってっていたが、そうして設計せっけいした車両しゃりょうそらりょく目論見もくろみどおりに機能きのうさせることができていたという[W 3]

ロータス時代じだいコーリン・チャップマン個人こじんとの相性あいしょうわるかったものの、車両しゃりょう開発かいはつにおいてはうまく協力きょうりょくし、テリーはチャップマンに意見いけんれさせることのできる数少かずすくない人物じんぶつ一人ひとりでもあった[40][W 2]

テリーは、自身じしんのことは、「夢想むそうがた[40]のチャップマンと、その対極たいきょく位置いちづけられる「実用じつよう設計せっけいがた[41]ロン・トーラナックとの中間ちゅうかんで、「じゅんデザイナーでもなく、そうかといってじゅん開発かいはつでもないぬえてき中途半端ちゅうとはんぱ性格せいかく」だとひょうしている[42]

脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ こののちでテリーをやとうロータスのコーリン・チャップマンは750モータークラブの中心ちゅうしん人物じんぶつ。なお、テリーには「レース専用せんようしゃ」をつような資金しきんてき余裕よゆうなどなく、テリヤー・マーク1はこののちのロータスしゃへの通勤つうきんなど、自家用車じかようしゃとしても使つかわれた。
  2. ^ この時期じきったブライアン・ハートの依頼いらいによるもので、ハートは400~500ポンドという当時とうじのクラブレースでは大金たいきんえるがく開発かいはつ予算よさんとして提示ていじしたため、テリーは、市販しはんしゃ改造かいぞうしただけのマーク1とはことなり、マーク2をレース専用せんよう車両しゃりょうとして新規しんき設計せっけいすることが可能かのうになった[4]製作せいさく作業さぎょうには依頼いらいしゃのハートも協力きょうりょくし、エンジンのチューニングはハートがおこなった[5]
  3. ^ 主因しゅいんとして、テリーが指示しじ無視むししたからというわけではなく、ル・マン24あいだレース主催しゅさいしていたフランス西部せいぶ自動車じどうしゃクラブ(ACO)が、チャップマンのロータス・23の性能せいのうたかさを警戒けいかいして車両しゃりょう規則きそく改正かいせいしてしをはかったことの影響えいきょうけた[8]。テリーが設計せっけいした車両しゃりょう同様どうよう箇所かしょ違反いはんがあったため、出走しゅっそうさせることが不可能ふかのうとなった[8]。テリー本人ほんにんにはこの経緯けいいがきちんとつたわっていなかったようで、アルピーヌが車両しゃりょう規則きそくわせて独自どくじ開発かいはつした「M63フランス語ふらんすごばん」について、テリーは自著じちょなかで「(アルピーヌが)設計せっけい勝手かって変更へんこうしてしまった」といている[9]
  4. ^ のこり20しゅう時点じてんでレースをリードしていたパーネリ・ジョーンズ英語えいごばん車両しゃりょうがオイルれをこし、後方こうほうではそのオイルが原因げんいんかんがえられる事故じこ発生はっせいし、レースは最終さいしゅうばん一時いちじ中断ちゅうだんされた[W 3]。レース主催しゅさいしゃはジョーンズを失格しっかくとすることも検討けんとうしたが、なん処分しょぶんさずにレースを再開さいかいさせ、ジョーンズがトップでゴールした[W 3]
  5. ^ それまでのロータスではロータス・25導入どうにゅうされたバスタブしきモノコックが踏襲とうしゅうされもちいられていた[W 2]。テリーは、チャップマンがタスマンシリーズのために4ヶ月かげつほど留守るすにしていたあいだにロータス・38を完成かんせいさせ、車体しゃたい設計せっけいまったえてしまったことは帰国きこくしたチャップマンをおどろかせることになる[W 2]
  6. ^ なお、「容易よういだとかんがえた」のはテリーではなく、ダン・ガーニーで、1962ねんオランダグランプリロータス・25たガーニーがその先進せんしんせいおどろき、チャップマンにインディ500への参戦さんせんすすめたことが、ロータスのインディ500参戦さんせん端緒たんしょとなった[15]
  7. ^ AARの車両しゃりょうすべてサンタアナで製造せいぞうされたが、ウェスレイクが所在しょざいするライにもF1よう車両しゃりょう整備せいびする施設しせつかれた[W 5]
  8. ^ 重量じゅうりょうについては、ホンダ・RA273や、H16エンジンんだBRM・P83英語えいごばんといったよりおも車両しゃりょう参戦さんせんしており、それらと比較ひかくすればまだかるかった[17]。テリーの離脱りだつに、AARはマグネシウム合金ごうきんせいのモノコックを導入どうにゅうするなどして軽量けいりょう実現じつげんした[20]
  9. ^ チャップマンのときことなり、人間にんげん関係かんけいには問題もんだいなかったものの、このころのテリーは設計せっけい開発かいはつ熟成じゅくせいといった作業さぎょうには関心かんしんがなく、そうしたテリーの不足ふそくした部分ぶぶんを、ガーニーとAARには(これもまたチャップマンとことなり)めることができそうもなかったため[W 2]、いずれ破綻はたんするとテリーはかんがえた。
  10. ^ チーム・サーティースのデリック・ホワイト設計せっけいし、車体しゃたいパーツはイギリスのサーティース(ホンダ・レーシング)とローラで製造せいぞうされ、最終さいしゅう組立くみたて日本にっぽん本田ほんだ技術ぎじゅつ研究所けんきゅうじょおこなわれた[23]
  11. ^ 車体しゃたいパーツをテリーのデザイン・オートしゃ製造せいぞうし、最終さいしゅう組立くみたてはイギリスのサーティース(ホンダ・レーシング)でおこなわれた[24][23]。この車両しゃりょうはホンダ・だい1終了しゅうりょうはサーティースのショールームでしばらく展示てんじされ、その日本にっぽん自動車じどうしゃコレクターのはやしりょういたりガレーヂ伊太利屋いたりや創業そうぎょうしゃとしてられる)が保有ほゆうしていたが[25]現在げんざいホンダコレクションホール所蔵しょぞうひんとなっている。
  12. ^ テリーが希望きぼうすれば実車じっしゃることもホワイトに構造こうぞうなどをおそわることも可能かのうだったのだが、テリーの事務所じむしょからサーティースのファクトリーまでは160 kmほどあり、往復おうふく4あいだほどかかるため、テリーは「時間じかんがもったいないし面倒めんどうくさくもあり」そうした機会きかい使つかわずに製造せいぞうした[24]
  13. ^ 1号車ごうしゃのボディを製造せいぞうしたローラがっていた高価こうかアルゴン溶接ようせつを、デザイン・オートしゃっていなかったため、1号車ごうしゃもちいていた鋼板こうはんブラケットるい製作せいさくできなかったことから、ちがいがしょうじた[24][23]。ブラケットばんかたが1号車ごうしゃことなるため、モノコック本体ほんたい設計せっけいにも多少たしょうちがいがしょうじた[24]
  14. ^ テリーはパラレルリンクしきサスペンションを以前いぜんからのカテゴリーの車両しゃりょうもちいていたが、のコンストラクターをふくめても、F1でこの方式ほうしき採用さいようしたのはRA301-2号車ごうしゃはつれいにあたる[26][23]翌年よくねんマトラ追従ついしょうし、のちおおくのコンストラクターがこの方式ほうしき採用さいようするようになる[28][23]
  15. ^ 9月のだい9せんイタリアGPはじめてはこまれ、その最終さいしゅうせんだい12せんメキシコGPまでの4レースでTカーとしてあつかわれた[25]
  16. ^ この名称めいしょうはAARを成功せいこうさせていたダン・ガーニーにあやかったもので、「Len」と「Dan」に由来ゆらいする[W 3]
  17. ^ フォーミュラ・リブレとして設計せっけいしたもので、4.7リッターのフォード・Vがた8気筒きとうエンジンを搭載とうさいしたフォーミュラカー[38]フォーミュラ5000創設そうせつされる以前いぜん車両しゃりょうであり、このクラスのエンジンを搭載とうさいした車両しゃりょうとしては、世界せかいはつのシングルシーターにあたる[14]。ロータスに復帰ふっきした直後ちょくご時期じき依頼いらいけて設計せっけいしたもので、テリーはチャップマンと専属せんぞく契約けいやくむすんだばかりだったため、この車両しゃりょうは、ロータスの製図せいずだったマーティン・ウェイド(Martin Wade)を名目めいもくじょうのチーフデザイナーにえた[38]
  18. ^ 部品ぶひんすべてロータスの既製きせいひんであるため、テリヤー・ナンバーはられていない[14]

出典しゅってん

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出版しゅっぱんぶつ
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ウェブサイト
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参考さんこう資料しりょう

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書籍しょせき
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    • 中村なかむら良夫よしお『F-1グランプリ ──ホンダF-1とともに 1963~1968── 愛蔵あいぞうばん三樹みき書房しょぼう、1998ねん10がつASIN 4895222330ISBN 978-4895222334NCID BA45272539 
  • 中村なかむら良夫よしお神田かんだしげる、CAR GRAPHIC『HONDA F1 1964-1968』二玄社にげんしゃ、1984ねん7がつ30にちASIN B000J73UYWNCID BN04381353 
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雑誌ざっし / ムック
  • 『オートスポーツ』(NCID AA11437582
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