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サム・マイケル

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サム・マイケル

Sam Michael
生誕せいたん Samuel David Michael
(1971-04-29) 1971ねん4がつ29にち(53さい
西にしオーストラリア
国籍こくせき オーストラリア
業績ぎょうせき
専門せんもん分野ぶんや モータースポーツ エンジニア
モータースポーツ デザイナー
勤務きんむさき (1993-) チーム・ロータス
(1994-) ジョーダン・グランプリ
(2001-) ウィリアムズF1
(2011-) マクラーレン

サム・マイケルSam Michael1971ねん4がつ29にち - )はオーストラリア出身しゅっしんレーシングカーエンジニアF1ウィリアムズチームテクニカルディレクターマクラーレンのスポーティングディレクターをつとめた。現在げんざいスーパーカーチームのトリプル エイト レース エンジニアリングに所属しょぞく

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西にしオーストラリアしゅうまれ、キャンベラそだった[1]。ニール・ベイツのトヨタ セリカ GT-Fourラリーカーに短期間たんきかんんだのちニューサウスウェールズ大学だいがく機械きかい工学こうがくまなび、このあいだに、レーシングカーのデータ取得しゅとくシステムにかんする論文ろんぶんあらわした。

レースファンだった学生がくせい時代じだいのマイケルは、研究けんきゅうつかえることなくできることを条件じょうけんに、レース関係かんけいのアルバイトをさがしていた。あるとき、オーストリア国内こくないのレースカテゴリー、フォーミュラ・ホールデンのチームオーナー、グレッグ・シドル(Gregg Siddle )に求職きゅうしょく手紙てがみしたところ、グレッグ・シドルがこれをみとめたため、平日へいじつ大学だいがく勉強べんきょうをし、週末しゅうまつはシドルのチームではたらくという学生がくせい生活せいかつおくった[2][3]

F1での経歴けいれき[編集へんしゅう]

ロータス時代じだい[編集へんしゅう]

グレッグ・シドルは1970年代ねんだいから1980年代ねんだいはじめにかけて、ヨーロッパでネルソン・ピケロベルト・モレノなどのマネージメントをしていたことがあってかおひろ人物じんぶつであり、ロータス監督かんとくであったピーター・コリンズとのあいだ仲介ちゅうかいした。1993ねん、マイケルは大学だいがく卒業そつぎょう同時どうじにロータスでのしょくて、オーストラリアをのちにした。22さいときである。

ロータスにおいてはピーター・ライトもとで、データ収集しゅうしゅうやそれにもとづくレースシミュレーションなどをおこなった。1994ねんにロータスが破産はさんして消滅しょうめつすると、ジョーダンうつった。

ジョーダン時代ときよ[編集へんしゅう]

マイケルはジョーダンで頭角とうかくあらわし、チームの研究けんきゅう開発かいはつ部門ぶもん構築こうちく寄与きよして、以後いごのチームの発展はってんすくなからぬ貢献こうけんをすることとなる。開発かいはつファクトリーに勤務きんむしてデータ収集しゅうしゅう方法ほうほうについて模索もさくし、1996ねんにはサスペンションのうごきをシミュレートするセブンポスト・リグの設置せっちになったほか、車体しゃたい駆動くどうけいのアクティブデフの設計せっけいがけた[2]

1997ねんにはファクトリーをはなれてテストチームと行動こうどうをともにし、1998ねんにはラルフ・シューマッハ担当たんとうのレースエンジニアとなり、ラルフがウィリアムズへと移籍いせきしたのにともない、よく1999ねんハインツ=ハラルト・フレンツェン担当たんとうした。フレンツェンとのコンビはうまく機能きのうし、フランスGPイタリアGPでフレンツェンが優勝ゆうしょうし、ドライバーズタイトルあらそいにもからむなど、おおきな結果けっかむくわれた[1]

ウィリアムズ時代じだい[編集へんしゅう]

2001ねんフランク・ウイリアムズはマイケルを、シニア・オペレーションエンジニアとしてウィリアムズチームにむかれ、レースとテストの管理かんり統括とうかつする責任せきにんしゃとなる。

2004ねん5がつどうチームにおいて長年ながねんにわたってテクニカルディレクターの地位ちいにあったパトリック・ヘッドがその退しりぞいたため、マイケルはウィリアムズのテクニカルディレクターをぐこととなり、33さい名門めいもんウィリアムズチームの技術ぎじゅつ部門ぶもんのトップにった[2]開発かいはつ部門ぶもんからレース戦略せんりゃくいたるまでのすべてを統括とうかつすることとなったが、リソーセスの分散ぶんさんによる弊害へいがい顕著けんちょとなりチームの成績せいせき低迷ていめいしたことから、2007ねんにはルノーフェルナンド・アロンソのレースエンジニアをつとめていたロッド・ネルソンいてチーフ・オペレーション・エンジニアのしょくにつけ、レースチームにおける負担ふたん軽減けいげんするとともに、より開発かいはつ部門ぶもん職務しょくむ集中しゅうちゅうできる体制たいせい構築こうちくされた。

しかし、そのもチームの成績せいせき低迷ていめいつづき、2011ねん5がつ同年どうねんまつをもってテクニカルディレクターを辞任じにんすることが発表はっぴょうされた[4]

マクラーレン時代じだい[編集へんしゅう]

その、スポーティングディレクターとして2012ねんよりマクラーレン移籍いせきすることがまった[5][6]

しかしマクラーレンも不振ふしんつづき、2014ねんまつにマクラーレンを退職たいしょく[7]退職たいしょく家族かぞくとともにオーストラリアに帰国きこくした[8]

帰国きこく[編集へんしゅう]

帰国きこくはオーストラリア・モータースポーツ安全あんぜん協会きょうかい加入かにゅう[9]

2017ねん国際こくさい自動車じどうしゃ連盟れんめい(FIA)シングルシーター委員いいんかい委員いいんとなる[10]。2022ねん2がつパトリック・ヘッドのちいでFIA安全あんぜん委員いいんかい委員いいんちょう就任しゅうにんした[11][12]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ a b People: Sam Michael”. Grandprix.com. 2014ねん10がつ6にち閲覧えつらん
  2. ^ a b c Sam Michael - Technical Director”. WilliamsF1. 2009ねん4がつ21にち時点じてんオリジナルよりアーカイブ。2016ねん1がつ8にち閲覧えつらん
  3. ^ “Sam Michael deal a feather in cap for Supercars”. Speedcafe. (2016ねん11月2にち). http://www.speedcafe.com/2016/11/02/sam-michael-deal-feather-cap-supercars/ 
  4. ^ ウィリアムズ、サム・マイケルのテクニカルディレクター辞任じにん発表はっぴょう - F1-Gate.com 2011ねん5がつ3にち
  5. ^ Sam Michael to become McLaren sporting director after Williams exit”. BBC Sport. 2011ねん9がつ13にち閲覧えつらん
  6. ^ McLaren Mercedes hires Sam Michael as Sporting Director” (2011ねん9がつ29にち). 2022ねん9がつ15にち閲覧えつらん
  7. ^ サム・マイケルがマクラーレンを離脱りだつ - オートスポーツ・2014ねん10がつ22にち
  8. ^ McLaren's Sam Michael set to leave F1 team at end of 2014”. BBC News (2014ねん10がつ22にち). 2022ねん9がつ15にち閲覧えつらん
  9. ^ Sam Michael joins Australian racing safety board”. motorsport.com (2016ねん8がつ25にち). 2022ねん9がつ15にち閲覧えつらん
  10. ^ サム・マイケル、FIA安全あんぜん委員いいんかい委員いいんちょう就任しゅうにん”. AUTO SPORT web (2022ねん2がつ8にち). 2022ねん9がつ20日はつか閲覧えつらん
  11. ^ Sam Michael joins Triple Eight”. www.motorsport.com (2016ねん11月1にち). 2022ねん9がつ15にち閲覧えつらん
  12. ^ “Ludo Lacroix set to leave Triple Eight”. Speedcafe. (2016ねん11月1にち). http://www.speedcafe.com/2016/11/01/ludo-lacroix-set-leave-triple-eight/