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マイケル・アンドレッティ

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
マイケル・マリオ・アンドレッティ
Michael Andretti
2017ねん インディ500にて
基本きほん情報じょうほう
国籍こくせき アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく
生年月日せいねんがっぴ (1962-10-05) 1962ねん10月5にち(61さい
出身しゅっしん ペンシルベニアしゅうベスレヘム
親族しんぞく
デビュー 1983
所属しょぞく アンドレッティ・オートスポーツ
インディカー・シリーズでの経歴けいれき
過去かこ所属しょぞく
出走しゅっそう回数かいすう 317
優勝ゆうしょう回数かいすう 42
ポールポジション 32
シリーズ最高さいこう順位じゅんい 1 (1991)
過去かこ参加さんかシリーズ
1983-1992
1993
1994-2002
CARTインディカー・ワールド・シリーズ
フォーミュラ1
CARTインディカー・ワールド・シリーズ
選手権せんしゅけんタイトル
1991 1
受賞じゅしょう
1991 CARTインディカー・ワールド・シリーズチャンピオン
マイケル・アンドレッティ
基本きほん情報じょうほう
フルネーム マイケル・マリオ・アンドレッティ
国籍こくせき アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく
出身しゅっしん ペンシルベニアしゅうベスレヘム
生年月日せいねんがっぴ (1962-10-05) 1962ねん10月5にち(61さい
F1での経歴けいれき
活動かつどう時期じき 1993
過去かこ所属しょぞくチーム '93 マクラーレン
出走しゅっそう回数かいすう 13
タイトル 0
優勝ゆうしょう回数かいすう 0
表彰台ひょうしょうだい(3以内いない)回数かいすう 1
通算つうさん獲得かくとくポイント 7
ポールポジション 0
ファステストラップ 0
最終さいしゅうせん 1993ねんイタリアGP
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マイケル・マリオ・アンドレッティMichael Mario Andretti1962ねん10月5にち - )はアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくペンシルベニアしゅうベスレヘム出身しゅっしんもとレーシングドライバー。1991ねんCARTチャンピオン。

ちちF1インディカー・ワールドシリーズもとチャンピオンで1969ねんインディ500優勝ゆうしょうしゃマリオ・アンドレッティ息子むすこマルコ従兄弟いとこジョンアダム現役げんえきのレーシングドライバー、叔父おじアルド末弟ばっていジェフもとレーシングドライバーである。

2020ねん現在げんざいインディカー・シリーズ参戦さんせんしている、アンドレッティ・オートスポーツオーナー。

経歴けいれき

[編集へんしゅう]

1981ねんきたアメリカ・フォーミュラ・フォード、1982ねんきたアメリカ・フォーミュラ・スーパー・veeでチャンピオンを獲得かくとく。1983ねんきたアメリカ・フォーミュラ・アトランティックでチャンピオンを獲得かくとくし、また2度目どめ参戦さんせんとなったル・マン24あいだレースでは、ちちマリオ、フィリップ・アリオーんで総合そうごう3はいっている。順調じゅんちょうにキャリアをかさね、同年どうねん終盤しゅうばんにはCARTへの参戦さんせん開始かいしよく1984ねんより本格ほんかく参戦さんせんとなりこのとし最高さいこう3、1985ねん最高さいこう2順位じゅんい上昇じょうしょうさせていった。

1986ねんに、はつ優勝ゆうしょうふくめ3しょうげランキング2むと(PPも3かい記録きろく)、1987ねんにも4しょう・2PPでランキング2はいひとし、ほぼ毎年まいとし優勝ゆうしょう・PPを記録きろくしランキング上位じょういかおすようになる。ただし1988ねん勝利しょうりでランキング6わった(PPは1かいマークし、選手権せんしゅけんでは勝利しょうり記録きろく)。

CART時代じだい(1991ねん

1989ねんよりニューマン・ハースに所属しょぞく移籍いせき初年度しょねんどに2しょう・2PPでランキング3、2ねんの1990ねんに5しょう・4PPでランキング2となり、1991ねんには8しょう・8PPで念願ねんがんのシリーズチャンピオンにかがやく。1992ねんも1しょう・3PPでランキング2となり、アメリカにおいて、もっと成功せいこうおさめたレーサーとしての地位ちいきずいた。

F1参戦さんせん

[編集へんしゅう]
マイケルが1993ねんF1でドライブしたマクラーレン・MP4/8

ちちのF1時代じだいにGPに同行どうこうしていたマイケルは、アメリカじんながら元々もともとF1で成功せいこうすることをゆめとしていた。1991ねんあきフェラーリがチーム批判ひはんかえしたアラン・プロスト解雇かいこしたときにはプロストの後任こうにんとしてフェラーリでF1に転向てんこうするのではないかと話題わだいになり[1]、1991ねん・1992ねんマクラーレン・ホンダのテストに参加さんかしたのち、1993ねんにマクラーレンとほん契約けいやくむすび、F1参戦さんせん実現じつげんした。ただし、アンドレッティいわ[2]、1992ねんのフェラーリりは交渉こうしょうすす大詰おおづめをむかえていたのだが、ニューマン・ハースがわがその契約けいやくみとめず破棄はきしたため、実現じつげんしなかったとしている。紆余曲折うよきょくせつあり、CARTチャンピオン経験けいけんしゃとしてF1参戦さんせんすることになったマイケルは、契約けいやくに「プロストやアイルトン・セナにも自信じしんがある」と強気つよきなコメントをはっし、F1でも成功せいこうできる自信じしんしめしていた。

しかし、むかえた開幕かいまくせんみなみアフリカGPではスタートでエンストし、そのデレック・ワーウィック接触せっしょくし4しゅうリタイア。だい2せんブラジルGPでは、デビュー2せんながら予選よせん5番手ばんて獲得かくとくするも、決勝けっしょうはスタート直後ちょくごの1コーナーで、ゲルハルト・ベルガーんでちゅう派手はでなクラッシュをこし0しゅうリタイア。そしてだい3せんヨーロッパGPでも、オープニング・ラップでカール・ヴェンドリンガー接触せっしょくし、0しゅうリタイア。開幕かいまくまえ注目ちゅうもく期待きたいおおきかったマイケルだが、チームメイトのセナとの予選よせんでのタイムや、3せん終了しゅうりょうした時点じてんすべ接触せっしょくリタイア(セナは2しょう・21かい)でぜん周回しゅうかいわせても4しゅうらずという状況じょうきょう期待きたいこえ急速きゅうそくうすまっていった。

だい4せんサンマリノGPではようやくまともに周回しゅうかいかさね、一時いちじ5まで上昇じょうしょうしたが、結局けっきょく32しゅう単独たんどくスピンをきっし4せん連続れんぞくリタイアにわった。だい5せんスペインGPで5はいりF1はつ入賞にゅうしょう、そのしばらくは完走かんそうつづけ、だい8せんフランスGPでは6はいり2度目どめ入賞にゅうしょうとなった。

しかしだい9せんイギリスGPでは、スタート直後ちょくごジャン・アレジ接触せっしょくしてスピンをきっし0しゅうリタイア。そのだい10せんドイツGPでは、5しゅう接触せっしょく事故じこでリタイア、だい11せんハンガリーGPではスロットルトラブルによりリタイア(マシントラブルによるリタイアはこれのみ)と3せん連続れんぞくリタイアをきっした。

だい12せんベルギーGPは入賞にゅうしょう圏外けんがいの8完走かんそうつづだい13せんイタリアGPでようやく3表彰台ひょうしょうだい獲得かくとくするが、直後ちょくごにシーズンののこり3せんのこしてマクラーレンとの契約けいやく双方そうほう合意ごういうえ解除かいじょした。マイケルが翌年よくねんからのアメリカ復帰ふっき希望きぼうし、アメリカでCART有力ゆうりょくチームとの交渉こうしょう優先ゆうせんするために契約けいやく解除かいじょもうれ、ロン・デニスがこれにおうじたものであった。結局けっきょく1もトップはおろか、マイケルとセナがとも完走かんそうしたレースでは、セナとも同一どういつ周回しゅうかいでフィニッシュしたことはかった。

アメリカ復帰ふっき

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1994ねんにアメリカへもどると、以後いご毎年まいとし勝利しょうり記録きろくし、ふたたびCARTのトップドライバーとして活躍かつやくいきなが活躍かつやくから、「ミスターCART」とばれるようになっていった。

2003ねんには、みずからのチームアンドレッティ・グリーン・レーシング (AGR) をチーム・グリーンとジョイントするかたち結成けっせいインディカー・シリーズ転向てんこうしたが、シーズン途中とちゅうでドライバーぎょう引退いんたいし、チームオーナーぎょう専念せんねんするようになった。

しかし、2006ねんインディ500には「カーナンバー"1"」をけ(IRLではチャンピオン自身じしんにではなく、チャンピオンを輩出はいしゅつしたチームに1をつける権利けんりがある)参戦さんせんし、久々ひさびさのレースながら3獲得かくとく息子むすこマルコ参戦さんせんし2となっており、レースでは親子おやこ対決たいけつられた。またどうレースにおいては、ビル・ブコビッチ同様どうよう、3だいわたっての参戦さんせんとなった。

2007ねんのインディ500、プラクティス。マイケル(みぎ)とマルコひだり

そのチームはチップ・ガナッシ・レーシングチーム・ペンスキーの2きょう有力ゆうりょくチームに成長せいちょう、2007ねんダリオ・フランキッティ、2012ねんライアン・ハンター=レイがこのチームでシリーズチャンピオンを獲得かくとくした。

補足ほそく

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F1とインディ(CART)との比較ひかく論争ろんそう

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1993ねん自身じしんかがやかしいアメリカでのキャリアにくらべて、F1でおもうような成績せいせきおさめられなかったことと、同年どうねんわるかたちでF1からCARTに転向てんこうしたナイジェル・マンセルがCART初年度しょねんど初戦しょせんでポールtoウィン達成たっせい、そして見事みごとにそのとしのCARTシリーズチャンピオンを獲得かくとくしたことにより、F1とCARTのドライバーのレベル論争ろんそうまととなった。

F1で採用さいようされているスタンディングスタート不慣ふなれであったことは、開幕かいまくから3せんそう周回しゅうかいすう4しゅうらずという結果けっかかられる。マンセルもCARTのローリングスタートにはいており、レーススタートやリスタートで順位じゅんいとすことがおおかった。インディ500でも最後さいごフルコースコーションでリスタートを失敗しっぱいし、順位じゅんいを1から3までとしたことが優勝ゆうしょうのがした理由りゆうとしておおきい[3]

アンドレッティ以外いがいのケースでは、ジャック・ヴィルヌーヴがCARTチャンピオン獲得かくとくにF1でもチャンピオンを獲得かくとくしたが、アレックス・ザナルディはCARTを席巻せっけんしチャンピオン獲得かくとくF1に復帰ふっきするもののまった結果けっかのこせなかった。ファン・パブロ・モントーヤは1999ねんにCARTチャンピオンとなりF1に転向てんこう初年度しょねんどからF1でも活躍かつやくしトップクラスのドライバーとして評価ひょうかている。 2008ねんにはCART後継こうけいシリーズのチャンプカーで4ねん連続れんぞくチャンピオンの金字塔きんじとう樹立じゅりつしたセバスチャン・ボーデスクーデリア・トロ・ロッソからF1に参戦さんせん注目ちゅうもくあつめたが成績せいせき不振ふしんで2009ねんだい9せんドイツGPを最後さいご解雇かいこされている。ただし、以上いじょうの4にん元々もともとヨーロッパでのレースからアメリカのレースへ転身てんしんした経緯けいいがあり(ヴィルヌーヴはヨーロッパとおなじロードコースメインの全日本ぜんにほんF3、ザナルディはF1経験けいけんしゃ)、アメリカのレースをメインにしていたマイケルとは事情じじょうことなる。

アンドレッティが期待きたい裏腹うらはら成績せいせきわった理由りゆうは、「アメリカのオープンな雰囲気ふんいきとF1の閉鎖へいさてき雰囲気ふんいきちがいに馴染なじめなかったてん」「欧州おうしゅう拠点きょてんかずレースごとにアメリカからサーキットへはい生活せいかつつづけたことから、なかなかおもとおりの成績せいせきおさめることができなかったてん」「当時とうじのF1マシンはサイドプロテクターがく、かたまで露出ろしゅつするコックピットに恐怖きょうふおぼえていたてん」があげられることがおおい。

しかし後年こうねん息子むすこであるマルコ・アンドレッティは、「当時とうじ将来しょうらい有望ゆうぼう手頃てごろなテストドライバーであったミカ・ハッキネンちちうしろでひかえていたため、マクラーレンが故意こいにアンドレッティをわるられるような作業さぎょうをした。セナさえも不憫ふびんおもい、自身じしんのスペアカーをレースカーに提供ていきょうしたいとチームに進言しんげんしたほどだった」と発言はつげんし、マクラーレンチームを糾弾きゅうだんしている。真偽しんぎのほどはさだかではないが、マクラーレンはこの発言はつげんたいし、公式こうしき回答かいとうはしていない。そもそも、シーズンまえはハッキネンとアンドレッティのコンビとなる予定よていだったが、開幕かいまく直前ちょくぜんにセナがチームに残留ざんりゅうすることを決意けついし、その結果けっか、ハッキネンがテストドライバーに降格こうかくし、セナとアンドレッティのコンビになったという経緯けいいがある。そのうえ、当時とうじのチームリーダーのロン・デニスは、セナをおりのドライバーとしてあつかっており、ロータスから移籍いせきしたハッキネンに期待きたいをかけていた。そのため、デニスおよびチームが残留ざんりゅうしたセナを優遇ゆうぐうし、ハッキネンをはやくデビューさせたいとかんがえ、アンドレッティを冷遇れいぐうした可能かのうせいはある[4]げんにアンドレッティ[5]も、チームの雰囲気ふんいきがセナ・ハッキネンのコンビになるよう自身じしん圧力あつりょくをかけていたとしており、チームないでの神経しんけいせんがあったことはいなめない。

ただ、チームメイトがセナだったことがマイナスにはたらいた可能かのうせいはある。もともと、セナは神経質しんけいしつ内向ないこうてき性格せいかくわれており、当人とうにんはそこまでわる関係かんけいではなかったとしたものの、デニスもセナは人間にんげん関係かんけいきずくことがむずかしい人物じんぶつであったとコメント[6]。ハッキネンもテストドライバーのあいだおだやかな関係かんけいであったが、チームメイトになった途端とたんかれ態度たいどつめたいものになったことにはおどろいたが、ポルトガルGPでセナを上回うわまわったことでセナの態度たいどえる結果けっかとなったとコメント[7]している。 ほかにも、当時とうじのチーム幹部かんぶマーティン・ウィットマーシュ後年こうねんのインタビュー[8]によれば、かれ起用きよう商業しょうぎょうてきめん(エンジン供給きょうきゅうさきのフォードがアメリカじんのアンドレッティ起用きよう要求ようきゅうしたことや、アメリカでのF1の不人気ふにんき懸念けねんしたバーニー・エクレストンはじめとするFIAがわからのはたらきかけがあったとされる)やデニスの独断どくだんというめんがあり、自身じしんではなかった。そのうえ、セナがチームメイトにたい冷徹れいてついちめんせることがあったてんから、そのてんかんしてはアンドレッティにたい同情どうじょうしている。ただし、欧州おうしゅう拠点きょてんつくらない生活せいかつをしていたことについては批判ひはんしており、かれ実力じつりょくみとめつつもチームメイトとしては力不足ちからぶそくであったとかんがえている。

ただし、マシンの戦闘せんとうりょくくるしんだめんはある。F1が当時とうじから現在げんざいいたるまでチームごとに独自どくじのシャシーかつハンドメイドにちかく、チームの状況じょうきょうにより成績せいせきおよびマシンの戦闘せんとうりょく左右さゆうされることがたりまえであった。それにたいし、当時とうじのCARTはレイナード、ローラのしゃ競技きょうぎよう生産せいさんした量産りょうさんひんちかく、チームやマシンよりドライバーのうで成績せいせき左右さゆうされるのが基本きほんであった。実際じっさい、アンドレッティがマクラーレンのテストに参加さんかした1991ねんと1992ねん参戦さんせんした1993ねんのマシンの性能せいのうはそれぞれことなっており、マシンの特性とくせい把握はあくできなかった可能かのうせいはある。また、マンセルやヴィルヌーヴが当時とうじ最強さいきょう戦闘せんとうりょく発揮はっきしていたとしのウィリアムズでドライブできたのにたいし、ザナルディとボーデは、所属しょぞくチームにとって不遇ふぐう時代じだいであり、マシンの戦闘せんとうりょくひく時期じき参戦さんせんしためんもある[9]実際じっさい本人ほんにんもテストやフリー走行そうこう経験けいけん本番ほんばんかせなかったことはみとめている。

アメリカじんF1ドライバー

[編集へんしゅう]

アメリカにはCARTやインディカー・シリーズ、NASCARなどの国内こくないカテゴリーがさかんなことや、前者ぜんしゃくらべアメリカ国内こくないでのF1の人気にんきひくいこともあり、F1ドライバーがおお輩出はいしゅつされない。ちちマリオがF1を引退いんたいして以降いこう、アメリカじんのF1参戦さんせんしゃエディ・チーバーダニー・サリバン、マイケル、スコット・スピードアレクサンダー・ロッシローガン・サージェントの6にんしかいない。

私生活しせいかつ

[編集へんしゅう]

アンドレッティは1985ねん11月から1996ねんまでサンドラ・スピノッツィと結婚けっこんしていた。かれらのあいだにはマルコ(1987ねん3がつ13にち - )という息子むすことマリッサ(1990ねん10がつ31にち - )というむすめまれた。1997ねん12月24にちにレスリー・ウッドと再婚さいこん、ルッカ(1999ねん9がつ16にち - )という息子むすこまれている。2004ねん9がつ7にちにレスリーとの離婚りこん申請しんせいやく2ねんの2006ねん7がつ15にち、1994ねんミス・ティーンUSAオレゴンしゅう代表だいひょうでモデル・女優じょゆう、2000ねんPLAYBOYプレイメイト・オブ・ザ・イヤーでもあるジョディ・アン・パターソンとの婚約こんやく発表はっぴょう2人ふたりは2006ねん10がつ7にちカリフォルニアしゅうナパのアンドレッティ・ワイナリーで結婚けっこん[10]

ファミリー

[編集へんしゅう]

マイケルの出自しゅつじであるアンドレッティ著名ちょめいなレース一家いっかである。父親ちちおやフォーミュラ1インディ500NASCAR伝説でんせつてきドライバー、マリオ・アンドレッティおとうとジェフ・アンドレッティは、CARTインディ500参戦さんせん。マイケルのおじアルド・アンドレッティ英語えいごばん(マリオの双子ふたご兄弟きょうだい)は事故じこ引退いんたいするまでフォーミュラカーレーサーであった。 アルドの息子むすこジョン・アンドレッティ(マイケルのいとこ)はNASCARのレギュラーになる以前いぜんはインディカーに出場しゅつじょうしていたが、インディ500に出場しゅつじょうするためインディカーに復帰ふっき、2007ねんから2011ねんにかけて参戦さんせん。アルドのほか息子むすこアダム英語えいごばんもレーシングドライバーである。マイケルの息子むすこマルコは2006ねんにインディカー・シリーズにデビューをたした。アンドレッティは5にん親族しんぞく(マイケル、マリオ、マルコ、ジェフ、ジョン)がおなじシリーズ(CART、チャンプカー、インディカー)に参戦さんせんするという名門めいもんとなった[11]

レース戦績せんせき

[編集へんしゅう]

ル・マン24あいだ

[編集へんしゅう]
とし クラス くるまばん タイヤ 車両しゃりょう チーム コ・ドライバー ラップすう 総合そうごう順位じゅんい クラス順位じゅんい
1983 C 21 G ポルシェ・956
ポルシェ・935 2.6L Turbo Flat-6
ドイツの旗 ポルシェ・クレマー・レーシング 364 3 3
1988 C1 19 D ポルシェ・962C
ポルシェ・935 3.0L Turbo Flat-6
ドイツの旗 ポルシェ AG
375 6 6
1997 LMP 9 M クラージュ C36
ポルシェ・935 3.0L Turbo Flat-6
フランスの旗 クラージュ・コンペティション
197 DNF DNF
とし チーム 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 順位じゅんい ポイント
1983ねん クラコ・レーシング ATL INDY MIL CLE MIS1 ROA POC RIV MDO MIS2 LVG
Ret
LS
Ret
PHX
9
26 4
1984ねん LBH
10
PHX1
3
INDY
5
MIL
4
POR
12
MEA
Ret
CLE
3
MIS1
Ret
ROA
16
POC
Ret
MDO
Ret
SAN
3
MIS2
7
PHX2
3
LS
3
LVG
Ret
7 102
1985ねん LBH
Ret
INDY
8
MIL
Ret
POR
Ret
MEA
4
CLE
7
MIS1
Ret
ROA
2
POC
Ret
MDO
Ret
SAN
Ret
MIS2
Ret
LS
9
PHX
5
MIA
Ret
9 53
1986ねん PHX1
Ret
LBH
1
INDY
6
MIL
1
POR
2
MEA
Ret
CLE
2
TOR
Ret
MIS1
Ret
POC
Ret
MDO
10
SAN
6
MIS2
2
ROA
2
LS
3
PHX2
1
MIA
Ret
2 171
1987ねん LBH
4
PHX
4
INDY
Ret
MIL
1
POR
2
MEA
5
CLE
6
TOR
5
MIS
1
POC
8
ROA
Ret
MDO
Ret
NAZ
1
LS
Ret
MIA1
Ret
MIA
1
2 158
1988ねん PHX
3
LBH
7
INDY
4
MIL
7
POR
11
CLE
Ret
TOR
3
MEA
6
MIS
3
POC
Ret
MDO
Ret
ROA
5
NAZ
2
LS
2
MIA1
1
MIA
Ret
6 119
1989ねん ニューマン・ハース・レーシング PHX
4
LBH
2
INDY
Ret
MIL
2
DET
Ret
POR
6
CLE
Ret
MEA
Ret
TOR
1
MIS
1
POC
3
MDO
3
ROA
Ret
NAZ
5
LS1
7
LS
7
3 150
1990ねん PHX
Ret
LBH
4
INDY
Ret
MIL
5
DET
1
POR
1
CLE
Ret
MEA
1
TOR
2
MIS
Ret
DEN
5
VAN
Ret
MDO
1
ROA
1
NAZ1
6
NAZ
5
LS
3
2 181
1991ねん SRF
Ret
LBH
Ret
PHX
4
INDY
2
MIL
1
DET
Ret
POR
1
CLE
1
MEA
Ret
TOR
1
MIS
Ret
DEN
3
VAN
1
MDO
1
ROA
1
NAZ
3
LS1
1
LS
1
1 234
1992ねん SRF
Ret
PHX
10
LBH
Ret
INDY
Ret
DET
4
POR
1
MIL
1
NHM
2
TOR
1
MIS
Ret
CLE
2
ROA
4
VAN
1
MDO
Ret
NAZ1
2
NAZ
2
LS
1
2 192
1994ねん チップ・ガナッシ・レーシング SRF
1
PHX
Ret
LBH
6
INDY
6
MIL
4
DET
5
POR
Ret
CLE
Ret
TOR
1
MIS
Ret
MDO
5
NHM
5
VAN
3
ROA
Ret
NZR
9
LS
Ret
4 118
1995ねん ニューマン・ハース・レーシング MIA
Ret
SRF
Ret
PHX
2
LBH
9
NZR
Ret
INDY
Ret
MIL
3
DET
4
POR
4
ROA
Ret
TOR
1
CLE
7
MIS
Ret
MDO
Ret
NHM
2
VAN
Ret
LS
4
4 123
1996ねん HMS
9
RIO
Ret
SRF
Ret
LBH
7
NZR
1
MIS1
Ret
MIL
1
DET
1
POR
11
CLE
Ret
TOR
Ret
MIS2
Ret
MDO
3
ROA
1
VAN
1
LS
9
2 132
1997ねん HMS
1
SRF
2
LBH
Ret
NZR
2
RIO
Ret
STL
11
MIL
2
DET
2
POR
8
CLE
Ret
TOR
4
MIS
Ret
MDO
8
ROA
Ret
VAN
Ret
LS
Ret
FON
Ret
8 108
1998ねん HMS
1
MOT
14
LBH
Ret
NZR
Ret
RIO
5
STL
2
MIL
Ret
DET
10
POR
17
CLE
2
TOR
2
MIS
6
MDO
Ret
ROA
Ret
VAN
2
LS
10
HOU
Ret
SRF
Ret
FON
Ret
8 108
1999ねん HMS
2
MOT
5
LBH
7
NZR
6
RIO
Ret
STL
1
MIL
15
POR
10
CLE
3
ROA
2
TOR
Ret
MIS
4
DET
4
MDO
8
CHI
Ret
VAN
14
LS
10
HOU
3
SRF
5
FON
Ret
4 151
2000ねん HMS
Ret
LBH
Ret
RIO
9
MOT
1
NZR
6
MIL
2
DET
Ret
POR
4
CLE
4
TOR
1
MIS
2
CHI
2
MDO
8
ROA
Ret
VAN
Ret
LS
14
STL
Ret
HOU
13
SRF
Ret
FON
Ret
8 127
2001ねん チーム・モトローラ MTY
4
LBH
Ret
TXS
NH
NAZ
6
MOT
Ret
MIL
2
DET
4
POR
8
CLE
15
TOR
1
MIS
Ret
CHI
Ret
MDO
Ret
ROA
2
VAN
3
LAU
4
ROC
5
HOU
Ret
LS
14
SRF
2
FON
7
3 147
2002ねん MTY
12
LBH
1*
MOT
16
MIL
7
LS
11
POR
9
CHI
15
TOR
11
CLE
2
VAN
6
MDO
3
ROA
10
MTL
8
DEN
13
ROC
10
MIA
8
SRF
9
FON
2
MEX
17
9 110
  • (Event)1 : ノンタイトルせん

インディカー・シリーズ

[編集へんしゅう]
とし チーム 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 順位じゅんい ポイント
2001ねん チーム・モトローラ PHX HMS ATL INDY
3
TXS PPIR RIR KAN NSH KTY STL CHI TX2 34 35
2002ねん HMS PHX FON NZR INDY
7
TXS PPIR RIR KAN NSH MIS KTY STL CHI TX2 38 26
2003ねん アンドレッティ・グリーン・レーシング HMS
6
PHX
Ret
MOT
4
INDY
Ret
TXS PPIR RIR KAN NSH MIS STL KTY NZR CHI FON TX2 24 80
2006ねん HMS STP MOT INDY
3
WGL TXS RIR KAN NSH MIL MIS KTY SNM CHI 24 35
2007ねん HMS STP MOT KAN INDY
13
MIL TXS IOW RIR WGL NSH MDO MIS KTY SNM DET CHI 27 17

インディ500

[編集へんしゅう]
とし シャシー エンジン スタート フィニッシュ チーム
1984 マーチ コスワース 4 5 クラコ
1985 ローラ コスワース 15 8 クラコ
1986 マーチ コスワース 3 6 クラコ
1987 マーチ コスワース 9 29 クラコ
1988 マーチ コスワース 10 4 クラコ
1989 ローラ シボレー 21 17 ニューマン・ハース
1990 ローラ シボレー 5 20 ニューマン・ハース
1991 ローラ シボレー 5 2 ニューマン・ハース
1992 ローラ フォード-コスワース 6 13 ニューマン・ハース
1994 レイナード フォード-コスワース 5 6 ガナッシ
1995 ローラ フォード-コスワース 4 25 ニューマン・ハース
2001 ダラーラ オールズモビル 21 3 チーム・グリーン
2002 ダラーラ シボレー 25 7 チーム・グリーン
2003 ダラーラ ホンダ 13 27 アンドレッティ・グリーン
2006 ダラーラ ホンダ 13 3 アンドレッティ・グリーン
2007 ダラーラ ホンダ 11 13 アンドレッティ・グリーン

(key)

とし チーム シャシー 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 WDC ポイント
1993ねん マクラーレン MP4/8 RSA
Ret
BRA
Ret
EUR
Ret
SMR
Ret
ESP
5
MON
8
CAN
14
FRA
6
GBR
Ret
GER
Ret
HUN
Ret
BEL
8
ITA
3
POR JPN AUS 11 7

脚注きゃくちゅう

[編集へんしゅう]
  1. ^ アンドレッティのフェラーリりはし?Kマートのステッカーをフェラーリがわ拒否きょひGPX 1991ねんオーストラリアGPごう 31ぺーじ 山海さんかいどう 1991ねん11月23にち発行はっこう
  2. ^ 『GP CAR STORY Vol.30 McLaren MP4/8』(サンエイムック) 、66-70ぺーじ、2019ねん
  3. ^ (日本語にほんご) 1993 Indianapolis 500, https://www.youtube.com/watch?v=SQpqKsGzWzA 2022ねん1がつ19にち閲覧えつらん 
  4. ^ 実際じっさい、マクラーレンに在籍ざいせきしたことがあるアラン・プロストファン・パブロ・モントーヤデビッド・クルサードフェルナンド・アロンソらは、マクラーレンはジョイントナンバーワンといつつも、ロンがおりであるアイルトン・セナ、ミカ・ハッキネン、キミ・ライコネン、ルイス・ハミルトンらに比重ひじゅうかたむくことをそれぞれ状況じょうきょうやいいぶんちがうが指摘してき非難ひなんしている。
  5. ^ 『GP CAR STORY Vol. 30 McLaren MP4/8』(サンエイムック) 、66-70ぺーじ、2019ねん
  6. ^ 【アイルトン・セナのおも】PART7:気難きむずかしい性格せいかくだったセナは、「だれ信用しんようしていないも同然どうぜんだった」www.as-web.jp(2019ねん5がつ3にち)2020ねん3がつ12にち閲覧えつらん
  7. ^ ホンダエンジンをうしなったマクラーレンMP4/8をハッキネンがかたる「素晴すばらしいクルマだが重大じゅうだい欠点けってんがあった」www.as-web.jp(2019ねん12月9にち)2020ねん3がつ12にち閲覧えつらん
  8. ^ 『GP CAR STORY Vol. 30 McLaren MP4/8』(サンエイムック) 、87-89ぺーじ、2019ねん
  9. ^ 両者りょうしゃはF1れきながいチームメイトにたいし、獲得かくとくポイントでけている。
  10. ^ Jodi Ann Paterson is Michael Andretti’s Wife”. RightFielders Women in Sports (2007ねん11月15にち). 2013ねん8がつ4にち閲覧えつらん
  11. ^ Schwartz, Larry. “Mario Andretti synonymous with racing”. en:Motorsports Hall of Fame of America. ESPN. 2013ねん8がつ4にち閲覧えつらん

外部がいぶリンク

[編集へんしゅう]
タイトル
先代せんだい
デイヴ・マクミラン
ノースアメリカン・フォーミュラモンディアル
チャンピオン

1983
次代じだい
ダン・マーヴィン
先代せんだい
テオ・ファビ
インディ500
ルーキーオブザイヤー

1984
ロベルト・ゲレーロとも
次代じだい
アリー・ルイエンダイク
先代せんだい
アル・アンサーJr.
CARTシリーズ チャンピオン
1991
次代じだい
ボビー・レイホール