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エディ・アーバイン

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エディ・アーバイン
Eddie Irvine
フェラーリ時代じだい
1999ねんオーストリアGP 優勝ゆうしょう表彰ひょうしょうしき
基本きほん情報じょうほう
フルネーム エドムンド・アーバイン
略称りゃくしょう表記ひょうき IRV
国籍こくせき イギリスの旗 イギリス
北アイルランドの旗 きたアイルランド
出身しゅっしん どうダウンけん
生年月日せいねんがっぴ (1965-11-10) 1965ねん11月10にち(58さい
F1での経歴けいれき
活動かつどう時期じき 1993 - 2002
所属しょぞくチーム '93-'95 ジョーダン
'96-'99 フェラーリ
'00-'02 ジャガー
出走しゅっそう回数かいすう 146
タイトル 0
優勝ゆうしょう回数かいすう 4
表彰台ひょうしょうだい(3以内いない)回数かいすう 26
通算つうさん獲得かくとくポイント 191
ポールポジション 0
ファステストラップ 1
初戦しょせん 1993ねん日本にっぽんGP
はつ勝利しょうり 1999ねんオーストラリアGP
最終さいしゅう勝利しょうり 1999ねんマレーシアGP
最終さいしゅうせん 2002ねん日本にっぽんGP
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エドムンド・"エディ"・アーバインEdmund "Eddie" Irvine, 1965ねん11月10にち - )は、イギリス出身しゅっしんもとレーシングドライバー

略歴りゃくれき[編集へんしゅう]

初期しょき活動かつどう[編集へんしゅう]

きたアイルランドまれ。フォーミュラ・フォードイギリスF3選手権せんしゅけんなどで活躍かつやくし、1988ねんマカオGPでポールポジションを獲得かくとくした。

1989ねんパシフィック・レーシングから国際こくさいF3000参戦さんせんし、1990ねんエディ・ジョーダン・レーシング (EJR) へ移籍いせき同年どうねんは1しょうをあげてシリーズ3獲得かくとくし、同年どうねんのオフにはウィリアムズF1のテストドライバー候補こうほげられたがF1へのステップアップはたせず、1991ねんより日本にっぽんわたった[1]

日本にっぽんでの活動かつどう[編集へんしゅう]

1991ねんより新興しんこうチームのセルモから全日本ぜんにほんF3000選手権せんしゅけん参戦さんせんし、メインスポンサーであったコスモ石油こすもせきゆカラーのマシンを3シーズンにわたりドライブした。当時とうじ全日本ぜんにほんF3000はブリヂストンダンロップ横浜よこはまゴムの3しゃによるタイヤ戦争せんそうこっており、エイヴォンのワンメイクだった国際こくさいF3000にくらべはるかにたかいグリップレベルのタイヤ使つかいこなすことが要求ようきゅうされていた。外国がいこくじんドライバーのおおくが日本にっぽん特有とくゆうのスーパーハイグリップタイヤの使つかかた苦戦くせんするが、アーバインはセルモ代表だいひょう佐藤さとう正幸まさゆき指導しどうけながらダンロップタイヤユーザーのエースかく成長せいちょうする。初年度しょねんどはランキング7、1992ねんは8、1993ねん最終さいしゅうせんまで星野ほしの一義かずよし壮絶そうぜつなチャンピオンあらそいをえんじ、そう得点とくてん星野ほしのを1てん上回うわまわったが、有効ゆうこう得点とくてんでは同点どうてんとなり、優勝ゆうしょう回数かいすう星野ほしの2しょう、アーバイン1しょう)でチャンピオンをのがした。

また、トヨタけいサードトムスのドライバーとしてグループC全日本ぜんにほんスポーツプロトタイプカー耐久たいきゅう選手権せんしゅけん参戦さんせんし、ル・マン24あいだレースにも1992ねんから3ねん連続れんぞく出場しゅつじょうした。なかでもF1デビューとなった1994ねんのル・マン24あいだには日本にっぽん時代じだい親友しんゆうであり、わずかすうしゅうまえ1994ねんサンマリノGPにて事故死じこししたローランド・ラッツェンバーガー代役だいやくとして出場しゅつじょう。サードチームは終盤しゅうばんまでトップを快走かいそうするも、ミッショントラブルから3後退こうたい最終さいしゅうドライバーをまかされたアーバインは予選よせんみのハイペースで疾走しっそうし、ファイナルラップで2奪還だっかんするあつはしりをせた。レースには「ローランド(ラッツェンバーガー)がいれば楽勝らくしょうだった」とのコメントをのこした。このレースでのチームメイトであり、やはり日本にっぽん時代じだい親交しんこうふかめていたジェフ・クロスノフも1996ねんにレースちゅうアクシデントで絶命ぜつめいし、アーバインはおおきなショックをけたという。

F1[編集へんしゅう]

ジョーダン時代ときよ[編集へんしゅう]

ジョーダン時代ときよ(1995ねんイギリスGP)

全日本ぜんにほんF3000やル・マン24あいだレースでのはしりを国際こくさいF3000時代じだい古巣ふるすジョーダンから、不振ふしんティエリー・ブーツェンわって後半こうはんせんのセカンドシートのオファーをけるが、アーバインが全日本ぜんにほんでのタイトル獲得かくとく優先ゆうせんしたためF1デビューは1993ねん日本にっぽんGPオーストラリアGPにまでずれむこととなる。そしてF1デビューせんでは非力ひりきなマシンながら、はしれた鈴鹿すずか予選よせん8決勝けっしょう6入賞にゅうしょうという結果けっかのこす。この日本にっぽんGP決勝けっしょう直後ちょくごアーバインは、クレームをけにアイルトン・セナ右側みぎがわ頭部とうぶ左手ひだりてはらわれている[2]。これは、レースちゅう周回しゅうかいおくれのアーバインがラップリーダーのセナにたいみちゆずらなかったこと[3]、およびファイナルラップに勝利しょうり確信かくしんしたセナのクルージングちゅうに、アーバインがセナをパッシングしたことにたいするクレームであった。アーバインは「セナになぐられた」とまわったため、新聞しんぶんには「セナ、アーバインにパンチ」という見出みだしなどで掲載けいさいされた。最終さいしゅうせんのオーストラリアGPではぎゃくれないコースで予選よせん19決勝けっしょうではリタイアにわったものの、日本にっぽんGPでの活躍かつやくからよく1994ねんからはジョーダンとフル参戦さんせん契約けいやくむすび、レギュラードライバーに昇格しょうかくする。

1994ねんからはジョーダンのレギュラードライバーとなったが、開幕かいまくせんブラジルGP多重たじゅうクラッシュの原因げんいんこしたことでつぎせん出場しゅつじょう停止ていし処分しょぶんとなったが、これに控訴こうそした結果けっかさらにペナルティが加算かさんされ、3せん出場しゅつじょう停止ていしという厳罰げんばつけた。このけん前年ぜんねんのセナとの問題もんだいFIA法廷ほうてい被害ひがいしゃとして出廷しゅっていしたさいのアーバインの態度たいど不遜ふそんかつ無礼ぶれいなものであったことたいし、FIAがやいとえたのではないかともわれている。若手わかてのホープとして嘱望しょくぼうされていたチームメイトのルーベンス・バリチェロ予選よせん上回うわまわることもおおはやさは周知しゅうちのものとなったものの、ころもせぬ物言ものいいでのドライバーの悪口わるぐちくちにしてしまうなどわるくせもあり、だい12せんイタリアGPスタート直後ちょくごジョニー・ハーバートロータス)の背後はいごから追突ついとつ混乱こんらんさせ、まただい13せんポルトガルGP予選よせんちゅうにデーモン・ヒル(ウィリアムズ)のマシンを横転おうてんさせるなど、それぞれ赤旗あかはた原因げんいんをつくるなど当初とうしょ危険きけんなドライビングをするドライバーという印象いんしょう定着ていちゃくしていた。

1995ねんつづきジョーダンから参戦さんせんし、チームメイトはつづきバリチェロとなった。開幕かいまくせんブラジルGPではギヤボックストラブルで、だい2せんアルゼンチンGPではオープニングラップでミカ・ハッキネン接触せっしょくし6しゅうにエンジントラブルでリタイヤをきっするなど、シーズン序盤じょばんくるしんだ。しかしだい6せんカナダGPでは3入賞にゅうしょうたし、はつ表彰台ひょうしょうだい獲得かくとくした。このとしは4入賞にゅうしょうで10ポイントを獲得かくとくし、ランキング12でシーズンをえた。

フェラーリへ[編集へんしゅう]

フェラーリ時代じだい(1999ねんカナダGP)

1996ねん現役げんえきチャンピオンのミハエル・シューマッハがフェラーリへ移籍いせきし、そのチームメイトをだれつとめるのか注目ちゅうもくされるなかでアーバインに白羽しらはがたった。ジョーダンとは残留ざんりゅう契約けいやくがまとまっていたが、金銭きんせんトレードのかたち名門めいもんむかれられることになった。

開幕かいまくせんオーストラリアGPでは予選よせんでいきなりシューマッハより上位じょういにつけ、決勝けっしょうでも3表彰台ひょうしょうだい獲得かくとくしたが、結局けっきょく開幕かいまくせんがこのとし決勝けっしょう最高さいこう成績せいせきとなった。移籍いせき初年度しょねんどはマシンの信頼しんらいせいくるしみ、レースちゅうのアクシデントもかさなったことで、だい7せんスペインGPからだい14せんイタリアGPまで7せん連続れんぞくでリタイヤするなど、ぜん16戦中せんちゅう10のリタイヤをきっした。さらにテストも満足まんぞくにさせてもらえなかった。このとしは4入賞にゅうしょうで11ポイントを獲得かくとくし、ランキングは10となった。

1997ねん、このとし以降いこうはテストやセッティングにかんしてものぞむものをられた。だい3せんアルゼンチンGPでは自身じしん最高さいこう成績せいせきとなる2表彰台ひょうしょうだい獲得かくとくし、だい4せんサンマリノGPだい5せんモナコGPでも3となり3せん連続れんぞく表彰台ひょうしょうだい獲得かくとくした。だい16せん日本にっぽんGPではシューマッハとジャック・ヴィルヌーヴのチャンピオンあらそいにおいて、勝手かってったる鈴鹿すずか特長とくちょうかしてヴィルヌーヴを牽制けんせいするよごやくをこなし、その仕事師しごとしぶりから「ベスト・セカンドドライバー」としょうされた。このとしは6入賞にゅうしょう(そのうち5表彰台ひょうしょうだい)を記録きろくし24ポイントを獲得かくとく、ランキング7となった。

1998ねんには、だい3せんアルゼンチンGPからだい9せんイギリスGPまでの7戦中せんちゅう6表彰台ひょうしょうだい獲得かくとくした。そのうちだい8せんフランスGPでは優勝ゆうしょうしたシューマッハにつづいて2表彰台ひょうしょうだいとなり、フェラーリとしては8ねんぶりの1-2フィニッシュに貢献こうけんした。このとしは16戦中せんちゅう11入賞にゅうしょう、そのうち8表彰台ひょうしょうだい記録きろくし、47ポイントを獲得かくとく、ランキング4となった。

1999ねんには開幕かいまくせんオーストラリアGPでF1はつ優勝ゆうしょうげたが、立場たちばてきにナンバー2あつかいはわらなかった。しかし、だい8せんイギリスGPのクラッシュでシューマッハが骨折こっせつ長期ちょうき欠場けつじょうまれると、代役だいやくエースとしてチームの全面ぜんめんサポートをけることになった。マクラーレンぜい失速しっそくやシューマッハの代役だいやくミカ・サロのアシストにもたすけられ、つづだい9せんオーストリアGPだい10せんドイツGP連勝れんしょうしてポイントリーダーに浮上ふじょうし、マクラーレンミカ・ハッキネンデビッド・クルサード、ジョーダンのハインツ=ハラルド・フレンツェンと4つともえのチャンピオンあらそいをえんじた。ヨーロッパGPではタイヤ交換こうかんでピットにタイヤが用意よういされていないというドタバタをえんじるが、だい15せんマレーシアGPでは復帰ふっきしたシューマッハのアシストでシーズン4しょうげ、ハッキネンを4てんリードして最終さいしゅうせん日本にっぽんGPむかえた。しかし、予選よせんでクラッシュし結果けっかは5決勝けっしょうも3わり、優勝ゆうしょうしたハッキネンにポイントで逆転ぎゃくてんされランキング2わった[4]。フェラーリの16ねんぶりとなるコンストラクターズチャンピオン獲得かくとくおおきく貢献こうけんしたが、このシーズンかぎりでチームをることになった。

アーバインはF1キャリアのなかいちポールポジション獲得かくとくしたことがなく、1999ねんはポールポジション獲得かくとく経験けいけんいチャンピオンが誕生たんじょうしかけたシーズンでもあった[5]。また、1999ねんシーズンにアーバインがげた4しょうのうち2しょうはチームメイトからゆずられた勝利しょうりであり、ドイツGPでチームオーダーけてくれたミカ・サロには感謝かんしゃしるしとして優勝ゆうしょうトロフィーをおくっている。

ジャガー[編集へんしゅう]

ジャガー時代じだい(2002ねんアメリカGP)

2000ねんにはルーベンス・バリチェロわるかたちスチュワートから発足ほっそくしたジャガーと3ねん契約けいやくむす移籍いせきした。フェラーリ時代じだいとはちがいエースドライバー待遇たいぐうむかえられ、かみをブロンドにめてイメージチェンジし、チームにちなんでヘルメットデザインもジャガー変更へんこうするなど意気込いきごみをせた。しかしチーム体制たいせい移行いこう初年度しょねんどのごたごたやマシン開発かいはつ失敗しっぱいによりチーム成績せいせき低迷ていめいした。おもうようなはしりは出来できなかったが、2001ねんモナコGP2002ねんイタリアGPで3入賞にゅうしょうたした。このレースではフェラーリが1-2フィニッシュを達成たっせいしており、もとフェラーリであるアーバインがとも表彰台ひょうしょうだいのぼったことになった。2001ねんのベルギーGPではもとチームメイトのルチアーノ・ブルティ接触せっしょくし、ブルティはだいクラッシュ。リタイアしたアーバインはブルティの救出きゅうしゅつ活動かつどう手伝てつだったが、ブルティはその負傷ふしょう欠場けつじょうまれた。

3ねん契約けいやく最終さいしゅうねんの2002ねんをもって、契約けいやく延長えんちょうされることなくチームを放出ほうしゅつされた。シーズン終了しゅうりょう一時いちじ来季らいきはジョーダンではしる」とほうじられたが交渉こうしょう破談はだんし、2002ねんかぎりでの引退いんたいとなった。

引退いんたい[編集へんしゅう]

引退いんたい、アメリカ・マイアミに住居じゅうきょかまえる。全日本ぜんにほんF3000参戦さんせんちゅう日本語にほんごまった出来できなかったため、テレビはずっとCNNなど英語えいごけるニュースや経済けいざい番組ばんぐみしかなかった。そのため、現役げんえき時代じだいより不動産ふどうさんなどの投資とうしけており、現在げんざい投資とうしつづけている。その資産しさんは、2008ねん3がつ時点じてんで2おく4,500まんユーロ(やく384おくえん)ともいわれ、これはきたアイルランドスポーツ長者ちょうじゃ番付ばんづけではだんトツである。また、映画えいが脇役わきやく銀幕ぎんまくデビューもたしている。

2005ねんには、F1への新規しんき参入さんにゅうチームをめぐるニュースでアーバインのげられたが、実現じつげんはしなかった。

エピソード[編集へんしゅう]

  • 父親ちちおやも「エドムンド」とい、こちらはエドとよばれる[6]。その父親ちちおやは、息子むすこに「スターリング・モス・アーバイン」と名付なづけようとして母親ははおや拒否きょひされ、自分じぶんおなじ「エドムンド」と名付なづけている[6]
  • F1マシンのはつドライブは1989ねんポールリカールテストでのオニクス・ORE1であった。このとし所属しょぞくしていたパシフィックF3000チームがマールボロけいチームだったことから、どうチームでコンビをんでいたJ.J.レートともに、おなじくマールボロスポンサードチームであったオニクスをテストドライブしたが、ベストタイムでレートより2びょう後塵こうじんおがめしレースシートをのがした[7]
  • 全日本ぜんにほんF3000時代じだい経験けいけんから星野ほしの一義かずよし一目いちもくくようになり、F1はつ優勝ゆうしょうのレース記者きしゃ会見かいけんで「日本にっぽんにはホシノっていうバカっはやいドライバーがいて、なかなかたせてくれなかったんだよ」「いまここに自分じぶんられるのはホシノのおかげだ」とかたり、2入賞にゅうしょう同席どうせきしていたハインツ=ハラルド・フレンツェン、3ラルフ・シューマッハおなじく日本にっぽんでの星野ほしのたたかったキャリアがある)もその言葉ことばいて同意どういうなずいた[8]。そのため、欧州おうしゅうなどのジャーナリストが「ホシノとは何者なにものだ?」と日本人にっぽんじんジャーナリストにきまわったという逸話いつわがある。のち星野ほしの現役げんえき引退いんたいしたさい引退いんたいしむコメントをせている。また星野ほしのもアーバインのはしりをたか評価ひょうかしており、「日本にっぽんでアルバイトしてないではやくF1にけ。遜色そんしょくなくやれるよ」とインタビューでひょうしている。
  • 日本にっぽん在住ざいじゅう当時とうじは、どう時期じき日本にっぽん活動かつどうしていたミカ・サロジャック・ヴィルヌーヴジェフ・クロスノフらと六本木ろっぽんぎあそんだなかだった。F1進出しんしゅつ日本にっぽんGPのためとしいち来日らいにちすると六本木ろっぽんぎおとずれ、ホテルにあづけていた自転車じてんしゃあしわりにしていた。セルモで自分じぶん後任こうにんとなったトム・クリステンセンともなかい。
  • 日本にっぽん活動かつどうしていたころはF1への興味きょうみがそれほどく、「カネをはらってらせてもらうより日本にっぽんいサラリーをもらってるのがプロだ」「興味きょうみはないね。あれは金持かねもちがやるもんだろ?」とかたっていた。
  • アーバインが日本にっぽんでの記者きしゃ会見かいけんなどではな英語えいごは、「ひとごとのように小声こごえはなすタイプなので日本人にっぽんじんにはききとるのがむずかしい」とされ[9]テープこし難易なんいたか選手せんしゅとして取材しゅざいしゃかせだった。1993ねん全日本ぜんにほんF3000開幕かいまくせんで3となり、2星野ほしの一義かずよしとも会見かいけんでの質問しつもん回答かいとうしたさい通訳つうやくが「すみません、かれ(アーバイン)の英語えいごはレロレロで、7わりくらいしかわからなかったんですが」と前置まえおきしたところ、となりにいた星野ほしのが「英語えいご東北とうほくべんなの?」とたずねた言葉ことば内容ないようさっしたアーバインは、「ノー、ノーエイゴ! (わたしは)アイリッシュ!」と反応はんのうしコントのような問答もんどうになったことがある。取材しゅざいしゃとして現地げんちにいたすがやみつるは「かれ自分じぶんはイギリスじんじゃなくてアイルランドじんだといたかったんだとおもうが、たまたまジョークのようになった」と推察すいさつしている[9]
  • 1993ねんのF1最終さいしゅうせんオーストラリアGP(アデレード)の決勝けっしょう指定していされた(自分じぶんの)スターティンググリッドラインをえてしまい、デレック・ワーウィックのマシンに追突ついとつ寸前すんぜんだったこともあり、スタートやりなおしの原因げんいんつくってしまった。
  • ヴィルヌーヴとは1997ねん最終さいしゅうせんヨーロッパGP走行そうこう妨害ぼうがいしたとしていち悶着もんちゃくこしているが、後年こうねんヴィルヌーヴは「きたな言葉ことばのぞけばかれ(アーバイン)はまともなことをっている」とひょうしている。
  • F1パドックのトイレで当時とうじのフェラーリの社長しゃちょうルカ・コルデーロ・ディ・モンテゼーモロ遭遇そうぐうしたさい「(ロードカーの)フェラーリの部品ぶひんたかすぎる、どうにかならないの?」とはなしかけたことつよくモンテゼーモロの印象いんしょうのこりフェラーリ移籍いせき一役ひとやくったともわれている。
  • 「シューマッハにつにはシューマッハよりすぐれたマシンをれること必要ひつようだとおもったから移籍いせきした。」とジャガーレーシングへの移籍いせきさいかたっていた。フェラーリ時代じだいはミハエル中心ちゅうしん体制たいせい不満ふまんがあったとのちに公言こうげんし、「いつかあいつがバナナのかわでずっこけてあしでもらないかとおもっていたら、本当ほんとう骨折こっせつした」との過激かげき発言はつげんのこしている。
  • LUNA SEAINORANなかく、1999ねんのLUNA SEAのライブにかおしている。
  • 独身どくしんである。

アイルランド国旗こっき問題もんだい[編集へんしゅう]

アーバインはイギリス(連合れんごう王国おうこくぞくするきたアイルランド出身しゅっしんであるが、みずからはアイルランドひとであるというアイデンティティがつよく、1995ねんカナダGPはじめてF1の表彰台ひょうしょうだいのぼったときにアイルランド国旗こっき掲揚けいようした(これは主催しゅさいしゃがわ用意よういしたものではなくアーバイン自身じしん持参じさんもしくはアイルランドじんオーナーのエディ・ジョーダンがわ用意よういしたものとわれている)。

これがロイヤリストユニオニスト過激かげき逆鱗げきりんれ、殺害さつがい予告よこくをされるほどの問題もんだいになった。これをおそれたアーバインは、表彰ひょうしょうしきさいイギリス国旗こっき掲揚けいようするようになった。

レース戦績せんせき[編集へんしゅう]

イギリス・フォーミュラ3選手権せんしゅけん[編集へんしゅう]

とし チーム シャシー エンジン タイヤ クラス 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 順位じゅんい ポイント
1988ねん ウェストサリー・レーシング ラルト・RT32 アルファロメオ A A THR
4
SIL
2
THR
11
BRH
16
DON
3
SIL
6
BRH
2
THR
7
SIL
2
DON
2
SIL
4
SNE
Ret
OUL
4
SIL
3
BRH
6
SPA
3
THR
Ret
SIL
2
5 53

国際こくさいF3000選手権せんしゅけん[編集へんしゅう]

とし チーム シャシー エンジン 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 順位じゅんい ポイント
1989ねん パシフィック・レーシング レイナード・89D 無限むげん・MF308 SIL
DNS
VLL
Ret
PAU
Ret
JER
Ret
PER
3
BRH
Ret
BIR
6
SPA
9
BUG
4
DIJ
4
9 11
1990ねん エディ・ジョーダン・レーシング レイナード・90D DON
Ret
SIL
6
PAU
Ret
JER
DNS
MNZ
2
PER
4
HOC
1
BRH
3
BIR
Ret
BUG
3
NOG
Ret
3 27

全日本ぜんにほんF3000選手権せんしゅけん[編集へんしゅう]

とし チーム シャシー エンジン 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 順位じゅんい ポイント
1991ねん コスモオイル・レーシングチーム・セルモ ローラ・T90/50 無限むげん SUZ
8
AUT
5
FSW
15
MIN
1
SUZ
4
SUG
7
FSW
13
SUZ
Ret
FSW
C
SUZ
13
FSW
9
7 14
1992ねん ローラ・T91/50 SUZ
8
8 17
ローラ・T92/50 FSW
4
MIN
1
SUZ
Ret
AUT
Ret
SUG
Ret
FSW
7
FSW
5
SUZ
4
FSW
11
FSW
Ret
1993ねん SUZ
3
FSW
3
MIN
Ret
SUZ
1
AUT
C
SUG
15
FSW
C
FSW
6
SUZ
2
FSW
2
SUZ
4
2 32

F1世界せかい選手権せんしゅけん[編集へんしゅう]

とし 所属しょぞくチーム # ランキング 獲得かくとくポイント 決勝けっしょう最高さいこう回数かいすう 表彰台ひょうしょうだい回数かいすう 予選よせん最高さいこう回数かいすう
1993ねん ジョーダン 15 22 1 6・1かい 0かい 8・1かい
1994ねん 15 16 6 4・1かい 0かい 4・1かい
1995ねん 15 12 10 3・1かい 1かい 4・1かい
1996ねん フェラーリ 2 10 11 3・1かい 1かい 3・1かい
1997ねん 6 7 24 2・1かい 5かい 3・1かい
1998ねん 4 4 47 2・3かい 8かい 2・1かい
1999ねん 4 2 74 1・4かい 9かい 2・3かい
2000ねん ジャガー 7 13 4 4・1かい 0かい 6・2かい
2001ねん 18 12 6 3・1かい 1かい 6・1かい
2002ねん 16 9 8 3・1かい 1かい 5・1かい
とし チーム シャシー エンジン 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 WDC ポイント
1993ねん ジョーダン 193 ハート・1035 3.5L V10 RSA BRA EUR SMR ESP MON CAN FRA GBR GER HUN BEL ITA POR JPN
6
AUS
Ret
20 1
1994ねん 194 BRA
Ret
PAC SMR MON ESP
6
CAN
Ret
FRA
Ret
GBR
Ret
GER
Ret
HUN
Ret
BEL
13
ITA
Ret
POR
7
EUR
4
JPN
5
AUS
Ret
16 6
1995ねん 195 プジョー・A10 3.0L V10 BRA
Ret
ARG
Ret
SMR
8
ESP
5
MON
Ret
CAN
3
FRA
9
GBR
Ret
GER
9
HUN
13
BEL
Ret
ITA
Ret
POR
10
EUR
6
PAC
11
JPN
4
AUS
Ret
12 10
1996ねん フェラーリ F310 フェラーリ・Tipo 046 3.0L V10 AUS
3
BRA
7
ARG
5
EUR
Ret
SMR
4
MON
7
ESP
Ret
CAN
Ret
FRA
Ret
GBR
Ret
GER
Ret
HUN
Ret
BEL
Ret
ITA
Ret
POR
5
JPN
Ret
10 11
1997ねん F310B フェラーリ・Tipo 046/2 3.0L V10 AUS
Ret
BRA
16
ARG
2
SMR
3
MON
3
ESP
12
CAN
Ret
FRA
3
GBR
Ret
GER
Ret
HUN
9
BEL
10
ITA
8
AUT
Ret
LUX
Ret
JPN
3
EUR
5
7 24
1998ねん F300 フェラーリ・Tipo 047 3.0L V10 AUS
4
BRA
8
ARG
3
SMR
3
ESP
Ret
MON
3
CAN
3
FRA
2
GBR
3
AUT
4
GER
8
HUN
Ret
BEL
Ret
ITA
2
LUX
4
JPN
2
4 47
1999ねん F399 フェラーリ・Tipo 048 3.0L V10 AUS
1
BRA
5
SMR
Ret
MON
2
ESP
4
CAN
3
FRA
6
GBR
2
AUT
1
GER
1
HUN
3
BEL
4
ITA
6
EUR
7
MAL
1
JPN
3
2 74
2000ねん ジャガー R1 フォード・CR2 3.0L V10 AUS
Ret
BRA
Ret
SMR
7
GBR
13
ESP
11
EUR
Ret
MON
4
CAN
13
FRA
13
AUT
PO
GER
8
HUN
8
BEL
10
ITA
Ret
USA
7
JPN
8
MAL
6
13 4
2001ねん R2 フォード・CR3 3.0L V10 AUS
11
MAL
Ret
BRA
Ret
SMR
Ret
ESP
Ret
AUT
7
MON
3
CAN
Ret
EUR
7
FRA
Ret
GBR
9
GER
Ret
HUN
Ret
BEL
Ret
ITA
Ret
USA
5
JPN
Ret
12 6
2002ねん R3 フォード・CR4 3.0L V10 AUS
4
MAL
Ret
BRA
7
SMR
Ret
ESP
Ret
AUT
Ret
MON
9
CAN
Ret
EUR
Ret
GBR
Ret
FRA
Ret
GER
Ret
HUN
Ret
BEL
6
ITA
3
USA
10
JPN
9
9 8
  • 太字ふとじポールポジションはすファステストラップ。(key)
  • しるしはリタイアだが、90%以上いじょう距離きょり走行そうこうしたため規定きていにより完走かんそうあつかい。

ル・マン24あいだレース[編集へんしゅう]

とし チーム コ・ドライバー くるま クラス 周回しゅうかい 順位じゅんい クラス
順位じゅんい
1992ねん 日本の旗 トヨタ・チーム・トムス
日本の旗 キッツ・レーシングチーム with サード
オーストリアの旗 ローランド・ラッツェンバーガー
スウェーデンの旗 エイエ・エリジュ
トヨタ・92C-V C2 321 9 2
1993ねん 日本の旗 トヨタ・チーム・トムス 日本の旗 関谷せきや正徳まさのり
日本の旗 鈴木すずき利男としお
トヨタ・TS010 C1 364 4 4
1994ねん 日本の旗 サード アメリカ合衆国の旗 ジェフ・クロスノフ
イタリアの旗 マウロ・マルティニ
トヨタ・94C-V LMP1
C90
343 2 1

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ 1990ねんのマカオGPで3獲得かくとくしたアーバインは、翌週よくしゅう富士ふじスピードウェイおこなわれただい1かいインターF3リーグ出場しゅつじょうしたさい来日らいにちのオファーをけた。
  2. ^ 日本にっぽんめいレース100せん通巻つうかん41ごう、p.27
  3. ^ このときアーバインはデイモン・ヒルと6あらそいのはげしいバトルをおこなっている最中さいちゅうだった。
  4. ^ 日本にっぽんGPでのシューマッハのレースぶりにかんして、テレビ解説かいせつしゃ片山かたやま右京うきょう鈴木すずき久里くさとは「シューマッハはフェラーリでさきドライバーズタイトルられたくないとのおもいがあったのではないか」とコメントした。それにたいし、今宮いまみやじゅん著書ちょしょ『F1ドキュメント』で「シューマッハのスタート失敗しっぱいはシステムの異変いへん最初さいしょのピットインまで失速しっそくは、オーバーステアによるもの」と分析ぶんせきし、「シューマッハのやるがなかった」という意見いけん否定ひていしている。
  5. ^ ポールポジションを1獲得かくとくせずにワールドチャンピオンとなったドライバーは1984ねんのニキ・ラウダが最後さいごであり、もしタイトルをっていれば15ねんぶりの記録きろくとなった。
  6. ^ a b 日本にっぽんめいレース100せん通巻つうかん41ごう、p.31
  7. ^ 山海さんかいどうGPX シーズンオフごう 31ぺーじ 1990ねん2がつ24にち閲覧えつらん
  8. ^ アーバインのだい殊勲しゅくん 悲願ひがんのF1はつ優勝ゆうしょうげたフェラーリだい2のおとこ Racing On No.290 11ぺーじ 1999ねん3がつ26にち発行はっこう
  9. ^ a b F3000 Rd1鈴鹿すずか決勝けっしょうレース記者きしゃ会見かいけん すがやみつる MotorsportsForum 1993ねん3がつ22にち

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

  • アダム・クーパー「いまだからかたろう エディー・アーヴァイン」『日本にっぽんめいレース100せんだい41ごう三栄書房さんえいしょぼう、2008ねん3がつ、24 - 31ぺーじ 

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]