フィアット (伊 い : FIAT S.p.A. )は、イタリア の自動車 じどうしゃ メーカー である。現在 げんざい は、ステランティス N.V. の子会社 こがいしゃ である。
ジョヴァンニ・アニェッリ (右 みぎ )とジャンニ・アニェッリ
社名 しゃめい のFIATとはF abbrica I taliana A utomobili T orinoの頭文字 かしらもじ を取 と ったものである[1] 。「トリノ のイタリア自動車 じどうしゃ 製造 せいぞう 所 しょ 」の意味 いみ 。トリノ 市 し のリンゴット 地区 ちく に本拠 ほんきょ を置 お くことから、フィアット本社 ほんしゃ 工場 こうじょう と「リンゴット 」はしばしば同義 どうぎ とされる。
「フィアット、陸 ろく に、海 うみ に、空 そら に」のスローガンの元 もと 、自動車 じどうしゃ のみならず、自動車 じどうしゃ 関連 かんれん 業 ぎょう 、鉄道 てつどう 車両 しゃりょう [注釈 ちゅうしゃく 1] や船舶 せんぱく 、航空機 こうくうき の製造 せいぞう などのイタリア における産業 さんぎょう 分野 ぶんや 全般 ぜんぱん を掌握 しょうあく し、マスコミュニケーション 、金融 きんゆう 等 とう にも進出 しんしゅつ している。
このことから、イタリア のみならずヨーロッパ においても大 おお きな影響 えいきょう 力 りょく を持 も つ。かつては「フランス はルノー を持 も っているが、フィアットはイタリアを持 も っている」とまで評 ひょう された。
イタリア証券 しょうけん 取引 とりひき 所 しょ に株式 かぶしき を上場 じょうじょう している。2007年 ねん までニューヨーク証券 しょうけん 取引 とりひき 所 しょ (コード:FIA)にも上場 じょうじょう していた。創業 そうぎょう グループの1人 ひとり のジョヴァンニ・アニェッリ を継 つ ぐアニエッリ家 か が大 だい 株主 かぶぬし となり代々 だいだい 経営 けいえい を行 おこな っている。
メフィストフェレ
ジョヴァンニ・アニェッリらイタリア北部 ほくぶ の数 すう 人 にん の実業 じつぎょう 家 か の出資 しゅっし によって、1899年 ねん にトリノ で創業 そうぎょう された。同年 どうねん には最初 さいしょ の自動車 じどうしゃ を発売 はつばい した。その後 ご 1902年 ねん にはアニェッリがフィアットの社長 しゃちょう となった。1908年 ねん には最初 さいしょ の航空 こうくう 用 よう エンジン を開発 かいはつ した。
イタリア最大 さいだい の自動車 じどうしゃ 会社 かいしゃ [ 編集 へんしゅう ]
「トッポリーノ」こと初代 しょだい 500
2代目 だいめ NUOVA 500
第 だい 一 いち 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん 中 なか にフィアットはイタリア北部 ほくぶ の工業 こうぎょう 都市 とし トリノ にある工場 こうじょう をフル操業 そうぎょう して、連合 れんごう 国 こく 軍 ぐん の1国 こく であるイタリア軍 ぐん に軍需 ぐんじゅ 製品 せいひん を供給 きょうきゅう した。路面 ろめん 電車 でんしゃ 、航空機 こうくうき 、鉄道 てつどう 車両 しゃりょう 、トラクター 、ディーゼルエンジン などの生産 せいさん で当時 とうじ 3万 まん 人 にん 以上 いじょう の労働 ろうどう 者 しゃ を雇用 こよう していた。
第 だい 一 いち 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん 後 ご にはミッレミリア などのレース でも活躍 かつやく したほか、フォーミュラカー レースにも参戦 さんせん してアルファロメオ やブガッティ などと覇 は を競 きそ った。その後 ご 「トッポリーノ」こと初代 しょだい 「500」 などの大 だい ヒットモデルを出 だ したほか、高級 こうきゅう 車 しゃ 部門 ぶもん にも進出 しんしゅつ した。
また国外 こくがい 進出 しんしゅつ に意欲 いよく 的 てき で、第 だい 一 いち 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん 後 ご には日本 にっぽん やアメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく 、満州 まんしゅう 国 こく などへの輸出 ゆしゅつ を拡大 かくだい したほか、1934年 ねん にはフランス にシムカ を設立 せつりつ させたほか、ドイツ では1932年 ねん にNSU の自動車 じどうしゃ 部門 ぶもん を買収 ばいしゅう し、「NSUフィアット 」とした。
第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん 前後 ぜんこう [ 編集 へんしゅう ]
イタリアが1940年 ねん から参戦 さんせん した第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん 中 なか は、各種 かくしゅ 軍用 ぐんよう 車 しゃ や航空機 こうくうき などを生産 せいさん していた。1943年 ねん イタリアは連合 れんごう 軍 ぐん に降伏 ごうぶく し、さらにその後 ご も本社 ほんしゃ のあるトリノ など北部 ほくぶ がドイツ軍 ぐん の占領 せんりょう 下 か におかれたため、生産 せいさん は停止 ていし し、さらに工場 こうじょう が連合 れんごう 国 こく 軍機 ぐんき の爆 ばく 撃 げき を受 う けるなどの損害 そんがい を被 こうむ った。
第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん 終戦 しゅうせん 直後 ちょくご の1945年 ねん 12月にジョヴァンニ・アニェッリが死去 しきょ した。その後 ご はヴィットリオ・ヴァレッタが経営 けいえい を行 おこな った。イタリアが戦災 せんさい から復興 ふっこう し1950年代 ねんだい から1960年代 ねんだい にかけて「イタリアの奇跡 きせき 」と呼 よ ばれる経済 けいざい 成長 せいちょう を遂 と げ、「アウトストラーダ 」の拡張 かくちょう や自家用車 じかようしゃ の普及 ふきゅう が進 すす む中 なか で「500」(ヌォーヴァ)や「600」などのヒットモデルを送 おく り出 だ した。
海外 かいがい 進出 しんしゅつ [ 編集 へんしゅう ]
VAZ・2103 ラーダ・ノーヴァ (フィアット・124 ベルリーナ)
なお戦後 せんご も海外 かいがい 進出 しんしゅつ には積極 せっきょく 的 てき で、1950年 ねん にスペイン でセアト (現在 げんざい はフォルクスワーゲン グループ)を設立 せつりつ した。1968年 ねん にはトルコ でトファシュ を設立 せつりつ している。さらに南 みなみ アメリカ ではアルゼンチン に進出 しんしゅつ した。他 ほか にも、1970年代 ねんだい にはブラジル でも生産 せいさん を始 はじ めた。
また、イタリアが冷戦 れいせん 下 した において共産党 きょうさんとう を含 ふく む左翼 さよく 陣営 じんえい が勢力 せいりょく を持 も っていたこともあり、他 た の西側 にしがわ 諸国 しょこく が進出 しんしゅつ を躊躇 ちゅうちょ していた東欧 とうおう 圏 けん への進出 しんしゅつ を進 すす めた。ソビエト連邦 れんぽう にプラントを輸出 ゆしゅつ し、1970年 ねん にアフトヴァース が、元 もと イタリア共産党 きょうさんとう 書記 しょき 長 ちょう のパルミーロ・トリアッティ の名 な を冠 かん したトリヤッチ 市 し に建設 けんせつ された工場 こうじょう で「ジグリ(輸出 ゆしゅつ 名 めい 『ラーダ』) 」の生産 せいさん を開始 かいし した。
また、1930年代 ねんだい から生産 せいさん していたポーランド (ポルスキ・フィアット )での生産 せいさん を1965年 ねん より再開 さいかい した。また、ユーゴスラビア (ザスタバ )にも進出 しんしゅつ した。
買収 ばいしゅう 攻勢 こうせい [ 編集 へんしゅう ]
フェラーリのエンジンを搭載 とうさい したディーノ
1966年 ねん にヴィットリオ・ヴァレッタから、ジョヴァンニ・アニェッリの孫 まご のジャンニ・アニェッリ (ジャンニは愛称 あいしょう 、本名 ほんみょう は祖父 そふ と同 おな じジョヴァンニ)が経営 けいえい を引 ひ き継 つ いだ。
ジャンニ・アニェッリが経営 けいえい を引 ひ き継 つ いだ1960年代 ねんだい 後半 こうはん から1980年代 ねんだい にかけては、「アウトビアンキ 」(1968年 ねん )や「フェラーリ 」(1969年 ねん )、「アバルト 」(1971年 ねん )のほか、経営 けいえい 不振 ふしん に陥 おちい っていた高級 こうきゅう 車 しゃ メーカーの「ランチア 」を1969年 ねん に買収 ばいしゅう した。さらに、国営 こくえい 化 か されて以降 いこう 高 だか コスト体制 たいせい と品質 ひんしつ 問題 もんだい による販売 はんばい 不振 ふしん から経営 けいえい 苦境 くきょう に陥 おちい っていた「アルファロメオ 」を1986年 ねん に傘下 さんか に収 おさ めた。これにより、イタリアの自動車 じどうしゃ 業界 ぎょうかい を事実 じじつ 上 じょう 独占 どくせん することになる。
さらに、オートバイ 及 およ び小型車 こがたしゃ メーカーの「ピアッジオ 」を1964年 ねん に買収 ばいしゅう した。他 ほか にも、電装 でんそう 部品 ぶひん メーカーの「マニエッティ・マレリ 」を1967年 ねん に買収 ばいしゅう した。また、商用 しょうよう 車 しゃ 部門 ぶもん として「イヴェコ 」を1975年 ねん に創立 そうりつ した。
パンダ
ウーノ
ブラーボ
1974年 ねん から1978年 ねん までフィアットは新型 しんがた 車 しゃ の発表 はっぴょう がなかった。これは、石油 せきゆ ショック や、その前後 ぜんご の左翼 さよく 勢力 せいりょく による慢性 まんせい 的 てき な労働 ろうどう 争議 そうぎ により経営 けいえい が不安定 ふあんてい 化 か したため。
しかしリビア の元首 げんしゅ であるカダフィ大佐 たいさ からの融資 ゆうし を受 う け入 い れた。その後 ご 1980年代 ねんだい 始 はじ めに発売 はつばい された、小型車 こがたしゃ 「パンダ 」と「ウーノ 」の成功 せいこう で窮地 きゅうち を脱 だっ した。これは、イタリアを代表 だいひょう するカロッツェリア のイタルデザイン の創始 そうし 者 しゃ ジウジアーロ が設計 せっけい を手掛 てが けていた。他 ほか にも、1988年 ねん にはエンツォ・フェラーリ 亡 な き後 あと のフェラーリ を完全 かんぜん 子会社 こがいしゃ 化 か した。その際 さい 、レイオフ (一時 いちじ 解雇 かいこ )された従業 じゅうぎょう 員 いん を呼 よ び戻 もど した。
しかし実際 じっさい は、政府 せいふ の要請 ようせい で買収 ばいしゅう したアルファロメオの経営 けいえい 立 た て直 なお しに多額 たがく の資金 しきん を費 つい やさざるを得 え なかったことや、労働 ろうどう 争議 そうぎ により経営 けいえい 状態 じょうたい は安定 あんてい せず、イタリア政府 せいふ による日本 にっぽん 車 しゃ の輸入 ゆにゅう 規制 きせい や、レイオフ した社員 しゃいん を政府 せいふ による救済 きゅうさい 機関 きかん で引 ひ き取 と ってもらうなどの措置 そち に助 たす けられている状況 じょうきょう であった。
1990年代 ねんだい は「ブラーボ/ブラーバ 」とジョルジェット・ジウジアーロ のデザインした初代 しょだい プント がヨーロッパで大 だい ヒットし、かろうじてその屋台骨 やたいぼね を支 ささ えたが、その後 ご も欧州 おうしゅう 連合 れんごう 発足 ほっそく 後 ご のイタリアにおける日本 にっぽん 車 しゃ の輸入 ゆにゅう 規制 きせい 撤廃 てっぱい による競争 きょうそう 激化 げきか などを受 う けて、不安定 ふあんてい な経営 けいえい 状 じょう 況 きょう が続 つづ いた。
経営 けいえい 建 た て直 なお し[ 編集 へんしゅう ]
クロマ
グランデプント
2000年 ねん より自動車 じどうしゃ 部門 ぶもん でゼネラルモーターズ と提携 ていけい していた。だが、2005年 ねん に経営 けいえい 状 じょう 況 きょう が悪化 あっか したフィアットとの提携 ていけい を進 すす めることを躊躇 ちゅうちょ したゼネラルモーターズ 側 がわ が一方 いっぽう 的 てき に提携 ていけい を解消 かいしょう した。これにより買収 ばいしゅう 契約 けいやく に関 かん する違約 いやく 金 きん 、15.5億 おく ユーロをゼネラルモーターズ から得 え た。
その後 ご は、傘下 さんか のフェラーリ およびマセラティ の経営 けいえい を立 た て直 なお したルカ・コルデーロ・ディ・モンテゼーモロ 会長 かいちょう 、およびセルジオ・マルキオンネ CEO のもとで、ゼネラルモーターズ から得 え た違約 いやく 金 きん を原資 げんし に、経営 けいえい の建 た て直 なお しをはじめた。
その様 よう な中 なか でもアニェッリ一族 いちぞく による経営 けいえい が基本 きほん にあり、2005年 ねん にはジャンニ・アニェッリの孫 まご のジョン・エルカーン がフィアットの取締役 とりしまりやく に、その弟 おとうと のラポ・エルカーン がブランド マーケティング 担当 たんとう 部長 ぶちょう に就任 しゅうにん した。このとき過去 かこ に使用 しよう していたロゴマークを復活 ふっかつ させ、ロゴを入 い れたアパレル などを展開 てんかい し、世界 せかい 的 てき に大 だい ヒットさせた。なお、長 なが い歴史 れきし を持 も つフィアットは、社名 しゃめい ロゴと車両 しゃりょう オーナメントの変更 へんこう が多 おお いことでも知 し られている[2] 。
また、2005年 ねん には経営 けいえい 建 た て直 なお しの一環 いっかん として、モンテゼーモロ会長 かいちょう の指揮 しき のもと、相次 あいつ いで3つの新型 しんがた 車 しゃ を発表 はっぴょう している。一 ひと つめには、「クロマ 」の名 な で、導入 どうにゅう が待 ま たれていた新 しん Dセグメント モデルを発表 はっぴょう した。ボディはワゴン風 ふう の5ドアとなっている。二 ふた つめには、7月 がつ 28日 にち には「グランデプント」を発表 はっぴょう した。これはプントの第 だい 3世代 せだい となる。全長 ぜんちょう は4mを超 こ えており、「グランデ」の名 な のとおり大 おお きいサイズだが、それ以上 いじょう に大 おお きな命運 めいうん がこの車種 しゃしゅ に懸 か かっていることがうかがえる。2006年 ねん 1月 がつ には同 どう モデルがヨーロッパ市場 いちば における販売 はんばい 台数 だいすう 1位 い になるなど、フィアット建 た て直 なお しのシンボルとなった。
三 み つめには、12月11日 にち に小型 こがた クロスオーバーSUV「セディチ (16、4×4=16から)」を発表 はっぴょう 。これはスズキ との共同 きょうどう 開発 かいはつ によるもの。この三 みっ つはいずれもジョルジェット・ジウジアーロ との協力 きょうりょく でデザインされたものである。
ニューパンダ
500
2004年 ねん にはニューパンダ が、ヨーロッパ・カー・オブ・ザ・イヤー を受賞 じゅしょう した。これは1979年 ねん のデビュー以来 いらい 根強 ねづよ い人気 にんき に支 ささ えられてきたパンダ の後継 こうけい である。
その後 ご 2005年 ねん 11月には単月 たんげつ 黒字 くろじ を計上 けいじょう した。これは積極 せっきょく 的 てき な新車 しんしゃ 攻勢 こうせい と、ラポ・エルカーンが主導 しゅどう するブランド イメージの復活 ふっかつ を受 う けて販売 はんばい 台数 だいすう が増加 ぞうか したため。その後 ご も単月 たんげつ 黒字 くろじ を連続 れんぞく して達成 たっせい 。その他 た にもクロマの予想 よそう を上回 うわまわ る販売 はんばい 台数 だいすう を得 え た他 ほか 、グランデプントが2006年 ねん 1月 がつ のヨーロッパ市場 いちば における販売 はんばい 台数 だいすう 1位 い になる。2006年 ねん 第 だい 三 さん 四半期 しはんき の販売 はんばい 台数 だいすう も、ルノー やプジョー などのライバルが前年 ぜんねん 比 ひ 割 わ れになる中 なか 、前年 ぜんねん 比 ひ 増 ぞう になるなど長年 ながねん の低迷 ていめい から完全 かんぜん に復活 ふっかつ したとの評価 ひょうか を受 う けたと同時 どうじ に自 みずか らも「復活 ふっかつ 宣言 せんげん 」を行 おこな った。
2007年 ねん にはグランデプントベースのセダン「リネア」、大 だい 失敗 しっぱい に終 お わったスティーロの後継 こうけい 車種 しゃしゅ 「ブラーボ」(これまたかつての車 くるま 名 めい が復活 ふっかつ )、往年 おうねん のヒット作 さく である「500 」の新型 しんがた をデビューさせ、同 どう 車種 しゃしゅ はヨーロッパ・カー・オブ・ザ・イヤ ーを獲得 かくとく した。さらには「アバルト 」ブランドを復活 ふっかつ した。
クライスラー、マツダとの提携 ていけい [ 編集 へんしゅう ]
「ダッジ・ジャーニー 」のフィアット版 ばん である「フリーモント」
「マツダ・ロードスター 」のフィアット版 ばん である「124スパイダー」
2009年 ねん 1月 がつ には、サーベラス・キャピタル・マネジメント 傘下 さんか で経営 けいえい 再建 さいけん を目指 めざ しているクライスラー に資本 しほん 参加 さんか し、35 %の株式 かぶしき を取得 しゅとく する資本 しほん 提携 ていけい 合意 ごうい を発表 はっぴょう した。フィアットは、クライスラー が北 きた アメリカ市場 いちば で燃費 ねんぴ 性能 せいのう の高 たか いコンパクトカーを生産 せいさん するための技術 ぎじゅつ などを提供 ていきょう すると同時 どうじ に、北 きた アメリカ市場 いちば 以外 いがい におけるクライスラー車 しゃ の販売 はんばい でも協力 きょうりょく することを表明 ひょうめい した。
これを受 う けて「クライスラー・300 」が「ランチア・テーマ 」として、「ダッジ・ジャーニー 」が「フィアット・フリーモント」としてイタリアをはじめとしたヨーロッパ市場 いちば で販売 はんばい されたほか、「500」がアメリカ市場 いちば で販売 はんばい されることになった。
2010年 ねん 4月 がつ 21日 にち 、フィアットは産業 さんぎょう 機械 きかい および商用 しょうよう 車 しゃ 部門 ぶもん を分離 ぶんり すると発表 はっぴょう [3] [4] 。翌 よく 2011年 ねん 1月 がつ 1日 にち にCNHグローバル やイヴェコ などを統括 とうかつ する持株 もちかぶ 会社 かいしゃ であるフィアット・インダストリアル が設立 せつりつ された[5] 。
2012年 ねん 5月 がつ 23日 にち にマツダ と業務 ぎょうむ 提携 ていけい を発表 はっぴょう 。マツダ・ロードスター の4代目 だいめ モデルをベースとした新車 しんしゃ を、アルファロメオのブランドで販売 はんばい する計画 けいかく を発表 はっぴょう した。生産 せいさん はマツダ が担当 たんとう する[6] 。その後 ご 、アルファロメオではなくフィアットから124スパイダー として販売 はんばい されることが発表 はっぴょう された。
500 C
500X
2014年 ねん 1月 がつ には、クライスラー を完全 かんぜん 子会社 こがいしゃ 化 か すると発表 はっぴょう し[7] 、同年 どうねん 10月12日 にち に合併 がっぺい 、新 あら たに設立 せつりつ された持株 もちかぶ 会社 かいしゃ 「フィアット・クライスラー・オートモービルズ 」(FCA)の傘下 さんか にフィアットとクライスラー両社 りょうしゃ が置 お かれる企業 きぎょう 形態 けいたい となり、トヨタ自動車 とよたじどうしゃ やフォルクスワーゲン 、ルノー やゼネラルモーターズ などに次 つ ぐ規模 きぼ の自動車 じどうしゃ グループとなった。
翌 よく 13日 にち にはニューヨーク証券 しょうけん 取引 とりひき 所 しょ での取引 とりひき を開始 かいし した[8] 。またその後 ご フェラーリをFCAより分社 ぶんしゃ 化 か するとともに上場 じょうじょう させたが、現在 げんざい もマルキオンネ会長 かいちょう がフェラーリの会長 かいちょう を兼任 けんにん し、マセラティへのエンジン供給 きょうきゅう を行 おこな うなど密接 みっせつ な関係 かんけい を保 たも っている。
また上場 じょうじょう 以降 いこう は、アルファロメオ やアバルト 、ジープ などの高 こう 付加 ふか 価値 かち ブランドの車種 しゃしゅ 展開 てんかい の積極 せっきょく 化 か を行 おこな うことで、収益 しゅうえき の向上 こうじょう を図 はか っている。しかしながら、同時 どうじ にグループ内 ない の経営 けいえい 効率 こうりつ 化 か を受 う けて、老舗 しにせ ブランドのランチアの展開 てんかい 縮小 しゅくしょう が進 すす められている。
2018年 ねん 10月 がつ 、保有 ほゆう するマニエッティ・マレリ の全 ぜん 株式 かぶしき を投資 とうし 会社 かいしゃ KKR の買収 ばいしゅう 目的 もくてき 会社 かいしゃ であるCKホールディングス(現 げん マレリホールディングス )に売却 ばいきゃく することを発表 はっぴょう した[9] 。
500
500e
パンダ
2代目 だいめ 500 (NUOVA 500)
フィアット・X1/9 1974モデル
バルケッタ
他 た 企業 きぎょう でのライセンス生産 せいさん [ 編集 へんしゅう ]
131アバルトラリー
プントS2000
フィアットは第 だい 一 いち 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん 後 ご より「ミッレミリア 」をはじめとするモータースポーツ に参戦 さんせん している。また、世界 せかい ラリー選手権 せんしゅけん (WRC)には早期 そうき から参戦 さんせん しており、1970年代 ねんだい はグループ4マシンの「124アバルトラリー 」、「131アバルトラリー 」で活躍 かつやく をした。特 とく に131アバルトラリーはマニファクチャラーズ部門 ぶもん を3度 ど 、ドライバー部門 ぶもん を2度 ど 制覇 せいは しWRCで最 もっと も活躍 かつやく したFR車 しゃ となった。
1980年代 ねんだい からはグループ会社 かいしゃ のランチア のグループB及 およ びグループA車両 しゃりょう で参戦 さんせん して好成績 こうせいせき を残 のこ し、特 とく にデルタ で6連覇 れんぱ を果 は たした1987年 ねん 〜1993年 ねん にかけては常勝 じょうしょう ともいえる活躍 かつやく をしていた。
近年 きんねん は経営 けいえい 悪化 あっか もあって活動 かつどう を潜 ひそ めていたが、スーパー1600 規定 きてい のプント でJWRC に継続 けいぞく 的 てき に参戦 さんせん 。2006年 ねん からスーパー2000 規定 きてい が施行 しこう されるといち早 はや くグランデ・プント で参戦 さんせん し、ヨーロッパラリー選手権 せんしゅけん 、イタリアラリー選手権 せんしゅけん を制覇 せいは し、アバルトブランドを復活 ふっかつ させた。2007年 ねん からはIRC(インターコンチネンタル・ラリー・チャレンジ)に参戦 さんせん 。2007年 ねん から2009年 ねん まで6勝 しょう するも、プジョー 、シュコダ に阻 はば まれタイトルには手 て が届 とど かなかった。
現在 げんざい は124スパイダーのグループR-GT 車両 しゃりょう でラリーに参戦 さんせん している。
また2007年 ねん から2010年 ねん までの間 あいだ 、ロードレース世界 せかい 選手権 せんしゅけん MotoGPクラスにおいてヤマハチーム のスポンサーとなった。自動車 じどうしゃ 会社 かいしゃ が資本 しほん 関係 かんけい のない他 ほか の自動車 じどうしゃ 会社 かいしゃ のスポンサーとなるケースはトラック業界 ぎょうかい やF1 等 ひとし を除 のぞ くと数少 かずすく ないが、チームにフィアットと資本 しほん 関係 かんけい のあるフェラーリ への去就 きょしゅう が噂 うわさ されていたバレンティーノ・ロッシ 選手 せんしゅ がいたことが関係 かんけい していると見 み られている。最終 さいしゅう 的 てき にヤマハへのスポンサーシップを終了 しゅうりょう した理由 りゆう も、明 あき らかにはされていないものの、ロッシが翌年 よくねん ドゥカティ へ移籍 いせき することになった事 こと が大 おお きな理由 りゆう であると言 い われている。
業務 ぎょうむ 用 よう 車輌 しゃりょう [ 編集 へんしゅう ]
フィアット製 せい のトラクター(25R)
「イヴェコ 」ブランドなどで生産 せいさん されているトラック や バス 、建設 けんせつ 機械 きかい やトラクター などの農業 のうぎょう 機械 きかい などの事業 じぎょう は2011年 ねん に分社 ぶんしゃ 化 か されて「フィアット・インダストリアル 」となった。
なお、かつてはフィアットは、トラクター メーカーとしても知 し られていた。1919年 ねん 、最初 さいしょ のトラクター702型 がた の発売 はつばい を皮切 かわき りに、フィアットは農業 のうぎょう 機械 きかい 部門 ぶもん に進出 しんしゅつ した。
1971年 ねん にランボルギーニ グループから、「ランボルギーニ・トラットリーチ」(農業 のうぎょう 機械 きかい 部門 ぶもん )の全 ぜん 株式 かぶしき を取得 しゅとく 。
1984年 ねん には農業 のうぎょう 機械 きかい 部門 ぶもん を「フィアットアグリ」として分社 ぶんしゃ 化 か 、1988年 ねん には建設 けんせつ 機械 きかい 部門 ぶもん も統合 とうごう し「フィアットジオテック」と改称 かいしょう 。1991年 ねん にフォード・ニューホランド を買収 ばいしゅう 、「ニューホランド・ジオテック」と改称 かいしょう する。
その後 ご 、1999年 ねん にはケースIH を買収 ばいしゅう し「CNHグローバル 」と改称 かいしょう した。現在 げんざい では、CNHグローバルの有 ゆう するケースIH、ニューホランドブランドのトラクターが世界中 せかいじゅう で発売 はつばい されている。
アエリタリア G.91
かつてフィアットは航空機 こうくうき 及 およ び飛行機 ひこうき エンジンのメーカーとしても名 な を馳 は せていた。特 とく に軍用 ぐんよう 機 き の分野 ぶんや では様々 さまざま な用途 ようと の機種 きしゅ を開発 かいはつ 、生産 せいさん していた。
第 だい 一 いち 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん 後 ご 、フィアットはポミリオやアンサルド といった小規模 しょうきぼ な航空機 こうくうき メーカーを吸収 きゅうしゅう し、1930年代 ねんだい にはフィアット CR.32 やフィアット CR.42 といった有名 ゆうめい な複葉 ふくよう 戦闘 せんとう 機 き を世 よ に送 おく り出 だ した。第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん では、ダイムラー・ベンツ 製 せい のエンジンを搭載 とうさい した戦闘 せんとう 機 き フィアット G.55 、優 すぐ れたデザインの爆 ばく 撃 げき 機 き フィアット BR.20 などをイタリア空軍 くうぐん に提供 ていきょう した。さらに、イタリア軍 ぐん 向 む けにフィアット レベリM1935重 じゅう 機関 きかん 銃 じゅう など機関 きかん 銃 じゅう を製造 せいぞう していた。
1950年代 ねんだい 、NATO 加盟 かめい 国 こく で共通 きょうつう の軽 けい 戦闘 せんとう 爆撃 ばくげき 機 き を装備 そうび する計画 けいかく が持 も ち上 あ がり、フィアット G.91が設計 せっけい された。その後 ご 、航空機 こうくうき 開発 かいはつ 部門 ぶもん はアエリタリア を設立 せつりつ するためにアエルフェールと合併 がっぺい した。G.91の生産 せいさん もアエリタリアが引 ひ き継 つ いだため、アエリタリア G.91 と呼 よ ばれている。
トリノ市 し の有力 ゆうりょく 紙 し 「ラ・スタンパ (La Stampa)」などの各種 かくしゅ マスコミ もフィアットグループに属 ぞく する。また、ジョン・エルカーン が取締 とりしまり 会 かい のメンバーを務 つと める「コリエーレ・デラ・セラ 」も影響 えいきょう 下 か にあるとされる。
イタリアサッカー1部 ぶ リーグセリエA の強豪 きょうごう ユヴェントス は、フィアットのオーナー一族 いちぞく であるアニエッリ家 か が設立 せつりつ し、現在 げんざい も同家 どうけ がオーナーとしてその資金 しきん ・運営 うんえい においてバックアップしている。そのため、ユヴェントスの選手 せんしゅ たちはフィアットグループの車 くるま に乗 の っている。現在 げんざい の胸 むね スポンサーはステランティス 傘下 さんか のブランド「ジープ 」。
日本 にっぽん での歴史 れきし [ 編集 へんしゅう ]
1910年 ねん 12月、日本人 にっぽんじん による日本 にっぽん 国内 こくない での飛行機 ひこうき の初 はつ 飛行 ひこう が成功 せいこう [10] 。翌 よく 1911年 ねん 5月 がつ には米国 べいこく 人 じん のJ.C.マースが乗 の る飛行機 ひこうき と、大倉 おおくら 喜七郎 きしちろう のフィアット(100馬力 ばりき )のスピード・レースが川崎 かわさき 競馬 けいば 場 じょう で早 はや くも開 ひら かれた。大倉 おおくら はマースの飛行機 ひこうき に勝 か った[11] 。
第 だい 一 いち 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん 後 ご より日本 にっぽん への乗用車 じょうようしゃ の輸出 ゆしゅつ を始 はじ め、大倉 おおくら 喜七郎 きしちろう 率 ひき いる日本 にっぽん 自動車 じどうしゃ や、ヤナセ が正規 せいき 輸入 ゆにゅう 販売 はんばい 代理 だいり 店 てん となり「509トルペード」や「1500ベルリーナ」などの中型 ちゅうがた 車 しゃ を販売 はんばい していた。その後 ご 1930年代 ねんだい に入 はい ると満州 まんしゅう 国 こく への輸出 ゆしゅつ も行 おこな っていた。1938年 ねん (昭和 しょうわ 13年 ねん )には大日本帝国 だいにっぽんていこく 陸軍 りくぐん がイ式 しき 重 じゅう 爆撃 ばくげき 機 き を輸入 ゆにゅう して使用 しよう していた。
第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん 後 こう も乗用車 じょうようしゃ の輸入 ゆにゅう が行 おこな われていたが、いくつかの変遷 へんせん を経 へ て1980年代 ねんだい に入 はい ると、ジヤクス・カーセールス 、チェッカーモータース 、サミットモータース(住友商事 すみともしょうじ )が正規 せいき 輸入 ゆにゅう 販売 はんばい 代理 だいり 店 てん となり、フィアットのみならず、「アバルト」ブランドの車種 しゃしゅ も輸入 ゆにゅう 販売 はんばい された。
なおアルファロメオの輸入 ゆにゅう 販売 はんばい は、イタリア本社 ほんしゃ の民営 みんえい 化 か など様々 さまざま な要素 ようそ から正規 せいき 輸入 ゆにゅう 販売 はんばい 代理 だいり 店 てん が変 か わり、その中 なか で1980年代 ねんだい 中盤 ちゅうばん には日本 にっぽん 国内 こくない での正規 せいき 輸入 ゆにゅう 販売 はんばい 代理 だいり 店 てん がなくなり、輸入 ゆにゅう 販売 はんばい が中断 ちゅうだん することとなった。しかし1988年 ねん に大沢 おおさわ 商会 しょうかい が正規 せいき 輸入 ゆにゅう 販売 はんばい 代理 だいり 店 てん となったことで輸入 ゆにゅう 販売 はんばい が再開 さいかい された。
フィアットとアルファロメオ、ランチア [ 編集 へんしゅう ]
フィアットオートジャパンが運営 うんえい する「アルファロメオ新宿 しんじゅく パーク」(現在 げんざい は閉店 へいてん 済 ず み)
旧 きゅう アレーゼ中川 なかがわ (現 げん :フィアット/アバルト中川 なかがわ )
1990年代 ねんだい 以降 いこう は地場 じば 資本 しほん の企業 きぎょう による輸入 ゆにゅう 販売 はんばい をやめ、当時 とうじ 他 た の欧米 おうべい の自動車 じどうしゃ 会社 かいしゃ でも積極 せっきょく 的 てき に行 おこな われていたように自社 じしゃ の日本 にっぽん 法人 ほうじん を設立 せつりつ して、自前 じまえ での輸入 ゆにゅう 販売 はんばい への切 き り替 か えを進 すす めた。
1990年 ねん 4月 がつ より、フィアットグループオートモービルズは日本 にっぽん 法人 ほうじん 「アルファロメオジャパン」を設立 せつりつ 、アルファロメオ車 しゃ を販売 はんばい するディーラー 網 あみ 「アレーゼ 」の整備 せいび を始 はじ めた。同年 どうねん 11月 がつ にはアレーゼにおいてフィアット車 しゃ の取 と り扱 あつか いも開始 かいし し、社名 しゃめい を「フィアットアンドアルファロメオモータースジャパン」へと改称 かいしょう した。
さらに1997年 ねん の「フィアットオートジャパン」への改称 かいしょう を経 へ て、2007年 ねん 8月 がつ より「フィアットグループオートモービルズジャパン」として、フィアット、アルファロメオおよびアバルト・ブランド車 しゃ の輸入 ゆにゅう ・販売 はんばい を行 おこな っている。ディーラー網 もう の名称 めいしょう は、2003年 ねん 以降 いこう アレーゼから「アルファロメオ」へと変更 へんこう され、更 さら に「フィアット」「アバルト」が追加 ついか されている。
1998年 ねん まではマツダ 系列 けいれつ の「オートザム 」でも取 と り扱 あつか われていた、ランチア の正規 せいき 輸入 ゆにゅう は現在 げんざい 行 おこな われていないが、ガレーヂ伊太利屋 いたりや が並行 へいこう 輸入 ゆにゅう し販売 はんばい を行 おこな っている。
クライスラー日本 にっぽん との統合 とうごう [ 編集 へんしゅう ]
2012年 ねん 7月 がつ 1日 にち に、「フィアットグループオートモービルズジャパン」はクライスラーの日本 にっぽん 法人 ほうじん でもあり、「メルセデス・ベンツ日本 めるせですべんつにほん 」[注釈 ちゅうしゃく 2] の子会社 こがいしゃ でもあった「クライスラー日本 にっぽん 」と業務 ぎょうむ 統合 とうごう し「フィアットクライスラージャパン(FCJ)」を発足 ほっそく させた[12] [リンク切 き れ ] 。
なお、「フィアット・クライスラージャパン」は法人 ほうじん 名称 めいしょう ではなく、登記 とうき 上 じょう は別々 べつべつ に存続 そんぞく していた「フィアットグループオートモービルズジャパン」と「クライスラー日本 にっぽん 」を一括 いっかつ した呼称 こしょう としていた。そして2015年 ねん 1月 がつ 1日 にち 、「フィアットグループオートモービルズジャパン」と「クライスラー日本 にっぽん 」の両 りょう 法人 ほうじん は正式 せいしき に合併 がっぺい し、社名 しゃめい を「FCAジャパン株式会社 かぶしきがいしゃ 」(FCA Japan Ltd.、略称 りゃくしょう :FCAJ)に変更 へんこう [13] 。
販売 はんばい 網 もう の再 さい 編成 へんせい [ 編集 へんしゅう ]
2016年 ねん からは、フィアット・クライスラーのそれぞれの部門 ぶもん で、正規 せいき ディーラー網 もう の再 さい 編成 へんせい が行 おこな われている。2016年 ねん 4月 がつ 1日 にち に、全国 ぜんこく の「クライスラー・ジープ」店 てん の名称 めいしょう を「ジープ(+地名 ちめい )」に変更 へんこう 。同年 どうねん 10月 がつ より新 しん CIによる統一 とういつ 店舗 てんぽ デザインが導入 どうにゅう される[14] 。
2016年 ねん 7月 がつ 1日 にち から、フィアット正規 せいき ディーラーでアバルトブランド全車 ぜんしゃ の取 と り扱 あつか い及 およ びサポートを開始 かいし 。合 あ わせて、ディーラー名 めい をフィアット/アバルト(+地名 ちめい )に変更 へんこう した[15] 。2017年 ねん より、アルファロメオを新 しん CIの専売 せんばい 店舗 てんぽ で販売 はんばい する体制 たいせい を開始 かいし [16] 。アルファロメオの販売 はんばい をフィアット/アバルトとの併売 へいばい 体制 たいせい から切 き り離 はな し専売 せんばい 制 せい へと移行 いこう する。2018年 ねん より、フィアット/アバルト販売 はんばい 店 てん にも新 しん CIによる統一 とういつ 店舗 てんぽ デザインが導入 どうにゅう される。
フェラーリ とマセラティ は、長年 ながねん 正規 せいき 輸入 ゆにゅう 販売 はんばい 代理 だいり 店 てん を経由 けいゆ しての輸入 ゆにゅう 販売 はんばい が行 おこな われていたが、同 おな じく日本 にっぽん 法人 ほうじん による輸入 ゆにゅう 販売 はんばい に切 き り替 か えられた。現在 げんざい フェラーリは2008年 ねん に設立 せつりつ された日本 にっぽん 法人 ほうじん のフェラーリ・ジャパンが輸入 ゆにゅう し、「コーンズ・モーターズ 」や「ロッソ・スクーデリア 」など8社 しゃ の正規 せいき 販売 はんばい 代理 だいり 店 てん が販売 はんばい している。マセラティは2010年 ねん 4月 がつ に設立 せつりつ された日本 にっぽん 法人 ほうじん のマセラティ・ジャパンが輸入 ゆにゅう し、全国 ぜんこく の正規 せいき 販売 はんばい 代理 だいり 店 てん が販売 はんばい を行 おこな っている。
ニューホランドとケースIH [ 編集 へんしゅう ]
かつてはクボタ がフィアットブランドのトラクターを輸入 ゆにゅう していたが、現在 げんざい は傘下 さんか の「ニューホランド」と「ケースIH」のトラクターが、日本 にっぽん 法人 ほうじん の日本 にっぽん ニューホランドおよび三菱農機 みつびしのうき によって輸入 ゆにゅう されている。
日本 にっぽん 法人 ほうじん の再 さい 統合 とうごう [ 編集 へんしゅう ]
2022年 ねん 1月 がつ に、FCAジャパンとGroupe PSA Japan を合併 がっぺい させ日本 にっぽん 法人 ほうじん を統一 とういつ することが発表 はっぴょう された[17] 。存続 そんぞく 会社 かいしゃ はFCAジャパンとなる。
2022年 ねん 3月 がつ 1日 にち に、両 りょう 法人 ほうじん は合併 がっぺい し社名 しゃめい を「Stellantisジャパン株式会社 かぶしきがいしゃ 」とし、日本 にっぽん におけるステランティス の経営 けいえい が完全 かんぜん に統合 とうごう された。本社 ほんしゃ 機能 きのう は旧 きゅう FCAジャパン側 がわ に置 お かれる[18] 。なお、マセラティ・ジャパンは統合 とうごう の対象 たいしょう 外 がい となり、それぞれ現状 げんじょう のまま独立 どくりつ 会社 かいしゃ として運営 うんえい される。
イタリアのマイアーニ社 しゃ から「フィアット」という名 な のチョコレート が販売 はんばい されている。1911年 ねん に、新車 しんしゃ 「タイプ4」の宣伝 せんでん に使 つか うためマイアーニ社 しゃ に制作 せいさく を依頼 いらい したのが誕生 たんじょう のきっかけ[19] 。
^ 鉄道 てつどう 車両 しゃりょう 部門 ぶもん のFIAT Ferroviaria は2000年 ねん にアルストム ・トランスポール社 しゃ に買収 ばいしゅう された。
^ ダイムラーとクライスラーの協業 きょうぎょう が解消 かいしょう されたものの、日本 にっぽん では小規模 しょうきぼ ながらもメルセデス・ベンツ日本 めるせですべんつにほん がクライスラー日本 にっぽん の経営 けいえい に携 たずさ わっていたことから
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