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J.J.レート

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
J.J.レート
基本きほん情報じょうほう
フルネーム ユルキ・ユハニ・ヤルヴィレヘト
国籍こくせき  フィンランド
出身しゅっしん どうエスポー
生年月日せいねんがっぴ (1966-01-31) 1966ねん1がつ31にち(58さい
F1での経歴けいれき
活動かつどう時期じき 1989 - 1994
所属しょぞくチーム '89-'90オニクス
'91-'92スクーデリア・イタリア
'93,'94ザウバー
'94ベネトン
出走しゅっそう回数かいすう 62
タイトル 0
優勝ゆうしょう回数かいすう 0
表彰台ひょうしょうだい(3以内いない)回数かいすう 1
通算つうさん獲得かくとくポイント 10
ポールポジション 0
ファステストラップ 0
初戦しょせん 1989ねんポルトガルGP
はつ勝利しょうり -
最終さいしゅう勝利しょうり -
最終さいしゅうせん 1994ねんオーストラリアGP
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J.J.レートえい: J.J. Lehto1966ねん1がつ31にち - )は、フィンランドのもとレーシングドライバー1988ねんイギリスF3チャンピオン。ル・マン24あいだレースを2制覇せいはしている。

本名ほんみょうユルキ・ユハニ・ヤルヴィレヘトJyrki Juhani Järvilehto)で、フィンランド発音はつおん英語えいごけん人々ひとびとにはむずかしいものだったため、同郷どうきょうケケ・ロズベルグが「おぼえやすいように」との理由りゆうで「JJ」を名乗なのるよう指示しじした[1]というエピソードをつが、この JJ は愛称あいしょうでもある。

カート / モトクロス

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1972ねん母国ぼこくフィンランドで6さいのときにカートはじめる。ミカ・ハッキネンミカ・サロらとはジュニアカート時代じだいからのライバルだった。

1981ねんに2りんモトクロスレースに出場しゅつじょう好成績こうせいせきだったことから、以後いご3ねんはモトクロスを中心ちゅうしん活動かつどうする。しかし、競技きょうぎちゅう事故じこによりひざ負傷ふしょうし、モトクロスの着地ちゃくちにおける衝撃しょうげき吸収きゅうしゅう困難こんなんとなったため活動かつどう継続けいぞく断念だんねんする[2]。4りん転向てんこうかんがはじめた当初とうしょラリードライバーになることをかんがえていたが、ラリーデビュー直前ちょくぜんでスポンサーがりてしまいはなしながれてしまった。

フォーミュラ・フォード王者おうじゃ

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1985ねんに4りんレースに転向てんこう。フィンランドフォーミュラ・フォード(FF)1600にデビューしチャンピオンあらそいを展開てんかいするが、最終さいしゅうせんでクラッシュし王座おうざのがした。1986ねん、EFDAヨーロッパFF1600、スカンジナビアFF1600、フィンランドFF1600のかく選手権せんしゅけんでチャンピオンを獲得かくとく学業がくぎょうでは大学だいがく数学すうがく課程かてい修了しゅうりょうする。

1987ねんパシフィック・レーシング所属しょぞくしイギリスFF2000へとステップアップ。シーズン11しょうげる圧倒的あっとうてきはやさでチャンピオンを獲得かくとく。ヨーロッパFF2000でも6しょうげチャンピオンにかがやく。このとしにはおおきな転機てんきおとずれ、イギリスにわたって3レース・レートが圧勝あっしょうしたシルバーストーン・サーキットでのFF2000レースを同胞どうほうの1982ねんF1ワールドチャンピオン、ケケ・ロズベルグ現地げんちていた[3]。ケケは「J.Jのことは前年ぜんねんからはなしいていたが、はじめて実際じっさいてとにかくすごはやさだった。ひかかがや原石げんせき衝撃しょうげきだよ。はなしをしたら性格せいかくいし、わかいフィンランドじんドライバーをそだてるのは現役げんえき引退いんたい計画けいかくでもあったから面倒めんどうたいとおもった」[3]と、レース活動かつどうのプロモーション一切いっさいまかせてほしいとマネージャーに名乗なのる。こうしてレートはケケが設立せつりつしゃであるスポーツプロモーション企業きぎょう「ユーロ・プロモーション」のクライアントとなった。以後いご明確めいかくにプロのレーシングドライバーを目指めざすことになり、同年どうねんからマールボロのサポートをける契約けいやくドライバーにもなった。

フォーミュラ3王者おうじゃ

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1988ねんイギリス・フォーミュラ3選手権せんしゅけんにステップアップ。マールボロ・パシフィック・レーシングのレイナード・883-トヨタり8しょう、ポールポジション6かい、ファステストラップ11かいでシリーズを制圧せいあつしシリーズチャンピオンを獲得かくとくした。なお、ランキング3にはデイモン・ヒル以下いか4マーティン・ドネリー、5エディ・アーバインのほかローランド・ラッツェンバーガージル・ド・フェランなどのちのトップカテゴリードライバーとなる若手わかておお参戦さんせんしていたなかでのチャンピオン獲得かくとくであった。

フォーミュラ3000

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1989ねんにマールボロ・パシフィック・レーシングから国際こくさいF3000選手権せんしゅけんへとステップアップ、レイナード・89D-無限むげん・MF308の25号車ごうしゃをドライブする。チームメイトの24号車ごうしゃエディ・アーバインとなった。これまでのフォーミュラカーキャリアでは順調じゅんちょう結果けっかしつづけていたが、F3000参戦さんせん時折ときおりはやさをせるにとどまり最高さいこうポー市街地しがいちコースでの4であった。しかし、師匠ししょうであるケケと、スポンサーであるマールボロのプッシュもあり、フェラーリのテストドライバーに抜擢ばってきされる[4]フィオラノのテストコースでフェラーリ・640熟成じゅくせい開発かいはつと、しん搭載とうさいされていたセミオートマチックトランスミッション開発かいはつたずさわった[2]

同年どうねんポール・リカール・サーキットおこなわれたF1合同ごうどうテストではマールボロが支援しえんしていたF1新興しんこうチーム、オニクスORE-1をテストする機会きかいおとずれ、F3000でのチームメイトであるアーバインとともにテストに参加さんかさきにフェラーリテストドライバーとしてF1マシンを経験けいけんしていたレートは、はつのF1ドライブだったアーバインより2びょうちかはやいラップタイムを記録きろくした[5]。9月になるとオニクスのオーナーとの関係かんけい悪化あっかしていたレギュラーのベルトラン・ガショー解雇かいこされ、わってレートのオニクスりが急遽きゅうきょ決定けっていしF1デビューすることとなった。

オニクス時代じだい

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1989ねんだい13せんポルトガルGPで、オニクスからF1にはじめてエントリーしたが、このグランプリでは予備よび予選よせんちをきっした。F1デビュー(はつ決勝けっしょう進出しんしゅつ)はつづスペインGPで、このときはギアボックストラブルによりレース前半ぜんはんにリタイヤした。そのだい15せん日本にっぽんGPでは予備よび予選よせんち、豪雨ごううとなった最終さいしゅうせんオーストラリアGPでは一時いちじ5上位じょうい走行そうこう[6]したが、電気でんきけいトラブルが発生はっせいしリタイヤとなり、デビューイヤーの完走かんそうはならなかった。

オニクスとつづ契約けいやくし、開幕かいまくせんから参戦さんせんしたよく1990ねんは、だい2せんブラジルGP終了しゅうりょうにオニクスがスイスの投資とうしグループに売却ばいきゃくされ、主要しゅようスタッフとベテランのステファン・ヨハンソンらがチームをわれ、あらたにスイスじんドライバーのグレガー・フォイテク(ちちのカール・フォイテクがしん出資しゅっししゃであった[7])が加入かにゅう。レートはだい3せんサンマリノGPはつ完走かんそう(12)したが、しんオーナーのペーター・モンテベルディ出資しゅっししゃとなったカール・フォイテクの意向いこうからスイスじんでありカールの息子むすこでもあるグレガーに肩入かたいれする体制たいせいとなり、トランスミッションをまともにめるメカニックが存在そんざいしないというレーシングチームのからだしていないチーム状態じょうたいだった[8]は5予選よせんちと4のリタイアという状況じょうきょうなかだい10せんハンガリーGP8がつ15にちおこなわれたモンツァ合同ごうどうテストでは、エンジニアとメカニックの人数にんずう不足ふそくからまともに走行そうこうすること出来できず、危険きけんかんじるようになったレートとロズベルグは、テスト終了しゅうりょうモンテベルディ・オニクスに見切みきりをつけチームから離脱りだつした[9]。フォイテク同様どうよう理由りゆうでチームから離脱りだつし、資金しきんりょうドライバーをうしなったチームは最終さいしゅうせんまでグランプリをたたかうことなく消滅しょうめつした。なお、レートは同年どうねんル・マン24あいだレースリチャード・ロイド・レーシングポルシェ・962はつ出場しゅつじょうしている[10]

スクーデリア・イタリア時代じだい

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1991ねんにマールボロ・チームであるスクーデリア・イタリア移籍いせきはつのフル参戦さんせんたした。F1マシンでのテスト経験けいけんながいチームメイトのエマニュエル・ピロ度々たびたび上回うわまわり、このとしチームにされた前半ぜんはん8せん予備よび予選よせんすべ通過つうか、そのうち4かいをトップで通過つうかするなど安定あんていしてはやさをせた。だい3せんサンマリノGPでは、スタート直前ちょくぜんのスコールに翻弄ほんろうされマクラーレン・ホンダ以外いがい上位じょういチームが総崩そうくずれとなる展開てんかいなか予選よせん16から3まで浮上ふじょうしキャリア唯一ゆいいつとなるF1の表彰台ひょうしょうだいった。同様どうよう上位じょういチームが多数たすうリタイヤしただい5せんカナダGPでも一時いちじ4まで浮上ふじょうするが、マシントラブルによりコースわきにマシンをめた。シーズンをつうじてマシンの完走かんそう能力のうりょくひくさにくるしみ、16戦中せんちゅう11かいのリタイヤをきっした。

よく1992ねんもスクーデリア・イタリアに残留ざんりゅう。しかしダラーラせいBMS192はフロントサスに採用さいようしたモノショック・ダンパーの失敗しっぱいによりマシン・セッティングの再現さいげんせいがなく[11]、フェラーリV12エンジンを搭載とうさいしリヤヘビーとなったこともコーナリング性能せいのう悪化あっかまねいた[11]。チームメイトのピエルルイジ・マルティニともにシーズンをつうじて劣悪れつあくなコーナリング性能せいのう苦戦くせんつづけ、決勝けっしょうレースでは10前後ぜんこう走行そうこうすることがほとんどだった。マルティニは6記録きろくし2ポイントを獲得かくとくしたが、レートは完走かんそうおおたしたが最高さいこう7とノーポイントにわった。今宮いまみやじゅんは「このチームは去年きょねんジャッドV10でそれなりにはやかったクルマが、フェラーリV12をせたとたんうしろがおもくなってちがうクルマになってしまった。チームがV12エンジンへ過度かど期待きたいせ、それにりょうドライバーがまわされてしまったシーズンだった。」と総括そうかつしている[11]

ザウバー時代じだい

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1993ねんスポーツカー世界せかい選手権せんしゅけん活躍かつやくし、メルセデスとのパイプをザウバーのF1はつ参戦さんせんドライバーに抜擢ばってきされる(メルセデスとの契約けいやくがあったが、ベネトンむすんだ複数ふくすうねん契約けいやくたてにザウバーでのドライブを拒否きょひしたミハエル・シューマッハ[12]実質じっしつじょう代役だいやく)。開幕かいまくぜんテストでは、よんきょう一角いっかくであるフェラーリベネトン上回うわまわるタイムをすなど、C12素性すじょうさを結果けっかしめしていた。むかえた開幕かいまくせんみなみアフリカGPでも予選よせん6獲得かくとくし、決勝けっしょうレースでも5入賞にゅうしょう。この結果けっかによりF1では新参しんざんチームであったザウバーは参戦さんせん1せんにしてポイント獲得かくとくという快挙かいきょげる。だい4せんサンマリノGPでも4入賞にゅうしょうした。しかしシーズン中盤ちゅうばんになるとC12はエンジンなど信頼しんらいせい低下ていかがみられ、チームメイトのカール・ヴェンドリンガー共々ともども予選よせん上位じょうい獲得かくとくするも決勝けっしょうレースではリタイヤとなるたたかいがつづいた。ヴェンドリンガーとは予選よせん順位じゅんい互角ごかくであったが、モナコGP同士討どうしうちをして以降いこう2人ふたり関係かんけい悪化あっかほうじられた[13]

ベネトン時代じだい

[ソースを編集へんしゅう]

1994ねんミケーレ・アルボレートとのシートあらそいにちベネトンのセカンド・ドライバーに抜擢ばってきされたが、2がつシルバーストンテストにおいてマシン後部こうぶからフェンスに激突げきとつするだいクラッシュをきっ頸椎骨折こっせつした。腰部ようぶほね一部いちぶ頚部けいぶ移植いしょくする大掛おおがかりな手術しゅじゅつけ、開幕かいまく直前ちょくぜん合同ごうどうテストに復帰ふっきするが、たて方向ほうこう振動しんどうたいしてくびいたむことがかり、開幕かいまく2せん欠場けつじょうした。復帰ふっき初戦しょせんとなっただい3せんサンマリノGPでは、予選よせん5のタイムをしたものの、決勝けっしょうスタートにエンジンストールしたため後方こうほうからスロットル全開ぜんかいロータスペドロ・ラミーはげしく追突ついとつされ0しゅうリタイヤとなった。つぎせんモナコGP予選よせんではチームメイトのシューマッハに4びょうをつけられるなど精彩せいさいいた。だい5せんスペインGPではフリー走行そうこうでトップ、予選よせんも4につけるなど復調ふくちょうきざしをせたが、決勝けっしょうは3走行そうこうちゅうにエンジンブローに見舞みまわれリタイヤ。だい6せんカナダGPでは予選よせん20からぜん走者そうしゃクリスチャン・フィッティパルディ失格しっかくにより6入賞にゅうしょうするも、結局けっきょくこのグランプリを最後さいごにレートの代役だいやくとして開幕かいまく2せん出場しゅつじょうしたサードドライバーのヨス・フェルスタッペン正規せいきシートをうばわれ、レートは休養きゅうようという名目めいもく実戦じっせんからろされた。

7がつ以降いこうくび回復かいふく具合ぐあい確認かくにんねて、フラビオ・ブリアトーレ買収ばいしゅうしベネトン傘下さんかとなったリジェのテストチームにくわわり、TWRによるチームのテコ入てこい開始かいしされたリジェのJS39Bをフェルスタッペンとともにテスト。ベネトンのロリー・バーンくわえた開発かいはつチームの一員いちいんとしてアンダートレイとそらりょくパーツをかえ性能せいのう評価ひょうかした[14]性能せいのうたかめたJS39Bは7がつまつドイツGPで2だいそろって表彰台ひょうしょうだい獲得かくとくするなど、水面すいめん貢献こうけんした[15]

9月にシューマッハが出場しゅつじょう停止ていし処分しょぶんけたため、だい12せんイタリアGPだい13せんポルトガルGPふたたびベネトンから代走だいそうするも、それぞれ9・リタイヤと目立めだった成績せいせきのこせなかった。

シーズン終盤しゅうばん日本にっぽん・オーストラリアの2せんアンドレア・デ・チェザリス後任こうにんとして前年ぜんねん所属しょぞくしたザウバーから出走しゅっそうしたが(ベネトンから許可きょかてザウバーがレンタル契約けいやくをした)[16]、それぞれリタイヤと10であった。

最終さいしゅうせん終了しゅうりょう、ザウバーからは'95ねんについてオファーがあり、F3000時代じだいまで所属しょぞくしこのとしF1参戦さんせん初年度しょねんどえた古巣ふるすパシフィック・レーシングとも交渉こうしょうするも、マネージメント担当たんとうのロズベルグがDTM参戦さんせんするオペルでの戦闘せんとうりょくたかいオプションをっていたため、カテゴリー転向てんこう決意けついし1994ねんをもってF1でのキャリアをえた。なお、'94ねん7がつ休養きゅうようちゅう期間きかんちゅうにベネトン傘下さんかとなったリジェ・JS39Bのテストを担当たんとうしたことでルノー・RS6 V10エンジンにっており知識ちしきていた。これによりレートはザウバーでのイルモアV10(メルセデス)、ベネトンでのゼテックR V8、そしてルノーV10とおなねんの3メーカーのエンジンをっており、旧知きゅうちのロズベルグをつうじてレートがリジェ・ルノーにった経験けいけんっているといたマクラーレンロン・デニスよく'95ねんからメルセデスV10搭載とうさい決定けっていしていた)から「イルモア(メルセデス)V10と、ルノーV10とゼテックRのちがいについてレポートをいてほしい」と依頼いらいけた。これは翌年よくねんマクラーレンF1 GTRル・マン24あいだレース出場しゅつじょうすることになるきっかけになった[17]

F1をはなれた1995ねん - 1996ねんは、ロズベルグがチームを組織そしきして参戦さんせんしていたDTMITCオペル・カリブラって参戦さんせんとくに1996ねん優勝ゆうしょうこそかったが地元じもとヘルシンキをはじめおおくのレースで着実ちゃくじつ入賞にゅうしょうかさねランキング5はいった。よく1997ねんにはFIA-GT選手権せんしゅけん活動かつどううつしシュニッツァー・マクラーレンから参戦さんせんスティーブ・ソパーとのペアで4しょうげシリーズ2となる。

1998ねんにはふたたびフォーミュラカーでのレースをのぞみ、CARTワールドシリーズへの参戦さんせん目指めざパックウェスト・レーシングでのテストに参加さんかしたのち、ホーガン・レーシングと契約けいやくしレイナード・メルセデス9号車ごうしゃでフル参戦さんせん。ラップリーダーとしてはしるレースもあったが、1カー体制たいせいでメインスポンサーをたない予算よさん体制たいせいもありレースちゅうのマシントラブル発生はっせいおおく、最高さいこう成績せいせきは5とどまった。同年どうねんがフォーミュラカーでの最後さいごとしとなり、そのはスポーツカーレースに活動かつどううつす。

ル・マン24あいだレース制覇せいは

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1995ねん2005ねんにはル・マン24あいだ耐久たいきゅうレース優勝ゆうしょう同時どうじにフィンランドじんとしてはつのル・マン制覇せいはをしている。またALMSなどでは、F1参戦さんせん時代じだいから親交しんこうのあったステファン・ヨハンソンジョニー・ハーバート、エマニュエル・ピロとコンビをんで参戦さんせんした。

ボート事故じこ

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2010ねん6月18にち、フィンランド南部なんぶのタンミサーリにおいてボートを操縦そうじゅうちゅう橋脚きょうきゃく衝突しょうとつ自身じしん頭部とうぶ負傷ふしょう同乗どうじょうしていた友人ゆうじん死亡しぼうする事故じこう。当初とうしょ事故じこ原因げんいん不明ふめいとされていたが、ボートは運河うんが制限せいげん速度そくどである5ノット(9.3km/h)を大幅おおはばえるやく40ノット(やく74km/h)で橋脚きょうきゃく衝突しょうとつしており、病院びょういんおこなわれたちゅうアルコールテストにレートがかったこと、さらに周囲しゅうい証言しょうげんから事故じこにあったボートがレートの所有しょゆうぶつであったこと、そしてレート自身じしんが「事故じこ記憶きおくがない」とはなしていたことから飲酒いんしゅ状態じょうたいでボートを操縦そうじゅうしていたのではないかという疑惑ぎわくがかけられることとなり警察けいさつ捜査そうさ開始かいしした。本人ほんにん飲酒いんしゅ事実じじつ否定ひていしていたが、フィンランドの裁判所さいばんしょ数々かずかず証拠しょうこからかれ飲酒いんしゅ運転うんてんみとめ、2011ねん12月14にち懲役ちょうえき2ねん4ヶ月かげつ判決はんけつくだした。この判決はんけつたいしレートがわ控訴こうそ、11月30にちにフィンランドのトゥルクで控訴こうそ裁判さいばんおこなわれ、ボートが橋脚きょうきゃく衝突しょうとつしたさい操縦そうじゅうしゃがレートであった確証かくしょうはないとの判決はんけつくだされ実刑じっけいかれた。

レース戦績せんせき

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イギリス・フォーミュラ3選手権せんしゅけん

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とし チーム シャーシ エンジン クラス 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 順位じゅんい ポイント
1988ねん マールボロ・パシフィック・レーシング レイナード 883 トヨタ A THR
1
SIL
1
THR
Ret
BRH
24
DON
2
SIL
1
BRH
1
THR
Ret
SIL
1
DON
1
SIL
3
SNE
3
OUL
2
SIL
1
BRH
Ret
SPA
1
THR
2
SIL
3
1 164

国際こくさいF3000選手権せんしゅけん

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とし チーム シャーシ エンジン 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 順位じゅんい ポイント
1989ねん マールボロ・パシフィック・レーシング レイナード・89D 無限むげん・MF308 SIL
DSQ
VLL
Ret
PAU
4
JER
6
PER
Ret
BRH
Ret
BIR
Ret
SPA
5
BUG
Ret
DIJ 14 6

(key)

マカオグランプリ

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とし チーム シャーシ/エンジン 予選よせん レース1 レース2 総合そうごう順位じゅんい
1988ねん イギリスの旗 マールボロ・パシフィック・レーシング レイナードトヨタ 2 4 DNF NC
とし チーム シャーシ エンジン タイヤ 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 順位じゅんい ポイント
1989ねん オニクス ORE1 フォード DFR V8 G BRA SMR MON MEX USA CAN FRA GBR GER HUN BEL ITA POR
DNPQ
ESP
Ret
JPN
DNPQ
AUS
Ret
NC 0
1990ねん ORE1B G USA
DNQ
BRA
DNQ
SMR
12
MON
Ret
CAN
Ret
MEX
Ret
FRA
DNQ
GBR
DNQ
GER
NC
HUN
DNQ
BEL ITA POR ESP JPN AUS NC 0
1991ねん スクーデリア・イタリア ダラーラ BMS 191 ジャッド GV V10 P USA
Ret
BRA
Ret
SMR
3
MON
11
CAN
Ret
MEX
Ret
FRA
Ret
GBR
13
GER
Ret
HUN
Ret
BEL
Ret
ITA
Ret
POR
Ret
ESP
8
JPN
Ret
AUS
12
12 4
1992ねん ダラーラ BMS 192 フェラーリ Tipo037 V12 G RSA
Ret
MEX
8
BRA
8
ESP
Ret
SMR
11
MON
9
CAN
9
FRA
9
GBR
13
GER
10
HUN
DNQ
BEL
7
ITA
11
POR
Ret
JPN
9
AUS
Ret
NC 0
1993ねん ザウバー C12 ザウバー 2175A V10 G RSA
5
BRA
Ret
EUR
Ret
SMR
4
ESP
Ret
MON
Ret
CAN
7
FRA
Ret
GBR
8
GER
Ret
HUN
Ret
BEL
9
ITA
Ret
POR
7
JPN
8
AUS
Ret
13 5
1994ねん ベネトン B194 フォード ゼテックR V8 G BRA PAC SMR
Ret
MON
7
ESP
Ret
CAN
6
FRA GBR GER HUN BEL ITA
9
POR
Ret
EUR 24 1
ザウバー C13 メルセデス 2175B V10 JPN
Ret
AUS
10

(key)

とし チーム シャーシ エンジン 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 順位じゅんい ポイント
1998ねん ホーガン・レーシング レイナード・98i メルセデス MIA
14
MOT
Ret
LBH
Ret
NZR
16
RIO
10
STL
9
MIL
Ret
DET
Ret
POR
Ret
CLE
Ret
TOR
Ret
MIS
Ret
MDO
15
ROA
Ret
VAN
8
LS
Ret
HOU
10
SRF
5
FON
Ret
20 25

(key)

アメリカン・ル・マン・シリーズ

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とし チーム 使用しよう車両しゃりょう クラス 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 順位じゅんい ポイント
1999ねん BMWモータースポーツ BMW・V12 LMR LMP SEB
1
ATL MOS SNM
1
POR
2
PET
3
LGA
1
LSV
1
4 123
2000ねん LMP SEB
3
CHA
1
SIL
1
NÜR
2
SNM
3
MOS
2
TEX
4
ROS
3
PET
5
LGA
3
LSV
9
ADE 6 220
2001ねん BMW・M3 GT TEX
5
2 186
BMW・M3 GTR SEB
3
DON
Ret
JAR
2
SNM
1
POR
3
MOS
1
MDO
1
LGA
1
PET
4
2002ねん チーム・キャデラック キャデラック・ノーススター・LMP02 LMP900 SEB
9
SNM MDO ROA WAS TRO MOS
3
LGA
3
MIA
2
PET
3
13 101
2003ねん ADT チャンピオン・レーシング アウディ・R8 LMP900 SEB
2
ATL
1
SNM
2
TRO
2
MOS
4
ROA
1
LGA
3
MIA
1
PET
1
3 163
2004ねん LMP1 SEB
2
MDO
1
LIM
1
SNM
1
POR
2
MOS
1
ROA
1
PET
1
LGA
2
1 164
2005ねん LMP1 SEB
1
ATL
1
MDO
5
LIM
1
SNM
3
POR
5
ROA
3
MOS
2
PET
3
LGA
4
3 148

ル・マン24あいだレース

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ル・マン24あいだレース 結果けっか
とし チーム コ・ドライバー 使用しよう車両しゃりょう クラス 周回しゅうかい 順位じゅんい クラス
順位じゅんい
1990ねん イギリスの旗 リチャード・ロイド・レーシング ドイツの旗 マヌエル・ロイター
イギリスの旗 ジェームス・ウィーバー
ポルシェ・962C GTi C1 181 DNF DNF
1991ねん ドイツの旗 ポルシェ・クレマー・レーシング ドイツの旗 マヌエル・ロイター
フィンランドの旗 ハリ・トイヴォネン
ポルシェ・962CK6 C2 343 9 9
1995ねん イギリスの旗 国際こくさい開発かいはつレーシング フランスの旗 ヤニック・ダルマス
日本の旗 関谷せきや正徳まさのり
マクラーレン・F1 GTR GT1 298 1 1
1996ねん イギリスの旗 ガルフ・レーシング GTC イギリスの旗 レイ・ベルム
イギリスの旗 ジェームス・ウィーバー
GT1 323 9 7
1997ねん ドイツの旗 BMWモータースポーツ イギリスの旗 スティーブ・ソパー
ブラジルの旗 ネルソン・ピケ
GT1 236 DNF DNF
1999ねん デンマークの旗 トム・クリステンセン
ドイツの旗 ヨルグ・ミューラー
BMW・V12 LMR LMP 304 DNF DNF
2002ねん アメリカ合衆国の旗 チーム・キャデラック フランスの旗 エリック・ベルナール
フランスの旗 エマニュエル・コラール
キャデラック・ノーススター・LMP02 LMP900 334 12 10
2003ねん アメリカ合衆国の旗 ADT チャンピオン・レーシング イタリアの旗 エマニュエル・ピロ
スウェーデンの旗 ステファン・ヨハンソン
アウディ・R8 LMP900 372 3 1
2004ねん イタリアの旗 エマニュエル・ピロ
ドイツの旗 マルコ・ヴェルナー
LMP1 368 3 3
2005ねん デンマークの旗 トム・クリステンセン
ドイツの旗 マルコ・ヴェルナー
LMP1 370 1 1

セブリング12あいだレース

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セブリング12あいだレース 結果けっか
とし チーム コ・ドライバー 使用しよう車両しゃりょう クラス 周回しゅうかい 順位じゅんい クラス
順位じゅんい
1999ねん ドイツの旗 BMWモータースポーツ デンマークの旗 トム・クリステンセン
ドイツの旗 ヨルグ・ミューラー
BMW・V12 LMR LMP 313 1 1
2000ねん ドイツの旗 ヨルグ・ミューラー

LMP 359 3 3
2001ねん ドイツの旗 ヨルグ・ミューラー

BMW・M3 GTR GT 324 10 3
2002ねん アメリカ合衆国の旗 チーム・キャデラック フランスの旗 エリック・ベルナール
フランスの旗 エマニュエル・コラール
キャデラック・ノーススター・LMP02 LMP900 256 DNF DNF
2003ねん アメリカ合衆国の旗 ADT チャンピオン・レーシング イタリアの旗 エマニュエル・ピロ
スウェーデンの旗 ステファン・ヨハンソン
アウディ・R8 LMP900 367 2 2
2004ねん イタリアの旗 エマニュエル・ピロ
ドイツの旗 マルコ・ヴェルナー
LMP900 345 2 2
2005ねん デンマークの旗 トム・クリステンセン
ドイツの旗 マルコ・ヴェルナー
LMP1 361 1 1

グランドツーリングカー

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とし チーム 使用しよう車両しゃりょう クラス 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 順位じゅんい ポイント
1995ねん トヨタ チーム トムス トヨタ・スープラ LM-GT GT1 JER PRI MNZ JAR NÜR DON PAR AND SUZ SIL NOG ZHU
Ret
NC 0
1996ねん ガルフ・レーシング GTC マクラーレン・F1-GTR GT1 PRI MNZ JAR SIL NÜR AND SUZ
1
BRA SPA NOG ZHU
3
32 14

FIA GT選手権せんしゅけん

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とし チーム 使用しよう車両しゃりょう クラス 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 順位じゅんい ポイント
1997ねん BMWモータースポーツ マクラーレン・F1-GTR GT1 HOC
1
SIL
3
HEL
1
NÜR
3
SPA
1
A1R
3
SUZ
4
DON
3
MUG
1
SEB
16
LAG
Ret
2 59

ツーリングカー

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ドイツツーリングカー選手権せんしゅけん

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とし チーム 使用しよう車両しゃりょう 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 順位じゅんい ポイント
1995ねん オペル・チーム・ヨースト オペル・カリブラ V6 4x4 HOC1
8
HOC2
4
AVU1
10
AVU2
20
NOR1
7
NOR2
Ret
DIE1
15
DIE2
8
NÜR1
Ret
NÜR2
Ret
SIN1
Ret
SIN2
8
HOC1
6
HOC2
6
13 36

(key)

国際こくさいツーリングカー選手権せんしゅけん

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とし チーム 使用しよう車両しゃりょう 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 順位じゅんい ポイント
1995ねん オペル・チーム・ヨースト オペル・カリブラ V6 4x4 MUG
1

11
MUG
2

8
HEL
1

3
HEL
2

Ret
DON
1

11
DON
2

11
EST
1

11
EST
2

11
MAG
1

8
MAG
2

5
11 26
1996ねん HOC
1

15
HOC
2

Ret
NÜR
1

5
NÜR
2

2
EST
1

6
EST
2

DNS
HEL
1

5
HEL
2

3
NOR
1

4
NOR
2

3
DIE
1

7
DIE
2

Ret
SIL
1

5
SIL
2

2
NÜR
1

7
NÜR
2

5
MAG
1

5
MAG
2

3
MUG
1

9
MUG
2

15
HOC
1

5
HOC
2

8
SAO
1

6
SAO
2

9
SUZ
1

Ret
SUZ
2

8
5 148

(key)

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ 発音はつおんむずかしい本名ほんみょうをJ.Jとみじかくさせプロへのみちへとすすませてくれたのもケケだった。 F1グランプリ特集とくしゅう vol.042 1992ねん12がつごう 95ぺーじ、ファインダーしの情景じょうけい(21)可能かのうせいめた北欧ほくおう少年しょうねん ソニーマガジンズ
  2. ^ a b しん世代せだいドライバーインタビュー J.J.レート 自分じぶんにできること天命てんめいつだけ F1速報そくほう だい5かんだい3ごう 1994テスト情報じょうほうごう 52-53ぺーじ ニュにゅズ出版ずしゅっぱん
  3. ^ a b 暗躍あんやくする成功せいこう請負人うけおいにん・パーソナルマネージャーの「うそ」と「」/ケケ・ロズベルグインタビュー F1グランプリ特集とくしゅう 1993ねん7がつごう 63ぺーじ ソニーマガジンズ
  4. ^ JJレートがフェラーリをテスト F1GPX 1989ねんだい6せんカナダGPごう 29ぺーじ 山海さんかいどう
  5. ^ F1GPX シーズンオフごう 31ぺーじ 1990ねん2がつ24にち発行はっこう 山海さんかいどう
  6. ^ F1GPX 1989ねんだい16せんオーストラリアGPごう 6-7ぺーじ 山海さんかいどう
  7. ^ オニックスはスイスグループが買収ばいしゅうへ F1GPX 1989ねんだい2せんブラジルGPごう 30ぺーじ 山海さんかいどう
  8. ^ オート・テクニック 1990ねん6がつごう 山海さんかいどう
  9. ^ モンテベルディ F1から撤退てったい F1GPX 1989ねんだい11せんベルギーGPごう 30ぺーじ 山海さんかいどう
  10. ^ JJレート ルマン24あいだ出場しゅつじょう F1GPX 1989ねんだい5せんカナダGPごう 30ぺーじ 山海さんかいどう
  11. ^ a b c スクーデリアイタリア F1コンストラクターズ・スタイルブック 74-79ぺーじ ソニーマガジンズ 1992ねん10がつ25にち発行はっこう
  12. ^ ザウバー、93ねんからのF1で”シューマッハー事件じけん再発さいはつか グランプリ・エクスプレス プレシーズンごうNEWSTOPICS 38ぺーじ 1992ねん3がつ7にち発行はっこう
  13. ^ ザウバー 堅実けんじつ骨太ほねぶと強力きょうりょくチームへ F1PRIX 12ぺーじ 双葉社ふたばしゃ 1994ねん2がつ19にち発行はっこう
  14. ^ チェックアップ・ザ・ポテンシャル LIGIER 着々ちゃくちゃく人事じんじ刷新さっしんたれるベネトン効果こうか F1グランプリ特集とくしゅう vol.062 52ぺーじ ソニーマガジンズ 1994ねん8がつ16にち発行はっこう
  15. ^ LIGIER JS39B Renault オートスポーツAS+F HUMAN DOCUMENT永久えいきゅう保存ほぞんばんF1総集編そうしゅうへん1994 ぺーじ 三栄書房さんえいしょぼう 1994ねん12月14にち発行はっこう
  16. ^ 鈴鹿すずか急遽きゅうきょんだレート、ザウバーに復帰ふっき AS+F '94ねんだい15せん日本にっぽんGPごう 67ぺーじ 三栄書房さんえいしょぼう 1994ねん11月24にち発行はっこう
  17. ^ Lehto After Benetton Ibrar Malik 2018ねん12月21にち

関連かんれん項目こうもく

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タイトル
先代せんだい
ジョニー・ハーバート
イギリスF3選手権せんしゅけん
1988ねん
次代じだい
デビッド・ブラバム
先代せんだい
ヤニック・ダルマス
ハーレイ・ヘイウッド
マウロ・バルディ
ル・マン24あいだ優勝ゆうしょうしゃ
1995 with:
ヤニック・ダルマス
関谷せきや正徳まさのり
次代じだい
マヌエル・ロイター
デイビー・ジョーンズ
アレクサンダー・ヴルツ
先代せんだい
トム・クリステンセン
あらきよし
リナルド・カペッロ
ル・マン24あいだ優勝ゆうしょうしゃ
2005 with:
トム・クリステンセン
マルコ・ヴェルナー
次代じだい
フランク・ビエラ
エマニュエル・ピロ
マルコ・ヴェルナー