(Translated by https://www.hiragana.jp/)
フォルカー・ヴァイドラー - Wikipedia コンテンツにスキップ

フォルカー・ヴァイドラー

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
フォルカー・ヴァイドラー
基本きほん情報じょうほう
国籍こくせき ドイツの旗 ドイツ
出身しゅっしん どうハイデルベルクしゅうハイデルベルク
生年月日せいねんがっぴ (1962-03-18) 1962ねん3月18にち(62さい
F1での経歴けいれき
活動かつどう時期じき 1989
所属しょぞくチーム リアル
出走しゅっそう回数かいすう 10 (0かいスタート)
タイトル 0
優勝ゆうしょう回数かいすう 0
表彰台ひょうしょうだい(3以内いない)回数かいすう 0
通算つうさん獲得かくとくポイント 0
ポールポジション 0
ファステストラップ 0
初戦しょせん 1989ねんブラジルGP
はつ勝利しょうり -
最終さいしゅう勝利しょうり -
最終さいしゅうせん 1989ねんハンガリーGP
テンプレートを表示ひょうじ

フォルカー・ヴァイドラーVolker Weidler1962ねん3月18にち - )はドイツ出身しゅっしんもとレーシングドライバーである。1985ねんドイツF3チャンピオン、1991ねんル・マン24あいだレース優勝ゆうしょうしゃフォルカー・バイドラー表記ひょうきされることもある。

はげしいはしりでられたが、それゆえくるまとの接触せっしょくおおく、批判ひはん対象たいしょうとなることもあった。

経歴けいれき[編集へんしゅう]

来日らいにちまえ[編集へんしゅう]

  • 1977ねん-1979ねんレーシングカート
  • 1980ねん-1981ねんドイツFフォード1600シリーズ2
  • 1982ねんドイツFフォード1600チャンピオン・ドイツFフォード2000チャンピオン・ヨーロッパFフォード1600チャンピオン 
  • 1983ねんにドイツF3に参戦さんせん開始かいし、1984ねんドイツF3シリーズ2 1985ねんにはチャンピオンにかがやく。
  • 1986ねんFIAインターナショナルF3000選手権せんしゅけん参戦さんせん

はつ来日らいにち[編集へんしゅう]

1987ねん全日本ぜんにほんスポーツプロトタイプカー耐久たいきゅう選手権せんしゅけんへの参戦さんせんクリス・ニッセンみ、レイトンハウスポルシェ・962Cをドライブ。海外かいがいでは同年どうねんのポルシェカップをせいし、1988ねんにはFIAインターナショナルF3000選手権せんしゅけん参戦さんせんしシリーズランキング16となる。

F1[編集へんしゅう]

1989ねんリアルフォードコスワース)のシートを獲得かくとくするが、開幕かいまくせんから8せん連続れんぞく予備よび予選よせんちをきっし、えにより予備よび予選よせん免除めんじょされたのちも2せん連続れんぞく予選落よせんおちすると、チームはあらたにピエール=アンリ・ラファネル契約けいやくし、ヴァイドラーはいち決勝けっしょうはしることがないままF1シートをうしなった。1992ねんのインタビューで、リアルのマシン「ARC2」は、「設計せっけいはチームがおこなったが、製作せいさく予算よさん削減さくげんのためドイツのグライダー製作せいさく会社かいしゃ依頼いらいしてつくられたもので、剛性ごうせいくグニャグニャのシャシーだった。」と証言しょうげんしている[1]

さい来日らいにち[編集へんしゅう]

1990ねんよりふたた日本にっぽんにレース活動かつどううつし、ノバ・エンジニアリングとドライバー契約けいやく全日本ぜんにほんF3000選手権せんしゅけん全日本ぜんにほんスポーツプロトタイプカー耐久たいきゅう選手権せんしゅけん(JSPC)にフル参戦さんせん。F3000でひろげたロス・チーバー星野ほしの一義かずよしとの因縁いんねん関係かんけいなどもあり、人気にんきドライバーの1人ひとりとなる。

めのはしりはしばしば問題もんだいとなり、1990ねん全日本ぜんにほんF3000だい10せん鈴鹿すずかでは、スタート直後ちょくご発生はっせいした多重たじゅうクラッシュの要因よういんとされ、ヴァイドラーのマシン操縦そうじゅうが「重大じゅうだい事故じこ発生はっせい予測よそくできる危険きけん行為こうい」とされ、失格しっかく処分しょぶん罰金ばっきん60まんえんのペナルティをされた[2]。しかし、その 延期えんきされていただい9せん富士ふじにて、F3000はつ優勝ゆうしょうポールトゥーウィン達成たっせいはやさもアピールした。

1991ねんにも全日本ぜんにほんF3000で1しょうげたほかマツダからル・マン24あいだレース参戦さんせんジョニー・ハーバートベルトラン・ガショーとともに、ロータリーエンジン搭載とうさいしゃである787B優勝ゆうしょう日本にっぽんしゃはつ快挙かいきょ貢献こうけんした。

同年どうねん日本にっぽんでのはしりを評価ひょうかした無限むげんからの依頼いらいで、無限むげん購入こうにゅうしたティレル・018のシャーシーにF1レギュレーションに沿った仕様しよう無限むげんせい3500ccV8エンジンを搭載とうさいしたマシンでのテストドライブを担当たんとう。このテストは無限むげん主催しゅさいのプライベイトテストだったが、ブリヂストンせいタイヤ(F1参戦さんせん発表はっぴょうはこの5ねん。)を装着そうちゃくしておこなわれており[3]、まだF1進出しんしゅつうわさ段階だんかいであった無限むげんとブリヂストンが共同きょうどうじつはしテストしたことで話題わだいとなった[4]

1992ねん[編集へんしゅう]

1992ねん、ヴァイドラーはさら躍進やくしん。ル・マン24あいだレースに前年ぜんねん同様どうようマツダから参戦さんせん決勝けっしょうでは雨天うてんなかスタート直後ちょくご優勝ゆうしょうあらそいの本命ほんめいとされるプジョートヨタいきおいを、耐久たいきゅうレースらしからぬ豪快ごうかいはしりでき、トップに浮上ふじょう[5]優勝ゆうしょう絶望ぜつぼうされるなかまえはげしいはしりでレースをまわし、最終さいしゅうてきに4入賞にゅうしょうした。

全日本ぜんにほんF3000では、チーバーやマウロ・マルティニとチャンピオンあらそいをひろげる。だい4せん鈴鹿すずかでは1しゅうにチーバーにたいし、通常つうじょうオーバーテイクポイントとはならないぎゃくバンクでアウトがわから仕掛しかけ、トップを奪取だっしゅ。そのままシーズンはつ優勝ゆうしょう記録きろく[6]すると、8がつおこなわれただい6せん菅生すごう)でも、スタート直後ちょくごにトップを奪取だっしゅしそのまま優勝ゆうしょう。シーズン2しょうげ、ランキングトップにった。

ヴァイドラーが所属しょぞくするノバの森脇もりわきはじめきょう監督かんとくによれば、この時点じてん翌年よくねんのF1復帰ふっきがほぼ内定ないていしていたという。

引退いんたい[編集へんしゅう]

しかし活躍かつやくうらで、体調たいちょうめん悪化あっか深刻しんこくしつつあった。1991ねんのル・マン24あいだレースのころから耳鳴みみな症状しょうじょううったはじめ、シーズン終了しゅうりょう母国ぼこくドイツへ帰国きこくすると、医師いしから突発とっぱつせい難聴なんちょう診断しんだんされた。シーズンオフに集中しゅうちゅう治療ちりょうけたヴァイドラーだったが、翌年よくねんのル・マン24あいだレースをまえスイスでも治療ちりょうけたが完治かんじはせず、それにともな頭痛ずつう嘔吐おうと、めまいがはげしくなっていた。そして菅生すごうのレースから帰国きこく医師いしからドクターストップけられ、つい選手せんしゅ生命せいめいたれてしまう。ドライバーとしてあぶらりつつあったなか突然とつぜん引退いんたいとなった。のこりのレースを欠場けつじょうした全日本ぜんにほんF3000選手権せんしゅけんは、最終さいしゅうてきにシーズン4となっている。

引退いんたいはドイツに帰国きこく現在げんざいシステムエンジニアて、家業かぎょう清掃せいそうサービス事業じぎょう経営けいえいたずさわっている。

エピソード[編集へんしゅう]

  • 引退いんたいさい自分じぶん後任こうにんとしてヴァイドラーが森脇もりわきはじめきょう推薦すいせんしたのが、おなじドイツじんハインツ=ハラルド・フレンツェンだった。フレンツェンは92ねん後半こうはんからノバに加入かにゅう翌年よくねんまで全日本ぜんにほんF3000にフル参戦さんせんした。これについてフレンツェンは「かれのことはよくらなかったが、おかげでぼく仕事しごとをもらうことができた。そのぼく人生じんせいは、すべてかれのおかげだよ」と感謝かんしゃ言葉ことばべている[7]
  • 本来ほんらい、ドライブには必需ひつじゅひんであるみみせんけずにレースに参戦さんせんしていた。これは「エンジンのおとくのがき」という理由りゆうによるものだったが、結果けっかてき耳鳴みみなりが悪化あっかし、引退いんたいまねくこととなった。
  • 日本にっぽんでも活躍かつやくしていたため、片言かたことではあるが日本語にほんごはなしていたとう。
  • 27さいでF1デビューであったが、童顔どうがんであり、チームメイトのクリスチャン・ダナーくらべても随分ずいぶんわかえたとう。(ダナーは1958ねんまれで長身ちょうしんであったため)

レース戦歴せんれき[編集へんしゅう]

ドイツ・フォーミュラ3選手権せんしゅけん[編集へんしゅう]

とし エントラント シャシー エンジン クラス 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 順位じゅんい ポイント
1983ねん ワルター・レヒナー・レーシングスクール ラルト・RT3 VW A AVU
15
MAI
Ret
NÜR
5
WUN
1
KAU
3
ERD
3
DIE
15
ZOL
3
3 72
1984ねん VWモータースポーツ ラルト・RT3/367 ZOL
2
HOC
3
AVU
3
MAI
1
KAU
2
WUN
1
NÜR
2
ERD
7
ZOL2
Ret
SAL
2
NÜR2
4
ZOL3
1
2 154
1985ねん ヨーゼフ・カウフマン・レーシング マルティニ・Mk45 ZOL
2
NÜR
2
HOC
2
WUN
1
AVU
1
ÖST
2
ERD
1
NOR
1
HOC2
Ret
DIE
Ret
ZOL2
1
SAL SIE
1
NÜR2
2
1 195

マカオグランプリ[編集へんしゅう]

とし チーム エンジン 周回しゅうかい 合計ごうけいタイム LEG1 LEG2 総合そうごう順位じゅんい
1984ねん ドイツの旗フォルクスワーゲン・モータースポーツ VW 30 1:13:14.830 6 4 4
1985ねん ドイツの旗 Werner Schroder 27 1:06:10.010 9 6 7

国際こくさいF3000選手権せんしゅけん[編集へんしゅう]

とし チーム シャーシ エンジン 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 順位じゅんい ポイント
1986ねん ブロムレイ・モータースポーツ with リアル ラルト・RT20 コスワース SIL
10
VLL
7
PAU
Ret
SPA
DNQ
IMO MUG
16
PER
DNQ
ÖST
9
BIR BUG JAR NC 0
1988ねん オニクス・レースエンジニアリング マーチ・88B JER
DSQ
VLL
12
PAU
DNQ
SIL
14
MNZ
9
PER
Ret
BRH
6
BIR
4
BUG
DNS
ZOL
Ret
DIJ
6
15 5

F1[編集へんしゅう]

1989ねん(リアルARC2・フォード)
  • エントリー:10せん 
  • 出走しゅっそうすう:0
  • 予選よせん最高さいこう:30予選よせんち)
  • 決勝けっしょう最高さいこう:なし
  • 獲得かくとくポイント:0
とし チーム シャシー 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 WDC ポイント
1989ねん リアル ARC2 BRA
DNPQ
SMR
DNPQ
MON
DNPQ
MEX
DNPQ
USA
DNPQ
CAN
DNPQ
FRA
DNPQ
GBR
DNPQ
GER
EX
HUN
DNQ
BEL ITA POR ESP JPN AUS NC 0

全日本ぜんにほんF3000選手権せんしゅけん[編集へんしゅう]

1990ねん-1992ねん
とし チーム 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 順位じゅんい ポイント
1990ねん TEAM TAKE ONE SUZ
Ret
FSW
Ret
MIN
11
SUZ
5
SUG
21
FSW
3
FSW
Ret
SUZ
20
FSW
1
SUZ
DSQ
6 15
1991ねん KAWAISTEEL TEAM NOVA SUZ
15
AUT
DNQ
FSW
19
MIN
3
SUZ
3
SUG
8
FSW
3
SUZ
10
FSW
C
SUZ
3
FSW
1
3 25
1992ねん SUZ
3
FSW
Ret
MIN
Ret
SUZ
1
AUT
3
SUG
1
FSW FSW SUZ FSW FSW 4 26

ル・マン24あいだレース[編集へんしゅう]

とし チーム コ・ドライバー 使用しよう車両しゃりょう クラス 周回しゅうかい 総合そうごう順位じゅんい クラス順位じゅんい
1987ねん ドイツの旗 ポルシェ・クレマー・レーシング デンマークの旗 クリス・ニッセン
日本の旗 高橋たかはし国光くにみつ
ポルシェ・962C C1 6 DNF DNF
1989ねん 日本の旗 マツダスピード 日本の旗 寺田てらだ陽次ようじろう
ベルギーの旗 マルク・デュエツ
マツダ・767B GTP 339 12 3
1990ねん イギリスの旗 ジョニー・ハーバート
ベルギーの旗 ベルトラン・ガショー
マツダ・787 GTP 148 DNF DNF
1991ねん 日本の旗 マツダスピード
フランスの旗 オレカ
イギリスの旗 ジョニー・ハーバート
ベルギーの旗 ベルトラン・ガショー
マツダ・787B C2 362 1 1
1992ねん イギリスの旗 ジョニー・ハーバート
フランスの旗 ベルトラン・ガショー
ブラジルの旗 マウリツィオ・サンドロ・サーラ
マツダ・MX-R01 C1 336 4 4

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ フォルカー・バイドラー いつまでもニッポンではしる! Racing OnNo.121 86ぺーじ 1992ねん6がつ15にち発行はっこう
  2. ^ オートスポーツ 1991ねん1がつ1にちごう 85ぺーじ 三栄書房さんえいしょぼう
  3. ^ F1参戦さんせん現実げんじつてき視野しやれたタイヤ開発かいはつ着手ちゃくしゅ ブリヂストンモータースポーツ
  4. ^ 無限むげん3.5Lエンジン鈴鹿すずかじつはしテスト ドライバーはV.バイドラー グランプリ・エクスプレス 1991イタリアGPごう 38ぺーじ 山海さんかいどう 1991ねん9がつ28にち発行はっこう
  5. ^ このはしりにたいしては、プジョーから参戦さんせんしていたデレック・ワーウィックが「優勝ゆうしょうするもないのに、邪魔じゃまをしないでしい」と苦言くげんていするめんもあった。
  6. ^ ただし、アンドリュー・ギルバート=スコット小河おがわひとし接触せっしょく事故じこ小河おがわ死亡しぼう)により、途中とちゅう中断ちゅうだん終了しゅうりょうとなった。
  7. ^ 「F1グランプリ特集とくしゅう」 vol.176 、p.95、ソニーマガジンズ、2004ねん

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

タイトル
先代せんだい
クルト・ティーム
ドイツF3選手権せんしゅけん
1985ねん
次代じだい
クリス・ニッセン
先代せんだい
ジョン・ニールセン
プライス・コブ
マーティン・ブランドル
ル・マン24あいだ勝者しょうしゃ
1991 with:
ジョニー・ハーバート
ベルトラン・ガショー
次代じだい
デレック・ワーウィック
ヤニック・ダルマス
マーク・ブランデル