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リジェ

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リジェ
Ligier Group
種類しゅるい 株式会社かぶしきがいしゃ
本社ほんしゃ所在地しょざいち フランスの旗 フランス
アリエけんアブレスト
設立せつりつ 1969ねん
業種ぎょうしゅ 自動車じどうしゃメーカー
代表だいひょうしゃ フランソワ・リジェ
関係かんけいする人物じんぶつ ギ・リジェ創業そうぎょうしゃ
外部がいぶリンク LiGiER.FR
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オートモービルズ・リジェAutomobiles Ligierげんリジェ・グループ)は、フランス自動車じどうしゃメーカー。創業そうぎょうしゃギ・リジェ1976ねんから1996ねんまでレーシングコンストラクター「エキープ・リジェ」(Équipe Ligier)としてF1にも参戦さんせんした。提携ていけいブランドに「リジェ・オートモーティブ」がある。

概要がいよう[編集へんしゅう]

初期しょき[編集へんしゅう]

JS2

フランスひと国際こくさい代表だいひょうラガーマンであり、レーシングドライバーだったギ・リジェをオーナーけんチーム監督かんとくとして創設そうせつされたチーム・自動車じどうしゃメーカー。リジェの自動車じどうしゃ製造せいぞうプロジェクトは1969ねん開始かいしけてげられ、SERA-CDにいたエンジニアのミッシェル・テツが、友人ゆうじんジョー・シュレッサーともにリジェチームに実質じっしつてきなチーム創設そうせつメンバーとしてくわわることがまった[1]。テツとギ・リジェは出身しゅっしんちかかった。しかし、シュレッサーはホンダ・RA302でスポット参戦さんせんした1968ねん7がつF1フランスグランプリ事故じこにより他界たかい以後いご、リジェでつくられるマシンにはかれのイニシャル『JS』がけられることとなった。リジェはまだとてもちいさいチームだったが、イギリスじんエンジニアのドン・フォスターなど情熱じょうねつがあるものあつまっていた。リジェはテツに研究けんきゅう製図せいず設計せっけい風洞ふうどうかくサプライヤーとの交渉こうしょうなどすべての管理かんりまかせ、テツがいた設計せっけいもとにフォスターが素材そざいもとめ、立体りったいしていった。F2や、スポーツカーレースに参戦さんせんするためのJS1が完成かんせい。F2よう小型こがた4気筒きとうフォード・FVAエンジン搭載とうさいしたJS1は、1969ねん10がつのパリ・モーターショーで発表はっぴょうされた[2]。テツはリジェでのはたらきをアルファロメオみとめられ、1972ねんなかばにリジェを巣立すだち、アルファロメオのレース部門ぶもん「アウトデルタ」へと移籍いせきしてった。

リジェは、1971ねんから1975ねんにかけて、JS1から派生はせいしたGTカーの「JS2」を製作せいさくル・マン24あいだレース参戦さんせん念頭ねんとう製作せいさくされた2人ふたり仕様しようしゃの「JS3」と次々つぎつぎ発表はっぴょうし、1973ねん1974ねん1975ねんル・マン24あいだレース出場しゅつじょうした。

F1[編集へんしゅう]

リジェ
エントリーめい エキープ・リジェ
チーム国籍こくせき フランスの旗 フランス
チーム本拠地ほんきょち フランスの旗 フランス ヴィシー (1976 - 1988)
フランスの旗 フランス マニクール (1989 - 1996)
おもなチーム関係かんけいしゃ フランスの旗 ギ・リジェ
フランスの旗 ジェラール・ドゥカルージュ
フランスの旗 シリル・ド・ルーブル
イタリアの旗 フラビオ・ブリアトーレ
イギリスの旗 トム・ウォーキンショー
おもなドライバー フランスの旗 ジャック・ラフィット
フランスの旗 パトリック・デパイユ
ベルギーの旗 ジャッキー・イクス
フランスの旗 ディディエ・ピローニ
アメリカ合衆国の旗 エディ・チーバー
イタリアの旗 アンドレア・デ・チェザリス
フランスの旗 ルネ・アルヌー
スウェーデンの旗 ステファン・ヨハンソン
ベルギーの旗 ティエリー・ブーツェン
イギリスの旗 マーティン・ブランドル
イギリスの旗 マーク・ブランデル
フランスの旗 オリビエ・パニス
日本の旗 鈴木すずき久里くさと
撤退てったい プロスト・ゴロワーズ・ブロンド (1997 - 2001)
F1世界せかい選手権せんしゅけんにおけるチーム履歴りれき
参戦さんせん年度ねんど 1976 - 1996
出走しゅっそう回数かいすう 326
コンストラクターズ
タイトル
0
ドライバーズ
タイトル
0
優勝ゆうしょう回数かいすう 9
通算つうさん獲得かくとくポイント 388
表彰台ひょうしょうだい(3以内いない)回数かいすう 50
ポールポジション 9
ファステストラップ 10
F1デビューせん 1976ねんブラジルGP
はつ勝利しょうり 1977ねんスウェーデンGP
最後さいごのレース 1996ねん日本にっぽんGP
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1976ねんからF1に参戦さんせん当初とうしょはベテランのジャン・ピエール・ベルトワーズ起用きようする予定よていであったが、テストで、ジャック・ラフィットがベルトワーズをおおきく上回うわまわるタイムではしったことから、ラフィットをドライバーにえ、1カーエントリー体制たいせい参戦さんせん初年度しょねんどむかえた

ギ・リジェは1981ねんから1995ねんまでフランス大統領だいとうりょうつとめたフランソワ・ミッテラン親交しんこうふかく(かれらの子供こども同士どうし結婚けっこんするほどで、親戚しんせきでもある)、オールフランスチームを標榜ひょうぼうすることでロトくじ(フランスたからくじ公団こうだん(1992ねんからは「ロト・スポルティフ」)やジタンマトラなどの国営こくえい企業きぎょうからのスポンサーを獲得かくとくし、ルノーエンジンをることに成功せいこうする。

またのちに、フランスグランプリ開催かいさいサーキットをポール・リカールからリジェのファクトリーのあるマニクール1991ねんより変更へんこうさせるなど政治せいじりょくつよ発揮はっきした。しかし潤沢じゅんたく資金しきんりょく政治せいじりょくちながらマシン開発かいはつ失敗しっぱいおおく、1986ねんまでは表彰台ひょうしょうだい度々たびたび獲得かくとく上位じょうい走行そうこうしたが、1987ねん以降いこう下位かいしず苦戦くせんおおかった。

1970年代ねんだい[編集へんしゅう]

1976ねん

デビューマシンとなったJS5は、巨大きょだいなインダクションポッドをそなえたマシンで「ティーポット」と揶揄やゆされた。その安全あんぜんめん問題もんだいとされ、レギュレーションによってくるまだか制限せいげんがかけられ、インダクションポッドは縮小しゅくしょうされた。

1977ねん

JS5のシャシーを踏襲とうしゅうそらりょく刷新さっしんしたニューマシンJS7開幕かいまくせんから投入とうにゅう。JS7はウイングやノーズ形状けいじょうフェラーリ・312T2ていたため、「ブルー・フェラーリ」と揶揄やゆされたが、だい8せんスウェーデンGPでラフィットのドライブによりF1はつ優勝ゆうしょうたした。

1978ねん

シーズン前半ぜんはん昨年さくねんがたのJS7およ改良かいりょうがたであるJS7/9を使用しようし、だい7せんスペインGPより新型しんがたJS9投入とうにゅう。このとし優勝ゆうしょうはなかったものの、スペインGPでは3だい11せんドイツGPでも3入賞にゅうしょうし、コンストラクターズランキング6でシーズンをえた。

1979ねん
チーム歴代れきだい最多さいたしょうのグラウンド・エフェクト・カーのリジェ・JS11

参戦さんせん以来いらいラフィットの1だい体制たいせいだったチームにパトリック・デパイユ加入かにゅうし、2だいエントリーとなる。またエンジンをマトラV12からDFV変更へんこうし、グラウンド・エフェクト・カーのニューマシン・JS11非常ひじょうたか戦闘せんとうりょく発揮はっきした。開幕かいまく2連勝れんしょうかざるなどこのとし3しょう(ラフィット2しょう、デパイユ1しょう)をげ、コンストラクターズランキングは3獲得かくとく。デパイユが怪我けが離脱りだつしたシーズン後半こうはんジャッキー・イクスがドライブした。

1980年代ねんだい[編集へんしゅう]

1980ねん

成功せいこうさくであったJS11の改良かいりょうがたであるJS11/15を投入とうにゅう、これがこうそうして前年ぜんねん好調こうちょうたもち、あらたに加入かにゅうしたディディエ・ピローニとラフィットがそれぞれ1しょうずつをげた。最終さいしゅうてきにコンストラクターズランキングは前年ぜんねんの3から2上昇じょうしょうした。

1981ねん

タルボとの提携ていけい開始かいし[3]ともない、エンジンをDFVからマトラV12エンジン(「マトラソプラノ」とわしめるほど、そのエンジンおん賞賛しょうさんされていた)にもどす。新車しんしゃJS17でラフィットが2しょうげてランキング4。しかし、このとし最後さいごにチームの成績せいせき低下ていかしていく。

1982ねん

シーズン当初とうしょ前年ぜんねんのマシンであるJS17およ改良かいりょうがたのJS17Bを使用しようし、だい6せんモナコGPよりJS19投入とうにゅうする。しかし期待きたいしんマシンは信頼しんらいせいひくくリタイアをかえし、ついに1しょう出来できずにコンストラクターズランキング8わった。F1参戦さんせん開始かいしから在籍ざいせきしていたラフィットはこのとしをもってチームをった。

1983ねん

マトラ(タルボ)の撤退てったいによりふたたびDFVエンジンを使用しよう。フラットボトム規定きていともなかくチームがデザインに試行しこう錯誤さくごしているなかJS21というサイドポンツーンがほとんどないマシンを投入とうにゅう。これは冷却れいきゃくけいパーツをリアタイヤ周辺しゅうへん集中しゅうちゅう配置はいち荷重かじゅうやすことでトラクションをようという意図いとがあった。当時とうじ同様どうようのコンセプトのマシンとして、ドライバーズチャンピオンを獲得かくとくしたブラバムBT52げられる。またサスペンションにはシトロエンせいハイドロニューマチックシステムを搭載とうさいするなど、非常ひじょう意欲いよくてきなマシンであったが、成果せいかはまったくがらずにF1参戦さんせん以来いらいはつとなる年間ねんかんノーポイントにわった。

1984ねん
ルノーとはつタッグをんだターボエンジン搭載とうさいの JS23

ルノーV6ターボエンジンの獲得かくとく成功せいこうする。しかし、JS23はエンジントラブルつづきでリタイアが非常ひじょうおおく、同年どうねんのルノーワークスチーム同様どうようかんばしい成績せいせき獲得かくとくすることはできなかった。このとし加入かにゅうしたアンドレア・デ・チェザリスみなみアフリカGPで5サンマリノGPで6はいりポイントを獲得かくとくするなど健闘けんとうをみせた。

シーズン終了しゅうりょう同年どうねんまつルノー・ワークスF1チームのマネージャーであるジェラール・ラルースがリジェへの移籍いせきめ、ラルースとともにルノーに在籍ざいせきしていたミッシェル・テツも13ねんぶりにリジェに復帰ふっきすることになった[4]

1985ねん

シーズン当初とうしょ、スポンサーを獲得かくとくすることができずくるしい開幕かいまくとなった(ラフィットがウィリアムズより復帰ふっきし、イタリア家電かでんメーカー・Candyがスポンサーにき、後半こうはんはジタンももどってきた)。新車しんしゃJS25は、ミシュラン撤退てったいともなピレリへタイヤを変更へんこうしている。前年ぜんねんから所属しょぞくし、ときはやさをせるが"こわ"の異名いみょうつデ・チェザリスのクラッシュがおおく、だい10せんオーストリアGPでのだいクラッシュ(マシンがコースがいおかよこ回転かいてんにてすうかいころがり着地ちゃくち、デ・チェザリスは無傷むきずでマシンはぜんそん)が原因げんいんつぎせんオランダGP最後さいご解雇かいこ以降いこうフィリップ・ストレイフわりに出場しゅつじょうすることになる。このように波乱はらんとしではあったが、だい8-9せんはラフィット(このとしウィリアムズから復帰ふっき)が連続れんぞく3最終さいしゅうせんではラフィットが2、ストレイフが3とダブル表彰台ひょうしょうだい獲得かくとくした。

1986ねん

前年ぜんねん序盤じょばんフェラーリ解雇かいこされたルネ・アルヌー契約けいやく。ラフィットとともにF1優勝ゆうしょう経験けいけんのあるフランスじんドライバーをそろえた。ミシェル・テツが設計せっけいした新車しんしゃJS27出来できわるくなく、開幕かいまくせん表彰台ひょうしょうだいがるなど前半ぜんはんせん好調こうちょうだったが、だい9せんイギリスGPでラフィットがレースちゅうにクラッシュ、あし骨折こっせつしF1からの引退いんたい余儀よぎなくされたのち後半こうはんせん失速しっそくしたが、コンストラクターズランキング5獲得かくとく。ラフィット離脱りだつだい10せんからはフィリップ・アリオー出場しゅつじょうした。

1987ねん
低迷ていめいはじまりだった JS29

アルヌーのチームメイトにはピエルカルロ・ギンザーニ加入かにゅう新車しんしゃJS29は、当初とうしょアルファロメオしん開発かいはつした直列ちょくれつ4気筒きとうターボエンジンを搭載とうさいする予定よていであったが、開幕かいまくまえのテストにてトラブルがつづいたエンジンに不満ふまんつのったアルヌーが、エンジンにたいする暴言ぼうげんいてしまう。その発言はつげん理由りゆうにアルファロメオが突如とつじょ契約けいやく破棄はきしてしまい、開幕かいまく直前ちょくぜん搭載とうさいするエンジンをうしなったリジェはだい1せん欠場けつじょうする事態じたいおちいる。結局けっきょくBMWベースのメガトロン直列ちょくれつ4気筒きとうターボエンジンを搭載とうさいしたJS29Bにてだい2せんより参戦さんせんした。おな直列ちょくれつ4気筒きとうターボではあるがメーカーがちがうため、シャシーの改造かいぞう必須ひっすとなり、結局けっきょくこの混乱こんらんのためにまともな成績せいせきのこすことができなかった。上位じょういぜいにリタイアがおおかっただい3せんベルギーGPでアルヌーが6はいり、かろうじてノーポイントはのがれた。

1988ねん

マクラーレンからステファン・ヨハンソン移籍いせき加入かにゅうし、アルヌーと「もとフェラーリコンビ」をむ。ミッシェル・テツらによるデザインのJS31は、ウィリアムズ、マーチとおなジャッドエンジンを搭載とうさい。V8エンジンの前後ぜんごはさむように燃料ねんりょうタンクを2分割ぶんかつ配置はいちするという意欲いよくさくであった。これは重量じゅうりょう配分はいぶん適正てきせいし、ハンドリングの安定あんていてい重心じゅうしんによる空気くうき抵抗ていこう減少げんしょうねらうというみであったが、排気はいきりょうがターボしゃよりもおおきく、燃費ねんぴわるいジャッドエンジンのためにおおきな燃料ねんりょうタンクを効率こうりつおさめるためのアイデアでもあった。しかし、この特殊とくしゅなレイアウトのシャシーは剛性ごうせい不足ふそくであり、コーナリング性能せいのういちじるしくひくいものであった。また当時とうじのF1では斬新ざんしんであったパワーステアリング搭載とうさいしたが、当時とうじ装置そうちおおきくおもく、これもシャシーバランスのわるさの一因いちいんとなったことから、ヨハンソンしゃでは早々そうそうにパワーステアリングははずされた[5]。ドライバー2にんとも度々どど予選よせんちをきっするなど終始しゅうし苦戦くせんいられ、1983ねん以来いらい入賞にゅうしょうゼロ・年間ねんかんノーポイントという散々さんざん成績せいせきわる。この成績せいせきおこったギ・リジェは、JS31を「クソくるま」とののし[6]、デザイン責任せきにんしゃのテツを解雇かいこするにいたった(テツはラルースへの移籍いせきのぞんだが、リジェが移籍いせきみとめず裁判さいばんとなり、その期間きかんエンジニアとして仕事しごと出来できなくなった。テツのF1現場げんばへの復帰ふっきやく2ねんとなった)。

1989ねん

アルヌーは残留ざんりゅうし、前年ぜんねん国際こくさいF3000で2活躍かつやくしたフランスの新人しんじんオリビエ・グルイヤール加入かにゅう新車しんしゃJS33前年ぜんねんとはってわってコンサバティブな設計せっけいで、エンジンはコスワースDFR変更へんこうし、あめカナダGPではアルヌーが5フランスGPではグルイヤールが6はいり、2ねんぶりにポイントを獲得かくとく。しかし、2めいわせて予選よせんち11かいかぞえるなど、成績せいせきるわなかった。また、モナコGPではアルヌーが周回しゅうかいおくれにもかかわらず上位じょういじんをブロックしラインをゆずらず、チームから「はしるシケイン」という悪評あくひょうった。4年間ねんかんチームをささえたアルヌーは、このとしかぎりでF1から引退いんたいしスポーツカーレースへ転向てんこうすると表明ひょうめいした[7]

1990年代ねんだい[編集へんしゅう]

1990ねん

ドライバーはフィリップ・アリオーニコラ・ラリーニ。マシンは前年ぜんねんのJS33を改良かいりょうしたJS33B・JS33Cを投入とうにゅう前年ぜんねん比較ひかくして完走かんそうりつたかくなったが、けっしてはやいマシンではなかった。ノーポイントがつづいたため、シーズン後半こうはんせんからは予備よび予選よせん対象たいしょうチームになった。ラリーニは終盤しゅうばんせん入賞にゅうしょう目前もくぜんの7完走かんそう当時とうじは6までが入賞にゅうしょう)を2かい記録きろくしたが、チームは2ねんぶりの年間ねんかんノーポイントにわった。なつ以後いご前年ぜんねんよりミナルディこうはしせていたピエルルイジ・マルティニ移籍いせき獲得かくとくオファーをしていたが、ミナルディが翌年よくねんよりフェラーリエンジンを使つかえることになるためマルティニにことわられた[8]。シーズン終盤しゅうばんに1992ねんから3ねん契約けいやくでルノーV10エンジン(カスタマー仕様しよう)の供給きょうきゅうけることを発表はっぴょうした。

1991ねん

ラルースから契約けいやくうばかたちランボルギーニV12エンジンを獲得かくとく。リジェは翌年よくねんからのルノーエンジン搭載とうさいまっているため、この1年間ねんかんつなぎだけのためにラルースからエンジンを強奪ごうだつするかたちとなった。これはランボルギーニ・エンジンの年間ねんかん契約けいやくりょう前年ぜんねんまでの倍額ばいがくはらうという契約けいやくでリジェがランボルギーニと合意ごういしたためで、このリジェによる高額こうがくでの契約けいやく強奪ごうだつ犠牲ぎせいになったのはラルースだけではなくチーム・ロータス同様どうようであった[9]。ドライバーはウィリアムズからティエリー・ブーツェン移籍いせき。もう一人ひとり国際こくさいF3000でチャンピオンを獲得かくとくしたフランスじんエリック・コマス契約けいやく翌年よくねんからのルノーエンジン搭載とうさいなど、ギ・リジェのチーム再興さいこうへの意欲いよくさかんであった。以前いぜんにギ・リジェと仲違なかたがいをこしチームをっていたデザイナージェラール・ドゥカルージュ復帰ふっきにも成功せいこう。しかし開幕かいまくせん投入とうにゅうされたJS35大柄おおがらなマシンではやさもなく「クジラ」と揶揄やゆされた。のちフランク・ダーニーによってスリムされた改良かいりょうばん「JS35B」を投入とうにゅうしたが、前年ぜんねんのハンガリーGP優勝ゆうしょうもしている名手めいしゅブーツェンでも最高さいこうは7にとどまり、チームは結局けっきょく2ねん連続れんぞくとなるノーポイントにわり、非力ひりきなコスワースDFRV8エンジンを搭載とうさいしたラルースにもコンストラクターズランキングはおと結果けっかとなった。なお、同年どうねんあきからはベネトン嫌気いやけがさしていたネルソン・ピケがギ・リジェと2ヵ月かげつあまり移籍いせき交渉こうしょうをしていたが、結局けっきょく破談はだんとなりピケはそのままF1をることとなった。アラン・プロストもギ・リジェと交渉こうしょうしていたが、これはドライバーとしてだけではなくプロストがチームの買収ばいしゅう目指めざしていたため難航なんこう。プロストによってリジェでのテスト走行そうこうまでおこなわれたがこちらも結局けっきょく破談はだんし、プロストのドライバー兼任けんにんオーナーもまぼろしとなる。

1992ねん

待望たいぼうのルノーV10エンジン(ルノーRS3B)を獲得かくとくして飛躍ひやくしたとしだったが、ドゥカルージュがデザインしたJS37には期待きたいしたようなはやさはかった。2ねんのコマスはカナダGPで6フランスGPで5ドイツGPで6入賞にゅうしょう。ブーツェンとのチームないでの立場たちば逆転ぎゃくてんした。ベルギーGPからはRS3Cエンジンがリジェにも供給きょうきゅうされ、ブーツェンの予選よせん順位じゅんい好転こうてんするが、結果けっかてき最終さいしゅうせんオーストラリアGPでの5がブーツェンのこのとし唯一ゆいいつ入賞にゅうしょうであった。おなじルノーユーザーであるウィリアムズがチャンピオンを獲得かくとくしたのとは対照たいしょうてきに、リジェは目立めだった成績せいせきのこせず、ついにギ・リジェのF1へのモチベーションは低下ていか。シーズン終了しゅうりょうマクラーレンロン・デニスがルノーV10エンジン獲得かくとくのためにリジェの買収ばいしゅうこころみ、ギ・リジェとの交渉こうしょうをしていたがこのけん破談はだんし、かつてAGS代表だいひょうつとめた経験けいけんのあるシリル・ド・ルーブル英語えいごばんフランス語ふらんすごばんにチームは売却ばいきゃくされた[10]

1993ねん
7ねんぶりに表彰台ひょうしょうだい獲得かくとくした JS39

オーナー交代こうたい影響えいきょうあらわれ、ドライバーの国籍こくせきにこだわらず、F1で実績じっせきマーティン・ブランドルマーク・ブランデル二人ふたりのイギリスじんドライバーと契約けいやく[11]多数たすう国営こくえい企業きぎょうささえられるじゅんフランスチームでありながらフランスじんドライバーを1人ひとり起用きようしなかったのはこのとし唯一ゆいいつであり、リジェチームにたいしフランス内部ないぶからの批判ひはんえなかった。しかしドゥカルージュがデザインしたJS39は、カスタマー仕様しようながらウィリアムズとどうスペックのRS5エンジンを供給きょうきゅうされたこともあり、開幕かいまくせんで3表彰台ひょうしょうだい獲得かくとくするこうスタート。実力じつりょくあるりょうドライバーのはたらきもあって4のフェラーリにあとすこしとせまるシーズン5好成績こうせいせきげたが、サーキットがいでは、シーズンちゅうにオーナーのド・ルーブルが横領おうりょう容疑ようぎ逮捕たいほされてしまった。シーズン終盤しゅうばん日本にっぽんGPオーストラリアGPの2せんでは、ブランドルのマシンのみジタン煙草たばこのパッケージデザインをモチーフにした「アートカラー」にカラーリングを変更へんこうして出走しゅっそうした。

1994ねん

前年ぜんねんにド・ルーブルが逮捕たいほされた影響えいきょうで、チームスタッフから離脱りだつしゃ新車しんしゃ開発かいはつができず、前年ぜんねんのマシンをわずかにマイナーチェンジしたJS39Bが使用しようされた。前年ぜんねんリザーブドライバーだったエリック・ベルナールせいドライバーに昇格しょうかくしF1に復帰ふっき新人しんじんオリビエ・パニス前年度ぜんねんどF3000チャンピオン)とフランスじんコンビをんだ。前半ぜんはんせんから完走かんそうりつたかいがポイントにはとどかないレースがつづき、モナコGPまえにチームはベネトン責任せきにんしゃであるフラビオ・ブリアトーレ売却ばいきゃくされ、チームの指揮しきチェーザレ・フィオリオまかされたほかフランク・ダーニー復帰ふっきするなどチーム内部ないぶ激変げきへんした。ブリアトーレ(=ベネトン)がリジェをったのは、リジェのゆうするルノーV10エンジンをベネトンのものにしたいという目的もくてきであり、よく1995ねんに「ベネトン・ルノー」が実現じつげんされた。スタート直後ちょくごやく半数はんすうがリタイヤしたドイツGPでは、混乱こんらんをすりけたパニスが2、ベルナールが3とダブル表彰台ひょうしょうだい獲得かくとくする活躍かつやくヘレスでのヨーロッパGP直前ちょくぜんには資金しきんなんロータスからジョニー・ハーバート契約けいやくをブリアトーレが買取かいとり、ハーバートがリジェに加入かにゅう。この1せんのみでブリアトーレはハーバートをベネトンへと移籍いせきさせたため、新人しんじんフランク・ラゴルスがリジェからF1デビューするなど、ブリアトーレがオーナーとなったリジェはベネトンのセカンドチームてき存在そんざいとなった。翌年よくねんからのルノーV10エンジンの使用しようけんがベネトンにわたったため、リジェはこのとしかぎりでルノーエンジンをうしなうことが確定かくてい。このようなチームないのドタバタがありながらマシンの信頼しんらいせい抜群ばつぐんで、パニスは16せん14完走かんそう安定あんていかんこう評価ひょうかたとともに、前記ぜんきのドイツGPでの活躍かつやくもありランキングは6になった。

1995ねん
無限むげんエンジンを搭載とうさいしたチームはつのハイノーズがたマシン JS41

前年ぜんねんかぎりでベネトンを離脱りだつしたトム・ウォーキンショーが、リジェの株式かぶしきの50%を購入こうにゅうしブリアトーレとともにリジェの共同きょうどうオーナーに就任しゅうにん。ニューマシンJS41は、ベネトン・B195細部さいぶまで形状けいじょう酷似こくじしていた。当時とうじレギュレーションではチームによるどういちマシンの使用しよう禁止きんしされていたが、りょうチームはデザイナー移籍いせきによる偶然ぐうぜん一致いっちだと主張しゅちょうした。エンジンはミナルディとの争奪そうだつせんすえ無限むげんホンダエンジンを獲得かくとく。ドライバーはパニスが残留ざんりゅうし、チームメイトは無限むげんすいする鈴木すずき久里くさとがフル参戦さんせんのはずだったが、ウォーキンショーは子飼こがいのブランドルとの併用へいよう宣言せんげん当初とうしょはブランドルと久里くさと半々はんはんとの発表はっぴょうだったが、結果けっかてきにはブランドルが11せん久里くさとは6せんという変則へんそくてき参戦さんせんとなった。このとしはブランドルがベルギーGP無限むげんエンジンはつ表彰台ひょうしょうだい獲得かくとく。パニスも最終さいしゅうせんオーストラリアGPで2はいるなどしばしばはやさをせランキングは5久里くさとドイツGP自身じしん久々ひさびさ入賞にゅうしょうとなる6となるが、日本にっぽんGPでは予選よせんでクラッシュしドクターストップとなったため決勝けっしょう出走しゅっそうできず、結果けっかてきにこの日本にっぽんGPの予選よせん久里くさとにとって最後さいごのF1参戦さんせんとなった。

1996ねん
15ねんぶりに優勝ゆうしょうしたチーム最後さいごのマシン JS43

ウォーキンショーはチームの完全かんぜん買収ばいしゅうねらい、前年ぜんねん途中とちゅうでマネージャーのフィオリオを解雇かいこしたほか、フランスじんスタッフを大量たいりょう解雇かいこしイギリスじんスタッフを大量たいりょう採用さいようした。これが創始そうししゃのギ・リジェやフランスのスポンサーのみならず、フランス政府せいふ逆鱗げきりんれた。ウォーキンショーはリジェ買収ばいしゅうあきらめて株式かぶしきをブリアトーレに返却へんきゃくアロウズ買収ばいしゅうかじる。そのさいにダーニーや主要しゅようスタッフ、自身じしんんだスポンサーもれてってった。ジタンわりメインスポンサーになったゴロワーズエルフなどのフランス企業きぎょうがスポンサーがく大幅おおはば縮小しゅくしょうしたため、チームは資金しきんなんおちいった。エースとして残留ざんりゅうしたパニスのチームメイトには、1000まんドルのスポンサーをペドロ・ディニス起用きようし、そのスポンサーマネーにたよらなくてはならない財政ざいせい状態じょうたいとなった。よって新車しんしゃ開発かいはつすすまず、JS43実質じっしつ前年ぜんねん改修かいしゅうがたであった。それでもモナコGPではあめなか、パニスが快走かいそう優勝ゆうしょうたす。リジェにとって1981ねんカナダGP以来いらい、15ねんぶりとなる勝利しょうり通算つうさん9しょう)であったが、結果けっかてきにこれがリジェにとって最後さいご勝利しょうりとなった(パニスと無限むげんホンダにとってはF1はつ勝利しょうり)。スポンサー持込もちこめめんばかりが話題わだいとなっていたディニスも健闘けんとうせ、ドイツGPでは予選よせんでパニスをやぶったほか、2入賞にゅうしょうたし評価ひょうかげた。

消滅しょうめつ[編集へんしゅう]

1996ねんかぎりでのディニスの離脱りだつまっていたが、パニスは残留ざんりゅうし、無限むげんホンダとのエンジン供給きょうきゅう契約けいやく更新こうしん無限むげんすいする中野なかの信治しんじ加入かにゅう発表はっぴょうされ、ブリヂストンタイヤの使用しよう濃厚のうこう報道ほうどうされるなど、1997ねんけてリジェは注目ちゅうもくされていた。しかし1996ねんまつにブリアトーレはアラン・プロストにチームのぜん株式かぶしき売却ばいきゃくし、翌年よくねんよりプロスト・グランプリ改称かいしょうされることになった。これによりF1からリジェの消滅しょうめつした。

F1撤退てったい[編集へんしゅう]

2004ねんすえF3マシン開発かいはつ2005ねんからのカスタマー供給きょうきゅう発表はっぴょうしていたものの、そのマシンがおおやけることはなかった。しかしのちにアマチュアけカテゴリーのグループCNようスポーツプロトタイプカーを開発かいはつ供給きょうきゅうした。また、FIA 世界せかい耐久たいきゅう選手権せんしゅけんル・マン24あいだレースとうたたかっているオーク・レーシングのコンストラクター部門ぶもんであるオンローク・オートモーティヴ提携ていけいむすび、ル・マン・プロトタイプ (LMP2)ようレースカー「リジェ・JS P2」が2014ねんのル・マン24あいだレースでデビューし、ひさしぶりにリジェの名前なまえもどってきた。2017ねんには後継こうけいマシン「リジェ・JS P217」が制作せいさくされた[12]

おもなF1所属しょぞくドライバー[編集へんしゅう]

創設そうせつ当初とうしょから1996ねんまでほぼ一貫いっかんしてフランスじんドライバーを採用さいようつづけており、フランスじんコンビ(もしくはフランスじんドライバーによる1カーエントリー)で開幕かいまくむかえたとし参戦さんせんした21ねんちゅうじつに10かいおよぶ。開幕かいまく当初とうしょから「外国がいこくじん」コンビとなったれいはともにイギリスじんドライバーのマーティン・ブランドルマーク・ブランデル起用きようした1993ねんのみであり、このとしだけはシーズンちゅう1せんもフランスじん起用きようしなかった(補欠ほけつドライバーとしてエリック・ベルナール所属しょぞくしてはいた)。

JSの由来ゆらい[編集へんしゅう]

リジェのF1カーの形式けいしき番号ばんごうけられるJSは、ギ・リジェの親友しんゆう1968ねんフランスグランプリで事故死じこししたフランスじんF1ドライバー、ジョー・シュレッサーJo Schlesser、おなじくレーシングドライバーのジャン=ルイ・シュレッサー叔父おじ)の頭文字かしらもじ由来ゆらいする。シュレッサーはよく1969ねんからリジェの一員いちいんとなることまっていた[1]

シュレッサーが最後さいごとなったレースでっていたマシンはホンダであり(搭乗とうじょうしたくるまホンダ・RA302)、リジェ最後さいごとし最後さいご優勝ゆうしょう記録きろくした1996ねん(モナコグランプリ、オリビエ・パニス)、翌年よくねんJS名前なまえ最後さいごかんしたJS43、どちらも搭載とうさいエンジンは(無限むげん)ホンダであり、奇妙きみょうなめぐりあわせともなった。

また、ジョー・シュレッサー、ジャン=ルイ・シュレッサーとホンダの奇妙きみょうなめぐりあわせはほかにもある。1988ねんのF1世界せかい選手権せんしゅけん、ホンダエンジンを搭載とうさいしたマクラーレン・MP4/4は16せん15しょうアイルトン・セナ8しょうアラン・プロスト7しょう)の成績せいせきで、セナはドライバーズ・チャンピオン、マクラーレンはコンストラクターズ・チャンピオンを獲得かくとくしたが、唯一ゆいいつとしたのはイタリアGP。セナはアクシデントでリタイアしたが、その相手あいてウィリアムズ・FW12るジャン=ルイ・シュレッサーだった。

変遷へんせんひょう(F1)[編集へんしゅう]

とし エントリーめい 車体しゃたい型番かたばん タイヤ エンジン 燃料ねんりょう・オイル ドライバー ランキング ポイント 優勝ゆうしょうすう
1976ねん リジェ・ジタン JS5 G マトラMS73 (3.0L V12) シェル ジャック・ラフィット 5 20 0
1977ねん リジェ・ジタン JS7 G マトラMS76 シェル ジャック・ラフィット
ジャン=ピエール・ジャリエ
8 18 1
1978ねん リジェ・ジタン JS7,JS7/9
JS9
G マトラMS76,MS78 エルフ ジャック・ラフィット 6 19 0
1979ねん リジェ・ジタン JS11 G フォードDFV (3.0L V8) エルフ ジャック・ラフィット
パトリック・デパイユ
ジャッキー・イクス
3 61 3
1980ねん リジェ・ジタン JS11/15 G フォードDFV エルフ ジャック・ラフィット
ディディエ・ピローニ
2 66 2
1981ねん エキップ・タルボ・ジタン JS17 M マトラMS81 (3.0L V12) エルフ ジャック・ラフィット
ジャン=ピエール・ジャリエ
ジャン=ピエール・ジャブイーユ
パトリック・タンベイ
4 44 2
1982ねん エキップ・タルボ・ジタン JS17B
JS19
M マトラMS81 エルフ ジャック・ラフィット
エディ・チーバー
8 20 0
1983ねん リジェ・ジタン JS21 M フォードDFV エルフ ジャン=ピエール・ジャリエ
ラウル・ボーセル
NC 0 0
1984ねん リジェ・ロト JS23 M ルノーEF4 (1.5L V6ターボ) アンタル アンドレア・デ・チェザリス
フランソワ・エスノー
10 3 0
1985ねん エキップ・リジェ
エキップ・リジェ・ジタン
JS25 P ルノーEF4B アンタル ジャック・ラフィット
アンドレア・デ・チェザリス
フィリップ・ストレイフ
6 23 0
1986ねん エキップ・リジェ JS27 P ルノーEF15B,EF15C エルフ ジャック・ラフィット
ルネ・アルヌー
フィリップ・アリオー
5 29 0
1987ねん リジェ・ロト JS29B,JS29C G メガトロン(BMW)M12/13 (1.5L L4ターボ) カストロール
ウィンターシャル
ルネ・アルヌー
ピエルカルロ・ギンザーニ
11 1 0
1988ねん リジェ・ロト JS31 G ジャッドCV (3.5L V8) バルボリン ルネ・アルヌー
ステファン・ヨハンソン
NC 0 0
1989ねん リジェ・ロト JS33 G フォードDFR (3.5L V8) アンター ルネ・アルヌー
オリビエ・グルイヤール
13 3 0
1990ねん エキップ・リジェ・ジタン JS33B,JS33C G フォードDFR エルフ フィリップ・アリオー
ニコラ・ラリーニ
NC 0 0
1991ねん エキップ・リジェ・ジタン JS35,JS35B G ランボルギーニ3512EVO3 (3.5L V12) エルフ ティエリー・ブーツェン
エリック・コマス
NC 0 0
1992ねん リジェ・ジタン・ブロンド JS37 G ルノーRS3B (3.5L V10) エルフ ティエリー・ブーツェン
エリック・コマス
7 6 0
1993ねん リジェ・ジタン・ブロンド JS39 G ルノーRS5 エルフ マーティン・ブランドル
マーク・ブランデル
5 23 0
1994ねん リジェ・ジタン・ブロンド JS39B G ルノーRS6 エルフ オリビエ・パニス
エリック・ベルナール
ジョニー・ハーバート
フランク・ラゴルス
6 13 0
1995ねん リジェ・ジタン・ブロンド JS41 G 無限むげんMF301H (3.0L V10) エルフ オリビエ・パニス
鈴木すずき久里くさと
マーティン・ブランドル
5 24 0
1996ねん リジェ・ゴロワーズ・ブロンド JS43 G 無限むげんMF301HA エルフ オリビエ・パニス
ペドロ・ディニス
6 15 1

*斜体しゃたいになっているドライバーはスポット参戦さんせんなど

F1車両しゃりょうギャラリー[編集へんしゅう]

  • スポーツカーノーズがた(1976ねん
  • ウイングノーズがた(1977ねん - 1978ねん、1983ねん - 1994ねん
  • ハイノーズがた(1995ねん - 1996ねん


脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ a b Michel Têtu 1/2 – Les inédits de «Pilote et Gentleman» Classic Courses 2022ねん1がつ1にち
  2. ^ People Michel Tetu GrandPrix.com
  3. ^ 「F1ぜん 1981-1985」(ニュにゅズ出版ずしゅっぱん)P.20
  4. ^ ラルース・ランボルギーニ FUJI TVオフィシャルF1 HANDBOOK 1993コンストラクターズ 72-73ぺーじ フジテレビ出版しゅっぱん/扶桑社ふそうしゃ 1993ねん7がつ30にち発行はっこう
  5. ^ Racing On』 1988ねん5がつごう ニュにゅズ出版ずしゅっぱん
  6. ^ シーズンオフテスト現地げんちリポート グランプリ・エクスプレス 特別とくべつ編集へんしゅう'88カレンダーごう 3-5ぺーじ 1988ねん1がつ10日とおか発行はっこう
  7. ^ ついにGPから引退いんたいのアルヌー、らいシーズンはWSPCプジョーりか グランプリ・エクスプレス オーストラリアGPごう 28ぺーじ 1989ねん11月25にち
  8. ^ ストーブ・リーグ終結しゅうけつへ グランプリ・エクスプレス ポルトガルGPごう 29ぺーじ 1990ねん10がつ
  9. ^ グランプリ・エクスプレス ポルトガルGPごう 30ぺーじ 1990ねん10がつ
  10. ^ ギ・リジェがチーム売却ばいきゃく決意けつい引退いんたい しんオーナーにド・ルーブル F1速報そくほう テスト情報じょうほうごう 33ぺーじ ニュにゅズ出版ずしゅっぱん 1993ねん2がつ12にち発行はっこう
  11. ^ マーク・ブランデルがリジェと契約けいやく 1ねんぶりのF1復帰ふっき F1速報そくほう テスト情報じょうほうごう 28ぺーじ 1993ねん2がつ12にち発行はっこう
  12. ^ Ligier JS P217”. オンローク・オートモーティヴ. 2017ねん4がつ1にち閲覧えつらん

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

関連かんれん書籍しょせき[編集へんしゅう]

  • 激走げきそう!F1』 (スポーツ・グラフィック「ナンバー」へん 文藝春秋ぶんげいしゅんじゅう文春ぶんしゅん文庫ぶんこビジュアルばん
  • 『サンエイムック GP Car Story Special Edition 2023 Ligier』 (三栄書房さんえいしょぼう

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]