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ジョー・シュレッサー

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
ジョー・シュレッサー
左側ひだりがわすわっている人物じんぶつがシュレッサー
基本きほん情報じょうほう
国籍こくせき フランスの旗 フランス
出身しゅっしん ムーズけんリウヴィル
生年月日せいねんがっぴ (1928-05-18) 1928ねん5月18にち
ぼつ年月日ねんがっぴ (1968-07-07) 1968ねん7がつ7にち(40さいぼつ
F1での経歴けいれき
活動かつどう時期じき 1966-1968
所属しょぞくチーム '66,'67 マトラ
'68 ホンダ
出走しゅっそう回数かいすう 3
優勝ゆうしょう回数かいすう 0
表彰台ひょうしょうだい(3以内いない)回数かいすう 0
通算つうさん獲得かくとくポイント 0
ポールポジション 0
ファステストラップ 0
初戦しょせん 1966ねんドイツGP
最終さいしゅうせん 1968ねんフランスGP
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ジョゼフ・テオデュール・マリー・“ジョー”・シュレッサーJoseph Théodule Marie “Jo” Schlesser1928ねん5月18にち - 1968ねん7がつ7にち)は、フランスのレーシングドライバー。

おなじくレーサーのジャン=ルイ・シュレッサーおい

経歴けいれき

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モータースポーツの経歴けいれきは1952ねんごろから欧州おうしゅうでのラリー参加さんか最初さいしょ。1957ねんリエージュ-ローマ-リエージュ・ラリーでメルセデス・ベンツ・300SLって総合そうごう2獲得かくとく。その1961ねんのル・マン24あいだレースフェラーリのワークスドライバーに抜擢ばってきされるも予選よせんちゅうにクラッシュ、重傷じゅうしょう出場しゅつじょうのがす。カムバックは1964ねんのパリ1,000km耐久たいきゅうレース2、1965ねんデイトナ24あいだレースGTクラス優勝ゆうしょう、セブリング12あいだGTクラス優勝ゆうしょう、1967ねんランス12あいだ優勝ゆうしょう、1968ねんデイトナ3、スパ1,000km2おなころF2でもブラバムやマトラで上位じょういあらそった。ジム・クラークがロータス48で事故死じこしした1968ねん4がつ7にちのドイツホッケンハイムのF2レースにもジョー・シュレッサーはMcLaren M4A [200-18F] - Cosworth FVAで参加さんかしており6でフィニッシュしている。1969ねんからは、友人ゆうじんのエンジニアミッシェル・テツともに、あらたに自動車じどうしゃ製造せいぞうはじめようとしていたリジェ創設そうせつメンバーとして加入かにゅうすることがまっていた[1]

最後さいごのレース

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1968ねん7がつ、シュレッサーはF1フランスグランプリにホンダ・RA302でスポット参戦さんせんすることになった。かれはF1におけるレギュラードライバーの経験けいけんはなく、それまでも1966ねん翌年よくねんのドイツグランプリをフォードコスワースエンジンをせたF2仕様しようのマトラではしったのみだった。かれ起用きようされたのは主催しゅさいしゃがわ追加ついかエントリーの条件じょうけんとしてフランスじんドライバーをせることを要求ようきゅうしたためである。一方いっぽう、このレースからホンダが投入とうにゅうすることになったRA302は、ホンダの創始そうししゃ本田ほんだそう一郎いちろう固執こしつした自然しぜん通気つうき空冷くうれいエンジンで、当時とうじイギリス本拠ほんきょ活動かつどうしていたホンダチームの現状げんじょうをほとんど無視むしして日本にっぽんからおくりつけられてきたものだった。チーム監督かんとくだった中村なかむら良夫よしおは、チャンピオンドライバーのジョン・サーティース信頼しんらい協力きょうりょく年間ねんかん優勝ゆうしょうけたこのシーズンに、日本にっぽんでの空冷くうれいマシン開発かいはつ人員じんいん労力ろうりょくうばわれたことに忸怩じくじたるものがあり、くわえてシルバーストンでテストしたRA302はオーバーヒートがひどく、熟成じゅくせいすすんだRA301調整ちょうせい優先ゆうせんせざるをえなかった。

レース当日とうじつおもくもめたフランス・ルーアンでシュレッサーのRA302はオーバーヒートをふせぐための多量たりょうのオイルをしての走行そうこうとなり、また英語えいごほぐさないシュレッサーはチームとのコミュニケーションに通訳つうやく必要ひつようで、セットアップもままならずプラクティスからスピンをかえした。16ばんグリッドからの出走しゅっそう(エンジンブローで満足まんぞくはしらなかったマシンよりはやかった)となった決勝けっしょう天候てんこう悪化あっかし、シュレッサーのマシンは3ラップにメインストレートさきくだりSベンドでコントロールをうしない、まっすぐ土手どてにクラッシュ、仰向あおむけでコースわきちると満載まんさいした燃料ねんりょうマグネシウム多用たようしたボディははげしく炎上えんじょうし、かれかえらぬひととなった。

1976ねんにF1参戦さんせんしたフランスのコンストラクター、リジェチームのマシンの”JS”からはじまる型式けいしきナンバーは、チームオーナーのギ・リジェ親友しんゆうであったシュレッサーをしのび、そのイニシャルをかんしたものであった。

シュレッサーのから20ねん1988ねん、ホンダはエンジンコンストラクターとしてマクラーレンともに16せん15しょうげるが、かなわなかったイタリアグランプリでの1しょうはばんだのは、皮肉ひにくにもシュレッサーのおいジャン=ルイ・シュレッサーと、トップをはしアイルトン・セナ接触せっしょくであった。しかもジャン=ルイにとってはキャリア唯一ゆいいつのF1決勝けっしょう出走しゅっそうレースであった。

レース戦績せんせき

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とし 所属しょぞくチーム シャシー 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 WDC ポイント
1966ねん マトラ MS5 F2 MON BEL FRA GBR NED GER
10
ITA USA MEX NC 0
1967ねん マトラ/エキュリー・フォード-フランス RSA MON NED BEL FRA GBR GER
Ret
CAN ITA USA MEX NC 0
1968ねん ホンダ RA302 RSA ESP MON BEL NED FRA
Ret
GBR GER ITA CAN USA MEX NC
(35)
0

ル・マン24あいだレース

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とし チーム コ・ドライバー 使用しよう車両しゃりょう クラス 周回しゅうかい 総合そうごう順位じゅんい クラス順位じゅんい
1957ねん フランスの旗 オートモービル D.B. フランスの旗 ジャン=クロード・ヴィジル DB・HBR-パナール S750 126 DNF DNF
1960ねん アメリカ合衆国の旗 ノース アメリカ レーシング チーム アメリカ合衆国の旗 ビル・スタージス フェラーリ・250 GT カリフォルニア GT
3.0
253 DNF DNF
1963ねん イギリスの旗 デビッド ブラウン レーシング Dept. アメリカ合衆国の旗 ウィリアムズ・キンバリー アストンマーティン・DP214 P
+3.0
139 DNF DNF
1964ねん アメリカ合衆国の旗 フォード・モーター・カンパニー イギリスの旗 リチャード・アトウッド フォード・GT40 Mk.I P
5.0
58 DNF DNF
1965 フランスの旗 フォード・フランス S.A. アメリカ合衆国の旗 アレン・グラント AC・コブラ デイトナ クーペ-フォード GT
5.0
111 DNF DNF
1966 フランスの旗 マトラ スポーツ イギリスの旗 アラン・リース マトラ・MS620-BRM P
2.0
100 DNF DNF
1967 フランスの旗 フォード・フランス S.A. フランスの旗 ギ・リジェ フォード・GT40 Mk.IIB P
+5.0
183 DNF DNF
Source:[2]

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ Michel Têtu 1/2 – Les inédits de «Pilote et Gentleman» Classic Courses 2022ねん1がつ1にち
  2. ^ All Results of Jo Schlesser”. racingsportscars.com. January 6, 2019閲覧えつらん

関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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