ルーベンス・バリチェロ
ルーベンス・バリチェロ | |
---|---|
バリチェロ (2013 | |
フルネーム | ルーベンス・ゴンサウヴェス・バリチェロ |
BAR | |
ブラジル | |
| |
1972 | |
F1での | |
1993-2011 | |
'93-'96 ジョーダン '97-'99 スチュワート '00-'05 フェラーリ '06-'08 ホンダ '09 ブラウン '10-'11 ウィリアムズ | |
326 (322スタート) | |
タイトル | 0 |
11 | |
68 | |
658 | |
ポールポジション | 14 |
ファステストラップ | 17 |
1993 | |
2000 | |
2009 | |
2011 |
ルーベンス・ゴンサウヴェス・バリチェロ(Rubens Gonçalves Barrichello, 1972
F1で
F1において、
初期 の経歴 [編集 ]
1981
1989
1991
この
この
F1での経歴 [編集 ]
ジョーダン[編集 ]
- 1993
年 弱冠 20歳 でジョーダンからF1デビューした。マシンの戦闘 力 に欠 け、さらに資金 不足 もあり次々 とチームメイトが入 れ替 わるなどチーム体制 が安定 せず、ポイント獲得 こそ終盤 の日本 GPにおける5位 入賞 1回 のみにとどまったが、シーズン通 してイヴァン・カペリ、ティエリー・ブーツェンといったベテランも含 め、チームメイトたちを着実 に凌駕 。特 に目 まぐるしい天候 変化 の中 で行 われた第 3戦 ヨーロッパGPにおいては非力 なマシンで一時 2位 を走行 し、フランスGPでは予選 8位 を記録 するなど、随所 でその実力 を見 せて評価 を高 める。
- 1994
年 開幕 戦 から入賞 し、第 2戦 パシフィックGPで自身 初 の表彰台 を獲得 するが、次 のサンマリノGPでは初日 にコースアウトして縁石 でジャンプし、タイヤバリアを越 えて直接 金網 にクラッシュした。このアクシデントでバリチェロは鼻骨 を骨折 し同 GPは欠場 した。第 11戦 ベルギーGPの予選 では、ウェットからドライコンディションへの変化 に上手 く対応 し、当時 の最年少 記録 (22歳 96日 )かつチームおよび自身 初 のポールポジションを獲得 した。シーズンを通 じて予選 ではトップ10の常連 となったが、度重 なるマシントラブルに見舞 われたこともあり、シーズン中 の完走 は8回 にとどまった。だが、表彰台 以外 にも5度 の4位 入賞 を果 たし、年間 ランキングを6位 で終 えた。
- 1996
年 地元 ブラジルGPで予選 2位 を獲得 。この年 は時 の自己 最多 となる7度 の入賞 を果 たすが、表彰台 には届 かなかった。このシーズン限 りでジョーダンを去 り、新興 チームスチュワート・グランプリへ移籍 した。
スチュワート[編集 ]
- 1997
年 - ナンバー1ドライバーとしてスチュワートから
参戦 。予選 では第 7戦 カナダGPの3位 など時折 トップ10に入 り、マシンとしてはそれなりの速 さはあった。しかし、信頼 性 があまりにも低 く完走 率 で下位 チームに負 けるほどであり、特 に自身 の完走 は3回 のみに留 まった。それでも、第 5戦 モナコGPで2位 表彰台 を獲得 し、チーム唯一 のポイントを獲得 した。
- 1998
年 前年 よりは信頼 性 の面 では若干 改善 したものの、マシン性能 の低 さに苦 しめられ、決勝 は5位 入賞 2回 のみにとどまった。
- 1999
年 新 開発 のフォードエンジンを搭載 し、マシンの戦闘 力 が大幅 に向上 。シーズンを通 して上位 争 いを繰 り広 げる。地元 の第 2戦 ブラジルGPでは序盤 からトップを快走 し観客 を熱狂 させるがエンジンブローでした涙 をのんだ。第 7戦 フランスGPではチーム初 、自身 2度目 のポールポジションを獲得 。予選 では16戦中 14戦 でシングルグリッドを記録 し、決勝 では3位 表彰台 3回 を含 む入賞 計 7回 を記録 し、エースとして実力 を見 せるも、チーム初 優勝 は第 14戦 のヨーロッパGPでジョニー・ハーバートが記録 した。チームは2000年 からはジャガー・レーシングとして参戦 することが決定 していたが、後述 のとおり、自身 はエディ・アーバインとのトレードでフェラーリへ移籍 した。
フェラーリ[編集 ]
- 2000
年 - F1デビューから1999
年 までの7年間 、年間 ランキングではチームメイトのカペリ、ブーツェン、マルコ・アピチェラ、エマニュエル・ナスペッティ、アーバイン、アンドレア・デ・チェザリス、鈴木 亜 久里 、マーティン・ブランドル、ヤン・マグヌッセン、ヨス・フェルスタッペン、ハーバートに対 して一 度 も遅 れを取 ることは無 かった。その安定 感 を買 われ、ミハエル・シューマッハのチームメイトとしてフェラーリに加入 し、ブラジル人 としては初 のフェラーリドライバーとなった。この際 、当初 バリチェロは自身 の契約 がシューマッハとの「ジョイント・ナンバー1」で対等 なものであると主張 したが、開幕 直前 にはその発言 を改 め、自身 は「ナンバー1b」だと語 り、実質 的 には「ナンバー2」であることを認 める、という一幕 があった。 - この
年 からは表彰台 の常連 となり、同年 第 11戦 ドイツGP、雨 によりレース後半 にはコースが半分 フルウェット半分 ドライという難 しい状況 となったがドライタイヤで走 りきる決断 を下 し、2位 でレインタイヤを履 くハッキネンの猛烈 な追 い上 げから逃 げ切 り決勝 出走 123戦 目 (参戦 125戦 目 )にして予選 18位 から初 優勝 を飾 った。表彰 式 ではポケットに忍 ばせていたブラジル国旗 を広 げ、人目 も憚 らず男泣 きする姿 に惜 しみない祝福 が送 られた[4]。
- 2001
年 - この
年 は優勝 できなかったものの、前年 を上回 る表彰台 を獲得 。年間 ランキングもF1において自身 最高 位 となる3位 となった。ただ、この年 のオーストリアGPでのバリチェロに対 しシューマッハに2位 を譲 るチームオーダーが出 された出来事 が後 の騒動 の背景 になるのであった。
- 2002
年 - この
年 は4勝 を記録 しランキング2位 となった。しかしながら、第 8戦 のように結果 的 に勝 てなかったレースもあったが、全体 で見 れば、シューマッハのサポート役 に徹 するレースが目立 ち、決 してシューマッハを抜 く姿勢 を見 せないことから『シューマッハの飼 い犬 』などと揶揄 されることもまた多 かった。このことが顕著 に現 れたのがこの年 の第 6戦 オーストリアGPである。このレースではバリチェロがポールポジションを獲得 し、レースの大半 をラップリーダーとなり、ファイナルラップまでバリチェロがトップだったが、チェッカーフラッグを受 ける直前 で2位 走行 中 のシューマッハにトップを譲 った。ただし、当時 のレギュレーションではチームオーダーによる順位 の入 れ替 え行為 をすること自体 は問題 なかったが、結果 的 ではあるが同 じGPで2年 連続 のチームオーダーとなったため、ファンからは大 ブーイングが起 こり、さらに表彰台 でシューマッハが中央 の座 をバリチェロに譲 った事 から(こちらの行為 は禁 じられている)、フェラーリ、シューマッハ、バリチェロの3者 に対 して罰金 として合計 100万 ドルが課 された。一応 、前年 はタイトル争 いが接戦 であったため、それをい訳 にできたが、この年 はシューマッハが独走 態勢 に入 っており、バリチェロが勝 っても戦局 に影響 を与 えることはなかったこともファンの反発 を招 くこととなった。また、この件 に関 しては主催 団体 である国際 自動車 連盟 (FIA)が調査 [5]に乗 り出 すほどであり、その後 、FIAによって2003年 からはチームオーダーが禁止 される要因 になるほどであった。ちなみに、後年 のインタビューによれば[6]、終盤 で激 しい無線 のやり取 りが行 われ、キャリアを左右 する内容 も含 まれていたとコメントしている。 - このことが
影響 したのか、それともシューマッハが第 8戦 の段階 でタイトル獲得 に王手 をかけつつあったことが原因 か不明 だが、第 9戦 ヨーロッパGP、第 13戦 ハンガリーGP、第 14戦 イタリアGPではチームオーダーは発令 されず自身 が優勝 を飾 り、それどころか第 16戦 アメリカGPではゴール目前 でシューマッハから優勝 を譲 られる場面 も見 られた(シューマッハとしてはフィニッシュラインの位置 を勘違 いしただけで譲 るつもりまではなかった、という説 もある)。
- 2003
年 - この
年 はパルクフェルメルール[7]の導入 といったレギュレーションの変更 、ミシュランタイヤを履 くライバルの躍進 に加 え、チームのマシン開発 も攻 めすぎたがゆえに扱 いにくいマシンとなり、シューマッハと共 に苦戦 したシーズンとなった。一方 でバリチェロにとっては自身 の挙 げた2勝 がタイトル争 いを左右 する結果 となり、フェラーリ時代 の中 では最 もタイトル争 いに貢献 したシーズンでもあった。
- 2004
年 - この
年 はシューマッハが開幕 戦 から5戦 連続 優勝 という圧倒的 な強 さを見 せ、タイトル争 いも彼 が独走 。それでも、自身 は2勝 を含 めた計 14回 の表彰台 を獲得 し、自己 最多 のポイントを獲得 。だが、シューマッハの成績 の前 ではバリチェロの成績 はかすんでしまった面 もあった。
- 2005
年 今 までフェラーリの忠実 なセカンドドライバーを務 めてきたが、第 8戦 モナコGPでファイナルラップのシケインでシューマッハに強引 な追 い抜 きを仕掛 けられたことをきっかけに、これからは対等 に勝負 をすると宣言 。ただ、この年 のフェラーリは不調 であり、シューマッハもタイトル争 いどころではなかったうえ、自身 は表彰台 どころか入賞 すら苦戦 する状況 であった。第 9戦 アメリカGPではミシュランタイヤの問題 の為 、実質 フェラーリ同士 でのタイマンとなり、初 めてシューマッハとやりあうシーンが見 られ、このGP後 に移籍 を決意 することとなった。ただ、2人 の関係 はシューマッハのかつてのチームメイトと異 なり、2006年 以降 も良好 な関係 が続 いており、シューマッハの引退 レースとなった2006年 ブラジルグランプリでは、オーバーテイクされる際 に感謝 の意 をこめてたやり取 りも見 られた。同年 の8月 には翌年 からB・A・R(同年 末 にホンダによって買収 されホンダF1となる)へと移籍 することを発表 した。- 2000
年 から2005年 までの6年 で、ミハエル・シューマッハと共 に築 いた1-2フィニッシュの回数 は24回 に及 び、これはルイス・ハミルトンとニコ・ロズベルグの組 み合 わせ(31回 )に次 ぐF1史上 2番目 の組 み合 わせとなっている[8]。
ホンダ[編集 ]
- 2006
年 開幕 当初 は車 に適応 するのに苦労 し、チームメイトのジェンソン・バトンに大 きく引 き離 される形 となったが、車体 と自身 のドライビングスタイルがマッチしていくに従 い調子 を上 げ、中盤 に入 ってバトンがスランプとなったことにも助 けられ第 10戦 アメリカGPではポイントで並 ぶことに成功 した。最終 的 にはバトンが第 13戦 での自身 初 勝利 も含 めた表彰台 3回 獲得 に加 え、入賞 としては第 12戦 から7戦 連続 入賞 も含 め計 11回 を記録 し、獲得 ポイントこそ大 きく離 されることとなったが、バリチェロ個人 としては4戦 連続 入賞 も含 め計 10回 入賞 するというまずまずの結果 で終 えた。
- 2007
年 前年 にフェラーリ時代 のチームメートだったミハエル・シューマッハが引退 したため、現役 で唯一 のアイルトン・セナと同 じレースを戦 った経験 があるF1ドライバーとなり、フジテレビのF1グランプリ中継 では「セナ世代 最後 の男 」と呼 ばれた。ところがホンダRA107のパフォーマンスは最悪 といっていいほどで、バトン共々 苦労 を強 いられた。未 入賞 ながらも予選 ・決勝 共 にバトンを上回 ることが多 く、内容 ではバトンに対 して決 して見劣 りはしなかったものの、バトンがなんとか3回 の入賞 を拾 ったのとは対照 的 に、バリチェロは荒 れたカナダGPや日本 GPで上位 を走 る姿 を見 せるも、いずれもチームのピット戦略 の稚拙 さに何 度 も泣 かされる格好 で尽 く入賞 のチャンスを逃 し、結局 この年 は1ポイントも獲得 する事 ができず、自身 初 の年間 ノーポイントとなった。この年 の不振 から、シーズン末 にはスーパーアグリに移籍 話 や引退 してインディカーに転身 する等 の情報 も流 れたが、2008年 もホンダのドライバーとして残留 した。
- 2008
年 開幕 戦 を6位 で完走 し、久々 の入賞 を果 たしたかに思 われたが、ピットレーン信号 無視 による失格 の裁定 を受 けた。その後 、F1グランプリ通算 257戦 目 となった第 5戦 トルコGPではリカルド・パトレーゼの記録 を15年 ぶりに塗 り替 え、歴代 最多 出走 記録 を樹立 した。なおこの記録 に関 しては、1998年 第 13戦 ベルギーGPなど決勝 出走 していないレースもいくつかあるため雑誌 やメディアによって基準 の判断 が異 なり、広 く論 じられていたが、バリチェロ本人 とチームはこのトルコGPで記録 更新 のおいをしており、そのことからも唯一 予選落 ちした1994年 第 3戦 サンマリノGPを除 き、予選 を通過 して決勝 に進出 した全 てのレースを出走 とカウントするのが通説 となった。その次 のモナコGPでは、序盤 雨 の荒 れたレースを乗 り越 え、6位 入賞 を果 たし、2006年 最終 戦 ブラジルGP以来 のポイントを獲得 した。また、次 戦 のカナダGPでも7位 でフィニッシュ。連続 入賞 を果 たした。その後 の第 9戦 イギリスGPでは雨 のレースの中 、タイヤ戦略 が功 を奏 し3位 表彰台 獲得 。2005年 アメリカグランプリ以来 3年 ぶりに表彰台 の上 に立 った。
ブラウン[編集 ]
- 2009
年 - 2009
年 はホンダとの契約 が終了 し、かつホンダではアイルトン・セナの甥 ブルーノの起用 が有力 視 される中 で移籍 先 も無 く引退 すると思 われていた。 - しかし、2008
年 12月にホンダが撤退 を発表 ・2009年 3月 にホンダの株式 を100%買 い取 ったロス・ブラウン率 いる新 チームブラウンGPはバリチェロにオファーを打診 し、ブラウンGPから参戦 した。開幕 戦 では予選 2位 を獲得 するが、決勝 スタートでアンチストール装置 が誤動作 し大 きく順位 を下 げるも、終盤 に前 を走 るロバート・クビサとセバスチャン・ベッテルが接触 リタイヤした事 もあり、バリチェロは2位 に入 り優勝 した僚友 バトンと新 チームに最高 の結果 をもたらした。第 5戦 スペインGPではチーム側 が、バトンが渋滞 に入 るのを回避 する為 にバトンを2ストップ作戦 へ変更 ・結果 的 にトップにいたバリチェロを逆転 して優勝 。バリチェロは「バトンの作戦 変更 を聞 いて驚 いた」と発言 、マスコミからチームオーダー発動 かと書 きたてられる(ロス・ブラウンは即座 に否定 )。第 9戦 ドイツGPでトップ走行 中 、チームがピット作業 ミスでタイムロスを起 こしてしまい、バリチェロが「チームが勝利 を奪 った、チームの誰 とも話 したくない」と激怒 。第 10戦 ハンガリーGPで予選 で自身 のマシンからサードダンパーのスプリングが外 れフェリペ・マッサのヘルメットを直撃 し頭部 を負傷 を招 き、決勝 では10位 に終 わり不調 が続 いた。しかし第 11戦 ヨーロッパGPでは、2004年 中国 GP以来 の優勝 を飾 った。第 13戦 イタリアGPではバトンと1・2フィニッシュで2勝 目 。トルコGP・ハンガリーGP以外 の全 戦 でポイントを獲得 し、ランキング3位 となった。シーズン前半 は7戦 で6勝 したバトンと比 べ不調 だったが、ブレーキ素材 をイギリスGPで従来 品 からバトンと一緒 のメーカーに変更 するとフィーリングが良 くなり後半 の復調 に繋 がった。元々 、ブラウンのオファーを受 けて参戦 したものの、開幕 当初 は序盤 4戦 のみの契約 で、それ以降 は状況 次第 という不安定 な環境 であったうえ、シーズン前 のテストに参加 [9]はしていたものの、バトン中心 のテストであったため、マシンの習熟 に差 が出 ることとなった。こうしたことが前 2年 のバトンとの力 関係 からすると、大 きすぎる差 を生 むことにつながった。
ウィリアムズ[編集 ]
- 2010
年 - アブダビGPの
翌日 の2009年 11月2日 、ウィリアムズへ移籍 することを発表 した。 - 2010
年 のベルギーグランプリで、F1ドライバーとして初 となる通算 300戦 参戦 を達成 したとされ、同 グランプリで関係 者 から祝福 を受 けた。また同 グランプリで行 われたグランプリ・ドライバーズ・アソシエーション(GPDA)の会合 において、前任 者 のニック・ハイドフェルドの辞任 に伴 い、GPDAの会長 に就任 した。[10] 前年 のブラウンGPとは違 いナンバー1待遇 を受 けることができたせいか、開幕 戦 よりマシンのポテンシャルを存分 に引 き出 すパフォーマンスをみせたものの、マシンの完成 度 については、全 くの新型 ではなく去年 のFW31の進化 型 にすべきだったとバリチェロ本人 が言及 する程度 の出来 だった。しかし、ブロウンディフューザーが投入 されたヨーロッパGPではシーズン最高 位 の4位 入賞 を果 たす素晴 らしい活躍 を見 せ、以降 もマシンに新 パーツが追加 されていき、シーズン前半 に比 べより多 くのQ3進出 や入賞 を果 たしていった。この事 がチーム代表 のフランク・ウィリアムズをして「ルーベンスがいなかったら、どうにもならなかっただろう」と言 わしめることにつながった。2010年 11月15日 、来季 もウィリアムズに残留 することが発表 された[11]。
- 2011
年 - カート
時代 からの自身 のラッキーナンバーであるカーナンバー11をつけての出走 となった。カーナンバー11は、2006年 に在籍 したホンダ以来 5年 振 り。しかし成績 はふるわず最高 は9位 2回 ・4ポイントに留 まる。チームは持参 金 を持 ち込 んだブルーノ・セナと契約 し、2012年 のウィリアムズのシートを喪失 。F1ドライバーの引退 が事実 上 決定 した。
F1引退 後 のキャリア[編集 ]
インディカ―[編集 ]
2012
南米 ツーリングカー[編集 ]
2012
2020
レース戦績 [編集 ]
イギリス・フォーミュラ3選手権 [編集 ]
チーム | エンジン | クラス | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 10 | 11 | 12 | 13 | 14 | 15 | 16 | ポイント | ||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1991 |
ウェストサリー・レーシング | A | SIL Ret |
THR 1 |
DON Ret |
BRH 3 |
BRH 4 |
THR 2 |
SIL 2 |
DON 1 |
SIL 5 |
SIL Ret |
SNE 4 |
SIL 5 |
BRH 3 |
DON 1 |
SIL 1 |
THR 5 |
1 |
74 |
国際 F3000選手権 [編集 ]
チーム | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 10 | ポイント | ||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1992 |
ポール・スチュアート・レーシング | SIL 2 |
PAU 3 |
CAT 2 |
PER Ret |
HOC 6 |
NÜR 3 |
SPA 5 |
ALB 6 |
NOG 6 |
MAG 5 |
3 |
27 |
F1[編集 ]
ランキング | FL | |||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1993 |
ジョーダン | 14 | 17 |
2 | 5 |
0 |
8 |
0 |
1994 |
14 | 6 |
19 | 3 |
1 |
1 |
0 | |
1995 |
14 | 11 |
11 | 2 |
1 |
5 |
0 | |
1996 |
11 | 8 |
14 | 4 |
0 |
2 |
0 | |
1997 |
スチュワート | 22 | 13 |
6 | 2 |
1 |
3 |
0 |
1998 |
18 | 12 |
4 | 5 |
0 |
5 |
0 | |
1999 |
16 | 7 |
21 | 3 |
3 |
1 |
0 | |
2000 |
フェラーリ | 4 | 4 |
62 | 1 |
9 |
1 |
3 |
2001 |
2 | 3 |
59 | 2 |
10 |
2 |
0 | |
2002 |
2 | 2 |
77 | 1 |
10 |
1 |
5 | |
2003 |
2 | 4 |
65 | 1 |
8 |
1 |
3 | |
2004 |
2 | 2 |
114 | 1 |
14 |
1 |
4 | |
2005 |
2 | 8 |
38 | 2 |
4 |
6 |
0 | |
2006 |
ホンダ | 11 | 7 |
30 | 4 |
0 |
3 |
0 |
2007 |
8 | 20 |
0 | 9 |
0 |
9 |
0 | |
2008 |
17 | 14 |
11 | 3 |
1 |
9 |
0 | |
2009 |
ブラウン | 23 | 3 |
77 | 1 |
6 |
1 |
2 |
2010 |
ウィリアムズ | 9 | 10 |
47 | 4 |
0 |
6 |
0 |
2011 |
11 | 17 |
4 | 9 |
0 |
11 |
0 |
太字 はポールポジション、斜 字 はファステストラップ。(key)- † : リタイアだが、90%
以上 の距離 を走行 したため規定 により完走 扱 い。 - ‡ : ハーフポイント。レース
周回 数 が75%未満 で終了 したため、得点 が半分 となる。
インディカー・シリーズ[編集 ]
チーム | シャシー | エンジン | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 10 | 11 | 12 | 13 | 14 | 15 | ポイント | ||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
2012 |
KVレーシング・テクノロジー | ダラーラ・DW12 | シボレー | STP 17 |
ALA 8 |
LBH 9 |
SAO 10 |
INDY 11 |
DET 25 |
TXS DNS |
MIL 10 |
IOW 7 |
TOR 11 |
EDM 13 |
MDO 15 |
SNM 4 |
BAL 5 |
FON 22 |
12 |
289 |
デイトナ24時 間 レース[編集 ]
チーム | コ・ドライバー | クラス | クラス | ||||
---|---|---|---|---|---|---|---|
2013 |
Dener Motorsport | Porsche 911 GT3 | ノノ・フィギレイド フェリペ・ジアフォーネ トニー・カナーン リカルド・マウリシオ |
GT | 352 | 46 DNF | 28 DNF |
2015 |
Starworks Motorsport | Riley MkXXVI | トア・グレイヴス ブレンドン・ハートレイ ライアン・ハンター=レイ スコット・メイヤー |
P | 426 | 39 DNF | 10 DNF |
2016 |
ウェイン・テイラー・レーシング | Chevrolet Corvette DP | リッキー・テイラー ジョーダン・テイラー マックス・アンジェレッリ |
P | 736 | 2 |
2 |
2019 |
JDC-Miller Motorsports | Cadillac DPi-V.R | ミーシャ・ゴイヒバーグ トリスタン・ヴォーティエ デヴリン・デフランチェスコ |
DPi | 586 | 5 |
5 |
ル・マン24時 間 レース[編集 ]
チーム | コ・ドライバー | クラス | クラス | ||||
---|---|---|---|---|---|---|---|
2017 |
レーシングチーム・ネーデルランド | ヤン・ラマース フリッツ・ヴァン・イアード |
ダラーラ・P217-ギブソン | LMP2 | 344 | 13 |
11 |
参戦 レース数 について[編集 ]
バリチェロの
しかしメディアの
ただし、ライコネンが2020
エピソード[編集 ]
母国 GPであるブラジルGPにはデビュー年 から2009年 まで17年 連続 で出走 しているが、優勝 は無 い。フロントローを獲得 したことは4回 あるが、決勝 レースでは2004年 の3位 表彰台 に立 ったのが最高 でリタイアが多 く、その数 は実 に11回 にものぼる。ポールポジションからスタートした2003年 にはトップ走行 中 にガス欠 という、当時 のフェラーリとしては珍 しい原因 でリタイアしている。ちなみに、バリチェロの後任 としてフェラーリ入 りした同国 人 のフェリペ・マッサは、移籍 初年度 に地元 優勝 を達成 した。- F1ドライバーの
中 でも雨 のレースを得意 とする一人 である。1993年 ヨーロッパGPでの快走 、1994年 ベルギーGPでの初 ポールポジション、2000年 ドイツGPでの初 優勝 (雨中 ドライタイヤで走 る賭 けが成功 )など、印象 的 な活躍 場面 に雨 が絡 んでいる。 元 妻 のシルヴァーナ(Silvana)はブラジルにおいてレース一族 として知 られるジアフォーネ家 の出身 で、インディ・レーシング・リーグ(IRL)に参戦 していたフェリペ・ジアフォーネの従妹 にあたる。フェリペ・ジアフォーネはバリチェロにとっては仲 の良 いドライバーの一人 で、年末 にサンパウロで開催 されているカートの500マイル耐久 レースではバリチェロとジアフォーネほかのチームは5回 の優勝 を誇 っている。大抵 のブラジル人 ドライバーと仲 が良 いが、その中 でも最大 の親友 といえるのはトニー・カナーンで、互 いに兄弟 のようなものと認 めるほどに仲 が良 い。バリチェロがイギリスに滞在 していた当時 、ヨーロッパ修行 中 のカナーンを数 週 バリチェロの部屋 に泊 めたエピソードは二 人 の間 でしばしば語 られ、大抵 の場合 、バリチェロは「そういえばあの時 、奴 がいなくなった後 に靴 がなくなったな…」と同 じ冗談 を口 にする。2006年 にはモナコGPでバリチェロが自身 のヘルメットをカナーンのそれと同 じカラーリングにし、同日 に開催 されたインディ500ではカナーンが自身 のヘルメットをバリチェロのそれと同 じカラーリングにした。
- カートで
初 優勝 した時 のカーナンバー、カーナンバー「11」がバリチェロのラッキーナンバーである。カートにおいてはこのカーナンバーとともに多 くの優勝 を記録 した。2006年 のホンダチームはカーナンバー11と12を付 けることになり、本来 エースナンバーであるカーナンバー11の権利 はジェンソン・バトンにあったが、この番号 がバリチェロにとってのラッキーナンバーであることを知 ったバトンにより「友好 の印 」として贈 られ、この年 はバリチェロがカーナンバー11を付 けた。F1においてはこの年 のほか、1996年 、2011年 もカーナンバー11を付 けて出走 している。一方 、F1において最 も多 く付 けたカーナンバーは5年 を共 にした「2」で、これはチームメイトのミハエル・シューマッハが5年 連続 でドライバーズチャンピオンのタイトルを獲得 したことによる。余談 だが、バリチェロのF1での通算 勝利 数 も「11」である。 祖父 と父親 の名前 も「ルーベンス(フーベンス)」である[19]。加 えて、父親 であるルーベンス・バリチェロJr.(フーベンス・バヒケール・ジュニオール)にいたっては誕生 日 も息子 と同 じ5月 23日 である[20]。バリチェロの愛称 である「ルビーニョ(フビーニュ)」(Rubinho)は「小 さいルーベンス(フーベンス)」という意味 で、元々 は祖父 フーベンス、父親 フーベンス・ジュニオールとの呼 び分 けから来 ている。- バリチェロ
自身 は、2001年 に生 まれた長男 に「ルーベンス(フーベンス)」ではなくエドゥアルドゥ(Eduardo)、2005年 に生 まれた次男 にはフェルナンドゥ(Fernando)と付 けている。妻 のシルヴァーナは日系 ブラジル人 3世 でもあるため、バリチェロの2人 の子息 は日系 4世 にあたる。 - 2000
年 ドイツGP、2003年 イギリスGPでは、不審 者 がコース上 に侵入 してセーフティーカーが導入 されるという珍事 があったが、バリチェロはこの両 レースを制 している。 - 2008
年 11月25日 、ブラジルのテレビ局 『Rede Globo』の番組 『Fantastico』に出演 し、シューマッハに勝利 を譲 って物議 を醸 した、2002年 第 6戦 オーストリアGPについて言及 した。バリチェロによると、首位 走行 中 に残 り8周 に差 し掛 かかった時点 で、ピットから指示 が入 った。そして『後 ろにミハエルがいる、チャンピオンシップにどれだけ重要 なことか分 かるな。』と言 われ、周回 が進 むにつれて言葉 が強 くなり、『もし従 わない場合 は、契約 を考 え直 す。』と言 われたという。さらにバリチェロは、このことを『シューマッハが知 っていた証拠 がある。』とも語 った[21]。 - 2009
年 シーズン中盤 以降 の白 いヘルメットは息子 がデザインしたもの。 - 2009
年 全 戦 に参戦 したバリチェロだったが、開幕 当初 は序盤 4戦 のみの契約 で、その間 に持参 金 ドライバーが現 れればシートを明 け渡 すという内容 だったことを明 かしている。 - 2010
年 7月 11日 放送 のBBCの自動車 番組 「トップ・ギア」第 15シーズン3回 目 の放送 で「Star in a Reasonably Priced Car」コーナーに出演 。それまで1位 だったナイジェル・マンセルの1分 44秒 6の記録 をコンマ3秒 上回 る1分 44秒 3の最速 記録 を出 した。これはスティグの参考 記録 である1分 44秒 4をも上回 る記録 であり、よほど嬉 しかったのか、自分 用 に「I beat the Stig(私 はスティグに勝 った)」と書 かれたT シャツを、出演 したが記録 を破 れなかったF1ドライバー用 に「I didn't beat the Stig(私 はスティグに負 けた)」と書 かれたT シャツをそれぞれ制作 、過去 同 番組 に出演 ・アタックしたF1ドライバーに配布 した。このうちジェンソン・バトンが同月 行 われたF1ドイツGPで「私 はスティグに負 けた」シャツを着用 している他 、バリチェロ本人 も息子 に「My Dad beat the Stig(僕 のお父 さんはスティグに勝 った)」T シャツを着 せて会場 に登場 。番組 でも同 シーズン6回 目 の放送 で取 り上 げられた。ちなみにバリチェロによる記録 更新 後 、番組 のスティグ登場 時 に行 われる噂 話 紹介 では、「バリチェロの人形 をデスクファンで痛 めつけている」等 ネタにされていた。なお、この記録 は第 17シーズン(2011年 )に出演 したセバスチャン・ベッテルが1分 44秒 0に更新 する。 今 まで最 も怖 かったレースは鼻骨 骨折 した94年 のサンマリノGPではなく、07年 の日本 GPと述 べている。『まるで飛行機 が厚 い雲 の中 に入 ったようなものだった。しかも2時間 ずっとね』とのこと(実際 ドクターヘリが飛 べないほどの視界 だった。詳細 は記事 を参照 )[22]。- F1
引退 の危機 に際 し、2度 も母国 の後輩 ブルーノ・セナが後釜 に座 る予定 で関 わる事 となった。 - F1ドライバーの
小林 可 夢 偉 にTENGAの購入 を依頼 し、2011年 のF1中国 グランプリ決勝 レース前夜 に使用 した。 - F1では
通算 11勝 を上 げたが全 てロス・ブラウンとともにき上 げた勝利 である。 - 2014
年 シーズンの母国 グランプリを含 む最後 の3戦 をケータハムからレギュラードライバーの小林 可 夢 偉 に代 わって出走 する予定 だった。しかしチームは破産 しグランプリを欠場 することになったため実現 しなかった。[23] 当時 F1実況 を担当 していた古舘 伊知郎 からは、「ヒロミに似 ている」「ジミー大西 に似 ている」などと紹介 されていた。
出典 [編集 ]
- ^ a b ルーベンス・バリチェロformula1-data.com(2019
年 8月 16日 )2020年 11月18日 閲覧 。 - ^ フェルナンド・アロンソによって
更新 された。 - ^ マーク・ウェバーに
更新 された(132戦 目 )。 - ^ バリチェロの
前 のスロー優勝 の記録 保持 者 は、前年 のワールドチャンピオン、ミカ・ハッキネン(1997年 最終 戦 ヨーロッパGP、99戦 目 )である。また、後方 からによる優勝 は、1983年 に予選 22位 から優勝 したジョン・ワトソンに次 ぐ歴代 2位 の記録 である。 - ^ “チームオーダーの
余波 、FIAがフェラーリを事情 聴取 へ---F1オーストリアGP”. Responce.jp. (2002年 5月 14日 ) 2010年 7月 28日 閲覧 。 - ^ ルーベンス・バリチェロ、2002
年 にフェラーリから脅 されたwww.topnews.jp(2012年 5月 11日 )2020年 7月 2日 閲覧 。 - ^
予選 最終 アタックには決勝 スタート時 の燃料 を搭載 して出走 することが義務付 けられ、予選 と決勝 の間 のセッティング変更 が禁 じられた。 - ^
以下 、アイルトン・セナとアラン・プロストの組 み合 わせ(14回 )、ミカ・ハッキネンとデビッド・クルサードの組 み合 わせ(13回 )。 - ^ ブラウンGP:バリチェロが3
番手 タイム (バルセロナテスト2日 目 )f1-gate.com(2009年 3月 11日 )2020年 7月 24日 閲覧 。 - ^ バリチェロがGPDA
新 会長 に就任 - ESPN F1・2010年 8月 28日 - ^ ウィリアムズ、ルーベンス・バリチェロの
残留 を発表 - F1-Gate.com・2011年 11月15日 - ^ ルーベンス・バリチェロ、KVレーシングでインディカー
参戦 が決定 - f1-gate.com 2012年 3月 2日 - ^ “STC2000:ルーベンス・バリチェロ、トヨタ・カローラでフル
参戦 決定 。南米 最高峰 掛 け持 ち参戦 へ”. AS-Web (2020年 2月 7日 ). 2021年 9月 29日 閲覧 。 - ^ ライコネン、
前人未到 の323戦 へ「記録 が懸 かろうが僕 は普段 どおりにレースをするだけ」F1アイフェルGP Alfa Romeo《preview》2020formula1-data.com(2020年 10月 7日 )2020年 11月18日 閲覧 。 - ^ “ハンガリーGP
木曜日 の記者 会見 パート2”. espn F1. (2010年 7月 30日 ) 2010年 7月 30日 閲覧 。 - ^ Barrichello milestones - 300 Grands Prix and counting - formula1.com・2010
年 8月 26日 - ^ ルーベンス・バリチェロ、スパがF1
参戦 300戦 ではない? - f1-gate.com・2010年 8月 26日 - ^ バリチェロ、
自 らのF1最多 出走 記録 に並 んだライコネンを祝福 「今度 乾杯 しよう!」jp.motorsport.com(2020年 10月 1日 )2020年 11月18日 閲覧 。 - ^ “アーカイブされたコピー”. 2012
年 2月 6日 時点 のオリジナルよりアーカイブ。2016年 2月 8日 閲覧 。 インタビュー:ルーベンス・バリチェロ(本 記事 「ルーベンス・バリチェロ」の祖父 ) - ^ “アーカイブされたコピー”. 2007
年 4月 6日 時点 のオリジナルよりアーカイブ。2007年 6月 2日 閲覧 。 My story: ルーベンス・バリチェロ公式 サイトより - ^ F1-Live.com
- ^ F1 RACING
日本 版 2011年 1月 情報 号 の本人 のインタビューより - ^ “バリチェロのカムバックを
予定 していたケータハム”. ESPN F1. (2014年 11月5日 ) 2014年 11月5日 閲覧 。
外部 リンク[編集 ]
- ルーベンス・バリチェロ
公式 サイト - Rubens Barrichello (@rubarrichello) - X(
旧 Twitter)