ルーベンス・バリチェロ

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ルーベンス・バリチェロ
バリチェロ (2013ねん
基本きほん情報じょうほう
フルネーム ルーベンス・ゴンサウヴェス・バリチェロ
略称りゃくしょう表記ひょうき BAR
国籍こくせき ブラジルの旗 ブラジル
出身しゅっしん どうサンパウロ
生年月日せいねんがっぴ (1972-05-23) 1972ねん5月23にち(52さい
F1での経歴けいれき
活動かつどう時期じき 1993-2011
過去かこ所属しょぞくチーム '93-'96 ジョーダン
'97-'99 スチュワート
'00-'05 フェラーリ
'06-'08 ホンダ
'09 ブラウン
'10-'11 ウィリアムズ
出走しゅっそう回数かいすう 326 (322スタート)
タイトル 0
優勝ゆうしょう回数かいすう 11
表彰台ひょうしょうだい(3以内いない)回数かいすう 68
通算つうさん獲得かくとくポイント 658
ポールポジション 14
ファステストラップ 17
初戦しょせん 1993ねんみなみアフリカGP
はつ勝利しょうり 2000ねんドイツGP
最終さいしゅう勝利しょうり 2009ねんイタリアGP
最終さいしゅうせん 2011ねんブラジルGP
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ルーベンス・ゴンサウヴェス・バリチェロRubens Gonçalves Barrichello, 1972ねん5月23にち - )は、ブラジルサンパウロ出身しゅっしんレーシングドライバー愛称あいしょうは「ちいさなルーベンス」を意味いみするルビーニョRubinho)。

F1通算つうさん322せん参戦さんせん引退いんたい時点じてん(2011ねん)では歴代れきだい最多さいた記録きろくであった[1]詳細しょうさい#参戦さんせんレースすうについて参照さんしょう)。

F1において、当時とうじ史上しじょう最年少さいねんしょうポールポジション獲得かくとくする[2]などはやくから実力じつりょくせていた一方いっぽうで、競争きょうそうりょくたかくるまにはなかなかめぐまれなかったため、優勝ゆうしょうは125せんはじめて獲得かくとくしており、これは当時とうじとしてはもっとおそ記録きろくであった[3]

名前なまえのカタカナ表記ひょうきについては「フーベンス・ゴンサウヴェス・バヒケール」という表記ひょうき実際じっさい発音はつおんちかいほか、せいについて日本にっぽん国内こくないでは「バリッケッロ」「バリッチェロ」「バリチェッロ」といった表記ひょうきおおられるが、ほん記事きじでは日本にっぽん国内こくない一般いっぱんてきな「ルーベンス・バリチェロ」の表記ひょうき統一とういつする。

初期しょき経歴けいれき[編集へんしゅう]

1981ねんカートはじめ、1990ねんにヨーロッパにうつるまで、強豪きょうごうがしのぎをけず当時とうじのブラジル選手権せんしゅけんにおいてチャンピオンタイトル5かい、ランキング23かい、サンパウロしゅう選手権せんしゅけんにおいてもチャンピオンタイトル5かい、ランキング23かいという圧倒的あっとうてき成績せいせきのこし、はやくから将来しょうらい嘱望しょくぼうされた。

1989ねんフォーミュラ・フォードのブラジル国内こくない選手権せんしゅけん参戦さんせんし(年間ねんかんランキング4)、1990ねんにはイギリスへとうつり、同年どうねんにはフォーミュラ・オペル選手権せんしゅけん初年度しょねんどでいきなりせいした。

1991ねんにはイギリスF3へとステップアップ。デビッド・クルサードとのあらそいをせいして、19さいにしてチャンピオンにかがやいた。

この時点じてんですでにF1参戦さんせんこえがかかるようになったが、翌年よくねん国際こくさいF3000にステップアップし、ルカ・バドエルアンドレア・モンテルミーニぐランキング3記録きろくのこした。

このとしのうちにジョーダン・グランプリ契約けいやくむすび、翌年よくねんのF1ステップアップをめた。

F1での経歴けいれき[編集へんしゅう]

ジョーダン[編集へんしゅう]

1993ねんイギリスGP
1993ねん
弱冠じゃっかん20さいでジョーダンからF1デビューした。マシンの戦闘せんとうりょくけ、さらに資金しきん不足ふそくもあり次々つぎつぎとチームメイトがわるなどチーム体制たいせい安定あんていせず、ポイント獲得かくとくこそ終盤しゅうばん日本にっぽんGPにおける5入賞にゅうしょう1かいのみにとどまったが、シーズンとおしてイヴァン・カペリティエリー・ブーツェンといったベテランもふくめ、チームメイトたちを着実ちゃくじつ凌駕りょうがとくまぐるしい天候てんこう変化へんかなかおこなわれただい3せんヨーロッパGPにおいては非力ひりきなマシンで一時いちじ2走行そうこうし、フランスGPでは予選よせん8記録きろくするなど、随所ずいしょでその実力じつりょくせて評価ひょうかたかめる。
1994ねん
開幕かいまくせんから入賞にゅうしょうし、だい2せんパシフィックGP自身じしんはつ表彰台ひょうしょうだい獲得かくとくするが、つぎサンマリノGPでは初日しょにちにコースアウトして縁石えんせきでジャンプし、タイヤバリアえて直接ちょくせつ金網かなあみにクラッシュした。このアクシデントでバリチェロは鼻骨びこつ骨折こっせつどうGPは欠場けつじょうした。 だい11せんベルギーGP予選よせんでは、ウェットからドライコンディションへの変化へんか上手うま対応たいおうし、当時とうじ最年少さいねんしょう記録きろく(22さい96にち)かつチームおよび自身じしんはつのポールポジションを獲得かくとくした。シーズンをつうじて予選よせんではトップ10の常連じょうれんとなったが、度重たびかさなるマシントラブルに見舞みまわれたこともあり、シーズンちゅう完走かんそうは8かいにとどまった。だが、表彰台ひょうしょうだい以外いがいにも5の4入賞にゅうしょうたし、年間ねんかんランキングを6えた。
1995ねんイギリスGP
1995ねん
予選よせんではチームメイトのエディ・アーバインよりも後方こうほうグリッドからスタートすることがおおかったが、カナダGPで2表彰台ひょうしょうだいったのをさい上位じょういに、ドライバーズランキングではアーバインを上回うわまわった。
1996ねん
地元じもとブラジルGPで予選よせん2獲得かくとく。このとし自己じこ最多さいたとなる7入賞にゅうしょうたすが、表彰台ひょうしょうだいにはとどかなかった。このシーズンかぎりでジョーダンをり、新興しんこうチームスチュワート・グランプリ移籍いせきした。

スチュワート[編集へんしゅう]

1997ねんカナダGP
1997ねん
ナンバー1ドライバーとしてスチュワートから参戦さんせん予選よせんではだい7せんカナダGPの3など時折ときおりトップ10にはいり、マシンとしてはそれなりのはやさはあった。しかし、信頼しんらいせいがあまりにもひく完走かんそうりつ下位かいチームにけるほどであり、とく自身じしん完走かんそうは3かいのみにとどまった。それでも、だい5せんモナコGPで2表彰台ひょうしょうだい獲得かくとくし、チーム唯一ゆいいつのポイントを獲得かくとくした。
1998ねん
前年ぜんねんよりは信頼しんらいせいめんでは若干じゃっかん改善かいぜんしたものの、マシン性能せいのうひくさにくるしめられ、決勝けっしょうは5入賞にゅうしょう2かいのみにとどまった。
1999ねん
しん開発かいはつのフォードエンジンを搭載とうさいし、マシンの戦闘せんとうりょく大幅おおはば向上こうじょう。シーズンをとおして上位じょういあらそいをひろげる。地元じもとだい2せんブラジルGPでは序盤じょばんからトップを快走かいそう観客かんきゃく熱狂ねっきょうさせるがエンジンブローでしたなみだをのんだ。だい7せんフランスGPではチームはつ自身じしん2度目どめのポールポジションを獲得かくとく予選よせんでは16戦中せんちゅう14せんでシングルグリッドを記録きろくし、決勝けっしょうでは3表彰台ひょうしょうだい3かいふく入賞にゅうしょうけい7かい記録きろくし、エースとして実力じつりょくせるも、チームはつ優勝ゆうしょうだい14せんのヨーロッパGPでジョニー・ハーバート記録きろくした。チームは2000ねんからはジャガー・レーシングとして参戦さんせんすることが決定けっていしていたが、後述こうじゅつのとおり、自身じしんエディ・アーバインとのトレードでフェラーリへ移籍いせきした。

フェラーリ[編集へんしゅう]

2000ねん
F1デビューから1999ねんまでの7年間ねんかん年間ねんかんランキングではチームメイトのカペリ、ブーツェン、マルコ・アピチェラエマニュエル・ナスペッティ、アーバイン、アンドレア・デ・チェザリス鈴木すずき久里くさとマーティン・ブランドルヤン・マグヌッセンヨス・フェルスタッペン、ハーバートにたいしていちおくれをることはかった。その安定あんていかんわれ、ミハエル・シューマッハのチームメイトとしてフェラーリ加入かにゅうし、ブラジルじんとしてははつのフェラーリドライバーとなった。このさい当初とうしょバリチェロは自身じしん契約けいやくがシューマッハとの「ジョイント・ナンバー1」で対等たいとうなものであると主張しゅちょうしたが、開幕かいまく直前ちょくぜんにはその発言はつげんあらため、自身じしんは「ナンバー1b」だとかたり、実質じっしつてきには「ナンバー2」であることをみとめる、という一幕ひとまくがあった。
このとしからは表彰台ひょうしょうだい常連じょうれんとなり、同年どうねんだい11せんドイツGP、あめによりレース後半こうはんにはコースが半分はんぶんフルウェット半分はんぶんドライというむずかしい状況じょうきょうとなったがドライタイヤではしりきる決断けつだんくだし、2でレインタイヤをくハッキネンの猛烈もうれつげから決勝けっしょう出走しゅっそう123せん参戦さんせん125せん)にして予選よせん18からはつ優勝ゆうしょうかざった。表彰ひょうしょうしきではポケットにしのばせていたブラジル国旗こっきひろげ、人目ひとめはばからず男泣おとこなきする姿すがたしみない祝福しゅくふくおくられた[4]
2001ねん
このとし優勝ゆうしょうできなかったものの、前年ぜんねん上回うわまわ表彰台ひょうしょうだい獲得かくとく年間ねんかんランキングもF1において自身じしん最高さいこうとなる3となった。ただ、このとしのオーストリアGPでのバリチェロにたいしシューマッハに2ゆずるチームオーダーがされた出来事できごとこう騒動そうどう背景はいけいになるのであった。
2002ねん
このとしは4しょう記録きろくしランキング2となった。しかしながら、だい8せんのように結果けっかてきてなかったレースもあったが、全体ぜんたいれば、シューマッハのサポートやくてっするレースが目立めだち、けっしてシューマッハを姿勢しせいせないことから『シューマッハのいぬ』などと揶揄やゆされることもまたおおかった。このことが顕著けんちょあらわれたのがこのとしだい6せんオーストリアGPである。このレースではバリチェロがポールポジションを獲得かくとくし、レースの大半たいはんをラップリーダーとなり、ファイナルラップまでバリチェロがトップだったが、チェッカーフラッグをける直前ちょくぜんで2走行そうこうちゅうのシューマッハにトップをゆずった。ただし、当時とうじのレギュレーションではチームオーダーによる順位じゅんい行為こういをすること自体じたい問題もんだいなかったが、結果けっかてきではあるがおなじGPで2ねん連続れんぞくのチームオーダーとなったため、ファンからはだいブーイングがこり、さらに表彰台ひょうしょうだいでシューマッハが中央ちゅうおうをバリチェロにゆずったことから(こちらの行為こういきんじられている)、フェラーリ、シューマッハ、バリチェロの3しゃたいして罰金ばっきんとして合計ごうけい100まんドルがされた。一応いちおう前年ぜんねんはタイトルあらそいが接戦せっせんであったため、それをいいわけにできたが、このとしはシューマッハが独走どくそう態勢たいせいはいっており、バリチェロがっても戦局せんきょく影響えいきょうあたえることはなかったこともファンの反発はんぱつまねくこととなった。また、このけんかんしては主催しゅさい団体だんたいである国際こくさい自動車じどうしゃ連盟れんめい(FIA)が調査ちょうさ[5]すほどであり、その、FIAによって2003ねんからはチームオーダーが禁止きんしされる要因よういんになるほどであった。ちなみに、後年こうねんのインタビューによれば[6]終盤しゅうばんはげしい無線むせんのやりりがおこなわれ、キャリアを左右さゆうする内容ないようふくまれていたとコメントしている。
このことが影響えいきょうしたのか、それともシューマッハがだい8せん段階だんかいでタイトル獲得かくとく王手おうてをかけつつあったことが原因げんいん不明ふめいだが、だい9せんヨーロッパGP、だい13せんハンガリーGPだい14せんイタリアGPではチームオーダー発令はつれいされず自身じしん優勝ゆうしょうかざり、それどころかだい16せんアメリカGPではゴール目前もくぜんでシューマッハから優勝ゆうしょうゆずられる場面ばめんられた(シューマッハとしてはフィニッシュライン位置いち勘違かんちがいしただけでゆずるつもりまではなかった、というせつもある)。
2002ねんアメリカGP
2003ねん
このとしパルクフェルメルール[7]導入どうにゅうといったレギュレーション変更へんこうミシュランタイヤをくライバルの躍進やくしんくわえ、チームのマシン開発かいはつめすぎたがゆえにあつかいにくいマシンとなり、シューマッハととも苦戦くせんしたシーズンとなった。一方いっぽうでバリチェロにとっては自身じしんげた2しょうがタイトルあらそいを左右さゆうする結果けっかとなり、フェラーリ時代じだいなかではもっともタイトルあらそいに貢献こうけんしたシーズンでもあった。
2004ねん
このとしはシューマッハが開幕かいまくせんから5せん連続れんぞく優勝ゆうしょうという圧倒的あっとうてきつよさをせ、タイトルあらそいもかれ独走どくそう。それでも、自身じしんは2しょうふくめたけい14かい表彰台ひょうしょうだい獲得かくとくし、自己じこ最多さいたのポイントを獲得かくとく。だが、シューマッハの成績せいせきまえではバリチェロの成績せいせきはかすんでしまっためんもあった。
2005ねんアメリカGP
2005ねん
いままでフェラーリの忠実ちゅうじつなセカンドドライバーをつとめてきたが、だい8せんモナコGPでファイナルラップのシケインでシューマッハに強引ごういんきを仕掛しかけられたことをきっかけに、これからは対等たいとう勝負しょうぶをすると宣言せんげん。ただ、このとしのフェラーリは不調ふちょうであり、シューマッハもタイトルあらそいどころではなかったうえ、自身じしん表彰台ひょうしょうだいどころか入賞にゅうしょうすら苦戦くせんする状況じょうきょうであった。だい9せんアメリカGPではミシュランタイヤの問題もんだいため実質じっしつフェラーリ同士どうしでのタイマンとなり、はじめてシューマッハとやりあうシーンがられ、このGP移籍いせき決意けついすることとなった。ただ、2人ふたり関係かんけいはシューマッハのかつてのチームメイトとことなり、2006ねん以降いこう良好りょうこう関係かんけいつづいており、シューマッハの引退いんたいレースとなった2006ねんブラジルグランプリでは、オーバーテイクされるさい感謝かんしゃをこめてたやりりもられた。同年どうねんの8がつには翌年よくねんからB・A・R同年どうねんまつホンダによって買収ばいしゅうされホンダF1となる)へと移籍いせきすることを発表はっぴょうした。
2000ねんから2005ねんまでの6ねんで、ミハエル・シューマッハとともきずいた1-2フィニッシュの回数かいすうは24かいおよび、これはルイス・ハミルトンニコ・ロズベルグわせ(31かい)にぐF1史上しじょう2番目ばんめわせとなっている[8]

ホンダ[編集へんしゅう]

2006ねんブラジルGP
2006ねん
開幕かいまく当初とうしょくるま適応てきおうするのに苦労くろうし、チームメイトのジェンソン・バトンおおきくはなされるかたちとなったが、車体しゃたい自身じしんのドライビングスタイルがマッチしていくにしたが調子ちょうしげ、中盤ちゅうばんはいってバトンがスランプとなったことにもたすけられだい10せんアメリカGPではポイントでならぶことに成功せいこうした。最終さいしゅうてきにはバトンがだい13せんでの自身じしんはつ勝利しょうりふくめた表彰台ひょうしょうだい3かい獲得かくとくくわえ、入賞にゅうしょうとしてはだい12せんから7せん連続れんぞく入賞にゅうしょうふくけい11かい記録きろくし、獲得かくとくポイントこそおおきくはなされることとなったが、バリチェロ個人こじんとしては4せん連続れんぞく入賞にゅうしょうふくけい10かい入賞にゅうしょうするというまずまずの結果けっかえた。
2007ねん
前年ぜんねんにフェラーリ時代じだいのチームメートだったミハエル・シューマッハが引退いんたいしたため、現役げんえき唯一ゆいいつアイルトン・セナおなじレースをたたかった経験けいけんがあるF1ドライバーとなり、フジテレビのF1グランプリ中継ちゅうけいでは「セナ世代せだい最後さいごおとこ」とばれた。ところがホンダRA107のパフォーマンスは最悪さいあくといっていいほどで、バトン共々ともども苦労くろういられた。入賞にゅうしょうながらも予選よせん決勝けっしょうどもにバトンを上回うわまわることがおおく、内容ないようではバトンにたいしてけっして見劣みおとりはしなかったものの、バトンがなんとか3かい入賞にゅうしょうひろったのとは対照たいしょうてきに、バリチェロはれたカナダGPや日本にっぽんGPで上位じょういはし姿すがたせるも、いずれもチームのピット戦略せんりゃく稚拙ちせつさになんかされる格好かっこうことごと入賞にゅうしょうのチャンスをのがし、結局けっきょくこのとしは1ポイントも獲得かくとくすることができず、自身じしんはつ年間ねんかんノーポイントとなった。このとし不振ふしんから、シーズンまつにはスーパーアグリ移籍いせきばなし引退いんたいしてインディカー転身てんしんするひとし情報じょうほうながれたが、2008ねんもホンダのドライバーとして残留ざんりゅうした。
2008ねん
開幕かいまくせんを6完走かんそうし、久々ひさびさ入賞にゅうしょうたしたかにおもわれたが、ピットレーン信号しんごう無視むしによる失格しっかく裁定さいていけた。その、F1グランプリ通算つうさん257せんとなっただい5せんトルコGPではリカルド・パトレーゼ記録きろくを15ねんぶりにえ、歴代れきだい最多さいた出走しゅっそう記録きろく樹立じゅりつした。なおこの記録きろくかんしては、1998ねんだい13せんベルギーGPなど決勝けっしょう出走しゅっそうしていないレースもいくつかあるため雑誌ざっしやメディアによって基準きじゅん判断はんだんことなり、ひろろんじられていたが、バリチェロ本人ほんにんとチームはこのトルコGPで記録きろく更新こうしんのおいをしており、そのことからも唯一ゆいいつ予選落よせんおちした1994ねんだい3せんサンマリノGPのぞき、予選よせん通過つうかして決勝けっしょう進出しんしゅつしたすべてのレースを出走しゅっそうとカウントするのが通説つうせつとなった。そのつぎのモナコGPでは、序盤じょばんれたレースをえ、6入賞にゅうしょうたし、2006ねん最終さいしゅうせんブラジルGP以来いらいのポイントを獲得かくとくした。また、つぎせんのカナダGPでも7でフィニッシュ。連続れんぞく入賞にゅうしょうたした。そのだい9せんイギリスGPではあめのレースのなか、タイヤ戦略せんりゃくこうそうし3表彰台ひょうしょうだい獲得かくとく2005ねんアメリカグランプリ以来いらい3ねんぶりに表彰台ひょうしょうだいうえった。

ブラウン[編集へんしゅう]

2009ねんベルギーGP
2009ねん
2009ねんはホンダとの契約けいやく終了しゅうりょうし、かつホンダではアイルトン・セナのおいブルーノ起用きよう有力ゆうりょくされるなか移籍いせきさき引退いんたいするとおもわれていた。
しかし、2008ねん12月にホンダが撤退てったい発表はっぴょう・2009ねん3がつにホンダの株式かぶしきを100%ったロス・ブラウンひきいるしんチームブラウンGPはバリチェロにオファーを打診だしんし、ブラウンGPから参戦さんせんした。開幕かいまくせんでは予選よせん2獲得かくとくするが、決勝けっしょうスタートでアンチストール装置そうち誤動作ごどうさおおきく順位じゅんいげるも、終盤しゅうばんまえはしロバート・クビサセバスチャン・ベッテル接触せっしょくリタイヤしたこともあり、バリチェロは2はい優勝ゆうしょうした僚友りょうゆうバトンとしんチームに最高さいこう結果けっかをもたらした。だい5せんスペインGPではチームがわが、バトンが渋滞じゅうたいはいるのを回避かいひするためにバトンを2ストップ作戦さくせん変更へんこう結果けっかてきにトップにいたバリチェロを逆転ぎゃくてんして優勝ゆうしょう。バリチェロは「バトンの作戦さくせん変更へんこういておどろいた」と発言はつげん、マスコミからチームオーダー発動はつどうかときたてられる(ロス・ブラウンは即座そくざ否定ひてい)。だい9せんドイツGPでトップ走行そうこうちゅう、チームがピット作業さぎょうミスでタイムロスをこしてしまい、バリチェロが「チームが勝利しょうりうばった、チームのだれともはなしたくない」と激怒げきどだい10せんハンガリーGP予選よせん自身じしんのマシンからサードダンパーのスプリングがはずフェリペ・マッサのヘルメットを直撃ちょくげき頭部とうぶ負傷ふしょうまねき、決勝けっしょうでは10わり不調ふちょうつづいた。しかしだい11せんヨーロッパGPでは、2004ねん中国ちゅうごくGP以来いらい優勝ゆうしょうかざった。だい13せんイタリアGPではバトンと1・2フィニッシュで2しょう。トルコGP・ハンガリーGP以外いがいぜんせんでポイントを獲得かくとくし、ランキング3となった。シーズン前半ぜんはんは7せんで6しょうしたバトンとくら不調ふちょうだったが、ブレーキ素材そざいをイギリスGPで従来じゅうらいひんからバトンと一緒いっしょのメーカーに変更へんこうするとフィーリングがくなり後半こうはん復調ふくちょうつながった。元々もともと、ブラウンのオファーをけて参戦さんせんしたものの、開幕かいまく当初とうしょ序盤じょばん4せんのみの契約けいやくで、それ以降いこう状況じょうきょう次第しだいという不安定ふあんてい環境かんきょうであったうえ、シーズンまえのテストに参加さんか[9]はしていたものの、バトン中心ちゅうしんのテストであったため、マシンの習熟しゅうじゅくることとなった。こうしたことがまえ2ねんのバトンとのちから関係かんけいからすると、おおきすぎるむことにつながった。

ウィリアムズ[編集へんしゅう]

2010ねんマレーシアGP
2010ねん
アブダビGPの翌日よくじつの2009ねん11月2にちウィリアムズ移籍いせきすることを発表はっぴょうした。
2010ねんベルギーグランプリで、F1ドライバーとしてはつとなる通算つうさん300せん参戦さんせん達成たっせいしたとされ、どうグランプリで関係かんけいしゃから祝福しゅくふくけた。またどうグランプリでおこなわれたグランプリ・ドライバーズ・アソシエーション(GPDA)の会合かいごうにおいて、前任ぜんにんしゃニック・ハイドフェルド辞任じにんともない、GPDAの会長かいちょう就任しゅうにんした。[10]
前年ぜんねんのブラウンGPとはちがいナンバー1待遇たいぐうけることができたせいか、開幕かいまくせんよりマシンのポテンシャルを存分ぞんぶんすパフォーマンスをみせたものの、マシンの完成かんせいについては、まったくの新型しんがたではなく去年きょねんのFW31の進化しんかがたにすべきだったとバリチェロ本人ほんにん言及げんきゅうする程度ていど出来できだった。しかし、ブロウンディフューザー投入とうにゅうされたヨーロッパGPではシーズン最高さいこうの4入賞にゅうしょうたす素晴すばらしい活躍かつやくせ、以降いこうもマシンにしんパーツが追加ついかされていき、シーズン前半ぜんはんくらべよりおおくのQ3進出しんしゅつ入賞にゅうしょうたしていった。このことがチーム代表だいひょうのフランク・ウィリアムズをして「ルーベンスがいなかったら、どうにもならなかっただろう」とわしめることにつながった。2010ねん11月15にち来季らいきもウィリアムズに残留ざんりゅうすることが発表はっぴょうされた[11]
2011ねん
カート時代じだいからの自身じしんのラッキーナンバーであるカーナンバー11をつけての出走しゅっそうとなった。カーナンバー11は、2006ねん在籍ざいせきしたホンダ以来いらい5ねんり。しかし成績せいせきはふるわず最高さいこうは92かい・4ポイントにまる。チームは持参じさんきんんだブルーノ・セナ契約けいやくし、2012ねんのウィリアムズのシートを喪失そうしつ。F1ドライバーの引退いんたい事実じじつじょう決定けっていした。

F1引退いんたいのキャリア[編集へんしゅう]

インディカ―[編集へんしゅう]

2012ねん1がつからインディカーのテストに参加さんか、3月に親友しんゆうトニー・カナーン所属しょぞくするKVレーシング・テクノロジーからフル参戦さんせんすることが決定けっていした[12]。インディカーデビューとなるセントピーターズバーグは燃料ねんりょう管理かんりくるしみ17える。しかしアラバマ(8),ロングビーチ(9),サンパウロ(10)とトップ10フィニッシュをかさね、インディ500まえのポイントランキングでチームトップの11についた。自身じしんはつのオーバルでのレース、インディ500では予選よせん10からルーキードライバーさい上位じょういの11でフィニッシュし、ルーキー・オブ・ザ・イヤーを獲得かくとくした。

南米なんべいツーリングカー[編集へんしゅう]

シボレー・ソニック(バリチェロしゃ、2014ねん

2012ねん終盤しゅうばんからストックカー・ブラジルプジョー・407って登場とうじょうし、よく2013ねんからシボレー・ソニックでフル参戦さんせん開始かいし。2014ねんには、自身じしんにとって1991ねん英国えいこくF3以来いらいのシリーズタイトルを獲得かくとくしている。以降いこうもシボレーをいだが、チャンピオンは現在げんざいこのいちのみとなっている。

2020ねんからは新規しんき参入さんにゅうとなるTOYOTA GAZOO Racing Brazil陣営じんえい移籍いせき。さらに隣国りんごくアルゼンチンのスーパーTC2000にもTOYOTA GAZOO Racing Argentinaで参戦さんせんするため、こう駆動くどう前輪ぜんりん駆動くどうトヨタ・カローラ同時どうじにドライブすることとなった[13]

レース戦績せんせき[編集へんしゅう]

イギリス・フォーミュラ3選手権せんしゅけん[編集へんしゅう]

とし チーム エンジン クラス 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 順位じゅんい ポイント
1991ねん ウェストサリー・レーシング 無限むげん A SIL
Ret
THR
1
DON
Ret
BRH
3
BRH
4
THR
2
SIL
2
DON
1
SIL
5
SIL
Ret
SNE
4
SIL
5
BRH
3
DON
1
SIL
1
THR
5
1 74

国際こくさいF3000選手権せんしゅけん[編集へんしゅう]

とし チーム 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 順位じゅんい ポイント
1992ねん ポール・スチュアート・レーシング SIL
2
PAU
3
CAT
2
PER
Ret
HOC
6
NÜR
3
SPA
5
ALB
6
NOG
6
MAG
5
3 27

F1[編集へんしゅう]

とし 所属しょぞくチーム くるまばん ランキング 獲得かくとくポイント 決勝けっしょう最高さいこう回数かいすう 表彰台ひょうしょうだい回数かいすう 予選よせん最高さいこう回数かいすう FL記録きろく回数かいすう
1993ねん ジョーダン 14 17 2 5・1かい 0かい 8・1かい 0かい
1994ねん 14 6 19 3・1かい 1かい 1・1かい 0かい
1995ねん 14 11 11 2・1かい 1かい 5・1かい 0かい
1996ねん 11 8 14 4・2かい 0かい 2・1かい 0かい
1997ねん スチュワート 22 13 6 2・1かい 1かい 3・1かい 0かい
1998ねん 18 12 4 5・2かい 0かい 5・1かい 0かい
1999ねん 16 7 21 3・3かい 3かい 1・1かい 0かい
2000ねん フェラーリ 4 4 62 1・1かい 9かい 1・1かい 3かい
2001ねん 2 3 59 2・5かい 10かい 2・3かい 0かい
2002ねん 2 2 77 1・4かい 10かい 1・3かい 5かい
2003ねん 2 4 65 1・2かい 8かい 1・3かい 3かい
2004ねん 2 2 114 1・2かい 14かい 1・4かい 4かい
2005ねん 2 8 38 2・2かい 4かい 6・2かい 0かい
2006ねん ホンダ 11 7 30 4・2かい 0かい 3・1かい 0かい
2007ねん 8 20 0 9・1かい 0かい 9・1かい 0かい
2008ねん 17 14 11 3・1かい 1かい 9・1かい 0かい
2009ねん ブラウン 23 3 77 1・2かい 6かい 1・1かい 2かい
2010ねん ウィリアムズ 9 10 47 4・1かい 0かい 6・2かい 0かい
2011ねん 11 17 4 9・2かい 0かい 11・1かい 0かい
とし チーム シャーシ 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 WDC ポイント
1993ねん ジョーダン 193 RSA
Ret
BRA
Ret
EUR
10
SMR
Ret
ESP
12
MON
9
CAN
Ret
FRA
7
GBR
10
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HUN
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JPN
5
AUS
Ret
18 2
1994ねん 194 BRA
4
PAC
3
SMR
DSQ
MON
Ret
ESP
Ret
CAN
7
FRA
Ret
GBR
4
GER
Ret
HUN
Ret
BEL
Ret
ITA
4
POR
4
EUR
13
JPN
Ret
AUS
4
6 19
1995ねん 195 BRA
Ret
ARG
Ret
SMR
Ret
ESP
7
MON
Ret
CAN
2
FRA
6
GBR
11
GER
Ret
HUN
7
BEL
6
ITA
Ret
POR
11
EUR
4
PAC
Ret
JPN
Ret
AUS
Ret
11 11
1996ねん 196 AUS
Ret
BRA
Ret
ARG
4
EUR
5
SMR
5
MON
Ret
ESP
Ret
CAN
Ret
FRA
9
GBR
4
GER
6
HUN
6
BEL
Ret
ITA
5
POR
Ret
JPN
9
8 14
1997ねん スチュワート SF-1 AUS
Ret
BRA
Ret
ARG
Ret
SMR
Ret
MON
2
ESP
Ret
CAN
Ret
FRA
Ret
GBR
Ret
GER
Ret
HUN
Ret
BEL
Ret
ITA
13
AUT
14
LUX
Ret
JPN
Ret
EUR
Ret
13 6
1998ねん SF-2 AUS
Ret
BRA
Ret
ARG
10
SMR
Ret
ESP
5
MON
Ret
CAN
5
FRA
10
GBR
Ret
AUT
Ret
GER
Ret
HUN
Ret
BEL
DNS
ITA
10
LUX
11
JPN
Ret
12 4
1999ねん SF-3 AUS
5
BRA
Ret
SMR
3
MON
9
ESP
DSQ
CAN
Ret
FRA
3
GBR
8
AUT
Ret
GER
Ret
HUN
5
BEL
10
ITA
4
EUR
3
MAL
5
JPN
8
7 21
2000ねん フェラーリ F1-2000 AUS
2
BRA
Ret
SMR
4
GBR
Ret
ESP
3
EUR
4
MON
2
CAN
2
FRA
3
AUT
3
GER
1
HUN
4
BEL
Ret
ITA
Ret
USA
2
JPN
4
MAL
3
4 62
2001ねん F2001 AUS
3
MAL
2
BRA
Ret
SMR
3
ESP
Ret
AUT
3
MON
2
CAN
Ret
EUR
5
FRA
3
GBR
3
GER
2
HUN
2
BEL
5
ITA
2
USA
15
JPN
5
3 56
2002ねん F2001B AUS
Ret
MAL
Ret
BRA
Ret
2 77
F2002 SMR
2
ESP
DNS
AUT
2
MON
7
CAN
3
EUR
1
GBR
2
FRA
DNS
GER
4
HUN
1
BEL
2
ITA
1
USA
1
JPN
2
2003ねん F2002B AUS
Ret
MAL
2
BRA
Ret
SMR
3
4 65
F2003-GA ESP
3
AUT
3
MON
8
CAN
5
EUR
3
FRA
7
GBR
1
GER
Ret
HUN
Ret
ITA
3
USA
Ret
JPN
1
2004ねん F2004 AUS
2
MAL
4
BHR
2
SMR
6
ESP
2
MON
3
EUR
2
CAN
2
USA
2
FRA
3
GBR
3
GER
12
HUN
2
BEL
3
ITA
1
CHN
1
JPN
Ret
BRA
3
2 114
2005ねん F2004M AUS
2
MAL
Ret
8 38
F2005 BHR
9
SMR
Ret
ESP
9
MON
8
EUR
3
CAN
3
USA
2
FRA
9
GBR
7
GER
10
HUN
10
TUR
10
ITA
12
BEL
5
BRA
6
JPN
11
CHN
12
2006ねん ホンダ RA106 BHR
15
MAL
10
AUS
7
SMR
10
EUR
5
ESP
7
MON
4
GBR
10
CAN
Ret
USA
6
FRA
Ret
GER
Ret
HUN
4
TUR
8
ITA
6
CHN
6
JPN
12
BRA
7
7 30
2007ねん RA107 AUS
11
MAL
11
BHR
13
ESP
10
MON
10
CAN
12
USA
Ret
FRA
11
GBR
9
EUR
11
HUN
18
TUR
17
ITA
10
BEL
13
JPN
10
CHN
15
BRA
Ret
20 0
2008ねん RA108 AUS
DSQ
MAL
13
BHR
11
ESP
Ret
TUR
14
MON
6
CAN
7
FRA
14
GBR
3
GER
Ret
HUN
16
EUR
16
BEL
Ret
ITA
17
SIN
Ret
JPN
13
CHN
11
BRA
15
14 11
2009ねん ブラウンGP BGP001 AUS
2
MAL
5
CHN
4
BHR
5
ESP
2
MON
2
TUR
Ret
GBR
3
GER
6
HUN
10
EUR
1
BEL
7
ITA
1
SIN
6
JPN
7
BRA
8
ABU
4
3 77
2010ねん ウィリアムズ FW32 BHR
10
AUS
8
MAL
12
CHN
12
ESP
9
MON
Ret
TUR
14
CAN
14
EUR
4
GBR
5
GER
12
HUN
10
BEL
Ret
ITA
10
SIN
6
JPN
9
KOR
7
BRA
14
ABU
12
10 47
2011ねん FW33 AUS
Ret
MAL
Ret
CHN
13
TUR
15
ESP
17
MON
9
CAN
9
EUR
12
GBR
13
GER
Ret
HUN
13
BEL
16
ITA
12
SIN
13
JPN
17
KOR
12
IND
15
ABU
12
BRA
14
17 4
  • 太字ふとじポールポジションはすファステストラップ。(key)
  •  : リタイアだが、90%以上いじょう距離きょり走行そうこうしたため規定きていにより完走かんそうあつかい。
  •  : ハーフポイント。レース周回しゅうかいすうが75%未満みまん終了しゅうりょうしたため、得点とくてん半分はんぶんとなる。

インディカー・シリーズ[編集へんしゅう]

とし チーム シャシー エンジン 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 順位じゅんい ポイント
2012ねん KVレーシング・テクノロジー ダラーラ・DW12 シボレー STP
17
ALA
8
LBH
9
SAO
10
INDY
11
DET
25
TXS
DNS
MIL
10
IOW
7
TOR
11
EDM
13
MDO
15
SNM
4
BAL
5
FON
22
12 289

デイトナ24あいだレース[編集へんしゅう]

とし チーム 車両しゃりょう コ・ドライバー クラス 周回しゅうかい 総合そうごう順位じゅんい クラス順位じゅんい
2013ねん ブラジルの旗 Dener Motorsport Porsche 911 GT3 ブラジルの旗 ノノ・フィギレイド
ブラジルの旗 フェリペ・ジアフォーネ
ブラジルの旗 トニー・カナーン
ブラジルの旗 リカルド・マウリシオ
GT 352 46 DNF 28 DNF
2015ねん アメリカ合衆国の旗 Starworks Motorsport Riley MkXXVI タイ王国の旗 トア・グレイヴス
ニュージーランドの旗 ブレンドン・ハートレイ
アメリカ合衆国の旗 ライアン・ハンター=レイ
アメリカ合衆国の旗 スコット・メイヤー
P 426 39 DNF 10 DNF
2016ねん アメリカ合衆国の旗 ウェイン・テイラー・レーシング Chevrolet Corvette DP アメリカ合衆国の旗 リッキー・テイラー
アメリカ合衆国の旗 ジョーダン・テイラー
イタリアの旗 マックス・アンジェレッリ
P 736 2 2
2019ねん アメリカ合衆国の旗 JDC-Miller Motorsports Cadillac DPi-V.R カナダの旗 ミーシャ・ゴイヒバーグ
フランスの旗 トリスタン・ヴォーティエ
カナダの旗 デヴリン・デフランチェスコ
DPi 586 5 5


ル・マン24あいだレース[編集へんしゅう]

とし チーム コ・ドライバー 車両しゃりょう クラス 周回しゅうかい 総合そうごう順位じゅんい クラス順位じゅんい
2017ねん オランダの旗 レーシングチーム・ネーデルランド オランダの旗 ヤン・ラマース
オランダの旗 フリッツ・ヴァン・イアード
ダラーラ・P217-ギブソン LMP2 344 13 11

参戦さんせんレースすうについて[編集へんしゅう]

バリチェロの具体ぐたいてき出走しゅっそうレースすうについてはメディアによって相違そういがあるものの、2020ねんキミ・ライコネン[14]によってF1での歴代れきだい最多さいた出走しゅっそう記録きろくやぶられるまでのあいだどう記録きろく保持ほじしゃとしてあつかわれていた[1]

本人ほんにん2010ねんベルギーグランプリで300せんむかえると認識にんしきしており、記念きねんにヘルメットのカラーリングを変更へんこうすると発言はつげんしている[15]。F1公式こうしきサイトでもベルギーグランプリを300せんとするニュースをつたえている[16]。なお、怪我けがによる予選よせん出走しゅっそうにより、キャリアで唯一ゆいいつ予選落よせんおちした1994ねんサンマリノグランプリについてはこの300せんなかにはふくまれていない。

しかしメディアの一部いちぶでは、フォーメーションラップちゅうにリタイアをきっした2002ねんの2レース(スペインフランス)や、ミシュランタイヤのトラブルでだい騒動そうどうとなった2005ねんアメリカグランプリ決勝けっしょう1かいのスタートでクラッシュにまれ赤旗あかはた中断ちゅうだんさいスタートとなった決勝けっしょう出走しゅっそうできなかった1998ねんベルギーグランプリといったレースを出走しゅっそう回数かいすうのカウントからはずすべきという主張しゅちょうもある[17]。この意見いけん採用さいようした場合ばあい、2010ねんベルギーGP終了しゅうりょう時点じてんでバリチェロの出走しゅっそうレースすうは「296せん」となり、現役げんえき引退いんたい時点じてんでは「321せん」となる。そのため、300せんとするレースについては見解けんかいかれるものの、バリチェロがはじめて300せん出走しゅっそうしたF1ドライバーというてんたしかである。

ただし、ライコネンが2020ねんロシアグランプリ出走しゅっそうもって322せん参戦さんせん記録きろくしたさい、バリチェロがしたコメント[18]によれば、F1の公式こうしき記録きろくとなっている決勝けっしょうへの出走しゅっそう記録きろくされている322せんとグランプリにエントリーした回数かいすうである326せん自身じしん記録きろく認識にんしきしている見解けんかいしめしている。

エピソード[編集へんしゅう]

  • 母国ぼこくGPであるブラジルGPにはデビューねんから2009ねんまで17ねん連続れんぞく出走しゅっそうしているが、優勝ゆうしょうい。フロントローを獲得かくとくしたことは4かいあるが、決勝けっしょうレースでは2004ねんの3表彰台ひょうしょうだいったのが最高さいこうでリタイアがおおく、そのかずじつに11かいにものぼる。ポールポジションからスタートした2003ねんにはトップ走行そうこうちゅうにガスかけという、当時とうじのフェラーリとしてはめずらしい原因げんいんでリタイアしている。ちなみに、バリチェロの後任こうにんとしてフェラーリりした同国どうこくじんフェリペ・マッサは、移籍いせき初年度しょねんど地元じもと優勝ゆうしょう達成たっせいした。
  • F1ドライバーのなかでもあめのレースを得意とくいとする一人ひとりである。1993ねんヨーロッパGPでの快走かいそう、1994ねんベルギーGPでのはつポールポジション、2000ねんドイツGPでのはつ優勝ゆうしょう雨中うちゅうドライタイヤではしけが成功せいこう)など、印象いんしょうてき活躍かつやく場面ばめんあめからんでいる。
  • もとつまのシルヴァーナ(Silvana)はブラジルにおいてレース一族いちぞくとしてられるジアフォーネいえ出身しゅっしんで、インディ・レーシング・リーグ(IRL)に参戦さんせんしていたフェリペ・ジアフォーネ従妹じゅうまいにあたる。フェリペ・ジアフォーネはバリチェロにとってはなかいドライバーの一人ひとりで、年末ねんまつにサンパウロで開催かいさいされているカートの500マイル耐久たいきゅうレースではバリチェロとジアフォーネほかのチームは5かい優勝ゆうしょうほこっている。
  • 大抵たいていブラジルじんドライバーとなかいが、そのなかでも最大さいだい親友しんゆうといえるのはトニー・カナーンで、たがいに兄弟きょうだいのようなものとみとめるほどになかい。バリチェロがイギリスに滞在たいざいしていた当時とうじ、ヨーロッパ修行しゅぎょうちゅうのカナーンをすうしゅうバリチェロの部屋へやめたエピソードはにんあいだでしばしばかたられ、大抵たいてい場合ばあい、バリチェロは「そういえばあのときやつがいなくなったのちくつがなくなったな…」とおな冗談じょうだんくちにする。2006ねんにはモナコGPでバリチェロが自身じしんのヘルメットをカナーンのそれとおなじカラーリングにし、同日どうじつ開催かいさいされたインディ500ではカナーンが自身じしんのヘルメットをバリチェロのそれとおなじカラーリングにした。
カーナンバー11をけた2006ねんバリチェロ仕様しようのショーカー
  • カートではつ優勝ゆうしょうしたときのカーナンバー、カーナンバー「11」がバリチェロのラッキーナンバーである。カートにおいてはこのカーナンバーとともにおおくの優勝ゆうしょう記録きろくした。2006ねんのホンダチームはカーナンバー11と12をけることになり、本来ほんらいエースナンバーであるカーナンバー11の権利けんりはジェンソン・バトンにあったが、この番号ばんごうがバリチェロにとってのラッキーナンバーであることをったバトンにより「友好ゆうこうしるし」としておくられ、このとしはバリチェロがカーナンバー11をけた。F1においてはこのとしのほか、1996ねん、2011ねんもカーナンバー11をけて出走しゅっそうしている。
    一方いっぽう、F1においてもっとおおけたカーナンバーは5ねんともにした「2」で、これはチームメイトのミハエル・シューマッハが5ねん連続れんぞくでドライバーズチャンピオンのタイトルを獲得かくとくしたことによる。余談よだんだが、バリチェロのF1での通算つうさん勝利しょうりすうも「11」である。
  • 祖父そふ父親ちちおや名前なまえも「ルーベンス(フーベンス)」である[19]くわえて、父親ちちおやであるルーベンス・バリチェロJr.(フーベンス・バヒケール・ジュニオール)にいたっては誕生たんじょう息子むすこおなじ5がつ23にちである[20]。バリチェロの愛称あいしょうである「ルビーニョ(フビーニュ)」(Rubinho)は「ちいさいルーベンス(フーベンス)」という意味いみで、元々もともと祖父そふフーベンス、父親ちちおやフーベンス・ジュニオールとのけからている。
  • バリチェロ自身じしんは、2001ねんまれた長男ちょうなんに「ルーベンス(フーベンス)」ではなくエドゥアルドゥ(Eduardo)、2005ねんまれた次男じなんにはフェルナンドゥ(Fernando)とけている。つまのシルヴァーナは日系にっけいブラジルじん3せいでもあるため、バリチェロの2人ふたり子息しそく日系にっけい4せいにあたる。
  • 2000ねんドイツGP、2003ねんイギリスGPでは、不審ふしんしゃがコースじょう侵入しんにゅうしてセーフティーカー導入どうにゅうされるという珍事ちんじがあったが、バリチェロはこのりょうレースをせいしている。
  • 2008ねん11月25にち、ブラジルのテレビ局てれびきょく『Rede Globo』の番組ばんぐみ『Fantastico』に出演しゅつえんし、シューマッハに勝利しょうりゆずって物議ぶつぎかもした、2002ねんだい6せんオーストリアGPについて言及げんきゅうした。バリチェロによると、首位しゅい走行そうこうちゅうのこり8しゅうかけかかった時点じてんで、ピットから指示しじはいった。そして『うしろにミハエルがいる、チャンピオンシップにどれだけ重要じゅうようなことかかるな。』とわれ、周回しゅうかいすすむにつれて言葉ことばつよくなり、『もししたがわない場合ばあいは、契約けいやくかんがなおす。』とわれたという。さらにバリチェロは、このことを『シューマッハがっていた証拠しょうこがある。』ともかたった[21]
  • 2009ねんシーズン中盤ちゅうばん以降いこうしろいヘルメットは息子むすこがデザインしたもの。
  • 2009ねんぜんせん参戦さんせんしたバリチェロだったが、開幕かいまく当初とうしょ序盤じょばん4せんのみの契約けいやくで、そのあいだ持参じさんきんドライバーがあらわれればシートをわたすという内容ないようだったことをかしている。
  • 2010ねん7がつ11にち放送ほうそうBBC自動車じどうしゃ番組ばんぐみトップ・ギアだい15シーズン3かい放送ほうそうで「Star in a Reasonably Priced Car」コーナーに出演しゅつえん。それまで1だったナイジェル・マンセルの1ふん44びょう6の記録きろくをコンマ3びょう上回うわまわる1ふん44びょう3の最速さいそく記録きろくした。これはスティグ参考さんこう記録きろくである1ふん44びょう4をも上回うわまわ記録きろくであり、よほどうれしかったのか、自分じぶんように「I beat the Stig(わたしはスティグにった)」とかれたTてぃーシャツを、出演しゅつえんしたが記録きろくやぶれなかったF1ドライバーように「I didn't beat the Stig(わたしはスティグにけた)」とかれたTてぃーシャツをそれぞれ制作せいさく過去かこどう番組ばんぐみ出演しゅつえん・アタックしたF1ドライバーに配布はいふした。このうちジェンソン・バトン同月どうげつおこなわれたF1ドイツGPで「わたしはスティグにけた」シャツを着用ちゃくようしているほか、バリチェロ本人ほんにん息子むすこに「My Dad beat the Stig(ぼくのおとうさんはスティグにった)」Tてぃーシャツをせて会場かいじょう登場とうじょう番組ばんぐみでもどうシーズン6かい放送ほうそうげられた。ちなみにバリチェロによる記録きろく更新こうしん番組ばんぐみのスティグ登場とうじょうおこなわれるうわさばなし紹介しょうかいでは、「バリチェロの人形にんぎょうをデスクファンでいためつけている」とうネタにされていた。なお、この記録きろくだい17シーズン(2011ねん)に出演しゅつえんしたセバスチャン・ベッテルが1ふん44びょう0に更新こうしんする。
  • いままでもっとこわかったレースは鼻骨びこつ骨折こっせつした94ねんのサンマリノGPではなく、07ねん日本にっぽんGPべている。『まるで飛行機ひこうきあつくもなかはいったようなものだった。しかも2時間じかんずっとね』とのこと(実際じっさいドクターヘリがべないほどの視界しかいだった。詳細しょうさい記事きじ参照さんしょう[22]
  • F1引退いんたい危機ききさいし、2母国ぼこく後輩こうはいブルーノ・セナが後釜あとがますわ予定よていかかわることとなった。
  • F1ドライバーの小林こばやしゆめえらTENGA購入こうにゅう依頼いらいし、2011ねんのF1中国ちゅうごくグランプリ決勝けっしょうレース前夜ぜんや使用しようした。
  • F1では通算つうさん11しょうげたがすべロス・ブラウンとともにきずきあげた勝利しょうりである。
  • 2014ねんシーズンの母国ぼこくグランプリをふく最後さいごの3せんケータハムからレギュラードライバーの小林こばやしゆめえらわって出走しゅっそうする予定よていだった。しかしチームは破産はさんしグランプリを欠場けつじょうすることになったため実現じつげんしなかった。[23]
  • 当時とうじF1実況じっきょう担当たんとうしていた古舘ふるたち伊知郎いちろうからは、「ヒロミている」「ジミー大西おおにしている」などと紹介しょうかいされていた。

出典しゅってん[編集へんしゅう]

  1. ^ a b ルーベンス・バリチェロformula1-data.com(2019ねん8がつ16にち)2020ねん11月18にち閲覧えつらん
  2. ^ フェルナンド・アロンソによって更新こうしんされた。
  3. ^ マーク・ウェバー更新こうしんされた(132せん)。
  4. ^ バリチェロのまえのスロー優勝ゆうしょう記録きろく保持ほじしゃは、前年ぜんねんのワールドチャンピオン、ミカ・ハッキネン(1997ねん最終さいしゅうせんヨーロッパGP、99せん)である。また、後方こうほうからによる優勝ゆうしょうは、1983ねん予選よせん22から優勝ゆうしょうしたジョン・ワトソン歴代れきだい2記録きろくである。
  5. ^ “チームオーダーの余波よは、FIAがフェラーリを事情じじょう聴取ちょうしゅへ---F1オーストリアGP”. Responce.jp. (2002ねん5がつ14にち). http://response.jp/article/2002/05/14/16846.html 2010ねん7がつ28にち閲覧えつらん 
  6. ^ ルーベンス・バリチェロ、2002ねんにフェラーリからおどされたwww.topnews.jp(2012ねん5がつ11にち)2020ねん7がつ2にち閲覧えつらん
  7. ^ 予選よせん最終さいしゅうアタックには決勝けっしょうスタート燃料ねんりょう搭載とうさいして出走しゅっそうすることが義務付ぎむづけられ、予選よせん決勝けっしょうあいだのセッティング変更へんこうきんじられた。
  8. ^ 以下いかアイルトン・セナアラン・プロストわせ(14かい)、ミカ・ハッキネンデビッド・クルサードわせ(13かい)。
  9. ^ ブラウンGP:バリチェロが3番手ばんてタイム (バルセロナテスト2にちf1-gate.com(2009ねん3がつ11にち)2020ねん7がつ24にち閲覧えつらん
  10. ^ バリチェロがGPDAしん会長かいちょう就任しゅうにん - ESPN F1・2010ねん8がつ28にち
  11. ^ ウィリアムズ、ルーベンス・バリチェロの残留ざんりゅう発表はっぴょう - F1-Gate.com・2011ねん11月15にち
  12. ^ ルーベンス・バリチェロ、KVレーシングでインディカー参戦さんせん決定けってい- f1-gate.com 2012ねん3がつ2にち
  13. ^ STC2000:ルーベンス・バリチェロ、トヨタ・カローラでフル参戦さんせん決定けってい南米なんべい最高峰さいこうほう参戦さんせん”. AS-Web (2020ねん2がつ7にち). 2021ねん9がつ29にち閲覧えつらん
  14. ^ ライコネン、前人未到ぜんじんみとうの323せんへ「記録きろくかろうがぼく普段ふだんどおりにレースをするだけ」F1アイフェルGP Alfa Romeo《preview》2020formula1-data.com(2020ねん10がつ7にち)2020ねん11月18にち閲覧えつらん
  15. ^ “ハンガリーGP木曜日もくようび記者きしゃ会見かいけんパート2”. espn F1. (2010ねん7がつ30にち). http://ja.espnf1.com/hungary/motorsport/story/24738.html 2010ねん7がつ30にち閲覧えつらん 
  16. ^ Barrichello milestones - 300 Grands Prix and counting - formula1.com・2010ねん8がつ26にち
  17. ^ ルーベンス・バリチェロ、スパがF1参戦さんせん300せんではない? - f1-gate.com・2010ねん8がつ26にち
  18. ^ バリチェロ、みずからのF1最多さいた出走しゅっそう記録きろくならんだライコネンを祝福しゅくふく今度こんど乾杯かんぱいしよう!」jp.motorsport.com(2020ねん10がつ1にち)2020ねん11月18にち閲覧えつらん
  19. ^ アーカイブされたコピー”. 2012ねん2がつ6にち時点じてんオリジナルよりアーカイブ。2016ねん2がつ8にち閲覧えつらん インタビュー:ルーベンス・バリチェロ(ほん記事きじ「ルーベンス・バリチェロ」の祖父そふ
  20. ^ アーカイブされたコピー”. 2007ねん4がつ6にち時点じてんオリジナルよりアーカイブ。2007ねん6がつ2にち閲覧えつらん My story: ルーベンス・バリチェロ公式こうしきサイトより
  21. ^ F1-Live.com
  22. ^ F1 RACING日本にっぽんばん 2011ねん1がつ情報じょうほうごう本人ほんにんのインタビューより
  23. ^ “バリチェロのカムバックを予定よていしていたケータハム”. ESPN F1. (2014ねん11月5にち). http://ja.espnf1.com/caterham/motorsport/story/182447.html 2014ねん11月5にち閲覧えつらん 

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]