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ブダペスト包囲 ほうい 戦 せん はハンガリー の首都 しゅと ブダペスト の包囲 ほうい 戦 せん であり、第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん 末期 まっき 、赤軍 せきぐん によるブダペスト攻勢 こうせい によって行 おこな われた戦 たたか いのひとつである。1944年 ねん 12月29日 にち 、ハンガリー軍 ぐん ・ドイツ国防 こくぼう 軍 ぐん によって防衛 ぼうえい されたブダペストが赤軍 せきぐん ・ルーマニア軍 ぐん によって包囲 ほうい されたとき、この包囲 ほうい 戦 せん が始 はじ まり、1945年 ねん 2月 がつ 13日 にち 、守備 しゅび 隊 たい の無条件 むじょうけん 降伏 ごうぶく をもって終了 しゅうりょう した。ブダペストの包囲 ほうい はソビエト赤軍 せきぐん 第 だい 2ウクライナ方面 ほうめん 軍 ぐん (司令 しれい 官 かん ロディオン・マリノフスキー )の一部 いちぶ が行 おこな い、ドイツ国防 こくぼう 軍 ぐん ・武装 ぶそう 親衛隊 しんえいたい ・ハンガリー軍 ぐん の雑多 ざった な部隊 ぶたい が赤軍 せきぐん に対 たい し配置 はいち された。ブダペスト包囲 ほうい 戦 せん は第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん で最 もっと も血 ち の流 なが れた戦 たたか いのひとつであった。
1941年 ねん の独 どく ソ開戦 かいせん 以後 いご 、ハンガリーはドイツと共 とも にソ連 それん との戦争 せんそう を続行 ぞっこう していたが、戦線 せんせん に敗北 はいぼく の様相 ようそう が濃 こ くなるにつれ、その協力 きょうりょく 度 ど は「気 き の乗 の らない衛星 えいせい 国 こく 」のそれになりつつあった。1944年 ねん 春 はる までには、戦況 せんきょう を絶望 ぜつぼう 視 し したハンガリー政府 せいふ 首脳 しゅのう は連合 れんごう 国 こく との休戦 きゅうせん を望 のぞ んでいたが、ドイツはバラトン湖 こ 周囲 しゅうい にあるハンガリー油田 ゆでん を必要 ひつよう としており、またハンガリーに居住 きょじゅう するユダヤ人 じん の徹底的 てっていてき な殲滅 せんめつ を計画 けいかく 、3月19日 にち 、ドイツ軍 ぐん はマルガレーテ作戦 さくせん を発動 はつどう 、部隊 ぶたい をハンガリーへ侵入 しんにゅう させ親 しん 独 どく 派 は のストーヤイ・デメ 政権 せいけん を樹立 じゅりつ させる。しかし、ハンガリー摂政 せっしょう の座 ざ を保 たも ったホルティ・ミクローシュ 提督 ていとく はなお休戦 きゅうせん を試 こころ みようとしていた。
1944年 ねん 6月 がつ 末 まつ 、バグラチオン作戦 さくせん 成功 せいこう とその後 ご の進撃 しんげき によりソ連 それん 軍 ぐん はバルカン半島 ばるかんはんとう に侵入 しんにゅう してきた。1944年 ねん 10月 がつ 、ホルティは連合 れんごう 軍 ぐん と和平 わへい について交渉 こうしょう する機会 きかい をつかんだ。しかし、ドイツ側 がわ にこのことが露見 ろけん してしまい、10月16日 にち ドイツ軍 ぐん はパンツァーファウスト作戦 さくせん を発動 はつどう 。ホルティを摂政 せっしょう から退任 たいにん させ、親 おや ナチの矢 や 十 じゅう 字 じ 党 とう とその指導 しどう 者 しゃ サーラシ・フェレンツ がハンガリーを掌握 しょうあく することとなった。
1944年 ねん 10月 がつ 29日 にち 、赤軍 せきぐん はブダペストへの攻撃 こうげき を開始 かいし し、2つに分 わ けられた1,000,000名 めい 以上 いじょう の赤軍 せきぐん 将兵 しょうへい は迅速 じんそく にブダペストへと進撃 しんげき した。赤軍 せきぐん の作戦 さくせん はドイツ軍 ぐん ・ハンガリー軍 ぐん の残存 ざんそん 部隊 ぶたい をブダペストから駆逐 くちく することであり、1944年 ねん 11月7日 にち 、赤軍 せきぐん ・ルーマニア軍 ぐん はブダペスト旧 きゅう 市街 しがい 東 ひがし 20キロ郊外 こうがい に達 たっ していた。12月19日 にち 、休養 きゅうよう と再 さい 編成 へんせい の後 のち 、赤軍 せきぐん は攻撃 こうげき を再開 さいかい 、12月26日 にち には最後 さいご に残 のこ っていた連絡 れんらく 路 ろ であるブダペスト・ウィーン 間 あいだ 街道 かいどう を赤軍 せきぐん が切断 せつだん 、このためブダペストは包囲 ほうい されることとなった。この一連 いちれん の攻勢 こうせい のさなか、ハンガリー「国民 こくみん 指導 しどう 者 しゃ (Nemzetvezető)」サーラシ・フェレンツは12月9日 にち にブダペストから逃亡 とうぼう した。
ブダペスト包囲 ほうい 網 もう 下 か に残 のこ ったのはドイツ将兵 しょうへい 33,000名 めい 、ハンガリー将兵 しょうへい 37,000名 めい 、民間 みんかん 人 じん 800,000名 めい 。ドイツ総統 そうとう アドルフ・ヒトラー はブダペストを要塞 ようさい 都市 とし と宣言 せんげん 、包囲 ほうい 網 もう の突破 とっぱ 脱出 だっしゅつ を禁 きん じ、第 だい 9SSアルペン軍団 ぐんだん 司令 しれい 官 かん カール・プフェッファー=ヴィルデンブルッフ (英語 えいご 版 ばん ) 親衛隊 しんえいたい 大将 たいしょう を守備 しゅび 隊 たい の最高 さいこう 指揮 しき 官 かん に任命 にんめい した。
東部 とうぶ 中央 ちゅうおう ヨーロッパ(英語 えいご 版 ばん ) 最大 さいだい 都市 とし であるブダペストはヨシフ・スターリン の大 おお きな目標 もくひょう であり、ヤルタ会談 かいだん の開催 かいさい が近 ちか づきつつある中 なか 、スターリンはイギリス首相 しゅしょう ウィンストン・チャーチル とアメリカ大統領 だいとうりょう フランクリン・ルーズベルト に彼 かれ の力 ちから を誇示 こじ したいと考 かんが えていた[ 2] 。
1944年 ねん 12月29日 にち 、包囲 ほうい 網 もう 完成 かんせい を受 う けてソビエト第 だい 2ウクライナ方面 ほうめん 軍 ぐん 司令 しれい 官 かん マリノフスキーはブダペストに降伏 ごうぶく を勧告 かんこく するために特使 とくし 2名 めい を派遣 はけん した。しかし、特使 とくし は戻 もど ることは無 な かった。このことについては、特使 とくし が赤軍 せきぐん により故意 こい に射殺 しゃさつ されたとドイツ・ハンガリーの歴史 れきし 家 か の一部 いちぶ は主張 しゅちょう しており、この点 てん についてはソ連 それん 内 ない でも広 ひろ い議論 ぎろん が存在 そんざい している。また、他 た の意見 いけん では特使 とくし らは帰 かえ り道 みち の途中 とちゅう 、誤 あやま 射 さ されたと主張 しゅちょう しているが、いずれにせよ、これを降伏 ごうぶく の拒絶 きょぜつ と判断 はんだん した赤軍 せきぐん はブダペストへの攻撃 こうげき を開始 かいし した。
包囲 ほうい の開始 かいし とドイツ軍 ぐん 最初 さいしょ の反撃 はんげき [ 編集 へんしゅう ]
赤軍 せきぐん を迎 むか え撃 う つドイツ軍 ぐん
攻勢 こうせい は街 まち の東側 ひがしがわ ペシュト へ向 む けられ、中央 ちゅうおう 大通 おおどお りを急速 きゅうそく に進撃 しんげき してくる赤軍 せきぐん にドイツ軍 ぐん ・ハンガリー軍 ぐん は圧倒 あっとう された。効果 こうか 的 てき な反撃 はんげき は不可能 ふかのう と思 おも われたため、ドイツ・ハンガリー軍 ぐん の指揮 しき 官 かん はせめて敵 てき の進撃 しんげき を遅 おく らせるため、遅滞 ちたい 戦術 せんじゅつ を作戦 さくせん の中心 ちゅうしん とし、最終 さいしゅう 的 てき にはペシュトを放棄 ほうき してドナウ川 がわ を渡 わた って後退 こうたい 、ブダ の丘 おか が多 おお い地形 ちけい を利用 りよう してさらなる防衛 ぼうえい 戦 せん を行 おこな うこととした。
1945年 ねん 1月 がつ 、ドイツ軍 ぐん はコンラート作戦 さくせん と呼 よ ばれる解 かい 囲 かこえ 作戦 さくせん を開始 かいし 、包囲 ほうい された防衛 ぼうえい 部隊 ぶたい を救出 きゅうしゅつ するためのドイツ・ハンガリー両 りょう 軍 ぐん 共同 きょうどう の作戦 さくせん であり、三 さん 次 じ にわたって行 おこな われることになる。
1月 がつ 1日 にち 、第 だい 一 いち 次 じ コンラート作戦 さくせん が開始 かいし 、ドイツ第 だい 4SS装甲 そうこう 軍団 ぐんだん は赤軍 せきぐん の包囲 ほうい を撃破 げきは するためにブダペストでも丘 おか の多 おお い北側 きたがわ を進 すす んでタタ から攻撃 こうげき を行 おこな った。同時 どうじ に武装 ぶそう 親衛隊 しんえいたい の部隊 ぶたい が戦術 せんじゅつ 的 てき 優位 ゆうい を確立 かくりつ するためにブダペスト西 にし から攻撃 こうげき を行 おこな った。1月3日 にち 、赤軍 せきぐん はこの脅威 きょうい に対応 たいおう するために4個 こ 師団 しだん を派遣 はけん 、ブダペスト西 にし 20キロ近 ちか くのビツシュケ (en ) でドイツ軍 ぐん の攻撃 こうげき を阻止 そし 、1月 がつ 12日 にち 、ドイツ軍 ぐん は撤退 てったい を余儀 よぎ なくされた。
1月 がつ 7日 にち 、ドイツ軍 ぐん は第 だい 二 に 次 じ コンラート作戦 さくせん を開始 かいし 、ドイツ第 だい 4SS装甲 そうこう 軍団 ぐんだん はブダペストの飛行場 ひこうじょう を奪回 だっかい し、空輸 くうゆ の効率 こうりつ を改善 かいぜん するためにエステルゴム 方面 ほうめん から攻撃 こうげき を開始 かいし した。
1月 がつ 17日 にち 、第 だい 三 さん 次 じ コンラート作戦 さくせん が開始 かいし 、ドイツ第 だい 4SS装甲 そうこう 軍団 ぐんだん 、第 だい III装甲 そうこう 軍団 ぐんだん はブダペスト南方 なんぽう より攻撃 こうげき を行 おこな い、赤軍 せきぐん 4個 こ 師団 しだん の包囲 ほうい を試 こころ みた。
1月 がつ 1日 にち 、ペシュト攻防 こうぼう 戦 せん に参加 さんか した部隊 ぶたい [ 編集 へんしゅう ]
第 だい 66親衛 しんえい 狙撃 そげき 兵 へい 師団 しだん
第 だい 68親衛 しんえい 狙撃 そげき 兵 へい 師団 しだん
第 だい 297狙撃 そげき 兵 へい 師団 しだん
第 だい 317狙撃 そげき 兵 へい 師団 しだん
第 だい 17加 か 農 のう 砲 ほう 旅団 りょだん
第 だい 152加 か 農 のう 砲 ほう 旅団 りょだん
第 だい 95榴弾 りゅうだん 砲兵 ほうへい 旅団 りょだん
第 だい 27迫撃 はくげき 砲 ほう 旅団 りょだん
第 だい 48「カチューシャ」連隊 れんたい
第 だい 14突撃 とつげき 工兵 こうへい 旅団 りょだん
第 だい 2歩兵 ほへい 師団 しだん
第 だい 19歩兵 ほへい 師団 しだん
第 だい 9騎兵 きへい 師団 しだん
ペシュトの戦 たたか いの間 あいだ 、参加 さんか した戦車 せんしゃ 部隊 ぶたい
第 だい 23戦車 せんしゃ 軍団 ぐんだん の2個 こ 大隊 だいたい
第 だい 3戦車 せんしゃ 旅団 りょだん
第 だい 39戦車 せんしゃ 旅団 りょだん の1個 いっこ 中隊 ちゅうたい
合計 ごうけい 、戦車 せんしゃ 22両 りょう
ブダの戦 たたか いの間 あいだ 、参加 さんか した戦車 せんしゃ 部隊 ぶたい
第 だい 23戦車 せんしゃ 軍団 ぐんだん の1個 いっこ 中隊 ちゅうたい
第 だい 5親衛 しんえい 戦車 せんしゃ 軍団 ぐんだん の1個 いっこ 中隊 ちゅうたい
合計 ごうけい 、戦車 せんしゃ 119両 りょう
1月 がつ 1日 にち 時点 じてん での砲兵 ほうへい 部隊 ぶたい
203mm榴弾 りゅうだん 砲 ほう :48門 もん
152mm加 か 農 のう 砲 ほう /榴弾 りゅうだん 砲 ほう :172門 もん
122mm加 か 農 のう 砲 ほう /榴弾 りゅうだん 砲 ほう :294門 もん
76mm師団 しだん 所属 しょぞく 砲 ほう :191門 もん
76mm連隊 れんたい 所属 しょぞく 砲 ほう :174門 もん
45mm/57-mm対戦 たいせん 車 しゃ 砲 ほう :158
とかくする間 あいだ 、ブダペストでの市街 しがい 戦 せん は激化 げきか しており、包囲 ほうい 開始 かいし 直前 ちょくぜん の1944年 ねん 12月27日 にち にはすでにフェリヘジ空港 くうこう (現在 げんざい のフェレンツ・リスト国際 こくさい 空港 くうこう )を喪失 そうしつ していたため、枢軸 すうじく 軍 ぐん にとって輸送 ゆそう 問題 もんだい は決定的 けっていてき な要素 ようそ であった。1945年 ねん 1月 がつ 9日 にち まで、ドイツ軍 ぐん はブダ城 じょう に隣接 りんせつ する公園 こうえん 、大通 おおどお りを利用 りよう していくつかを航空機 こうくうき 、グライダーの発着 はっちゃく 場 じょう としていたが、常 つね に赤軍 せきぐん の砲撃 ほうげき に悩 なや まされていた。また、ドナウ川 がわ が凍 こお るまでは暗闇 くらやみ と霧 きり を利用 りよう していくつかの必需 ひつじゅ 品 ひん をはしけで輸送 ゆそう することも行 おこな っていた。
それらの努力 どりょく が行 おこな われたにもかかわらず、食料 しょくりょう 不足 ふそく はますます悪化 あっか 、兵士 へいし は食料 しょくりょう も自 みずか ら探 さが し出 だ さなければならなくなり、何人 なんにん かは自 みずか らが所有 しょゆう する馬 うま を食 た べざるを得 え なかった。そして極端 きょくたん な寒 さむ さはドイツ・ハンガリー両 りょう 軍 ぐん 将兵 しょうへい に大 おお きな影響 えいきょう を及 およ ぼした。
赤軍 せきぐん はドイツ軍 ぐん がスターリングラード と同 おな じ状況 じょうきょう にあると素早 すばや く判断 はんだん した。また、彼 かれ らは進撃 しんげき に狙撃 そげき 兵 へい や工兵 こうへい らを用 もち いることにより、地形 ちけい を利用 りよう することができた。さらに枢軸 すうじく 軍 ぐん と赤軍 せきぐん の双方 そうほう で展開 てんかい を有利 ゆうり にするため、下水道 げすいどう を用 もち い、その内外 ないがい で戦 たたか うこともあった。ソ連 それん 海軍 かいぐん 歩兵 ほへい 6名 めい がどうにかブダ城 しろ の丘 おか へ到着 とうちゃく 、その後 ご 、地下 ちか の自軍 じぐん へ戻 もど る前 まえ にドイツ軍 ぐん 将校 しょうこう を捕虜 ほりょ とした。しかし、ブダペスト包囲 ほうい 戦 せん における下水道 げすいどう での戦 たたか いは、概 がい して地元 じもと 住民 じゅうみん の手引 てび きを受 う けられる枢軸 すうじく 側 がわ のほうが有利 ゆうり であった。
1月 がつ 中旬 ちゅうじゅん 、赤軍 せきぐん による砲火 ほうか の下 した 、パンツァーファウスト と砲弾 ほうだん を製造 せいぞう していた工場 こうじょう とチェペル島 とう が奪取 だっしゅ された。一方 いっぽう 、ペシュトでは赤軍 せきぐん の進撃 しんげき により、防衛 ぼうえい 部隊 ぶたい は半減 はんげん 、状況 じょうきょう は悪化 あっか していた。
1945年 ねん 1月 がつ 17日 にち 、ヒトラーはブダの防衛 ぼうえい のためにペシュトから全 すべ ての残存 ざんそん 部隊 ぶたい を撤退 てったい させることに同意 どうい 、ドナウ川 がわ にかかる5つの橋 はし は全 すべ て渋滞 じゅうたい を引 ひ き起 お こしながらも将兵 しょうへい 、民間 みんかん 人 じん らは避難 ひなん した。1945年 ねん 1月 がつ 18日 にち 、ハンガリー軍 ぐん 将校 しょうこう の抗議 こうぎ にもかかわらず、ドイツ軍 ぐん は5つの橋 はし を爆破 ばくは した。
1945年 ねん 1月 がつ 20日 はつか 、ドイツ軍 ぐん は2度目 どめ の大 だい 規模 きぼ な反撃 はんげき を開始 かいし 、赤軍 せきぐん の防衛 ぼうえい 線 せん に20キロに及 およ ぶ穴 あな を開 あ け、ドナウ川 がわ へ進撃 しんげき 、ブダペスト南方 なんぽう から赤軍 せきぐん の補給 ほきゅう 線 せん を脅 おど かした。
なんとしてもドイツ軍 ぐん の攻勢 こうせい を停止 ていし させるようにスターリンから命令 めいれい を受 う けた赤軍 せきぐん は2個 こ 軍団 ぐんだん を派遣 はけん し、ドイツ軍 ぐん の攻撃 こうげき に対応 たいおう するために南 みなみ へ急行 きゅうこう させた。しかしブダペストまで後 こう 20キロ未満 みまん まで進撃 しんげき していたドイツ軍 ぐん はすでに兵員 へいいん が不足 ふそく しており、攻撃 こうげき の維持 いじ ができず、結局 けっきょく 問題 もんだい を解決 かいけつ できなかった。そのため、ブダペストの防衛 ぼうえい 部隊 ぶたい は包囲 ほうい からの脱出 だっしゅつ する許可 きょか を願 ねが ったが、ヒトラーは拒絶 きょぜつ した。1945年 ねん 1月 がつ 28日 にち 、ドイツ軍 ぐん は戦線 せんせん を保持 ほじ できなくなり、撤退 てったい せざるを得 え なくなった。そのため、ブダペスト防衛 ぼうえい 隊 たい の運命 うんめい は閉 と ざされることとなった。
1月 がつ 21日 にち 、ブダペストの攻撃 こうげき に参加 さんか した部隊 ぶたい [ 編集 へんしゅう ]
第 だい 113狙撃 そげき 兵 へい 師団 しだん
第 だい 180狙撃 そげき 兵 へい 師団 しだん
第 だい 109狙撃 そげき 兵 へい 師団 しだん の2個 こ 連隊 れんたい
総勢 そうぜい 、将兵 しょうへい 114,719名 めい
第 だい 108狙撃 そげき 兵 へい 師団 しだん
第 だい 316狙撃 そげき 兵 へい 師団 しだん
第 だい 320狙撃 そげき 兵 へい 師団 しだん
総勢 そうぜい 、将兵 しょうへい 116,645名 めい
第 だい 66親衛 しんえい 狙撃 そげき 兵 へい 師団 しだん
第 だい 68親衛 しんえい 狙撃 そげき 兵 へい 師団 しだん
第 だい 297狙撃 そげき 兵 へい 師団 しだん
第 だい 317狙撃 そげき 兵 へい 師団 しだん
総勢 そうぜい 、将兵 しょうへい 13,140名 めい
第 だい 5砲兵 ほうへい 師団 しだん
第 だい 7砲兵 ほうへい 師団 しだん
第 だい 16砲兵 ほうへい 師団 しだん
第 だい 462迫撃 はくげき 砲 ほう 連隊 れんたい
第 だい 48「カチューシャ」連隊 れんたい
第 だい 12突撃 とつげき 工兵 こうへい 旅団 りょだん
第 だい 14突撃 とつげき 工兵 こうへい 旅団 りょだん
戦車 せんしゃ 中隊 ちゅうたい から9両 りょう のT-34
203mm榴弾 りゅうだん 砲 ほう :69門 もん
152mm加 か 農 のう 砲 ほう /榴弾 りゅうだん 砲 ほう :116門 もん
122mm加 か 農 のう 砲 ほう /榴弾 りゅうだん 砲 ほう :160門 もん
76mm師団 しだん 所属 しょぞく 砲 ほう :245門 もん
76mm師団 しだん 所属 しょぞく 砲 ほう :60門 もん
57mm対 たい 戦車 せんしゃ 砲 ほう :20門 もん
45mm対 たい 戦車 せんしゃ 砲 ほう :114門 もん
82mm迫撃 はくげき 砲 ほう :307門 もん
120mm迫撃 はくげき 砲 ほう :213門 もん
カチューシャ :24門 もん
平 たい らな地形 ちけい のペシュトと違 ちが い、ブダは丘 おか に築 きず かれた町 まち であった。これはドイツ軍 ぐん が火砲 かほう を丘 おか に配置 はいち 、さらに丘 おか を利用 りよう して防衛 ぼうえい 陣地 じんち を築 きず くことを可能 かのう としており、赤軍 せきぐん は攻撃 こうげき が大幅 おおはば に鈍 にぶ り始 はじ めていた。主 しゅ 防衛 ぼうえい 陣地 じんち のゲッレールトの丘 おか (en ) は武装 ぶそう 親衛隊 しんえいたい の精鋭 せいえい 部隊 ぶたい が防衛 ぼうえい しており、いくつかの赤軍 せきぐん による攻撃 こうげき を撃退 げきたい した。その近辺 きんぺん でドイツ軍 ぐん と赤軍 せきぐん は共同 きょうどう 墓地 ぼち で戦 たたか い、蓋 ぶた を開 あ けられた墓地 ぼち 上 じょう の戦 たたか いは数 すう 日間 にちかん 続 つづ いた。ドナウ川 がわ の中 なか にあるマルギット島 とう (en ) での戦 たたか いは特 とく に情 なさ け容赦 ようしゃ の無 な い激 はげ しいものとなった。島 しま とブダを繋 つな ぐマルギット橋 きょう は半壊 はんかい していたとはいえブダとの行 い き来 き が可能 かのう であったため、下町 したまち に臨時 りんじ に設営 せつえい された飛行場 ひこうじょう の一部 いちぶ 、または補給 ほきゅう 物資 ぶっし の投下 とうか 拠点 きょてん に使用 しよう されたからである。赤軍 せきぐん は島 しま への攻撃 こうげき に第 だい 25親衛 しんえい 狙撃 そげき 兵 へい 師団 しだん を投入 とうにゅう した(損失 そんしつ は後述 こうじゅつ )。
1945年 ねん 2月 がつ 11日 にち 、6週間 しゅうかん に及 およ ぶ戦 たたか いの後 のち 、猛烈 もうれつ な赤軍 せきぐん の攻撃 こうげき が3箇所 かしょ より行 おこな われ、ゲッレールトの丘 おか はついに陥落 かんらく した。赤軍 せきぐん の火砲 かほう は町 まち 全体 ぜんたい を支配 しはい しており、すでに2キロ四方 しほう で食料 しょくりょう 不足 ふそく と病気 びょうき を患 わずら いつつあった枢軸 すうじく 軍 ぐん 防衛 ぼうえい 部隊 ぶたい の防衛 ぼうえい 線 せん を撃破 げきは しつつあった。枢軸 すうじく 軍 ぐん の一 いち 日 にち の割 わ り当 あ て食料 しょくりょう は部隊 ぶたい で屠殺 とさつ された馬肉 ばにく 、パン150グラムとなっていたが、それでも枢軸 すうじく 軍 ぐん 防衛 ぼうえい 部隊 ぶたい は降伏 ごうぶく を拒否 きょひ 、あらゆる通 とお り、家 いえ で赤軍 せきぐん の部隊 ぶたい 、戦車 せんしゃ から町 まち を防衛 ぼうえい し続 つづ けた。この時 とき 、捕虜 ほりょ となったハンガリー将兵 しょうへい の幾 いく 人 にん かは赤軍 せきぐん 側 がわ に加 くわ わっていたが、彼 かれ らはブダ義勇 ぎゆう 兵 へい 連隊 れんたい (Budai Önkéntes Ezred, en ) として知 し られることとなる。
2日間 にちかん の大 だい 激戦 げきせん において血 ち が流 なが された上 うえ でブダペスト南 みなみ 駅 えき を占領 せんりょう した赤軍 せきぐん は、城 しろ の丘 おか へ進撃 しんげき した。1945年 ねん 2月 がつ 10日 とおか 、激戦 げきせん の末 すえ 、ソ連 それん 海軍 かいぐん 歩兵 ほへい が城 しろ の丘 おか に橋頭堡 きょうとうほ を確立 かくりつ したが、丘 おか の半分 はんぶん は依然 いぜん 、枢軸 すうじく 軍 ぐん が占拠 せんきょ していた。
ドイツ軍 ぐん 3度目 どめ の反撃 はんげき 、そして降伏 ごうぶく [ 編集 へんしゅう ]
ヒトラーはドイツ軍 ぐん 指揮 しき 官 かん カール・プフェッファー=ヴィルデンブルッフが包囲 ほうい から脱出 だっしゅつ することもしくはブダペストから撤退 てったい することを禁 きん ずる命令 めいれい を改 あらた めて出 だ した。しかし、補給 ほきゅう 物資 ぶっし を運 はこ ぶグライダーによる輸送 ゆそう は数日 すうじつ 前 まえ に終了 しゅうりょう 、さらにパラシュートによる物資 ぶっし 投下 とうか も中止 ちゅうし されていた。
もはや望 のぞ みがなくなったことを悟 さと ったプフェッファー=ヴィルデンブルッフは独断 どくだん で包囲 ほうい 網 もう からの脱出 だっしゅつ を決定 けってい した。通常 つうじょう 、ドイツ軍 ぐん 指揮 しき 官 かん はハンガリー軍 ぐん 部隊 ぶたい を併 あわ せて指揮 しき し、ハンガリー軍 ぐん 指揮 しき 官 かん の意見 いけん を聞 き くことなどしなかったが、この時 とき ばかりは、異例 いれい なことにプフェッファー=ヴィルデンブルッフはこの最後 さいご となる決死 けっし の脱出 だっしゅつ 劇 げき にハンガリー軍 ぐん 指揮 しき 官 かん 、イヴァーン・ヒンディ (Iván Hindy) を引 ひ き入 い れた。
2月 がつ 11日 にち 夜 よる 、ドイツ・ハンガリー将兵 しょうへい 28,000名 めい が城 しろ の丘 おか からの撤退 てったい を開始 かいし した。彼 かれ らは3波 は に分 わ かれて行動 こうどう 、それぞれ何 なん 千 せん 人 にん もの民間 みんかん 人 じん を含 ふく んでおり、家族 かぞく らは乳母車 うばぐるま を押 お して雪 ゆき や氷 こおり の上 うえ を進 すす んだ。しかし、赤軍 せきぐん はすでにこれに対処 たいしょ するべく、待 ま ち伏 ぶ せを行 おこな っていた。
ドイツ・ハンガリー将兵 しょうへい は民間 みんかん 人 じん らとともに霧 きり を効果 こうか 的 てき に利用 りよう して撤退 てったい した。第 だい 一 いち 波 は は待 ま ち伏 ぶ せしていた赤軍 せきぐん 将兵 しょうへい と火砲 かほう を驚 おどろ かせることとなり、その多 おお くが撤退 てったい することができた。第 だい 二 に 波 は 、第 だい 三 さん 波 は は運 うん が無 な く、赤軍 せきぐん の火砲 かほう 、カチューシャロケット砲 ほう による攻撃 こうげき で大勢 おおぜい の死傷 ししょう 者 しゃ が出 で たにもかかわらず、5,000から10,000名 めい がブダペスト北西 ほくせい の森 もり へ脱出 だっしゅつ に成功 せいこう 、ウィーンへと退却 たいきゃく 、ドイツ将兵 しょうへい 約 やく 700名 めい は脱走 だっそう した。
大 だい 部分 ぶぶん の逃亡 とうぼう 者 しゃ が赤軍 せきぐん の攻撃 こうげき により、戦死 せんし ・負傷 ふしょう 、そして捕虜 ほりょ となった。ドイツ軍 ぐん 指揮 しき 官 かん プフェッファー=ヴィルデンブルッフ、ハンガリー軍 ぐん 指揮 しき 官 かん ヒンディらも脱出 だっしゅつ の際 さい に重傷 じゅうしょう を負 お い赤軍 せきぐん の捕虜 ほりょ となった。
1945年 ねん 2月 がつ 13日 にち 、残存 ざんそん していたブダペスト防衛 ぼうえい 部隊 ぶたい はついに降伏 ごうぶく した。ブダペストの町 まち で破壊 はかい 、もしくは損害 そんがい を受 う けた建物 たてもの は80パーセントにおよび、その中 なか には伝統 でんとう あるハンガリー国会 こっかい 議事堂 ぎじどう 、ブダペスト城 じょう も含 ふく まれていた。そしてドナウ川 がわ に架 か かっていた5つの橋 はし の全部 ぜんぶ が破壊 はかい された。
ドイツ軍 ぐん 、ハンガリー軍 ぐん の損失 そんしつ は激 はげ しく、全 ぜん 師団 しだん が撃破 げきは された。最小 さいしょう に見積 みつ もっても、第 だい 13装甲 そうこう 師団 しだん (en )、第 だい 60装甲 そうこう 擲弾兵 へい 師団 しだん フェルトヘルンハレ (en )、第 だい 8SS騎兵 きへい 師団 しだん フロリアン・ガイエル 、第 だい 22SS義勇 ぎゆう 騎兵 きへい 師団 しだん らはほとんどが壊滅 かいめつ した。そして、ハンガリー第 だい 1軍団 ぐんだん も壊滅 かいめつ 、第 だい 10歩兵 ほへい 師団 しだん 、第 だい 12歩兵 ほへい 師団 しだん 、第 だい 1装甲 そうこう 師団 しだん が殲滅 せんめつ された。
飢餓 きが 、もしくは病気 びょうき で死亡 しぼう した民間 みんかん 人 じん は確定 かくてい ではないが、約 やく 40,000名 めい と見積 みつ もられる。また他国 たこく の赤軍 せきぐん 占領 せんりょう 地域 ちいき でもそうであったように、一般 いっぱん 兵士 へいし から将官 しょうかん までもが略奪 りゃくだつ ・暴行 ぼうこう に参加 さんか し、10歳 さい から70歳 さい まで、およそ目 め に付 つ く殆 ほとん どの女性 じょせい が強姦 ごうかん された[ 3] 。
(1月 がつ 分 ぶん については1月 がつ 後半 こうはん における攻撃 こうげき からの推測 すいそく )
軍団 ぐんだん 司令 しれい 部 ぶ :戦死 せんし 7名 めい 、行方 ゆくえ 不明 ふめい 3名 めい 、負傷 ふしょう 19名 めい 、戦 せん 病 びょう 3名 めい
第 だい 2歩兵 ほへい 師団 しだん :戦死 せんし 147名 めい 、行方 ゆくえ 不明 ふめい 29名 めい 、負傷 ふしょう 654名 めい 、戦 せん 病 びょう 149名 めい
第 だい 19歩兵 ほへい 師団 しだん :戦死 せんし 181名 めい 、行方 ゆくえ 不明 ふめい 12名 めい 、負傷 ふしょう 936名 めい 、戦 せん 病 びょう 42名 めい
第 だい 9騎兵 きへい 師団 しだん :戦死 せんし 79名 めい 、負傷 ふしょう 272名 めい 、戦 せん 病 びょう 6名 めい
(第 だい 66親衛 しんえい 狙撃 そげき 兵 へい 師団 しだん 、第 だい 68親衛 しんえい 狙撃 そげき 兵 へい 師団 しだん 、第 だい 297狙撃 そげき 兵 へい 師団 しだん 、第 だい 317狙撃 そげき 兵 へい 師団 しだん )
戦死 せんし 791名 めい 、行方 ゆくえ 不明 ふめい 50名 めい 、負傷 ふしょう 2,568名 めい 戦 せん 病 びょう 72名 めい (1月 がつ 1日 にち から10日 とおか )
第 だい 25親衛 しんえい 狙撃 そげき 兵 へい 師団 しだん (1月 がつ 20日 はつか から31日 にち ):戦死 せんし 、殺害 さつがい された29名 めい を含 ふく む452名 めい
包囲 ほうい に参加 さんか した全 すべ ての軍 ぐん (2月 がつ 1日 にち から10日 とおか ):戦死 せんし 1,044名 めい 、行方 ゆくえ 不明 ふめい 52名 めい 、負傷 ふしょう 3,411名 めい 、戦 せん 病 びょう 276名 めい
春 はる の目覚 めざ め作戦 さくせん を除 のぞ いて、その年 とし の3月 がつ に開始 かいし されたブダペスト包囲 ほうい 戦 せん はドイツ軍 ぐん が南 みなみ で行 おこな った最後 さいご の大 だい 規模 きぼ 作戦 さくせん 活動 かつどう であった。赤軍 せきぐん による更 さら なる包囲 ほうい はドイツ国防 こくぼう 軍 ぐん 、そして特 とく に武装 ぶそう 親衛隊 しんえいたい を減少 げんしょう させることとなった。ブダペスト包囲 ほうい 戦 せん は赤軍 せきぐん にとってベルリンにおける戦 たたか い の最終 さいしゅう リハーサルであった。そしてこの戦 たたか いは赤軍 せきぐん によるウィーン攻略 こうりゃく 作戦 さくせん を開始 かいし させることとなり、ブダペスト降伏 ごうぶく 2ヵ月 かげつ 後 ご の1945年 ねん 4月 がつ 13日 にち 、ウィーンは陥落 かんらく する。
ブダペスト戦功 せんこう メダルは戦 たたか いに参加 さんか した全 すべ てのソビエト赤軍 せきぐん 将兵 しょうへい に与 あた えられた。
ブダペスト王宮 おうきゅう の丘 おか 地域 ちいき (Naphegy 、Krisztinaváros など)での戦 たたか いはその住民 じゅうみん の日記 にっき 、回顧 かいこ 録 ろく から窺 うかが い知 し ることができる。1944年 ねん 当時 とうじ 、15歳 さい であったラースロー・デセエー (en )は家族 かぞく とともにメーサーロシュ32番 ばん 街 がい (32 Mészáros Street) に住 す んでいた。この地区 ちく はブダペスト南 みなみ 駅近 えきちか 辺 あたり であったため、最 もっと も熾烈 しれつ な攻撃 こうげき が行 おこな われたひとつであり、丘 おか における戦 たたか いにとって戦略 せんりゃく 的 てき 重要 じゅうよう な地区 ちく であった。デセエーは包囲 ほうい 戦 せん の間 あいだ 、日記 にっき をつけていた[ 5] 。また、兵士 へいし アンドラーシュ・ネーメト(András Németh)の回顧 かいこ 録 ろく にも包囲 ほうい 中 ちゅう 、彼 かれ の仲間 なかま が観測 かんそく 所 しょ として以前 いぜん 使用 しよう していた空 そら の校舎 こうしゃ への爆 ばく 撃 げき について記述 きじゅつ している[ 6] 。
John F. Montgomery, Hungary: The Unwilling Satellite . Devin-Adair Company, New York, 1947. Reprint: Simon Publications, 2002. Available online at Historical Text Archive and at the Corvinus Library of Hungarian History .
Gosztony, Peter: Der Kampf um Budapest, 1944/45, München : Schnell & Steiner, 1964.
Nikolai Shefov, Russian fights , Lib. Military History, M. 2002.
James Mark. Remembering Rape: Divided Social Memory and the Red Army in Hungary 1944–1945. Past and Present 2005: 188: 133-161 (Oxford University Press).
Krisztián Ungváry, The Siege of Budapest: One Hundred Days in World War II (trans. Peter Zwack), Yale University Press, 2005, ISBN 0-300-10468-5
Source about soviet casualties, estimated at 80,000, not 160,000: https://archive.is/20121221115318/http://www.victory.mil.ru/war/oper/15.html