(Translated by https://www.hiragana.jp/)
ブダペスト包囲戦 - Wikipedia コンテンツにスキップ

ブダペスト包囲ほういせん

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
ブダペスト包囲ほういせん
戦争せんそうだい世界せかい大戦たいせん東部とうぶ戦線せんせん
年月日ねんがっぴ1944ねん12月29にち - 1945ねん2がつ13にち
場所ばしょハンガリー ブダペスト
結果けっか赤軍せきぐん・ルーマニアぐん勝利しょうり
交戦こうせん勢力せいりょく
ナチス・ドイツの旗 ドイツ
ハンガリーの旗 ハンガリー
ソビエト連邦の旗 ソビエト連邦れんぽう
ルーマニア王国の旗 ルーマニア
指導しどうしゃ指揮しきかん
ナチス・ドイツの旗 アドルフ・ヒトラー

ナチス・ドイツの旗ゲルハルト・シュミットフーバー ナチス・ドイツの旗 カール・プフェッファー=ヴィルデンブルッフ (en)
ハンガリーの旗 イヴァーン・ヒンディ (en)

ソビエト連邦の旗 ロディオン・マリノフスキー
ソビエト連邦の旗 フョードル・トルブーヒン
ルーマニア王国の旗 フェオドル・トゥラス (Feodor Tulas)
戦力せんりょく
将兵しょうへい180,000めい
(うち90,000めい都市とし防衛ぼうえい
将兵しょうへい500,000めい
(うち170,000めい都市とし攻撃こうげき参加さんか
損害そんがい
戦死せんし負傷ふしょう捕虜ほりょ99,000から150,000めい ブダペストにおける作戦さくせん全体ぜんたい
戦死せんし80,000めい
負傷ふしょうせんびょう240,056めい[1]
ブダペスト攻勢こうせい

ブダペスト包囲ほういせんハンガリー首都しゅとブダペスト包囲ほういせんであり、だい世界せかい大戦たいせん末期まっき赤軍せきぐんによるブダペスト攻勢こうせいによっておこなわれたたたかいのひとつである。1944ねん12月29にち、ハンガリーぐんドイツ国防こくぼうぐんによって防衛ぼうえいされたブダペストが赤軍せきぐん・ルーマニアぐんによって包囲ほういされたとき、この包囲ほういせんはじまり、1945ねん2がつ13にち守備しゅびたい無条件むじょうけん降伏ごうぶくをもって終了しゅうりょうした。ブダペストの包囲ほういはソビエト赤軍せきぐんだい2ウクライナ方面ほうめんぐん司令しれいかんロディオン・マリノフスキー)の一部いちぶおこない、ドイツ国防こくぼうぐん武装ぶそう親衛隊しんえいたい・ハンガリーぐん雑多ざった部隊ぶたい赤軍せきぐんたい配置はいちされた。ブダペスト包囲ほういせんだい世界せかい大戦たいせんもっとながれたたたかいのひとつであった。

包囲ほういせん開始かいしまでのハンガリー

[編集へんしゅう]

1941ねんどく開戦かいせん以後いご、ハンガリーはドイツとともソ連それんとの戦争せんそう続行ぞっこうしていたが、戦線せんせん敗北はいぼく様相ようそうくなるにつれ、その協力きょうりょくは「らない衛星えいせいこく」のそれになりつつあった。1944ねんはるまでには、戦況せんきょう絶望ぜつぼうしたハンガリー政府せいふ首脳しゅのう連合れんごうこくとの休戦きゅうせんのぞんでいたが、ドイツはバラトン周囲しゅういにあるハンガリー油田ゆでん必要ひつようとしており、またハンガリーに居住きょじゅうするユダヤじん徹底的てっていてき殲滅せんめつ計画けいかく、3月19にち、ドイツぐんマルガレーテ作戦さくせん発動はつどう部隊ぶたいをハンガリーへ侵入しんにゅうさせしんどくストーヤイ・デメ政権せいけん樹立じゅりつさせる。しかし、ハンガリー摂政せっしょうたもったホルティ・ミクローシュ提督ていとくはなお休戦きゅうせんこころみようとしていた。

1944ねん6がつまつバグラチオン作戦さくせん成功せいこうとその進撃しんげきによりソ連それんぐんバルカン半島ばるかんはんとう侵入しんにゅうしてきた。1944ねん10がつ、ホルティは連合れんごうぐん和平わへいについて交渉こうしょうする機会きかいをつかんだ。しかし、ドイツがわにこのことが露見ろけんしてしまい、10月16にちドイツぐんパンツァーファウスト作戦さくせん発動はつどう。ホルティを摂政せっしょうから退任たいにんさせ、おやナチのじゅうとうとその指導しどうしゃサーラシ・フェレンツがハンガリーを掌握しょうあくすることとなった。

包囲ほうい

[編集へんしゅう]

赤軍せきぐんのブダペストへの進出しんしゅつ

[編集へんしゅう]

1944ねん10がつ29にち赤軍せきぐんはブダペストへの攻撃こうげき開始かいしし、2つにけられた1,000,000めい以上いじょう赤軍せきぐん将兵しょうへい迅速じんそくにブダペストへと進撃しんげきした。赤軍せきぐん作戦さくせんはドイツぐん・ハンガリーぐん残存ざんそん部隊ぶたいをブダペストから駆逐くちくすることであり、1944ねん11月7にち赤軍せきぐん・ルーマニアぐんはブダペストきゅう市街しがいひがし20キロ郊外こうがいたっしていた。12月19にち休養きゅうようさい編成へんせいのち赤軍せきぐん攻撃こうげき再開さいかい、12月26にちには最後さいごのこっていた連絡れんらくであるブダペスト・ウィーンあいだ街道かいどう赤軍せきぐん切断せつだん、このためブダペストは包囲ほういされることとなった。この一連いちれん攻勢こうせいのさなか、ハンガリー「国民こくみん指導しどうしゃ (Nemzetvezető)」サーラシ・フェレンツは12月9にちにブダペストから逃亡とうぼうした。

ブダペスト包囲ほういもうのこったのはドイツ将兵しょうへい33,000めい、ハンガリー将兵しょうへい37,000めい民間みんかんじん800,000めい。ドイツ総統そうとうアドルフ・ヒトラーはブダペストを要塞ようさい都市とし宣言せんげん包囲ほういもう突破とっぱ脱出だっしゅつきんじ、だい9SSアルペン軍団ぐんだん司令しれいかんカール・プフェッファー=ヴィルデンブルッフ英語えいごばん親衛隊しんえいたい大将たいしょう守備しゅびたい最高さいこう指揮しきかん任命にんめいした。

東部とうぶ中央ちゅうおうヨーロッパ英語えいごばん最大さいだい都市としであるブダペストはヨシフ・スターリンおおきな目標もくひょうであり、ヤルタ会談かいだん開催かいさいちかづきつつあるなか、スターリンはイギリス首相しゅしょうウィンストン・チャーチルとアメリカ大統領だいとうりょうフランクリン・ルーズベルトかれちから誇示こじしたいとかんがえていた[2]

1944ねん12月29にち包囲ほういもう完成かんせいけてソビエトだい2ウクライナ方面ほうめんぐん司令しれいかんマリノフスキーはブダペストに降伏ごうぶく勧告かんこくするために特使とくし2めい派遣はけんした。しかし、特使とくしもどることはかった。このことについては、特使とくし赤軍せきぐんにより故意こい射殺しゃさつされたとドイツ・ハンガリーの歴史れきし一部いちぶ主張しゅちょうしており、このてんについてはソ連それんないでもひろ議論ぎろん存在そんざいしている。また、意見いけんでは特使とくしらはかえみち途中とちゅうあやまされたと主張しゅちょうしているが、いずれにせよ、これを降伏ごうぶく拒絶きょぜつ判断はんだんした赤軍せきぐんはブダペストへの攻撃こうげき開始かいしした。

包囲ほうい開始かいしとドイツぐん最初さいしょ反撃はんげき

[編集へんしゅう]
赤軍せきぐんむかつドイツぐん

攻勢こうせいまち東側ひがしがわペシュトけられ、中央ちゅうおう大通おおどおりを急速きゅうそく進撃しんげきしてくる赤軍せきぐんにドイツぐん・ハンガリーぐん圧倒あっとうされた。効果こうかてき反撃はんげき不可能ふかのうおもわれたため、ドイツ・ハンガリーぐん指揮しきかんはせめててき進撃しんげきおくらせるため、遅滞ちたい戦術せんじゅつ作戦さくせん中心ちゅうしんとし、最終さいしゅうてきにはペシュトを放棄ほうきしてドナウがわわたって後退こうたいブダおかおお地形ちけい利用りようしてさらなる防衛ぼうえいせんおこなうこととした。

1945ねん1がつ、ドイツぐんコンラート作戦さくせんばれるかいかこえ作戦さくせん開始かいし包囲ほういされた防衛ぼうえい部隊ぶたい救出きゅうしゅつするためのドイツ・ハンガリーりょうぐん共同きょうどう作戦さくせんであり、さんにわたっておこなわれることになる。

1がつ1にちだいいちコンラート作戦さくせん開始かいし、ドイツだい4SS装甲そうこう軍団ぐんだん赤軍せきぐん包囲ほうい撃破げきはするためにブダペストでもおかおお北側きたがわすすんでタタから攻撃こうげきおこなった。同時どうじ武装ぶそう親衛隊しんえいたい部隊ぶたい戦術せんじゅつてき優位ゆうい確立かくりつするためにブダペスト西にしから攻撃こうげきおこなった。1月3にち赤軍せきぐんはこの脅威きょうい対応たいおうするために4師団しだん派遣はけん、ブダペスト西にし20キロちかくのビツシュケ (en) でドイツぐん攻撃こうげき阻止そし、1がつ12にち、ドイツぐん撤退てったい余儀よぎなくされた。

1がつ7にち、ドイツぐんだいコンラート作戦さくせん開始かいし、ドイツだい4SS装甲そうこう軍団ぐんだんはブダペストの飛行場ひこうじょう奪回だっかいし、空輸くうゆ効率こうりつ改善かいぜんするためにエステルゴム方面ほうめんから攻撃こうげき開始かいしした。

1がつ17にちだいさんコンラート作戦さくせん開始かいし、ドイツだい4SS装甲そうこう軍団ぐんだんだいIII装甲そうこう軍団ぐんだんはブダペスト南方なんぽうより攻撃こうげきおこない、赤軍せきぐん4師団しだん包囲ほういこころみた。

1がつ1にち、ペシュト攻防こうぼうせん参加さんかした部隊ぶたい

[編集へんしゅう]

だい30狙撃そげきへい軍団ぐんだん

[編集へんしゅう]

だい18親衛しんえい狙撃そげきへい軍団ぐんだん

[編集へんしゅう]
  • だい66親衛しんえい狙撃そげきへい師団しだん
  • だい68親衛しんえい狙撃そげきへい師団しだん
  • だい297狙撃そげきへい師団しだん
  • だい317狙撃そげきへい師団しだん
  • だい17のうほう旅団りょだん
  • だい152のうほう旅団りょだん
  • だい95榴弾りゅうだん砲兵ほうへい旅団りょだん
  • だい27迫撃はくげきほう旅団りょだん
  • だい48「カチューシャ」連隊れんたい
  • だい14突撃とつげき工兵こうへい旅団りょだん

だい7ルーマニア軍団ぐんだん

[編集へんしゅう]
  • だい2歩兵ほへい師団しだん
  • だい19歩兵ほへい師団しだん
  • だい9騎兵きへい師団しだん

ペシュトのたたかいのあいだ参加さんかした戦車せんしゃ部隊ぶたい

  • だい23戦車せんしゃ軍団ぐんだんの2大隊だいたい
  • だい3戦車せんしゃ旅団りょだん
  • だい39戦車せんしゃ旅団りょだん1個いっこ中隊ちゅうたい

合計ごうけい戦車せんしゃ22りょう

ブダのたたかいのあいだ参加さんかした戦車せんしゃ部隊ぶたい

  • だい23戦車せんしゃ軍団ぐんだん1個いっこ中隊ちゅうたい
  • だい5親衛しんえい戦車せんしゃ軍団ぐんだん1個いっこ中隊ちゅうたい

合計ごうけい戦車せんしゃ119りょう

1がつ1にち時点じてんでの砲兵ほうへい部隊ぶたい

  • 203mm榴弾りゅうだんほう:48もん
  • 152mmのうほう/榴弾りゅうだんほう:172もん
  • 122mmのうほう/榴弾りゅうだんほう:294もん
  • 76mm師団しだん所属しょぞくほう:191もん
  • 76mm連隊れんたい所属しょぞくほう:174もん
  • 45mm/57-mm対戦たいせんしゃほう:158

戦闘せんとう激化げきか

[編集へんしゅう]

とかくするあいだ、ブダペストでの市街しがいせん激化げきかしており、包囲ほうい開始かいし直前ちょくぜんの1944ねん12月27にちにはすでにフェリヘジ空港くうこう現在げんざいフェレンツ・リスト国際こくさい空港くうこう)を喪失そうしつしていたため、枢軸すうじくぐんにとって輸送ゆそう問題もんだい決定的けっていてき要素ようそであった。1945ねん1がつ9にちまで、ドイツぐんはブダじょう隣接りんせつする公園こうえん大通おおどおりを利用りようしていくつかを航空機こうくうき、グライダーの発着はっちゃくじょうとしていたが、つね赤軍せきぐん砲撃ほうげきなやまされていた。また、ドナウがわこおるまでは暗闇くらやみきり利用りようしていくつかの必需ひつじゅひんをはしけで輸送ゆそうすることもおこなっていた。

それらの努力どりょくおこなわれたにもかかわらず、食料しょくりょう不足ふそくはますます悪化あっか兵士へいし食料しょくりょうみずかさがさなければならなくなり、何人なんにんかはみずからが所有しょゆうするうまべざるをなかった。そして極端きょくたんさむさはドイツ・ハンガリーりょうぐん将兵しょうへいおおきな影響えいきょうおよぼした。

赤軍せきぐんはドイツぐんスターリングラードおな状況じょうきょうにあると素早すばや判断はんだんした。また、かれらは進撃しんげき狙撃そげきへい工兵こうへいらをもちいることにより、地形ちけい利用りようすることができた。さらに枢軸すうじくぐん赤軍せきぐん双方そうほう展開てんかい有利ゆうりにするため、下水道げすいどうもちい、その内外ないがいたたかうこともあった。ソ連それん海軍かいぐん歩兵ほへい6めいがどうにかブダしろおか到着とうちゃく、その地下ちか自軍じぐんもどまえにドイツぐん将校しょうこう捕虜ほりょとした。しかし、ブダペスト包囲ほういせんにおける下水道げすいどうでのたたかいは、がいして地元じもと住民じゅうみん手引てびきをけられる枢軸すうじくがわのほうが有利ゆうりであった。

1がつ中旬ちゅうじゅん赤軍せきぐんによる砲火ほうかしたパンツァーファウスト砲弾ほうだん製造せいぞうしていた工場こうじょうチェペルとう奪取だっしゅされた。一方いっぽう、ペシュトでは赤軍せきぐん進撃しんげきにより、防衛ぼうえい部隊ぶたい半減はんげん状況じょうきょう悪化あっかしていた。

1945ねん1がつ17にち、ヒトラーはブダの防衛ぼうえいのためにペシュトからすべての残存ざんそん部隊ぶたい撤退てったいさせることに同意どうい、ドナウがわにかかる5つのはしすべ渋滞じゅうたいこしながらも将兵しょうへい民間みんかんじんらは避難ひなんした。1945ねん1がつ18にち、ハンガリーぐん将校しょうこう抗議こうぎにもかかわらず、ドイツぐんは5つのはし爆破ばくはした。

ドイツぐん、2かい反撃はんげき

[編集へんしゅう]

1945ねん1がつ20日はつか、ドイツぐんは2度目どめだい規模きぼ反撃はんげき開始かいし赤軍せきぐん防衛ぼうえいせんに20キロにおよあなけ、ドナウがわ進撃しんげき、ブダペスト南方なんぽうから赤軍せきぐん補給ほきゅうせんおどかした。

なんとしてもドイツぐん攻勢こうせい停止ていしさせるようにスターリンから命令めいれいけた赤軍せきぐんは2軍団ぐんだん派遣はけんし、ドイツぐん攻撃こうげき対応たいおうするためにみなみ急行きゅうこうさせた。しかしブダペストまでこう20キロ未満みまんまで進撃しんげきしていたドイツぐんはすでに兵員へいいん不足ふそくしており、攻撃こうげき維持いじができず、結局けっきょく問題もんだい解決かいけつできなかった。そのため、ブダペストの防衛ぼうえい部隊ぶたい包囲ほういからの脱出だっしゅつする許可きょかねがったが、ヒトラーは拒絶きょぜつした。1945ねん1がつ28にち、ドイツぐん戦線せんせん保持ほじできなくなり、撤退てったいせざるをなくなった。そのため、ブダペスト防衛ぼうえいたい運命うんめいざされることとなった。

1がつ21にち、ブダペストの攻撃こうげき参加さんかした部隊ぶたい

[編集へんしゅう]
  • だい83海軍かいぐん歩兵ほへい旅団りょだん

だい75親衛しんえい狙撃そげきへい軍団ぐんだん

[編集へんしゅう]
  • だい113狙撃そげきへい師団しだん
  • だい180狙撃そげきへい師団しだん
  • だい109狙撃そげきへい師団しだんの2連隊れんたい

総勢そうぜい将兵しょうへい114,719めい

だい37親衛しんえい狙撃そげきへい軍団ぐんだん

[編集へんしゅう]
  • だい108狙撃そげきへい師団しだん
  • だい316狙撃そげきへい師団しだん
  • だい320狙撃そげきへい師団しだん

総勢そうぜい将兵しょうへい116,645めい

だい18親衛しんえい狙撃そげきへい軍団ぐんだん

[編集へんしゅう]
  • だい66親衛しんえい狙撃そげきへい師団しだん
  • だい68親衛しんえい狙撃そげきへい師団しだん
  • だい297狙撃そげきへい師団しだん
  • だい317狙撃そげきへい師団しだん

総勢そうぜい将兵しょうへい13,140めい

  • だい5砲兵ほうへい師団しだん
  • だい7砲兵ほうへい師団しだん
  • だい16砲兵ほうへい師団しだん
  • だい462迫撃はくげきほう連隊れんたい
  • だい48「カチューシャ」連隊れんたい
  • だい12突撃とつげき工兵こうへい旅団りょだん
  • だい14突撃とつげき工兵こうへい旅団りょだん
  • 戦車せんしゃ中隊ちゅうたいから9りょうのT-34

1がつ1にち時点じてん火砲かほう

[編集へんしゅう]
  • 203mm榴弾りゅうだんほう:69もん
  • 152mmのうほう /榴弾りゅうだんほう:116もん
  • 122mmのうほう /榴弾りゅうだんほう:160もん
  • 76mm師団しだん所属しょぞくほう:245もん
  • 76mm師団しだん所属しょぞくほう:60もん
  • 57mmたい戦車せんしゃほう:20もん
  • 45mmたい戦車せんしゃほう:114もん
  • 82mm迫撃はくげきほう:307もん
  • 120mm迫撃はくげきほう:213もん
  • カチューシャ:24もん

ブダ攻防こうぼうせん

[編集へんしゅう]

たいらな地形ちけいのペシュトとちがい、ブダはおかきずかれたまちであった。これはドイツぐん火砲かほうおか配置はいち、さらにおか利用りようして防衛ぼうえい陣地じんちきずくことを可能かのうとしており、赤軍せきぐん攻撃こうげき大幅おおはばにぶはじめていた。しゅ防衛ぼうえい陣地じんちのゲッレールトのおか (en) は武装ぶそう親衛隊しんえいたい精鋭せいえい部隊ぶたい防衛ぼうえいしており、いくつかの赤軍せきぐんによる攻撃こうげき撃退げきたいした。その近辺きんぺんでドイツぐん赤軍せきぐん共同きょうどう墓地ぼちたたかい、ぶたけられた墓地ぼちじょうたたかいはすう日間にちかんつづいた。ドナウがわなかにあるマルギットとう (en) でのたたかいはとくなさ容赦ようしゃはげしいものとなった。しまとブダをつなぐマルギットきょう半壊はんかいしていたとはいえブダとの可能かのうであったため、下町したまち臨時りんじ設営せつえいされた飛行場ひこうじょう一部いちぶ、または補給ほきゅう物資ぶっし投下とうか拠点きょてん使用しようされたからである。赤軍せきぐんしまへの攻撃こうげきだい25親衛しんえい狙撃そげきへい師団しだん投入とうにゅうした(損失そんしつ後述こうじゅつ)。

1945ねん2がつ11にち、6週間しゅうかんおよたたかいののち猛烈もうれつ赤軍せきぐん攻撃こうげきが3箇所かしょよりおこなわれ、ゲッレールトのおかはついに陥落かんらくした。赤軍せきぐん火砲かほうまち全体ぜんたい支配しはいしており、すでに2キロ四方しほう食料しょくりょう不足ふそく病気びょうきわずらいつつあった枢軸すうじくぐん防衛ぼうえい部隊ぶたい防衛ぼうえいせん撃破げきはしつつあった。枢軸すうじくぐんいちにち食料しょくりょう部隊ぶたい屠殺とさつされた馬肉ばにく、パン150グラムとなっていたが、それでも枢軸すうじくぐん防衛ぼうえい部隊ぶたい降伏ごうぶく拒否きょひ、あらゆるとおり、いえ赤軍せきぐん部隊ぶたい戦車せんしゃからまち防衛ぼうえいつづけた。このとき捕虜ほりょとなったハンガリー将兵しょうへいいくにんかは赤軍せきぐんがわくわわっていたが、かれらはブダ義勇ぎゆうへい連隊れんたい (Budai Önkéntes Ezred, en) としてられることとなる。

2日間にちかんだい激戦げきせんにおいてながされたうえブダペストみなみえき占領せんりょうした赤軍せきぐんは、しろおか進撃しんげきした。1945ねん2がつ10日とおか激戦げきせんすえソ連それん海軍かいぐん歩兵ほへいしろおか橋頭堡きょうとうほ確立かくりつしたが、おか半分はんぶん依然いぜん枢軸すうじくぐん占拠せんきょしていた。

ドイツぐん3度目どめ反撃はんげき、そして降伏ごうぶく

[編集へんしゅう]

ヒトラーはドイツぐん指揮しきかんカール・プフェッファー=ヴィルデンブルッフが包囲ほういから脱出だっしゅつすることもしくはブダペストから撤退てったいすることをきんずる命令めいれいあらためてした。しかし、補給ほきゅう物資ぶっしはこぶグライダーによる輸送ゆそう数日すうじつまえ終了しゅうりょう、さらにパラシュートによる物資ぶっし投下とうか中止ちゅうしされていた。

もはやのぞみがなくなったことをさとったプフェッファー=ヴィルデンブルッフは独断どくだん包囲ほういもうからの脱出だっしゅつ決定けっていした。通常つうじょう、ドイツぐん指揮しきかんはハンガリーぐん部隊ぶたいあわせて指揮しきし、ハンガリーぐん指揮しきかん意見いけんくことなどしなかったが、このときばかりは、異例いれいなことにプフェッファー=ヴィルデンブルッフはこの最後さいごとなる決死けっし脱出だっしゅつげきにハンガリーぐん指揮しきかん、イヴァーン・ヒンディ (Iván Hindy) をれた。

2がつ11にちよる、ドイツ・ハンガリー将兵しょうへい28,000めいしろおかからの撤退てったい開始かいしした。かれらは3かれて行動こうどう、それぞれなんせんにんもの民間みんかんじんふくんでおり、家族かぞくらは乳母車うばぐるましてゆきこおりうえすすんだ。しかし、赤軍せきぐんはすでにこれに対処たいしょするべく、せをおこなっていた。

ドイツ・ハンガリー将兵しょうへい民間みんかんじんらとともにきり効果こうかてき利用りようして撤退てったいした。だいいちせしていた赤軍せきぐん将兵しょうへい火砲かほうおどろかせることとなり、そのおおくが撤退てったいすることができた。だいだいさんうんく、赤軍せきぐん火砲かほうカチューシャロケットほうによる攻撃こうげき大勢おおぜい死傷ししょうしゃたにもかかわらず、5,000から10,000めいがブダペスト北西ほくせいもり脱出だっしゅつ成功せいこう、ウィーンへと退却たいきゃく、ドイツ将兵しょうへいやく700めい脱走だっそうした。

だい部分ぶぶん逃亡とうぼうしゃ赤軍せきぐん攻撃こうげきにより、戦死せんし負傷ふしょう、そして捕虜ほりょとなった。ドイツぐん指揮しきかんプフェッファー=ヴィルデンブルッフ、ハンガリーぐん指揮しきかんヒンディらも脱出だっしゅつさい重傷じゅうしょう赤軍せきぐん捕虜ほりょとなった。

1945ねん2がつ13にち残存ざんそんしていたブダペスト防衛ぼうえい部隊ぶたいはついに降伏ごうぶくした。ブダペストのまち破壊はかい、もしくは損害そんがいけた建物たてものは80パーセントにおよび、そのなかには伝統でんとうあるハンガリー国会こっかい議事堂ぎじどう、ブダペストじょうふくまれていた。そしてドナウがわかっていた5つのはし全部ぜんぶ破壊はかいされた。

ドイツぐん、ハンガリーぐん損失そんしつはげしく、ぜん師団しだん撃破げきはされた。最小さいしょう見積みつもっても、だい13装甲そうこう師団しだん (en)、だい60装甲そうこう擲弾へい師団しだんフェルトヘルンハレ (en)、だい8SS騎兵きへい師団しだん フロリアン・ガイエルだい22SS義勇ぎゆう騎兵きへい師団しだんらはほとんどが壊滅かいめつした。そして、ハンガリーだい1軍団ぐんだん壊滅かいめつだい10歩兵ほへい師団しだんだい12歩兵ほへい師団しだんだい1装甲そうこう師団しだん殲滅せんめつされた。

飢餓きが、もしくは病気びょうき死亡しぼうした民間みんかんじん確定かくていではないが、やく40,000めい見積みつもられる。また他国たこく赤軍せきぐん占領せんりょう地域ちいきでもそうであったように、一般いっぱん兵士へいしから将官しょうかんまでもが略奪りゃくだつ暴行ぼうこう参加さんかし、10さいから70さいまで、およそほとんどの女性じょせい強姦ごうかんされた[3]

赤軍せきぐん・ルーマニアぐん損失そんしつ[4]

[編集へんしゅう]

ルーマニアだい4軍団ぐんだん

[編集へんしゅう]

(1がつぶんについては1がつ後半こうはんにおける攻撃こうげきからの推測すいそく

  • 軍団ぐんだん司令しれい戦死せんし7めい行方ゆくえ不明ふめい3めい負傷ふしょう19めいせんびょう3めい
  • だい2歩兵ほへい師団しだん戦死せんし147めい行方ゆくえ不明ふめい29めい負傷ふしょう654めいせんびょう149めい
  • だい19歩兵ほへい師団しだん戦死せんし181めい行方ゆくえ不明ふめい12めい負傷ふしょう936めいせんびょう42めい
  • だい9騎兵きへい師団しだん戦死せんし79めい負傷ふしょう272めいせんびょう6めい

赤軍せきぐんだい18狙撃そげきへい軍団ぐんだん

[編集へんしゅう]

だい66親衛しんえい狙撃そげきへい師団しだんだい68親衛しんえい狙撃そげきへい師団しだんだい297狙撃そげきへい師団しだんだい317狙撃そげきへい師団しだん戦死せんし791めい行方ゆくえ不明ふめい50めい負傷ふしょう 2,568めいせんびょう 72めい(1がつ1にちから10日とおか

  • だい25親衛しんえい狙撃そげきへい師団しだん(1がつ20日はつかから31にち):戦死せんし殺害さつがいされた29めいふくむ452めい

包囲ほうい参加さんかしたすべてのぐん(2がつ1にちから10日とおか):戦死せんし1,044めい行方ゆくえ不明ふめい52めい負傷ふしょう3,411めいせんびょう276めい

その

[編集へんしゅう]

はる目覚めざ作戦さくせんのぞいて、そのとしの3がつ開始かいしされたブダペスト包囲ほういせんはドイツぐんみなみおこなった最後さいごだい規模きぼ作戦さくせん活動かつどうであった。赤軍せきぐんによるさらなる包囲ほういはドイツ国防こくぼうぐん、そしてとく武装ぶそう親衛隊しんえいたい減少げんしょうさせることとなった。ブダペスト包囲ほういせん赤軍せきぐんにとってベルリンにおけるたたか最終さいしゅうリハーサルであった。そしてこのたたかいは赤軍せきぐんによるウィーン攻略こうりゃく作戦さくせん開始かいしさせることとなり、ブダペスト降伏ごうぶく2ヵ月かげつの1945ねん4がつ13にち、ウィーンは陥落かんらくする。

ブダペスト戦功せんこうメダルはたたかいに参加さんかしたすべてのソビエト赤軍せきぐん将兵しょうへいあたえられた。

回顧かいころく

[編集へんしゅう]

ブダペスト王宮おうきゅうおか地域ちいきNaphegyKrisztinavárosなど)でのたたかいはその住民じゅうみん日記にっき回顧かいころくからうかがることができる。1944ねん当時とうじ、15さいであったラースロー・デセエー(en)は家族かぞくとともにメーサーロシュ32ばんがい (32 Mészáros Street) にんでいた。この地区ちくはブダペストみなみ駅近えきちかあたりであったため、もっと熾烈しれつ攻撃こうげきおこなわれたひとつであり、おかにおけるたたかいにとって戦略せんりゃくてき重要じゅうよう地区ちくであった。デセエーは包囲ほういせんあいだ日記にっきをつけていた[5]。また、兵士へいしアンドラーシュ・ネーメト(András Németh)の回顧かいころくにも包囲ほういちゅうかれ仲間なかま観測かんそくしょとして以前いぜん使用しようしていたそら校舎こうしゃへのばくげきについて記述きじゅつしている[6]

文献ぶんけん

[編集へんしゅう]
  • John F. Montgomery, Hungary: The Unwilling Satellite. Devin-Adair Company, New York, 1947. Reprint: Simon Publications, 2002. Available online at Historical Text Archive and at the Corvinus Library of Hungarian History.
  • Gosztony, Peter: Der Kampf um Budapest, 1944/45, München : Schnell & Steiner, 1964.
  • Nikolai Shefov, Russian fights, Lib. Military History, M. 2002.
  • James Mark. Remembering Rape: Divided Social Memory and the Red Army in Hungary 1944–1945. Past and Present 2005: 188: 133-161 (Oxford University Press).
  • Krisztián Ungváry, The Siege of Budapest: One Hundred Days in World War II (trans. Peter Zwack), Yale University Press, 2005, ISBN 0-300-10468-5
  • Source about soviet casualties, estimated at 80,000, not 160,000: https://archive.is/20121221115318/http://www.victory.mil.ru/war/oper/15.html

出典しゅってん

[編集へんしゅう]
  1. ^ http://www.soldat.ru/doc/casualties/book/chapter5_10_1.html#5_10_36
  2. ^ Deak, István, Endgame in Budapest, Hungarian Quarterly, Autumn 2005
  3. ^ 「ハンガリーじん全体ぜんたいにおける最悪さいあく苦難くなん強姦ごうかんによる。10さいから70さいまでが苦難くなんけるのが普通ふつうであったが、ごく一部いちぶ女性じょせいのみがたすかった。」 Swiss embassy report cited in Ungváry 2005, p.350.
  4. ^ Isaev, A. V. 1945-y. Triumf v nastuplenii i v oborone: ot Vislo-Oderskoy do Balatona/1945th. Triumph both in offencive and in defence: from Vistula-Oder to Balaton. (Moscow, 2008. ISBN 978-5-9533-3474-7) pp. 196, 199, 201
  5. ^ Deseő László naplója (Hungarian)
  6. ^ Németh András – Mostohafiak (Hungarian)