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マルせい運動うんどう

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マルせい運動うんどう(マルせいうんどう)とは、1960年代ねんだいから1970年代ねんだい前半ぜんはんにかけて日本にっぽん国有こくゆう鉄道てつどう国鉄こくてつ[1]郵政省ゆうせいしょうにおいておこなわれた[2]生産せいさんせい向上こうじょうさせる運動うんどうのことをいう。生産せいさんせい向上こうじょう運動うんどう(せいさんせいこうじょううんどう)ともばれる。この運動うんどう関係かんけいする書類しょるいには「せい」のまるかこんだスタンプしたため「マルせい」とばれるようになった。これにたいして労働ろうどう組合くみあいとく国鉄こくてつ労働ろうどう組合くみあい国労こくろう)・国鉄こくてつ動力どうりょくしゃ労働ろうどう組合くみあい動労どうろう)、全逓信労働組合ぜんていしんろうどうくみあい全逓ぜんてい)からははげしい反対はんたい運動うんどう展開てんかいされ「はんマルせい闘争とうそう」とばれた。

経緯けいい

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1960年代ねんだい末期まっき国鉄こくてつ職場しょくば荒廃こうはいしつつあり、生産せいさんせい低下ていかしがちであった。そのため、当時とうじ国鉄こくてつ当局とうきょく日本にっぽん生産せいさんせい本部ほんぶ協力きょうりょくて「生産せいさんせい向上こうじょう運動うんどう」にんだ。

1970ねん昭和しょうわ45ねん)3がつ国鉄こくてつ当局とうきょくは、職員しょくいん管理かんりしつ能力のうりょく開発かいはつ設置せっちした[1]

各地かくち現場げんばでは管理かんりしょく先頭せんとうになり運動うんどうんだが、労働ろうどうしゃにとっては労働ろうどう強化きょうかにつながった。さらに管理かんりしょく威圧いあつてき態度たいどや、国労こくろう動労どうろう組合くみあいいん組織そしきてきともえる脱退だったい工作こうさく労使ろうし協調きょうちょう路線ろせんかかげる鉄道てつどう労働ろうどう組合くみあいてつろう)への移籍いせき工作こうさく問題もんだいし、国労こくろう動労どうろう日本にっぽん社会党しゃかいとう日本にっぽん共産党きょうさんとう支援しえん国鉄こくてつ当局とうきょく対決たいけつする姿勢しせいせ「はんマルせい闘争とうそう」を展開てんかいした。

かく鉄道てつどう管理かんりきょく単位たんいで「生産せいさんせい大会たいかい」がおこなわれたさいには、開催かいさいしようとする当局とうきょくがわてつろう組合くみあいいん阻止そししようとする国労こくろう動労どうろう組合くみあいいん対立たいりつする状況じょうきょうられた。1971ねん昭和しょうわ46ねん)10がつ5にちに、大阪おおさか厚生こうせい年金ねんきん会館かいかん開催かいさいされた大会たいかいれいでは、反対はんたい1,000にんちかくが会場かいじょう周辺しゅうへんピケり、衝突しょうとつ警戒けいかいする大阪おおさか警察けいさつ機動きどうたいいん500にん警戒けいかいたるなど物々ものものしいものとなった[3]

また、当時とうじは「マルせい粉砕ふんさい」などのスローガン大書たいしょされた車両しゃりょうや、同様どうよう趣旨しゅしアジビラ大量たいりょう糊付のりづけされた車両しゃりょうなどのいわゆる「アジ電車でんしゃ」が首都しゅとけんだけでなく地方ちほうでもられ、国鉄こくてつ労使ろうし対立たいりつ国民こくみんつよ印象いんしょうづけることとなった。

1971ねん昭和しょうわ46ねん)10がつ8にち公共こうきょう企業きぎょうからだとう労働ろうどう委員いいんかいげん中央ちゅうおう労働ろうどう委員いいんかい)は、国労こくろう動労どうろうから当局とうきょくによる組合くみあい運動うんどう介入かいにゅうであると提訴ていそされた16けんのうち、2けんについて当局とうきょくによる不当ふとう労働ろうどう行為こういだと判断はんだん勧告かんこくした。マスコミもマルせいがすべてあやまりであるとの論陣ろんじんり、同年どうねん10がつ11にちには当時とうじ磯崎いそざきあきら国鉄こくてつ総裁そうさい国会こっかい陳謝ちんしゃするはめになり、国鉄こくてつにおける生産せいさんせい向上こうじょう運動うんどう失敗しっぱいわった[1]

同年どうねん11がつ2にちから紛争ふんそう対策たいさく委員いいんかいがスタートし、国労こくろう動労どうろうやく1,000めい中間ちゅうかん管理かんりしょく追放ついほうせま当局とうきょくはこれにおうじた。管理かんりしゃ暴行ぼうこうして解雇かいこされた職員しょくいんさい雇用こようまでっている。真鍋まなべひろし職員しょくいん局長きょくちょう名古屋なごや臨海りんかい鉄道てつどう社長しゃちょう)は1972ねん昭和しょうわ47ねん)7がつ退任たいにんした[1]。また、大野おおのひかりもと国鉄こくてつ職員しょくいんきょく時代じだい生産せいさんせい向上こうじょう運動うんどう旗手きしゅだったが、運動うんどう中止ちゅうし左遷させんされた。

はんマルせい闘争とうそう」の勝利しょうりいきおいを国労こくろう動労どうろうは、それまでの不当ふとう労働ろうどう行為こういパワーハラスメントなどにかんする管理かんりしょくへの糾弾きゅうだん闘争とうそう開始かいしするとともに、公共こうきょう企業きぎょうたい職員しょくいんストライキけん奪還だっかん目指めざしてストけんスト突入とつにゅうすることとなった。

てつろうの「ありがとう運動うんどう

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ストけんスト組織そしき比率ひりつ低落ていらく傾向けいこうにあった鉄道てつどう労働ろうどう組合くみあいてつろう)が、組織そしきなおしのためのアピールとして考案こうあんした。国労こくろう制服せいふくけていたストけん回復かいふくうったえるリボン対抗たいこうし、利用りようしゃたいして感謝かんしゃしめすためのリボンをけ、挨拶あいさつなど服務ふくむ態度たいどをきちんとしようという意図いと展開てんかいした[4][5]

類義語るいぎご

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鉄道てつどう事業じぎょうにおいては「生産せいさんせい」という指標しひょうがあり、大手おおてみんてつJR各社かくしゃについては毎年まいとしその報告ほうこく義務付ぎむづけられており会社かいしゃ要覧ようらんなどで閲覧えつらんできる。こちらは生産せいさんせい向上こうじょう運動うんどうことなり、下記かきのように厳密げんみつ定義ていぎがなされている。

  • 従業じゅうぎょういん一人ひとりたり生産せいさんせい車両しゃりょう走行そうこうキロ/従業じゅうぎょう員数いんずう

車両しゃりょう走行そうこうキロはどういちサイズのくるまがた(20 mきゅう大形おおぎょう車両しゃりょう)などで統一とういつして比較ひかくする。また「生産せいさんせい」は相対そうたいてき指標しひょうとして使つかわれることがおおく、ある年度ねんどのある事業じぎょうしゃ線区せんく)を基準きじゅん指数しすうされることもおおい。

路線ろせん性格せいかくたものでおこな場合ばあい近代きんだい合理ごうり進捗しんちょく度合どあいなどを比較ひかくするために使つかわれ、路線ろせん性格せいかくことなる場合ばあいにはその性格せいかくちがいを際立きわだたせる場合ばあい使つかわれる。おな会社かいしゃことなる年度ねんど比較ひかくし、自社じしゃ近代きんだい合理ごうり進捗しんちょく度合どあいを比較ひかくするために使つか場合ばあいもある。

対義語たいぎご

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ここでは労組ろうそがわ反撃はんげき行為こういのうち、ストライキの範疇はんちゅうではないものをしめす。

さんない運動うんどう

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国労こくろう動労どうろうがそれぞれの労働ろうどう学校がっこう組合くみあいいんを「階級かいきゅう闘争とうそう戦士せんし」に仕立したてげるさいこのんで使用しようした。仕事しごと遂行すいこう必要ひつようなことをふくめて敵対てきたい労組ろうそてつろう)・管理かんりしゃたいしてつぎ方針ほうしん貫徹かんてつする。

  • なにおしえない
  • なにかせない
  • なにらない(必要ひつようい)

ホウレンソウ(報告ほうこく連絡れんらく相談そうだん」と完全かんぜん反対はんたい概念がいねんでもあり、パワーハラスメント[6]ネグレクト一種いっしゅである[7]

さん主義しゅぎ

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さんない運動うんどう比較ひかくして、他者たしゃたいする指針ししんというよりみずからの行動こうどう指針ししんとして使つかわれた。これにより労働ろうどうしゃがわ職場しょくば支配しはいけん確立かくりつ期待きたいした[7]

  • やすまず
  • はたらかず
  • 無理むりせず

郵政ゆうせいにおけるマルせい運動うんどう

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郵便ゆうびん現場げんばにおいても1960年代ねんだいはいると組合くみあい発言はつげんりょくつよまり、なかでも最大さいだい労組ろうそであった全逓信労働組合ぜんていしんろうどうくみあい以下いか全逓ぜんていりゃく)がストライキおこなったり、意図いとてき郵便ゆうびんぶつ遅配ちはいさせるなどの「闘争とうそう」をひろげてきた。このため国鉄こくてつ同様どうよう労働ろうどう現場げんば荒廃こうはいし、郵政ゆうせい当局とうきょく1962ねんからマルせい運動うんどう展開てんかいすることになる。

全逓ぜんてい当然とうぜんのごとく全面ぜんめん反対はんたい姿勢しせいであったが、全逓ぜんていなかでも比較的ひかくてき当局とうきょく協力きょうりょくてきなグループは郵政ゆうせい当局とうきょく庇護ひごした1965ねん全日本ぜんにほん郵政ゆうせい労働ろうどう組合くみあい全郵政ぜんゆうせい)を結成けっせい、マルせい運動うんどう協力きょうりょくしてゆく。全逓ぜんてい全郵政ぜんゆうせいあいだでは熾烈しれつ合戦かっせんき、なかには逮捕たいほしゃ始末しまつであった。

このようななかきたのが、1978ねんすえから1979ねんはじめにかけて全逓ぜんていひろげた年賀状ねんがじょうなどの年賀ねんが郵便ゆうびん取扱とりあつかい拒否きょひ越年えつねん闘争とうそう)であった。このとし年賀状ねんがじょう配達はいたつ混乱こんらんし、4おく3せんまんつうもの年賀状ねんがじょう影響えいきょうけた。年賀状ねんがじょうというえるかたちでの影響えいきょうたため、全逓ぜんてい世間せけんからおおきな批判ひはんけ、郵政ゆうせい当局とうきょくも1979ねん4がつ28にち全逓ぜんてい組合くみあいいんたい懲戒ちょうかい免職めんしょく58めいふくむ8183めい大量たいりょう処分しょぶんおこなった。

越年えつねん闘争とうそう完全かんぜん裏目うらめ全逓ぜんてい懲戒ちょうかい免職めんしょく処分しょぶんけた組合くみあいいんたいする賃金ちんぎん補填ほてんつづけたために組合くみあい財政ざいせいかたむくなど組織そしきりょく低下ていかこし、国労こくろうのような強硬きょうこう姿勢しせいつづけることができなくなり、次第しだい当局とうきょくとの協調きょうちょう転換てんかんしていった。最終さいしゅうてき全逓ぜんてい全郵政ぜんゆうせい1991ねん合併がっぺい悲惨ひさん末路まつろをたどった国労こくろうとはことなり結果けっかてき組織そしき組合くみあいいん生活せいかつまもることができた。

このようにおなじマルせい運動うんどうではあったが、国鉄こくてつ郵政ゆうせいではぎゃく結末けつまつとなった。

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ a b c d 森山もりやま欽司きんじ反骨はんこつのヒューマニスト─ だいじゅうよんしょう” (PDF). 2007ねん10がつ8にち時点じてんオリジナルよりアーカイブ。2013ねん8がつ17にち閲覧えつらん
  2. ^ 森山もりやま欽司きんじ反骨はんこつのヒューマニスト─ だいじゅうしょう” (PDF). 2007ねん10がつ8にち時点じてんオリジナルよりアーカイブ。2013ねん8がつ17にち閲覧えつらん
  3. ^ 国鉄こくてつ労使ろうし天王山てんのうざん てんてつきょくのマルせい大会たいかい 開会かいかいめぐり対決たいけつ」『中國ちゅうごく新聞しんぶん昭和しょうわ46ねん10がつ5にち夕刊ゆうかん 7めん
  4. ^ てつろう意見いけん広告こうこく国鉄こくてつ運賃うんちん値上ねあげは必要ひつようでしょうか」『読売新聞よみうりしんぶん』1980ねん1がつ28にち朝刊ちょうかん6めん
  5. ^ 柴田しばた秋雄あきお柴田しばた秋雄あきおのホテル再生さいせい物語ものがたり日本一にっぽんいちしあわせな社員しゃいん」をつくる』中日新聞社ちゅうにちしんぶんしゃ、2010ねん9がつ23にち、p.183-186。ISBN 978-4-8062-0617-0
  6. ^ 2012ねん平成へいせい24ねん)1がつ厚生こうせい労働省ろうどうしょう提示ていじしたパワーハラスメントの典型てんけいれい隔離かくり仲間なかまはずし・無視むし人間にんげん関係かんけいからのはなし)などに相当そうとうする。職場しょくばのいじめ・いやがらせ問題もんだいかんする円卓えんたく会議かいぎワーキング・グループ報告ほうこく (PDF)
  7. ^ a b サンケイ新聞しんぶん国鉄こくてつ特別とくべつ取材しゅざいはん『これでいいのか国鉄こくてつ正確せいかく安全あんぜん世界一せかいいちは、なぜ崩壊ほうかいしたか―』所収しょしゅうった国鉄こくてつ一家いっか意識いしき」、産業経済新聞社さんぎょうけいざいしんぶんしゃ出版しゅっぱんきょく

参考さんこう文献ぶんけん

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  • 白石しらいし嘉治よしはる,大野おおのえい へん『ネオリベ現代げんだい生活せいかつ批判ひはん序説じょせつ』(増補ぞうほしん評論ひょうろん東京とうきょう、2008ねん4がつ、p.84ぺーじISBN 978-4-7948-0770-0 

関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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