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洞爺とうやまる事故じこ

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
洞爺とうやまる事故じこ
転覆てんぷく船腹せんぷくせる洞爺とうやまる
日付ひづけ 1954ねん昭和しょうわ29ねん9月26にち
時間じかん 2245ふんごろ(JST)
場所ばしょ 函館湾はこだてわんうち 函館はこだてこうだいさん防波堤ぼうはていとうばしらから真方まがた267やく1.4キロメートル、七重浜ななえはま海岸かいがんからやく1キロメートルの地点ちてん
原因げんいん 台風たいふうだい15ごうによる風速ふうそく57メートルの強風きょうふう波浪はろう影響えいきょう浸水しんすいおよび防水ぼうすい防止ぼうしかんする船体せんたい構造こうぞう欠陥けっかん車両しゃりょう搬入はんにゅうこう甲板かんぱん機械きかいしつとう開口かいこう)、船長せんちょう出航しゅっこう判断はんだんおよび天候てんこう予測よそく運航うんこう管理かんり不適ふてき
関係かんけいしゃ 日本にっぽん国有こくゆう鉄道てつどう青函せいかん鉄道てつどう管理かんりきょく
結果けっか 台風たいふうだい15ごう影響えいきょうとおのいたと判断はんだんして出航しゅっこうするも、函館はこだて湾内わんないはいったところではげしい強風きょうふう波浪はろうおそわれたため、函館はこだてこう防波堤ぼうはてい灯台とうだいから真方まがた300やく1.5キロメートルの地点ちてん投錨とうびょうあつりゅうによってはしいかりはじまり、きゃく貨車かしゃ搬入はんにゅうこうより甲板かんぱん浸水しんすいこり船尾せんび水没すいぼつ状態じょうたいになる。排水はいすい不能ふのうにより機関きかんしつとボイラーしつにも浸水しんすい発電はつでんおも停止ていし右舷うげんがわかたむきながら航行こうこう不能ふのう浅瀬あさせ漂流ひょうりゅう船底ふなそこ海底かいてい接触せっしょくする。台風たいふうによる強風きょうふう波浪はろうくわえ、防波堤ぼうはていからかえ変則へんそくてき高波たかなみけて横倒よこだおしとなり、搭載とうさいしていたきゃく貨車かしゃ12りょう甲板かんぱん横転おうてん復元ふくげんりょくうしなって転覆てんぷく沈没ちんぼつするにいたった。
生存せいぞんしゃ 159にん
死者ししゃ 1155にん
行方ゆくえ不明ふめいしゃ 不明ふめい
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洞爺とうやまる事故じこ(とうやまるじこ)は、1954ねん昭和しょうわ29ねん9月26にち青函せいかん航路こうろ台風たいふうだい15ごう洞爺とうやまる台風たいふう)によりこった、日本にっぽん国有こくゆう鉄道てつどう国鉄こくてつ)の青函せいかん連絡れんらくせん洞爺とうやまる沈没ちんぼつした海難かいなん事故じこである。死者ししゃ行方ゆくえ不明ふめいしゃあわせて1155にん[ちゅう 1]およぶ、日本にっぽん海難かいなん史上しじょう最悪さいあく事故じことなった。

経緯けいい[編集へんしゅう]

1954ねん昭和しょうわ29ねん)9がつ26にち未明みめい九州きゅうしゅう南部なんぶ上陸じょうりくしていた台風たいふうだい15ごう(のち沈没ちんぼつしたふねめいかんし1958ねん洞爺とうやまる台風たいふう命名めいめいされる)は、函館はこだて海洋かいよう気象台きしょうだいによると、15時点じてん青森あおもりけん西方せいほうやく100キロメートルにあって、中心ちゅうしん気圧きあつ968ミリバール当時とうじ単位たんい数値すうちヘクトパスカル同一どういつ)、時速じそく110kmで北東ほくとうすすんでおり、その17ごろ渡島ととう半島はんとう通過つうかして津軽海峡つがるかいきょうにもっとも接近せっきんすると予想よそうされていた。

台風たいふう15ごう進路しんろ

以下いか事故じこ当日とうじつ洞爺とうやまる経緯けいい記述きじゅつする。

630ふん
くだり3便びんとして青森あおもりだい1岸壁がんぺき出航しゅっこう
1105ふん
函館はこだてこうにゅうこう鉄道てつどう桟橋さんばしだい1がん函館はこだてえき参照さんしょう)に到着とうちゃくかえのぼり4便びんとして1440ふん出航しゅっこうするまで待機たいき[1]船長せんちょうきん藤平ふじひら[ちゅう 2]は、台風たいふう接近せっきんまえ陸奥湾むつわんはいり、青森あおもり到着とうちゃくする見通みとおしをてていた。
1130ふん
台風たいふう接近せっきんのため、函館はこだて海洋かいよう気象台きしょうだい暴風ぼうふう警報けいほう発表はっぴょう[2]
1240ふんごろ
函館はこだてから青森あおもりかっていた62便びん貨物かもつ便びん渡島ととうまるより、津軽海峡つがるかいきょう中央ちゅうおうから「風速ふうそく25メートル、なみ8、うねり6、動揺どうよう22[ちゅう 3]針路しんろ南東なんとう難航なんこうちゅう」との通報つうほうはいる。危険きけんかんじた後続こうぞくの54便びん貨物かもつ便びんだいろく青函せいかんまると1202便びんきゃく貨便)だいじゅういち青函せいかんまるは、津軽海峡つがるかいきょうかったところで運航うんこう中止ちゅうしし、函館はこだてかえした[3][4][5]
1510ふん
だいじゅういち青函せいかんまる乗客じょうきゃく(アメリカぐん関係かんけいしゃ57めい日本人にっぽんじん119めい[6])と車両しゃりょう(1とう寝台しんだいしゃマイネフ38 5、荷物にもつしゃマニ32 16[7][8][9])を洞爺とうやまる移乗いじょうさせることになったが、荷物にもつしゃ積込つみこみに時間じかんがかかっていた。これ以上いじょうおくれると、台風たいふうるまでに陸奥湾むつわんうちめなくなるため[10]、これ以上いじょう車両しゃりょう積込つみこめ拒否きょひして船尾せんび可動かどうきょう車両しゃりょうせるために船体せんたい後部こうぶにかけられるはし)をげようとした。しかし、この函館はこだてうち断続だんぞくてき発生はっせいしていた停電ていでんのために可動かどうきょうがらず、出港しゅっこう見通みとおしが一時いちじてきたなくなったため、台風たいふう接近せっきん影響えいきょう考慮こうりょして運航うんこう見合みあわせた。停電ていでんはわずか2分間ふんかんであったが、出航しゅっこう見合みあわせの決定けっていされず[11]つづ寝台しんだいしゃ積込つみこみがおこなわれた。もしこのとき出港しゅっこうしていれば、難航なんこうはしただろうが洞爺とうやまる間違まちがいなく無事ぶじ青森あおもりいていたであろうとわれている[ちゅう 4][12]
1700ふんごろ
函館はこだてでは土砂降どしゃぶりののちふうおさまりものぞき、台風たいふう通過つうかしたことをおもわせた[ちゅう 5]当時とうじ函館はこだて海洋かいよう気象台きしょうだい観測かんそくでは気圧きあつは983.3ミリバールで、中央ちゅうおう気象台きしょうだい発表はっぴょうした台風たいふう中心ちゅうしん気圧きあつよりたかかったが、風速ふうそくは15に19.4メートルにたっしたのちおとろえ、17には17.3メートル、18にはさらに13.7メートルによわまっている[13]近藤こんどう船長せんちょうは、台風たいふう速度そくどから天候てんこう回復かいふくはやいものになるとみて、津軽海峡つがるかいきょう気象きしょう状況じょうきょう検討けんとうした結果けっか自身じしん気象きしょう判断はんだん絶対ぜったい自信じしんっていたことで出航しゅっこう決断けつだんした。1740ふんごろ出航しゅっこう時刻じこくを1830ふんとすることを発表はっぴょうした[1][ちゅう 6]。しかし、この一時いちじてき天候てんこう回復かいふく台風たいふうはいった影響えいきょうではなく、実際じっさいには閉塞へいそく前線ぜんせん通過つうかであったとかんがえられている[14]事故じこ当時とうじは、気象きしょう衛星えいせい観測かんそくやコンピューターを使つかったデータ解析かいせきによる予報よほう存在そんざいしなかったことにも留意りゅういする必要ひつようがある[ちゅう 7]
1825ふんごろ
洞爺とうやまるのぼりきょうしたものの、せん5せきもちいて着岸ちゃくがん難渋なんじゅうしていた石狩いしかりまる係留けいりゅうわるのをってからはなれがん[1]、1839ふん青森あおもりけておくれ4便びんとして出航しゅっこうした。乗員じょういん乗客じょうきゃくわせて1,314にん乗船じょうせんしていた。出航しゅっこうしてあいだもなく、南南西なんなんせいからのかぜいちじるしくつよくなった[ちゅう 8]洞爺とうやまるは、1855ふんごろ函館はこだてこう防波堤ぼうはてい西にし出入口でいりぐち通過つうかした。
1900ふんごろ
港外こうがい直後ちょくごから猛烈もうれつ風浪ふうろうおそわれたため、近藤こんどう船長せんちょう投錨とうびょう仮泊かはくすることを決断けつだん風下かざしもあつながされたことから西向にしむきに針路しんろをとったのち、1901ふん荒天こうてんおさまるのをつために函館はこだてこう防波堤ぼうはてい灯台とうだい付近ふきん海上かいじょう真方まがた3000.85海里かいり)に投錨とうびょう仮泊かはく開始かいしした[1]。このころ札幌さっぽろ管区かんく気象台きしょうだい19発表はっぴょう台風たいふう情報じょうほう無線むせんしつ受信じゅしん船長せんちょう報告ほうこくした。寿都すっつ西方せいほう50キロメートルの海上かいじょうきた北東ほくとう進行しんこうちゅうとの内容ないように、台風たいふうったと判断はんだんしていた船長せんちょう違和感いわかんおぼえる[15]気象台きしょうだいはこのとき台風たいふう速度そくどきゅうちていたことを把握はあくできていなかった。実際じっさい台風たいふう位置いちは、函館はこだてわんどう緯度いど渡島ととう半島はんとう西方せいほう海上かいじょうぎたところで、寿都すっつ西方せいほう50キロメートルに到達とうたつしたのはやく2あいだの21ごろであった[16]。やがて平均へいきんして40メートル、瞬間しゅんかんてきには50メートルをえる南西なんせい方向ほうこうからの暴風ぼうふう猛烈もうれつ波浪はろうのために洞爺とうやまるはしいかりをはじめる。また、船尾せんび車両しゃりょう搭載とうさいこうより進入しんにゅうした海水かいすいきゃく貨車かしゃ甲板かんぱん滞留たいりゅうし、水密すいみつ不完全ふかんぜん構造こうぞうだった車輌しゃりょう甲板かんぱんからボイラーしつ機関きかんしつへの浸水しんすい発生はっせいし、蒸気じょうきボイラーへの石炭せきたん投入とうにゅう困難こんなんになった[ちゅう 9]
2030ふんごろ
車両しゃりょう甲板かんぱんじょうへ奔入する海水かいすいりょう増加ぞうか船体せんたい動揺どうようにより、船員せんいん甲板かんぱんからの引上ひきあげを余儀よぎなくされる[1]開口かいこうから機関きかんしつかんしつ(ボイラーしつ)などへの浸水しんすいすすみ、発電はつでん次々つぎつぎ運転うんてん不能ふのうとなるとともにビルジ船底ふなそこまる汚水おすいのこと)の排出はいしゅつもできなくなり、2150ふんごろ左舷さげんぬし、225ふんごろには右舷うげんぬし運転うんてん不能ふのうとなった[1]りょうふなばたぬし停止ていし操船そうせん自由じゆううしなった洞爺とうやまる沈没ちんぼつけるため、遠浅とおあさ砂浜すなはまである七重浜ななえはまへの座礁ざしょうめ、2212ふんごろに「機関きかん故障こしょうにより航行こうこう不能ふのうとなったためななじゅうはま座礁ざしょうする」と乗客じょうきゃくほうじた。
2215ふん
船長せんちょうは、旅客りょかくたいして救命胴衣きゅうめいどうい着用ちゃくようするよう事務じむちょうつうじて指示しじした[1]
2226ふんごろ
海岸かいがんまであとすうひゃくメートルの函館はこだてこうだいさん防波堤ぼうはていとうばしら付近ふきん地点ちてん(267°、0.8海里かいり、距岸やく0.6海里かいり水深すいしん12.4m、そこしつすな)において、後部こうぶ船尾せんびが3かいほどかる撞触座礁ざしょう船体せんたい右舷うげんに45傾斜けいしゃした[1]乗組のりくみいん座礁ざしょうによって転覆てんぷく危険きけん回避かいひされたとかんがえ、乗客じょうきゃくにもそのむね伝達でんたつしたが、実際じっさい船体せんたい安定あんていせず波浪はろうによってさらにみぎ傾斜けいしゃしていった。座礁ざしょう報告ほうこくけて青函せいかん鉄道てつどう管理かんりきょく青函せいかんきょく救難きゅうなん本部ほんぶ設置せっち決定けってい補助ほじょ汽船きせん4せき(いずれも150トン程度ていど)を現場げんばむかわせるが、はげしい波浪はろうにより活動かつどう断念だんねんした。
2239ふん
洞爺とうやまるSOS発信はっしんする。しかし陸上りくじょう関係かんけいしゃは、このSOSは座礁ざしょうしたことによって発信はっしんされたものであるとは理解りかいできず、沈没ちんぼつにまでいたることを予想よそうすることはできなかった[ちゅう 10]
2243ふんごろ
船体せんたいささえていた左舷さげん錨鎖びょうさはげしい波浪はろうえきれずだんきれした。この時点じてん船体せんたい復原力ふくげんりょくうしなっていたとされるが、ビルジキール船底ふなそこよこ防止ぼうしフィン)がげた海底かいていすなさったためであるともいわれている。このとき船体せんたい大波おおなみけて横倒よこだおしとなり、満載まんさいしたきゃく貨車かしゃたおれる轟音ごうおんとともに転覆てんぷくした。機関きかん停止ていしもボイラーは最後さいごまで焚火たきび(ふんか)をつづけ、船内せんないあかりは沈没ちんぼつ5ふんまえまで点燈てんとうしていた。
2245ふんごろ
洞爺とうやまるは、函館はこだてこう防波堤ぼうはてい灯台とうだい付近ふきん地点ちてん(337°、2500m)で右舷うげんがわやく135傾斜けいしゃ船底ふなそこうえにし、七重浜ななえはま海岸かいがんせんたいして船体せんたい平行へいこう状態じょうたいにして沈没ちんぼつするにいたった[1]最後さいごには船体せんたいがほぼ裏返うらがえしになり、海面かいめんじょう船底ふなそこさらし、海底かいてい煙突えんとつさった状態じょうたいになったといい、この洞爺とうやまるだけでも乗員じょういん乗客じょうきゃく1,314にんのうち、乗員じょういん114にん乗客じょうきゃく1,041にんけい1155にん死亡しぼうまたは行方ゆくえ不明ふめいとなった。救助きゅうじょされた生存せいぞんしゃは159にんだった。

乗客じょうきゃく[編集へんしゅう]

この事故じこでは、国鉄こくてつ本社ほんしゃでの鉄道てつどう管理かんりきょくちょう会議かいぎ出席しゅっせきする途中とちゅうだった浅井あさい政治せいじ国鉄こくてつ札幌さっぽろそう支配人しはいにん旭川あさひかわ釧路くしろ鉄道てつどう管理かんりきょくちょうまれて犠牲ぎせいとなり、北海道ほっかいどう遊説ゆうぜい帰途きとだった冨吉とみきち榮二えいじもと逓信ていしん大臣だいじん菊川きくかわ忠雄ただお衆議院しゅうぎいん議員ぎいん遭難そうなんもと衆議院しゅうぎいん議員ぎいん冨永とみながかく五郎ごろうもと宝塚たからづか女優じょゆう佐保さほ美代子みよこなどの著名ちょめいじん劇団げきだん中央ちゅうおう芸術げいじゅつ劇場げきじょう所属しょぞくの6にん団員だんいん犠牲ぎせいしゃなかふくまれている。ぎゃくに、当時とうじ中央ちゅうおう競馬けいば調教ちょうきょうであった西塚にしづか十勝とかちは、転覆てんぷくした便びん切符きっぷちながらも私用しようおくれたこともありこの便びんには乗船じょうせんせずなんのがれ、漫才まんざいWけんじにんひがしけんじ宮城みやぎけんじ)もひがし深酒ふかざけおくれたためになんのがれ、一時期いちじき乗船じょうせんつたえられた川村かわむらよし八郎はちろう衆議院しゅうぎいん議員ぎいんも、その誤報ごほう判明はんめい自身じしん遭難そうなん現場げんばへとけつけている。

なお、はげしい風雨ふうう情報じょうほう混乱こんらんなどで救助きゅうじょ活動かつどうおく[ちゅう 11]七重浜ななえはまげられた時点じてんでは生存せいぞんしていたもののそこで力尽ちからつきてくなったもの相当そうとうすういたというはなしもあり、むすめ一家いっか乗船じょうせん遭難そうなん」との一報いっぽうけた父親ちちおやがショックしたのちむすめおっとから、むすめ一家いっか乗船じょうせんしておらず無事ぶじというむね電報でんぽうとどいたという悲話ひわのこる。[よう出典しゅってん]おおくの犠牲ぎせいしゃいち発生はっせいしたことから既存きそん火葬かそうじょうでは処理しょりいつかず七重浜ななえはま仮設かせつ火葬かそうじょうもうけられ[17]さら身元みもと照会しょうかい混乱こんらんから遺族いぞくになりすまし補償ほしょうきん詐取さしゅしようとする事件じけんまで発生はっせいした[18]

事故じこ直後ちょくご荒天こうてんでの無理むり出航しゅっこう一等いっとう乗船じょうせんしていた浅井あさいそう支配人しはいにんおよ旭川あさひかわ釧路くしろ青函せいかん[ちゅう 12]局長きょくちょうらが国鉄こくてつ本社ほんしゃでの会議かいぎわせるために船長せんちょう出航しゅっこう強要きょうようしたものだ」との新聞しんぶん記事きじされ、後年こうねんになっても事故じこ一因いちいんとしてかたられるが、これは一等いっとうから出航しゅっこうまえ下船げせんして事故じこまぬかれた乗客じょうきゃく放言ほうげんによるところがだいで、青函せいかん局長きょくちょう乗組のりくみいん証言しょうげんによると連絡れんらくせんおくれた場合ばあいそなえた切符きっぷ手配てはい[ちゅう 13]をしていたので、船長せんちょう出航しゅっこう強要きょうようする必要ひつようはなかったと否定ひていしている[19]

洞爺とうやまる以外いがい事故じこ[編集へんしゅう]

当時とうじ函館はこだて港内こうないには8せき船舶せんぱくざいみなとしており、係留けいりゅうさく切断せつだん錨鎖びょうさ切断せつだんはしいかりなどの事態じたいとなったが、沈没ちんぼつまぬかれた。しかし港外こうがいいかりはく・踟蹰(ちちゅう)したふね9せきのうち、無事ぶじであったのは2せきのみで、2せき座礁ざしょう、5せき沈没ちんぼつした。その5せきは、洞爺とうやまるふくめてすべて青函せいかん連絡れんらくせんである。

洞爺とうやまるのほかにも、函館はこだて港外こうがい碇泊ていはくした僚船りょうせん北見きたみまる日高ひだかまる十勝とかちまる大雪おおゆきまるだいじゅういち青函せいかんまるだいじゅう青函せいかんまるの6せきでもおなじような状況じょうきょう発生はっせいして、石狩いしかりまる大雪おおゆきまるだいじゅう青函せいかんまる危機ききのがれた[ちゅう 14]ものの、の4せき函館はこだて港外こうがい相次あいついで転覆てんぷく沈没ちんぼつした(だいじゅういち青函せいかんまる転覆てんぷくしないまま船体せんたい破断はだん沈没ちんぼつ[ちゅう 15]開口かいこうである車両しゃりょう甲板かんぱん海水かいすい浸入しんにゅう滞留たいりゅうした場合ばあい機関きかんしつへの浸水しんすいふせれないという、気付きづきそうで気付きづかれることのなかった連絡れんらくせん構造こうぞうじょう問題もんだいりになった[ちゅう 16]

とくだいじゅういち青函せいかんまるは、戦時せんじ標準ひょうじゅんせんのため船体せんたい使用しようされていた材質ざいしつもろいうえに、事故じこ直前ちょくぜんの6がつから9がつにかけておこなわれた船底ふなそこ補強ほきょう工事こうじで、かえって船体せんたいゆが強度きょうど低下ていかしょうじさせたといわれ、大波おおなみけた衝撃しょうげき一気いっき船体せんたいが3つに破断はだんした。

また、遭難そうなんした5せき車両しゃりょう積載せきさいしていて、遭難そうなんのがれたふねそらせんだった。車両しゃりょう満載まんさいしていたことによって重心じゅうしんたかくなっていたのにくわえ、車両しゃりょう甲板かんぱん海水かいすい侵入しんにゅうはじめたさいに、車両しゃりょう甲板かんぱん開口かいこうしている機関きかんしつやボイラーしつへの換気かんきこう閉鎖へいさしようとしたが、車両しゃりょう邪魔じゃまをしてこれらの開口かいこう閉鎖へいさ完全かんぜんおこなえず、機関きかんしつとうへの浸水しんすいふせげなかったことが沈没ちんぼつ遠因えんいんとなっている。

当時とうじ函館はこだて湾内わんないなみ波長はちょう洞爺とうやまる水線すいせんちょう115.5mよりわずかにながやく120mであり、この場合ばあい車両しゃりょう甲板かんぱん流入りゅうにゅうするみずりょう極端きょくたん増大ぞうだいし、しかも排出はいしゅつされにくくなることがこう調査ちょうさ判明はんめいしている[20][21]。そのため、以後いご連絡れんらくせん防水ぼうすい徹底てっていさせるため車両しゃりょう積込つみこめこう防水ぼうすいとびら設置せっち、さらにのこった洞爺とうやまるがた3せきについては下部かぶ遊歩ゆうほ甲板かんぱんかくまど水密すいみつせいすぐれたまるまど交換こうかん石炭せきたんせきおろしよう開口かいこう閉鎖へいさするため燃料ねんりょう重油じゅうゆ転換てんかんはかられる。

  • だいじゅういち青函せいかんまる(2,851トン):1957ふん停電ていでんき、あと交信こうしんける」との通信つうしん最後さいご途絶とぜつのち波浪はろうによる船体せんたい破断はだんのため沈没ちんぼつ乗員じょういん90めい殉職じゅんしょく発見はっけん遺体いたいは44。全員ぜんいん死亡しぼうしたため正確せいかく時刻じこく不明ふめいだが殉職じゅんしょくしゃ時計とけいから20ごろ推定すいていされている[22]
  • 北見きたみまる(2,928トン):2235ふんかずらとうささえ灯台とうだいおきにて転覆てんぷく沈没ちんぼつ沈没ちんぼつ地点ちてんが8キロも沖合おきあいだったことから乗員じょういん70めい殉職じゅんしょく発見はっけん遺体いたい29。生存せいぞんしゃ6めい半数はんすう行方ゆくえ不明ふめい太平洋たいへいようながされたとられる[ちゅう 17][23]
  • 洞爺とうやまる(3,898トン):2243ふん七重浜ななえはまおき600mにて座礁ざしょうのち転覆てんぷく。2241ふんごろ、「SOS de JBEA 洞爺とうやまる函館はこだて港外こうがいあおとうより2678ケーブル航海こうかい用語ようごながさ・距離きょり単位たんい)の地点ちてん座礁ざしょう」と発信はっしんただちに「JBEA de JNI RRR SOS」と函館はこだて海保かいほきょく応答おうとう。「本船ほんせん、500kc(キロサイクル。当時とうじ無線むせん周波数しゅうはすう単位たんい現在げんざいキロヘルツ同一どういつ)にてSOS、よろしく」が最後さいご打電だでんとなった[24]乗客じょうきゃく乗員じょういん1,314めいちゅう1,155めい死亡しぼう生存せいぞんしゃ159めい[ちゅう 18][25]
  • にち高丸たかまる(2,932トン):2332ふんSOS打電だでんちゅう、2340ふん防波堤ぼうはてい灯台とうだい西方せいほう1.5kmにて転覆てんぷく沈没ちんぼつ乗員じょういん56めい殉職じゅんしょく発見はっけん遺体いたい2。生存せいぞんしゃ20めい最後さいご電文でんぶんは「SOS de JQLY(=にち高丸たかまる函館はこだて防波堤ぼうはてい灯台とうだいよりW9ケーブルの位置いちにて遭……(以下いか途絶とぜつ)」[26]
  • 十勝とかちまる(2,912トン):2343ふんかずらとうささえ灯台とうだいおき8kmにて転覆てんぷく沈没ちんぼつ乗員じょういん59めい殉職じゅんしょく[ちゅう 19]生存せいぞんしゃ17めい[27]

洞爺とうやまる以外いがいの4せき函館はこだて港外こうがいでの停泊ていはく選択せんたくした背景はいけいには、台風たいふうから避難ひなんする船舶せんぱく港内こうない混雑こんざつしていることもあったが、当時とうじ港内こうない係船けいせん浮標ふひょう(ムアリングブイ)に係船けいせんされていた貨物かもつせんエルネスト(アーネスト)ごうイタリア船籍せんせき・7,341トン)が1630ふんごろ港内こうないはしいかり事故じここしたことも背景はいけいにある[28]。このとき函館はこだて港内こうないにある船舶せんぱくでは最大さいだいだったエルネストごうは5月にメキシコから石炭せきたん輸送ゆそうちゅう室蘭むろらん座礁ざしょう事故じここして船底ふなそこ破損はそん函館はこだて回航かいこうスクラップ前提ぜんてい状態じょうたい係留けいりゅうされており、荒天こうてん操船そうせん必要ひつよう人員じんいんがいなかった。連絡れんらくせん船長せんちょうたちはエルネストごう再度さいどはしいかりしたときに、せま港内こうないでかわすことに不安ふあんかんじていたといわれている。

また、沈没ちんぼつにはいたらなかったものの、アメリカ海軍かいぐんLST-1きゅう戦車せんしゃ揚陸ようりくかんLST-546ごう(2,319トン)が座礁ざしょうしてなんのがれた、などの記録きろくのこっている[29]さら海難かいなん救助きゅうじょにあたっていた海上保安庁かいじょうほあんちょうはつなみがた巡視じゅんしてい「うらなみ」も遭難そうなんしている(乗員じょういん全員ぜんいん救助きゅうじょ[30]

一夜いちやにして遭難そうなんした5せきをあわせた犠牲ぎせいしゃ最終さいしゅうてきに1,430にんにものぼり、戦争せんそうによる沈没ちんぼつのぞけば、発生はっせい時点じてんでは1912ねんタイタニックごう沈没ちんぼつ1865ねんサルタナごう火災かさい世界せかいだい3の規模きぼ海難かいなん事故じこであった[ちゅう 20]ほかにも大雪おおゆきまるのように沈没ちんぼつこそしなかったものの航行こうこう不能ふのうとなったふねもあり、青函せいかん連絡れんらくせん終戦しゅうせん前後ぜんこう時期じきちか壊滅かいめつてき打撃だげきけた。まさに航路こうろ開設かいせつ以来いらい、また未曾有みぞうだい惨事さんじであった。

台風たいふうは、予想よそうことなり、渡島ととう半島はんとう通過つうかせず日本海にほんかいがわすすんで北海道ほっかいどう北西ほくせいがん接近せっきん、しかも速度そくどおおきくとしさらに発達はったつ南西なんせい開口かいこうした函館湾はこだてわんには、台風たいふう危険きけん半円はんえんないはいったこともあって暴風ぼうふう巨大きょだいなみ長時間ちょうじかんにわたって来襲らいしゅうすることになった。また、台風たいふうおもわれた台風たいふうまえにあった閉塞へいそく前線ぜんせん通過つうかによるものであった。しかし、この時代じだいにはまだ気象きしょう衛星えいせいはなく、気象きしょうレーダーはようやく一部いちぶ運用うんようたっした段階だんかいであり[ちゅう 21]、また、気象きしょう観測かんそく在日ざいにちアメリカぐんまかせであったために[ちゅう 22]、このような複雑ふくざつ気象きしょう現象げんしょうただしく観測かんそくし、予想よそうすることは非常ひじょう困難こんなんなことであった。また事故じこおこなわれた気象きしょうデータの解析かいせき困難こんなんをきわめることになった[ちゅう 23]

この特異とくい台風たいふうはそのにも西日本にしにほんやく300めい死者ししゃ行方ゆくえ不明ふめいすなど、各地かくち甚大じんだい被害ひがいのこしており、のちに「洞爺とうやまる台風たいふう」と命名めいめいされた。なお、閉塞へいそく前線ぜんせんにより一時いちじてきえたということから想像そうぞうされるように、近年きんねんでは事故じこ時点じてんでの洞爺とうやまる台風たいふうすで温帯おんたいてい気圧きあつになっていた可能かのうせいたかいと推定すいていされている。

海難かいなん審判しんぱん[編集へんしゅう]

1954ねん9月27にち函館はこだて地方ちほう海難かいなん審判しんぱん理事りじしょ理事りじかんが、重大じゅうだい海難かいなんとして高等こうとう海難かいなん審判しんぱん理事りじしょから応援おうえん調査ちょうさ開始かいし

10月1にち函館はこだて地方ちほう海難かいなん審判しんぱん理事りじしょ所長しょちょう中間ちゅうかん発表はっぴょう記者きしゃ会見かいけんで「調査ちょうさ結果けっか荒天こうてん準備じゅんび不十分ふじゅうぶんで、船長せんちょう過失かしつのにおいがくなった」と発表はっぴょうおなごろ最高さいこう検察庁けんさつちょうは「平常へいじょう経験けいけんからこの程度ていどでは航行こうこうできると判断はんだんして出航しゅっこうしたらしいので、業務ぎょうむじょう過失かしつにはならない。また船長せんちょう死亡しぼうしているので問題もんだいにならない」との見解けんかい発表はっぴょうした。

11月27にち函館はこだて地方ちほう海難かいなん審判しんぱん理事りじしょ函館はこだて地方ちほう海難かいなん審判しんぱんちょう洞爺とうやまるふくむ5せき沈没ちんぼつ事故じこについて審理しんり申立もうしたておこなう。

1955ねん2がつ15にち函館はこだて地方ちほう海難かいなん審判しんぱんちょうだいいちかい審理しんり開始かいし[ちゅう 24][31]受審じゅしんじんかくふね所属しょぞく乗組のりくみいん9めい事故じこ当時とうじ非番ひばんのものをふくむ)。指定してい海難かいなん関係かんけいじん日本にっぽん国有こくゆう鉄道てつどう総裁そうさいであった長崎ながさき惣之助そうのすけおよ青函せいかん鉄道てつどう管理かんり局長きょくちょう中央ちゅうおう気象台きしょうだいちょう函館はこだて海洋かいよう気象台きしょうだいちょう指名しめい。こののちのこった乗客じょうきゃく乗組のりくみいん青函せいかん局部きょくぶ課長かちょう造船ぞうせん技師ぎしなどを証人しょうにんとして審理しんりおこなわれた。

2がつ25にち東京大学とうきょうだいがく加藤かとうひろし教授きょうじゅらによる「洞爺とうやまるとう復元ふくげんせい鑑定かんていしょ」が提出ていしゅつ

  • 機関きかんしつとうへの漏水ろうすいによるエンジン停止ていし原因げんいんとなった車両しゃりょう甲板かんぱんへの海水かいすい滞留たいりゅうは、水槽すいそう実験じっけんにより波高はこう6m、なみ周期しゅうき9びょうのときに最大さいだいりょうとなることが判明はんめい[ちゅう 25]。この観測かんそくによる推定すいていとほぼおなじであった[32]
  • 車両しゃりょう甲板かんぱんじょうとどこお水量すいりょう試算しさんにより250トン以下いかとされ、復原力ふくげんりょくには影響えいきょうおよぼすものではないとされた[33]
  • 七重浜ななえはまでの転覆てんぷく水槽すいそうによる座州ざす実験じっけん結果けっか漂流ひょうりゅうちゅう右舷うげんビルジキール[ちゅう 26]が漂砂にっかかったため船体せんたいいちてん支持しじとなり、そこへ大波おおなみおそったために転覆てんぷくしたと推定すいていされた[34]

9月5にち理事りじかん受審じゅしんじん指定してい海難かいなん関係かんけいじんおよ海事かいじ補佐ほさじんによる最終さいしゅう弁論べんろん

9月22にち洞爺とうやまるについて函館はこだて地方ちほう海難かいなん審判しんぱんちょう裁決さいけつ言渡いいわたし主文しゅぶんは「船長せんちょう運航うんこうかんする職務しょくむじょう過失かしつ起因きいんして発生はっせいしたものであるが、船体せんたい構造こうぞうおよ連絡れんらくせん運航うんこう管理かんり適当てきとうでなかったこと一因いちいんである」とし、指定してい海難かいなん関係かんけいじん十河そごう信二しんじ [ちゅう 27]たいして勧告かんこくした。気象台きしょうだい青函せいかん鉄道てつどう管理かんり局長きょくちょうについては勧告かんこく見送みおくった。

12月21にち十勝とかちまるにち高丸たかまる北見きたみまるだいじゅういち青函せいかんまるについて函館はこだて地方ちほう海難かいなん審判しんぱんちょう裁決さいけつ言渡いいわたし十勝とかちまるにち高丸たかまる北見きたみまるについては洞爺とうやまる同様どうよう裁決さいけつとなった。だいじゅういち青函せいかんまるについては乗組のりくみいん全員ぜんいん死亡しぼうにより原因げんいん不明ふめいとされた。 これらにたい理事りじかん国鉄こくてつ双方そうほうからしん請求せいきゅう提出ていしゅつされる。

1956ねん4がつ6にち高等こうとう海難かいなん審判しんぱんちょうだいしん審理しんり開始かいし

1957ねん1がつ22にち、この審理しんり気象庁きしょうちょうから発表はっぴょうされた「昭和しょうわじゅうきゅうねん台風たいふうじゅうごう報告ほうこく」にたいする説明せつめいおこなわれ、国鉄こくてつがわからも質疑しつぎおこなう。

1959ねん2がつ9にちよんせきについては1960ねん3月15にち)、ほぼいちしん裁決さいけつ踏襲とうしゅうした裁決さいけつ発表はっぴょう。ただし、国鉄こくてつたいしてはすでに改善かいぜん措置そちがとられているとして勧告かんこくはなされなかった。

国鉄こくてつ内容ないよう不服ふふくとして東京とうきょう高等こうとう裁判所さいばんしょ裁決さいけつしをもとめて提訴ていそしたが、どう高裁こうさいは1960ねん8がつ3にち、「海難かいなん審判しんぱん裁決さいけつ意見いけん発表はっぴょうぎず、行政ぎょうせい処分しょぶんではない」としてうったえを却下きゃっか。8月15にち最高裁判所さいこうさいばんしょ上告じょうこくしたものの、1961ねん4がつ20日はつか上告じょうこく棄却ききゃくして裁決さいけつ確定かくていした。

審判しんぱん進行しんこうちゅうから殉職じゅんしょくした船長せんちょう弁明べんめい機会きかいのないまま一方いっぽうてき断罪だんざいされることについて疑問ぎもんする意見いけんていたが、その海難かいなん審判しんぱんちょうでは海難かいなん審判しんぱん制度せいど改革かいかく議論ぎろんなかで、「海難かいなん船長せんちょう殉職じゅんしょくした場合ばあい一言ひとこと弁明べんめい機会きかいもないまま裁決さいけつぶんに『職務しょくむじょう過失かしつ』と明記めいきされるのはいかがなものか」とされ、その船長せんちょう殉職じゅんしょくした海難かいなん事故じこでは裁決さいけつ理由りゆうなか船長せんちょうめいたとしても『船長せんちょう職務しょくむじょう過失かしつ』の語句ごく使用しようしないともうわされることとなった。

事故じこのその[編集へんしゅう]

この事故じこ教訓きょうくんとして既存きそん連絡れんらくせんへの改修かいしゅうほどこされ、船尾せんび車両しゃりょう積載せきさいこうへの水密すいみつとびら設置せっち下部かぶ遊歩ゆうほ甲板かんぱん旅客りょかくしつまど水密すいみつまるまどへの交換こうかん蒸気じょうき機関きかんへの重油じゅうゆ燃焼ねんしょう装置そうち自動じどうきゅうすみ設置せっち[ちゅう 28]きゃく車両しゃりょう渡船とせんだいじゅう青函せいかんまる石狩いしかりまる)の車両しゃりょう甲板かんぱんじょうにある旅客りょかくしつ撤去てっきょによる重心じゅうしん低下ていかとうおこなわれ、青函せいかん連絡れんらくせん運航うんこうについても、出航しゅっこう判断はんだんとう船長せんちょうによる決定けっていまかされていたものが船長せんちょう青函せいかんきょく指令しれいとの合議ごうぎせいになり、荒天こうてんには気象台きしょうだいとの連絡れんらく緊密きんみつにする、台風たいふうてい気圧きあつ通過つうか退避たいひさきわん開口かいこうしていて海峡かいきょう波浪はろうせやすい函館はこだてではなく、陸奥湾むつわんおくにあり波浪はろう影響えいきょうけにくい青森あおもりとするひとし改善かいぜん措置そちはかられた。

また、この事故じこ以降いこう新造しんぞうされる連絡れんらくせん船体せんたい構造こうぞうについても、しゅ機関きかんのディーゼルへの転換てんかん車両しゃりょう積載せきさいこうへの水密すいみつとびら採用さいよう車両しゃりょう甲板かんぱん旅客りょかく区画くかく廃止はいし機関きかんしつから車両しゃりょう甲板かんぱんへの開口かいこう全廃ぜんぱいしのげなみせい復元ふくげんせい向上こうじょうふね底部ていぶ水密すいみつ区画くかくおよ水密すいみつとびら設置せっち操舵そうだせい向上こうじょうのためのまいかじ採用さいようされるなど設計せっけいおおきく変更へんこうされ、それまでにもして安全あんぜんせいちかられられた。結果けっか、その1988ねんおわりこうまで、青函せいかん連絡れんらくせんで2洞爺とうやまる事故じこきゅうだい事故じこがおきることはなかった。

なお、この事故じこをきっかけに、本州ほんしゅう北海道ほっかいどう地続じつづきにする青函せいかんトンネル構想こうそう急速きゅうそく具体ぐたいされた。

浮揚ふようされ、みなと曳航えいこうされた洞爺とうやまる

洞爺とうやまる船体せんたい後日ごじつげられたが、げの遅延ちえんわざわいして上部じょうぶ構造こうぞう損傷そんしょういちじるしく、現場げんば検証けんしょう解体かいたいされた。また、だいじゅういち青函せいかんまる北見きたみまる解体かいたいされた。一方いっぽう十勝とかちまる日高ひだかまるは、車両しゃりょう甲板かんぱんより上部じょうぶ船体せんたいしんせい車両しゃりょう甲板かんぱんよりうえはすべてうしなわれていた)して1956ねん航路こうろ復帰ふっき日高ひだかまる1969ねん十勝とかちまる最後さいご蒸気じょうきタービンせんとして1970ねんまで使用しようされた。だいじゅういち青函せいかんまるから洞爺とうやまるえられたマイネフ38よく1955ねん7がつ等級とうきゅうせい変更へんこうによりマロネフ49となったものの、マロネフ49 5はげんくるま存在そんざいしない書類しょるいじょうだけのくるまごうとなった。おなじく洞爺とうやまるまれたスニ73 1、マニ76 91とも本船ほんせん保全ほぜん命令めいれいかれた同年どうねん10がつ正式せいしき廃車はいしゃ手続てつづきがられた。

慰霊いれい[編集へんしゅう]

洞爺とうやまる慰霊いれい北海道ほっかいどう北斗ほくと七重浜ななえはま

エピソード[編集へんしゅう]

  • たまたま洞爺とうやまるわせた3めい外国がいこくじんキリスト教きりすときょう宣教師せんきょうしディーン・リーパー (YMCA)[35]アルフレッド・ストーンメソジスト)、ドナルド・オース(メソジスト))の人道的じんどうてき活動かつどうつたわっている。リーパーが手品てじな子供こどもなごませたり、救命具きゅうめいぐせてやったりの行動こうどうがあったという。リーパーとストーンは遭難そうなんして、オースが奇跡きせきてきのこった[36]
  • 洞爺とうやまるには郵便ゆうびんぶつ積載せきさいされており、青森あおもり鉄道てつどう郵便ゆうびんきょく乗務じょうむいん乗務じょうむして船内せんない区分くぶん作業さぎょうおこなっていた。この事故じこにより鉄道てつどう郵便ゆうびん乗務じょうむいん4めい殉職じゅんしょくした[37]。また、北海道ほっかいどうから本州ほんしゅうけて輸送ゆそうちゅう郵便ゆうびんぶつ多数たすう破損はそんした。宛名あてなないしおくぬし判明はんめいした郵便ゆうびんぶつについては、事故じこ遭遇そうぐう遅延ちえんしたむね説明せつめいする付箋ふせんったうえで配達はいたつあるいは返送へんそうされ、そのなかにはクラッシュカバーとして現存げんそんしているものもある。
  • 国鉄こくてつ職員しょくいん殉職じゅんしょくもの遺体いたい捜索そうさくのちまわされ、乗客じょうきゃくのいなかった4せき潜水せんすいおっとはいったのは事故じこから10日とおか経過けいかしてからのことであった[38]
  • あきらかに自殺じさつをほのめかす遺書いしょたずさえた遺体いたいがり、投身とうしん自殺じさつ死亡しぼうしたのか、事故じこ死亡しぼうしたのかが問題もんだいとなった。最終さいしゅうてきには事故じこ死亡しぼうしたと判断はんだんされた[18]
  • 当時とうじ日本中央競馬会にっぽんちゅうおうけいばかい(JRA)所属しょぞく西塚にしづか十勝とかち調教ちょうきょう洞爺とうやまる乗船じょうせん予定よていだったが、直前ちょくぜん知人ちじんから湯ノ川ゆのかわ温泉おんせんでの宴会えんかいさそわれ、出席しゅっせきしてふねりそびれたため結果けっかてき命拾いのちびろいしている。西塚にしづかはこのほかにも関東大震災かんとうだいしんさいばんだいごう墜落ついらくホテルニュージャパン火災かさいなど様々さまざま事故じこ災害さいがい遭遇そうぐうしながらすべてすんでのところなんのがれており、「厄除やくよ大師だいし」と綽名された。
  • 洞爺とうやまるなど青函せいかん連絡れんらくせん5せき沈没ちんぼつだい海難かいなん事故じこたいし、各国かっこくから弔電ちょうでんせられた[39]
  • 昭和しょうわ天皇てんのう事件じけんいちカ月かげつまえ戦後せんご巡幸じゅんこうそう仕上しあげとして洞爺とうやまる津軽海峡つがるかいきょうわたり、北海道ほっかいどうおとずれていた。天皇てんのうほん事故じこ発生はっせいほう悲嘆ひたんおもいをち『そのらせ かなしくきて わざはひを ふせぐそのみち やましくとこそいの』と御製ぎょせい和歌わか)をんだ[40]

ほん事故じこ題材だいざいとした作品さくひん[編集へんしゅう]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

  1. ^ これは岩波書店いわなみしょてん岩波いわなみ総合そうごう年表ねんぴょうもしくはほん記事きじ末尾まつびしめした参考さんこう文献ぶんけん洞爺とうやまる転覆てんぷくなぞ』に記載きさいされている数字すうじであり、ほかにも公的こうてき機関きかん発表はっぴょう新聞しんぶんしゃ年鑑ねんかんなどの文献ぶんけんにおいて1139にん、1153にん、1171にん、1175にんなど様々さまざま数字すうじ存在そんざいしている。本文ほんぶんにてれるほか連絡れんらくせん4せき合計ごうけい犠牲ぎせいしゃすうについても同様どうようである。
  2. ^ 近藤こんどうさんとう運転うんてん当時とうじ航海こうかい運転うんてんんだ)のころから気象きしょう関心かんしんつよく、みずか天気てんきいて船長せんちょう一等いっとう運転うんてんせてまわっていたことから「天気てんき」のあだがあったという。事故じこ当日とうじつ本来ほんらい洞爺とうやまる船長せんちょう休暇きゅうか取得しゅとくしたため、近藤こんどう交代こうたい乗務じょうむしていた。
  3. ^ なみ」とは波浪はろう階級かいきゅうのことで8は「非常ひじょうれている」をしめ波高はこう9 - 14mとなる。通常つうじょう航海こうかいでは最高さいこうランクにたる9(「異常いじょう状態じょうたい」)はなく、洞爺とうやまる沈没ちんぼつ直前ちょくぜん打電だでんしたときでも8であった。動揺どうようも20すとなにかにつかまっていないとっていられない。
  4. ^ 実際じっさいに1440ふん青森あおもり出航しゅっこうした十勝とかちまるは1850ふんごろ函館はこだて港外こうがい碇泊ていはくしている。
  5. ^ 函館はこだて海洋かいよう気象台きしょうだいでも「台風たいふう」を観測かんそくしたとして札幌さっぽろ管区かんく気象台きしょうだい通報つうほうしている。
  6. ^ 一方いっぽう羊蹄丸ようていまる船長せんちょうは、ふうよわくなったのは台風たいふうはいったことにるとて、出航しゅっこう延期えんきした。結果けっかとして羊蹄丸ようていまる沈没ちんぼつまぬかれている。
  7. ^ 最初さいしょ気象きしょう衛星えいせいは1960ねんアメリカ試験しけんてきげた「タイロス1ごう」である。
  8. ^ 函館はこだてこう天然てんねん良港りょうこうであり、地勢ちせいてきおくまっているため、通常つうじょう波浪はろうおだやかである。だが、南南西なんなんせい方角ほうがくのみは日本海にほんかいけてひらいており、「対岸たいがん能登半島のとはんとう」とも表現ひょうげんされる状態じょうたいとなっている(『洞爺とうやまる転覆てんぷくなぞ』p.17)。つまり、南南西なんなんせい強風きょうふういた場合ばあい日本海にほんかい中部ちゅうぶ発生はっせいした大波おおなみがまともに函館はこだてわん進入しんにゅうすることになる(浅井あさいさかえ巻島まきしまつとむ 『気象きしょう海象せいうち』 天然てんねんしゃ 1963ねん初版しょはん<)。
  9. ^ 洞爺とうやまる粉末ふんまつした石炭せきたん人力じんりきでボイラーに投入とうにゅうしていた。
  10. ^ 打電だでんされた地点ちてん水深すいしん海図かいずじょうでは12mある(洞爺とうやまる喫水きっすいは5m)ことから座礁ざしょう自体じたい想像そうぞうできないことであり(波浪はろうのため海底かいていすな堆積たいせきしていたとおもわれる)、ましてや座礁ざしょうしてそこしている船舶せんぱくがさらに横倒よこだおしになるとは、想像そうぞうできなかった。
  11. ^ 七重浜ななえはまえきから救難きゅうなん本部ほんぶ遭難そうなんしゃ漂着ひょうちゃく報告ほうこくはいったのは2315ふんごろ偶然ぐうぜん付近ふきんとおりかかった運送うんそう会社かいしゃトラック生存せいぞんしゃせて万代ばんだいまち交番こうばんとどたのが2335ふんごろけた警官けいかん最初さいしょ洞爺とうやまるってのは青函せいかん連絡れんらくせんだろう。あのふねしずむことがあるものか。いい加減かげんなことをうと承知しょうちしないぞ」とったといわれる。また、洞爺とうやまる隣接りんせつするかたちだいろく真盛しんぜいまる(2209トン、大阪おおさかはら商船しょうせん所属しょぞく)が座礁ざしょうしたが、暴風ぼうふうによるアンテナせん切断せつだんによりふねのSOSの送信そうしん洞爺とうやまるのSOSも受信じゅしんできず、洞爺とうやまる沈没ちんぼつったのは非常ひじょう配置はいちちゅう船員せんいん最初さいしょ救助きゅうじょしたとう機関きかん乗客じょうきゃくかく1めいからであった。その暴風ぼうふうなかアンテナせんえに成功せいこうし、018ふん石狩いしかりまるつうじて救難きゅうなん本部ほんぶ通報つうほう。20めい救助きゅうじょしている。
  12. ^ 浅井あさいそう支配人しはいにんいちぎょうおな国鉄こくてつ本社ほんしゃでの会議かいぎ参加さんか予定よていではあったが、都合つごうにより洞爺とうやまるでは同行どうこうせず後続こうぞく便びんでの上京じょうきょう予定よていしていた。
  13. ^ 出航しゅっこう見通みとおしが不明ふめいだったため青森あおもり520ふんはつ急行きゅうこう「みちのく」特別とくべつとうと1840ふんはつ急行きゅうこう1202列車れっしゃ(「特殊とくしゅ列車れっしゃ」)一等いっとう寝台しんだいだんかまえの手配てはいをするとともに、千歳ちとせはつ航空機こうくうき検討けんとうしていた。
  14. ^ 沈没ちんぼつまぬかれたとはいえ単独たんどくでは航海こうかい不能ふのうとなってしまい、ドックり・修理しゅうり航行こうこうきょうすることが出来できるまでに数日すうじつようした。
  15. ^ 摩周ましゅうまる浦賀うらが船渠せんきょ定期ていき検査けんさでドックりしていたことから台風たいふう遭遇そうぐうせず、事故じこのち検査けんさはやめさせて事故じこから1かげつ青函せいかん航路こうろ復帰ふっきした。
  16. ^ これまではどんな荒天こうてんでも、車両しゃりょう甲板かんぱん入口いりくち付近ふきんらす程度ていどしか海水かいすい侵入しんにゅうがなかったため、経験けいけんそくとして車両しゃりょう甲板かんぱん全体ぜんたい海水かいすい滞留たいりゅうする事態じたいかんがえられていなかった。
  17. ^ 後日ごじつ襟裳岬えりもみさきおき宮古みやこおき遺体いたい発見はっけんされている。
  18. ^ 内訳うちわけは、乗客じょうきゃく1,151めいちゅう1,041めい死亡しぼうべいぐん関係かんけいしゃ含)、発見はっけん遺体いたい33、生存せいぞんしゃ110めい乗員じょういん111めいちゅう73めい殉職じゅんしょく発見はっけん遺体いたい3。生存せいぞんしゃ18めい
  19. ^ 発見はっけん遺体いたいし。
  20. ^ 2017ねん時点じてんではドニャ・パスごう諸説しょせつあり)、ジョラごう戦争せんそうにより沈没ちんぼつした船舶せんぱくではヴィルヘルム・グストロフゴヤ)などの犠牲ぎせいしゃすう上回うわまわっている。
  21. ^ 日本にっぽんはつ気象きしょうレーダーが大阪管区気象台おおさかかんくきしょうだい設置せっちされたのは、この事故じここるわずか25にちまえ9月1にちのことである。また洞爺とうやまる事故じこより7にちまえ関東かんとう地方ちほう上陸じょうりくした台風たいふうだい14ごうたいし、気象きしょう研究所けんきゅうじょのレーダーが台風たいふうをとらえている。
  22. ^ アメリカぐんボーイングB-29などの大型おおがた飛行機ひこうき改装かいそうして台風たいふう中心ちゅうしん進入しんにゅうさせて気圧きあつ風速ふうそく観測かんそくおこなっていた。危険きけんではあるが実測じっそくられるため現在げんざいでも北大西洋きたたいせいようのハリケーンにたいしておこなわれているが、きた太平洋たいへいよう台風たいふうたいしては予算よさん削減さくげんのため1987ねんから中止ちゅうしされている。日本にっぽんには現在げんざいいたるまで気象きしょう観測かんそくはない。
  23. ^ 最終さいしゅうてき気象きしょう状況じょうきょう解析かいせきには2ねんようしたという記録きろくがある
  24. ^ 当時とうじ函館はこだて地方ちほう海難かいなん審判しんぱんちょうきゅう函館はこだて公会堂こうかいどううちかれており、海難かいなん審判しんぱんについてもどう公会堂こうかいどうにておこなわれた。
  25. ^ つまり、洞爺とうやまるにとってまさしく最悪さいあくなみであった。
  26. ^ 船首せんしゅから船尾せんびにかけて船底ふなそこりょうふなばたもうけられるひれであるが、洞爺とうやまるのものはながさ43m、はば60cm、あつ16mmじゅうろくみりである。
  27. ^ 洞爺とうやまる事故じこ翌年よくねん(1955ねん)5がつ発生はっせいした紫雲しうんまる事故じこ引責いんせき辞任じにんした長崎ながさき惣之助そうのすけ後任こうにん日本にっぽん国有こくゆう鉄道てつどう総裁そうさい
  28. ^ 大雪おおゆきまる摩周ましゅうまるとう車載しゃさい客船きゃくせんについてはボイラー燃料ねんりょう重油じゅうゆ転換てんかんによる重油じゅうゆ燃焼ねんしょう装置そうち設置せっち青函せいかんまる石狩いしかりまるといった車両しゃりょう渡船とせんについては自動じどうきゅうすみ設置せっち
  29. ^ 殉職じゅんしょく船員せんいんについては空襲くうしゅうによる戦没せんぼつ船員せんいんとともに函館はこだて山麓さんろくの「青函せいかん連絡れんらくせん海難かいなんしゃ殉難じゅんなん」に合祀ごうしされている。

出典しゅってん[編集へんしゅう]

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  22. ^ 洞爺とうやまる転覆てんぷくなぞ』p.64 - p.65 、p129 じゅうしょうまる乗員じょういん沈没ちんぼつ瞬間しゅんかん目撃もくげきしていたとされる。
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  36. ^ 洞爺とうやまる転覆てんぷくなぞ』p.72、p.80
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  38. ^ 洞爺とうやまる転覆てんぷくなぞ』p.107 - 108
  39. ^ 洞爺とうやまる転覆てんぷくなぞ』p.119
  40. ^ トンネルメモリアルパーク”. 北海道ほっかいどう松前まさきぐん福島ふくしままち. 2019ねん8がつ25にち閲覧えつらん
  41. ^ 映倫えいりんデータベース『あゝ洞爺とうやまる

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

  • 上前うわまえじゅん一郎いちろう洞爺とうやまるはなぜしずんだか』文藝春秋ぶんげいしゅんじゅう(1980ねんISBN 978-4163363004 絶版ぜっぱん
    • どう洞爺とうやまるはなぜしずんだか』文春ぶんしゅん文庫ぶんこ(1983ねんISBN 978-4167248048
  • 坂本さかもと幸四郎こうしろう青函せいかん連絡れんらくせん朝日あさひイブニングニュースしゃ(1983ねんISBN 978-4022191212 絶版ぜっぱん
    • どう青函せいかん連絡れんらくせんものがたり』朝日あさひ文庫ぶんこ(1987ねんISBN 978-4022604767 上記じょうき改訂かいていばん
    • どう『わが青春せいしゅん青函せいかん連絡れんらくせん光人みつひとしゃ(1989ねんISBN 978-4769804420
  • 金丸かねまる大作だいさく写真しゃしんしゅう 青函せいかん連絡れんらくせん朝日あさひイブニングニュースしゃ(1984ねんISBN 978-4022191359 絶版ぜっぱん
    • どう青函せいかん連絡れんらくせん記録きろく生活せいかつ情報じょうほうセンター(2006ねんISBN 978-4861262708 上記じょうき改訂かいていばん
  • 福井ふくい銈喜『洞爺とうやまる沈没ちんぼつ32ねん真実しんじつ海難かいなん審判しんぱん裁決さいけつは、やはり間違まちがっている』四海しかい書房しょぼう(1986ねんISBN 978-4915629136
  • 田中たなか正吾しょうご青函せいかん連絡れんらくせん洞爺とうやまる転覆てんぷくなぞ成山なりやまどう書店しょてん(1998ねん絶版ぜっぱん
    • どう青函せいかん連絡れんらくせん洞爺とうやまる転覆てんぷくなぞ成山なりやまどう書店しょてん(2006ねんISBN 978-4425771028 上記じょうき改訂かいていばん
  • しの 輝久てるひさのこされたもの -ディーン・リーパー物語ものがたり-』リブリオ出版しゅっぱん、1989ねん12がつ20日はつか

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]