洞爺 丸 事故
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経緯 [編集 ]
1954
- 6
時 30分 下 り3便 として青森 第 1岸壁 を出航 。- 11
時 05分 函館 港 に入 航 し鉄道 桟橋 第 1岸 (函館 駅 参照 )に到着 。折 り返 し上 り4便 として14時 40分 に出航 するまで待機 [1]。船長 の近 藤平 市 [注 2]は、台風 接近 前 に陸奥湾 に入 り、青森 に到着 する見通 しを立 てていた。- 11
時 30分 台風 接近 のため、函館 海洋 気象台 が暴風 警報 を発表 [2]。- 12
時 40分 頃 函館 から青森 へ向 かっていた62便 (貨物 便 )渡島 丸 より、津軽海峡 中央 から「風速 25メートル、波 8、うねり6、動揺 22度 [注 3]、針路 南東 で難航 中 」との通報 が入 る。危険 を感 じた後続 の54便 (貨物 便 )第 六 青函 丸 と1202便 (客 貨便)第 十 一 青函 丸 は、津軽海峡 に差 し掛 かったところで運航 を中止 し、函館 へ引 き返 した[3][4][5]。- 15
時 10分 第 十 一 青函 丸 の乗客 (アメリカ軍 関係 者 57名 、日本人 119名 [6])と車両 (1等 寝台 車 マイネフ38 5、荷物 車 マニ32 16[7][8][9])を洞爺 丸 へ移乗 させることになったが、荷物 車 の積込 みに時間 がかかっていた。これ以上 遅 れると、台風 が来 るまでに陸奥湾 内 へ逃 げ込 めなくなるため[10]、これ以上 の車両 積込 を拒否 して船尾 の可動 橋 (車両 を載 せるために船体 後部 にかけられる橋 )を上 げようとした。しかし、この日 は函館 市 内 で断続 的 に発生 していた停電 のために可動 橋 が上 がらず、出港 の見通 しが一時 的 に立 たなくなったため、台風 接近 の影響 も考慮 して運航 を見合 わせた。停電 はわずか2分間 であったが、出航 見合 わせの決定 は取 り消 されず[11]、引 き続 き寝台 車 の積込 みが行 われた。もしこのとき出港 していれば、難航 はしただろうが洞爺 丸 は間違 いなく無事 に青森 に着 いていたであろうと言 われている[注 4][12]。- 17
時 00分 頃 函館 では土砂降 りの後 に風 が収 まり晴 れ間 ものぞき、台風 の目 が通過 したことを思 わせた[注 5]。当時 の函館 海洋 気象台 の観測 では気圧 は983.3ミリバールで、中央 気象台 の発表 した台風 の中心 気圧 より高 かったが、風速 は15時 に19.4メートルに達 したのち衰 え、17時 には17.3メートル、18時 にはさらに13.7メートルに弱 まっている[13]。近藤 船長 は、台風 の速度 から天候 の回復 は早 いものになるとみて、津軽海峡 の気象 状況 を検討 した結果 、自身 の気象 判断 に絶対 の自信 を持 っていたことで出航 を決断 した。17時 40分 頃 、出航 時刻 を18時 30分 とすることを発表 した[1][注 6]。しかし、この一時 的 な天候 回復 は台風 の目 に入 った影響 ではなく、実際 には閉塞 前線 の通過 であったと考 えられている[14]。事故 当時 は、気象 衛星 の観測 やコンピューターを使 ったデータ解析 による予報 は存在 しなかったことにも留意 する必要 がある[注 7]。- 18
時 25分 頃 洞爺 丸 は昇 橋 したものの、引 き船 5隻 を用 いて着岸 に難渋 していた石狩 丸 が係留 し終 わるのを待 ってから離 岸 し[1]、18時 39分 に青森 へ向 けて遅 れ4便 として出航 した。乗員 乗客 は合 わせて1,314人 が乗船 していた。出航 して間 もなく、南南西 からの風 が著 しく強 くなった[注 8]。洞爺 丸 は、18時 55分 頃 に函館 港 防波堤 西 出入口 を通過 した。- 19
時 00分 頃 港外 に出 た直後 から猛烈 な風浪 に襲 われたため、近藤 船長 は投錨 し仮泊 することを決断 。風下 に圧 流 されたことから西向 きに針路 をとった後 、19時 01分 に荒天 が収 まるのを待 つために函館 港 防波堤 灯台 付近 の海上 (真方 位 300度 0.85海里 )に投錨 し仮泊 を開始 した[1]。この頃 、札幌 管区 気象台 19時 発表 の台風 情報 を無線 室 が受信 し船長 に報告 した。寿都 西方 50キロメートルの海上 を北 北東 に進行 中 との内容 に、台風 が過 ぎ去 ったと判断 していた船長 は違和感 を覚 える[15]。気象台 はこのとき台風 の速度 が急 に落 ちていたことを把握 できていなかった。実際 の台風 の位置 は、函館 湾 と同 緯度 の渡島 半島 西方 海上 を過 ぎたところで、寿都 西方 50キロメートルに到達 したのは約 2時 間 後 の21時 頃 であった[16]。やがて平均 して40メートル、瞬間 的 には50メートルを超 える南西 方向 からの暴風 と猛烈 な波浪 のために洞爺 丸 は走 錨 をはじめる。また、船尾 車両 搭載 口 より進入 した海水 が客 貨車 甲板 に滞留 し、水密 が不完全 な構造 だった車輌 甲板 からボイラー室 、機関 室 への浸水 が発生 し、蒸気 ボイラーへの石炭 投入 が困難 になった[注 9]。- 20
時 30分 頃 車両 甲板 上 へ奔入する海水 量 の増加 と船体 の動揺 により、船員 は甲板 からの引上 げを余儀 なくされる[1]。開口 部 から機関 室 や缶 室 (ボイラー室 )などへの浸水 は進 み、発電 機 は次々 に運転 不能 となるとともにビルジ(船底 に溜 まる汚水 のこと)の排出 もできなくなり、21時 50分 頃 に左舷 主 機 、22時 5分 頃 には右舷 主 機 が運転 不能 となった[1]。両 舷 主 機 の停止 で操船 の自由 を失 った洞爺 丸 は沈没 を避 けるため、遠浅 の砂浜 である七重浜 への座礁 を決 め、22時 12分 頃 に「機関 故障 により航行 不能 となったため七 重 浜 に座礁 する」と乗客 に報 じた。- 22
時 15分 船長 は、旅客 に対 して救命胴衣 を着用 するよう事務 長 を通 じて指示 を出 した[1]。- 22
時 26分 頃 海岸 まであと数 百 メートルの函館 港 第 三 防波堤 灯 柱 付近 の地点 (267°、0.8海里 、距岸約 0.6海里 、水深 12.4m、底 質 砂 )において、後部 船尾 が3回 ほど軽 く撞触し座礁 、船体 は右舷 に45度 傾斜 した[1]。乗組 員 は座礁 によって転覆 の危険 は回避 されたと考 え、乗客 にもその旨 を伝達 したが、実際 は船体 が安定 せず波浪 によってさらに右 傾斜 を増 していった。座礁 の報告 を受 けて青函 鉄道 管理 局 (青函 局 )は救難 本部 の設置 を決定 。補助 汽船 4隻 (いずれも150トン程度 )を現場 に向 わせるが、激 しい波浪 により活動 を断念 した。- 22
時 39分 洞爺 丸 はSOSを発信 する。しかし陸上 の関係 者 は、このSOSは座礁 したことによって発信 されたものであるとは理解 できず、沈没 にまで至 ることを予想 することはできなかった[注 10]。- 22
時 43分 頃 船体 を支 えていた左舷 錨鎖 が激 しい波浪 に耐 えきれず断 裂 した。この時点 で船体 は復原力 を失 っていたとされるが、ビルジキール(船底 の横 揺 れ防止 フィン)が乗 り上 げた海底 の砂 に刺 さったためであるともいわれている。この時 に船体 は大波 を受 けて横倒 しとなり、満載 した客 貨車 の倒 れる轟音 とともに転覆 した。機関 停止 後 もボイラーは最後 まで焚火 (ふんか)を続 け、船内 の灯 りは沈没 5分 前 まで点燈 していた。- 22
時 45分 頃 洞爺 丸 は、函館 港 防波堤 灯台 付近 の地点 (337°、2500m)で右舷 側 に約 135度 傾斜 、船底 を上 にし、七重浜 の海岸 線 に対 して船体 を平行 の状態 にして沈没 するに至 った[1]。最後 には船体 がほぼ裏返 しになり、海面 上 に船底 を曝 し、海底 に煙突 が刺 さった状態 になったといい、この洞爺 丸 だけでも乗員 乗客 1,314人 のうち、乗員 114人 、乗客 1,041人 の計 1155人 が死亡 または行方 不明 となった。救助 された生存 者 は159人 だった。
乗客 [編集 ]
この
なお、
洞爺 丸 以外 の事故 [編集 ]
また、
第 十 一 青函 丸 (2,851トン):19時 57分 「停電 に付 き、後 で交信 を受 ける」との通信 を最後 に途絶 。後 に波浪 による船体 破断 のため沈没 。乗員 90名 殉職 。未 発見 遺体 は44。全員 が死亡 したため正確 な時刻 は不明 だが殉職 者 の時計 から20時 頃 と推定 されている[22]。北見 丸 (2,928トン):22時 35分 葛 登 支 灯台 沖 にて転覆 沈没 。沈没 地点 が8キロも沖合 だった事 から乗員 70名 殉職 、未 発見 遺体 29。生存 者 6名 。半数 は行方 不明 で太平洋 に流 されたと見 られる[注 17][23]。洞爺 丸 (3,898トン):22時 43分 七重浜 沖 600mにて座礁 。後 に転覆 。22時 41分 頃 、「SOS de JBEA洞爺 丸 、函館 港外 青 灯 より267度 8ケーブル(航海 用語 で長 さ・距離 の単位 )の地点 に座礁 」と発信 、直 ちに「JBEA de JNI RRR SOS」と函館 海保 局 が応答 。「本船 、500kc(キロサイクル。当時 の無線 周波数 単位 で現在 のキロヘルツと同一 )にてSOS、よろしく」が最後 の打電 となった[24]。乗客 ・乗員 1,314名 中 1,155名 死亡 、生存 者 159名 [注 18][25]。日 高丸 (2,932トン):23時 32分 SOSを打電 中 、23時 40分 防波堤 灯台 西方 1.5kmにて転覆 沈没 。乗員 56名 殉職 、未 発見 遺体 2。生存 者 20名 。最後 の電文 は「SOS de JQLY(=日 高丸 )函館 防波堤 灯台 よりW9ケーブルの位置 にて遭……(以下 途絶 )」[26]十勝 丸 (2,912トン):23時 43分 葛 登 支 灯台 沖 8kmにて転覆 沈没 。乗員 59名 殉職 [注 19]、生存 者 17名 [27]。
また、
この
海難 審判 [編集 ]
1954
10月1
11月27
1955
2
機関 室 等 への漏水 によるエンジン停止 の原因 となった車両 甲板 への海水 の滞留 は、水槽 実験 により波高 6m、波 周期 9秒 のときに最大 量 となることが判明 [注 25]。この値 は観測 による推定 値 とほぼ同 じであった[32]。車両 甲板 上 の滞 水量 は試算 により250トン以下 とされ、復原力 には影響 を及 ぼすものではないとされた[33]。七重浜 での転覆 は水槽 による座州 実験 の結果 、漂流 中 に右舷 ビルジキール[注 26]が漂砂に引 っかかったため船体 が一 点 支持 となり、そこへ大波 が襲 ったために転覆 したと推定 された[34]。
9月5
9月22
12月21
1956
1957
1959
事故 のその後 [編集 ]
この
また、この
なお、この
慰霊 碑 [編集 ]
台風 海難 者 慰霊 之 碑 。北海道 北斗 市 七重浜 7丁目 。事故 の翌年 に犠牲 者 を悼 む慰霊 碑 [注 29]が建 てられ、現在 も海峡 を行 く船 を静 かに見守 っている。青函 連絡 船 海難 者 殉難 碑 。函館 護国 神社 の近 く、函館 山登 山道 口 付近 にあり、もとは戦時 中 に殉職 した職員 の霊 を慰 めるために 1953年 (昭和 28年 )に建立 されたものだが、洞爺 丸 台風 での殉職 者 も後 に合祀 されている。洞爺 丸 遭難 者 慰霊 碑 。青森 市 の三 内 霊園 に青森 県民 の遭難 者 と青函 トンネル事故 殉職 者 が合祀 されている。
エピソード[編集 ]
- たまたま
洞爺 丸 に乗 り合 わせた3名 の外国 人 キリスト教 宣教師 (ディーン・リーパー (YMCA)[35]、アルフレッド・ストーン(メソジスト)、ドナルド・オース(メソジスト))の人道的 な活動 が伝 わっている。リーパーが手品 で子供 を和 ませたり、救命具 を着 せてやったりの行動 があったという。リーパーとストーンは遭難 死 して、オースが奇跡 的 に生 き残 った[36]。 洞爺 丸 には郵便 物 が積載 されており、青森 鉄道 郵便 局 の乗務 員 が乗務 して船内 で区分 作業 を行 っていた。この事故 により鉄道 郵便 乗務 員 4名 が殉職 した[37]。また、北海道 から本州 に向 けて輸送 中 の郵便 物 が多数 破損 した。宛名 ないし送 り主 が判明 した郵便 物 については、事故 に遭遇 し遅延 した旨 を説明 する付箋 を貼 ったうえで配達 あるいは返送 され、その中 にはクラッシュカバーとして現存 している物 もある。国鉄 職員 の殉職 者 の遺体 捜索 は後 に回 され、乗客 のいなかった4隻 に潜水 夫 が入 ったのは事故 から10日 を経過 してからのことであった[38]。明 らかに自殺 をほのめかす遺書 を携 えた遺体 が揚 がり、投身 自殺 で死亡 したのか、事故 で死亡 したのかが問題 となった。最終 的 には事故 で死亡 したと判断 された[18]。当時 日本中央競馬会 (JRA)所属 の西塚 十勝 調教 師 も洞爺 丸 に乗船 予定 だったが、直前 に知人 から湯ノ川 温泉 での宴会 に誘 われ、出席 して船 に乗 りそびれたため結果 的 に命拾 いしている。西塚 はこの他 にも関東大震災 ・ばんだい号 墜落 ・ホテルニュージャパン火災 など様々 な事故 ・災害 に遭遇 しながら全 てすんでの所 で難 を逃 れており、「厄除 け大師 」と綽名された。洞爺 丸 など青函 連絡 船 5隻 沈没 の大 海難 事故 に対 し、各国 から弔電 が寄 せられた[39]。昭和 天皇 は事件 の一 カ月 前 、戦後 巡幸 の総 仕上 げとして洞爺 丸 で津軽海峡 を渡 り、北海道 を訪 れていた。天皇 は本 事故 発生 の報 に悲嘆 の思 いを持 ち『その知 らせ悲 しく聞 きて わざはひを ふせぐその道 疾 くとこそ祈 れ』と御製 (和歌 )を詠 んだ[40]。
本 事故 を題材 とした作品 [編集 ]
飢餓 海峡 (水上 勉 の小説 。「層雲 丸 」として登場 。内田吐夢 監督 により映画 化 )虚無 への供物 (中井 英夫 の推理 小説 )氷点 (三浦 綾子 の小説 。作中 で主人公 の家族 が洞爺 丸 に乗船 し、事故 に遭遇 する)洞爺 丸 はなぜ沈 んだか(上前 淳 一郎 のノンフィクション小説 )青函 連絡 船 洞爺 丸 転覆 の謎 (連絡 船 乗務 員 ・運航 管理 者 を勤 めた田中 正吾 によるドキュメント)- あゝ
洞爺 丸 (1954年 に公開 された東映 製作 の映画 。監督 は小沢 茂弘 [41]。) - うしおととら(
藤田 和 日 郎 の漫画 作品 。本 事故 をモチーフとする「勇 雪 丸 沈没 事故 」が登場 する) - わが
家 の歴史 尋 ね人 (谷村 志穂 の小説 。作中 で主人公 の母 のかつての恋人 が洞爺 丸 に乗船 し、事故 に遭遇 する)烈風 のレクイエム(熊谷 達也 の小説 。洞爺 丸 は実名 で登場 。主人公 は乗船 するも奇跡 的 に生還 する潜水 夫 )残 されたもの -ディーン・リーパー物語 -(篠 輝久 によるノンフィクション。洞爺 丸 事故 がディーン・リーパー宣教師 を主体 にして描 かれている)- ザ・シェフ(
原作 剣 名 舞 作画 加藤 唯 史 の漫画 作品 。単行本 22巻 MENU④に本 事故 をモチーフとする津軽海峡 冬 景色 が収録 )
脚注 [編集 ]
注釈 [編集 ]
- ^ これは
岩波書店 の岩波 総合 年表 もしくは本 記事 末尾 に示 した参考 文献 『洞爺 丸 転覆 の謎 』に記載 されている数字 であり、他 にも公的 機関 の発表 や新聞 社 ・年鑑 などの文献 において1139人 、1153人 、1171人 、1175人 など様々 な数字 が存在 している。本文 にて触 れる他 の連絡 船 4隻 合計 の犠牲 者 数 についても同様 である。 - ^
近藤 は三 等 運転 士 (当時 は航海 士 を運転 士 と呼 んだ)の頃 から気象 に関心 が強 く、自 ら天気 図 を書 いて船長 や一等 運転 士 に見 せて回 っていたことから「天気 図 」のあだ名 があったという。事故 当日 は本来 の洞爺 丸 船長 が休暇 を取得 したため、近藤 が交代 で乗務 していた。 - ^ 「
波 」とは波浪 階級 のことで8は「非常 に荒 れている」を示 し波高 9 - 14mとなる。通常 航海 では最高 ランクに当 たる9(「異常 な状態 」)はなく、洞爺 丸 が沈没 直前 に打電 したときでも8であった。動揺 も20度 を超 すと何 かに掴 まっていないと立 っていられない。 - ^
実際 に14時 40分 に青森 を出航 した十勝 丸 は18時 50分 頃 函館 港外 に碇泊 している。 - ^
函館 海洋 気象台 でも「台風 の目 」を観測 したとして札幌 管区 気象台 に通報 している。 - ^
一方 、羊蹄丸 の船長 は、風 が弱 くなったのは台風 の目 に入 ったことに由 ると見 て、出航 を延期 した。結果 として羊蹄丸 は沈没 を免 れている。 - ^
最初 の気象 衛星 は1960年 にアメリカが試験 的 に打 ち上 げた「タイロス1号 」である。 - ^
函館 港 は天然 の良港 であり、地勢 的 に奥 まっているため、通常 、波浪 は穏 やかである。だが、南南西 の方角 のみは日本海 に向 けて開 いており、「対岸 は能登半島 」とも表現 される状態 となっている(『洞爺 丸 転覆 の謎 』p.17)。つまり、南南西 の強風 が吹 いた場合 、日本海 中部 で発生 した大波 がまともに函館 湾 に進入 することになる(浅井 栄 資 ・巻島 勉 『気象 と海象 』天然 社 1963年 初版 <)。 - ^
洞爺 丸 は粉末 化 した石炭 を人力 でボイラーに投入 していた。 - ^
打電 された地点 の水深 は海図 上 では12mある(洞爺 丸 の喫水 は5m)ことから座礁 自体 が想像 できないことであり(波浪 のため海底 に砂 が堆積 していたと思 われる)、ましてや座礁 して着 底 している船舶 がさらに横倒 しになるとは、想像 できなかった。 - ^
七重浜 駅 から救難 本部 に遭難 者 漂着 の報告 が入 ったのは23時 15分 頃 。偶然 付近 を通 りかかった運送 会社 のトラックが生存 者 を乗 せて万代 町 の交番 に届 け出 たのが23時 35分 頃 。受 け付 けた警官 は最初 「洞爺 丸 ってのは青函 連絡 船 だろう。あの船 が沈 むことがあるものか。いい加減 なことを言 うと承知 しないぞ」と言 ったといわれる。また、洞爺 丸 に隣接 する形 で第 六 真盛 丸 (2209トン、大阪 ・原 商船 所属 )が座礁 したが、暴風 によるアンテナ線 切断 により自 船 のSOSの送信 も洞爺 丸 のSOSも受信 できず、洞爺 丸 沈没 を知 ったのは非常 配置 中 の船員 が最初 に救助 した二 等 機関 士 と乗客 各 1名 からであった。その後 暴風 の中 アンテナ線 の張 り替 えに成功 し、0時 18分 石狩 丸 を通 じて救難 本部 に通報 。20名 を救助 している。 - ^
浅井 総 支配人 一 行 と同 じ国鉄 本社 での会議 に参加 予定 ではあったが、都合 により洞爺 丸 では同行 せず後続 便 での上京 を予定 していた。 - ^
出航 見通 しが不明 だったため青森 5時 20分 発 急行 「みちのく」特別 二 等 と18時 40分 発 急行 1202列車 (「特殊 列車 」)一等 寝台 の二 段 構 えの手配 をするとともに、千歳 発 の航空機 も検討 していた。 - ^
沈没 は免 れたとはいえ単独 では航海 不能 となってしまい、ドック入 り・修理 を経 て航行 に供 することが出来 るまでに数日 を要 した。 - ^
摩周 丸 は浦賀 船渠 で定期 検査 でドック入 りしていたことから台風 に遭遇 せず、事故 の後 に検査 を早 めさせて事故 から1か月 後 に青函 航路 に復帰 した。 - ^ これまではどんな
荒天 時 でも、車両 甲板 入口 付近 を濡 らす程度 しか海水 の侵入 がなかったため、経験 則 として車両 甲板 全体 に海水 が滞留 する事態 は考 えられていなかった。 - ^
後日 襟裳岬 沖 と宮古 沖 で遺体 が発見 されている。 - ^
内訳 は、乗客 1,151名 中 1,041名 死亡 (米 軍 関係 者 含)、未 発見 遺体 33、生存 者 110名 。乗員 111名 中 73名 殉職 、未 発見 遺体 3。生存 者 18名 。 - ^
未 発見 遺体 は無 し。 - ^ 2017
年 時点 ではドニャ・パス号 (諸説 あり)、ジョラ号 (戦争 により沈没 した船舶 ではヴィルヘルム・グストロフ、ゴヤ)などの犠牲 者 数 が上回 っている。 - ^
日本 初 の気象 レーダーが大阪管区気象台 に設置 されたのは、この事故 の起 こるわずか25日 前 の9月1日 のことである。また洞爺 丸 事故 より7日 前 に関東 地方 に上陸 した台風 第 14号 に対 し、気象 研究所 のレーダーが台風 眼 をとらえている。 - ^ アメリカ
軍 はボーイングB-29などの大型 飛行機 を改装 して台風 の中心 に進入 させて気圧 や風速 の観測 を行 っていた。危険 ではあるが実測 値 が得 られるため現在 でも北大西洋 のハリケーンに対 して行 われているが、北 太平洋 の台風 に対 しては予算 削減 のため1987年 から中止 されている。日本 には現在 に至 るまで気象 観測 機 はない。 - ^
最終 的 な気象 状況 の解析 には2年 を要 したという記録 がある - ^
当時 函館 地方 海難 審判 庁 は旧 函館 区 公会堂 内 に置 かれており、海難 審判 についても同 公会堂 にて行 われた。 - ^ つまり、
洞爺 丸 にとってまさしく最悪 の波 であった。 - ^
船首 から船尾 にかけて船底 両 舷 設 けられる鰭 であるが、洞爺 丸 のものは長 さ43m、幅 60cm、厚 さ16mm である。 - ^
洞爺 丸 事故 の翌年 (1955年 )5月 に発生 した紫雲 丸 事故 で引責 辞任 した長崎 惣之助 の後任 の日本 国有 鉄道 総裁 。 - ^
大雪 丸 や摩周 丸 等 の車載 客船 についてはボイラー燃料 の重油 転換 による重油 燃焼 装置 の設置 、青函 丸 や石狩 丸 といった車両 渡船 については自動 給 炭 機 の設置 。 - ^
殉職 船員 については空襲 による戦没 船員 とともに函館 山麓 の「青函 連絡 船 海難 者 殉難 碑 」に合祀 されている。
出典 [編集 ]
- ^ a b c d e f g h i
日本 の重大 海難 汽船 洞爺 丸 遭難 事件 国土 交通省 海難 審判 所 - ^
坂本 幸四郎 『青函 連絡 船 』p151朝日 イブニングニュース社 1983 - ^ 『
台風 との斗 い』p9,p19特定 非 営利 活動 法人 語 りつぐ青函 連絡 船 の会 2011 - ^
坂本 幸四郎 『青函 連絡 船 』p125、126朝日 イブニングニュース社 1983 - ^
田中 正吾 『青函 連絡 船 洞爺 丸 転覆 の謎 』p51、52成山 堂 書店 1997 - ^
田中 正吾 『青函 連絡 船 洞爺 丸 転覆 の謎 』p52成山 堂 書店 1997 - ^ 『
洞爺 丸 台風 海難 誌 』p218国鉄 青函 船舶 鉄道 管理 局 1965 - ^ KE
生 「駐留 軍 専用 列車 (西海 ・筑紫 ・十和田 )」『鉄道 ピクトリアル』15巻 8号 p58-62 1965 - ^
古川 達郎 『鉄道 連絡 船 細見 』p145-149 JTBパブリッシング2008 - ^
田中 正吾 『青函 連絡 船 洞爺 丸 転覆 の謎 』p51成山 堂 書店 1997 - ^
田中 正吾 『青函 連絡 船 洞爺 丸 転覆 の謎 』p54成山 堂 書店 1997 - ^ 『
洞爺 丸 転覆 の謎 』p.54 - ^
浅井 栄 資 ・巻島 勉 『気象 と海象 』天然 社 1963年 初版 - ^ 『
洞爺 丸 転覆 の謎 』p.60 - ^
上前 淳 一郎 著 洞爺 丸 はなぜ沈 んだかP141 - ^
昭和 34年 2月 9日 高等 海 等 判 庁 裁決 (昭和 31年 第 二 審 第 21号 )汽船 洞爺 丸 遭難 事件 公益 財団 法人 海難 審判 ・船舶 事故 調査 協会 - ^ 『
洞爺 丸 転覆 の謎 』p.106 - ^ a b 『
洞爺 丸 転覆 の謎 』p.114 - ^ 『
洞爺 丸 転覆 の謎 』p.58 - ^
古川 達郎 連絡 船 ドックp63船舶 技術 協会 1966 - ^
古川 達郎 鉄道 連絡 船 100年 の航跡 p317成山 堂 書店 1988 - ^ 『
洞爺 丸 転覆 の謎 』p.64 - p.65 、p129十 勝 丸 の乗員 が沈没 の瞬間 を目撃 していたとされる。 - ^ 『
洞爺 丸 転覆 の謎 』p.83 -、p.129 - ^ NHK
社会 部 『台風 に備 える』日本 放送 出版 協会 1972年 - ^ 『
洞爺 丸 転覆 の謎 』p.129 - ^ 『
洞爺 丸 転覆 の謎 』p.85 -、p.129 - ^ 『
洞爺 丸 転覆 の謎 』p.88 -、p.129 - ^ 『
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洞爺 丸 転覆 の謎 』p.66 - ^
国立 国会図書館 (1954年 9月 29日 ). “第 019回 国会 運輸 委員 会 第 40号 ”. 2016年 11月27日 閲覧 。 - ^ “
平成 27年度 第 2回 重要 文化財 旧 函館 区 公会堂 保存 活用 計画 検討 委員 会 配布 資料 ” (PDF).重要 文化財 旧 函館 区 公会堂 保存 活用 計画 検討 委員 会 . p. 19 (2016年 1月 19日 ). 2017年 5月 25日 閲覧 。 - ^ 『
洞爺 丸 転覆 の謎 』p.154 - ^ 『
洞爺 丸 転覆 の謎 』p.155 - ^ 『
洞爺 丸 転覆 の謎 』p.156 - ^
一色 義子 『デーン・リーパー』教会 新報 社 、192-204ページ - ^ 『
洞爺 丸 転覆 の謎 』p.72、p.80 - ^
郵政省 編 『続 逓信 事業 史 第 三 巻 郵便 』前島 会 、1960年 、p.416 - ^ 『
洞爺 丸 転覆 の謎 』p.107 - 108 - ^ 『
洞爺 丸 転覆 の謎 』p.119 - ^ “トンネルメモリアルパーク”.
北海道 松前 郡 福島 町 . 2019年 8月 25日 閲覧 。 - ^
映倫 データベース『あゝ洞爺 丸 』
参考 文献 [編集 ]
上前 淳 一郎 『洞爺 丸 はなぜ沈 んだか』文藝春秋 (1980年 )ISBN 978-4163363004絶版 同 『洞爺 丸 はなぜ沈 んだか』文春 文庫 (1983年 )ISBN 978-4167248048
坂本 幸四郎 『青函 連絡 船 』朝日 イブニングニュース社 (1983年 )ISBN 978-4022191212絶版 同 『青函 連絡 船 ものがたり』朝日 文庫 (1987年 )ISBN 978-4022604767上記 改訂 版 同 『わが青春 の青函 連絡 船 』光人 社 (1989年 )ISBN 978-4769804420
金丸 大作 『写真 集 青函 連絡 船 』朝日 イブニングニュース社 (1984年 )ISBN 978-4022191359絶版 同 『青函 連絡 船 の記録 』生活 情報 センター(2006年 )ISBN 978-4861262708上記 改訂 版
福井 銈喜『洞爺 丸 沈没 32年 目 の真実 ―海難 審判 の裁決 は、やはり間違 っている』四海 書房 (1986年 )ISBN 978-4915629136田中 正吾 『青函 連絡 船 ―洞爺 丸 転覆 の謎 』成山 堂 書店 (1998年 )絶版 同 『青函 連絡 船 ―洞爺 丸 転覆 の謎 』成山 堂 書店 (2006年 )ISBN 978-4425771028上記 改訂 版
篠 輝久 『残 されたもの -ディーン・リーパー物語 -』リブリオ出版 、1989年 12月 20日
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洞爺 丸 沈没 最悪 の海難 事故 - NHK放送 史