マンフレート・フォン・ブラウヒッチュ

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マンフレート・フォン・ブラウヒッチュ
Manfred von Brauchitsch
ブラウヒッチュ(1937ねんモナコグランプリ)
基本きほん情報じょうほう
国籍こくせき プロイセンの旗 プロイセン王国おうこくドイツの旗 ドイツ帝国ていこく) → ドイツの旗 ドイツこくナチス・ドイツの旗 ドイツこく 連合れんごう国軍こくぐん占領せんりょうのドイツ西ドイツの旗 西にしドイツ東ドイツの旗 ひがしドイツドイツの旗 ドイツ
生年月日せいねんがっぴ (1905-08-15) 1905ねん8がつ15にち
出身しゅっしん ドイツの旗 ドイツ帝国ていこくハンブルク
死没しぼつ (2003-02-05) 2003ねん2がつ5にち(97さいぼつ
死没しぼつ ドイツの旗 ドイツテューリンゲンしゅうシュライツ英語えいごばん
引退いんたい 1939ねん
親族しんぞく ヴァルター・フォン・ブラウヒッチュ叔父おじ
ヨーロッパ・ドライバーズ選手権せんしゅけんでの経歴けいれき
活動かつどう時期じき 1934ねん - 1939ねん
所属しょぞく ダイムラー・ベンツ
出走しゅっそう回数かいすう 24 (23スタート)
優勝ゆうしょう回数かいすう 2
ポールポジション 2
ファステストラップ 2
シリーズ最高さいこう順位じゅんい 2 (1937ねん1938ねん)

マンフレート・ゲオルグ・ルドルフ・フォン・ブラウヒッチュ(Manfred Georg Rudolf von Brauchitsch、1905ねん8がつ15にち - 2003ねん2がつ5にち)は、ドイツのレーシングドライバー。

メルセデス・ベンツのレース活動かつどうにおいて栄光えいこう時代じだいとされる、1930年代ねんだいのシルバーアロー時代じだいのレギュラードライバーの一人ひとりだったことでられる。

概要がいよう[編集へんしゅう]

ブラウヒッチュはシルバーアロー時代じだいのメルセデスチームに1934ねんどうチームの復帰ふっきせんから1939ねん最後さいごのレースまで在籍ざいせきし、なおかつその期間きかんにおいてつねにレギュラードライバーの主力しゅりょくとしてどうチームの栄光えいこうささえた。「シルバーアロー」のそもそものはじまりであるシルバーアロー伝説でんせつまれるきっかけをつくった人物じんぶつとしてもられる(詳細しょうさいは「シルバーアロー」を参照さんしょう)。

シルバーアロー時代じだいのメルセデスチームのなか最大さいだい問題児もんだいじだったとされており[1]監督かんとくアルフレート・ノイバウアーはブラウヒッチュのあつかいにいた[注釈ちゅうしゃく 1]典型てんけいてきユンカー地主じぬし貴族きぞく気質きしつで、その性格せいかくほこたか傲慢ごうまんで、チームオーダーしたがわなかったり、チームメイトのヘルマン・ラングといざこざをこして協調きょうちょうみだすなど、チームないではなにかと問題もんだいのある人物じんぶつだった。

ノイバウアーが見出みいだしたドライバーたちのなかで、ルドルフ・カラツィオラ、ラング、リチャード・シーマンほどの才能さいのうはなかったとされるものの[W 1]はやいドライバーであったことは否定ひていできない[1]。メルセデスチームにとっての復帰ふっきせんだった1934ねんアイフェルレンネンで優勝ゆうしょうしているほか、1937ねんと1938ねんヨーロッパ・ドライバーズ選手権せんしゅけんではどちらもカラツィオラにぐランキング2獲得かくとくしている。ブラウヒッチュ自身じしんはタイトルを獲得かくとくすることはなかったが、レースでは安定あんていして上位じょういはしり、1937ねんモナコグランプリ英語えいごばん1938ねんフランスグランプリ英語えいごばんでは優勝ゆうしょうおさめている[W 2]

熱情ねつじょう蛮勇ばんゆうにあふれ、その攻撃こうげきてきなドライビングスタイルは観客かんきゃくたちからはあいされたが、タイヤをろうわったり、ガスかけけるためにおさえてはしったりするという冷静れいせい判断はんだんりょく[1]結果けっかてきにそれが大成たいせいはばおおきな要因よういんとなった[注釈ちゅうしゃく 2]

不運ふうんやミスから勝利しょうり好成績こうせいせきうしなうことがおおく、「ペッヒフォーゲル」(Der Pechvogel。「不運ふうんとり」の[W 3])とあだされた[2][W 1]勝利しょうりしたレースよりもけたレースのほうが印象いんしょうのこるともひょうされている[W 4]

経歴けいれき[編集へんしゅう]

マンフレート・フォン・ブラウヒッチュはドイツ東部とうぶシレジアふる軍人ぐんじん家系かけいまれた。ちちヴィクトルはプロイセン王国おうこく将校しょうこうで、ブラウヒッチュ自身じしん軍人ぐんじんとしてのみちあゆむことになる。

1913ねんから1923ねんにかけてベルリンのギムナジウムまなんだのちだいいち世界せかい大戦たいせんの1923ねんドイツ義勇軍ぎゆうぐんのひとつであるエアハルト海兵かいへい旅団りょだん加入かにゅうした。1924ねんヴァイマル共和きょうわ国軍こくぐん入隊にゅうたいして正式せいしきなドイツ軍人ぐんじんとなるが、ドレスデンの軍事ぐんじ学校がっこう英語えいごばんかよっていた1928ねん、オートバイによる事故じこ頭蓋骨ずがいこつ怪我けがったことで除隊じょたいした[W 2][W 1]

レーシングドライバー[編集へんしゅう]

1932年アヴスレンネン。SSKLストリームライナーに乗るブラウヒッチュ。
1932ねんアヴスレンネン。SSKLストリームライナーにるブラウヒッチュ。

除隊じょたい、ブラウヒッチュはベルリンで舞台ぶたい俳優はいゆうになるとともに[1]、1929ねんから、いとこのハンス・フォン・ツィンマーマン(Hans von Zimmermann)の援助えんじょ自動車じどうしゃレースにプライベーターとして参戦さんせんするようになった[W 2]

ブラウヒッチュは、ツィンマーマン所有しょゆうメルセデス・ベンツ・Sってレースやヒルクライムに出場しゅつじょうし、3ねんほどのあいだにいくつかのレースで優勝ゆうしょうげた[W 2][W 5]。1932ねんはダイムラー・ベンツが会社かいしゃとしてのレース活動かつどう休止きゅうししていたこともあって、同社どうしゃのワークスチームの監督かんとくだったノイバウアーがブラウヒッチュのチームの面倒めんどう個人こじんてきるようになる[3][注釈ちゅうしゃく 3]同年どうねん5がつのアヴスレンネンには特別とくべつりゅう線形せんけいのボディをまとったSSKLいどみ、このレースで当時とうじアルファロメオではしっていたカラツィオラを僅差きんさやぶって優勝ゆうしょうたし、一躍いちやくめいげた[3][W 2][W 5]

1934ねん[編集へんしゅう]

1934ねん、ダイムラー・ベンツがレース活動かつどう再開さいかいするにあたり、前年ぜんねん活躍かつやく評価ひょうかされたブラウヒッチュはノイバウアーによってレギュラードライバーの一人ひとり抜擢ばってきされた[W 2][W 1]。6月、どうチームにとっての復帰ふっき初戦しょせんであるアイフェルレンネンでブラウヒッチュは優勝ゆうしょうたし、チームの期待きたい見事みごとこたえた[W 5][注釈ちゅうしゃく 4]。このレースはのちに「シルバーアロー」の起原きげんとなったレースとしてられるようになる。

順調じゅんちょうだしにえたが、ブラウヒッチュは「不運ふうん」に見舞みまわれる。アイフェルレンネン翌月よくげつおなじニュルブルクリンクで開催かいさいされたドイツグランプリ英語えいごばん練習れんしゅう走行そうこうちゅうにクラッシュをこし、ブラウヒッチュは頭蓋骨ずがいこつ肋骨あばらぼね3ほん重傷じゅうしょうってしまう[W 5][W 1]つづベルギーグランプリ英語えいごばん出走しゅっそうまえ棄権きけんし、8がつスイスグランプリ英語えいごばんには負傷ふしょうして決勝けっしょうレースに出場しゅつじょうしたものの、あきらかに体調たいちょうすぐれず、このとしのこりのレースはすべ欠場けつじょうすることになった[W 5]

1935ねん[編集へんしゅう]

前年ぜんねんった怪我けがから回復かいふくしてレースに復帰ふっきし、フランスグランプリとベルギーグランプリで2、スペイングランプリで3というまずまずの結果けっかのこした[W 5]

7がつ地元じもとドイツのニュルブルクリンク開催かいさいされたドイツグランプリ英語えいごばんは、ブラウヒッチュのレースのなかでももっともよくられたレースだとわれている[W 4]。このレースでは終始しゅうしレースをリードしていながら、アルファロメオ・P3っていすがるタツィオ・ヌヴォラーリ動揺どうようしてタイヤを消耗しょうもうさせ、ファイナルラップでリアタイヤをバーストさせて勝利しょうりうしない、ドイツグランプリの優勝ゆうしょうをイタリアチームとイタリアじんうばわれるという失態しったいえんじた[1]。このころはほとんどのレースでメルセデス・ベンツかアウトウニオンが優勝ゆうしょうしており、ヌヴォラーリにとっては殊勲しゅくん勝利しょうり、ブラウヒッチュにとっては不名誉ふめいよ敗戦はいせんとなるこのレースは後々あとあとまでかたぐさとなる[1][W 6][W 4]。この結果けっかはチームメイトだけではなくライバルたちからも同情どうじょうされ、レースルイ・シロンはホテルに見舞みまいにおとずれ、勝者しょうしゃとなったヌヴォラーリもブラウヒッチュに花束はなたばおくった[W 4]

1936ねん[編集へんしゅう]

1936ねんはW25を改良かいりょうしたW25ショートカーがおおきな失敗しっぱいわったことから、ブラウヒッチュも不振ふしんのシーズンをおくった[W 5]

ブラウヒッチュはこのとしのシーズンオフに、あるホテルのバーで、ったいきおいでヒトラーユーゲント指導しどうしゃであるバルドゥール・フォン・シーラッハ乱闘らんとうさわぎをこした[W 7]成績せいせき不振ふしんとしであったことにくわえてこの不祥事ふしょうじでチームから放出ほうしゅつされることもありえたが、最終さいしゅうてき翌年よくねん契約けいやく更新こうしんされた[W 7]。この人事じんじは、ブラウヒッチュの叔父おじ当時とうじだい1軍団ぐんだん司令しれいかんであるヴァルター・フォン・ブラウヒッチュアドルフ・ヒトラーちか関係かんけいにあったことから、かれらのかおてる政治せいじてき判断はんだんがあったのではないかともわれている[W 7]

1937ねん[編集へんしゅう]

1937ねん、チームが前年ぜんねん雪辱せつじょくして投入とうにゅうした「W125」は見事みごと期待きたいこたえるものだった。ブラウヒッチュはこのとしのモナコグランプリ英語えいごばんで、チームオーダーにさからい、チームメイトのカラツィオラとはげしいバトルをひろげ、結果けっかとしてカラツィオラの車両しゃりょうがトラブルをたしたことでレースをせいし、選手権せんしゅけんレースにおけるはつ優勝ゆうしょうげた[W 5][W 1]

このとしのレースでも軒並のきな上位じょうい成績せいせきおさめたが、なかでも選手権せんしゅけんドニントングランプリ英語えいごばんではアウトウニオンベルント・ローゼマイヤーとのあいだでその観客かんきゃくにとっては生涯しょうがいわすれられなくなるほどの一騎打いっきうちをえんじ、このとしのハイライトのひとつになった[W 5]。このレースでも「ペッヒフォーゲル」らしさを発揮はっきし、80しゅうのレースで61しゅうまではブラウヒッチュが首位しゅいはしっていたのだが、ヘアピンコーナーでタイヤがバーストしてしまい、それが敗因はいいんとなる[6]

1938ねん[編集へんしゅう]

1938ねん前年ぜんねんからメルセデスチームで参戦さんせんはじめたリチャード・シーマン(ディック・シーマン)がほん調子ちょうしとなり、チームないでたびたびポジションをおびやかされるが、ブラウヒッチュは前年ぜんねん同様どうよう安定あんていして上位じょうい成績せいせきおさめた[W 5]

このとしのドイツグランプリ英語えいごばんではふたた不幸ふこう見舞みまわれる。このレースはブラウヒッチュ、カラツィオラ、シーマンの3めいあいだでトップがあらそわれ、レース中盤ちゅうばんにブラウヒッチュはシーマンから首位しゅいうばったのだが、給油きゅうゆとタイヤ交換こうかんのためピットインしたさい燃料ねんりょう引火いんかしてくるまとブラウヒッチュ自身じしんほのおつつまれ、コクピットからの脱出だっしゅつ余儀よぎなくされる[W 5][注釈ちゅうしゃく 6]。ブラウヒッチュのレーシングスーツと車両しゃりょうW154)はすぐに消火しょうかされ、チームを管轄かんかつするNSKKアドルフ・ヒューンラインからめいじられてブラウヒッチュは消火しょうかざいまみれになったW154でレースに復帰ふっきした[W 5]。しかし、首位しゅいったシーマンの追撃ついげき開始かいししようとした矢先やさき、ステアリングがゆるんではず[2]、リタイアをきっすることになる[W 5]。ブラウヒッチュはステアリングの心棒しんぼう両手りょうて用心深ようじんぶかくつかんでくるま操縦そうじゅうしてコースサイドにはこんだため[2]さいわいなことに、大事だいじにはいたらなかった。

このトラブルの原因げんいんについて、チームはピットでブラウヒッチュが脱出だっしゅつするさいいちはずしたステアリングホイールを適切てきせつさい装着そうちゃくできていなかったためだと説明せつめいしてブラウヒッチュを擁護ようごしたが、過度かどなプレッシャーがかかったことからブラウヒッチュがたんにミスをおかしたためだともわれている[W 5]。このレースは後世こうせいではシーマンの優勝ゆうしょう(ナチス政権せいけんのドイツGPにおけるイギリスじんドライバーの優勝ゆうしょう)でられることになるレースだが、この主役しゅやくがブラウヒッチュだったことは観客かんきゃくみとめるところであり、係員かかりいんくるまりステアリングホイールをかかえてピットにもどってきたブラウヒッチュには同情どうじょうした観客かんきゃくたちからの声援せいえんおくられた[2]

1939ねん[編集へんしゅう]

だい世界せかい大戦たいせん開戦かいせん直後ちょくごの1939ねんベオグラードグランプリをはしるブラウヒッチュ

1939ねんヘルマン・ラングがチームのエースのをカラツィオラからうばうほどの活躍かつやくをし、ブラウヒッチュもラングにおよばなかった[W 5]。9月にだい世界せかい大戦たいせん開戦かいせんしたことから、チームはレース活動かつどう停止ていしした。この時点じてんではまだわからないことだったが、開戦かいせん直後ちょくごの9がつ3にちはしったベオグラードグランプリ英語えいごばんは、ブラウヒッチュがメルセデスチームから参戦さんせんした最後さいごのレースとなった。

だい世界せかい大戦たいせん[編集へんしゅう]

だい世界せかい大戦たいせんはじまるとブラウヒッチュも兵役へいえき検査けんさけたが、レースでった数々かずかず怪我けがから従軍じゅうぐんすることは却下きゃっかされた[7]。そのため、1940ねんから1943ねんにかけてハインリヒ・コッペンベルグドイツばん秘書ひしょつとめ、1944ねんから1945ねんにかけては軍需ぐんじゅしょうのコンサルタントとしてはたらいた。

戦後せんごきゅう高級こうきゅう軍人ぐんじん家系かけいということはブラウヒッチュには不利ふりはたらき、困窮こんきゅういられることとなる[8][1]名声めいせいはあったことから、戦後せんご直後ちょくご実業じつぎょうんでオートバイのレースを主催しゅさいして一時いちじてき成功せいこうしたが、1949ねんにはそれもまることとなる[8]

1950ねんごろになってダイムラー・ベンツがレース活動かつどう再開さいかいしようとうごはじめ、ブラウヒッチュも自分じぶんふたた起用きようするようむが、そのころには50さいちかくとなり、さけによるおとろえもあったブラウヒッチュにはドライバーとしての見込みこみはもはやないと判断はんだんされた[8][W 5]。1950ねん選手権せんしゅけんレースとして開催かいさいされたドイツグランプリ英語えいごばんにプライベーターとして出場しゅつじょうし、こうはしせたが、結果けっかはリタイアにわっている[W 8]

ひがしドイツへの亡命ぼうめいとその[編集へんしゅう]

無一文むいちもんとなったブラウヒッチュはドイツ社会しゃかい主義しゅぎ統一とういつとう(SED)のヴァルター・ウルブリヒトをはじめとする共産きょうさん主義しゅぎしゃたちに懐柔かいじゅうされ、1951ねんひがしドイツの出版しゅっぱんしゃかれ自伝じでん(1953ねん刊行かんこうされた『Kampf um Meter und Sekunden』[W 5])をり、それによりブラウヒッチュはバイエルン別荘べっそう購入こうにゅうできるまでにいち財産ざいさんきずいた[8][W 5]。しかし、共産きょうさん主義しゅぎ勢力せいりょくまれたブラウヒッチュの動向どうこう西にしドイツ当局とうきょく警戒けいかいされてたびたび追及ついきゅうけることになり、1953ねん9がつ30にち共産きょうさん主義しゅぎしゃとして逮捕たいほされ、半年はんとしあいだ留置りゅうちされる[8][W 5]。1954ねん保釈ほしゃくされ、その裁判さいばんすすめられようとしていた矢先やさき、1955ねんはじめにブラウヒッチュはドイツのソビエト地区ちくひがしドイツ)に亡命ぼうめいした[8][W 5]

モデルK英語えいごばんのデモ走行そうこうおこなうブラウヒッチュ(1986ねんニュルブルクリンク)

高名こうみょうなブラウヒッチュの亡命ぼうめいひがしドイツ政府せいふから歓迎かんげいされ、1957ねん設立せつりつされたぜんドイツモータースポーツ協会きょうかいドイツばん(ADMV)の役員やくいんまかされ、その同国どうこくオリンピック委員いいんかいドイツばん首脳しゅのうとなり[注釈ちゅうしゃく 7]社会しゃかい主義しゅぎこくである同国どうこく特権とっけん階級かいきゅう一員いちいんとして余生よせいたのしんだ[1][W 6][W 5]。この立場たちばのため、ある程度ていど行動こうどう自由じゆうみとめられ、とき西にしドイツを訪問ほうもんしてダイムラー・ベンツのイベントに参加さんかすることもあった。

1989ねんベルリンのかべ崩壊ほうかいし、東西とうざいドイツが統一とういつされたのち年齢ねんれいもあって隠居いんきょ[注釈ちゅうしゃく 8]、2003ねんきゅうひがしドイツりょうであるテューリンゲンしゅうシュライツ英語えいごばん自宅じたく死去しきょした[1]。97さいぼつ。1930年代ねんだいのメルセデスチームのドライバーのなかではもっと長寿ちょうじゅたもち、21世紀せいきになってから死去しきょした唯一ゆいいつ人物じんぶつとなった[1][W 1]

レース戦績せんせき[編集へんしゅう]

AIACRヨーロッパ選手権せんしゅけん[編集へんしゅう]

とし 所属しょぞくチーム 車両しゃりょう 1 2 3 4 5 6 7 EDC ポイント
1934 ダイムラー・ベンツ AG メルセデス・ベンツ・W25 MON FRA
Ret
GER
DNS
BEL
WD
ITA ESP
1935 MON
Ret
FRA
2
BEL
2*
GER
5
SUI
Ret
ITA
Ret
ESP
3
3 34
1936 MON
Ret
GER
7
SUI
Ret
ITA 10 24
1937 メルセデス・ベンツ・W125 BEL
Ret
GER
2
MON
1
SUI
3
ITA
Ret
2 15
1938 メルセデス・ベンツ・W154 FRA
1
GER
Ret
SUI
3
ITA
3*
2 15
1939 BEL
3
FRA
Ret
GER
Ret
SUI
3

(4)

(19)
  • 太字ふとじポールポジションはすファステストラップ
  • * : おな車両しゃりょう使用しようしたドライバーに順位じゅんいとポイントが配分はいぶんされた。
  • 1934ねんヨーロッパ・ドライバーズ選手権せんしゅけんもうけられていない。
  • 1939ねんのヨーロッパ・ドライバーズ選手権せんしゅけんは8がつ開催かいさいされたスイスGPを最後さいご中止ちゅうしされたため、統括とうかつ団体だんたいのAIACRは正式せいしきなランキングを発表はっぴょうしていない。前年ぜんねんおなじルールでポイント換算かんさんした場合ばあい順位じゅんいとポイントを( )ないしめした。

家族かぞく[編集へんしゅう]

プロイセン王国おうこく将校しょうこうであるちちヴィクトル(1864年生ねんせい - 1925ねんぼつ)、ははオルガ・フォン・ボンスドルフ(1873年生ねんせい - 1954ねんぼつ)とのあいだまれた。1938ねんから1941ねんにかけてドイツ国防こくぼうぐん陸軍りくぐんそう司令しれいかんつとめたヴァルター・フォン・ブラウヒッチュ陸軍りくぐん元帥げんすい叔父おじである[W 5]

ブラウヒッチュ自身じしんだい世界せかい大戦たいせんちゅう実業じつぎょうむすめであるジゼラ・フント(Gisela Hundt)と出会であい、戦後せんごの1947ねん12月27にち結婚けっこんした[8][W 5]。1954ねんにブラウヒッチュが逮捕たいほされたことでつまジゼラは自殺じさつ未遂みすい事件じけんこし、翌年よくねんにブラウヒッチュが単独たんどくひがしドイツに亡命ぼうめいし、のこされたジゼラは1957ねん服毒ふくどく自殺じさつした[8]よく1958ねん11月22にちにブラウヒッチュはひがしドイツでリーゼロッテ・シュナイダー(Lieselotte Schneider)と再婚さいこんした。

エピソード[編集へんしゅう]

  • レースではあかいレザーヘルメットをかぶっていた。そのためか、1938ねんからメルセデスチームのドライバーの識別しきべつよう車体しゃたい前部ぜんぶのグリルいろられるようになると、ブラウヒッチュにはあかてられた[9]
  • ブラウヒッチュはなん映画えいがかかわっており、1932ねん公開こうかいのドイツ映画えいがKampf英語えいごばん』では主演しゅえんつとめ、レーシングドライバーをえんじた[W 5]。その、1952ねん公開こうかい自動車じどうしゃレースを題材だいざいにしたドイツ映画えいがRivalen am Steuer英語えいごばん』では脚本きゃくほん原案げんあん)として協力きょうりょくしている。
  • その出自しゅつじ傲慢ごうまん性格せいかくから、チームメイトのなかでも、ややだらしないところのあるイタリアじんルイジ・ファジオーリ労働ろうどうしゃ階級かいきゅう出身しゅっしんのヘルマン・ラングのことを見下みくだしており[W 6]とくにラングとはブラウヒッチュがラングにからむことから喧嘩けんかになることがおおく、監督かんとくのノイバウアーにとっては頭痛ずつうたねだった[10]。ある夕食ゆうしょくでカラツィオラとラングと同席どうせきしたブラウヒッチュは、自分じぶんとカラツィオラにシャンパン注文ちゅうもんし、ラングにはこうけでビール注文ちゅうもんしたとわれている[W 6][W 5][W 7]
  • 1939ねん9がつ1にち、ドイツがポーランドに侵攻しんこうし、だい世界せかい大戦たいせん開戦かいせんした。このときにメルセデスチームはベオグラードグランプリ英語えいごばん参戦さんせんするため、ユーゴスラビアおとずれていた。ドイツのポーランド侵攻しんこうほうはチームにも衝撃しょうげきあたえ、決勝けっしょう当日とうじつあさ、ブラウヒッチュは「祖国そこくとき、フォン・ブラウヒッチュはおうずるべきだ」という伝言でんごんのこして、すぐさまベオグラード空港くうこうかった[8]。それをいかけてきたノイバウアーは離陸りりく寸前すんぜん飛行機ひこうきみ、「あと2、3あいだ祖国そこくきみ無関係むかんけいなんだ」とってブラウヒッチュをサーキットにもどして「逃亡とうぼう」を阻止そしした[8][1]。ブラウヒッチュがっていた飛行機ひこうきは、ドイツきではなくスイスきだった[8][W 6][W 1]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

  1. ^ ノイバウアーは自身じしん自伝じでんなかでブラウヒッチュになやまされ激怒げきどした逸話いつわをたびたびいている。
  2. ^ チームメイトで当時とうじ最高さいこうのドライバーの一人ひとりされていたカラツィオラは、ブラウヒッチュとは対照たいしょうてきに、冷静れいせいなレースはこびで定評ていひょうがあったが、必要ひつようとあらば「くるったような」攻撃こうげきてきはしりを使つかけることもできた[2]
  3. ^ ダイムラー・ベンツでカラツィオラのチーフメカニックをしていたヴィリー・ツィンマーもやと[3]、ツィンマーはそのもブラウヒッチュのメカニックをつとめることになる。
  4. ^ ただし、このレースではドイツじん優勝ゆうしょうさせるため、このレースをリードしていたイタリアじんチームメイトのルイジ・ファジオーリたいしてチームオーダーがあったとされる[4]
  5. ^ 選手権せんしゅけんのこのレースでグランプリカーがはしるのは久々ひさびさだった[5]当時とうじドニントンパーク路面ろめん起伏きふくおおきく、加速かそくりょくたかいメルセデス・ベンツとアウトウニオンはのぼざか頂上ちょうじょうでジャンプしてイギリスの観客かんきゃくおどろかせた[5]。そのため、レースの写真しゃしんはジャンプしているものがおおのこされている[5]
  6. ^ このとき一連いちれん様子ようす当時とうじ記録きろく映像えいぞうのこっている。
  7. ^ このとき貢献こうけんにより、ブラウヒッチュは1988ねん国際こくさいオリンピック委員いいんかい(IOC)からオリンピック功労こうろうあきら英語えいごばん授与じゅよされた[1][W 5]
  8. ^ ブラウヒッチュは1995ねんメルセデス・ベンツ博物館はくぶつかん英語えいごばんで90さい誕生たんじょういわわれた[W 2]

出典しゅってん[編集へんしゅう]

出版しゅっぱんぶつ
  1. ^ a b c d e f g h i j k l MB 歴史れきしのこるレーシング活動かつどう軌跡きせき宮野みやの2012)、p.53
  2. ^ a b c d e カラツィオラ自伝じでんこうとき1969)、「21 コッパ・アチェルボ」 pp.129–138
  3. ^ a b c MB (ノイバウアー自伝じでん)橋本はしもと1991)、「6 不吉ふきつ予言よげん」 pp.53–59
  4. ^ Hitler's Motor Racing Battles(Reuss / McGeoch 2008)、p.154
  5. ^ a b c MB グランプリカーズ菅原すがわら1997)、p.65
  6. ^ MB グランプリカーズ菅原すがわら1997)、p.66
  7. ^ MB (ノイバウアー自伝じでん)橋本はしもと1991)、「18 せんそう終結しゅうけつ」 pp.201–213
  8. ^ a b c d e f g h i j k MB (ノイバウアー自伝じでん)橋本はしもと1991)、「19 メルセデスのカムバック」 pp.214–231
  9. ^ MB グランプリカーズ菅原すがわら1997)、p.78
  10. ^ MB (ノイバウアー自伝じでん)橋本はしもと1991)、「14 ナチズムの横暴おうぼう」 pp.147–162
ウェブサイト
  1. ^ a b c d e f g h Paul Fearnley (2003ねん3がつ). “Obituary: Manfred von Brauchitsch” (英語えいご). Motor Sport Magazine. 2021ねん6がつ28にち閲覧えつらん
  2. ^ a b c d e f g Biography: Manfred von Brauchitsch” (英語えいご). Mercedes-Benz Group Media (2019ねん9がつ13にち). 2022ねん1がつ30にち時点じてんオリジナルよりアーカイブ。2023ねん6がつ30にち閲覧えつらん
  3. ^ 今週こんしゅうのドイツ】Pechvogel”. ドイツ大使館たいしかん − Young Germany Japan (2017ねん5がつ12にち). 2021ねん6がつ28にち閲覧えつらん
  4. ^ a b c d Manfred von Brauchitsch” (英語えいご). Grand Prix History. 2021ねん6がつ28にち閲覧えつらん
  5. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z John Barnes (2003ねん2がつ18にち). “Manfred von Brauchitsch - Fast but unlucky racing driver” (英語えいご). The Independent. 2011ねん4がつ24にち時点じてんオリジナルよりアーカイブ。2021ねん6がつ28にち閲覧えつらん
  6. ^ a b c d e Alan Henry (2003ねん2がつ8にち). “Manfred von Brauchitsch” (英語えいご). The Guardian. 2021ねん6がつ28にち閲覧えつらん
  7. ^ a b c d Richard Williams (2020ねん4がつ). “Dick Seaman: England’s tainted hero” (英語えいご). Motor Sport Magazine. 2021ねん6がつ28にち閲覧えつらん
  8. ^ 1950 German Grand Prix race report” (英語えいご). Motor Sport Magazine (1950ねん9がつ). 2021ねん6がつ28にち閲覧えつらん

著書ちょしょ[編集へんしゅう]

  • Manfred von Brauchitsch (1940). Kampf mit 500 PS. Siegismund, Berlin 
  • Manfred von Brauchitsch (1953). Kampf um Meter und Sekunden. Verlag der Nation, Berlin 
  • Manfred von Brauchitsch (1956). Und Lorbeer kränzt den Sieger. Verlag der Nation, Berlin 
  • Manfred von Brauchitsch (1966). Ohne Kampf kein Sieg. Verlag der Nation, Berlin 

参考さんこう資料しりょう[編集へんしゅう]

書籍しょせき
  • Alfred Neubauer (1958). Männer, Frauen und Motoren. Hans Dulk. ASIN 3613033518 
    • アルフレート・ノイバウアー(ちょちょ橋本はしもと茂春しげはる やく『スピードこそわがいのち荒地あれち出版しゅっぱんしゃ、1968ねんASIN B000JA4AOSNCID BA88414205NDLJP:2518442 
    • アルフレート・ノイバウアー(ちょちょ橋本はしもと茂春しげはる やく『メルセデス・ベンツ ─Racing History─』三樹みき書房しょぼう、1991ねん3がつ3にちASIN 4895221482ISBN 4-89522-148-2NCID BB04709123 
  • Rudolf Caracciola (1958). Meine Welt. Limes Verlag 
    • ルドルフ・カラツィオラ(ちょちょこうひとしせい やく『カラツィオラ自伝じでん二玄社にげんしゃ、1969ねん12がつ10日とおかASIN 4544040086 
  • 菅原すがわら留意りゅういちょ作図さくず)『メルセデス・ベンツ グランプリカーズ 1934-1955』二玄社にげんしゃ、1997ねん1がつ20日はつかASIN 4544040531ISBN 4-544-04053-1NCID BA31839860 
  • Eberhard Reuss (2006-03). Hitlers Rennschlachten: Die Silberpfeile unterm Hakenkreuz. Aufbau Verlagsgruppe GmbH. ASIN 3351026250. ISBN 3351026250 
    • Eberhard Reussちょ Angus McGeochやく (2008-04). Hitler's Motor Racing Battles: The Silver Arrows Under the Swastika. J. H. Haynes & Co Ltd. ASIN 1844254763. ISBN 1-84425-476-3 
  • 宮野みやのしげるちょ)『メルセデス・ベンツ 歴史れきしのこるレーシング活動かつどう軌跡きせき 1894-1955』三樹みき書房しょぼう、2012ねん4がつ25にちASIN 4895225895ISBN 978-4-89522-589-2NCID BB09549308 
    • 宮野みやのしげるちょ)『メルセデス・ベンツ 歴史れきしのこるレーシング活動かつどう軌跡きせき 1894-1955 [新装しんそうばん]』三樹みき書房しょぼう、2017ねんASIN 4895226719ISBN 4-89522-671-9 

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]