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ロベルト・バッジョ

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
ロベルト・バッジョ
2013ねんのバッジョ
名前なまえ
愛称あいしょう ロビー、コディーノ
ラテン文字もじ Roberto BAGGIO
基本きほん情報じょうほう
国籍こくせき イタリアの旗 イタリア
生年月日せいねんがっぴ (1967-02-18) 1967ねん2がつ18にち(57さい
出身しゅっしん カルドーニョ
身長しんちょう 174cm
体重たいじゅう 73kg
選手せんしゅ情報じょうほう
ポジション MFOM[1] / FW
あし 右足みぎあし
クラブ1
とし クラブ 出場しゅつじょう (得点とくてん)
1982-1985 イタリアの旗 ヴィチェンツァ 36 (13)
1985-1990 イタリアの旗 ACFフィオレンティーナ 94 (39)
1990-1995 イタリアの旗 ユヴェントス 141 (78)
1995-1997 イタリアの旗 ACミラン 51 (12)
1997-1998 イタリアの旗 ボローニャFC 30 (22)
1998-2000 イタリアの旗 インテル・ミラノ 41 (9)
2000-2004 イタリアの旗 ブレシア 95 (45)
通算つうさん 490 (220)
代表だいひょうれき
1984  イタリア U-16 4 (3)
1988-2004 イタリアの旗 イタリア[2] 56 (27)
1. 国内こくないリーグせんかぎる。
■テンプレート■ノート 解説かいせつ■サッカー選手せんしゅpj

ロベルト・バッジョRoberto Baggio1967ねん2がつ18にち - )は、イタリアヴェネトしゅうヴィチェンツァけんカルドーニョ出身しゅっしんもとサッカー選手せんしゅ現役げんえき時代じだいのポジションはミッドフィールダーフォワードもとイタリア代表だいひょう

概要がいよう[編集へんしゅう]

1993年度ねんど欧州おうしゅう年間ねんかん最優秀さいゆうしゅう選手せんしゅ、1993年度ねんどFIFA世界せかい年間ねんかん最優秀さいゆうしゅう選手せんしゅ受賞じゅしょうセリエAでは通算つうさん205ゴールを[3]、キャリア通算つうさんでは318ゴールをげた。2003-04シーズンで現役げんえき引退いんたいおとうとエディ・バッジョもとサッカー選手せんしゅである。

趣味しゅみはハンティング。愛称あいしょうの「コディーノ」はうま尻尾しっぽという意味いみ髪型かみがた由来ゆらいする[4]

2002ねん国連こくれん食糧しょくりょう農業のうぎょう機関きかん (FAO) の親善しんぜん大使たいし就任しゅうにん世界せかい貧困ひんこん飢餓きが撲滅ぼくめつのための慈善じぜん活動かつどうむ。病院びょういんへの寄付きふ、ハイチ地震じしんへの寄付きふアウンサンスーチー解放かいほうへの協力きょうりょくなどの功績こうせきみとめられた。2010ねん11月14にち、ノーベル平和へいわしょう受賞じゅしょうしゃ世界せかいサミットの事務じむきょくから「平和へいわサミットしょう」を授与じゅよされた[5]

クラブ経歴けいれき[編集へんしゅう]

ヴィチェンツァ、フィオレンティーナ[編集へんしゅう]

ヴィチェンツァ時代じだいのバッジョ

キャリアをつうじてイタリア国内こくないリーグで活躍かつやく。1981ねんにセリエC1のヴィチェンツァでデビュー。1984-85シーズンに12得点とくてん記録きろく。1985ねんにはセリエAのACFフィオレンティーナ移籍いせきした。ところが契約けいやく成立せいりつからわずか2にちみぎひざ十字じゅうじ靭帯じんたいだんきれだい怪我けがった。移籍いせき直後ちょくごの1985-86シーズン、怪我けがコッパ・イタリアでの5試合しあいのみの出場しゅつじょうとなりすべてのリーグせん欠場けつじょう、1986-87シーズン5がつ10日とおかだい29せつナポリせんでセリエAはつゴールをめたが[6]怪我けがわずか5試合しあいのみの出場しゅつじょうわった[7]。1987ねん9がつ20日はつかACミランせんでは60メートルをドリブルしての得点とくてんげた[8]怪我けが回復かいふくした1988-89シーズンには15得点とくてんをあげ、フィオレンティーナはUEFAカップ出場しゅつじょうけん獲得かくとくした。1989-1990シーズンにはだい12せつFCアスコリせんでセリエAではつのハットトリックをめるなど[6]、リーグせんで17得点とくてん活躍かつやくせた。

ユヴェントス[編集へんしゅう]

1990ねん当時とうじ史上しじょう最高さいこうがくの150おくリラという移籍いせききんユヴェントス移籍いせき、フィレンツェではクラブにたいする暴動ぼうどうこっている。バッジョ自身じしんのぞまぬ移籍いせきだったため困惑こんわくしていた。ユヴェントスの選手せんしゅとしてはじめてフィレンツェもどってきた試合しあいでは、地元じもとティフォージから裏切うらぎものあつかいされ、かれがボールをたびにブーイングをびせられた[9]。しかし、後半こうはんになると状況じょうきょう一変いっぺんする。チームは決勝けっしょうてんのチャンスとなるPKを獲得かくとくするが、通常つうじょうのPKキッカーであるバッジョはるのを拒否きょひした[9]監督かんとくいかりをったバッジョは即座そくざ交代こうたいめいじられたが、スタンドから拍手はくしゅけながらピッチをった[9]一方いっぽうでこのPKをらなかったことにより、ユヴェントスファンからはチームにたいしての忠誠ちゅうせいしん疑問ぎもんされるなど、ファンからの信頼しんらい獲得かくとくには時間じかんようした[10]。1991-92シーズン、フォッジャでは2PKをふくめハットトリックをめた。

1992-93シーズンはリーグせんで21得点とくてんげ、またUEFAカップ決勝けっしょうボルシア・ドルトムントせんでは1stレグで2ゴールを[6]、チームを優勝ゆうしょうみちびいた。これはユヴェントスにとっては1985ねん以来いらい以来いらいのヨーロッパタイトルだった。この功績こうせき貢献こうけんみとめられ、どうシーズンのFIFA最優秀さいゆうしゅう選手せんしゅしょうとバロンドールを受賞じゅしょうした。1994-95シーズンは怪我けがおおくの試合しあい欠場けつじょうしたが、シーズン後半こうはんには復調ふくちょう[11]、ユベントスの9ねんぶりのリーグ優勝ゆうしょう、コッパイタリア獲得かくとく貢献こうけんした。

ACミラン[編集へんしゅう]

1995-96シーズンをむかえるにあたり、スタメンを保証ほしょうされないことをいいわたされるとともに、チームからは減給げんきゅう要求ようきゅうされた[11]。このときレアル・マドリードマンチェスターユナイテッドらが獲得かくとく興味きょうみしめしたが[11]、1995-96シーズン、ACミランへの移籍いせき選択せんたく、2せつのウディネーゼせん移籍いせきはつ得点とくてんげた。ここで自身じしんにとっては2連続れんぞくのリーグ制覇せいは貢献こうけんした[12] 。ユベントス時代じだいにはアウェーでのフィオレンティーナせんでPKをることを拒否きょひしたが、どうシーズンだい15せつでは、みずからが志願しがんしPKキッカーをつとめて得点とくてんげた[13]

1996-97シーズン、開幕かいまくエラス・ヴェローナせんでゴールをげるスタートをり、だい10せつだい27せつとミラノダービーでは2試合しあいでゴールをげたが[6]タバレス監督かんとくからアリゴ・サッキ監督かんとくわると、ベンチスタートとなるなど、出場しゅつじょう機会きかいらすこととなり、起用きよう限定げんていてきなものとなり、目立めだった活躍かつやくせることはなかった[11]

ボローニャ [編集へんしゅう]

1997-98シーズン、マンチェスターユナイテッドが引退いんたいしたカントナ後釜あとがまえるべく獲得かくとくうご[11]、FCバルセロナからも興味きょうみしめされた[11]。パルマもリーグはつ優勝ゆうしょう目指めざして獲得かくとくうごき、移籍いせき決定的けっていてきになっていたが、カルロ・アンチェロッティ監督かんとくから希望きぼうするセカンドトップではなくFWの一人ひとりとして起用きようする予定よていだとくと、パルマではなく、中堅ちゅうけんクラブのボローニャへの移籍いせき選択せんたくした(のパルマに移籍いせきしなかったことを後悔こうかいしているとかした[14]。)[15]開幕かいまくアタランタせん即座そくざ得点とくてんげると、だい7せつのナポリせんではハットトリック[6][14]だい30せつのミランせん[6]だい33せつのユヴェントスせんでもゴールをげるなど[6]最後さいごの5試合しあいで8得点とくてんをマークし、自己じこ最多さいたの22得点とくてんめ、ワールドカップのメンバーりをたした[14]

インテル[編集へんしゅう]

1998-99シーズンから、インテルで2シーズンプレー、ロナウドのパートナーとしてと期待きたいされたが[11]どうシーズンのUEFAチャンピオンズリーググループリーグのレアル・マドリードせんで2ゴールをげ、ASローマせんでは4アシストをめる[11]などの活躍かつやくもあった一方いっぽう負傷ふしょう欠場けつじょうすくなくなく、期待きたいされたロナウドとのプレーもほとんどなかった。

1999-00シーズンからユベントス時代じだいにバッジョを重要じゅうようせず確執かくしつつたえられていたマルチェロ・リッピ監督かんとく就任しゅうにん[11]、シーズンまえにリッピと面会めんかいし、戦力せんりょくとしてていることや、スタメンで起用きようされる可能かのうせい十分じゅうぶんであることをかされたが[11]ちがいなどもあり次第しだい冷遇れいぐうされ[11]、1がつ移籍いせき市場いちばではローンでの移籍いせきリヴァプールアーセナルひとし獲得かくとく興味きょうみしめしたが[11]代表だいひょう復帰ふっきしてユーロ2000への出場しゅつじょう目指めざしていたことから残留ざんりゅう選択せんたくした[11]

インテル退団たいだんなか既定きていとなったのち2000ねん5月23にちのCL出場しゅつじょうけんプレーオフパルマせんでは、前半ぜんはん35ふんにFKで先制せんせい、さらに同点どうてんにされた後半こうはん38ふん左足ひだりあしボレーで決勝けっしょうてんと2ゴールうばって勝利しょうりをもたらした[6][14]。この試合しあい最後さいごに、解雇かいこちかかたちでチームをはなれた[16]。このころ、Jリーグのぼうチームから破格はかく条件じょうけんでオファーをけ、移籍いせき真剣しんけん検討けんとうつぎのワールドカップへの出場しゅつじょう目指めざしていたことから、トラパットーニ代表だいひょう監督かんとく日本にっぽんでプレーしても代表だいひょうばれる可能かのうせいるかたずね、イタリアにまる決断けつだんをした[17]

ブレシア[編集へんしゅう]

2000-01シーズン、イングランド、スペインといったチームからブレシアの3ばい以上いじょう年俸ねんぽうでオファーをけたが[16]、ヴィチェンツァからちかかったこと[16]カルロ・マッツォーネ監督かんとくからさそわれ[18]、そのマッツォーネの存在そんざいめてとなってブレシアへの移籍いせきめた[14]

2001-02シーズンでは、2002ねんFIFAワールドカップ出場しゅつじょう目指めざすべく、シーズン前半ぜんはんにゴールを量産りょうさん。しかし、2002ねん1がつ31にちのコッパ・イタリア準決勝じゅんけっしょうパルマせんひだりひざじゅう靭帯じんたい全治ぜんち6ヶ月かげつ負傷ふしょう、しかしワールドカップへの出場しゅつじょう目指めざし、リハビリをわずか81にち復帰ふっき[14]。4月21にちだい32せつのフィオレンティーナせん後半こうはん25ふん途中とちゅう出場しゅつじょう、2ゴールを[6]だい34せつのボローニャせんでも1ゴールをげた[6]、しかしワールドカップへの出場しゅつじょうかなわなかった。

2003-04シーズン、だい33せつラツィオせんでシーズン12ゴールにして現役げんえき最後さいごのゴールをげた[6]、5月16にち、リーグ最終さいしゅうぶしサン・シーロでの古巣ふるすACミランせん現役げんえき最後さいごとなり、先発せんぱつ出場しゅつじょうし83ぶん途中とちゅう交代こうたいには客席きゃくせき全体ぜんたいからスタンディングオベーションがおくられた[14]

現役げんえき引退いんたいは、すう年間ねんかん休養きゅうようて2010ねんイタリアサッカー連盟れんめい打診だしんけ、テクニカル部門ぶもんのスタッフに就任しゅうにんしたが、2013ねん同職どうしょく退任たいにんした。以後いごはサッカーかいから距離きょりき、現在げんざい故郷こきょうカルドーニョにちかアルタヴィッラ・ヴィチェンティーナ隠居いんきょ生活せいかつおくっている[19]。2024ねん、この隠居いんきょさき武装ぶそうグループが侵入しんにゅうし、銃器じゅうき頭部とうぶなぐられて負傷ふしょうする事件じけん発生はっせいした[20]

代表だいひょう経歴けいれき[編集へんしゅう]

イタリア代表だいひょうとしては1988ねん11月16にちおこなわれたオランダとの国際こくさい親善しんぜん試合しあいでデビュー[2]。1989ねん4がつ22にちおこなわれたウルグアイとの国際こくさい親善しんぜん試合しあいはつゴールをあげた[2]

FIFAワールドカップにはイタリアWはい背番号せばんごうは15)、アメリカWはい背番号せばんごうは10)、フランスWはい背番号せばんごうは18)に出場しゅつじょうし、3じゅん優勝ゆうしょう準々じゅんじゅん決勝けっしょう進出しんしゅつと、いずれもベスト8にはいった。ちなみに3大会たいかい敗退はいたいはいずれもPKせんによるもので、バッジョは3大会たいかいともPKキッカーをつとめている。一方いっぽう欧州おうしゅう選手権せんしゅけんにはキャリアをつうじてえんがなかった。

1990ねんイタリア大会たいかい[編集へんしゅう]

1990 FIFAワールドカップ出場しゅつじょうしたバッジョ

1990ねん地元じもと開催かいさいでは当初とうしょスーパーサブてき存在そんざいであったが、グループリーグだい3せんチェコスロバキアせんにおいて、中盤ちゅうばんから単独たんどくドリブル突破とっぱ仕掛しかけ、ディフェンダーを次々つぎつぎってゴールをめた。

準決勝じゅんけっしょう相手あいてマラドーナひきいるアルゼンチンであったが、この試合しあいはバッジョはスタメンからはずれ、チームもアルゼンチンに1-1にいつかれたのち、PKせんやぶれた。

フル出場しゅつじょうした3決定けっていせんのイングランドせんではピーター・シルトン致命ちめいてきなミスをいて先制せんせいてん記録きろくし、さらには決勝けっしょうてんとなるPKをうばった。

1994ねんアメリカ大会たいかい[編集へんしゅう]

前年ぜんねんの1993ねんに、バロンドールを受賞じゅしょうしていたこともあって、周囲しゅうい期待きたいおおいにたかまっていた。しかしほん大会たいかい直前ちょくぜん右足みぎあしいためて万全ばんぜんでない状態じょうたいで1994ねんワールドカップをむかえた[21]

イタリアは、グループリーグ初戦しょせんアイルランドせんとし、グループリーグだい2せんノルウェーせんでは、ペナルティーエリアがいでの故意こいのハンドの反則はんそくをしたGKジャンルカ・パリュウカ退場たいじょう処分しょぶんとなったさいには、アリゴ・サッキ監督かんとくによりひかえGKルカ・マルケジャーニ投入とうにゅうのためにバッジョはベンチにげられてしまった[22]。 グループリーグだい3せんメキシコ代表だいひょうせん結局けっきょく、イタリアは1しょう1はい1けでかろうじて決勝けっしょうトーナメントに進出しんしゅつ当時とうじ規定きていでグループ3ながらすくわれた)。自身じしん得点とくてんわった。

決勝けっしょうトーナメント1回戦かいせんナイジェリアせんでも先制せんせいゆるし、反撃はんげきふだ投入とうにゅうしたゾラは不可解ふかかい判定はんてい退場たいじょう処分しょぶんとなり1てんけるくるしい試合しあい展開てんかいになる。しかし、試合しあい終了しゅうりょう直前ちょくぜんの89ふん、ついにバッジョが同点どうてんだんめ、延長えんちょうせんでもPKをしずめた[23]

準々じゅんじゅん決勝けっしょうスペインせんでもふたた終了しゅうりょう直前ちょくぜんカウンターから角度かくどのないところから決勝けっしょうてんをあげて、2-1で勝利しょうり準決勝じゅんけっしょうブルガリアせんでもつづけざまに2得点とくてんげて2-1と勝利しょうりした[24]決勝けっしょうトーナメントの準決勝じゅんけっしょうまでの3試合しあいでチーム6得点とくてんちゅう5得点とくてん、どのゴールも試合しあい逆転ぎゃくてん決定けっていするもので、酷評こくひょうから一転いってんして救世主きゅうせいしゅあつかいとなった。しかし、準決勝じゅんけっしょう右足みぎあし脹脛ふくらはぎいため、決勝けっしょうへの出場しゅつじょうあやぶまれた。

決勝けっしょうブラジルたたかえ、バッジョは強行きょうこう出場しゅつじょうしたものの精彩せいさいき、試合しあいはワールドカップ決勝けっしょう史上しじょうはつのPKせんとなった。ブラジルがリードをたもったまま最終さいしゅうキッカーであるバッジョのばんとなるが、かれはゴール左上ひだりうえにはるかたかげてしまう。これによってイタリアは優勝ゆうしょうのがした[25]

1998ねんフランス大会たいかい[編集へんしゅう]

ボローニャでゴールを量産りょうさんした好調こうちょうさをわれ、1998ねんフランスワールドカップのメンバーにサプライズ選出せんしゅつされた。大会たいかいつうじて2得点とくてん1アシストを記録きろくした。

初戦しょせんチリせん先発せんぱつ出場しゅつじょうパオロ・マルディーニからのロングボールを、バッジョがダイレクトでスルーパスをはしりこんだクリスティアン・ヴィエリとおしアシストを記録きろく。そのいつかれるが、バッジョみずからPKをさそい、これをめた[26]。またこのゴールで、イタリア代表だいひょうとしてワールドカップの舞台ぶたいで3大会たいかい連続れんぞくでゴールをめたはつ選手せんしゅとなった[27]。グループリーグ最終さいしゅうせんのオーストリアせんでは決勝けっしょうゴールをめる活躍かつやくせた[28]

準々じゅんじゅん決勝けっしょうフランスせんでは途中とちゅう出場しゅつじょうし、延長えんちょう後半こうはん決定的けっていてきともいえるボレーシュートをはなつが、ボールはクロスバーをわずかにえていった[29]結局けっきょく、この試合しあい決着けっちゃくはつかず、PKせん突入とつにゅう。バッジョは1番手ばんてでPKをめたが、イタリアは3大会たいかい連続れんぞくでPKせん敗退はいたいした。

1999ねん以降いこう[編集へんしゅう]

1999ねん以降いこう代表だいひょうからはとおざかる。本人ほんにんは2002ねんにちかん大会たいかい出場しゅつじょう熱望ねつぼうし、所属しょぞくクラブでゴールをつづけ、全治ぜんち6かげつ負傷ふしょう懸命けんめいのリハビリで2かげつ復帰ふっきするなどアピールをおこなったものの招集しょうしゅうされることはなかった。現役げんえき引退いんたい表明ひょうめいの2004ねん4がつ28にちジェノヴァおこなわれたスペインとの親善しんぜん試合しあいにキャリアへの敬意けいいから特別とくべつ招集しょうしゅうされ、この試合しあい最後さいご代表だいひょう引退いんたいした[2]。イタリア代表だいひょうでの通算つうさん成績せいせき国際こくさいAマッチ56試合しあい出場しゅつじょう27得点とくてん[2]

選手せんしゅとしての特徴とくちょう[編集へんしゅう]

すぐれたテクニックと、だれ予想よそうできないようなタイミングや方法ほうほうでパスやシュートをするなど、アイデアあふれるプレーをする選手せんしゅであり、「ファンタジスタ」という言葉ことばはまさにバッジョのためにあるとわれた[30]

幼少ようしょうころあこがれた選手せんしゅジーコで、フリーキックのかた真似まねるなどしていた[31]。ストライカーではなくプレーメーカーであるが、ミッシェル・プラティニは、9ばんと10ばんあいだ、9.5ばんであるとプレーりを分析ぶんせきしていた[14]

人物じんぶつ[編集へんしゅう]

もとローマ・カトリック信者しんじゃであったが、1980年代ねんだい仏教ぶっきょう改宗かいしゅうし、創価学会そうかがっかい会員かいいんとなった[32]さんしょくはたキャプテンマーク着用ちゃくようしたこともある[33]

個人こじん成績せいせき[編集へんしゅう]

クラブ[編集へんしゅう]

クラブ シーズン リーグせん コッパ・イタリア 国際こくさい大会たいかい その 合計ごうけい
ディビジョン 出場しゅつじょう 得点とくてん 出場しゅつじょう 得点とくてん 出場しゅつじょう 得点とくてん 出場しゅつじょう 得点とくてん 出場しゅつじょう 得点とくてん
ヴィチェンツァ 1982-83 セリエC 1 0 0 0 - - 1 0
1983-84 6 1 4 0 - 2 1 12 2
1984-85 29 12 5 2 - - 34 14
通算つうさん 36 13 9 2 - 2 1 47 16
フィオレンティーナ 1985-86 セリエA 0 0 5 0 - - 5 0
1986-87 5 1 4 2 1 0 - 10 3
1987-88 27 6 7 3 - - 34 9
1988-89 30 15 10 9 - 1 0 41 24
1989-90 32 17 2 1 12 1 - 46 19
通算つうさん 94 39 28 15 13 1 1 0 136 55
ユヴェントス 1990-91 セリエA 33 14 5 3 8 9 1 1 47 27
1991-92 32 18 8 4 - - 40 22
1992-93 27 21 7 3 9 6 - 43 30
1993-94 32 17 2 2 7 3 - 41 22
1994-95 17 8 4 2 8 4 - 29 14
通算つうさん 141 78 26 14 32 22 1 1 200 115
ミラン 1995-96 セリエA 28 7 1 0 5 3 - 34 10
1996-97 23 5 5 3 5 1 0 0 33 9
通算つうさん 51 12 6 3 10 4 0 0 67 19
ボローニャ 1997-98 セリエA 30 22 3 1 - - 33 23
インテル 1998-99 セリエA 23 5 4 0 6 4 2 1 35 10
1999-00 18 4 5 1 - 1 2 24 7
通算つうさん 41 9 9 1 6 4 3 3 59 17
ブレシア 2000-01 セリエA 25 10 3 0 - - 28 10
2001-02 12 11 1 0 2 1 - 15 12
2002-03 32 12 0 0 - - 32 12
2003-04 26 12 0 0 0 0 - 26 12
通算つうさん 95 45 4 0 2 1 - 101 46
キャリア通算つうさん 488 218 85 36 63 32 7 5 643 291
出典しゅってん : RSSSF

代表だいひょう[編集へんしゅう]

出場しゅつじょう大会たいかい
1990ねん - 1990 FIFAワールドカップ(3
1994ねん - 1994 FIFAワールドカップじゅん優勝ゆうしょう
1998ねん - 1998 FIFAワールドカップ(ベスト8)
試合しあいすう
  • 国際こくさいAマッチ 56試合しあい 27得点とくてん(1988ねん - 2004ねん


イタリア代表だいひょう国際こくさいAマッチ
とし出場しゅつじょう得点とくてん
1988 1 0
1989 6 3
1990 9 4
1991 2 1
1992 7 6
1993 7 5
1994 12 5
1995 1 0
1996 0 0
1997 2 1
1998 6 2
1999 2 0
2004 1 0
通算つうさん 56 27

タイトル[編集へんしゅう]

クラブ[編集へんしゅう]

個人こじん[編集へんしゅう]

出典しゅってん[編集へんしゅう]

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  20. ^ ロベルト・バッジョさんが頭部とうぶ負傷ふしょう自宅じたく武装ぶそうした犯行はんこうグループ侵入しんにゅうなぐられる”. CNN (2024ねん6がつ22にち). 2024ねん6がつ23にち閲覧えつらん
  21. ^ ワールドカップUSA 94 完全かんぜん総集編そうしゅうへん WORLD SOCCER GRAPHIC 1994ねん8がつごう増刊ぞうかん p.100-101
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  23. ^ : Italia-Nigeria 2-1-stoliedicalcio 2018ねん1がつ25にち
  24. ^ Mondiali 1994: Italia-Bulgaria 2-1-stoliedicalcio 2018ねん1がつ25にち
  25. ^ Mondiali 1994: Brasile-Italia 0-0; 3-2 d.c.r-strie dicalcio 2018ねん1がつ8にち
  26. ^ Mondiali 1998: Italia-Cile 2-2-stoliedicalcio 2018ねん1がつ21にち
  27. ^ ワールドサッカーダイジェスト 1998ねん10がつごう p.6-7 日本スポにっぽんすぽツ企画出版社つきかくしゅっぱんしゃ
  28. ^ Mondiali 1998: Italia-Austria 2-1-stoliedicalcio 2018ねん1がつ21にち
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  30. ^ 田嶋たじま幸三こうぞう『これだけはっておきたい(30) サッカーのだい常識じょうしき株式会社かぶしきがいしゃポプラ社ぽぷらしゃ、2006ねん、104ページ、ISBN 4-591-09115-5
  31. ^ だい11かい ロベルト・バッジオ、“独占どくせん取材しゅざい”のよる後編こうへん)”. www.ninomiyasports.com. (2008ねん8がつ8にち). https://www.ninomiyasports.com/archives/11279 2020ねん6がつ1にち閲覧えつらん 
  32. ^ Buddisti Soka Gakkai. Una Sabina vi convertirà”. chiesa.espresso.repubblica.it (4 settembre 1997). 2021ねん6がつ29にち閲覧えつらん
  33. ^ Profile: Has so much ever hung on a hamstring?: Roberto Baggio,” (英語えいご). The Independent (2011ねん10がつ23にち). 2021ねん6がつ29にち閲覧えつらん

関連かんれん書籍しょせき[編集へんしゅう]

  • ロベルト・バッジョ ちょ/片野かたの道郎みちお わけ「ロベルト・バッジョ自伝じでん てんとびら」 2002ねん4がつ 潮出版社うしおしゅっぱんしゃ
  • ロベルト・バッジョ ちょ/片野かたの道郎みちお やく「ロベルト・バッジョ自伝じでんII ゆめつづき」 2003ねん4がつ 潮出版社うしおしゅっぱんしゃ

関連かんれん作品さくひん[編集へんしゅう]

  • ビデオ 「21世紀せいき栄光えいこうのゴール」 1999ねん11月 シナノ企画きかく
  • ビデオ 「ロベルト・バッジョ」 2004ねん1がつ シナノ企画きかく