(Translated by https://www.hiragana.jp/)
レフ・ヤシン - Wikipedia コンテンツにスキップ

レフ・ヤシン

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
レフ・ヤシン
1965ねんのヤシン
名前なまえ
本名ほんみょう レフ・イワノヴィッチ・ヤシン
Lev Ivanovich Yashin
愛称あいしょう くろ蜘蛛くも
くろひょう
ラテン文字もじ Lev Yashin
キリル文字もじ Лев Яшин
基本きほん情報じょうほう
国籍こくせき ソビエト連邦の旗 ソビエト連邦れんぽう
生年月日せいねんがっぴ 1929ねん10月22にち
出身しゅっしん ロシア・ソビエト連邦れんぽう社会しゃかい主義しゅぎ共和きょうわこくモスクワしゅうモスクワ
ぼつ年月日ねんがっぴ (1990-03-20) 1990ねん3がつ20日はつか(60さいぼつ
身長しんちょう 189 cm
体重たいじゅう 82 kg
選手せんしゅ情報じょうほう
ポジション GK
あし 右足みぎあし
クラブ1
とし クラブ 出場しゅつじょう (得点とくてん)
1949-1970 ソビエト連邦の旗 ディナモ・モスクワ 326 (1)
代表だいひょうれき
1954-1970 ソビエト連邦の旗 ソビエト連邦れんぽう 78 (0)
獲得かくとくメダル
男子だんし サッカー
オリンピック
きむ 1956 メルボルン サッカー
1. 国内こくないリーグせんかぎる。
■テンプレート■ノート 解説かいせつ■サッカー選手せんしゅpj

レフ・イワノヴィッチ・ヤシンロシア: Лев Иванович Яшин, 1929ねん10月22にち - 1990ねん3がつ20日はつか)は、ソビエト連邦れんぽうモスクワ出身しゅっしんサッカー選手せんしゅもとソ連それん代表だいひょう。ポジションはゴールキーパー

人物じんぶつ[編集へんしゅう]

ヤシンは、サッカー史上しじょう最高さいこうのゴールキーパーとひょうされることおおい。1963ねん、2023ねん現在げんざいまでにGKで唯一ゆいいつとなるバロンドール受賞じゅしょうしている[1]1998ねんにはFIFAの20世紀せいきワールドチームのGKにえらばれた。2020ねんにはバロンドール・ドリームチームのGKにえらばれた[2]FIFAワールドカップ大会たいかい最優秀さいゆうしゅうGKにあたえられるしょうには、1994ねん大会たいかいから2006ねん大会たいかいまで「ヤシンしょう」と名付なづけられている。

クラブでは、デビューから引退いんたいまで20ねん以上いじょうディナモ・モスクワ一筋ひとすじごし326試合しあい出場しゅつじょう[3]リーグ優勝ゆうしょう5かいカップ優勝ゆうしょう3かい経験けいけんした。ソ連それん代表だいひょうとしては通算つうさん78試合しあい出場しゅつじょうし、夏季かきオリンピック優勝ゆうしょう1かい欧州おうしゅう選手権せんしゅけん優勝ゆうしょう1かいFIFAワールドカップでは合計ごうけい13試合しあい出場しゅつじょうした。

経歴けいれき[編集へんしゅう]

[編集へんしゅう]

ヤシンは、モスクワひがし錠前じょうまえ家庭かていまれた[4]。ヤシン叔母おばアンナ・ミトロザノヴナの一家いっか同居どうきょしており、1つのおおきな家族かぞくとしてらした。はる夏秋なつあきいえ中庭なかにわ友人ゆうじんたちとくらくなるまでサッカーに熱中ねっちゅうし、ふゆにわスケートをする日々ひびごした。

6さいははアンナが結核けっかくのためくなる[5]。11さいときにはだい世界せかい大戦たいせん影響えいきょうでモスクワ近郊きんこうむらにある軍用ぐんよう部品ぶひん工場こうじょうちちイヴァンとともはたら[5]同年どうねんあきにはモスクワからとおはなれたウリヤノフスク疎開そかい列車れっしゃ貨物かもつろす仕事しごとにも従事じゅうじした[4]。16さいときにはまずしい食生活しょくせいかつ影響えいきょう胃潰瘍いかいようわずら黒海こっかい沿岸えんがんにある療養りょうよう施設しせつはいるなど、苦労くろうおお少年しょうねん時代じだいごした[5]1937ねん父親ちちおや再婚さいこんし、1939ねんには双子ふたごおとうと誕生たんじょうしている。

ヤシンは少年しょうねん時代じだいから身体しんたいおおきく、友人ゆうじんたちから「エッフェル塔えっふぇるとう」とばれた。父親ちちおやすすめもあり、アイスホッケーサッカーバレーボール体操たいそう水泳すいえい陸上りくじょう競技きょうぎなど様々さまざまなスポーツを経験けいけんした。なかでもアイスホッケーのGKとしての資質ししつぐんいたものだったという。[6]

1944ねん戦争せんそうによる中断ちゅうだん期間きかんけ、モスクワでサッカーの試合しあい再開さいかいされるとヤシンも工場こうじょうのチームの入団にゅうだんテストをける。当初とうしょはストライカーになることを切望せつぼうしていたが、身長しんちょうたか跳躍ちょうやくりょくがあったことから、チームのボスはヤシンにゴールキーパーのポジションをてた[5]

1947ねん兵役へいえきでモスクワに配属はいぞくされると、ぐんのスポーツであるディナモ・スポーツ・ソサエティに入団にゅうだん市議会しぎかい主催しゅさいするチャンピオン・シップでデビューした。 同年どうねん7がつ、アイスホッケーのコーチであるアルカディ・チェルヌイシェフのまり、HCディナモ・モスクワユースへとスカウトされる[5]。しかしすぐれた守備しゅびりょくゆうするヤシンにとって、「アイスホッケーのゴールはせますぎる (本人ほんにんだん)」ことと、FCディナモ・モスクワ国内外こくないがいにおける活躍かつやくへのあこがれから、次第しだいにサッカーへのおもいをつよめていった。[6]

現役げんえき時代じだい[編集へんしゅう]

1949ねんFCディナモ・モスクワ入団にゅうだん当初とうしょは「タイガー」の愛称あいしょうられためいGKアレクセイ・ホミッチ英語えいごばんひかえであり、HCディナモ・モスクワゴールテンダーとしてもつづきプレーしている。アイスホッケーとのそくわらじ生活せいかつは1954ねんまでつづいた。[7]

1951ねん、トップチームではつ出場しゅつじょうたす。デビューせんは2失点しってんきっしてやぶれている。以降いこうもホミッチのひかえという状況じょうきょうわらず、ベンチでの日々ひびごす。

1953ねん3がつ、アイスホッケーのソビエトカップで優勝ゆうしょうし、ゴールテンダーとしても3えらばれる[7][8]。ホッケークラブのコーチによるつよすすめもありサッカーを断念だんねんすることもかんがえたが、ホミッチの説得せっとくによりおもとどまっている[6]
同年どうねん、ホミッチの怪我けががきっかけでせいGKに定着ていちゃくよく1954ねんソ連それん代表だいひょうはつ招集しょうしゅうされ、9月8にちスウェーデンせん代表だいひょうデビュー。

1955ねん8がつ当時とうじ世界せかい王者おうじゃである西にしドイツとのいちせんこうプレーを連発れんぱつし、3-2での勝利しょうり貢献こうけんする。一躍いちやく世界せかいられることとなった。[9]

1956ねんメルボルンオリンピックソ連それん代表だいひょうとしてきんメダルを獲得かくとくソ連それん代表だいひょう獲得かくとくしたはつ国際こくさいタイトルであり、ヤシンも5試合しあいちゅう4試合しあいにスタメン出場しゅつじょうし、失点しってん2という活躍かつやくせた。

自身じしんはつのワールドカップ[10]となる1958ねんスウェーデン大会たいかいでは、「巨人きょじんたたかい」としょうされたグループ4のリーグ突破とっぱ (くみ参照さんしょう) とベスト8りに貢献こうけんした。とくにグループリーグのブラジルせんでは0-2でやぶれたものの、ヤシンもじつに12かいのファインセーブをせ、この大会たいかいせいすることになるタレント軍団ぐんだんおおいにくるしめた。当時とうじ17さいだったペレ後年こうねん、ヤシンの度重たびかさなる美技びぎたりにして「かれからゴールをうばうのは不可能ふかのうだとおもい、滅入めいってしまった」と述懐じゅっかいしている。[9]

1960ねんだい1かい欧州おうしゅう選手権せんしゅけん当時とうじ欧州おうしゅうネイションズカップと呼称こしょう)に優勝ゆうしょうし、ベストイレブンにも選出せんしゅつされた。このとしよく1961ねんバロンドールにノミネートされ、それぞれ5と4にランクインをたしている。[11]

2度目どめのワールドカップとなった1962ねんチリ大会たいかいでは、トーナメントで2脳震盪のうしんとうこしたが、チームを準々じゅんじゅん決勝けっしょうみちびいた。しかし、10分間ふんかんに3てんかれ4-4でけたグループリーグのコロンビアせんや、2平凡へいぼんなロングシュートを失点しってんして2-1でやぶれた準々じゅんじゅん決勝けっしょうチリせんなどの不安定ふあんてい守備しゅびせたことで、国内こくないでは敗退はいたい責任せきにん一身いっしん背負しょわされる格好かっこうとなり、その非難ひなんはげしさに一時期いちじき真剣しんけん引退いんたいかんがえたほどだった[12][13]同年どうねん開催かいさいの「さん国対こくたいこう国際こくさいサッカー大会たいかい」でディナモ・モスクワの一員いちいんとしてはつ来日らいにち後楽園こうらくえん競輪けいりんじょうにてスウェーデン代表だいひょう日本にっぽん代表だいひょう対戦たいせんした。この大会たいかいでのちのJリーグ初代しょだいチェアマンでもある川淵かわぶち三郎さぶろうがヤシンからゴールをうばっている。[6]

1963ねん10月23にち、ヤシンはイングランドウェンブリー・スタジアムおこなわれたFA創設そうせつ100周年しゅうねん記念きねん試合しあい世界せかい選抜せんばつメンバーに招待しょうたいされ、イングランド代表だいひょう度重たびかさなる猛攻もうこう失点しってんおさえ、前半ぜんはん45ふんのみの出場しゅつじょうながらも観衆かんしゅうつよ印象いんしょうのこ活躍かつやくせた。同年どうねん12がつにバロンドールを受賞じゅしょう

1964ねんにはソ連それんリーグで27試合しあい出場しゅつじょうして6失点しってんしかゆるさず、このとしにディナモ・モスクワは優勝ゆうしょうした[13]欧州おうしゅう選手権せんしゅけんではじゅん優勝ゆうしょうたし、前回ぜんかいつづいてベストイレブンに選出せんしゅつされた。

ソ連それんにとって、ワールドカップ最高さいこう成績せいせきの4となった1966ねん大会たいかいでは6試合しあいちゅう4試合しあい出場しゅつじょう

1967ねんソ連それん最高さいこうしょうとされるレーニン勲章くんしょう受賞じゅしょうした。同年どうねんにはしゅう中央ちゅうおう身体しんたい文化ぶんか研究所けんきゅうじょ(SCOLIFK)のコーチ育成いくせい学校がっこう卒業そつぎょうしている。

すでに40さいになっていた1970ねん大会たいかいでも、メンバーりをたしている。このとき、ヤシンは後進こうしんのバックアップにまわることをみずか志願しがんしており[9]ひかえGKけんアシスタントコーチをつとめた。同年どうねんまつ現役げんえき引退いんたい表明ひょうめいした。

1971ねん5月27にちおこなわれたヤシンの引退いんたい試合しあいのディナモ・モスクワたい世界せかい選抜せんばつには、会場かいじょうレーニン・スタジアムに10まんにんのファンがあつまった。世界せかい選抜せんばつには、エウゼビオ(ポルトガル)、ボビー・チャールトン(イングランド)、ゲルト・ミュラー西にしドイツ)といった各国かっこくのスター選手せんしゅたちが参加さんかし、試合しあいは2-2のけで終了しゅうりょうした。ヤシンは、この引退いんたい試合しあい報酬ほうしゅうのほとんどを孤児こじため寄付きふしている。[9]

同年どうねん8がつ31にち、ヤシンはイタリア代表だいひょうたい世界せかい選抜せんばつチームの試合しあいふたたびフィールドにった。世界せかい選抜せんばつチームのゴールをまもり、4-2で勝利しょうりおさめた。

引退いんたい[編集へんしゅう]

ディナモ・モスクワで後進こうしん指導しどうたったのち[9]、ヤシンはディナモのサッカー部門ぶもんホッケー部門ぶもんふく部長ぶちょうつとめた。そのソ連それんスポーツ委員いいんかい要職ようしょく歴任れきにん[9]、ソビエト連邦れんぽうサッカー連盟れんめいふく会長かいちょうソ連それんだい2代表だいひょうチームのコーチもつとめた。

1984ねん、ヤシンは血液けつえきのかたまりによってこされる血栓けっせんせい静脈じょうみゃくえんというやまいにより左足ひだりあし切断せつだんしている。後年こうねんイスラエル訪問ほうもんちゅう義足ぎそくけた。

1990ねん3月18にちソ連それんのスポーツかいはつ社会しゃかい主義しゅぎ労働ろうどう英雄えいゆう受勲じゅくんした。

同年どうねん3がつ20日はつか、ヤシンは胃癌いがんによりその生涯しょうがいまくじた。60さいぼつソ連それん政府せいふはヤシンの功績こうせきとなえ、葬儀そうぎ国葬こくそうおこなわれた[14]。ヤシンの遺体いたいは、モスクワ市内しないヴァガニコヴォ墓地ぼち埋葬まいそうされている。

ディナモ・スタジアム北側きたがわくちには、レフ・ヤシンのぞうてられている。

2018ねんFIFAワールドカップ・ロシア大会たいかいでは、ソビエト連邦れんぽう代表だいひょう時代じだいのヤシンのプレーをした大会たいかい公式こうしきポスターが製作せいさくされている[15]

2019ねんバロンドール授賞じゅしょうしきではヤシン・トロフィーあらたに追加ついかされ、はつ受賞じゅしょうしゃアリソン・ベッカーだった[16]

選手せんしゅとしての特徴とくちょう[編集へんしゅう]

ヤシンは非常ひじょうながうであしち、そしてくろいユニフォームとくろグローブけていた風貌ふうぼうから「くろ蜘蛛くも」または「くろひょう」とばれた。

ヤシンのプレーは革新かくしんてきだった。跳躍ちょうやくりょく反射はんしゃ神経しんけい判断はんだんりょくくわえ、元々もともとフィールドプレーヤー志望しぼうだったかれ足元あしもと技術ぎじゅつすぐれていた[6]ペナルティーエリア全体ぜんたいひろくカバーするだけでなく、必要ひつようとあらば積極せっきょくてきにペナルティーエリアのそとにもすプレースタイルは、ゴールまえのみをまもるのがたりまえだったどう時代じだいのほかのGKにはられない特長とくちょうだった[3]。そのプレーは1950年代ねんだい当時とうじサーカス」としょうされ、21世紀せいき現在げんざいもなお「スイーパー・キーパー」の先駆せんくしゃとしてひょうされている。[4]

くろいユニフォームとともキャップも、ヤシンの象徴しょうちょうとしてられている。ハイクロスの処理しょりにはキャップをいでヘディングでクリアし、またキャップをこうむるという光景こうけいは、毎回まいかい歓声かんせいがったという。のち試合しあいのスピードががりタフな展開てんかいへと変化へんかしていったことで、キャップをいでのヘディングはめている[5]。ヤシン本人ほんにんはこのキャップについて、「これはおまもりだ」とかたっている。[4]

練習れんしゅう内容ないよう画期的かっきてきだったとされている。シュートをキャッチせずにはじすことすら「敗北はいぼく」ととらえるほどだったというが、一方いっぽうでヤシンはむずかしいボールをキャッチするのではなくパンチングする練習れんしゅうはじめたGKの1人ひとりだった。また、前述ぜんじゅつのペナルティーエリアがいへのしのほか、反撃はんげき開始かいしするため素早すばやいスローイング、そしてディフェンダー組織そしきかれらへの指示しじし (コーチング)といった内容ないようは、当時とうじとしては斬新ざんしんなものだった[17]余談よだんだが、コーチングにかんしてはヤシンが試合しあいちゅう怒鳴どなりすぎていると、しばしばつまから非難ひなんけたという。

「ボールをしっかりキャッチして味方みかた攻撃こうげきつなげること」をGKの仕事しごと心得こころえ、「技術ぎじゅつ身体しんたい能力のうりょくつぎ。とにかく絶対ぜったいにボールをめるというつよ意志いしこそが大事だいじ」ともヤシンはかたっている。[6]

ヤシンはディナモ・モスクワで出場しゅつじょうした326試合しあいちゅう、160試合しあいクリーンシート達成たっせいしている[4][6]。ワールドカップでは決勝けっしょうトーナメントにけい12試合しあい出場しゅつじょうし、4試合しあいでクリーンシートを達成たっせいした[7]真偽しんぎ不明ふめいだが、かたられるところによればヤシンは150ほん以上いじょうのPKをめたという[3]。(List of world association football records参照さんしょう)

ソビエト連邦れんぽう代表だいひょうでは通算つうさん78試合しあいプレーし、70失点しってんだった[9]。ヤシンの全盛期ぜんせいきだった当時とうじは、現在げんざいくらべてディフェンス技術ぎじゅつのレベルがたかくなく、フェレンツ・プスカシュはじめとした一流いちりゅうのストライカーたち容易たやすくゴールをめられる環境かんきょうであったことをかんがえると驚異きょういてき記録きろくといえる。

私生活しせいかつ[編集へんしゅう]

つまのヴァレンティナ・ティモフィーナ・ヤシーナとのあいだにイリーナ、エレナという2人ふたりむすめもうけた[18]。ヴァレンティナはロシア・ワールドカップ開催かいさいされた2018ねん時点じてんでも、ヤシンが1964ねんソ連それん政府せいふから支給しきゅうされたモスクワのアパートメント在住ざいじゅうしている。[19]

3にんまご誕生たんじょうしたがうち1にん自転車じてんしゃ事故じこため2002ねんに14さい他界たかいしている[20]。またまごのひとりであるヴァシリー・フロロフ(イリーナの息子むすこ)は、かつてヤシンも在籍ざいせきしたディナモ・モスクワのユースにてGKとして23さいまでプレーし、選手せんしゅ名鑑めいかんにも掲載けいさいされていた[21]現在げんざいヴァシリーはスパルタク・スタジアムきんにてGKトレーニングスクールを運営うんえいしている。[20]

逸話いつわ[編集へんしゅう]

  • くろ蜘蛛くも」のあだとおり、ヤシンはくろいユニフォームでプレイしたことでられるが、つまのバレンティナ・ティモフィーナ・ヤシーナは「(くろではなく)紺色こんいろだった」と証言しょうげんしており、「はるあきにはピッチがぬかるんでいましたが、紺色こんいろだとどろがついても目立めだたなかったんです」とかたっている。またバレンティナは、ヤシンが怪我けがふせために、あつ時期じきになっても厚手あつでのユニフォームをごうとしなかったことやパンツのしたキルトトランクスいていたと証言しょうげんしている[5]
  • 前述ぜんじゅつとおりキャップをこうむっていたことでもられるが、1960ねんだい1かい欧州おうしゅう選手権せんしゅけんでソビエトが優勝ゆうしょうしたさいには、試合しあい終了しゅうりょうのホイッスルと同時どうじにピッチへとなだれんだ観客かんきゃくにキャップをぬすまれるという事件じけん発生はっせいした[5]
  • 謙虚けんきょ人柄ひとがらられた。モスクワ労働ろうどう地区ちく出身しゅっしんということもあり、ソ連それん代表だいひょうとして名声めいせいのちみずからを「労働ろうどうしゃ」としょうした。「大工だいく仕事しごとまえいたれるように、試合しあいまえにはボールにれる必要ひつようがある。労働ろうどう階級かいきゅうならわしだ」ともべている。またつまのヴァレンチナは「かれ首脳しゅのうじんにボーナスをもとめることもなく、とても思案じあんだった。いつも「これもらっていのかな。ちがったらどうしよう」と遠慮えんりょしていた」と回想かいそうしている。[4]
  • くろ蜘蛛くも」「くろひょう」のあだられたが、1963ねん出場しゅつじょうしたFA創設そうせつ100周年しゅうねん記念きねん試合しあいでの活躍かつやくにより、イギリスでは「くろタコ」ともばれた。[6]
  • ファンとのエピソードで以下いかのものがある。1956ねんメルボルンオリンピックはつ優勝ゆうしょうたしたソ連それん代表だいひょうメンバーの帰路きろふねウラジオストクまでき、そこからモスクワまで列車れっしゃもどるというなが日程にっていついやすものだった。ロシアちゅうのファンが優勝ゆうしょうチームを出迎でむかえられるようにするためである。チームの医師いしオレグ・ベラコフスキーは「大晦日おおみそかひげやした男性だんせいふくろって車両しゃりょうはいってて「きみたち、ヤシンはどこだい」とさけんだ。ヤシンがあゆると、男性だんせいはヤシンのまえひざまずき、ふくろからいちびん密造みつぞうしゅいちふくろのヒマワリのたねすと、「これがおれたちのっているありったけのものさ。ありがとうよ、ロシアのぜん国民こくみんからのれいだ!」とった。」という一幕ひとまく回想かいそうしている。[4]
  • プロ意識いしきたかかった一方いっぽう喫煙きつえんしゃでもあった。身体しんたいわるいと自覚じかくしてはいたが、1にちはんはこうこともあったと告白こくはくしている。インタビューでプレーの秘訣ひけつについてわれたさい、「神経しんけいかせるため煙草たばこう」ともこたえている[22]喫煙きつえんがヤシンのプレーに悪影響あくえいきょうあたえているにはえなかったため、コーチたちは黙認もくにんしていた[4]。しかしこの習慣しゅうかん原因げんいんで、引退いんたいには前述ぜんじゅつ左足ひだりあし切断せつだんへといたっている。手術しゅじゅつ喫煙きつえんめることはなかったという。
  • 胃癌いがんにより他界たかいしているが、つまのバレンティナによれば、生前せいぜんのヤシンは異常いじょうなほどの胃酸いさん過多かたつね胃痛いつうなやまされていたという。ポケットにかならじゅう炭酸たんさんしおれ、それをためみず可能かのうかぎ携帯けいたいしていた。その症状しょうじょうみずっていないとき胃痛いつうこると、みずっててもらうのをっていられないほどの激痛げきつうだったと証言しょうげんしている[5]
  • 前述ぜんじゅつとおり、ヤシンは2021ねん現在げんざいGKとして唯一ゆいいつバロンドール受賞じゅしょうしているが、受賞じゅしょうさい世界せかい最高さいこうのキーパーは自分じぶんではなくヴラディミル・ベアラだと主張しゅちょうした[5]

出場しゅつじょう大会たいかい[編集へんしゅう]

獲得かくとくタイトル[編集へんしゅう]

ソビエト連邦れんぽう代表だいひょう
  • オリンピック優勝ゆうしょう1かい:1956
  • 欧州おうしゅう選手権せんしゅけん優勝ゆうしょう1かい:1960
ディナモ・モスクワ
個人こじんタイトル

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ 今年ことしから新設しんせつの「ヤシン・トロフィー」、初代しょだい受賞じゅしょうしゃはアリソンに決定けってい!”. サッカーキング. (2019ねん12月3にち). https://www.soccer-king.jp/news/world/20191203/1004974.html 2020ねん2がつ26にち閲覧えつらん 
  2. ^ Ballon d'Or Dream Team : Découvrez les révélations de ce onze de légende ! France Football 2020ねん12月15にち閲覧えつらん
  3. ^ a b c d Lev YASHIN” (英語えいご). Russian National Football / Soccer Team. 2009ねん2がつ28にち閲覧えつらん
  4. ^ a b c d e f g h ロシアのサッカー史上しじょうもっと偉大いだい選手せんしゅレフ・ヤシンにまつわる7つの事実じじつ RUSSIA BEYOND (オレグ・エゴロフ 2018ねん3がつ28にちづけ記事きじより)
  5. ^ a b c d e f g h i j ジョナサン・ウィルソン『孤高ここう守護神しゅごじん ゴールキーパー進化しんかろん』(2014ねん白水しろみずしゃ ISBN 978-4-560-08358-1
  6. ^ a b c d e f g h レジェンドの軌跡きせき THE REGEND STORYーーだい57かい・ヤシン (もとソ連それん代表だいひょう) プレーと人間にんげんせい世界せかいからの尊敬そんけいあつめた革新かくしんてきGK サッカーダイジェストWeb (2020ねん2がつ8にち記事きじ)
  7. ^ a b c "Bullet maker to Ballon d'Or: The man who reinvented goalkeeping” (英語えいご).BBC.Retrieved 7 June 2018
  8. ^ A tribute to Lev Yashin (英語えいご). Bleacher Report 21 March 2018
  9. ^ a b c d e f g レジェンドの軌跡きせき THE LEGEND STORY――だい57かい・ヤシン(もとソ連それん代表だいひょう祖国そこくふたつのビッグタイトルをもたらした永遠えいえん英雄えいゆう サッカーダイジェストWeb (2020ねん2がつ8にち記事きじ)
  10. ^ ソ連それん代表だいひょうもワールドカップはつ出場しゅつじょう
  11. ^ Why a Goalkeeper Will Never Win Another Ballon d'Or (英語えいご). Reno, Bill (12 May 2015) Paste Magazine.
  12. ^ 大平おおひら陽一よういち『ロシア・サッカー物語ものがたり東洋とうよう書店しょてん、2002ねんISBN 4-88595-394-4
  13. ^ a b Yashin earns more than respect” (英語えいご). uefa.com (2004ねん10がつ11にち). 2009ねん2がつ28にち閲覧えつらん
  14. ^ Greaves, Jimmy (2008). Football's Great Heroes and Entertainers. Hachette UK. p. 1949. ISBN 1444718150
  15. ^ W杯だぶりゅーはいポスターにもとソ連それん代表だいひょう伝説でんせつてきGKヤシン”. ニッカンスポーツ・コム. 日刊スポにっかんすぽツ新聞社つしんぶんしゃ. (2017ねん11月29にち). https://www.nikkansports.com/soccer/world/news/201711290000183.html 2017ねん11月30にち閲覧えつらん 
  16. ^ 今年ことしから新設しんせつの「ヤシン・トロフィー」、初代しょだい受賞じゅしょうしゃはアリソンに決定けってい”. サッカーキング (2019ねん12月3にち). 2019ねん12月11にち閲覧えつらん
  17. ^ "Yashin, the impregnable Spider". (英語えいご). FIFA. Retrieved 23 November 2013
  18. ^ Лев Иванович Яшин.(ロシア). academydinamo.ru (27 March 2017)
  19. ^ Yashin (英語えいご). BBC Online Patrick Jennings (2 July 2018)
  20. ^ a b Yashin (英語えいご). BBC Online Patrick Jennings (2 July 2018)
  21. ^ Pryakhin, Valery (19 January 2007) Вратарь «Динамо» Василий Фролов, внук Льва Яшина: Бутсы деда мне великоваты Archived 16 September 2017 at the Wayback Machine.. (ロシア). sovsport.ru
  22. ^ “"Panther" gegen "Spinne" ["Panther" vs. "Spider"]” (ドイツ). FIFA. (2016ねん5がつ12にち). http://de.fifa.com/worldcup/news/y=2016/m=5/news=panther-gegen-spinne-2790692.html 
  23. ^ RSSSF - IFFHS' Century Elections