なな王国おうこく

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バーソロミューの「ヨーロッパの文学ぶんがくおよび歴史れきしてき地図ちず」によるなな王国おうこく(1914)

アングロ・サクソンなな王国おうこく(しちおうこく、英語えいご: Heptarchyヘプターキー)とは、中世ちゅうせい初期しょきグレートブリテンとう侵入しんにゅうしたアングロ・サクソンじん同島どうとう南部なんぶから中部ちゅうぶにかけての地域ちいき建国けんこくした7つの王国おうこくのこと。この時代じだいをまた「なな王国おうこく時代じだい」ともぶ。「ヘプターキー」という言葉ことば古代こだいギリシア数詞すうしで「7」をす「ヘプタ(ἑπτά)」と「くに」の「アーキー(ἀρχή)」をした造語ぞうごである。最初さいしょにこのかたりしるしたのは12世紀せいき史家しかヘンリー・オブ・ハンティングドンであり、16世紀せいきには用語ようごとして定着ていちゃくした。

これらの王国おうこくきそった時代じだいは、ホノリウスみかどブリタンニア放棄ほうきしてから(409ねんEnd of Roman rule in Britain)、ウェセックスエグバートおうカレドニアのぞくブリテンとう統一とういつするまで(825ねんエランダンのたたか英語えいごばん)であるとかんがえられている。実際じっさいにアングロ・サクソンじん建国けんこくした王国おうこくは7つのみではなく、多数たすう群小ぐんしょうのアングロ・サクソンじんおよび先住せんじゅうブリトンじんしょう国家こっかぐんとともに林立りんりつしたが、次第しだいにそのなか有力ゆうりょく国家こっか周囲しゅうい小国しょうこく併呑へいどんして覇権はけんひろげていった。7つという王国おうこくかずは、これらの覇権はけんひろげた有力ゆうりょくくにを、後世こうせい7つの大国たいこく代表だいひょうさせたものである。この王国おうこくぐんなかからのちイングランド形成けいせいされ、その領土りょうどは「アングルじん土地とち」という意味いみで「イングランド」とばれることとなる。

なな王国おうこく[編集へんしゅう]

おもなアングロサクソン王国おうこく

上記じょうきの7つの大国たいこくとして、以下いかの7つのくにげられる。

  1. ノーサンブリア王国おうこく: イングランド北東ほくとう支配しはいしたアングルじん王国おうこく
  2. マーシア王国おうこく: イングランド中央ちゅうおう支配しはいした。7世紀せいきごろ勢力せいりょくほこったアングルじん王国おうこく
  3. イースト・アングリア王国おうこく: イングランド南東なんとうイースト・アングリア地方ちほう現在げんざいノーフォークサフォーク周辺しゅうへん支配しはいしたアングルじん王国おうこく
  4. エセックス王国おうこく: イングランド南東なんとう支配しはいしたサクソンじん王国おうこく現在げんざいエセックスハートフォードシャーミドルセックス周辺しゅうへん支配しはいした。
  5. ウェセックス王国おうこく: イングランド南西なんせい支配しはいしたサクソンじん王国おうこく最終さいしゅうてきドーセットハンプシャー周辺しゅうへん中心ちゅうしん王国おうこくとして形成けいせいされたが、前期ぜんき支配しはい区域くいきもっと北部ほくぶであった。
  6. ケント王国おうこく: イングランド南東なんとう現在げんざいのケント周辺しゅうへん形成けいせいされたジュートじん王国おうこくもっとはや時期じきローマけいキリスト教きりすときょうれた地域ちいきである。
  7. サセックス王国おうこく: イングランド南部なんぶ支配しはいしたサクソンじん王国おうこく現在げんざいサリーイースト・サセックスウェスト・サセックス周辺しゅうへん支配しはいした。

なな王国おうこく以外いがい小国しょうこくぐん[編集へんしゅう]

上記じょうきの7つの大国たいこく以外いがいにも以下いかのような小国しょうこく多数たすう存在そんざいした。

歴史れきし[編集へんしゅう]

アングロサクソンじん登場とうじょうは5世紀せいきくらいだとつたえられているが、実際じっさいのところはかってはいない。伝承でんしょうではみなみサクソンエール西にしサクソンチェルディッチキュンリッチ父子ふし、または史書ししょブリトンじん歴史れきし』に登場とうじょうするヴォーティガン宿敵しゅくてきジュートじんケント王国おうこく)のながヘンギストなどがげられるが、どれも伝説でんせつてき人物じんぶつぞうであり、ブリテンとう上陸じょうりくした年月としつき考古学こうこがくから年代ねんだい整合せいごうせいわないでいる。しかしそれぞれが5世紀せいき中頃なかごろから覇権はけんあらそったものとはかんがえられている。彼等かれらサクソンじん西進せいしんつづけるものの、ブリトンじん反撃はんげきけ「バドンさんたたか」とばれる激戦げきせんだい敗北はいぼくかず世代せだいわたって膠着こうちゃく状態じょうたいとなった。このたたかいはどこでなされたかはかってはいないが、劣勢れっせいのブリトンじん指導しどうしたとつたえられるものアーサーおうのモデルとなったとかんがえられている。とくにサクソンじん壊滅かいめつてき打撃だげきけ、ふたた進攻しんこうはじまったのは西にしサクソンのチェウリンおうになったころからだとわれている。

王国おうこく形成けいせいされつつある当初とうしょアングルじんてたノーサンブリアマーシア隆盛りゅうせいほこり、ノーサンブリアおうエドウィン英語えいごばんデイアラおう英語えいごばん)、オスワルド英語えいごばんオスウィ英語えいごばん、そしてマーシアおうペンダなど非常ひじょう強力きょうりょくおう存在そんざいした。かれらはしばしばブレトワルダばれ、イングランドのきそったとつたえられるが、この覇王はおう称号しょうごう実際じっさい使つかわれたものなのか、それとも後世こうせい年代ねんだい記者きしゃ創作そうさく賜物たまものかはかってはいない。またこの時代じだいローマけいキリスト教きりすときょうさい上陸じょうりくし、ケントおうエゼルベルト最初さいしょにイングランド各地かくちひろまった。同時どうじウェールズコーンウォールブリトンじん保持ほじしてきたケルトけいキリスト教きりすときょう劣勢れっせいとなった。

ウェセックス台頭たいとうはじめたのはキャドワラおうとなってからである。かず世代せだいまえ父祖ふそをマーシアにられたウェセックスはひがし進撃しんげき、サセックス、ケントを侵略しんりゃくした。同時どうじにこの時代じだいから大陸たいりくよりノルマンじん一派いっぱであるデーンじんがブリテンとう定住ていじゅうはじめ、ひがし沿岸えんがんのノーサンブリア、イースト・アングリアはこの侵略しんりゃくまえ守勢しゅせいになる。そのなかでウェセックスはデーンじん対抗たいこうするアングロサクソンじん求心力きゅうしんりょくて、825ねんエランダンのたたか英語えいごばんエグバートひきいるウェセックスマーシア勝利しょうりしてイングランドを統一とういつした。

おなじころ、デーンじん侵入しんにゅう活発かっぱつしており、イングランドを侵略しんりゃく、ノーサンブリア、イースト・アングリアが滅亡めつぼうするなかでウェセックスは唯一ゆいいつのこったアングロサクソン王国おうこくとなる。878ねん5月、劣勢れっせいなかアルフレッド大王だいおうエサンドゥーンのたたか英語えいごばん英語えいご: Battle of Ethandun現在げんざいウィルトシャーしゅうエディントン英語えいごばん付近ふきん)でデーンじん勝利しょうり同年どうねんまつウェドモーアの和議わぎ締結ていけつされデーンじん支配しはい地域ちいきデーンロウとしてみといちしゅ均衡きんこう状態じょうたいによる和平わへいきずいた。そしてこの時代じだいかれもと英語えいご文献ぶんけん集大成しゅうたいせいおこなわれ、ウェセックス王国おうこくはアングロサクソン文化ぶんか伝統でんとうをきずきあげる。このことがデーンじん侵略しんりゃくという困難こんなんなかでかえってアングロサクソンじん求心力きゅうしんりょくび、のちすべてのアングロサクソン諸国しょこく統一とういつし、スコットランド王国おうこく恭順きょうじゅんけたウェセックスはイングランド王国おうこく母体ぼたいとなった。そのデーンじん、ノルマンじんとイングランドの支配しはい階級かいきゅうわることになっていくが、デーンじん支配しはい階級かいきゅうとして政治せいじ参加さんかするものはアングロサクソンの出自しゅつじであっても「デーンじん」とぶのをならわしとしており、また後世こうせい11世紀せいきすうおおくのノルマンディー公国こうこく出身しゅっしんノルマンじん貴族きぞく支配しはいしゃとしてはいってきたさいにイングランドにあるすうおおくの階級かいきゅう制度せいどおどろいていることから、なな王国おうこく時代じだい社会しゃかい制度せいどはこのときまで温存おんぞんされていたものとおもわれる。

なな王国おうこく社会しゃかい制度せいど[編集へんしゅう]

5世紀せいきになって帝政ていせいローマ影響えいきょうりょくがなくなるとアングロサクソンじんブリテンとうにやってきたが、かれらはのちしるされるような単独たんどくおう王国おうこくというよりは部族ぶぞく連合体れんごうたいちかかたちで、ウェセックスノーサンブリアイースト・アングリア形成けいせいしてきたものとおもわれる。またアングロサクソン年代ねんだいしるされる歴代れきだいウェセックスおう系譜けいふなか統治とうち時代じだいかさなる複数ふくすうおう存在そんざいしていることから、なな王国おうこく時代じだいの、すくなくとも初期しょきにおいてはかならずしも王権おうけん1人ひとりおうのもとで集約しゅうやくされているものではなく、複数ふくすうおうたちが共有きょうゆうしていたものだとおもわれている。

この時代じだい、アングロサクソン部族ぶぞく構成こうせいいんは「メイズ (maegth・mœgth)」とばれる7 - 9親等しんとう父系ふけいせい部族ぶぞくぞくしてらしていた。メイズの首長しゅちょうたちはかく村落そんらく家族かぞくに「ハイド (hide)」とばれる分配ぶんぱいあたえていた。そして部族ぶぞく戦争せんそう開拓かいたくあらたな土地とちられたときにはメイズ単位たんい移動いどうし、またべつ部族ぶぞくとのこうそうもメイズ単位たんいでの行動こうどうとなった。かく部族ぶぞく構成こうせいいん自由じゆうじんであれば基本きほんてき平等びょうどうで、このメイズによって保護ほごされた。もしこうそう犠牲ぎせいしゃ場合ばあい相手あいて復讐ふくしゅうするか相手あいてがわから「人命じんめいきん (wergeld)」でもってあがなわれた。しかしこの人命じんめいきん上位じょうい自由じゆうじん貴族きぞく)、自由じゆうじん奴隷どれいとのあいだ差異さいがあった。

しかし貧富ひんぷ時代じだいくだるうちにひろがり、かく構成こうせいいん首長しゅちょうのもとで平等びょうどうであったメイズの体制たいせいがほころびをはじめ、わりに貴族きぞく自由じゆうじん保護ほご保障ほしょうをする保証人ほしょうにん制度せいどばれる制度せいど確立かくりつしていった。しかしこの制度せいど同時どうじ自由じゆうじんはメイズの保護ほごから特定とくてい貴族きぞく支配しはいけることを意味いみしており、上位じょうい階層かいそう庇護ひご必要ひつようとする下層かそう自由じゆうみん次第しだいにその地位ちい隷属れいぞくみんのそれへと降格こうかく農奴のうど身分みぶん形成けいせいへとつながった。これは一種いっしゅ封建ほうけんせいであり、デーンじん支配しはいではさらにこの傾向けいこうつよめていく。

宗教しゅうきょう[編集へんしゅう]

帝政ていせいローマ支配しはいぞくしゅうブリタンニアではキリスト教きりすときょう布教ふきょうがローマじん入植にゅうしょくとともにひろまっていたが、5世紀せいきにブリタンニアが放棄ほうきされるとすたれてしまっていた。なな王国おうこく時代じだい初期しょきおう古代こだいゲルマン多神教たしんきょう信仰しんこうであったが、アイルランドからキリスト教きりすときょう伝播でんぱしてくる。このキリスト教きりすときょう大陸たいりくのカトリックの発達はったつとは関係かんけいなく独自どくじ発達はったつしたケルトけいキリスト教きりすときょうであり、イングランドへは6世紀せいきせいコルンバとその弟子でしたちによりさい北部ほくぶにあるノーサンブリアからひろまった。

これにたいしてカトリックがわふたた上陸じょうりくする。教皇きょうこうグレゴリウス1せいせいアウグスティヌスをブリテンとうつかわし、エゼルベルト統治とうちするケント王国おうこく伝道でんどう、エゼルベルトの改宗かいしゅう成功せいこうする。そしてせいパウリヌスノーサンブリア伝道でんどうエドウィン英語えいごばん改宗かいしゅうさせることに成功せいこうした。その異教徒いきょうとであったマーシアおうペンダ隆盛りゅうせい速度そくど停滞ていたいするものの、オスワルド英語えいごばんおう治世ちせいリンデスファーン修道院しゅうどういん建設けんせつ、その影響えいきょうりょく隣国りんごくマーシアイースト・アングリアまでおよんだ。この影響えいきょうりょくにもかかわらず、ケルトけいキリスト教きりすときょうはウィットビー教会きょうかい会議かいぎ減退げんたいしていった。

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ Hwicceは、難読なんどく地名ちめいであるため、ウィッチェあるいはフウィスフイッケとも表記ひょうきされる。

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]