(Translated by https://www.hiragana.jp/)
仙波氏 - Wikipedia コンテンツにスキップ

仙波せんば

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』

仙波せんば(せんばし)は平安へいあん時代じだい末期まっき武蔵むさしこく入間いるまぐん仙波せんば現在げんざい埼玉さいたまけん川越かわごえ仙波せんばまち)を拠点きょてんとし、地頭じとうとしてその南部なんぶ一帯いったい現在げんざいふじみ富士見ふじみ三芳みよしまち周辺しゅうへんまで)を所領しょりょうした一族いちぞく村山むらやまとういち支族しぞく

概説がいせつ

[編集へんしゅう]
川越かわごえ指定してい史跡しせき 仙波せんばかんあとげんちょういさおてら

平高望たいらのたかもちとする桓武かんむたいらながれをんだ武蔵むさしななとうの1つ・村山むらやまとうは、たいらよりゆきにん多摩たまぐんおこした一族いちぞくであり、そのまご多摩たまぐん北部ほくぶから入間いるまぐん一帯いったい勢力せいりょくばした。そのうちの一人ひとりである村山むらやま家継いえつぐ仙波せんば家信かしんとするのが仙波せんばである。

家信かしん武蔵野台むさしのだい東北とうほくはしとなる仙波せんば台地だいち12世紀せいきなかばに仙波せんばかんかまえ、その南部なんぶ一帯いったい広域こういき荘園しょうえんかまえた。家信かしん仙波せんばななろうしょうし、源義朝みなもとのよしともしたがもとらんでは家信かしん金子かねこただし村山むらやまとう武将ぶしょう武勲ぶくんしめした。

その仙波せんばみなもと頼朝よりともしたがい、家信かしん次男じなん仙波せんば安家あつか文治ぶんじ元年がんねん1185ねん)に頼朝よりとも勝長かつなが寿ひさしいん参拝さんぱいや、あに仙波せんば信平しんぺいともたてひさ元年がんねん1190ねん)の頼朝よりとも上洛じょうらくずいへいとなるなど、おとうと仙波せんば家行いえゆきふく仙波せんば吾妻あづまきょうもと物語ものがたりおおてくる。信平しんぺい嫡男ちゃくなん仙波せんばしんつねたてひさ6ねん1195ねん)の頼朝よりとも東大寺とうだいじ供養くよう随行ずいこうしている。承久じょうきゅうらんでは川越かわごえ北西ほくせい上戸じょうご地盤じばんとするかわこししたがい、宇治川うじがわ合戦かっせんではきょうかたやぶるも、仙波せんば家行いえゆきしんつねなどおおくの戦死せんししゃした。

その安家あつか直系ちょっけいでは仙波せんばもりただし北条ほうじょうの「がつ騒動そうどう」に連座れんざして誅殺ちゅうさつされる。仙波せんばなかには西国さいこくわた伊予いよこく地頭じとうになった支族しぞく仙波せんば実隆さねたか淡路あわじこく所領しょりょうかまえた。

おうやす元年がんねん1368ねん)の武蔵むさしひら一揆いっきでは村山むらやまとう諸氏しょしおなじくかわこししたがって挙兵きょへいするも敗北はいぼく仙波せんば衰退すいたいする。その仙波せんば二郎じろうのように室町むろまち幕府ばくふつかえ、とおるとくらん以降いこう扇谷おうぎや上杉うえすぎしたがうがかわえつ夜戦やせん上杉うえすぎ衰退すいたいするとこう北条ほうじょう家臣かしんとなる。仙波せんばひさしゅ鶴岡つるおか八幡宮はちまんぐう造営ぞうえい奉行ぶぎょう任命にんめいされ、その仙波せんばしゅ北条ほうじょう氏政うじまさつかえた。以降いこう相模さがみこく伊豆いずこく知行ちぎょう江戸えど時代じだい旗本はたもと仙波せんば家系かけいまれた。高輪たかなわくるままち豪商ごうしょうであった仙波せんば太郎たろう兵衛ひょうえもこの一族いちぞくである。

仙波せんばかん

[編集へんしゅう]

仙波せんばかん平山ひらやましろで、現在げんざい新河岸川しんがしがわ西側にしがわ高台たかだいにある。かんひがし一角いっかくちょういさおてらがあり、碑文ひぶんがある。ちょういさおてら仙波せんば持仏堂じぶつどうから派生はせいした寺院じいん冷水山ひやみずやま清浄せいじょういんごうする。喜多きたいん末寺まつじである。かんあと川越かわごえ指定してい史跡しせきで、るいほり一部いちぶ遺構いこうとしてある。明治めいじ時代じだいかんあと下方かほう仙波せんば河岸かわぎしつくられた。

  • 埼玉さいたまけん川越かわごえ仙波せんばまち3丁目ちょうめ1番地ばんち

関連かんれん項目こうもく

[編集へんしゅう]