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塚田つかだ真希まき

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塚田つかだ真希まき
基本きほん情報じょうほう
ラテン文字もじ Maki Tukada
くに 日本の旗 日本にっぽん
出生しゅっしょう 茨城いばらきけん下妻しもづま
生年月日せいねんがっぴ (1982-01-05) 1982ねん1がつ5にち(42さい
身長しんちょう 170cm
体重たいじゅう 125kg
選手せんしゅ情報じょうほう
階級かいきゅう 78kgちょうきゅう
所属しょぞく 綜合そうごう警備けいび保障ほしょう
段位だんい よんだん
獲得かくとくメダル
柔道じゅうどう
オリンピック
きむ 2004 アテネ 78kgちょうきゅう
ぎん 2008 北京ぺきん 78kgちょうきゅう
世界せかい柔道じゅうどう選手権せんしゅけん
きむ 2007 リオデジャネイロ 差別さべつ
ぎん 2003 大阪おおさか 78kgちょうきゅう
ぎん 2007 リオデジャネイロ 78kgちょうきゅう
どう 2005 カイロ 78kgちょうきゅう
どう 2009 ロッテルダム 78kgちょうきゅう
どう 2010 東京とうきょう 78kgちょうきゅう
世界せかい団体だんたい
どう 2006 パリ 78kgちょうきゅう
グランドスラム
きむ 2009 東京とうきょう 78kgちょうきゅう
きむ 2009 モスクワ 78kgちょうきゅう
きむ 2010 モスクワ 78kgちょうきゅう
アジア大会たいかい
ぎん 2002 釜山ぷさん 差別さべつ
世界せかいジュニア
きむ 2000 ナブール 78kgちょうきゅう
2016ねん1がつ8にち現在げんざい
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塚田つかだ 真希まき(つかだ まき、1982ねん1がつ5にち - )は、茨城いばらきけん下妻しもづま出身しゅっしん女性じょせい柔道じゅうどう土浦日大つちうらにちだい高校こうこう東海大学とうかいだいがく卒業そつぎょう綜合そうごう警備けいび保障ほしょう教育きょういく訓練くんれん所属しょぞく[1]。2004ねんアテネオリンピック柔道じゅうどう女子じょし78kgちょうきゅうきんメダリスト。身長しんちょう170cm。体重たいじゅうは125kg。血液けつえきがたはAがた得意とくいわざだいそと段位だんいよんだんニックネームツマキつかちゃん。なお、63kgきゅうでオリンピック2連覇れんぱ達成たっせいした谷本たにもとあゆみからはマキティばれている[2][3]

経歴けいれき

アテネオリンピックまで

えがくことがきだったこともあり、下妻しもづま中学ちゅうがく入学にゅうがくするとはじめは美術びじゅつ入部にゅうぶするつもりだったものの、先輩せんぱい柔道じゅうどうさそわれたことがきっかけで柔道じゅうどうはじめることになった。しかし、中学ちゅうがく時代じだいけん予選よせんの3になった程度ていどであった[4]

土浦日大つちうらにちだい高校こうこう入学にゅうがくするとりょう生活せいかつおくりながら本格ほんかくてき稽古けいこむことになったが、1ねんときにはきびしい上下じょうげ関係かんけいや、上級生じょうきゅうせいに「あんたみたいなよわ相手あいてとは練習れんしゅうしてあげない」などと暴言ぼうげんびせられたことで精神せいしんてきまいってしまい、実家じっかに3週間しゅうかんほどかえっていたことがあったものの[5]気持きもちをなおしてふたた稽古けいこむと、全国ぜんこく高校こうこう選手権せんしゅけん78kgちょうきゅうでは1ねんときに3、2ねんときにはオール一本いっぽんちで優勝ゆうしょうするまでになった[2]。さらに、国体こくたい少年しょうねん女子じょしでは茨城いばらきけんを2ねん連続れんぞく優勝ゆうしょうみちびいた[2]。また、3ねんときにはフランスジュニア国際こくさい優勝ゆうしょうすると、きむわしはた決勝けっしょうでは埼玉さいたまさかえ高校こうこうを3にんきしてチームにはつ優勝ゆうしょうをもたらした[2]。さらに、全日本ぜんにほんジュニアでも優勝ゆうしょうたした。はじめてのシニアの国際こくさい大会たいかいとなった福岡ふくおか国際こくさいでは差別さべつ出場しゅつじょうしたものの5わった[2]

2000ねん4がつには東海大学とうかいだいがく入学にゅうがくすると、フランスジュニア国際こくさいでは2連覇れんぱかざった[2]。6月の学生がくせい優勝ゆうしょう大会たいかいでははやくもチームの優勝ゆうしょう貢献こうけんすることとなった。さらに、9月の全日本ぜんにほんジュニアで2連覇れんぱ達成たっせいすると、10月の世界せかいジュニアでも優勝ゆうしょうかざった。学生がくせい体重たいじゅうべつと11月の全国ぜんこく女子じょし柔道じゅうどう体重たいじゅうべつ選手権せんしゅけん大会たいかいでは決勝けっしょう筑波大学つくばだいがくたきぎたにみどりやぶれて2にとどまった[2]。12月の福岡ふくおか国際こくさいでは78kgちょうきゅうで5だったものの、差別さべつではキューバのダイマ・ベルトラン注意ちゅういやぶれたものの2となった。この試合しあいにおいて女子じょし代表だいひょう監督かんとく吉村よしむら和郎かずおに、最初さいしょは「こら〜、いけ〜」とこえをかけられていたが、そのうち、「こら〜、いかんかい、このデブ」となると、最後さいごには「このくそデブ」と罵倒ばとうされて、試合しあいだいきした[3]

2001ねん2がつオーストリア国際こくさいでシニアの国際こくさい大会たいかいはつ優勝ゆうしょうかざった[2]。4月の体重たいじゅうべつ全日本ぜんにほん女子じょし選手権せんしゅけんでは大阪おおさか府警ふけい山下やましたまゆみ判定はんていやぶれて3だった。6月の学生がくせい優勝ゆうしょう大会たいかいでは3だった。8月に北京ぺきん開催かいさいされたユニバーシアードでは決勝けっしょう地元じもと中国ちゅうごく袁華やぶれて2だったものの、10月の学生がくせい体重たいじゅうべつではたきぎたにやぶってはつ優勝ゆうしょうげた。12月の福岡ふくおか国際こくさいでは78kgちょうきゅう初戦しょせんやぶれると、差別さべつでは5にとどまった[2]

2002ねん4がつ体重たいじゅうべつでは昨年さくねんつづいて山下やました判定はんていやぶれて3だったものの、全日本ぜんにほん女子じょし選手権せんしゅけん決勝けっしょうでは前年ぜんねんのチャンピオンであるたきぎだにに2-1の微妙びみょう判定はんていながら勝利しょうりしてはつ優勝ゆうしょうたした。6月の学生がくせい体重たいじゅうべつでは昨年さくねんつづいてたきぎたにやぶって2連覇れんぱかざった。10月に釜山ぷさん開催かいさいされたアジア大会たいかい差別さべつでは決勝けっしょう佟文よこ四方しほうかたやぶれて2わった。つづ学生がくせい優勝ゆうしょう大会たいかいでは2だった。12月の福岡ふくおか国際こくさいでは78kgちょうきゅうで3になると、差別さべつでは中国ちゅうごくかいゆきえい注意ちゅういやぶれて2だった[2]

2003ねん2がつドイツ国際こくさいをオール一本いっぽんちでせいすと、4がつ体重たいじゅうべつ決勝けっしょうでもコマツ徳田とくた美由樹みゆきだいそとかりやぶってはつ優勝ゆうしょうたした。つづ全日本ぜんにほん選手権せんしゅけんでは決勝けっしょう帝京大学ていきょうだいがく近藤こんどう悦子えつこ袈裟けさかたやぶって2連覇れんぱ達成たっせいして世界せかい選手権せんしゅけん代表だいひょう選出せんしゅつされた。さらに、6月の学生がくせい優勝ゆうしょう大会たいかいでもチームに優勝ゆうしょうをもたらした。9月に大阪おおさか開催かいさいされた世界せかい選手権せんしゅけんでは準決勝じゅんけっしょうでベルトランをごうわざやぶるなどオール一本いっぽんちですすむが、決勝けっしょう中国ちゅうごくまごぶくあきら背負投せおいなげやぶれた。12月の福岡ふくおか国際こくさいでは78kgちょうきゅうで3だったものの、差別さべつではオール一本いっぽんちしてこん大会たいかいはつ優勝ゆうしょうかざった[2]

2004ねん2がつフランス国際こくさいでは3だった。その大学だいがく卒業そつぎょうして綜合そうごう警備けいび保障ほしょう所属しょぞくとなった。4月の体重たいじゅうべつ全日本ぜんにほん選手権せんしゅけん決勝けっしょうではミキハウスのたきぎたに効果こうかよこ四方しほうかたつづけにやぶって、2004ねんアテネオリンピック代表だいひょう選出せんしゅつされた。8月のアテネオリンピックでは準決勝じゅんけっしょうでロシアのテア・ドングサシビリごうわざやぶると、決勝けっしょうでは最大さいだい強敵きょうてきなされていたまごぶくあかり準決勝じゅんけっしょうにおいてたにやぶったベルトランとの対戦たいせんとなり、さきだいそとかりわざありをられたものの、寝技ねわざ展開てんかいからぎゃくこう袈裟けさかたおさみ、オール一本いっぽんちでオリンピック優勝ゆうしょうたすことになった。これにより、日本にっぽん女子じょし選手せんしゅ世界せかい大会たいかい重量じゅうりょうきゅうはじめて制覇せいはすることにもなった[6]

北京ぺきんオリンピックまで

12月の福岡ふくおか国際こくさいでは決勝けっしょうたきぎたにくずしじょう四方しほうかたやぶるなど、こん大会たいかいでもオール一本いっぽんちして昨年さくねんつづ優勝ゆうしょうかざった[2]

2005ねん2がつのフランス国際こくさいをオール一本いっぽんちでせいすると、4がつ体重たいじゅうべつ全日本ぜんにほん選手権せんしゅけん決勝けっしょうでは昨年さくねんつづいてたきぎたに指導しどう1と有効ゆうこうつづけにやぶって世界せかい選手権せんしゅけん代表だいひょう選出せんしゅつされた。9月にカイロ開催かいさいされた世界せかい選手権せんしゅけんでは準決勝じゅんけっしょうで佟文にこう袈裟けさかたやぶれて3にとどまった。団体だんたいせん中国ちゅうごくせんでも佟文にくずしじょう四方しほうかたやぶれたが、チームは3となった[2]

2006ねん2がつのドイツ国際こくさいでは3だったものの、4がつ体重たいじゅうべつ全日本ぜんにほん選手権せんしゅけん決勝けっしょうでは後輩こうはいである東海大学とうかいだいがく立山たてやま真衣まい指導しどう1とからだつづけにやぶって優勝ゆうしょうした。9月にパリ開催かいさいされたワールドカップこくべつ団体だんたいせんでは準決勝じゅんけっしょうのフランスせん一本いっぽんちしたもののチームはやぶれて3にとどまった[2]。12月にドーハ開催かいさいされたアジア大会たいかいには当初とうしょ78kgちょうきゅう出場しゅつじょう予定よていだったが、怪我けがのため出場しゅつじょうめた[7]

2007ねん2がつのフランス国際こくさいをオール一本いっぽんちでせいして2ねんぶり2度目どめ優勝ゆうしょうかざると、4がつ体重たいじゅうべつ決勝けっしょうではたきぎたに指導しどう2、つづ全日本ぜんにほん選手権せんしゅけん決勝けっしょうでは兵庫ひょうご県警けんけい堀江ほりえ久美子くみこを3-0の判定はんていやぶって世界せかい選手権せんしゅけん代表だいひょう選出せんしゅつされた。9月にリオデジャネイロ開催かいさいされた世界せかい選手権せんしゅけんでは、78kgちょうきゅう決勝けっしょうで佟文に指導しどう1でやぶれたものの、差別さべつでは決勝けっしょうでスロベニアのルツィヤ・ポラウデル指導しどう2でやぶって世界せかい選手権せんしゅけんはつ優勝ゆうしょうかざることになった。これにより、警視庁けいしちょう阿武あぶ教子きょうこつづいて女子じょしでは2人ふたり柔道じゅうどう3かん(オリンピック世界せかい選手権せんしゅけん全日本ぜんにほん選手権せんしゅけん)達成たっせいしゃとなった。12月の嘉納かのうはいでは初戦しょせん中国ちゅうごくじょうららてる指導しどう1でやぶれるが、その敗者はいしゃ復活ふっかつせんがって3となった[2]

2008ねん4がつ体重たいじゅうべつ決勝けっしょうでは立山たてやま指導しどう2でやぶると、つづ全日本ぜんにほん選手権せんしゅけん決勝けっしょうではたきぎたにを3-0の判定はんていやぶって大会たいかい7連覇れんぱ達成たっせいして、2008ねん北京ぺきんオリンピック代表だいひょう選出せんしゅつされた。今回こんかい優勝ゆうしょうにより、1987ねんから1992ねんまで大会たいかい6連覇れんぱ達成たっせいした田辺たなべ陽子ようこ記録きろく上回うわまわ歴代れきだい最多さいた優勝ゆうしょう記録きろく更新こうしんすることになった[2]。8月の北京ぺきんオリンピックでは準決勝じゅんけっしょうでポラウデルをよこ四方しほうかたやぶるなどオール一本いっぽんちですすみ、決勝けっしょうでも宿敵しゅくてきである地元じもとの佟文からさきしょうそとかり有効ゆうこうるなど優位ゆうい試合しあいすすめながら、のこり8びょう一本いっぽん背負投せおいなげ逆転ぎゃくてんけをきっして優勝ゆうしょうのがすことになった[8]

その

2009ねんは4がつ体重たいじゅうべつ決勝けっしょうでコマツの杉本すぎもと美香みかあいわざやぶれて7連覇れんぱのがすものの、つづ全日本ぜんにほん選手権せんしゅけん決勝けっしょうでは会社かいしゃ後輩こうはいである78kgきゅう中澤なかざわさえだいそとかりやぶって8連覇れんぱたして世界せかい選手権せんしゅけん代表だいひょう選出せんしゅつされた。5月のグランドスラム・モスクワでも優勝ゆうしょうかざった。8月にロッテルダム開催かいさいされた世界せかい選手権せんしゅけんでは準々じゅんじゅん決勝けっしょうでまたもや佟文にこう袈裟けさかたやぶれるが、敗者はいしゃ復活ふっかつせんがって3になった。その、2010ねんになって佟文のドーピング発覚はっかくして2年間ねんかん出場しゅつじょう停止ていし処分しょぶんくだされたことで、2012ねんロンドンオリンピックまで選手せんしゅ生活せいかつつづけるモチベーションが一気いっきがることになったとべている(ただし佟文はIJF検査けんさ不備ふび理由りゆうにしたCAS裁定さいていにより、塚田つかだ引退いんたいした翌年よくねんの2011ねん5がつから国際こくさい舞台ぶたい復帰ふっきすることになった)[9]つづいて、11月の講道館こうどうかんはいでは決勝けっしょう杉本すぎもと指導しどう2でやぶこん大会たいかいはつ優勝ゆうしょうかざると、12月のグランドスラム・東京とうきょうでも決勝けっしょうでロシアのエレナ・イワシェンコだいそとかりやぶって優勝ゆうしょうたした[2]

2010ねんは1がつ水原みずはら開催かいさいされたランキング上位じょうい16選手せんしゅによってあらそわれるワールドマスターズ出場しゅつじょうするものの、準々じゅんじゅん決勝けっしょう地元じもと韓国かんこくきむひさし指導しどう3でやぶれて5わった[2]。4月の体重たいじゅうべつ決勝けっしょうでは1-2の微妙びみょう判定はんていながら昨年さくねんつづいて杉本すぎもとやぶれることになったが、つづ全日本ぜんにほん選手権せんしゅけん決勝けっしょうでは杉本すぎもとだいそとかりやぶ大会たいかい9連覇れんぱ達成たっせい世界せかい選手権せんしゅけん代表だいひょう選出せんしゅつされた。また、今回こんかい優勝ゆうしょう男子だんし全日本ぜんにほん選手権せんしゅけんで1977ねんから1985ねんまでおなじく9連覇れんぱ達成たっせいした東海大学とうかいだいがく先輩せんぱいである山下やました泰裕やすひろ記録きろくならぶこととなった[10]。7月のグランドスラム・モスクワ決勝けっしょうでは後輩こうはいである東海大学とうかいだいがくほんあい指導しどう3でやぶこん大会たいかい2連覇れんぱかざった。9月に東京とうきょう開催かいさいされた世界せかい選手権せんしゅけんでは78kgちょうきゅう準決勝じゅんけっしょう中国ちゅうごくはたあかね指導しどう3でやぶれて3わると、当初とうしょ出場しゅつじょう予定よていだった差別さべつには出場しゅつじょうしなかった。その強化きょうか選手せんしゅ辞退じたいとどけ全柔連ぜんじゅうれん提出ていしゅつして受理じゅりされると[11]、12月には引退いんたい会見かいけんひらいて、正式せいしき現役げんえき引退いんたい表明ひょうめいすることになった[9][12]

2011ねんにはJOCのスポーツ指導しどうしゃ海外かいがい研修けんしゅういんとしてイギリスに派遣はけんされることになった[13]。また、世界せかい選手権せんしゅけんでは大会たいかい放映ほうえいしたフジテレビ解説かいせつつとめた。2012ねんロンドンオリンピックでもテレビの解説かいせつつとめた[14]

2013ねん4がつからは全日本ぜんにほん女子じょし特別とくべつコーチにも就任しゅうにんすることになった[15]。9月には2年間ねんかんのイギリス研修けんしゅうえて帰国きこくしたが、そのさいに「英国えいこくでは人生じんせいかんわるほどの経験けいけんをした。いろんな見方みかたができるようになった自分じぶん期待きたいしている」とかたった[16]

2014ねん4がつからは本格ほんかくてき強化きょうかした東京女子体育大学とうきょうじょしたいいくだいがく柔道じゅうどう監督かんとく就任しゅうにんすることになった[17]

2015ねん6がつ名古屋なごや開催かいさいされたひがしアジア柔道じゅうどう選手権せんしゅけん大会たいかいでは、女子じょし代表だいひょうチームの監督かんとくつとめた。若手わかて主体しゅたいのチームがこん大会たいかい個人こじんせんおよ団体だんたいせんだい活躍かつやくしたことに、「わか世代せだい本当ほんとうびとした試合しあいせてくれた。わくわくする感触かんしょくがあった」とコメントした[18]

2016ねん4がつからは東海大学とうかいだいがく女子じょし柔道じゅうどうふく監督かんとく就任しゅうにん[19]、11月1にちづけ監督かんとく就任しゅうにん[20]

柔道じゅうどうスタイル

しゅみぎみでだいそとかりはらいこしからだなどを得意とくいにしていた[2]背負投せおいなげ使つかわれることはそれほどなかった。また、寝技ねわざ得意とくいであり、足技あしわざくずしてからそもそもこみわざによくんでいた。やや半身はんしんかまえから相手あいてける柔道じゅうどうスタイルで大柄おおがら外国がいこく選手せんしゅにも太刀打たちうちできる実力じつりょくきずいていった。さらに、170cmで125kgの体格たいかくながら、自分じぶんよりまわ以上いじょうおおきい中国ちゅうごくりゅう歓緑(195 cm、120 kg)やポーランドのウルシュラ・サドコワスカ(193 cm、150 kg)などのちょう大型おおがた選手せんしゅおくえり強引ごういんつかんではらいこしだいそとかりばす豪快ごうかいなパワーをもゆうしていた。後期こうきになると浮落のような一般いっぱんにはあまり使つかわれないような意外いがいせいゆうするわざ得意とくいわざくわえていった[21]

エピソード

有力ゆうりょく選手せんしゅとの対戦たいせん成績せいせき

対戦たいせん成績せいせき
国籍こくせき 選手せんしゅめい 内容ないよう
日本の旗 たきぎたにみどり 12しょう2はい
日本の旗 杉本すぎもと美香みか 11しょう2はい
日本の旗 ほんあい 5しょう
中華人民共和国の旗 佟文 6はい
中華人民共和国の旗 まごぶくあきら 2はい
中華人民共和国の旗 袁華 1はい
キューバの旗 ダイマ・ベルトラン 3しょう2はい
スロベニアの旗 ルツィヤ・ポラウデル 4しょう1はい
ロシアの旗 エレナ・イワシェンコ 3しょう

(参考さんこう資料しりょうベースボールマガジンしゃ発行はっこう近代きんだい柔道じゅうどうバックナンバー、JudoInside.comひとし)。

戦績せんせき

(無差別むさべつ以外いがいすべて78kgちょうきゅうでの成績せいせき)

(出典しゅってん[2]JudoInside.com)。

関連かんれん項目こうもく

脚注きゃくちゅう

  1. ^ 柔道じゅうどう - ALSOK 綜合そうごう警備けいび保障ほしょう
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u 柔道じゅうどう全日本ぜんにほん強化きょうか選手せんしゅ名鑑めいかん 2010」近代きんだい柔道じゅうどう ベースボールマガジンしゃ、2010ねん4がつごう
  3. ^ a b オリンピックメダリスト対談たいだん 谷本たにもとあゆみみのる×塚田つかだ真希まき
  4. ^ 女子じょし柔道じゅうどう塚田つかだ本当ほんとう美術びじゅつに…」 日刊にっかんスポーツ 2010ねん2がつ26にち
  5. ^ 解体かいたい新書しんしょ 塚田つかだ真希まき近代きんだい柔道じゅうどう ベースボールマガジンしゃ、2000ねん12がつごう、91-94ぺーじ
  6. ^ 塚田つかだ、オール一本いっぽんで「かね」! スポーツナビ 2008ねん8がつ20日はつか
  7. ^ 柔道じゅうどう女子じょし塚田つかだ欠場けつじょうへ アジア大会たいかい 朝日新聞あさひしんぶん 2006ねん11月26にち
  8. ^ 塚田つかだ真希まきのこり8びょう逆転ぎゃくてんけでぎん 日刊にっかんスポーツ 2008ねん8がつ15にち
  9. ^ a b 「アテネきんメダルの塚田つかだ真希まき引退いんたい表明ひょうめい近代きんだい柔道じゅうどう ベースボールマガジンしゃ、2011ねん2がつごう
  10. ^ 観戦かんせん山下やました塚田つかだにエール「わたし記録きろくえて」 スポーツニッポン 2010ねん4がつ19にち
  11. ^ 塚田つかだ谷本たにもとの「指定してい選手せんしゅ辞退じたい受理じゅり 日刊にっかんスポーツ 2010ねん9がつ19にち
  12. ^ 笑顔えがおで「きた」=五輪ごりんきん塚田つかだ引退いんたい柔道じゅうどう女子じょし 時事通信じじつうしん 2010ねん12月24にち
  13. ^ 柔道じゅうどう親交しんこうを」と塚田つかださん=JOC指導しどうしゃ研修けんしゅう英国えいこく 時事通信じじつうしん 2011ねん9がつ1にち
  14. ^ テレビ放送ほうそう - ロンドン五輪ごりん2012特集とくしゅう MSN産経さんけいニュース 2012ねん8がつ2にち
  15. ^ 日本にっぽん柔道じゅうどう強化きょうかメンバー
  16. ^ 柔道じゅうどう塚田つかだ報告ほうこくかい出席しゅっせき 英国えいこく留学りゅうがくえる スポーツニッポン 2013ねん9がつ24にち
  17. ^ 塚田つかだ東女体大とんじょたいだい監督かんとく就任しゅうにん 五輪ごりん女王じょおう来年らいねん4がつから MSN産経さんけいニュース 2013ねん10がつ1にち
  18. ^ 日本にっぽん女子じょし塚田つかだ監督かんとく若手わかて選手せんしゅに「わくわくする」/柔道じゅうどう サンケイスポーツ 2015ねん6がつ21にち
  19. ^ 塚田つかだ真希まきさんが東海大とうかいだい女子じょしふく監督かんとく就任しゅうにん、アテネ五輪ごりん78キロちょうきゅうかね スポーツニッポン 2016ねん4がつ2にち
  20. ^ “アテネ五輪ごりんきん 塚田つかだ母校ぼこう東海大とうかいだい監督かんとく就任しゅうにん. スポニチアネックス. (2016ねん11月15にち). https://www.sponichi.co.jp/sports/news/2016/11/15/kiji/K20161115013728040.html 2016ねん11月15にち閲覧えつらん 
  21. ^ 特別とくべつインタビュー 塚田つかだ真希まき近代きんだい柔道じゅうどう ベースボールマガジンしゃ、2011ねん3がつごう 98 - 105ぺーじ
  22. ^ CM紹介しょうかい - ALSOK 綜合そうごう警備けいび保障ほしょう
  23. ^ 谷本たにもとあゆみみのる&たきぎたにみどり フジテレビ 2008ねん10がつ12にち

外部がいぶリンク