安宅あたか産業さんぎょう

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安宅あたか産業さんぎょう
ATAKA & CO., LTD.
種類しゅるい 株式会社かぶしきがいしゃ
略称りゃくしょう AC
本社ほんしゃ所在地しょざいち 日本の旗 日本にっぽん
大阪おおさか大阪おおさかひがし今橋いまはし5-14[ちゅう 1]
設立せつりつ 1904ねん7がつ1にち
業種ぎょうしゅ 卸売おろしうりぎょう
代表だいひょうしゃ 猪崎いざき久太郎きゅうたろう代表だいひょう取締役とりしまりやく会長かいちょう
市川いちかわ政夫まさお代表だいひょう取締役とりしまりやく社長しゃちょう
資本しほんきん 116おく9,300まんえん
売上うりあげだか 1ちょう399おく800まんえん半期はんき
経常けいじょう利益りえき 12おく5,200まんえん半期はんき
じゅん利益りえき 13おく7,600まんえん半期はんき
従業じゅうぎょう員数いんずう 3,498にん
特記とっき事項じこう数値すうちとうは1975ねん3がつのもの[1]
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安宅あたか産業さんぎょう株式会社かぶしきがいしゃ(あたかさんぎょう)は、かつて存在そんざいした日本にっぽん総合そうごう商社しょうしゃ1904ねん創業そうぎょうされ、戦後せんごじゅうだい総合そうごう商社しょうしゃ三菱商事みつびししょうじ三井物産みついぶっさん住友商事すみともしょうじ伊藤忠商事いとうちゅうしょうじ丸紅まるべに丸紅まるべに飯田いいだ)・日商岩井にっしょういわい日商にっしょう)・トーメンニチメンけん松江まつえしょう兼松かねまつ)・安宅あたか産業さんぎょう)の一角いっかくにもかぞえられていたが、だい1オイルショックによってカナダの製油せいゆしょプロジェクトが失敗しっぱいしたことで巨額きょがく損失そんしつこうむり、1977ねん10月1にち伊藤忠商事いとうちゅうしょうじ救済きゅうさいされるかたち吸収きゅうしゅう合併がっぺいされ消滅しょうめつした。

概要がいよう[編集へんしゅう]

1904ねん7がつ1にち安宅あたか弥吉やきちによって安宅あたか商会しょうかいとして創業そうぎょうされ、戦前せんぜんから戦後せんごにかけて官営かんえい八幡やはた製鐵せいてつしょ指定してい問屋とんや4しゃ三井物産みついぶっさん三菱商事みつびししょうじ岩井いわい商店しょうてん安宅あたか産業さんぎょう)の1しゃとなるなど、じゅうだい総合そうごう商社しょうしゃ一角いっかくとして最大さいだい売上うりあげだか2ちょう6せんおくえんほこだい企業きぎょうであった。元々もともとは「堅実けんじつ」の社風しゃふう特色とくしょくとしていたが、同業どうぎょう他社たしゃとの売上うりあげ競争きょうそうなか原油げんゆ取引とりひきなど新規しんき事業じぎょうリスク無視むしして進出しんしゅつするようになり、最終さいしゅうてきにはそれが破綻はたん原因げんいんとなった。

歴史れきし[編集へんしゅう]

創業そうぎょう[編集へんしゅう]

安宅あたか弥吉やきち1895ねん高等こうとう商業しょうぎょう学校がっこうげん一橋大学ひとつばしだいがく卒業そつぎょう、いったん日本にっぽん海陸かいりく保険ほけんげん損害そんがい保険ほけんジャパン)に入社にゅうしゃしたものの、すぐに日下部くさかべ商店しょうてん個人こじん商店しょうてん)へいれてん香港ほんこん支店してん現地げんちではにちもり(ヤッシャム)洋行ようこうという商号しょうごう使用しようしていた)支店してんちょうとして赴任ふにんした。当初とうしょ香港ほんこんからのべい輸入ゆにゅう大連たいれんけの木材もくざい雑貨ざっか輸出ゆしゅつ程度ていどだった支店してん取扱とりあつかい商品しょうひんを、砂糖さとうなまり亜鉛あえん石炭せきたん棉花めんか帆布ほぬの塗料とりょうなど多数たすう品目ひんもくひろげた。とく砂糖さとうは、独自どくじ有力ゆうりょく華僑かきょうジャワ島じゃわとうから砂糖さとう直接ちょくせつけルートを開拓かいたくするなど、市場いちば名前なまえられる存在そんざいとなっていた。そして、たんなるやとわれ支店してんちょうから、にちもり洋行ひろゆき香港ほんこん支店してん)の共同きょうどう経営けいえいしゃという立場たちばになった。

しかし、1904ねんにち戦争せんそう勃発ぼっぱつすると、当初とうしょ戦局せんきょくへの悲観ひかんろんから株価かぶか暴落ぼうらくしたため、日下部くさかべ商店しょうてん関係かんけいふかかった松本まつもと重太郎しげたろう経営けいえいするひゃくさんじゅう銀行ぎんこう松本まつもと商店しょうてん倒産とうさんした。そのあおりをって日下部くさかべ商店しょうてん事実じじつじょう破綻はたんし、法的ほうてきにはその香港ほんこん支店してんにすぎなかったもり洋行ひろゆき閉鎖へいさ余儀よぎなくされた。

そこで弥吉やきちみずか個人こじん商店しょうてんとして安宅あたか商会しょうかい創業そうぎょうし、本店ほんてん大阪おおさかひがし船越ふなこしまちに(そのすぐに同区どうく高麗橋こうらいばし移転いてんかまえた。創業そうぎょうにあたっては、弥吉やきちみずか開拓かいたくした砂糖さとうのぞいて日下部くさかべ商店しょうてんにちもり洋行ひろゆき旧来きゅうらい取扱とりあつかいひんならびにきゃくさきにはけず、すべて新規しんき開拓かいたくすることをむねとした。そのかたわらできゅう日下部くさかべ商店しょうてん整理せいりにも尽力じんりょくし、整理せいり完了かんりょうしたのち破綻はたんまもなくして病没びょうぼつした日下部くさかべ商店しょうてん店主てんしゅ遺族いぞく援助えんじょつづけたという。

その一方いっぽうで、きゅう日下部くさかべ商店しょうてんからった社員しゃいん中途ちゅうと入社にゅうしゃはいった社員しゃいんが、経営けいえいきびしいおり給与きゅうよ値上ねあげの交渉こうしょうをしてきたり、弥吉やきちとどかない東京とうきょう支店してん勝手かって取引とりひきをしてそんしたことが発覚はっかくしたりなどした。
そのため弥吉やきちは「信頼しんらいできる部下ぶか自分じぶんそだてなくてはならない」というおもいをつよくし、郷里きょうりから小学校しょうがっこう卒業生そつぎょうせい紹介しょうかいしてもらい学費がくひして上級じょうきゅう学校がっこう進学しんがくさせ、卒業そつぎょう安宅あたか商会しょうかいはたらかせるという制度せいどはじめた。
これは実際じっさい美談びだんであるものの、のち社内しゃないにおいて非公式ひこうしき権力けんりょくとして隠然いんぜんたるちからほこった「安宅あたかファミリー」の母体ぼたいとなり、そのだい多数たすう給費きゅうひせい制度せいどによって入社にゅうしゃした「安宅あたか恩顧おんこ」の社員しゃいんめられてていた。

弥吉やきち経営けいえい哲学てつがくあらわした言葉ことばとして「かえる経営けいえい」がある。かえるは1かいぶと、つぎまえにはいったんちぢめてちからをためる。それとおなじように、一歩一歩いっぽいっぽ着実ちゃくじつ地歩ちほかためながらすすむ、というものであった。会社かいしゃ痛手いたでけたような時期じきたとえば鈴木すずき商店しょうてん多額たがく損失そんしつしただいいち世界せかい大戦たいせん直後ちょくごきょう局面きょくめんにおいても、弥吉やきちは「深追ふかおいはなにより禁物きんもつ」として在庫ざいこならびにポジションをすべて整理せいりするように強力きょうりょく指示しじしていた。このとき社内しゃない一部いちぶに「まだいける」として指示しじしたがわなかったものがあり、多少たしょうそんをかぶることもあったが、全体ぜんたいとしては適切てきせつ時期じき適切てきせつ整理せいりおこなうとともに、めるべき局面きょくめんではめの経営けいえいおこなうことで業績ぎょうせきばしていった。

会社かいしゃ組織そしき[編集へんしゅう]

1919ねん11月13にちには株式会社かぶしきがいしゃ改組かいそした。

1942ねん5月、弥吉やきち陸軍りくぐんとのいざこざが原因げんいんとなって安宅あたか商会しょうかい社長しゃちょう退任たいにんし、後任こうにんには次男じなん安宅あたか重雄しげお指名しめいした。長男ちょうなん安宅あたか英一ひでかずではなく、10さい年下とししたである次男じなん重雄しげお社長しゃちょうとしたのは、英一ひでかず自身じしんピアノ演奏えんそうするなど音楽おんがく興味きょうみがあったこともあってすうおおくの芸術げいじゅつパトロンとなり、つき当時とうじ金額きんがくで1まんえん以上いじょうも(当時とうじ大学だいがくそつ平均へいきんてき初任しょにんきゅうは40えんだった)浪費ろうひしていたこと、さらには学生がくせい時代じだい神戸こうべ高等こうとう商業しょうぎょう学校がっこうげん神戸大学こうべだいがくそつ)からくつひもすら使用人しようにんむすばせるような「殿様とのさま気質きしつ」をっており、堅実けんじつ信条しんじょうとする弥吉やきちが「英一ひでかずには守成しゅせいざいはないのではないか」という危惧きぐいたためとわれている。また、えいいち自身じしんも、「社長しゃちょうなんて面倒めんどうなことはかなわん」と重雄しげお社長しゃちょうぎょうゆずったともわれている。

しかし、重雄しげお京都きょうと帝国ていこく大学だいがく文学部ぶんがくぶ哲学てつがく出身しゅっしんで、英一ひでかずのような浪費ろうひへきはなく堅実けんじつではあったものの、哲学てつがく専攻せんこうという学究がっきゅうはだ人物じんぶつで、商売しょうばい精力せいりょくかたむけるタイプではなかった。それも手伝てつだって、社内しゃない重雄しげおをもりてる方向ほうこうではまとまらず、重雄しげおえい一派いっぱの2つの派閥はばつまれることになった。えい一派いっぱ中心ちゅうしんとなったのが猪崎いざき久太郎きゅうたろう取締役とりしまりやくであった。1927ねんから英一ひでかずがロンドンに留学りゅうがくしたさい猪崎いのさき同地どうち駐在ちゅうざいしていたえんもあり、さらには英一ひでかずかつぐことによって一気いっき出世しゅっせ階段かいだんのぼることをねら猪崎いざきと、実務じつむになうのは面倒めんどうだが安宅あたか産業さんぎょう実権じっけんにぎりたい英一ひでかず利害りがい一致いっちしたこともあり、猪崎いざき発言はつげんりょくいちぽうであった。

1943ねん1がつ1にちには社名しゃめい安宅あたか産業さんぎょう株式会社かぶしきがいしゃ変更へんこう[2]

だい世界せかい大戦たいせん終結しゅうけつで、海外かいがいにもゆうしていた61の支店してん出張所しゅっちょうしょと6つの直営ちょくえい生産せいさん会社かいしゃ閉鎖へいさとなった。また、資本しほんきんの3ばいおよ戦時せんじ補償ほしょう特別とくべつぜいせられたため、創業そうぎょう以来いらい40ねんにわたってきずきあげてきた資産しさんのすべてをうしなうことになった。これによって、1946ねんには商社しょうしゃ同様どうよう会社かいしゃ経理けいり応急おうきゅう措置そちほうによる特別とくべつ経理けいり会社かいしゃ指定していされ、企業きぎょう再建さいけん整備せいびほうもとづく再建さいけんあん審査しんさけることになった。だが、三菱みつびし本社ほんしゃ三井みつい本社ほんしゃのように過度かど経済けいざいりょく集中しゅうちゅう排除はいじょほうによって解体かいたいされることはなかった[2]

そうしたおりに、戦争せんそう責任せきにん問題もんだいもあり、英一ひでかずかつごうとする猪崎いざき工作こうさくもあって、弥吉やきちまえ重雄しげお社長しゃちょう英一ひでかず兄弟きょうだいはないをった。その結果けっか1945ねん10月に重雄しげおおおくの取締役とりしまりやくとも退任たいにんし、後任こうにんとして神田かんだ正吉まさきち社長しゃちょう就任しゅうにんすることになった。英一ひでかず猪崎いのさき社長しゃちょうえるよう重雄しげおせまったが、重雄しげおは「神田かんだ社長しゃちょうにしないのであればぼく退任たいにんしない」としてこれを拒否きょひ猪崎いのさきふく社長しゃちょうとなり、ロンドン仕込しこみの英語えいご駆使くしして社長しゃちょう神田かんだ尻目しりめGHQとの交渉こうしょうなどで活躍かつやくして社内しゃない実権じっけんにぎっていった。このとき猪崎いざき部下ぶかに、のち安宅あたか崩壊ほうかいのきっかけをつく高木たかぎ重雄しげおがいた。

戦後せんご処理しょりなか公職こうしょく追放ついほうをおそれた安宅あたかは、合計ごうけいで85%以上いじょう保有ほゆうしていた株式かぶしきをほとんどすべて手放てばなした。しかし、GHQの占領せんりょう体制たいせい終焉しゅうえんむかえ、財閥ざいばつ指定していけた一族いちぞくかぶもどして支配しはいりょく回復かいふくしたのにたいして、安宅あたかかぶもどしにうごかず、保有ほゆう株式かぶしきぜん発行はっこう株数かぶすうの2%にもたない状況じょうきょうつづいていた。そのような状況じょうきょうなか1955ねん英一ひでかず会長かいちょう就任しゅうにんしたが、かれ不思議ふしぎ威圧いあつかん人物じんぶつであり、社内しゃないではワンマンとして絶対ぜったいてき権力けんりょくをふるっていた猪崎いのさき英一ひでかずまえるとそのいなりになる状況じょうきょうであった。こうして、実際じっさい社業しゃぎょうりは猪崎いざき社長しゃちょうおこなうが、人事じんじけん創業そうぎょうというだけでだい株主かぶぬしでもないえいいち会長かいちょう保持ほじするというじゅう権力けんりょく体制たいせい確立かくりつされていく。英一ひでかずは「経営けいえいのことはわからんが、人間にんげん判断はんだんはわしがする」といいはなち、社員しゃいん採用さいよう試験しけんでも最終さいしゅうてき判断はんだんくだしたことはもちろん、重要じゅうよう人事じんじえいいち会長かいちょう反対はんたいするとながれてしまう状況じょうきょうつづいた。

この状態じょうたい英一ひでかず1965ねん8がつ会長かいちょう退任たいにん、「相談役そうだんやくしゃまろうど」という不思議ふしぎ肩書かたがきに退しりぞいたのちつづき、会社かいしゃ表向おもてむきの指揮しき命令めいれい系統けいとうとはべつに、200にんとも300にんともいるといわれた安宅あたか忠誠ちゅうせいちかう「安宅あたかファミリー」とばれる安宅あたかにゆかりのある社員しゃいん一団いちだん隠然いんぜんたるちからつことになった[3]英一ひでかず長男ちょうなん安宅あたかあきらわたる取締役とりしまりやくとして安宅あたか産業さんぎょう入社にゅうしゃさせ、ゆくゆくは社長しゃちょうにしたいとかんがえていた。その番頭ばんがしらとして安宅あたかファミリーの頂点ちょうてん柴田しばた芳雄よしお専務せんむえ、管理かんり財務ざいむ本部ほんぶちょう人事じんじ総務そうむ本部ほんぶちょう兼任けんにんさせ社内しゃない実権じっけんいちあつめるなど、安宅あたかファミリーの影響えいきょうりょく公然こうぜんたるものがあった。

破綻はたん[編集へんしゅう]

1966ねん住友商事すみともしょうじとの合併がっぺいばなしがった。戦後せんごにスタートした同社どうしゃ当時とうじまだ規模きぼちいさく、メインバンク安宅あたかおな住友銀行すみともぎんこうげん三井住友銀行みついすみともぎんこう)であったこともあり、堀田ほった庄三しょうぞう住銀すみぎん頭取とうどりはたらきかけたものである[4]猪崎いざき社長しゃちょうはなしすすめ、合併がっぺい比率ひりつ1:1、社名しゃめいは「住友すみとも安宅あたか商事しょうじ」、社長しゃちょう住友すみとも津田つだひさ会長かいちょう猪崎いざき久太郎きゅうたろう合併がっぺい覚書おぼえがき調印ちょういん寸前すんぜんまでぎつけたが、最終さいしゅうてきに「安宅あたかファミリー」の反対はんたいでわずか1ヶ月かげつはん流産りゅうざんとなった[5]。それまで英一ひでかず支持しじをバックに社内しゃないでは絶対ぜったいてきなワンマンとして君臨くんりんしていた猪崎いざき社長しゃちょうは、このけんがきっかけとなって同年どうねんまつ会長かいちょうまつげられた。

猪崎いざきのちいだ越田こしだひだりおとこ社長しゃちょうは、専務せんむ時代じだいにはLPG計画けいかく慎重しんちょう検討けんとうした結果けっか、リスクがおおきいと判断はんだん即座そくざにやめさせるなど慎重しんちょう経営けいえいスタンスをつらぬき、社長しゃちょういてからは外部がいぶからあたらしいれることによってよどんだ経営けいえい体質たいしつにカツをれようと関係かんけい銀行ぎんこう若手わかて派遣はけん要請ようせいした[5]。しかし、これは「安宅あたかファミリー」にとって面白おもしろくなかったらしく、任期にんきなかばで更迭こうてつされ、1969ねんには市川いちかわ政夫まさお社長しゃちょう就任しゅうにんした。

市川いちかわ社長しゃちょう就任しゅうにんしてからも英一ひでかず中心ちゅうしんとした「安宅あたかファミリー」のちからつよく、人事じんじもままならない状態じょうたいつづいた。さらに、つづ会長かいちょうにとどまった猪崎いざき市川いちかわいがわるく、「安宅あたかファミリー」=英一ひでかず会長かいちょう猪崎いざきのどちらもうしたてっていなかった市川いちかわは、一方いっぽうでしがらみなく安宅あたか産業さんぎょう近代きんだいてき株式会社かぶしきがいしゃとして脱皮だっぴさせるべく努力どりょくつづけることができたが、その努力どりょく度々たびたび重要じゅうよう人事じんじかんする英一ひでかず介入かいにゅうすすまない状況じょうきょうとなり、他方たほうではつづ社長しゃちょうすわつづけるためには売上うりあげ競争きょうそうをやつさざるをない状況じょうきょうかれていた。当時とうじ総合そうごう商社しょうしゃ規模きぼ利益りえきよりも売上うりあげだかはかられており、売上うりあげベースで総合そうごう商社しょうしゃ下位かいグループからさせることが、市川いちかわ社長しゃちょうとしての地位ちい安泰あんたいにするためにせられた至上しじょう命令めいれいであった。

このような状況じょうきょうなかで、売上うりあげ向上こうじょうのために社運しゃうんけたカナダにおける精油せいゆしょプロジェクトが1973ねんオイルショック1975ねん破綻はたんし、1000おくえん以上いじょうにのぼる貸付かしつけきん売上うりあげ債権さいけんこととなった。その結果けっか住銀すみぎん主導しゅどうしたでの解体かいたい再編さいへんて、安宅あたか産業さんぎょう1977ねん10月に伊藤忠商事いとうちゅうしょうじ吸収きゅうしゅう合併がっぺいされ、70ねん以上いじょうにわたる歴史れきしまくじた。

戦後せんご商社しょうしゃ試行しこう錯誤さくごしながら企業きぎょう規模きぼ相応ふさわしい近代きんだいてき経営けいえい体制たいせいへと組織そしきあらためてった。たとえば伊藤忠商事いとうちゅうしょうじでは小菅こすが宇一郎ういちろう社長しゃちょう大本営だいほんえい参謀さんぼうだった瀬島せじま龍三りゅうぞうをスカウトし、総合そうごう商社しょうしゃ相応ふさわしい組織そしきづくりを瀬島せじま自己じこ使命しめいとした[6]一方いっぽうで、安宅あたか産業さんぎょう従来じゅうらい堅実けんじつ経営けいえい世評せひょうていたが、安宅あたか3代目だいめあきらわたる専務せんむ就任しゅうにんしたころから社風しゃふう急激きゅうげきわり[7]そんしてでも売上うりあげりにくような無理むり取引とりひき創業そうぎょうによる個人こじんてきコレクションへの社費しゃひ支出ししゅつかく事業じぎょう部門ぶもん独自どくじすすめたゴルフじょう開発かいはつをはじめとする本部ほんぶ統制とうせい・リスク管理かんり体制たいせい欠如けつじょなど、およそ近代きんだいてき経営けいえいとは無縁むえん大福帳だいふくちょうてきファミリー経営けいえいまかとおっていたことが経営けいえい破綻はたんあきらかとなった[7]安宅あたか産業さんぎょう経営けいえい破綻はたんによって、日本にっぽん総合そうごう商社しょうしゃ三菱商事みつびししょうじ三井物産みついぶっさん伊藤忠商事いとうちゅうしょうじ丸紅まるべに住友商事すみともしょうじ日商岩井にっしょういわいトーメンにち綿めん實業じつぎょうけん松江まつえしょうの9だい商社しょうしゃ再編さいへんされていくことになる。

1990ねん安宅あたか産業さんぎょうもと役職やくしょくいんによってアタカコーポレーション(本社ほんしゃ東京とうきょう)が設立せつりつされ、英一ひでかずまごたる安宅あたか一弥かずやが2014ねん同社どうしゃ社長しゃちょう就任しゅうにんしている。

経営けいえい破綻はたんによって、所謂いわゆる安宅あたかコレクションのうち速水はやみ御舟みふね作品さくひん106てんは、住銀すみぎん樋口ひぐち廣太ひろたろう常務じょうむが、やましゅ美術館びじゅつかん運営うんえい母体ぼたいである山種証券やまたねしょうけんげんSMBC日興証券にっこうしょうけん)の山崎やまざき富治とみはる社長しゃちょう購入こうにゅう依願いがん[8]1976ねん美術館びじゅつかん運営うんえいするやましゅ美術びじゅつ財団ざいだん有償ゆうしょう一括いっかつ譲渡じょうとされた[9]。また、のこりの965けんやく1000てん東洋とうよう陶磁とうじコレクションは、住銀すみぎん主導しゅどうした住友すみともグループ21しゃが、総額そうがく152おくえん大阪おおさか文化ぶんか振興しんこう基金ききん寄付きふはその寄付きふきんやく1000てんのコレクションをり、寄付きふきん積立つみたてともな運用うんよう利息りそくで、コレクションを収蔵しゅうぞう展示てんじする大阪おおさか市立しりつ東洋とうよう陶磁とうじ美術館びじゅつかん中之島なかのしま公園こうえん建設けんせつした[10]

歴代れきだい社長しゃちょう[編集へんしゅう]

だい 氏名しめい 期間きかん 備考びこう
1 安宅あたか弥吉やきち 創業そうぎょう - 1942ねん5がつ
2 安宅あたか重雄しげお 1942ねん5がつ - 1945ねん10がつ
3 神田かんだ正吉まさきち 1945ねん10がつ - 1957ねん11月
4 猪崎いざき久太郎きゅうたろう 1957ねん11月 - 1966ねん11月
5 越田こしだひだりおとこ 1966ねん11月 - 1969ねん11月
6 市川いちかわ政夫まさお 1969ねん11月 - 1976ねん7がつ
7 小松こまつやすし 1976ねん7がつ - 1977ねん10がつ 住友銀行すみともぎんこう出身しゅっしん

関係かんけい会社かいしゃ[編集へんしゅう]

国内こくない163しゃ国外こくがい61しゃ合計ごうけい224しゃ関係かんけい会社かいしゃかかえていた[11]

おも関係かんけい会社かいしゃ[編集へんしゅう]

  • ゆたか鋼材こうざい工業こうぎょう - 1977ねん伊藤忠商事いとうちゅうしょうじによる安宅あたか産業さんぎょう吸収きゅうしゅう合併がっぺいに、伊藤忠商事いとうちゅうしょうじ系列けいれつとなる。2001ねん伊藤いとうただし丸紅まるべに鉄鋼てっこう発足ほっそくともない、関連かんれん会社かいしゃとなる。
  • 仁田にった産業さんぎょう
  • 大安だいあん製鋼せいこう - 1987ねん8がつ清本鐵工きよもとてっこう製鋼せいこう部門ぶもん統合とうごう九州製鋼きゅうしゅうせいこう商号しょうごう変更へんこう
  • 仁科にしな電線でんせん - 1976ねん6がつ和議わぎ申請しんせい
  • 安宅あたか建設けんせつ工業こうぎょう - 安宅あたか産業さんぎょう経営けいえい破綻はたんによって、1977ねん12月、日立造船ひたちぞうせん経営けいえい参加さんか同社どうしゃみず処理しょり部門ぶもん継承けいしょう翌年よくねん社名しゃめいアタカ工業あたかこうぎょう変更へんこう。2006ねん10がつどう系列けいれつだいエンジニアリング合併がっぺいアタカだいとなる。2014ねん4がつ親会社おやがいしゃ日立造船ひたちぞうせん吸収きゅうしゅう合併がっぺい
  • 安宅あたかマシンツール
  • 三精輸送機さんせいゆそうき - 2014ねん1がつさんせいテクノロジーズ商号しょうごう変更へんこう
  • 東京とうきょう原子げんし工業こうぎょう - 1976ねん10がつ倒産とうさん
  • アタカ衣料いりょう、- 伊藤いとうよろずげんにちてつ物産ぶっさん)に営業えいぎょうけん譲渡じょうと
  • 日本にっぽん衣料いりょう - 自主じしゅ廃業はいぎょう
  • アタカフーズ
  • 柴田しばた産業さんぎょう - 1977ねん9がつ全日空ぜんにっくう商事しょうじぜんかぶ取得しゅとくげん:ANAフーズ。
  • 三宝さんぼう合成ごうせい
  • 中村なかむら合板ごうはん - 1977ねん4がつ会社かいしゃ更生こうせいほう適用てきよう申請しんせい子会社こがいしゃ日本にっぽんハードボード工業こうぎょうげんニチハ)。
  • 福井ふくい化学かがく工業こうぎょう - 1976ねん7がつ安宅あたか産業さんぎょうぜんかぶ全体ぜんたいの69.13%)をレンゴー売却ばいきゃく
  • くにながぎょう - 2008ねん日本製紙にほんせいし完全かんぜん子会社こがいしゃとなる。
  • 安宅あたか興産こうさん
  • 昭和しょうわリース - 協和きょうわ銀行ぎんこうげんりそな銀行ぎんこう)などととも設立せつりつ。2016ねん12月1にち新生しんせい銀行ぎんこう完全かんぜん子会社こがいしゃとなる。
  • 協和自動車きょうわじどうしゃ - 自主じしゅ廃業はいぎょう
  • ロイヤル・モータース - グループ企業きぎょうひとつ。西武せいぶ流通りゅうつうグループ西武せいぶ自動車じどうしゃ販売はんばいよりフィアットフェラーリ輸入ゆにゅう代理だいりけんぐが、フェラーリは販売はんばいせず。
  • 大洋たいようフェリー - 1986ねん3がつ名門めいもんカーフェリーと合併がっぺい名門めいもん大洋たいようフェリーとなる。
  • 品川燃料しながわねんりょう - 1998ねん4がつシナネン商号しょうごう変更へんこう。2015ねん10がつ持株もちかぶ会社かいしゃ体制たいせい移行いこう
  • トーヨド建設けんせつ - 1984ねん12月、積水せきすいハウス資本しほん参加さんか。1989ねん6がつ積水せきすいハウス木造もくぞう商号しょうごう変更へんこう。 1995ねん8がつ積水せきすいハウスに吸収きゅうしゅう合併がっぺい
  • 出典しゅってん[12]

伊藤忠商事いとうちゅうしょうじとの合併がっぺいまえ分離ぶんりして発足ほっそくした会社かいしゃ[編集へんしゅう]

  • 安宅あたか設計せっけい - 1964ねん建設けんせつ事業じぎょう本部ほんぶ技術ぎじゅつ技術ぎじゅつ部門ぶもんをグループ会社かいしゃし、安宅あたかエンヂニヤリング(かぶ)を設立せつりつ。1977ねん安宅あたか産業さんぎょう(かぶ)消滅しょうめつともない、安宅あたかエンヂニヤリング(かぶ)は、あらたに設計せっけい事務所じむしょとしてさい発足ほっそく。1994ねん本社ほんしゃ東京とうきょう新宿しんじゅく西新宿にししんじゅく移転いてんし(かぶ)安宅あたか設計せっけい社名しゃめい変更へんこう
  • 安宅あたか繊維せんい - 1976ねん12月、繊維せんい国内こくない販売はんばい部門ぶもん分離ぶんりして、資本しほんきん10おくえん発足ほっそくのち伊藤いとうまん繊維せんい販売はんばい商号しょうごう変更へんこう。1978ねん伊藤いとうよろず吸収きゅうしゅう合併がっぺい
  • 安宅あたか建材けんざい - 1976ねん12月、建材けんざい国内こくない販売はんばい部門ぶもん分離ぶんりして、資本しほんきん4おくえん発足ほっそく2006ねん4がつ住友林業すみともりんぎょう合併がっぺい
  • 安宅あたか地所じしょ - 1977ねん5がつ住宅じゅうたく(マンション開発かいはつ分譲ぶんじょう部門ぶもん分離ぶんり安宅あたか地所じしょとして発足ほっそく。1984ねん9がつ総合そうごう地所じしょ商号しょうごう変更へんこう。2017ねん4がつ長谷ながたにこう不動産ふどうさんホールディングス子会社こがいしゃとなる。
  • 安宅あたか木材もくざい - 1977ねん5がつ発足ほっそく
  • 安宅あたかみのり水産すいさん - 1977ねん5がつ発足ほっそく伊藤いとうよろず提携ていけいむすぶ。1980ねん伊藤いとうよろず完全かんぜん子会社こがいしゃとなる。
  • 出典しゅってん[13][14]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

ちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ げん大阪おおさか中央ちゅうおう今橋いまはし4-5。ぎんいずみ淀屋橋よどやばしビルが立地りっちする。

出典しゅってん[編集へんしゅう]

  1. ^ 崩壊ほうかい―ドキュメント・安宅あたか産業さんぎょう』p.13
  2. ^ a b 崩壊ほうかい―ドキュメント・安宅あたか産業さんぎょう』p.46
  3. ^ 崩壊ほうかい―ドキュメント・安宅あたか産業さんぎょう』p.55 - 56
  4. ^ 崩壊ほうかい―ドキュメント・安宅あたか産業さんぎょう』p.53
  5. ^ a b 崩壊ほうかい―ドキュメント・安宅あたか産業さんぎょう』p.54
  6. ^ 崩壊ほうかい―ドキュメント・安宅あたか産業さんぎょう』p.52
  7. ^ a b 崩壊ほうかい―ドキュメント・安宅あたか産業さんぎょう』p.51
  8. ^ わたし履歴りれきしょ復刻ふっこくばん 安宅あたか合併がっぺいたの伊藤忠いとうちゅう日参にっさん ねむれぬよるごす もとアサヒビール社長しゃちょう 樋口ひぐち広太ひろたろう(21)”. NIKKEI STYLE. 日経にっけいBPしゃ (2017ねん4がつ6にち). 2018ねん11がつ10日とおか閲覧えつらん
  9. ^ 『ザ・ラストバンカー 西川にしかわ善文よしふみ回顧かいころく』p.97
  10. ^ 『ザ・ラストバンカー 西川にしかわ善文よしふみ回顧かいころく』 p.85 - 97
  11. ^ 崩壊ほうかい―ドキュメント・安宅あたか産業さんぎょう』p.126
  12. ^ 崩壊ほうかい―ドキュメント・安宅あたか産業さんぎょう』p.127 - 134
  13. ^ 崩壊ほうかい―ドキュメント・安宅あたか産業さんぎょう』p.133、244 - 245
  14. ^ 「イトマンの軌跡きせき だい4 河村かわむら商法しょうほう功罪こうざい(12)」『読売新聞よみうりしんぶん大阪おおさか本社ほんしゃ朝刊ちょうかん 1991ねん4がつ18にち

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

  • メッセンジャー (1999ねん映画えいが) - げきちゅう高級こうきゅうファッションブランドのインポーターをがける総合そうごう商社しょうしゃとして「安宅あたか物産ぶっさん」の社名しゃめい登場とうじょうする。
  • わたしをスキーにれてって - 上記じょうき同様どうよう主人公しゅじんこう勤務きんむする会社かいしゃ社名しゃめいが「安宅あたか物産ぶっさん」となっている。

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]