小笠おがさこう

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小笠おがさこう
おがさ こうしょう
生年月日せいねんがっぴ 1904ねん12月16にち
ぼつ年月日ねんがっぴ (1985-09-13) 1985ねん9月13にち(80さいぼつ
出身しゅっしんこう 東京とうきょう帝国ていこく大学だいがく経済学部けいざいがくぶ卒業そつぎょう
ぜんしょく 中小企業庁ちゅうしょうきぎょうちょう長官ちょうかん
所属しょぞく政党せいとう自由党じゆうとう→)
日本にっぽん民主党みんしゅとう→)
自由民主党じゆうみんしゅとう→)
無所属むしょぞく→)
自由民主党じゆうみんしゅとう
称号しょうごう 勲一等くんいっとう瑞宝章ずいほうしょう

選挙せんきょ 徳島とくしまけん選挙せんきょ
当選とうせん回数かいすう 1かい
在任ざいにん期間きかん 1971ねん7がつ2にち - 1977ねん7がつ10日とおか

選挙せんきょ 徳島とくしまけん全県ぜんけん
当選とうせん回数かいすう 5かい
在任ざいにん期間きかん 1953ねん4がつ19にち - 1958ねん4がつ25にち
1960ねん11月20にち - 1969ねん12月2にち
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小笠おがさ こう(おがさ こうしょう、1904ねん12月16にち[1] - 1985ねん9月13にち)は、日本にっぽん商工しょうこう官僚かんりょう政治せいじ衆議院しゅうぎいん議員ぎいん(5)。参議院さんぎいん議員ぎいん(1)。

経歴けいれき[編集へんしゅう]

旧制きゅうせいはちだか1929ねん東京とうきょう帝国ていこく大学だいがく経済学部けいざいがくぶ卒業そつぎょう商工しょうこうしょう入省にゅうしょう[2]

1950ねん中小企業庁ちゅうしょうきぎょうちょう長官ちょうかん

1952ねんだい25かい衆議院しゅうぎいん議員ぎいんそう選挙せんきょ徳島とくしまけん全県ぜんけん自由党じゆうとうから出馬しゅつばするが、落選らくせん1953ねんだい26かい衆議院しゅうぎいん議員ぎいんそう選挙せんきょはつ当選とうせん以後いご5つとめる。派閥はばつきし

1957ねんだい1きし改造かいぞうないかく通商つうしょう産業さんぎょう政務次官せいむじかんを、1958ねんからだい2きし改造かいぞうないかく内閣ないかく官房かんぼうふく長官ちょうかんをそれぞれつとめる。

1969ねんだい32かい衆議院しゅうぎいん議員ぎいんそう選挙せんきょ落選らくせんしたのち参議院さんぎいんにくらえし、1971ねん参議院さんぎいん議員ぎいん通常つうじょう選挙せんきょ徳島とくしまけん選挙せんきょで、三木みき與吉よきちろう参議院さんぎいん議員ぎいん3衆議院しゅうぎいん議員ぎいん1もと徳島とくしま市長しちょう三木みき俊治しゅんじちち)の後継こうけいしゃとして、三木みき武夫たけお自民党じみんとう公認こうにん伊藤いとうかおるやぶり、当選とうせん無所属むしょぞく)。

1985ねん死去しきょ[2]。80さいぼつ死没しぼつをもって勲一等くんいっとう瑞宝章ずいほうしょう追贈ついぞうくんよんとうからの昇叙しょうじょ[3]

もと秘書ひしょ[編集へんしゅう]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ 戦前せんぜん日本にっぽん官僚かんりょうせい制度せいど組織そしき人事じんじ』49ぺーじ
  2. ^ a b 議会ぎかい制度せいどひゃくねん - 貴族きぞくいん参議院さんぎいん議員ぎいん名鑑めいかん』261ぺーじ
  3. ^ 官報かんぽうだい17587ごう11-12ぺーじ 昭和しょうわ60ねん9がつ24にちごう

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

  • 衆議院しゅうぎいん参議院さんぎいんへん議会ぎかい制度せいどひゃくねん - 貴族きぞくいん参議院さんぎいん議員ぎいん名鑑めいかん大蔵省おおくらしょう印刷いんさつきょく、1990ねん
  • 戦前せんぜん官僚かんりょうせい研究けんきゅうかいへん戦前せんぜん日本にっぽん官僚かんりょうせい制度せいど組織そしき人事じんじ東京大学とうきょうだいがく出版しゅっぱんかい、1981ねん
官職かんしょく
先代せんだい
鈴木すずき俊一しゅんいち
日本の旗 内閣ないかく官房かんぼうふく長官ちょうかん事務じむ担当たんとう 次代じだい
佐々木ささき盛雄もりお