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旗塚通はたつかどおり

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』

旗塚通はたつかどおり(はたづかどおり)は兵庫ひょうごけん神戸こうべ中央ちゅうおう町名ちょうめい住居じゅうきょ表示ひょうじ実施じっし区域くいき現行げんこう行政ぎょうせい地名ちめい旗塚通はたつかどおりいち丁目ちょうめからはたづかどおなな丁目ちょうめ郵便ゆうびん番号ばんごうは651-0068。

地理ちり

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同区どうく中央東ちゅうおうひがしりのきたりに位置いちする。きゅう葺合ふきあいいき中央ちゅうおう住宅じゅうたく商業しょうぎょう地域ちいきひがしからじゅんいちなな丁目ちょうめかれる。ひがしきたからじゅん坂口さかぐちとおる宮本みやもととおるみなみ神若通かみわかどおり西にし生田川いけだがわはさんで生田いくたまちきた熊内橋通くもちばしどおり隣接りんせつする。

歴史れきし

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町名ちょうめいは、明治めいじ時代じだいまでろくなな丁目ちょうめきたさかいあたりにあったはたづか別名べつめい灰塚はいつか)という古墳こふんから。このづかについては、寿ことぶきひさし3ねん(1184ねん一ノ谷いちのやたたかとき源範頼みなもとののりより生田いくたがわひがし陣取じんどって古墳こふん源氏げんじはたてたからはたづかんだという伝説でんせつ西にし大観たいかん)、また、元弘もとひろ3ねん1333ねん赤松あかまつ則村のりむら摩耶山まやさんてこもって京都きょうとろく軍勢ぐんぜいむかったさい生田川いけだがわ周辺しゅうへん主戦しゅせんじょうとなり戦死せんししゃ武具ぶぐほうむったところを灰塚はいつかんだという伝説でんせつ葺合ふきあい懐古かいこさんせんねん)がのこるが、真偽しんぎ不明ふめいづかからは明治めいじ30ねんごろ耕地こうち整理せいりさい刀剣とうけんるいたという[1]

明治めいじ36ねん1903ねん)に神戸こうべ葺合ふきあいまちから成立せいりつ昭和しょうわ6ねん1931ねん)のせい施行しこうまでは「葺合ふきあい」をかんして葺合ふきあい旗塚通はたつかどおりばれていた。大正たいしょう5ねん(1916ねん)まで2~7丁目ちょうめ。はじめ神戸こうべ昭和しょうわ6ねん(1931ねん)より同市どうし葺合ふきあい昭和しょうわ55ねん1980ねん)より同市どうし中央ちゅうおう所属しょぞく

沿革えんかく

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  • 大正たいしょう5ねん1916ねん):葺合ふきあいまち一部いちぶ編入へんにゅうし、いち丁目ちょうめができる。
  • 昭和しょうわ24ねん1949ねん):熊内くもちまちよん丁目ちょうめから葺合ふきあい区役所くやくしょ新築しんちく移転いてん

人口じんこう統計とうけい

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  • 平成へいせい17ねん国勢調査こくせいちょうさ(2005ねん10がつ1にち現在げんざい)での世帯せたいすう837、人口じんこう1,661、うち男性だんせい778にん女性じょせい883にん[2]
  • 昭和しょうわ63ねん(1988ねん)の世帯せたいすう1120・人口じんこう2,618[3]
  • 昭和しょうわ35ねん(1960ねん)の世帯せたいすう902・人口じんこう3,205[3]
  • 大正たいしょう9ねん(1920ねん)の世帯せたいすう552・人口じんこう2,749[3]
  • 明治めいじ41ねん(1908ねん)の戸数こすう64・人工じんこう324[3]

施設しせつ

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いち丁目ちょうめ
よん丁目ちょうめ
  • 市立しりつ葺合ふきあい文化ぶんかセンター
  • はたづか保育ほいくしょ
  • 市立しりつはたづか児童じどうかん
ろく丁目ちょうめ
なな丁目ちょうめ
  • 生田川いけだがわ公園こうえん

脚注きゃくちゅう

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参考さんこう文献ぶんけん

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  • 神戸こうべ学会がっかい へん神戸こうべ町名ちょうめい 改訂かいていばん神戸こうべ新聞しんぶん総合そうごう出版しゅっぱんセンター、2007ねんISBN 978-4-343-00437-6 
  • 角川かどかわ日本にっぽん地名ちめいだい辞典じてん編纂へんさん委員いいんかい 竹内たけうちさん へん角川かどかわ日本にっぽん地名ちめいだい辞典じてん 28 兵庫ひょうごけん角川書店かどかわしょてん、1988ねんISBN 978-4040012803