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花隈町(はなくまちょう)は兵庫県神戸市中央区の町名。住居表示実施済区域。丁番の設定がない単独町名である。郵便番号650-0013[2]。
中央区の南西部、旧生田区域中央部に位置し、東・北・西は下山手通、東~南は北長狭通に接する。中央区西部の市街地中寄り、花隈城のあった辺り。神戸港の発展に伴い高級料亭が立ち並び花街として有名になった[4]。
飲食店・集合住宅が立ち並ぶ商業地域。
花熊・鼻熊・華熊とも書き、「往昔は土東崕を噛み」といわれ、海に面した小高い丘であった[5]。台地の端(ハナ)の一段と高いところ(クマ)からついたという説[5]がある一方、神をクマというところから神内(くまうち)に対し神社領のはずれという意味だという説もある(西摂大観)[4]。花熊の地名は南北朝時代から見え、貞和2年(1346年)4月日付佐藤性妙軍忠書によれば足利方に属していた陸奥国出身の佐藤性妙子息行清らが建武3年(1336年)湊川の戦いの折「摂州天王寺・阿倍野・湊河・花熊・生田森・摩耶山」で奮戦したとある(佐藤文書/大日本史料6-9)[4]。
江戸時代から明治5年(1872年)まで花熊村。同村は八部郡のうちで、はじめ幕府領、元和元年(1615年)から大和国小泉藩領、明和6年(1769年)から再び幕府領[4]。村高は元和3年(1617年)「摂津高改帳」288石余、享保20年(1735年)摂津国石高調291石余、天保5年(1835年)「天保郷帳」「旧高旧領」ともに294石余で、「天保郷帳」では当村含む神戸村ほか5か村立会新田2石余が見える[4]。
- 元和元年(1615年)の家数61[4]。
- 明和4年(1767年)の家数78(無高2)・人数321[4]。
- 安政2年(1855年)の家数59(無高5)・人数247[4]。
- 天明8年(1788年)の巡見使通行の際の資料(村上家文書)によると、田方160石余・畑方111石余・屋敷16石余・堤敷溝敷5石余、年貢は定免制で米171石余、水車1・紺屋1[4]。
- 『神戸市史』によれば明治2年(1869年)頃、農業の他は男は素麺職・線香職・水車稼ぎ・酒造稼ぎ・柴薪刈、女は木綿織・筵折に従事[4]。
字名に土居、射矢の上、御所坂、二の丸、二の丸堀、本丸東の根、本丸の辻、三の丸、高城など城郭に因むものが残っていた[5]。
明治5年(1872年)、花熊村は神戸町の一部となり村域(現在の花隈町よりも広い)がそのまま花隈町となった。神戸3番組に所属。明治7年(1874年)、山本通一~七丁目・中山手通一~七丁目・下山手通一~七丁目・北長狭通一~七丁目・宇治野表通となった。
- 明治5年の物産惣高書上帳(村上家文書)によれば、米111石・貢納127石余・不足買入分405石、大豆81石余(自用)、大豆3石余(同)、小豆1石余(同)、小麦買入分2石余、粟1石余(同)、小麦83石余(他国輸出)、菜種10石余(同)、蛋豆(自用)、綿85斤(他国輸出)、大根50駄(同)、薩摩芋300貫(同)、茶50斤(同)、線香2,640貫、茶箱3万8,955箱(他国輸出)[4]。
現行の町名の花隈町は明治27年(1894年)に神戸市下山手通一~七丁目の一部から成立した。はじめ神戸市、昭和6年(1931年)市神戸区、昭和20年(1945年)同市生田区、昭和55年(1980年)から同市中央区に所属。昭和6年の区政施行まで「神戸」を冠称し神戸花隈町の名前だった。
2021年(令和3年)12月31日現在の世帯数と人口は以下の通りである[1]。
国勢調査等による人口の推移
国勢調査等による世帯数の推移。
1901年(明治34年)
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710世帯 |
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1930年(昭和5年)
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556世帯 |
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1988年(昭和63年)
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873世帯 |
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2005年(平成17年)
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1,426世帯 |
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市立小・中学校に通う場合、学区は以下の通りとなる[7]。
町内に鉄道駅はない。花隈駅は北長狭通にある。
厳島神社