相生 町 (神戸 市 )
地理
[JR
一 丁目
- グリーンD51 -
静態 保存 された国鉄 D51形 蒸気 機関 車 1072号機 神戸 海員 会館 - シーガルホール
神戸 公共 職業 安定 所 - NTT
神戸 ビル(元町 電話 局 ・神戸 中央 電報 局 ) - NTT
神戸 会館
三 丁目
四 丁目
五 丁目
神戸 相生 郵便 局 相生 町 公園 - フレール
神戸 相生 町 相生 町 小 公園
歴史
[明和 6年 (1769年 )の兵庫 津 絵図 (鷲尾 家蔵 )には見 えず[3]、天明 8年 (1788年 )の覚書 にも見 えず[3]、寛政 5年 (1793年 )の『兵庫 岡 方 文書 』の印形 帳 に町名 が見 え[2]、1788~1793年 の間 に町立 てされたらしい。江戸 時代 後期 の兵庫 津 の発展 に伴 い、湊 町 にあった湊 口 惣門 の東側 の西国 街道 沿 いに市街地 が広 がった[2]。文久 2年 (1862年 )の兵庫 津 絵図 (早稲田大学 図書館 蔵 )では湊川 の東岸 より宇治川 まで山陽 道 の両側 に家並 みが書 かれ、更 なる家数 増 があったとみられる[3]。幕末 の地図 には「宇治 野村 出郷 相生 町 」という地名 も見 える[2]。明治 元年 (1868年 )、岡 組 に属 す。明治 3年 (1870年 )相生 町 に鉄道 停車 場 の建設 が決定 。明治 5年 (1872年 )兵庫 一 番組 に属 す。明治 7年 (1874年 )、日本 で2番目 の鉄道 が大阪 ~神戸 間 に開通 した時 ここに神戸 駅 が設 けられる。旧来 の西国 街道 が鉄道 で分断 されたため跨線橋 ・相生 橋 が作 られた。これは日本 最初 期 の跨線橋 の一 つで、外国 人 が設計 し、幅 三 間 (5.45m)の木製 で、階段 があり人 だけが通 った。橋上 から汽車 が見 える名所 として「川 がないのに橋 がある」と歌 われたという[2]。この時 跨線橋 の袂 には「兵庫 県 里程 元 標 」という木 柱 が設置 された。同年 、組 制 廃止 。明治 12年 (1879年 )、神戸 区 所属 となる。相生橋 東 詰 めに神戸 警察 署 設置 。明治 22年 (1889年 )、神戸 市 の一部 となる。跨線橋 が鉄橋 となり車 も通 れるようになる。明治 27年 (1894年 )、一 ~五 丁目 に分 かれる。明治 28年 (1895年 )、市役所 所在地 兵庫 東川崎 町 の一部 を編入 。明治 32年 (1899年 )、十 合 呉服 店 (現 ・そごう。店舗 としては現在 の3代目 神戸 阪急 )が二 丁目 に開業 。同 38年 に神戸 元町通 五 丁目 へ移転 。明治 43年 (1910年 )、神戸 電気 鉄道 (後 の神戸 市電 )開業 、相生橋 上 を通 る。この時 「兵庫 県 里程 元 標 」が石柱 に取 り替 えられる。明治 44年 (1911年 )、旧 市庁舎 に図書館 開設 。大正 2年 (1913年 )、神戸 電気 鉄道 楠公 前 ~西柳原 間 が開通 。大正 10年 (1921年 )、神戸 商業 会議 所 を東町 へ、市立 図書館 を大倉山 へ移転 。大正 11年 (1922年 )、市電 大倉山 ~神戸 駅前 間 が開通 。昭和 6年 (1931年 )、湊 東 区 所属 。国鉄 の高架 化 により相生 跨線橋 がなくなる。工事 の際 「兵庫 県 里程 元 標 」撤去 され、一時 行方 不明 になる。昭和 9年 (1934年 )頃 、「兵庫 県 里程 元 標 」が宇治川 尻 の三菱倉庫 の横 に乱雑 に放置 されているのが見付 かり、神戸 市 が保管 [2]。昭和 20年 (1945年 )、生田 区 所属 。昭和 43年 (1968年 )、神戸 高速 鉄道 開通 、最寄 りは高速 神戸 駅 。昭和 55年 (1980年 )、生田 区 と葺合 区 の合併 で中央 区 所属 。一部 が古湊通 一 ~二 丁目 ・中町通 二 ~四 丁目 となり、東川崎 町 一 ~七 丁目 ・多聞 通 一 ~六 丁目 ・中町通 一 ~四 丁目 ・古湊通 一 ~二 丁目 の各 一部 を編入 。平成 16年 (2004年 )、湊川 神社 正門 右手 に再 建立 されていた「兵庫 県 里程 元 標 」が相生 橋 のあった付近 の「きらら広場 」へ移設 。
人口 統計
[平成 17年 国勢調査 (2005年 10月 1日 現在 )での世帯 数 826、人口 1,272、うち男性 649人 、女性 623人 [4]。昭和 35年 (1960年 )世帯 数 937・人口 3,830[5]。大正 9年 (1920年 )世帯 数 1,093、人口 5,279[5]。明治 25年 の戸数 1,345・人口 5,785[5]。明治 2年 (1869年 )の戸数 501戸 (兵庫 津 中 明細 録 /神戸 市 史 資料 2)。26石 余 (兵庫 岡 方 文書 )。明治 4年 74石 余 (同前 )。明治 5年 神社 調 によると湊川 神社 の氏子 として相生 町 568戸 [5]寛政 8年 (1796年 )の『兵庫 津 各 町家 数 人数 書 上 』(安田 家 文書 )に家数 6、人数 26で前年 より3件 増加 の記録 [3][6]。
脚注
[参考 文献
[神戸 史 学会 編 『神戸 の町名 改訂 版 』神戸 新聞 総合 出版 センター、2007年 。ISBN 978-4-343-00437-6。- 「
角川 日本 地名 大 辞典 」編纂 委員 会 竹内 理 三 編 『角川 日本 地名 大 辞典 28兵庫 県 』角川書店 、1988年 。ISBN 978-4040012803。 平凡社 地方 資料 センター、今井 林太郎 編 『兵庫 県 の地名 〈1〉 (日本 歴史 地名 大系 )』平凡社 、1999年 。ISBN 978-4582490602。
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