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春日かすが八郎はちろう

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春日かすが 八郎はちろう
1954ねん
基本きほん情報じょうほう
出生しゅっしょうめい 渡部わたなべみのる
別名べつめい 歌川うたがわしゅん
生誕せいたん 1924ねん10月9にち
出身しゅっしん 日本の旗 日本にっぽん 福島ふくしまけん河沼かわぬまぐん会津坂下あいづばんげまち
死没しぼつ (1991-10-22) 1991ねん10月22にち(67さいぼつ
日本の旗 日本にっぽん 東京とうきょう新宿しんじゅく東京医科大学とうきょういかだいがく病院びょういん[1]
学歴がくれき 東洋とうよう音楽おんがく学校がっこう卒業そつぎょう
ジャンル 歌謡かようきょく演歌えんか
職業しょくぎょう 歌手かしゅ
担当たんとう楽器がっき ピアノ 
活動かつどう期間きかん 1948ねん - 1991ねん
レーベル キングレコード
事務所じむしょ 春日しゅんじつプロ
藤山ふじやま一郎いちろう

春日かすが 八郎はちろう(かすが はちろう、本名ほんみょう渡部わたなべ みのる (わたなべ みのる)、1924ねん10月9にち - 1991ねん10月22にち)は、福島ふくしまけん河沼かわぬまぐん会津坂下あいづばんげまち塔寺とうでら出身しゅっしん演歌えんか歌手かしゅ。『あかいランプの終列車しゅうれっしゃ』『とみさん』『わかれの一本杉いっぽんすぎ』などが有名ゆうめいである。

人物じんぶつ[編集へんしゅう]

歌手かしゅとなる[編集へんしゅう]

ちちおに佐久さく農業のうぎょうはは・キヨにまかせて蕎麦そばちの行商ぎょうしょうをやり、キヨは小学校しょうがっこうしゅう2、3裁縫さいほうおしえ、よる賃仕事ちんしごと仕立物したてもの精出せいだして家計かけいたすけていた。ちち尺八しゃくはちを、はは三味線しゃみせんたしなんでいた。ちち蕎麦そばちの名人めいじんで、はは当地とうち花嫁はなよめ衣装いしょういちけるほどの和裁わさい名手めいしゅでもあった。春日しゅんじつにはいもうとにんのほかに「ほとんど記憶きおくにない」異母いぼけいあね6にん父兄ふけいあねが4にんいた。

1930ねん八幡やはた村立そんりつ八幡やはた尋常じんじょう小学校しょうがっこう入学にゅうがくするが、この時期じきは「うたのうのらない[2]状態じょうたいで、ひとからうまいといってほめてもらった記憶きおくもなかった。このころむら時折ときおり旅芸人たびげいにん少年しょうねんたちにあこがれ、太神楽だいかぐら一座いちざはいることを夢見ゆめみるが、はは反対はんたいにあって断念だんねん尋常じんじょう小学校しょうがっこう時代じだい機械きかいづくりのきな理系りけい少年しょうねんで、本人ほんにんいわく「そのころでは、ごくありきたりの腕白わんばく坊主ぼうず」であったが、当時とうじ校友こうゆうによると「大変たいへん腕白わんばく」であった。

1937ねん旧制きゅうせい福島ふくしま県立けんりつ会津あいづ中学校ちゅうがっこう入学にゅうがくし、片道かたみち1あいだをかけての汽車きしゃ通学つうがくちゅうにエクボの目立めだ少年しょうねんとして女学生じょがくせいたちの注目ちゅうもくまととなる。在学ざいがくちゅうまちた『愛染あいぞめかつら』の主題歌しゅだいかたびよるふう』が「えらく流行はやっている」のをり、ラジオでもおぼえてくちずさんだところ、ちち叱責しっせきされるが、りずに学校がっこうひろめて仲間なかまだい合唱がっしょう。しかし、うたかんしてはそれ以外いがいは「相変あいかわらず、これといった話題わだいもない」ままにる。

あき狭心症きょうしんしょう悪化あっかによりちち死去しきょ春日しゅんじついわく、ちちおに佐久さくは「そりゃ、もうじつに、名前なまえのように厳格げんかくでこわいひと」で、のこるのは叱責しっせきされた記憶きおくばかりであった。1939ねん3がつかせしゅ一人ひとりとなった家計かけい負担ふたんらすため、旧制きゅうせい会津あいづ中学ちゅうがく中退ちゅうたいし、ははこころづくしの10えんさつ2まい上京じょうきょう

6がつにすでに貴重きちょうひんであったおはぎおごられに友人ゆうじんたく徒歩とほかう途中とちゅう浅草あさくさろくはじめてとおり、常磐ときわでクラシックの正統せいとう藤山ふじやま一郎いちろうのステージをておはぎのあじ記憶きおくのこらないほどの衝撃しょうげきけ、音楽おんがくてようとおもめる。少年しょうねん時代じだい田舎いなかまわりの旅芸人たびげいにんへのあこがれがはじめて歌謡かようショーでまし、歌手かしゅになること以外いがいすすむべきみちはないとめてしまった。この歌謡かようショーの出演しゅつえんしゃ藤山ふじやまのほか、ハットボンボンズ、田谷たや力三りきぞう笠置かさぎシヅ子しづこひとし指揮しき服部はっとり良一りょういちという顔触かおぶれであった。このショーからけた感動かんどうくわえ、おおくのひとあつめ、魅了みりょうする存在そんざいになることが「いままずしさから近道ちかみちだ」とかんがえたのもあった。早速さっそくけた東洋とうよう音楽おんがく学校がっこう試験しけんにも合格ごうかくし、あに夫婦ふうふ反対はんたいって器楽きがく入学にゅうがく器楽きがく選択せんたくしたのは音楽おんがく教師きょうし免状めんじょうがとりやすいとき、「先生せんせい資格しかくがあれば、将来しょうらい生活せいかつ安定あんていはたやすい」とかんがえたためだが、ほどなく声楽せいがくうつる。まなぶうちにうた魅力みりょくかれはじめるが、学徒がくと徴用ちょうようれいにより、くれからは三鷹みたか中島なかじま航空機こうくうき製作所せいさくしょがよいのとなる。流行りゅうこううたかたにつけるべく、東京とうきょうごえせん音楽おんがく学校がっこう転校てんこう転入てんにゅうさいしてけた試験しけんでは、「いいごえしてますね、渡部わたなべくん」とめられ、ムーラン・ルージュ新宿しんじゅくはつ舞台ぶたいむが、洋楽ようがく敵性てきせい音楽おんがくとしてきんじられ、わずかにうたえるのは軍歌ぐんかばかりの状況じょうきょうつづく。

あきごろにはかねておそれていた召集令状しょうしゅうれいじょうがついにとどき、卒業そつぎょう会津若松あいづわかまつ陸軍りくぐんだい29連隊れんたい入隊にゅうたい半年はんとし訓練くんれんのち広島ひろしま移動いどうし、宇品うじなこうからフィリピンへとかう途中とちゅう座礁ざしょう台湾たいわん足止あしどめとなり、その敗戦はいせんむかえる。

1945ねん11月復員ふくいんすると、終戦しゅうせん1946ねんはる一旦いったん帰郷ききょうして会津あいづ運送うんそう会社かいしゃ当座とうざしょくるが、10月なかばに「なにをするにも、やっぱり東京とうきょうだ」とのおもいにてられてさい上京じょうきょう。そのはムーラン・ルージュ新宿しんじゅくもどり、渡部わたなべ勇助ゆうすけ本格ほんかくてき歌手かしゅ活動かつどう開始かいし1947ねん7がつキングレコードだい1かい歌謡かようコンクールに応募おうぼし、細川ほそかわ潤一じゅんいち作曲さっきょくの『なみだ責任せきにん』をうたう。2000にん応募おうぼしゃなかから男性だんせいとしては2人ふたり[注釈ちゅうしゃく 1]のみの合格ごうかくしゃはいり、じゅん専属せんぞく歌手かしゅとなる。「んだうつくしい高音こうおん」に注目ちゅうもくしたキング専属せんぞく作曲さっきょくである細川ほそかわ指導しどうって、レッスンしつかよ日々ひびつづく。歌川うたがわしゅんじゅん専属せんぞく歌手かしゅとなり、これをにムーラン・ルージュを退団たいだんじゅん専属せんぞく歌手かしゅ無給むきゅう待遇たいぐうであったため、新人しんじん登竜門とうりゅうもんといわれた新宿しんじゅく聚楽じゅらくへのつきに2、3出演しゅつえん以外いがい収入しゅうにゅうみちはなく、衣食いしょくにも事欠ことかくらしがつづく。すこしでもはやかせぐため、当時とうじだい流行りゅうこうジャズまなぼうと横浜よこはまく。もとジャズシンガーのべいぐん将校しょうこう夫人ふじんわたりをつけ、下働したばたらけん生徒せいととはなったものの、ジャズは「はだわない」とさと結果けっかわる。

当座とうざ勉学べんがく資金しきんかせぐため、進駐軍しんちゅうぐんのPX商品しょうひん歌謡かよう関係かんけいしゃやみ商売しょうばいめる。かさなる失意しついなかあき一旦いったん帰郷ききょうはするが、くれふたた上京じょうきょうふたた聚楽じゅらく舞台ぶたいつ。1949ねんはる高橋たかはし掬太郎きくたろう作詞さくし上原うえはらげんと作曲さっきょくの『つばめころ』ではつのテストみをするが、新譜しんぷ会議かいぎ採用さいようになる。オーディション合格ごうかくぐみ男性だんせいがワンコーラスずつうた上原うえはら作曲さっきょくの『ラッキーボーイ』もまたおぞうりとなり、赤貧せきひん日々ひびはさらにつづく。おぞうりの理由りゆうとしては、会津あいづなまりがつよくて低音ていおん不十分ふじゅうぶん江口えぐちよるには「こえがどうも華奢きゃしゃ」とひょうされた。専門せんもんにも「唱歌しょうかみたい」「こえつやがない」とけなされた。作詞さくし矢野やのあきらいわく、当時とうじのキングではおか晴夫はるお小畑おばたみのるはやし伊佐いさいとぐちひとしのベテランぜいくわえ、津村つむらけんわかはら一郎いちろう高音こうおん美声びせい魅力みりょく有望ゆうぼう若手わかて活躍かつやくちゅうで、新人しんじん渡部わたなべみのるにまではがまわらなかった。

また、このとしなつにはキングに内紛ないふんがあり、細川ほそかわ人員じんいん整理せいり対象たいしょうとなった。それにくわえて、戦後せんご復興ふっこう途上とじょうでレコードかい物資ぶっし不足ふそくし、レコードおおくも戦災せんさいからなおっていなかった。春日しゅんじつはその藤山ふじやま一郎いちろうのレコードをんで日本語にほんご発音はつおんみずかもう特訓とっくんしたほか、あめふう多摩川たまがわ河原かわら発声はっせい練習れんしゅうをした。あらためて専属せんぞくとなり、毎日まいにち舞台ぶたいるようになった聚楽じゅらくで、ピンチヒッターとしてたまたま出演しゅつえんした江口えぐち門下生もんかせいであるひのきさか恵子けいこ[注釈ちゅうしゃく 2]い、意気投合いきとうごう細川ほそかわ一身上いっしんじょう都合つごうからレッスンを継続けいぞくできなくなり、やがて恋仲こいなかとなった恵子けいこ細川ほそかわ仲介ちゅうかいにより、江口えぐち師事しじ江口えぐちいえ毎日まいにちのようにかよい、掃除そうじをしたりかたんだりしながら、きょくつくってもらえるようねがつづけた。家出いえで決行けっこうした恵子けいこと、なべひとつない下宿げしゅく事実じじつじょう結婚けっこん生活せいかつをスタート。このころ先輩せんぱい歌手かしゅ三門みかど順子じゅんこ前座ぜんざ歌手かしゅとなり、かばんち、うつしときにはアレンジがかりねての地方ちほう公演こうえん生活せいかつつづくが、心無こころな野次やじばされていちきょくうたえないこともすくなくはなかった。

演歌えんか歌手かしゅ第一人者だいいちにんしゃ[編集へんしゅう]

1955ねん

1952ねんはる恵子えこ妊娠にんしん判明はんめいし、家族かぞくのためにうたみちをあきらめて新聞しんぶんしゃ就職しゅうしょくしようとするが、履歴りれきしょ恵子けいこに「うたをやめたあなたなんて、魅力みりょくもなにもないわ」ともう反対はんたいされて撤回てっかい。8月に恵子えこ熱意ねつい本人ほんにん努力どりょくしんたれた江口えぐちが、春日しゅんじつのために新曲しんきょくあかいランプの終列車しゅうれっしゃ』を作曲さっきょくした。

自宅じたくでテープにみ、キングレコードにあらためて春日しゅんじつ推薦すいせんする。闇屋やみや経歴けいれき過去かこ女性じょせい関係かんけい問題もんだいされるなど、紆余曲折うよきょくせつてなんとかレコード、11月に発売はつばい江口えぐちいわく、「キングレコードはこのきょく序列じょれつでは10まい一番いちばん最後さいごとしていたくらいであまりたかってはいなかった」。当時とうじ春日しゅんじつこえ、唱法はおか相当そうとうていたらしく、改名かいめいするにあたっての名付親なづけおや作詞さくし藤間とうま哲郎てつろうであった。たまたまおかたくまつられている春日かすが大明神だいみょうじん神棚かみだなにしたことから、「おかさん以上いじょう歌手かしゅになれという意味いみふくめて」春日しゅんじつとし、末広すえひろがりのはちを「うんひらくよう」にとれた。1953ねんに『あかいランプの終列車しゅうれっしゃ』が名古屋なごやからし、やがて全国ぜんこくてきな50まんまい[3]だいヒットになる。三門さんもん前座ぜんざ歌手かしゅ卒業そつぎょうし、あきからは当時とうじ大人気だいにんき先輩せんぱい歌手かしゅであったおか前座ぜんざつとめるようになり、生活せいかつのメドがようやくつ。このとしみはちゅうヒットとなった『まち燈台とうだい』『あめ街角まちかど』をふくむ12きょくで、青木あおき光一こういち三浦みうらこういちなら歌謡かようかい若手わかて三羽烏さんばがらすとして注目ちゅうもくあつめはじめる。名古屋なごやからヒットしたのは大須おおすのレコード主人しゅじんが、なかなか面白おもしろ歌手かしゅであるとって宣伝せんでんしたのがきっかけで、この主人しゅじん女性じょせいで、手書てがきのポップまでつくって宣伝せんでんしてくれたとある。

1954ねん8がつには移籍いせきしたおか代打だいだ歌舞伎かぶき狂言きょうげんあずかはなしじょう浮名うきなよこくし』に登場とうじょうする、おとみさんとられの与三郎よさぶろういをうたにした『とみさん』をむ。しょ事情じじょうから練習れんしゅう時間じかんわずか1あいだであったらしいが、発売はつばい3かげつで30まんまい[4]最終さいしゅうてきには125まんまいげる空前くうぜんだいヒットとなる[5]同年どうねんまつだい5かいNHK紅白こうはく歌合戦うたがっせんはつ出場しゅつじょうたした、子供こどもたちまでが意味いみらぬまま「いきなくろべえみこしのまつに」とくちずさむなど、社会しゃかい現象げんしょう一躍いちやく人気にんきスターの仲間入なかまいりをする。当初とうしょ代打だいだとしてわかはら一郎いちろう想定そうていされていた。

このころ春日しゅんじつはラジオ番組ばんぐみで「おとみさんなんかきらいだ、みたくなかった」という意味いみ失言しつげんをしてしまい社内しゃない物議ぶつぎかもし、四方しほう陳謝ちんしゃしてようやくいちけん落着らくちゃくとなる。としけて1955ねんつづく『おとみさん』ブームのなか、「おれとは本来ほんらいちがうもの」をうたっているというおもいはえず、周囲しゅういの「いちきょくだいヒットしぎるとあとがつづかない」「『おとみさん』のえるときが春日かすが八郎はちろうえるとき」等々とうとうこえにもなやまされるつづく。11月に『わかれの一本杉いっぽんすぎ』を発売はつばい望郷ぼうきょう演歌えんか嚆矢こうしともいえるこのうたは、1ねんはんぶりに60まんまい[6]だいヒット、まだちゅう船村ふなむらとおる有名ゆうめいにさせた作品さくひんにもなった。

それまでの流行りゅうこうとはしつことなる望郷ぼうきょう歌謡かようをたてつづけにヒットさせ、流行りゅうこう衰退すいたいにおいて「演歌えんか」という新天地しんてんちきずいた。春日しゅんじつ歌手かしゅとしてのるぎない地位ちい確立かくりつし、『わかれの一本いっぽんすぎ』は生涯しょうがい代表だいひょうきょくひとつとなる。このとしには「平凡へいぼん」の人気にんき投票とうひょう男性だんせい歌手かしゅ部門ぶもんはつ登場とうじょうし、いきなり2以下いか小畑おばた田端たばた義夫よしお津村つむらおか藤山ふじやま)に大差たいさけてだい1かがやく。『わかれの一本いっぽんすぎ』はキング社内しゃない廊下ろうかで、一面識いちめんしきもなかった船村ふなむらめられ、是非ぜひにとわれてギター伴奏ばんそういた3きょくのうちの1きょくで、即座そくざに「うたわせてくれませんか」とのながれになる。三橋みつはしよし智也ともやとのカップリング・レコードの企画きかくがりはしたものの、まったのはさんきょうきょくきみ海鳥うみどりわたどり』のみで、春日しゅんじつきょく難航なんこう。おぞうりのもののなかから「企画きかくとはべつながれですでにレコーディングをませてあった」このきょく浮上ふじょうし、10がつ20日はつかさいみとなった。当初とうしょのタイトルは『けたっけ』であったが、掛川かけがわ尚雄ひさおディレクターが「歌詞かしふくめて『けた』がおおぎる」と現在げんざいのものに変更へんこう。このとし多忙たぼう生活せいかつからくるストレスの発散はっさん健康けんこう維持いじのためと、歌謡かようかいでの馬主ばしゅのはしりであったおか影響えいきょうから馬主ばしゅになる。1967ねんには、個人こじん事務所じむしょとして春日しゅんじつプロモーション(げん春日かすがプロ)創立そうりつした。

人気にんき絶頂ぜっちょう彷彿ほうふつとさせるようがみ再現さいげん

八郎はちろう直後ちょくごおなじキングからさんきょうさらには三波みなみ春夫はるお村田むらた英雄ひでお島倉しまくら千代子ちよこらが登場とうじょう美空みそらひばり演歌えんかうたし、のち演歌えんか女王じょおうしょうされることとなる。1960年代ねんだいには北島きたじま三郎さぶろうみやこはるみひとし台頭たいとうし、演歌えんか全盛期ぜんせいきをむかえる。このような演歌えんか台頭たいとうながれから、八郎はちろう演歌えんか歌手かしゅ第一人者だいいちにんしゃきがおおい。音楽おんがくジャンルとして演歌えんか定着ていちゃくすると、長年ながねんにわたり演歌えんかかいをリードした。

なお、八郎はちろう代表だいひょうさくの1つ『おとみさん』は、1978ねん11月にアメリカのファンクグループのエボニー・ウェッブによって『ディスコとみさん』(キングレコード/SEVEN SEAS)としてカバーされてリバイバルヒットし、1979ねん1がつ時点じてんで25まんまいげた[7]制作せいさく担当たんとうした河野こうの次郎じろうは、歌詞かしおぼえてもらうのに一苦労ひとくろうしたと述懐じゅっかいしている。『ディスコおとみさん』発売はつばいの1ヵ月かげつに、20まんまい突破とっぱ記念きねんパーティーがひらかれ、作曲さっきょく渡久地とぐち政信まさのぶはる日本人にっぽんじん出席しゅっせきし、ディスコをおどった。渡久地とぐち政信まさのぶは「こんな再生さいせい仕方しかたもあるんだね」と感心かんしんしていた[8]

晩年ばんねん 生涯しょうがい最後さいごのステージと死去しきょ[編集へんしゅう]

晩年ばんねん1988ねんには静岡しずおかけん熱海あたみにて親交しんこうふかかったさんきょう村田むらたともに「さんにんかい」を結成けっせいさんにんそろってのチャリティーコンサート開催かいさいするなど、低迷ていめいした演歌えんか活性かっせいちからそそいでいた。だがこのころになると春日しゅんじつ体調たいちょうくずしがちとなり、段々だんだんからだほそくなっていく兆候ちょうこうられた。それでも『昭和しょうわ』から『平成へいせい』に元号げんごうわった1989ねんすえには、だい40かいNHK紅白こうはく歌合戦うたがっせんだい1)に1978ねんだい29かい以来いらい、『おとみさん』で11ねんぶり21かい紅白こうはく出演しゅつえんたしたが、これが自身じしん生涯しょうがい最後さいご紅白こうはく出場しゅつじょうとなった。さらに1990ねんころ清水しみずアキラかおちゅう沢山たくさんセロハンテープけて、春日かすが八郎はちろう物真似ものまね披露ひろうしたことでも話題わだいとなる。『ものまねちんぼう』で清水しみずはつ共演きょうえんしたさい春日しゅんじつは「おれってこんながおしてるのか?」と苦笑にがわらいしながら感想かんそうべていた。

1991ねん6がつひだり大腿だいたい腫瘍しゅよう摘出てきしゅつ手術しゅじゅつのため入院にゅういん。「さんにんかい」のコンサートとう出演しゅつえんできず、さんきょう村田むらたたいして病床びょうしょうからメッセージをおくったこともあった。一旦いったん退院たいいん死去しきょ1ヶ月かげつまえ同年どうねん9月6にち中野なかのサンプラザでのキングレコード60周年しゅうねんコンサートに出演しゅつえんし「長崎ながさきおんな」を歌唱かしょうしたが、これが生涯しょうがい最後さいごのステージとなった。当日とうじつ車椅子くるまいす会場かいじょうりしたがステージ登場とうじょうからうたえる最後さいごまで、ってつえしで自力じりきあるいてやりきった。テレビ東京てれびとうきょう系列けいれつ当日とうじつ映像えいぞうのこされており、追悼ついとうさいには放映ほうえいされることもある。その体調たいちょう悪化あっかさい入院にゅういん、「さんにんかい結成けっせいからわずか3ねん、そして生涯しょうがい最後さいごのステージからわずか1ヶ月かげつの1991ねん10月22にち2038ふん肝硬変かんこうへん心肺しんぱい不全ふぜんにより東京とうきょう新宿しんじゅく東京医科大学とうきょういかだいがく病院びょういん死去しきょ[1]。67さいぼつ生涯しょうがい現役げんえきであった。どう27にちには香川かがわけん高松たかまつでリサイタルがある予定よていであったが、さんきょう代役だいやくってて、「あかいランプの終列車しゅうれっしゃ」をなみだまじりに熱唱ねっしょうしている[9]

デビューんだ楽曲がっきょく通算つうさんせんすうひゃくきょく、レコードのそう売上うりあげは7000まんまい[10]

会津坂下あいづばんげまちとの関係かんけい[編集へんしゅう]

会津坂下あいづばんげえきまえ春日かすが八郎はちろうぞう

故郷こきょうである会津坂下あいづばんげまちへのおもいもつよく、幼少ようしょうとおった町立ちょうりつ八幡やはた小学校しょうがっこうピアノ寄贈きぞう校歌こうか作曲さっきょく町立ちょうりつだい中学校ちゅうがっこう校歌こうか応援おうえん作曲さっきょくした。また会津坂下あいづばんげ町民ちょうみん会津坂下あいづばんげ音頭おんど作曲さっきょくみずかうたレコーディングするなどまち発展はってんくした。会津坂下あいづばんげまちはちろう功績こうせきをたたえ、同町どうちょう船杉ふなすぎ地区ちく一本杉いっぽんすぎ地蔵じぞう実在じつざいする)に「春日かすが八郎はちろう記念きねん公園こうえん・おもいでかん」を建設けんせつ遺品いひん展示てんじコーナーやカラオケコーナーがあり、八郎はちろう作品さくひんしなそろえも日本一にっぽんいちとなっている。また2003ねんには会津坂下あいづばんげえきまえ広場ひろば春日しゅんじつ銅像どうぞう建立こんりゅうし、さらに2007ねん10月13にちには『あかいランプの終列車しゅうれっしゃ』の歌碑かひ建立こんりゅうされた。2005ねん10月5にち会津坂下あいづばんげえきにおいて駅舎えきしゃかべ八郎はちろう銅像どうぞうスプレーにより落書らくがきされる事件じけん発生はっせいした。このニュースはテレビ番組ばんぐみなどおおくのメディアでげられた。

代表だいひょうきょく[編集へんしゅう]

  • あかいランプの終列車しゅうれっしゃ(1952ねん)- 作詞さくし大倉おおくら芳郎よしお/作曲さっきょく江口えぐちよる
  • ギターながし(1953ねん)- 作詞さくし矢野やのあきら/作曲さっきょく吉田よしだ健治けんじ
  • なみだのジャガタラせん(1953ねん)- 作詞さくし朝倉あさくら芳美よしみ/作曲さっきょく江口えぐちよる
  • まち燈台とうだい(1953ねん)-作詞さくし高橋たかはし掬太郎きくたろう/作曲さっきょく吉田よしだ健治けんじ
  • あめ街角まちかど(1953ねん)- 作詞さくし東條とうじょう寿三郎じゅさぶろう/作曲さっきょく吉田よしだ健治けんじ
  • たび燈台とうだい(1954ねん)-作詞さくし高橋たかはし掬太郎きくたろう/作曲さっきょく吉田よしだ健治けんじ
  • あお月夜つきよだ(1954ねん)-作詞さくし矢野やのあきら/作曲さっきょく吉田よしだ健治けんじ
  • 小雨こさめえきにベルがる(1954ねん)- 作詞さくし高橋たかはし掬太郎きくたろう/作曲さっきょく江口えぐちよる
  • 博多はかたながし(1954ねん)- 作詞さくし高橋たかはし掬太郎きくたろう/作曲さっきょく江口えぐちよる
  • とみさん(1954ねん)- 作詞さくし山崎やまざきただし/作曲さっきょく渡久地とぐち政信まさのぶ
    • そもそも、「おとみさん」は、おか晴夫はるお想定そうていしてつくられたものであったが、きょくができる直前ちょくぜんおかはフリーとなり、日本にっぽんマーキュリーレコード移籍いせきしてしまったため、うたちゅういていた。わかはら一郎いちろうなどの名前なまえがっていたが、キングレコード文芸ぶんげい担当たんとう重役じゅうやく町尻まちじりりょうこうが、新人しんじん春日しゅんじつ白羽しらはてたのだった。
  • 裏町うらまち夜曲やきょく(1954ねん)- 作詞さくしすぎこうあきら/作曲さっきょく山口やまぐちすすむ
  • 瓢箪ひょうたんブギ(1954ねん)- 作詞さくし高橋たかはし掬太郎きくたろう/作曲さっきょく江口えぐちよる
  • 流転るてん子守こもりうた(1955ねん)- 作詞さくし東條とうじょう寿三郎じゅさぶろう/作曲さっきょく吉田よしだ健治けんじ
  • ながれるなみだ(1955ねん
  • タヌキマンボ(1955ねん
  • つまこいとうげ(1955ねん
  • おとこ舞台ぶたい(1955ねん)- 作詞さくし横井よこいひろし/作曲さっきょく中野なかの忠晴ただはる
  • わかれの一本杉いっぽんすぎ(1955ねん)- 作詞さくし高野たかの公男きみお/作曲さっきょく船村ふなむらとおる
  • かごばせば(1956ねん
  • 浮草うきくさ宿やど(1956ねん)- 作詞さくし服部はっとりするどおっと/作曲さっきょく江口えぐちよる
  • つき嫁入よめいぶね(1956ねん)- 作詞さくし横井よこいひろし/作曲さっきょく吉田よしだ健治けんじ
  • しま燈台とうだい(1956ねん
  • わかれの波止場はとば(1956ねん)- 作詞さくし藤間とうま哲郎てつろう/作曲さっきょく真木まきよう
  • トチチリながし(1956ねん
  • おれ影法師かげぼうし(1956ねん
  • ごめんよかんべんナ(1957ねん)- 作詞さくし伊吹いぶきとおる/作曲さっきょく吉田よしだ健治けんじ
  • 弱虫よわむし小僧こぞう(1957ねん
  • 故郷こきょうとおそら(1957ねん)- 作詞さくし東條とうじょう寿三郎じゅさぶろう/作曲さっきょく吉田よしだ健治けんじ
  • あんときゃどしゃり(1957ねん)- 作詞さくし矢野やのあきら/作曲さっきょく佐伯さえきとしを
  • はは便たより(1957ねん)- 作詞さくし矢野やのあきら/作曲さっきょく真木まきよう
  • 苦手にがてなんだよ(1957ねん)- 作詞さくし矢野やのあきら/作曲さっきょくはやし伊佐いさいとぐち
  • 居酒屋いざかや(1958ねん)- 作詞さくし横井よこいひろし/作曲さっきょくかましゅんあずか
  • 郭公かっこうさと(1958ねん
  • 松吉まつよし街道かいどううた(1958ねん
  • 御免ごめんなすって佐太郎さたろうさん(1958ねん
  • わかれの燈台とうだい(1958ねん)- 作詞さくし高橋たかはし掬太郎きくたろう/作曲さっきょく吉田よしだ健治けんじ
  • おとっつぁんやァい(1958ねん
  • 海猫うみねこ波止場はとば(1958ねん)- 作詞さくし横井よこいひろし/作曲さっきょくはやし伊佐いさいとぐち
  • おケイちゃん(1959ねん)- 作詞さくし横井よこいひろし/作曲さっきょく塩谷しおや純一じゅんいち
  • あれからじゅうねんたったかなァ(1959ねん)- 作詞さくし矢野やのあきら/作曲さっきょく渡部わたなべみのる
  • きまぐれマドロス(1959ねん
  • 東京とうきょうあり(1959ねん)- 作詞さくし横井よこいひろし/作曲さっきょく中野なかの忠晴ただはる
  • 裏町うらまち劇場げきじょう(1959ねん
  • やま吊橋つりばし(1959ねん)- 作詞さくし横井よこいひろし/作曲さっきょく吉田よしだ健治けんじ
  • 足摺あしずりみさき(1959ねん)- 作詞さくし高橋たかはし掬太郎きくたろう/作曲さっきょく吉田よしだ健治けんじ
  • ふるさと無情むじょう(1960ねん
  • にしんじょうおんな(1960ねん
  • ギターはっている(1960ねん
  • ホームラン音頭おんど(1960ねん
  • うみ太郎たろうぶし(1960ねん
  • 寒流かんりゅう(1960ねん
  • 長良川ながらがわ旅情りょじょう(1961ねん)- 作詞さくし服部はっとりするどおっと/作曲さっきょく山口やまぐち俊郎としお
  • 下町したまちさかまちけるまち(1961ねん
  • 風林火山ふうりんかざんうた(1962ねん)-おかとういたりおっと作詞さくし生活せいかつ40ねん記念きねんLP「ねこふんじゃった こどものうたアルバム」 作詞さくし沢登さわのぼりはつよし/作曲さっきょく古屋こや丈晴たけはる
  • 長崎ながさきおんな<ひと>/わかれの夜汽車よぎしゃ(1963ねん)- 作詞さくしたなかゆきを/作曲さっきょくはやし伊佐いさいとぐち
  • ロザリオのしま/しまあかり(1964ねん)- 作詞さくし:たなかゆきを/作曲さっきょくはやし伊佐いさいとぐち
  • あのほしかたろう/大阪おおさか(1965ねん)- 作詞さくし:たなかゆきを/作曲さっきょく西脇にしわきみのる
  • 夫婦ふうふ善哉ぜんざい/きぼくろ(1965ねん
  • 無情むじょうたび/再会さいかいまち(1966ねん
  • 源平げんぺい出世しゅっせマーチ(1966ねん
  • 相馬そうまこいしや/香港ほんこんよる(1966ねん
  • 少林寺拳法しょうりんじけんぽう/拳法けんぽういちだい(1966ねん
  • すなのふるさと/おとこ(1966ねん
  • 熱海あたみあめ/まちとうげ(1966ねん
  • 浮名うきなぐらし/さいはてにきる(1966ねん
  • ドンパン行進曲こうしんきょく/花笠はながさおどり(1966ねん
  • 波止場はとばちな/ギターながしてさんねん(1966ねん)- 作詞さくし下條しもじょうひでと/作曲さっきょく西脇にしわきみのる
  • みじかかったぜながかった/よるはなびら(1966ねん
  • ひとりぼっちのギターき/哀愁あいしゅうの25(1966ねん
  • はなかげのこい/ふるさとギター(1967ねん
  • 訣別けつべつ吉野山よしのやま/修善寺しゅぜんじ物語ものがたり(1967ねん
  • ふるさとのやまいて/ふるさとはいていた(1967ねん
  • おとこなみだせぬもの/れたこい(1967ねん
  • 浅草あさくさ人情にんじょう/東京とうきょう波止場はとば(1967ねん
  • 流氷りゅうひょうしま/東京とうきょう山彦やまびこ(1967ねん
  • おとこく(1968ねん
  • 倉敷くらしきおんな/おとこ悔恨かいこん(1968ねん
  • たそがれの砂丘さきゅう/おとこ同志どうし(1968ねん)- 作詞さくし:たなかゆきを/作曲さっきょく平尾ひらお昌晃まさあき オリコンに唯一ゆいいつランクイン。最高さいこう81
  • 若狭わかさうまれ/入江いりえまち(1968ねん
  • なみだまち/霧笛むてき(1969ねん
  • 明日あしたのために/かなわぬゆめ(1969ねん
  • さよならコペンハーゲン/旅情りょじょう(1969ねん
  • 浮名うきなざくら(1969ねん
  • 会津あいづおんな/桧原ひのはら哀歌あいか(1969ねん
  • わかしゅ/城下町じょうかまち(1969ねん
  • まち哀歌あいか/ホーホー山鳩やまばと(1970ねん
  • あいのこだま/れた波止場はとば(1970ねん
  • 新宿しんじゅくほししたで(1970ねん
  • ながぶね/こころつま(1970ねん
  • 積丹岬しゃこたんみさき/わかれの宿やど(1971ねん
  • つや/星影ほしかげ子守こもりうた(1971ねん
  • 博多はかたこい/柳川やながわ慕情ぼじょう(1971ねん
  • 新宿しんじゅくあさはくるけれど/おんなのブルース(1972ねん
  • やっこだこだよ/瀬戸せと水軍すいぐん(1972ねん
  • 長崎ながさきこいものがたり/つめたいおとこ(1972ねん
  • 未練みれん/海峡かいきょうエレジー(1973ねん
  • ゆき谷戸たんどじょう(1973ねん
  • 雪国ゆきぐにおんな/はないちもんめ(1973ねん
  • どしゃ人生じんせい/ふたりせん(1973ねん
  • あゝ弘前ひろさきじょう/播州赤穂ばんしゅうあこうじょういそ(1974ねん
  • 惜別せきべつ/波止場はとば(1974ねん
  • 白虎隊びゃっこたいはは/さかずき日記にっき(1975ねん
  • 天下てんか泰平たいへい/ともよ(1975ねん
  • ほまれの松本まつもとじょう(1975ねん
  • 霧島きりしまおんな/指宿いぶすきよる(1975ねん
  • あゝかえりくもじょう/備前びぜんしゅうと耶 ロクロ(1975ねん
  • きた酒場さかば/終着駅しゅうちゃくえきはまだとおい(1976ねん
  • あるおんな/ふるさとのおんな(1976ねん
  • 望郷ぼうきょう/故郷こきょうってなんだろう(1977ねん
  • もないおんな/しまのポンポンせん(1978ねん
  • 浮草うきくさ情話じょうわ(1978ねん
  • 怒濤どとうまつり(1978ねん
  • しあわせをありがとう(1978ねん
  • さよなら宗谷そうや/うみうたえば(1978ねん
  • 越後えちごおや不知ふち/ギターながして(1978ねん
  • 夜行やこう列車れっしゃ/波止場はとばばなし(1979ねん
  • 風雲ふううん佐竹さたけ武士たけし(1979ねん
  • あゝちゅう山城やましろ(1979ねん
  • わかれた故郷こきょう/みなとのみれん(1980ねん)- 作詞さくし中山なかやまだい三郎さぶろう/作曲さっきょく船村ふなむらとおる K07S-31
  • 落城らくじょうまい(1980ねん)K07S-21
  • よるがつらいよ(1980ねん
  • あゝきりじょう/佐渡さどとう哀歌あいか(1981ねん)K07S-166
  • 加賀かがまい/あゝ大楠公だいなんこう(1981ねん
  • ふたりの坂道さかみち/こい長崎ながさきまち(1981ねん)K07S-211
  • まぶたあわせて/津軽つがるさんごうひとりたび(1981ねん
  • 美濃みのおんな(1982ねん
  • 国後くなしりおんな/いちねんぶりに(1982ねん
  • きりわた/みなと宿やど(1983ねん)- 藤野ふじのとしとのデュエット
  • 会津あいづづるじょう/会津あいづ自慢じまんばやし(1983ねん
  • そののおとみさん/再会さいかいとみ(1984ねん
  • しのぶ宿やど/ふたりの明日あした(1985ねん
  • 船長せんちょうおとこ潮騒しおさい〜/ボトルを面舵おもかじに (1986ねん
  • 演歌えんかひとせつ/未練みれん (1987ねん
  • あゝさすらい/人情にんじょう居酒屋いざかや (1988ねん
  • 人生じんせいしゅ/まよとり (1989ねん
  • ながさき浜市はまいち音頭おんど(1989ねん
  • 旅人たびびと/新宿しんじゅくむかしどお(1990ねん)- ラストシングル

オリジナル・アルバム[編集へんしゅう]

受賞じゅしょう[編集へんしゅう]

NHK紅白こうはく歌合戦うたがっせん出場しゅつじょうれき[編集へんしゅう]

通算つうさん
出場しゅつじょう
回数かいすう
出場しゅつじょう
紅白こうはく
出場しゅつじょう年度ねんど 曲目きょくもく 出演しゅつえんじゅん 対戦たいせん相手あいて 備考びこう
はつ だい5かい 1954ねん昭和しょうわ29ねん とみさん 08/15 神楽坂かぐらざかはん
2 だい7かい 1956ねん昭和しょうわ31ねん わかれの一本杉いっぽんすぎ 23/24 宮城みやぎまり(1) トリまえ
3 だい8かい 1957ねん昭和しょうわ32ねん はは便たよ 22/25 島倉しまくら千代子ちよこ(1)
4 だい9かい 1958ねん昭和しょうわ33ねん わかれの燈台とうだい 23/25 島倉しまくら千代子ちよこ(2)
5 だい10かい 1959ねん昭和しょうわ34ねん 東京とうきょうあり 25/25 美空みそらひばり(1) トリ
6 だい11かい 1960ねん昭和しょうわ35ねん やま吊橋つりばし 14/27 美空みそらひばり(2)
7 だい12かい 1961ねん昭和しょうわ36ねん 長良川ながらがわ旅情りょじょう 15/25 宮城みやぎまり(2)
8 だい13かい 1962ねん昭和しょうわ37ねん 風林火山ふうりんかざんうた 06/25 美空みそらひばり(3)
9 だい14かい 1963ねん昭和しょうわ38ねん 長崎ながさきおんな 23/25 五月さつきみどり
10 だい15かい 1964ねん昭和しょうわ39ねん ロザリオのしま 07/25 畠山はたけやまみどり
11 だい16かい 1965ねん昭和しょうわ40ねん 大阪おおさか 03/25 西田にしだ佐知子さちこ
12 だい17かい 1966ねん昭和しょうわ41ねん 波止場はとばちな 12/25 島倉しまくら千代子ちよこ(3)
13 だい18かい 1967ねん昭和しょうわ42ねん はなかげのこい 16/23 おうぎひろ
14 だい19かい 1968ねん昭和しょうわ43ねん たそがれの砂丘さきゅう 17/23 きし洋子ようこ
15 だい20かい 1969ねん昭和しょうわ44ねん わかれの一本杉いっぽんすぎ(2かい 05/23 越路こしじ吹雪ふぶき
16 だい25かい 1974ねん昭和しょうわ49ねん あめ街角まちかど 21/25 いしだあゆみ(1)
17 だい26かい 1975ねん昭和しょうわ50ねん あかいランプの終列車しゅうれっしゃ 21/24 いしだあゆみ(2)
18 だい27かい 1976ねん昭和しょうわ51ねん あんときゃどしゃ 21/24 小柳こやなぎルミ子るみこ
19 だい28かい 1977ねん昭和しょうわ52ねん 望郷ぼうきょう 22/24 もり昌子まさこ
20 だい29かい 1978ねん昭和しょうわ53ねん さよなら宗谷そうや 17/24 青江あおえ三奈みな
21 だい40かい 1989ねん平成へいせい元年がんねん とみさん(2かい だい1出演しゅつえん (対戦たいせん相手あいてなし)
  • 出演しゅつえんじゅんは「(出演しゅつえんじゅん) / (しろぐみ出場しゅつじょうしゃすう)」であらわす。
  • 曲名きょくめいのちの(○かい)は、紅白こうはく歌唱かしょうされた回数かいすうあらわす。

テレビ出演しゅつえん[編集へんしゅう]

ほか多数たすう

春日かすが八郎はちろうえんじた俳優はいゆう[編集へんしゅう]

著書ちょしょ[編集へんしゅう]

  • 「どしゃ人生じんせい」(1972ねん日本にっぽん図書としょ販売はんばい 出版しゅっぱんれいめい)
  • 「ふたりの坂道さかみち」(1981ねんつばさ書院しょいん

備考びこう[編集へんしゅう]

  • 漫画まんがこちら葛飾かつしか亀有かめあり公園前こうえんまえ派出所はしゅつじょ』の主人公しゅじんこう両津りょうつかんきちはちろうだいファンという設定せっていである。実際じっさい花束はなたば持参じさん新宿しんじゅくコマ劇場げきじょうのコンサートにかいもあり、「学校がっこう先生せんせいみたいなところがいいんだよな」と尊敬そんけいしてやまない様子ようすであった。八郎はちろうくなってすぐのかいには、両津りょうつが「春日しゅんじつはちっちゃんもくなってしまったし…」という台詞せりふはっしている。
  • 葬式そうしきさいには、参列さんれつしゃ全員ぜんいんで『おとみさん』を合唱がっしょうした。またこの葬儀そうぎには、竹下たけしたのぼるもと総理そうり参列さんれつしていた。
  • 八郎はちろう功績こうせきまもつづけるため、1992ねんに「全国ぜんこく春日かすが八郎はちろうしのかい」が発足ほっそくした。

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

  1. ^ 3にんとのせつも。女性じょせいは4にん
  2. ^ 芸名げいめい松宮まつみや恵子けいこ、のちの春日しゅんじつ夫人ふじん

出典しゅってん[編集へんしゅう]

  1. ^ a b 史上しじょうはつだい調査ちょうさ 著名ちょめいじん100にん最後さいごたよった病院びょういん あなたの病院びょういんえらびは間違まちがっていませんか”. 現代げんだいビジネス (2011ねん8がつ17にち). 2019ねん12月19にち閲覧えつらん
  2. ^ サンケイ新聞しんぶん'74のインタビュー「ちいさな伝承でんしょう
  3. ^ 世相せそう風俗ふうぞく観察かんさつかいへん)『現代げんだい風俗ふうぞく年表ねんぴょう 昭和しょうわ20ねん(1945)→昭和しょうわ60ねん(1985)』河出書房新社かわでしょぼうしんしゃ、1986ねん、64ぺーじISBN 4-309-24089-5
  4. ^ 読売新聞社よみうりしんぶんしゃ文化ぶんか『このうたこの歌手かしゅうえ運命うんめいのドラマ120』社会しゃかい思想しそうしゃ、1997ねん、48ぺーじISBN 4390116010
  5. ^ 『このうたこの歌手かしゅうえ運命うんめいのドラマ120』49ぺーじ
  6. ^ 「メロディーとともに (2) わかれの一本いっぽんすぎ」『神戸こうべ新聞しんぶん』1999ねん4がつ30にちづけ夕刊ゆうかん、3めん
  7. ^ 「『おとみさん』孤立こりつ奮闘ふんとう ディスコで復活ふっかつ おシャカさま仰天ぎょうてん?」『読売新聞よみうりしんぶん』1979ねん1がつ31にちづけ夕刊ゆうかん、5ぺーじ
  8. ^ 『このうたこの歌手かしゅうえ運命うんめいのドラマ120』52-53ぺーじ
  9. ^ スポーツニッポン1991ねん10がつ28にちづけ朝刊ちょうかん三橋みつはしよし智也ともや万感ばんかん熱唱ねっしょう 春日しゅんじつさんの代役だいやくなみだでにじんだ"終列車しゅうれっしゃ"
  10. ^ 読売新聞よみうりしんぶん』1991ねん10がつ23にちづけ東京とうきょう夕刊ゆうかん、31ぺーじ

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]