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杉木すぎきしげる左衛門さえもん

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
義人ぎじん杉木すぎきしげる左衛門さえもんこれ群馬ぐんまけんみなかみまちしげる左衛門さえもん地蔵じぞうみことせんにちどう
しげる左衛門さえもん地蔵じぞうみことせんにちどう群馬ぐんまけんみなかみまち
義人ぎじんしげる左衛門さえもん刑場けいじょう群馬ぐんまけんみなかみまち

杉木すぎき しげる左衛門さえもん(すぎき もざえもん、寛永かんえい11ねん1634ねん)?[注釈ちゅうしゃく 1] - 貞享ていきょう3ねん1686ねん)11月5にち[注釈ちゅうしゃく 2])は、江戸えど時代じだい義民ぎみん上野うえのこく桃野もものむら月夜野つきよの群馬ぐんまけん利根とねぐんみなかみまち月夜野つきよの)の農民のうみん代表だいひょう越訴えっそかた一揆いっき代表だいひょうてき存在そんざいである。はりつけ しげる左衛門さえもん(はりつけ もざえもん)ともばれる。

伝承でんしょう

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沼田ぬまたはんあるじ真田さなだ信利のぶとし贅沢ぜいたくこの城郭じょうかく改修かいしゅうおこない、寛文ひろふみ元年がんねん1661ねん)には利根とねぐん吾妻あづまぐん勢多せたぐん177ヶ村かそん領地りょうち検地けんちおこない3まんせき石高こくだかを14まん4せんせきあらため、歳入さいにゅう増加ぞうかはかった。さらにかわやくあみやく山手やまてやく井戸いどやくまどやく産毛うぶげやくなどの税金ぜいきんし、年貢ねんぐ滞納たいのうするもの水牢みずろうれるなど過酷かこく取立とりたてをおこなった。

杉木すぎきしげる左衛門さえもん利根とねぐんもも野村のむら月夜野つきよの出身しゅっしんで、嶽林寺がくりんじの紹寅和尚おしょうおしえをけた農民のうみんだった。しげる左衛門さえもん沼田ぬまた領民りょうみん窮状きゅうじょうすくうため江戸えど酒井さかい雅楽ががくあたま[注釈ちゅうしゃく 3]かごこころみたが受理じゅりされなかった。しげる左衛門さえもん一計いっけいあんじ、上野うえの寛永寺かんえいじ寺侍てらざむらい変装へんそうし、板橋いたばし茶屋ちゃやひがし叡山えいざん御用ごようしるした文箱ふばこ厳重げんじゅうふうをした訴状そじょうれ、文箱ふばこをあえてわすれることで、寛永寺かんえいじ貫首かんじゅはなわ王寺おうじみやとどけさせることに成功せいこうした。みや訴状そじょう御覧ごらんになったため、うったえは徳川とくがわ綱吉つなよしにもつたえられ、沼田ぬまたりょう調査ちょうささせたところ、たしてしげる左衛門さえもん訴状そじょうとおりであった。天和てんわ元年がんねん1681ねん)11月22にち真田さなだ信利のぶとし山形やまがた配流はいるされ、翌年よくねん沼田ぬまたじょうやぶ却された。しげる左衛門さえもん幕府ばくふ処置しょち見届みとどけるまで他国たこく潜伏せんぷくしていたが、真田さなだ信利のぶとし改易かいえきのち自宅じたくかえったところ小袖こそでざか捕縛ほばくされた。貞享ていきょう3ねん(1686ねん)11月5にち月夜野つきよの竹之下たけのした河原かわら磔刑たっけいしょされ、つまくびとなった。沼田ぬまた領民りょうみん代表だいひょうしゃ江戸えど助命じょめい嘆願たんがんおこない、しげる左衛門さえもん助命じょめいまり上使じょうし赦免しゃめんじょうたずさかったが、処刑しょけいほうせっ井土上いどのうえむらかえした。

沼田ぬまた領民りょうみんしげる左衛門さえもん菩提ぼだいとむらうため刑場けいじょうあと地蔵じぞうみこと建立こんりゅうしたのが現在げんざいしげる左衛門さえもん地蔵じぞうである。また月夜野つきよのにも堂宇どうう建立こんりゅうせんにち供養くようおこなったのが現在げんざいせんにちどうである。(岡部おかべ福蔵ふくぞう上野うえの人物じんぶつこころざし大正たいしょう14ねん1925ねん[1]

諸説しょせつ

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名字みょうじ

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  • 近世きんせいじょう偉人いじんでん』は名前なまえを「齋藤さいとうしげる左衛門さえもん」とする[2]

もの

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  • 近世きんせいじょう偉人いじんでん』はのべたから3ねん1675ねん)5がつもろむら伝右でんね衛門えもん白岩しらいわむら三郎さぶろうみぎ衛門えもん硯田すずりだむらみぎ衛門えもん下小川しもおがわむら七郎しちろう左衛門さえもん吾妻あづまぐん川戸かわとむら新左衛門しんざえもん大塚おおつかむら長兵衛ちょうべえの6にん酒井さかい雅楽ががくあたま直訴じきそしたがこうそうさなかった、とする[2]
  • 田村たむら栄太郎えいたろうは「沼田ぬまたりょう階級かいきゅう闘争とうそうりゃくおよび「上野うえの沼田ぬまた領主りょうしゅ真田さなだ伊賀いがまもるの菲政と農民のうみん愁訴しゅうそ」で青柳あおやぎ源右衛門げんえもん伊勢いせまち名主なぬし)・六郎兵衛ろくろうべえ父子ふし狩野かの新左衛門しんざえもん中之条なかのじょうまち名主なぬし)らが領民りょうみんせまられて真田さなだ信利のぶとしうったたところ、入牢にゅうろう闕所となったとする[3][4]
  • 田村たむら栄太郎えいたろうは「沼田ぬまたりょう階級かいきゅう闘争とうそうりゃく」では利根とねぐん政所まどころむら松井まつい市兵衛いちべえしげる左衛門さえもんどう時期じき訴し、天和てんわ元年がんねん(1681ねん)12月29にち政所まんどころ村地むらちさき利根りこん河原かわら処刑しょけいされたとする[5]のちに「上野うえの沼田ぬまた領主りょうしゅ真田さなだ伊賀いがまもるの菲政と農民のうみん愁訴しゅうそ」では松井まつい市兵衛いちべえ真田さなだ改易かいえき天和てんわ元年がんねん12がつ幕府ばくふ目付めつけ桜井さくらいしょうすけ訴し、12月29にち政所まんどころさき利根りこん河原かわら斬首ざんしゅされたが、訴のみを理由りゆう斬首ざんしゅされたのではなく、代官だいかん配下はいかもの鉄砲てっぽうけたことを理由りゆうとする[6]
  • 農民のうみん解放かいほう聖者せいじゃ はりつけしげる左衛門さえもん』では伊勢いせまち名主なぬし青柳あおやぎ源右衛門げんえもんみぎ衛門えもん父子ふし嘆願たんがんしたために入牢にゅうろう財産ざいさん没収ぼっしゅうになったとする。天和てんわ元年がんねん正月しょうがつ政所まどころむら名主なぬし松井まつい市兵衛いちべえ訴したとする[7]
  • 後閑ごかん祐次ゆうじはりつけしげる左衛門さえもん』は政所まどころむら名主なぬし市兵衛いちべえのべたから9ねん(1681ねん正月しょうがつ江戸えどのぼ直訴じきそ天和てんわ元年がんねん12がつ29にち政所まんどころうら利根りこん河原かわら斬首ざんしゅされたとする[8]

直訴じきそ相手方あいてがた

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処刑しょけい年月日ねんがっぴ

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  • したひょうとおり、処刑しょけいされたつきについては11月で一致いっちするものの、処刑しょけいねん天和てんわ2ねん(1682ねん)、どう3ねん(1683ねん)、貞享ていきょう3ねん(1686ねん)とはばがあり、処刑しょけいも1にち、5にちと15にちの3種類しゅるいがある。

妻子さいし

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  • 近世きんせいじょう偉人いじんでん』ではしげる左衛門さえもん訴のまえつませつを離縁りえんし、実子じっし茂之しげゆきすけ後見こうけんをせつのちちたのむなどして、身内みうちるいおよばないようにしたとする[2]
  • 農民のうみん解放かいほう聖者せいじゃ はりつけしげる左衛門さえもん』ではしげる左衛門さえもんはりつけにされたさいつま打首うちくびにされたとする[11]

じょうきょう地蔵じぞう

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  • 桃野もものむら』では赦免しゃめんじょうたずさえた使者ししゃ井土上いどのうえだてさわげん沼田ぬまた井土上いどのうえまち)の土橋どばしいたときに処刑しょけいほうせっし、このはしかえしたことから、このはしじょうきょうしょうして地蔵じぞう建立こんりゅうしたのがいまじょうきょう地蔵じぞうであるとする[9]。『農民のうみん解放かいほう聖者せいじゃ はりつけしげる左衛門さえもん』においても同様どうようはなしを「一説いっせつ」として紹介しょうかいしている[12]
  • 後閑ごかん祐次ゆうじはりつけしげる左衛門さえもん』では赦免しゃめん使者ししゃ服部はっとりぼうというさむらいで、責任せきにんかんからその割腹かっぷくし、村人むらびと供養くようのために建立こんりゅうしたのがじょうきょう地蔵じぞうであるとする[13]。また『農民のうみん解放かいほう聖者せいじゃ はりつけしげる左衛門さえもん』においても「また一説いっせつ」として役人やくにん自殺じさつしたとのはなし紹介しょうかいしている[12]

大法たいほういんづか

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  • 後閑ごかん祐次ゆうじはりつけしげる左衛門さえもん』はしげる左衛門さえもん訴状そじょういたのは吾妻あづまぐん須川すがわむらげん・みなかみまち須川すがわ)の天台宗てんだいしゅう駒形山こまがたやま宝蔵寺ほうぞうじ住職じゅうしょく大法たいほういんろくせいさとしはし法印ほういんであるとする。さとしはししげる左衛門さえもんだし訴後に沼田ぬまたじょう取調とりしらべをけ、つつかくさず自白じはくしたので、塚本つかもと舎人とねり家臣かしん使つかって恩田おんだ河原かわはらげん沼田ぬまた恩田おんだまち上河原かみがわら)で石子詰いしこづめめにして惨殺ざんさつしたという。恩田おんだむら人々ひとびとさとしはしまつったのが大法たいほういんづかであるとする[14]

比較ひかくひょう

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文献ぶんけん 著者ちょしゃ 発表はっぴょうねん もの 直訴じきそ相手方あいてがた 直訴じきそ時期じき 処刑しょけい年月日ねんがっぴ 妻子さいし 赦免しゃめん使
磔刑たっけいしげる左衛門さえもん」『うえしゅう あし主人しゅじん 1893 - - - - - -
近世きんせいじょう偉人いじんでん 高橋たかはしあまね 1893 もろむら伝右でんね衛門えもん

白岩しらいわむら三郎さぶろうみぎ衛門えもん

硯田すずりだむらみぎ衛門えもん

下小川しもおがわむら七郎しちろう左衛門さえもん

吾妻あづまぐん川戸かわとむら新左衛門しんざえもん

大塚おおつかむら長兵衛ちょうべえ

徳川とくがわ綱吉つなよし - 天和てんわ3ねん11月 妻子さいしるいおよばぬよう離縁りえん -
うえもう義人よしひとしげる左衛門さえもんでん 駒形こまがたそうきち 1895 徳川とくがわ綱吉つなよし 天和てんわ元年がんねん - - -
桃野もものむら 1910 - 徳川とくがわ家綱いえつな - - 妻女さいじょ斬罪ざんざい あり
沼田ぬまた義民ぎみんでん 藤沢ふじさわ紫紅しこう 1912 - 徳川とくがわ家綱いえつな寛永寺かんえいじみや のべたから6ねん 天和てんわ2ねん11月15にち 夫婦ふうふ処刑しょけい あり
きょうだんはりつけしげる左衛門さえもん 野口のぐちふくどう 1915 徳川とくがわ綱吉つなよし のべたから8ねん12がつ20日はつか 貞享ていきょう3ねん11月15にち 夫妻ふさい処刑しょけい あり
日本にっぽん日本人にっぽんじん』『義民ぎみんごう 島田しまだ三郎さぶろう 1919 徳川とくがわ家綱いえつな老中ろうじゅう
義民ぎみんしげる左衛門さえもん略伝りゃくでん」『うえ及上じん 千日堂せんにちどう再建さいけん委員いいん 1922 - 徳川とくがわ綱吉つなよし - 貞享ていきょう3ねん11月5にち つま打首うちくび あり
上野うえの人物じんぶつこころざし 岡部おかべ福蔵ふくぞう 1925 - 徳川とくがわ綱吉つなよし - 貞享ていきょう3ねん11月5にち つま打首うちくび あり
沼田ぬまたりょう階級かいきゅう闘争とうそうりゃく」『はりつけしげる左衛門さえもん 田村たむら栄太郎えいたろう 1926 青柳あおやぎ源右衛門げんえもん六郎兵衛ろくろうべえ父子ふし狩野かの新左衛門しんざえもん

松井まつい市兵衛いちべえ

徳川とくがわ綱吉つなよし のべたから8ねんまつ 戯曲ぎきょくはりつけしげる左衛門さえもん』では貞享ていきょう3ねん11月15にち つま打首うちくび あり
上野うえの沼田ぬまた領主りょうしゅ真田さなだ伊賀いがまもるの菲政と農民のうみん愁訴しゅうそ」『封建ほうけんせい農民のうみん一揆いっき日本にっぽん農民のうみん一揆いっきろく 田村たむら栄太郎えいたろう 1930 青柳あおやぎ源右衛門げんえもん六郎兵衛ろくろうべえ父子ふし狩野かの新左衛門しんざえもん 徳川とくがわ綱吉つなよし 天和てんわ元年がんねん6がつ~8がつ[注釈ちゅうしゃく 4] 貞享ていきょう3ねん11月5にち つま斬罪ざんざい あり
農民のうみん解放かいほう聖者せいじゃ はりつけしげる左衛門さえもん 萩原はぎはらすすむ 1949 青柳あおやぎ源右衛門げんえもんみぎ衛門えもん父子ふし

松井まつい市兵衛いちべえ

徳川とくがわ綱吉つなよし のべたから8ねん12月~翌年よくねん2がつ 天和てんわ3ねん11月1にち 妻子さいし打首うちくび あり、自殺じさつ
はりつけしげる左衛門さえもん 後閑ごかん祐次ゆうじ 1966 松井まつい市兵衛いちべえ 徳川とくがわ綱吉つなよし のべたから8ねん12月~翌年よくねん2がつ 天和てんわ2ねん11月5にち つま打首うちくび あり、切腹せっぷく

※「磔刑たっけいしげる左衛門さえもん」は新聞しんぶんうえしゅう』(坂本さかもとけいさんいえ文書ぶんしょ群馬ぐんま県立けんりつ文書ぶんしょかん寄託きたく)に連載れんさいされた小説しょうせつだが、2こま、62こましか発見はっけんされていないため全貌ぜんぼう不明ふめい[15]

※『沼田ぬまた義民ぎみんでん』は藤沢ふじさわ紫紅しこう口述こうじゅつ水沢みずさわ紫電しでん速記そっきで、『やまと新聞しんぶんりょうばん連載れんさいされた「義民ぎみんしげる左衛門さえもん」をさいろくしたもので、藤沢ふじさわ創作そうさく[16]

※「沼田ぬまたりょう階級かいきゅう闘争とうそうりゃく」は藤森ふじもり成吉せいきち戯曲ぎきょくはりつけしげる左衛門さえもん』の素材そざいとして提供ていきょうされたもので、同書どうしょ収録しゅうろくされている[17]

考証こうしょう

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真田さなだ信利のぶとし改易かいえき原因げんいん

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真田さなだ信利のぶとし改易かいえき原因げんいんを、『徳川とくがわ実紀みき』は両国橋りょうごくばしえのための材木ざいもく調達ちょうたつ遅延ちえんとするが、日頃ひごろおこないのわるさや、領民りょうみん使つかいするとの理由りゆうげられている。直接ちょくせつ直訴じきそ事実じじつれているわけではないが領民りょうみん困窮こんきゅう改易かいえき一因いちいんといえる。

上野うえのこく沼田ぬまた城主じょうしゅ真田さなだ伊賀いがまもる信利のぶとし所領しょりょうさんまんせき没入ぼつにゅうせられ。出羽いずは山形やまがた配流はいるし。奥平おくだいら小次郎こじろうあきらあきらに召預らる。両国橋りょうごくばし構架助役じょやくし。をのが封地ほうちよりはしざいりけるが。ことのそと遅緩ちかんせしのみならず。日頃ひごろ行正ゆきまさしからず。家人かじん領民りょうみん使つかいするきこえあるをもてなり。
徳川とくがわ実紀みき天和てんわ元年がんねん11がつ22にち[1]

天和てんわ日記にっき』でも以下いかとお両国橋りょうごくばし材木ざいもく調達ちょうたつ不首尾ふしゅび改易かいえき最大さいだい理由りゆうとされているが、領内りょうない失政しっせい理由りゆうとしてくわえられている。※〈〉ない割注わりちゅう

いちどう〈○天和てんわ元年がんねんじゅういちがつ。〉廿にじゅうさんにち真田さなだ伊賀いがまもる〈○信利のぶとし。〉よし今度こんど両国橋りょうごくばし材木ざいもくニ就テ不埒ふらちなり仕形しかた、其上家中いえじゅう并領ない仕置しおきあくじきだん上聞じょうぶん重畳ちょうじょうとどけ思召おぼしめしこれ領地りょうち召上伊賀いがまもるごと松平まつだいら小次郎こじろう〈○奥平おくだいらあきらあきら。〉こうあずかケ、惣領そうりょう弾正だんじょう〈○真田さなだしん就。〉こと浅野内匠頭あさのたくみのかみ〈○長矩ながのり。〉こうあずかむね昨日きのう評定ひょうじょうしょニテ水野みずのみぎ衛門えもん大夫たいふ〈○忠春ただはる。〉坂本さかもとみぎ衛門えもん〈○重治しげはる。〉りょう町奉行まちぶぎょうなんしげる上意じょういむねさるわたり
天和てんわ日記にっき』、[2]

うけたまわおう3ねん寛文ひろふみ2ねん寛文ひろふみ12ねん検地けんちすいちょう

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しげる左衛門さえもん実在じつざいしめどう時代じだい資料しりょうとしてうけたまわおう3ねん1654ねん)、寛文ひろふみ2ねん1662ねん)の「下小川しもおがわむら検地けんちみんちょうおよ寛文ひろふみ12ねん1672ねん)の「月夜野つきよのまち検地けんちすいちょう」に「しげる左衛門さえもん」のがあるが、直訴じきそ処刑しょけい事実じじつや、杉木すぎきせいあきらかにするものではない。以下いかとおり、しげる左衛門さえもん地位ちいについても諸説しょせつがある。

  • きょうだんはりつけしげる左衛門さえもん』では、寛文ひろふみ2ねん検地けんちちょうによればいちまちきゅうたんろくうねきゅうめいけしているとする。
  • 義民ぎみんしげる左衛門さえもん略伝りゃくでん」、『上野うえの人物じんぶつこころざしおよび「沼田ぬまたりょう階級かいきゅう闘争とうそうりゃく」では、寛文ひろふみ2ねん10がつ検地けんちすいちょうによればさんだんさんうねじゅうさんはたけいちまちだんじゅうよん屋敷やしきだんよんうねじゅうきゅう所有しょゆうするとする[1]。「沼田ぬまた階級かいきゅう闘争とうそうりゃく」では「富有ふゆう農民のうみん」としている[18]
  • 上野うえの沼田ぬまた領主りょうしゅ真田さなだ伊賀いがまもるの菲政と農民のうみん愁訴しゅうそ」では、うけたまわおう3ねん検地けんちすいちょううつしに「屋敷やしき じゅうよんあいだじゅうあいだ きゅううね 齋藤さいとう内蔵ないぞうかいぶんしげる左衛門さえもん」、寛文ひろふみ2ねんみずちょうに「屋敷やしきろくうねはちうち蔵之助くらのすけしげる左衛門さえもん」とあることから、「齋藤さいとう小作こさくじん」であって、自作農じさくのうがあったとしても「貧農ひんのう」であるとする。また寛文ひろふみ2ねんみずちょうでは屋敷やしきうえ張紙はりがみしてじゅうしてあるほか、べつ所有しょゆうしゃ齋藤さいとうしげる左衛門さえもん不明ふめい屋敷やしきがあるとする。同年どうねんみずちょうしげる左衛門さえもん名義めいぎ田畑たはたは「さんたんうねじゅうはちはたけろくたんきゅううねじゅう」で、寛文ひろふみ12ねんさい検地けんちしげる左衛門さえもんゆう租地を「いちうねじゅうはたけななたんうねじゅういち」とする[19]
  • 農民のうみん解放かいほう聖者せいじゃ はりつけしげる左衛門さえもん』では、「当時とうじふる帳面ちょうめんから調しらべたしげる左衛門さえもん所有しょゆうしていた土地とち」を「よんたんうね(7ぴつ)、はたけいちまちよんたんうねじゅう(17ぴつ)、屋敷やしきたんよんうねじゅうなな(3ぴつ)、合計ごうけいまちきゅうたんなな」として、しげる左衛門さえもんは「当時とうじとしてはうえほう」の「地主じぬし」であったとする[20]
  • 後閑ごかん祐次ゆうじはりつけしげる左衛門さえもん』では、寛文ひろふみ2ねん月夜野つきよのまち検地けんちちょうしげる左衛門さえもん所有しょゆう土地とち以下いかとおりとする[21]
 いち

しも     上田うえだ    きゅううねじゅういち
あくと     上田うえだ    うねじゅうろく
つきよの かわはた 下々しもじも   うねじゅういち
日影山ひかげやま     下田しもだ    八畝ようねじゅうさん
どう       下田しもだ    じゅうはち
せきとう     下々しもじも   ろくうね
後田うしろだ      上田うえだ    さんうね
 いちはたけ
日影山ひかげやま     上畠うえばたけ    さんうねじゅうはち
はら       したばたけ    ろくうね
どう       下々しもじもばたけ   ろくうねじゅうきゅう
くろがん     どう     さんうねじゅうさん
どう       どう     いちうねなな
ほら      上畠うえばたけ    一反いったんろくうねじゅうよん
はら       上畠うえばたけ    ろくうね
だいはけ     したばたけ    四畝よせじゅう
くろがん     上畠うえばたけ    一反いったんさんうねじゅう
どう       中畠なかばた    四畝よせ
きた      上畠うえばたけ    ろくうね
 いち屋敷やしき
屋敷やしき      じゅうあいだはん ろくうねはち 斎藤さいとう内蔵ないぞうかいない
        ななあいだはん          しげる左衛門さえもん

屋敷やしき文字もじうえがみ
屋敷やしき      じゅうあいだはん いちはんさんうねじゅうはち

        じゅうろくあいだ          しげる左衛門さえもん
  • 同書どうしょでは「屋敷やしき 廿にじゅうよんあいだはんじゅうろくあいだ いちはんさんうね 斎藤さいとう内蔵ないぞうかいない喜右衛門きうえもん」という屋敷やしきにも「斎藤さいとう内蔵ないぞうかいない」という肩書かたがきがあり、喜右衛門きうえもん田畑たはた全部ぜんぶに「斎藤さいとう内蔵ないぞうかいない」と肩書かたがきがあるためかれ小作こさくじんであるとする。他方たほうしげる左衛門さえもん屋敷やしきに「斎藤さいとう内蔵ないぞうかいない」という肩書かたがきがついているとしても、田畑たはたに「うち」「ぶん」とつかないことからしげる左衛門さえもんを「小作こさくじんでないことはあきらか」「むらでも中位ちゅうい百姓ひゃくしょう」とする。寛文ひろふみ12ねん月夜野つきよのまち検地けんちすいちょうではしげる左衛門さえもんはたけ6ぴつななたんうねじゅういち」がゆう租地となったとする。
  • 田原たはら芳雄よしお実説じっせつ しげる左衛門さえもん つけ市兵衛いちべえ』では、うけたまわおう3ねん下小川しもおがわむら検地けんちみんちょうに「屋敷やしき よんあいだ×いちあいだ きゅううね 斎藤さいとう内蔵ないぞうかいこと しげる左衛門さえもん」、寛文ひろふみ2ねん下小川しもおがわむら検地けんちみんちょうには「屋敷やしき あいだはん×いちろくあいだ 一反いったんさんうねいちはち しげる左衛門さえもん  屋敷やしき あいだはん×ななあいだはん ろくうねはち 斎藤さいとう内蔵ないぞうかいごと しげる左衛門さえもん」とあることから、斎藤さいとう内蔵ないぞうかいしげ左衛門さえもんどう一人物いちじんぶつとみて、しげる左衛門さえもんもと武士ぶしであるとする。なお寛文ひろふみ2ねん上記じょうき2ぴつうえには「屋敷やしき いちななあいだいちしゃく×ななあいだよんすん 一反いったんうねいちきゅう いんごと  屋敷やしき よんあいだ×じゅうろくあいだ 一反いったんさんうね 斎藤さいとうこと 〆たんはちうねいち」とのがみがある[22]

現存げんそんする訴状そじょう

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しげる左衛門さえもん訴状そじょう

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しげる左衛門さえもん訴状そじょううつしは、利根とねぐんに27つうのこされているとされる[23]

はりつけしげる左衛門さえもん一揆いっき研究けんきゅう』では、そのうち確認かくにんできたもの15つう以下いかのように分類ぶんるいした[24]

  • 差出人さしだしにんめい しげる左衛門さえもん 1、三郎さぶろうみぎ衛門えもん 6、三郎さぶろう左衛門さえもん 7、三郎兵衛さぶろべえ1
  • 宛名あてな 上様うえさま 1、奉行ぶぎょうしょ 2、奉行ぶぎょうしゅ 2、なし 10
  • 日付ひづけ 天和てんわ元年がんねん3がつ 1、天和てんわ元年がんねん6がつ 1、天和てんわ元年がんねん 11、なし 2
  • 領分りょうぶん 真田さなだ伊賀いがまもる殿どの領分りょうぶん 1、真田さなだ伊賀いがまもるさま領分りょうぶん 6、真田さなだ伊賀いがまもるさま領分りょうぶん 2、真田さなだ伊賀いがまもる領分りょうぶん 6
  • 転写てんしゃ 天保てんぽう12ねん 1、よしみなが4ねん 1、安政あんせい7ねん 1、万延まんえん元年がんねん 1、不明ふめい 11(近世きんせい前期ぜんき推定すいていできるものもある)

しげる左衛門さえもん名義めいぎ写本しゃほん後閑ごかん祐次ゆうじはりつけしげる左衛門さえもん[25]および『はりつけしげる左衛門さえもん一揆いっき研究けんきゅう[26]』に文面ぶんめんが、『実説じっせつ しげる左衛門さえもん つけ市兵衛いちべえ[27]』に影印えいいんがある。後閑ごかん祐次ゆうじはりつけしげる左衛門さえもん』は「天和てんわもとからしとり正月しょうがつ」(著者ちょしゃしょ蔵本ぞうほん)、『はりつけしげる左衛門さえもん一揆いっき研究けんきゅう』は「天和てんわもとからしとりろくがつ」(後閑ごかんぬいじょいえ文書ぶんしょ)、『実説じっせつ しげる左衛門さえもん つけ市兵衛いちべえ』は「天和てんわ元年がんねんとり正月しょうがつ」とある。

三郎さぶろうみぎ衛門えもん名義めいぎ写本しゃほんは「上野うえの沼田ぬまた領主りょうしゅ真田さなだ伊賀いがまもるの菲政と農民のうみん愁訴しゅうそ[28]」に1つう、『はりつけしげる左衛門さえもん一揆いっき研究けんきゅう[29]』に2つう、「三郎さぶろう左衛門さえもん名義めいぎ写本しゃほんは『群馬ぐんまけん だい2かん[30]』に1つうそれぞれ文面ぶんめん掲載けいさいされている。

三郎さぶろうみぎ衛門えもん」の名前なまえについて、「上野うえの沼田ぬまた領主りょうしゅ真田さなだ伊賀いがまもるの菲政と農民のうみん愁訴しゅうそ」は「偽名ぎめいで訴へたのがしんで、口碑こうひざんつてる。[28]」、後閑ごかん祐次ゆうじはりつけしげる左衛門さえもん』は「転写てんしゃさいしげる左衛門さえもんけて三郎さぶろうみぎ衛門えもんとしたのであろう[31]」とする。

市兵衛いちべえ訴状そじょう

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政所まどころむら松井まつい市兵衛いちべえ訴状そじょうは「上野うえの沼田ぬまた領主りょうしゅ真田さなだ伊賀いがまもるの菲政と農民のうみん愁訴しゅうそ[6]」、後閑ごかん祐次ゆうじはりつけしげる左衛門さえもん[8]』、『はりつけしげる左衛門さえもん一揆いっき研究けんきゅう[32]および『群馬ぐんまけん だい2かん[33]』に文面ぶんめんが、『実説じっせつ しげる左衛門さえもん つけ市兵衛いちべえ[34]』に影印えいいん掲載けいさいされている。

日付ひづけは「天和てんわ元年がんねんからしとり正月しょうがつなんにち」とあるが、天和てんわへの改元かいげんのべたから9ねん9がつ29にちなので、ありない日付ひづけである。宛先あてさきは「しょうすけさま」とあるが、真田さなだ信利のぶとし改易かいえき沼田ぬまた派遣はけんされた幕府ばくふ目付めつけ桜井さくらいしょうじょ勝政かつまさただし)であるとみられる。『徳川とくがわ実紀みき天和てんわ元年がんねん11がつ28にち[35]に「使番つかいばん桜井さくらいしょうじょ勝正かつまさ小姓こしょうぐみあたま伊東いとう刑部おさかべ左衛門さえもんせいたい上野うえのこく沼田ぬまた目付めつけ仰付おおせつけられいとまきゅうふ。」とある。

松井まつい市兵衛いちべえについては、「天和てんわ元年がんねんとり はなとなりきよしはちす居士こじくらい 十二月じゅうにがつ廿にじゅうきゅうにちうらに「松井まつい市兵衛いちべえ 伊賀いがまもるさまづけヲハル」とある位牌いはい存在そんざいする[6][8][36]

松井まつい市兵衛いちべえだし訴について「沼田ぬまたりょう階級かいきゅう闘争とうそうりゃく[5]およ後閑ごかん祐次ゆうじはりつけしげる左衛門さえもん[8]』はのべたから8ねんまつ~9年初ねんしょとする。他方たほうで、「上野うえの沼田ぬまた領主りょうしゅ真田さなだ伊賀いがまもるの菲政と農民のうみん愁訴しゅうそ[6]」、『はりつけしげる左衛門さえもん一揆いっき研究けんきゅう』、『実説じっせつ しげる左衛門さえもん つけ市兵衛いちべえ[36]』は「正月しょうがつ」とあるのがあやまりで、実際じっさい提出ていしゅつ天和てんわ元年がんねんまつとする。『はりつけしげる左衛門さえもん一揆いっき研究けんきゅう』では「(桜井さくらいしょうすけ勝政かつまさ沼田ぬまたかかわるのは11月28にち命令めいれいされてからであり、それ以前いぜん沼田ぬまた領内りょうない農民のうみん接触せっしょくすることはかんがえられない。」とべている[37]

幕府ばくふ目付めつけあて訴状そじょう

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はりつけしげる左衛門さえもん一揆いっき研究けんきゅう』には天和てんわ元年がんねん12がつ下旬げじゅん日付ひづけのある、窮状きゅうじょううった救助きゅうじょ幕府ばくふ目付めつけあて訴状そじょうが3つうげられている[38]。また年紀としのり訴状そじょう1つう天和てんわ元年がんねんのものと推定すいていしている。

天和てんわ3ねんさい検地けんちねがい

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沼田ぬまたじょうやぶ却後、天和てんわ3ねん3がつ複数ふくすう願書がんしょ提出ていしゅつされた。

  1. 吉右衛門きちえもん生越おごせむら)、助右衛門すけえもん川場かわばむら)、じゅう左衛門さえもん白岩しらいわむら)、みぎ衛門えもん硯田すずりだむら)、太夫たゆう間庭まにわむら)、新左衛門しんざえもん上川田かみかわたむら)、市郎いちろう左衛門さえもん吾妻あづま大塚おおつかむら)、みぎ衛門えもん伊勢いせまち[注釈ちゅうしゃく 5][39][40][41][42][43]
  2. でん左衛門さえもんもろむら)、三郎さぶろうみぎ衛門えもん白岩しらいわむら)、みぎ衛門えもん硯田すずりだむら)、十兵衛じゅうべえ新巻あらまきむら)、七郎しちろう左衛門さえもん[注釈ちゅうしゃく 6]下小川しもおがわむら)、新左衛門しんざえもん[注釈ちゅうしゃく 7]吾妻あづま川戸かわとむら)、長三郎ちょうさぶろうどう大塚おおつかむら[9][39][40][41][44]
  3. 六郎ろくろう左衛門さえもん老神おいかみむら[注釈ちゅうしゃく 8]三郎さぶろう左衛門さえもん恩田おんだむら)、でん左衛門さえもん下沼田しもぬまたむら)、甚右衛門えもん戸鹿野とがの)、おさむ兵衛ひょうえ川場かわばむら[注釈ちゅうしゃく 9])、ひろえにん吾妻あづま[注釈ちゅうしゃく 10][41][45]

これらは真田さなだ信利のぶとし寛文ひろふみ検地けんち大石おおいしした田畑たはたからのぞかず検地けんちをしたものであったことをげ、適正てきせい検地けんち要求ようきゅうする内容ないようである。2.の訴状そじょうについては『近世きんせいじょう偉人いじんでん』でしげる左衛門さえもんさきんじて訴した6にん名前なまえむら一致いっち、あるいは類似るいじしている。3.の訴状そじょうあらわれる「六郎ろくろう左衛門さえもん」は訴のつみにより処刑しょけいされたとの伝承でんしょうがある[46]

はりつけしげる左衛門さえもん一揆いっき研究けんきゅう』では天和てんわ2ねん10がつ以降いこうさい検地けんちねが訴状そじょうほかにもげている[47]

うし幸男ゆきおはりつけしげる左衛門さえもん一揆いっき研究けんきゅう』における検討けんとう

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佐倉さくら宗吾そうご高梨たかなし利右衛門りえもん伝承でんしょうとの類似るいじ

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佐倉さくら宗吾そうご伝承でんしょうとの類似るいじてんとして、まくかくへのかご訴(宗吾そうご久世くぜ大和やまとまもるしげる左衛門さえもん酒井さかい雅楽ががくあたまかご訴)、寛永寺かんえいじとの関係かんけい宗吾そうご寛永寺かんえいじ参詣さんけいする家綱いえつな直訴じきそしげる左衛門さえもん寛永寺かんえいじ文箱ふばこ使用しよう)、故郷こきょうでの捕縛ほばくといったものが指摘してきされる。

明治めいじ17ねん刊行かんこう小室こむろ信介しんすけ東洋とうよう義人ぎじんひゃく家伝かでん[48]』(はつちつ書名しょめいは『東洋とうよう民権みんけんひゃく家伝かでん』)に、高梨たかなし利右衛門りえもん代官だいかんしょ老中ろうじゅうへの訴をおこなったが失敗しっぱいしたため、あおいもんえがいたきりばこ用意よういし、これに嘆願たんがんしょ上野うえの茶店ちゃみせわすれることで、町奉行まちぶぎょうしょとどさせたという逸話いつわがある。

以上いじょうより、うししげる左衛門さえもん伝承でんしょう両者りょうしゃ伝承でんしょうつよ影響えいきょうけて形成けいせいされたものであるとする[49]

はりつけしげる左衛門さえもん一揆いっき実像じつぞうについて

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うし上述じょうじゅつのような議論ぎろん前提ぜんていに「明確めいかく資料しりょうもとづいて結論けつろんせる段階だんかいではないが」としつつも、以下いかのようないちおう結論けつろん提示ていじしている[50]

  1. しげる左衛門さえもん訴状そじょう近世きんせい転写てんしゃされたものであり、しげる左衛門さえもんという農民のうみん訴状そじょう提出ていしゅつしたという事実じじつみとめられる。
  2. 記載きさいされた日付ひづけ天和てんわ元年がんねんのみであることからすれば、天和てんわ元年がんねんの9がつ29にち以後いご作成さくせいといえる。
  3. 天和てんわ元年がんねん訴状そじょうは、しげる左衛門さえもん三郎さぶろうみぎ衛門えもん市兵衛いちべえほか4つうがあるが、その文面ぶんめん要求ようきゅうめんではしげる左衛門さえもん三郎さぶろうみぎ衛門えもん市兵衛いちべえと1つう類似るいじするのみで、ほか3つう共通きょうつうせいのないものであった。このことから一部いちぶ合議ごうぎ影響えいきょうがあったにせよ、自然しぜん発生はっせいてき複数ふくすう訴状そじょう提出ていしゅつがあったとみる。
  4. 真田さなだ信利のぶとし改易かいえき活発かっぱつ訴状そじょう提出ていしゅつおこなわれた事実じじつみとめられることからすれば、しげる左衛門さえもん訴状そじょう提出ていしゅつしたのは真田さなだ信利のぶとし改易かいえき目付めつけ代官だいかんたいしておこなわれた訴願そがん行為こういひとつとしてであるとする。また、改易かいえき訴願そがんたいする処罰しょばつかんがえられないとする。

年表ねんぴょう

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江戸えど時代じだい

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  • 正保まさやす元年がんねん(1644ねん)?[注釈ちゅうしゃく 11] - しげる左衛門さえもんまれる(『きょうだんはりつけしげる左衛門さえもん』)。
  • うけたまわおう2ねん(1653ねん) - 下小川しもおがわむら小川新こがわしんまち月夜野つきよのまち)がひらかれる[51]
  • うけたまわおう3ねん(1654ねん) - 「下小川しもおがわむら検地けんちみんちょう」に「しげる左衛門さえもん」のあらわれる。
  • あかりれき2ねん(1656ねん) - 真田さなだ信利のぶとし沼田ぬまた城主じょうしゅとなる。
  • 万治まんじ元年がんねん(1658ねん) - 真田さなだ信之のぶゆき死去しきょ沼田ぬまたはん独立どくりつ
  • まん2ねん(1659ねん) - こうさだいん真田さなだ信利のぶとしあね)が下小川しもおがわむら居住きょじゅう[52]
  • 寛文ひろふみ2ねん(1662ねん) - 沼田ぬまたはんそう検地けんち実施じっし。14まん4せんせき。「下小川しもおがわむら検地けんちみんちょう」に「しげる左衛門さえもん」のあらわれる。
  • 寛文ひろふみ9ねん(1669ねん) - こうさだいん長姫おさひめ)が千種ちくささんとつぎ、下小川しもおがわむら京都きょうと旅立たびだ[53]
  • 寛文ひろふみ12ねん(1672ねん) - 「月夜野つきよのまち検地けんちすいちょう」に「しげる左衛門さえもん」のあらわれる。
  • のべたから8ねん(1680ねん
    • 5月8にち - 徳川とくがわ家綱いえつな死去しきょ徳川とくがわ綱吉つなよし後継こうけいしゃとなり、8がつ将軍しょうぐん就任しゅうにん
    • 12月9にち - 酒井さかい忠清ただきよ大老たいろう辞任じにん
    • 12月~翌年よくねん1がつ? - しげる左衛門さえもん直訴じきそ(『きょうだんはりつけしげる左衛門さえもん』、「沼田ぬまたりょう階級かいきゅう闘争とうそうりゃく」、『農民のうみん解放かいほう聖者せいじゃ はりつけしげる左衛門さえもん』、後閑ごかん祐次ゆうじはりつけしげる左衛門さえもん』)、松井まつい市兵衛いちべえ直訴じきそ(「沼田ぬまたりょう階級かいきゅう闘争とうそうりゃく」、後閑ごかん祐次ゆうじはりつけしげる左衛門さえもん』)。
  • のべたから9/天和てんわ元年がんねん(1681ねん
    • 5月13にち - 徳川とくがわ綱吉つなよし就任しゅうにんともな巡見じゅんけん使使番つかいばん有馬ありま宮内くないそく書院しょいんばん駒井こまい右京うきょうおやぎょう岡田おかだ三太夫さんだゆうぜん)が沼田ぬまたりょうはいる。どう15にち真田さなだ信利のぶとし面会めんかい、16にち前橋まえばしかう[54]
    • 6月~8がつ? - しげる左衛門さえもん直訴じきそ(「上野うえの沼田ぬまた領主りょうしゅ真田さなだ伊賀いがまもるの菲政と農民のうみん愁訴しゅうそ」)。
    • 9月29にち - のべたからから天和てんわ改元かいげん
    • 11月22にち - 真田さなだ信利のぶとし改易かいえきされ、山形やまがた配流はいる(『徳川とくがわ実紀みき』)。
    • 12月6にち - 幕府ばくふ目付めつけ桜井さくらいしょうじょ勝政かつまさ伊東いとう刑部おさかべ左衛門さえもんせいたい沼田ぬまたじょう到着とうちゃく[55][56]
    • 12月6にち~29にち? - 松井まつい市兵衛いちべえ直訴じきそ(「上野うえの沼田ぬまた領主りょうしゅ真田さなだ伊賀いがまもるの菲政と農民のうみん愁訴しゅうそ」、『はりつけしげる左衛門さえもん一揆いっき研究けんきゅう』、『実説じっせつ しげる左衛門さえもん つけ市兵衛いちべえ』)。
    • 12月29にち - 松井まつい市兵衛いちべえ位牌いはいぼつ年月日ねんがっぴ
  • 天和てんわ2ねん(1682ねん
    • 1がつ - 沼田ぬまたじょうやぶ却。
    • 11月5にち? - しげる左衛門さえもん処刑しょけい後閑ごかん祐次ゆうじはりつけしげる左衛門さえもん』)。
    • 11月15にち? - しげる左衛門さえもん処刑しょけい(『沼田ぬまた義民ぎみんでん』)。
  • 天和てんわ3ねん(1683ねん
    • 3月 - 適正てきせい検地けんち要求ようきゅうする訴状そじょう複数ふくすう提出ていしゅつ
    • 11月? - しげる左衛門さえもん処刑しょけい(『近世きんせいじょう偉人いじんでん』)。
    • 11月1にち? - しげる左衛門さえもん処刑しょけい(『農民のうみん解放かいほう聖者せいじゃ はりつけしげる左衛門さえもん』)。
  • 貞享ていきょう元年がんねん(1684ねん) - 沼田ぬまたりょうさい検地けんち開始かいし
  • 貞享ていきょう3ねん(1686ねん) - さい検地けんちえる。6まん4せんせき貞享ていきょうみずちょう作成さくせい貞享ていきょうみずちょうには「しげる左衛門さえもん」のい。
    • 11月5にち? - しげる左衛門さえもん処刑しょけい(「義民ぎみん杉木すぎきしげる左衛門さえもん略伝りゃくでん」、『上野うえの人物じんぶつこころざし』、「上野うえの沼田ぬまた領主りょうしゅ真田さなだ伊賀いがまもるの菲政と農民のうみん愁訴しゅうそ」)。
    • 11月15にち? - しげる左衛門さえもん処刑しょけい(『きょうだんはりつけしげる左衛門さえもん』)。
  • 元禄げんろく15ねん(1702ねん)? - 千日堂せんにちどう建立こんりゅう(『近世きんせいじょう偉人いじんでん[2]』)。
  • とおる14ねん(1729ねん) - 沼田ぬまた豪商ごうしょう須田すだ加賀かがはち念仏ねんぶつどう千日堂せんにちどう)に土地とち寄進きしん[57]
  • もとぶん3ねん(1738ねん) - 月夜野つきよのまち大火たいかせんにちどうのこったとの記録きろくがあるため、これ以前いぜんに「千日堂せんにちどう」のがあったとかる[58]

近代きんだい以後いご

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  • 明治めいじ26ねん(1893ねん) - 新聞しんぶんうえしゅう』にあし主人しゅじん磔刑たっけいしげる左衛門さえもん」という小説しょうせつ連載れんさい高橋たかはしあまね楨『近世きんせいじょう偉人いじんでん』に「齋藤さいとうしげる左衛門さえもん」として記載きさい
  • 明治めいじ28ねん(1895ねん) - 駒形こまがたそうきちうえもう義人よしひとしげる左衛門さえもんでん岡本おかもと活版かっぱんしょから発行はっこう
  • 明治めいじ43ねん(1910ねん) - 『桃野もものむら』に記載きさい
  • 大正たいしょう元年がんねん(1912ねん) - 藤沢ふじさわかぎ次郎じろう紫紅しこう)『沼田ぬまた義民ぎみんでん』(『やまと新聞しんぶんりょうばん掲載けいさいされた「義民ぎみんしげる左衛門さえもん」のさいろく出版しゅっぱん
  • 大正たいしょう4ねん(1915ねん) - 野口のぐちふくどうきょうだんはりつけしげる左衛門さえもん刊行かんこう
  • 大正たいしょう8ねん(1919ねん) - 『日本にっぽん日本人にっぽんじん秋期しゅうき臨時りんじ増刊ぞうかん義民ぎみんごう』で島田しまだ三郎さぶろうにより紹介しょうかい
  • 大正たいしょう10ねん(1921ねん)12月 - 千日堂せんにちどう再建さいけんしげる左衛門さえもん地蔵じぞう月夜野つきよのきょう河畔かはんからうつ[59]
  • 大正たいしょう11ねん(1922ねん) - 『うえ及上じんだい68ごうに「義民ぎみんしげる左衛門さえもん略伝りゃくでん掲載けいさい
  • 大正たいしょう14ねん(1925ねん) - 『上野うえの人物じんぶつこころざし』に記載きさい
  • 大正たいしょう15ねん(1926ねん) - 藤森ふじもり成吉せいきち戯曲ぎきょくはりつけしげる左衛門さえもん』を執筆しっぴつ、6月19にち松竹しょうちく上演じょうえん
  • 昭和しょうわ5ねん(1930ねん) - 田村たむら栄太郎えいたろう封建ほうけんせい農民のうみん一揆いっき日本にっぽん農民のうみん一揆いっきろく刊行かんこう
  • 昭和しょうわ24ねん(1949ねん) - 萩原はぎはらすすむ農民のうみん解放かいほう聖者せいじゃ はりつけしげる左衛門さえもん刊行かんこう
  • 昭和しょうわ41ねん(1966ねん) - 後閑ごかん祐次ゆうじはりつけしげる左衛門さえもん刊行かんこう
  • 昭和しょうわ46ねん(1971ねん) - 千日堂せんにちどう再々さいさいけん

その

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  • 群馬ぐんまけん郷土きょうどかるた「うえかるた」にて、"て"のさつ天下てんか義人ぎじん しげる左衛門さえもん」としてがれている。

脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ きょうだんはりつけしげる左衛門さえもん』では正保しょうほう元年がんねん(1644ねん)のまれとする。
  2. ^ 後述こうじゅつのように天和てんわ2ねん(1682ねん)11月5にちどう15にち天和てんわ3ねん(1683ねん)11月、どう1にち貞享ていきょう3ねん(1686ねん)11月5にちどう15にちとするせつがある。
  3. ^ 酒井さかい忠清ただきよ叔母おば酒井さかい忠世ただよむすめ)は真田さなだ信吉のぶよし真田さなだ信利のぶとしちち)の正室せいしつである。
  4. ^ のべたから9ねん天和てんわ元年がんねんへの改元かいげんは9がつまつであるが、同書どうしょでは6がつとしている。
  5. ^ 沼田ぬまたりょう階級かいきゅう闘争とうそうりゃく」、『はりつけしげる左衛門さえもん一揆いっき研究けんきゅう』では同村どうそんところ左衛門さえもんくわえる。
  6. ^ 上野うえの沼田ぬまた領主りょうしゅ真田さなだ伊賀いがまもるの菲政と農民のうみん愁訴しゅうそ」では「七郎しちろうみぎ衛門えもん」、『はりつけしげる左衛門さえもん一揆いっき研究けんきゅう』では「なな左衛門さえもん」とする。
  7. ^ 上野うえの沼田ぬまた領主りょうしゅ真田さなだ伊賀いがまもるの菲政と農民のうみん愁訴しゅうそ」では「七郎しちろう左衛門さえもん」とする。
  8. ^ 後閑ごかん祐次ゆうじはりつけしげる左衛門さえもん』では兵衛ひょうえのちく。
  9. ^ 後閑ごかん祐次ゆうじはりつけしげる左衛門さえもん』では「かわ湯村ゆむら」とする。
  10. ^ 後閑ごかん祐次ゆうじはりつけしげる左衛門さえもん』では「そと吾妻あづまぐん 二人ふたり」とする。
  11. ^ 正保しょうほうへの改元かいげんおこなわれたのは寛永かんえい21ねん12月16にちで、正保しょうほう元年がんねん期間きかんみじかく、グレゴリオれきでは1645年初ねんしょとなる。

出典しゅってん

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参考さんこう文献ぶんけん

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関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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