杉木 茂 左衛門
伝承
[諸説
[名字
[- 『
近世 上 毛 偉人 伝 』は名前 を「齋藤 茂 左衛門 」とする[2]。
他 の者 の出 訴
[- 『
近世 上 毛 偉人 伝 』は延 宝 3年 (1675年 )5月 に師 村 の伝右 衛門 、白岩 村 の三郎 右 衛門 、硯田 村 の市 右 衛門 、下小川 村 の七郎 左衛門 、吾妻 郡 川戸 村 の新左衛門 、大塚 村 の長兵衛 の6人 で酒井 雅楽 頭 に直訴 したが効 を奏 さなかった、とする[2]。 田村 栄太郎 は「沼田 領 階級 闘争 史 略 」及 び「上野 沼田 領主 真田 伊賀 守 の菲政と農民 愁訴 」で青柳 源右衛門 (伊勢 町 名主 )・六郎兵衛 父子 、狩野 新左衛門 (中之条 町 名主 )らが領民 に迫 られて真田 信利 に訴 え出 たところ、入牢 、闕所となったとする[3][4]。田村 栄太郎 は「沼田 領 階級 闘争 史 略 」では利根 郡 政所 村 の松井 市兵衛 も茂 左衛門 と同 時期 に出 訴し、天和 元年 (1681年 )12月29日 に政所 村地 先 利根 河原 で処刑 されたとする[5]。後 に「上野 沼田 領主 真田 伊賀 守 の菲政と農民 愁訴 」では松井 市兵衛 は真田 氏 改易 後 、天和 元年 12月 に幕府 目付 桜井 庄 之 助 に出 訴し、12月29日 に政所 地 先 利根 河原 で斬首 されたが、出 訴のみを理由 に斬首 されたのではなく、代官 配下 の者 に鉄砲 を撃 ち掛 けたことを理由 とする[6]。- 『
農民 解放 の聖者 磔 茂 左衛門 』では伊勢 町 の名主 青柳 源右衛門 、加 右 衛門 父子 が嘆願 したために入牢 、財産 没収 になったとする。天和 元年 正月 に政所 村 の名主 松井 市兵衛 が出 訴したとする[7]。 後閑 祐次 『磔 茂 左衛門 』は政所 村 名主 市兵衛 が延 宝 9年 (1681年 )正月 江戸 に上 り直訴 し天和 元年 12月 29日 に政所 裏 の利根 河原 で斬首 されたとする[8]。
直訴 の相手方
[- 『
桃野 村 誌 』は徳川 綱吉 ではなく徳川 家綱 に直訴 したとする[9]。 - 『
日本 及日本人 』『義民 号 』では島田 三郎 が大正 6年 (1917年 )に吾妻 郡 中之条 町 に来 た際 に聞 いた事例 として茂 左衛門 を紹介 しており、徳川 家綱 の時代 に名主 茂 左衛門 が老中 に告訴 したという内容 である[10]。
処刑 の年月日
[下 の表 の通 り、処刑 された月 については11月で一致 するものの、処刑 年 は天和 2年 (1682年 )、同 3年 (1683年 )、貞享 3年 (1686年 )と幅 があり、処刑 日 も1日 、5日 と15日 の3種類 がある。
妻子
[- 『
近世 上 毛 偉人 伝 』では茂 左衛門 は出 訴の前 に妻 せつを離縁 し、実子 茂之 助 の後見 をせつの父 に頼 むなどして、身内 に累 が及 ばないようにしたとする[2]。 - 『
農民 解放 の聖者 磔 茂 左衛門 』では茂 左衛門 が磔 にされた際 、妻 と子 も打首 にされたとする[11]。
状 橋 地蔵
[- 『
桃野 村 誌 』では赦免 状 を携 えた使者 が井土上 字 楯 沢 (現 ・沼田 市 井土上 町 )の土橋 に着 いたときに処刑 の報 に接 し、この橋 で引 き返 したことから、この橋 を状 橋 と称 して地蔵 を建立 したのが今 の状 橋 地蔵 であるとする[9]。『農民 解放 の聖者 磔 茂 左衛門 』においても同様 の話 を「一説 」として紹介 している[12]。 後閑 祐次 『磔 茂 左衛門 』では赦免 の使者 は服部 某 という侍 で、責任 感 からその場 で割腹 し、村人 が供養 のために建立 したのが状 橋 地蔵 であるとする[13]。また『農民 解放 の聖者 磔 茂 左衛門 』においても「又 一説 」として役人 が自殺 したとの話 を紹介 している[12]。
大法 院 塚
[後閑 祐次 『磔 茂 左衛門 』は茂 左衛門 の訴状 を書 いたのは吾妻 郡 須川 村 (現 ・みなかみ町 須川 )の天台宗 駒形山 宝蔵寺 の住職 、大法 院 六 世 覚 端 法印 であるとする。覚 端 は茂 左衛門 の出 訴後に沼田 城 で取調 べを受 け、包 み隠 さず自白 したので、塚本 舎人 が家臣 を使 って恩田 河原 (現 ・沼田 市 恩田 町 字 上河原 )で石子詰 めにして惨殺 したという。恩田 村 の人々 が覚 端 を祀 ったのが大法 院 塚 であるとする[14]。
比較 表
[「 |
1893 | - | - | - | - | - | - | |
『 |
1893 | - | - | |||||
『 |
1895 | - | - | - | ||||
『 |
1910 | - | - | - | あり | |||
『 |
1912 | - | あり | |||||
『 |
1915 | あり | ||||||
『 |
1919 | |||||||
「 |
1922 | - | - | あり | ||||
『 |
1925 | - | - | あり | ||||
「 |
1926 | ( |
あり | |||||
「 |
1930 | あり | ||||||
『 |
1949 | あり、 | ||||||
『 |
1966 | あり、 |
※「
※『
※「
考証
[真田 信利 の改易 の原因
[上野 国 沼田 城主 真田 伊賀 守 信利 所領 三 万 石 没入 せられ。出羽 山形 に配流 し。奥平 小次郎 昌 章 に召預らる。是 は両国橋 構架助役 し。をのが封地 より橋 材 を採 りけるが。ことの外 遅緩 せしのみならず。日頃 身 の行正 しからず。家人 領民 を苦 使 する聞 えあるをもてなり。
『
一 、同 〈○天和 元年 十 一 月 。〉廿 三 日 、真田 伊賀 守 〈○信利 。〉義 、今度 両国橋 御 材木 之 義 ニ就テ不埒 成 仕形 、其上家中 并領内 之 仕置 悪 敷 段 及上聞 、重畳 不 届 被 思召 、依 之 領地 被 召上之 、伊賀 守 事 松平 小次郎 〈○奥平 昌 章 。〉江 御 預 ケ、惣領 弾正 〈○真田 信 就。〉事 浅野内匠頭 〈○長矩 。〉江 御 預 ケ之 旨 、昨日 評定 所 ニテ水野 右 衛門 大夫 〈○忠春 。〉坂本 右 衛門 佐 〈○重治 。〉両 町奉行 何 茂 出 座 、上意 之 旨 申 渡 之 。
承 応 3年 ・寛文 2年 ・寛文 12年 検地 水 帳
[- 『
教 談 磔 茂 左衛門 』では、寛文 2年 の検地 帳 によれば一 町 九 反 六 畝 二 九 歩 を名 請 けしているとする。 - 「
義民 茂 左衛門 略伝 」、『上野 人物 志 』及 び「沼田 領 階級 闘争 史 略 」では、寛文 2年 10月 の検地 水 帳 によれば田 三 段 三 畝 二 十 三 歩 、畑 一 町 五 段 二 十 四 歩 、屋敷 二 段 四 畝 二 十 九 歩 を所有 するとする[1]。「沼田 階級 闘争 史 略 」では「富有 な農民 」としている[18]。 - 「
上野 沼田 領主 真田 伊賀 守 の菲政と農民 愁訴 」では、承 応 3年 検地 水 帳 写 に「屋敷 二 十 四 間 十 二 間 九 畝 歩 齋藤 内蔵 之 介 分 茂 左衛門 」、寛文 2年 水 帳 に「屋敷 六 畝 八 歩 内 蔵之助 ■茂 左衛門 」とあることから、「齋藤 の小作 人 」であって、自作農 地 があったとしても「貧農 」であるとする。また寛文 2年 水 帳 では屋敷 の上 に張紙 して十 歩 を増 してあるほか、別 に所有 者 が齋藤 か茂 左衛門 か不明 の屋敷 があるとする。同年 水 帳 の茂 左衛門 名義 の田畑 は「田 三 反 二 畝 十 八 歩 、畑 六 反 九 畝 十 五 歩 」で、寛文 12年 の再 検地 後 の茂 左衛門 の有 租地を「田 一 畝 十 二 歩 、畑 七 反 二 畝 二 十 一 歩 」とする[19]。 - 『
農民 解放 の聖者 磔 茂 左衛門 』では、「当時 の古 い帳面 から調 べた茂 左衛門 の所有 していた土地 」を「田 四 反 二 畝 (7筆 )、畑 一 町 四 反 二 畝 二 十 歩 (17筆 )、屋敷 二 反 四 畝 十 七 歩 (3筆 )、合計 二 町 九 反 七 歩 」として、茂 左衛門 は「当時 としては上 の方 」の「地主 」であったとする[20]。 後閑 祐次 『磔 茂 左衛門 』では、寛文 2年 の月夜野 町 御 検地 帳 の茂 左衛門 所有 土地 は以下 の通 りとする[21]。
一 、田
しも
田 上田 九 畝 十 一 歩
あくと上田 五 畝 二 十 六 歩
月 よの川 はた下々 田 二 畝 十 一 歩
日影山 下田 八畝 二 十 三 歩
同 下田 十 八 歩
せき島 下々 田 六 畝
後田 上田 三 畝 五 歩
一 、畑
日影山 上畠 三 畝 十 八 歩
原 下 畠 六 畝
同 下々 畠 六 畝 十 九 歩
くろ岩 同 三 畝 十 三 歩
同 同 一 畝 七 歩
ほら上畠 一反 六 畝 二 十 四 歩
原 上畠 六 畝
大 はけ下 畠 四畝 二 十 歩
くろ岩 上畠 一反 三 畝 二 十 歩
同 中畠 四畝
きた上畠 六 畝 二 歩
一 、屋敷
屋敷 二 十 五 間 半 六 畝 八 歩 斎藤 内蔵 之 介 内
七 間 半 茂 左衛門
(屋敷 文字 の上 に張 り紙 )
屋敷 二 十 五 間 半 壱 反 三 畝 十 八 歩
十 六 間 茂 左衛門
同書 では「屋敷 廿 四 間 半 十 六 間 壱 反 三 畝 二 歩 斎藤 内蔵 之 介 内 喜右衛門 」という屋敷 にも「斎藤 内蔵 之 介 内 」という肩書 があり、喜右衛門 の田畑 は全部 に「斎藤 内蔵 之 介 内 」と肩書 があるため彼 は小作 人 であるとする。他方 、茂 左衛門 の屋敷 に「斎藤 内蔵 之 介 内 」という肩書 がついているとしても、田畑 に「内 」「分 」とつかないことから茂 左衛門 を「小作 人 でないことは明 らか」「村 でも中位 の百姓 」とする。寛文 12年 月夜野 町 検地 水 帳 では茂 左衛門 は畑 6筆 「七 反 二 畝 二 十 一 歩 」が有 租地となったとする。田原 芳雄 『実説 茂 左衛門 附 市兵衛 』では、承 応 3年 の下小川 村 御 検地 民 図 帳 に「屋敷 二 四 間 ×一 二 間 九 畝 歩 斎藤 内蔵 之 介 事 茂 左衛門 」、寛文 2年 の下小川 村 御 検地 民 図 帳 には「屋敷 二 五 間 半 ×一 六 間 一反 三 畝 一 八 歩 茂 左衛門 屋敷 二 五 間 半 ×七 間 半 六 畝 八 歩 斎藤 内蔵 之 介 事 茂 左衛門 」とあることから、斎藤 内蔵 之 介 を茂 左衛門 と同 一人物 とみて、茂 左衛門 は元 武士 であるとする。なお寛文 2年 の上記 2筆 の上 には「屋敷 一 七 間 一 尺 ×二 七 間 四 寸 一反 五 畝 一 九 歩 院 事 屋敷 二 四 間 ×十 六 間 一反 三 畝 二 歩 斎藤 事 〆二 反 八 畝 二 一 歩 」との貼 り紙 がある[22]。
現存 する訴状
[茂 左衛門 の訴状
[『
差出人 名 茂 左衛門 1、三郎 右 衛門 6、三郎 左衛門 7、三郎兵衛 1宛名 御 上様 1、奉行 所 2、奉行 衆 2、なし 10日付 天和 元年 3月 1、天和 元年 6月 1、天和 元年 11、なし 2領分 真田 伊賀 守 殿 領分 1、真田 伊賀 守 様 御 領分 6、真田 伊賀 守 様 領分 2、真田 伊賀 守 領分 6転写 時 天保 12年 1、嘉 永 4年 1、安政 7年 1、万延 元年 1、不明 11(近世 前期 と推定 できるものもある)
「
「
「
市兵衛 の訴状
[幕府 目付 ら宛 の訴状
[『
天和 3年 の再 検地 願
[吉右衛門 (生越 村 )、助右衛門 (川場 村 )、十 左衛門 (白岩 村 )、市 右 衛門 (硯田 村 )、市 太夫 (間庭 村 )、新左衛門 (上川田 村 )、市郎 左衛門 (吾妻 大塚 村 )、加 右 衛門 (伊勢 町 )[注釈 5][39][40][41][42][43]伝 左衛門 (師 村 )、三郎 右 衛門 (白岩 村 )、市 右 衛門 (硯田 村 )、十兵衛 (新巻 村 )、七郎 左衛門 [注釈 6](下小川 村 )、新左衛門 [注釈 7](吾妻 川戸 村 )、長三郎 (同 大塚 村 )[9][39][40][41][44]六郎 左衛門 (老神 村 )[注釈 8]、三郎 左衛門 (恩田 村 )、伝 左衛門 (下沼田 村 )、甚右衛門 (戸鹿野 )、治 兵衛 (川場 村 [注釈 9])、拾 二 人 (吾妻 )[注釈 10][41][45]
これらは
『
丑 木 幸男 『磔 茂 左衛門 一揆 の研究 』における検討
[佐倉 宗吾 ・高梨 利右衛門 伝承 との類似
[磔 茂 左衛門 一揆 の実像 について
[茂 左衛門 の訴状 は近世 に転写 されたものであり、茂 左衛門 という農民 が訴状 を提出 したという事実 は認 められる。記載 された日付 が天和 元年 のみであることからすれば、天和 元年 の9月 29日 以後 の作成 といえる。天和 元年 の訴状 は、茂 左衛門 、三郎 右 衛門 、市兵衛 ほか4通 があるが、その文面 や要求 面 では茂 左衛門 と三郎 右 衛門 、市兵衛 と1通 が類似 するのみで、ほか3通 は共通 性 のないものであった。このことから一部 は合議 や影響 があったにせよ、自然 発生 的 に複数 の訴状 提出 があったとみる。真田 信利 改易 後 活発 に訴状 提出 が行 われた事実 が認 められることからすれば、茂 左衛門 が訴状 を提出 したのは真田 信利 改易 後 、目付 や代官 に対 して行 われた訴願 行為 の一 つとしてであるとする。また、改易 後 の訴願 に対 する処罰 も考 えられないとする。
年表
[江戸 時代
[正保 元年 (1644年 )?[注釈 11] -茂 左衛門 生 まれる(『教 談 磔 茂 左衛門 』)。承 応 2年 (1653年 ) -下小川 村 (後 の小川新 町 、月夜野 町 )が開 かれる[51]。承 応 3年 (1654年 ) - 「下小川 村 御 検地 民 図 帳 」に「茂 左衛門 」の名 が現 れる。明 暦 2年 (1656年 ) -真田 信利 が沼田 城主 となる。万治 元年 (1658年 ) -真田 信之 が死去 。沼田 藩 の独立 。万 治 2年 (1659年 ) -高 貞 院 (真田 信利 の姉 )が下小川 村 に居住 [52]。寛文 2年 (1662年 ) -沼田 藩 総 検地 を実施 。14万 4千 余 石 。「下小川 村 御 検地 民 図 帳 」に「茂 左衛門 」の名 が現 れる。寛文 9年 (1669年 ) -高 貞 院 (長姫 )が千種 三 位 に嫁 ぎ、下小川 村 を去 り京都 へ旅立 つ[53]。寛文 12年 (1672年 ) - 「月夜野 町 検地 水 帳 」に「茂 左衛門 」の名 が現 れる。延 宝 8年 (1680年 )- 5月8
日 -徳川 家綱 死去 。徳川 綱吉 が後継 者 となり、8月 に将軍 就任 。 - 12月9
日 -酒井 忠清 大老 辞任 。 - 12月~
翌年 1月 ? -茂 左衛門 直訴 (『教 談 磔 茂 左衛門 』、「沼田 領 階級 闘争 史 略 」、『農民 解放 の聖者 磔 茂 左衛門 』、後閑 祐次 『磔 茂 左衛門 』)、松井 市兵衛 直訴 (「沼田 領 階級 闘争 史 略 」、後閑 祐次 『磔 茂 左衛門 』)。
- 5月8
延 宝 9/天和 元年 (1681年 )- 5月13
日 -徳川 綱吉 就任 に伴 う巡見 使 (使番 有馬 宮内 則 故 、書院 番 駒井 右京 親 行 、岡田 三太夫 善 紀 )が沼田 領 に入 る。同 15日 に真田 信利 と面会 、16日 に前橋 に向 かう[54]。 - 6月~8
月 ? -茂 左衛門 直訴 (「上野 沼田 領主 真田 伊賀 守 の菲政と農民 愁訴 」)。 - 9月29
日 -延 宝 から天和 へ改元 。 - 11月22
日 -真田 信利 が改易 され、山形 へ配流 (『徳川 実紀 』)。 - 12月6
日 -幕府 目付 桜井 庄 之 助 勝政 ・伊東 刑部 左衛門 政 泰 が沼田 城 に到着 [55][56]。 - 12月6
日 ~29日 ? -松井 市兵衛 直訴 (「上野 沼田 領主 真田 伊賀 守 の菲政と農民 愁訴 」、『磔 茂 左衛門 一揆 の研究 』、『実説 茂 左衛門 附 市兵衛 』)。 - 12月29
日 -松井 市兵衛 位牌 の没 年月日 。
- 5月13
天和 2年 (1682年 )- 1
月 -沼田 城 破 却。 - 11月5
日 ? -茂 左衛門 処刑 (後閑 祐次 『磔 茂 左衛門 』)。 - 11月15
日 ? -茂 左衛門 処刑 (『沼田 義民 伝 』)。
- 1
天和 3年 (1683年 )- 3月 -
適正 な検地 を要求 する訴状 が複数 提出 。 - 11月? -
茂 左衛門 処刑 (『近世 上 毛 偉人 伝 』)。 - 11月1
日 ? -茂 左衛門 処刑 (『農民 解放 の聖者 磔 茂 左衛門 』)。
- 3月 -
貞享 元年 (1684年 ) -沼田 領 再 検地 開始 。貞享 3年 (1686年 ) -再 検地 を終 える。6万 4千 余 石 。貞享 水 帳 作成 。貞享 水 帳 には「茂 左衛門 」の名 は無 い。- 11月5
日 ? -茂 左衛門 処刑 (「義民 杉木 茂 左衛門 略伝 」、『上野 人物 志 』、「上野 沼田 領主 真田 伊賀 守 の菲政と農民 愁訴 」)。 - 11月15
日 ? -茂 左衛門 処刑 (『教 談 磔 茂 左衛門 』)。
- 11月5
元禄 15年 (1702年 )? -千日堂 建立 (『近世 上 毛 偉人 伝 [2]』)。享 保 14年 (1729年 ) -沼田 の豪商 、須田 加賀 八 が念仏 堂 (千日堂 )に土地 を寄進 [57]。元 文 3年 (1738年 ) -月夜野 町 の大火 で千 日 堂 が焼 け残 ったとの記録 があるため、これ以前 に「千日堂 」の呼 び名 があったと分 かる[58]。
近代 以後
[明治 26年 (1893年 ) -新聞 『上 州 』に蘆 の屋 主人 「磔刑 茂 左衛門 」という小説 が連載 。高橋 周 楨『近世 上 毛 偉人 伝 』に「齋藤 茂 左衛門 」として記載 。明治 28年 (1895年 ) -駒形 荘 吉 『上 毛 義人 茂 左衛門 伝 』岡本 活版 所 から発行 。明治 43年 (1910年 ) - 『桃野 村 誌 』に記載 。大正 元年 (1912年 ) -藤沢 鍵 次郎 (紫紅 )『沼田 義民 伝 』(『やまと新聞 』両 野 版 に掲載 された「義民 茂 左衛門 」の再 録 )出版 。大正 4年 (1915年 ) -野口 復 堂 『教 談 磔 茂 左衛門 』刊行 。大正 8年 (1919年 ) - 『日本 及日本人 』秋期 臨時 増刊 『義民 号 』で島田 三郎 により紹介 。大正 10年 (1921年 )12月 -千日堂 再建 。茂 左衛門 地蔵 を月夜野 橋 河畔 から移 す[59]。大正 11年 (1922年 ) - 『上 毛 及上毛 人 』第 68号 に「義民 茂 左衛門 略伝 」掲載 。大正 14年 (1925年 ) - 『上野 人物 志 』に記載 。大正 15年 (1926年 ) -藤森 成吉 が戯曲 『磔 茂 左衛門 』を執筆 、6月19日 に松竹 座 で上演 。昭和 5年 (1930年 ) -田村 栄太郎 『封建 制 下 の農民 一揆 ―日本 農民 一揆 録 』刊行 。昭和 24年 (1949年 ) -萩原 進 『農民 解放 の聖者 磔 茂 左衛門 』刊行 。昭和 41年 (1966年 ) -後閑 祐次 『磔 茂 左衛門 』刊行 。昭和 46年 (1971年 ) -千日堂 再々 建 。
その他
[群馬 県 の郷土 かるた「上 毛 かるた」にて、"て"の札 「天下 の義人 茂 左衛門 」として読 み継 がれている。
脚注
[注釈
[- ^ 『
教 談 磔 茂 左衛門 』では正保 元年 (1644年 )の生 まれとする。 - ^
後述 のように天和 2年 (1682年 )11月5日 、同 15日 、天和 3年 (1683年 )11月、同 1日 、貞享 3年 (1686年 )11月5日 、同 15日 とする説 がある。 - ^
酒井 忠清 の叔母 (酒井 忠世 の娘 )は真田 信吉 (真田 信利 の父 )の正室 である。 - ^
延 宝 9年 の天和 元年 への改元 は9月 末 であるが、同書 では6月 としている。 - ^ 「
沼田 領 階級 闘争 史 略 」、『磔 茂 左衛門 一揆 の研究 』では同村 の所 左衛門 を加 える。 - ^ 「
上野 沼田 領主 真田 伊賀 守 の菲政と農民 愁訴 」では「七郎 右 衛門 」、『磔 茂 左衛門 一揆 の研究 』では「七 左衛門 」とする。 - ^ 「
上野 沼田 領主 真田 伊賀 守 の菲政と農民 愁訴 」では「七郎 左衛門 」とする。 - ^
後閑 祐次 『磔 茂 左衛門 』では治 兵衛 の後 に置 く。 - ^
後閑 祐次 『磔 茂 左衛門 』では「河 湯村 」とする。 - ^
後閑 祐次 『磔 茂 左衛門 』では「外 吾妻 郡 二人 」とする。 - ^
正保 への改元 が行 われたのは寛永 21年 12月16日 で、正保 元年 の期間 は短 く、グレゴリオ暦 では1645年初 となる。
出典
[- ^ a b
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藤森 1926, pp. 145–147. - ^ a b c d
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萩原 1949, p. 39-43. - ^ a b c d
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丑 木 1992, pp. 445–446. - ^
萩原 1949, p. 65-69. - ^ a b
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丑 木 1992, pp. 478–479. - ^
丑 木 1992, pp. 480–482. - ^
藤森 1926, pp. 129–155. - ^
藤森 1926, pp. 147. - ^
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国立 国会図書館 デジタルコレクション”. dl.ndl.go.jp. 2023年 10月 9日 閲覧 。 - ^
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原田 1987, pp. 64–65. - ^
豊国 1922, p. 35.
参考 文献
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関連 項目
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[- デジタル
版 日本人 名 大 辞典 +Plus、朝 日 日本 歴史 人物 事典 『杉木 茂 左衛門 』 - コトバンク - ブリタニカ
国際 大 百科 事典 小 項目 事典 、デジタル大辞泉 、百科 事典 マイペディア、世界 大 百科 事典 第 2版 、日本 大 百科全書 (ニッポニカ)、世界 大 百科 事典 『磔 茂 左衛門 』 - コトバンク 上 州 月夜野 と義民 茂 左衛門 (地方 行政 史料 小 鑑 )上 州 義民 桃 野村 茂 左衛門 (義民 か逆徒 か)修身 読本 義人 茂 左衛門