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桜川橋梁列車三重衝突事件 - Wikipedia コンテンツにスキップ

桜川さくらがわ橋梁きょうりょう列車れっしゃさんじゅう衝突しょうとつ事件じけん

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事故じこ直後ちょくご現場げんば様子ようす

桜川さくらがわ橋梁きょうりょうじょう列車れっしゃさんじゅう衝突しょうとつ事件じけん(さくらかわきょうりょうじょうれっしゃさんじゅうしょうとつじけん)[ちゅう 1]は、1943ねん昭和しょうわ18ねん10月26にち[ちゅう 2]に、茨城いばらきけん土浦つちうらうち常磐線じょうばんせん土浦つちうらえき構内こうない発生はっせいした鉄道てつどう事故じこである。常磐ときわせん土浦つちうらえき列車れっしゃ衝突しょうとつ事故じこ、または土浦つちうらえき列車れっしゃさんじゅう衝突しょうとつ事故じこ[1]ともいう。この事故じこ戦時せんじちゅうのためおおきく報道ほうどうされることはなく、鮮明せんめい写真しゃしんのこされていない。

事故じこ状況じょうきょう[編集へんしゅう]

経過けいか[編集へんしゅう]

貨物かもつだい294列車れっしゃは1840ふんごろ土浦つちうらえきのぼり1番線ばんせん到着とうちゃくし、にゅうかわのため貨車かしゃ41りょうを引上せんげていた。1848ふん信号しんごうかけのポイント転換てんかんミスによってことせん進入しんにゅうこし、のぼ本線ほんせんから分岐ぶんきするてんわだちして進路しんろ支障ししょうする最初さいしょ事故じこ発生はっせいした。

1851ふん30びょう場内じょうない信号しんごう進行しんこう指示しじによって走行そうこうしてきた貨物かもつだい254列車れっしゃが、支障ししょうしていた貨物かもつだい294列車れっしゃ衝突しょうとつした[2]牽引けんいん機関きかんしゃD51 651)は貨車かしゃいこんで直後ちょくご貨車かしゃ14りょう脱線だっせん転覆てんぷく[1]くだせん支障ししょうした[3]

1854ふんくだ本線ほんせん上野うえのはつひらめげんいわききの普通ふつうだい241列車れっしゃ進入しんにゅうするも、本線ほんせん支障ししょうしていた貨物かもつ列車れっしゃ接触せっしょく衝突しょうとつした。牽引けんいん機関きかんしゃ脱線だっせん転覆てんぷく[3][4]して機関きかん即死そくし[5]し、客車きゃくしゃは2りょうまで脱線だっせん、3りょう桜川さくらがわ橋梁きょうりょうじょう脱線だっせん、4りょう桜川さくらがわ転落てんらくして水没すいぼつした。5りょう以降いこう橋梁きょうりょう手前てまえ転落てんらくまぬかれた[ちゅう 3]。これにより、多数たすう死傷ししょうしゃした。

救護きゅうご活動かつどう[編集へんしゅう]

事故じこ発生はっせいけて、市内しない各地かくちから警防団けいぼうだん土浦つちうら霞ケ浦かすみがうらかく航空こうくうたいなどからも救援きゅうえん活動かつどうけ、よるてっしての救護きゅうご活動かつどうつづけられた[3][6]遺体いたいえきちかくの病院びょういん収容しゅうようされたが[7]、すぐに満杯まんぱいとなり、えきちかくのならべられた[3][6]事故じこ発生はっせいから3にちかわちた客車きゃくしゃなどがクレーンで撤去てっきょされ、常磐線じょうばんせん復旧ふっきゅう開通かいつうした[4]

原因げんいん[編集へんしゅう]

原因げんいん車両しゃりょういれかわ信号しんごうかけ操車そうしゃかけわせ不良ふりょう操車そうしゃかけ進路しんろ確認かくにん不良ふりょうのため車両しゃりょうことせん進入しんにゅうさせのぼ本線ほんせん支障ししょうさせたことと、信号しんごうかけ列車れっしゃ防護ぼうご措置そちをとらなかったことである。操車そうしゃかけ接近せっきんちゅうの貨第254列車れっしゃ停止ていしすべく北部ほくぶ信号しんごうしょかったがやく500mの距離きょりがあり、わなかったとされる。

最初さいしょ事故じこ貨車かしゃいれかわなか発生はっせいしたもので、にゅうかわ作業さぎょう操車そうしゃかけ進路しんろ要求ようきゅうにより信号しんごうかけ進路しんろ構成こうせい操車そうしゃかけ機関きかん指示しじすることで開始かいしするが、この事故じこでは信号しんごうかけ進路しんろ構成こうせい操車そうしゃかけにゅうかわ標識ひょうしき確認かくにんせずにゅうかわ開始かいししたことに起因きいんする。当時とうじ土浦つちうらえき信号しんごう腕木うできしきで、うたてわだち割出わりだしても自動的じどうてき場内じょうない信号しんごう停止ていし信号しんごうげんしめせすることは出来できなかったとされる。信号しんごうかけ戦時せんじちゅう列車れっしゃ運行うんこう阻害そがいする事故じこ発生はっせいさせたことに動転どうてんしたのか、北部ほくぶ信号しんごうしょ連絡れんらくするなどのぼ列車れっしゃ抑止よくし手配てはいらなかったため、のぼ貨物かもつ列車れっしゃ進入しんにゅう衝突しょうとつまねいた(列車れっしゃ防護ぼうご不適切ふてきせつ)。みなみ信号しんごうしょ対応たいおう可能かのうであったくだ場内じょうない信号しんごう停止ていし信号しんごうげんしめしていれば、くだ旅客りょかく列車れっしゃ進入しんにゅう防止ぼうし可能かのうであった(列車れっしゃ防護ぼうご不適切ふてきせつ[8]

死者ししゃすう[編集へんしゅう]

この事故じこ戦時せんじちゅうきた事故じこのためか、死者ししゃすうかく資料しりょうによりおおきくことなる。このようなちがいは鉄道てつどう事故じこではられない[9]死者ししゃ負傷ふしょうしゃすう下記かきとおり。

  • 国有こくゆう鉄道てつどう重大じゅうだい運転うんてん事故じこ記録きろく』 - 死者ししゃ110めい負傷ふしょうしゃ107めい
  • 裁判さいばん記録きろく』『土浦つちうら』 - 死者ししゃ94めい負傷ふしょうしゃ103めい
  • 土浦つちうらえき』 - 死者ししゃ93めい負傷ふしょうしゃ103めい
  • 事故じこ慰霊いれい』 - 死者ししゃ96めい負傷ふしょうしゃひゃくめい[10]
  • 茨城いばらきけんだい百科ひゃっか事典じてん』 - 死者ししゃ92にん負傷ふしょうしゃ100にんえた[11]

なお、『鉄道てつどう重大じゅうだい事故じこ歴史れきし』(久保田くぼたひろししる、グランプリ出版しゅっぱん)70ぺーじには「57にん死亡しぼう、77にん負傷ふしょう」と記載きさいされたが、これは事故じこ翌日よくじつ鉄道てつどうしょう発表はっぴょうをそのまま引用いんようした数字すうじ

とく問題もんだいになるのが水没すいぼつした4りょうにいた乗客じょうきゃくすう死者ししゃすうで、当時とうじ客車きゃくしゃ座席ざせきすうは80~88のため、「乗客じょうきゃくはほとんどすわっていて、ぽつぽつっているひとがいるぐらいでした」という乗客じょうきゃく証言しょうげんがあり[12]乗客じょうきゃくすうやく80めいとされる[13]水没すいぼつに4りょうから脱出だっしゅつし、救助きゅうじょされた乗客じょうきゃく証言しょうげんがあり[14]、ほか、なんめいかは脱出だっしゅつできたとされる[15]。そのため『事故じこ鉄道てつどう』では死者ししゃすうもっとおおい『国有こくゆう鉄道てつどう重大じゅうだい運転うんてん事故じこ記録きろく』の110めいから「鉄道てつどうしょう発表はっぴょう」の57めいいた53めい鉄道てつどう関係かんけいしゃ3めいのぞけば50めい)とし、4りょうから脱出だっしゅつできた人数にんずうを「30めい」としている[15]同書どうしょではこの事故じこ死者ししゃすうを「120~128めい」と結論けつろんづけている[16]

事故じこ[編集へんしゅう]

事故じこから22ねんった1965ねん現場げんばちかくの桜川さくらがわ河畔かはん木製もくせい供養くようとうてられたが、風雨ふううにさらされいたみがすすんだため、1986ねん6がつ従来じゅうらい慰霊いれいわきくろ御影石みかげいしせいあらたな石碑せきひてられている(従来じゅうらいばしらのこされている)。この石碑せきひには96めい犠牲ぎせいしゃ氏名しめいと、「ここにきざまれているのは事故じこ裁判さいばん記録きろく掲載けいさいされているきゅうじゅうろくめい方々かたがた氏名しめいであるが、このほかにも事故じこがもととなってくなられたほう数多かずおおられるものと想像そうぞうされる。ここにあわせてその冥福めいふく衷心ちゅうしんよりおいのりするものである。」とのメッセージがきざまれている。

事故じこから80ねん経過けいかした2023ねん現在げんざい車両しゃりょう転落てんらくした常磐線じょうばんせんだい1桜川さくらがわきょうりょうにはトラス設置せっちされていない。

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

  1. ^ 土浦つちうら』1055ぺーじ表記ひょうきによる。
  2. ^ 事故じこ鉄道てつどう』229ぺーじ日付ひづけを「10がつ21にち」(この出陣しゅつじん学徒がくと壮行そうこうかいおこなわれた)と誤記ごき
  3. ^ ちゃ土浦つちうらじゅうねん』305ぺーじ、『土浦つちうら』1056ぺーじでは「3りょう桜川さくらがわ橋梁きょうりょうじょうから脱線だっせん転落てんらく、4りょうななふんどお桜川さくらかわ転落てんらくした。」と記載きさい

出典しゅってん[編集へんしゅう]

  1. ^ a b 茨城いばらきけんだい百科ひゃっか事典じてん』726ぺーじ
  2. ^ 土浦つちうら』1055ぺーじ
  3. ^ a b c d 土浦つちうら』1056ぺーじ
  4. ^ a b 茨城いばらきけんだい百科ひゃっか事典じてん』727ぺーじ
  5. ^ 土浦つちうらえき』67ぺーじ
  6. ^ a b ちゃ土浦つちうらじゅうねん』305ぺーじ
  7. ^ 土浦つちうらひとらしの戦中せんちゅう戦後せんご』66ぺーじ
  8. ^ 事故じこ鉄道てつどう疑問ぎもんへの挑戦ちょうせん』229-252ぺーじ
  9. ^ 事故じこ鉄道てつどう疑問ぎもんへの挑戦ちょうせん』244ぺーじ
  10. ^ 事故じこ鉄道てつどう疑問ぎもんへの挑戦ちょうせん』243ぺーじ
  11. ^ 茨城いばらきけんだい百科ひゃっか事典じてん』727ぺーじ
  12. ^ からの検証けんしょう戦時せんじ土浦つちうらえき構内こうない事故じこ下巻げかん、130ぺーじ
  13. ^ 事故じこ鉄道てつどう疑問ぎもんへの挑戦ちょうせん』245ぺーじ
  14. ^ からの検証けんしょう戦時せんじ土浦つちうらえき構内こうない事故じこ下巻げかん、125-130ぺーじ
  15. ^ a b 事故じこ鉄道てつどう疑問ぎもんへの挑戦ちょうせん』249ぺーじ
  16. ^ 事故じこ鉄道てつどう疑問ぎもんへの挑戦ちょうせん』250ぺーじ

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

  • 市村いちむらたけし雄一ゆういちちゃ土浦つちうらじゅうねん』いはらき新聞しんぶんしゃ、1965ねん
  • 土浦つちうらえき土浦つちうらえき、1967ねん
  • 土浦つちうら土浦つちうらへんさん委員いいんかい、1975ねん
  • 茨城いばらきけんだい百科ひゃっか事典じてん茨城新聞いばらきしんぶんしゃ、1981ねん
  • 佐賀さが純一じゅんいちからの検証けんしょう戦時せんじ土浦つちうらえき構内こうない事故じこ上巻じょうかん下巻げかん筑波つくば書林しょりん、1984ねん
  • 佐々木ささきとみやすし網谷あみたにりょういち『事故じこ鉄道てつどう疑問ぎもんへの挑戦ちょうせん日本にっぽん経済けいざい評論ひょうろんしゃ、1993ねん
  • 市民しみん記憶きおく収集しゅうしゅう事業じぎょう報告ほうこくしょ土浦つちうらひとらしの戦中せんちゅう戦後せんご土浦つちうら市立しりつ博物館はくぶつかん、2019ねん

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]