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もり

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もり(もり おさむ[1]1905ねん8がつ8にち - 1988ねん12月14にち)は、日本にっぽん庭園ていえん研究けんきゅうしゃさくにわ庭園ていえん研究けんきゅう[1]。『さくにわ』など文献ぶんけん研究けんきゅうと、かつら離宮りきゅう修学院しゅうがくいん離宮りきゅうなどおおくの日本にっぽん庭園ていえんにおける実地じっち測量そくりょう発掘はっくつ調査ちょうさわせて、研究けんきゅう庭園ていえん復元ふくげん整備せいびんだ[1]きゅう大乗だいじょういん庭園ていえんにかかるしゅりの反橋そりはし日本にっぽん最古さいこ人工じんこうたきであるほう金剛こんごういんあお女瀧めだきなどは、もり時代じだい考証こうしょう現地げんち調査ちょうさ復元ふくげんした[1]法華寺ほっけじ仔犬こいぬにわ」や慈光いんしん書院しょいん庭園ていえんなど、古風こふうさくにわみずか手掛てがけた[1]

略歴りゃくれき

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東京とうきょう北多摩きたたまぐん立川たつかわむらげん東京とうきょう立川たつかわまれ[2]1932ねん東京とうきょう帝国ていこく大学だいがく農学部のうがくぶ農学のうがく卒業そつぎょう在学ざいがくちゅうは、田村たむらつよし造園ぞうえんがく講義こうぎ造園ぞうえん研究けんきゅうみちすすむことをめる。工学部こうがくぶ建築けんちく学科がっかでは、藤島ふじしま治郎じろう(日本にっぽん西洋せいよう建築けんちく)、伊東いとう忠太ちゅうた東洋とうよう建築けんちく)、関野せきのさだ朝鮮ちょうせん建築けんちく)、塚本つかもとやすし工芸こうげい)などの講義こうぎき、建築けんちくへの素養そようやしなった。卒業そつぎょうには大学院だいがくいんはいり、1933ねん内務省ないむしょう入省にゅうしょうして国立こくりつ公園こうえん調査ちょうさにあたる。1938ねんには、建築けんちく研究けんきゅうかい入会にゅうかい。1952ねん奈良なら国立こくりつ文化財ぶんかざい研究所けんきゅうじょ入所にゅうしょ、のちに、建造けんぞうぶつ研究けんきゅう室長しつちょう。1953ねん、「かつら離宮りきゅう研究けんきゅう」で東京工業大学とうきょうこうぎょうだいがく工学こうがく博士はかせ東京工業大学とうきょうこうぎょうだいがく講師こうし文化財ぶんかざい保護ほご委員いいんかい技官ぎかん文化庁ぶんかちょう文化財ぶんかざい保護ほご審査しんさかい委員いいんなどを歴任れきにんした。

奈良なら国立こくりつ文化財ぶんかざい研究所けんきゅうじょのこされていた図面ずめんスケッチ原稿げんこう、メモなどが2019ねん目録もくろくもりきゅうぞう資料しりょう』として整理せいり公開こうかいされ、2021ねん平城ひらじろみやあと資料しりょうかん展示てんじされた[1]

著書ちょしょ

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  • 平安へいあん時代じだい庭園ていえん研究けんきゅう桑名くわなぶんほしどう 1945ねん
  • 『ぼくらの住居じゅうきょ東京とうきょうどう 1949ねん 
  • いえのはなし』小学生しょうがくせい文庫ぶんこ小峰こみね書店しょてん) 1950ねん
  • うつくしい庭園ていえん 鑑賞かんしょう造庭つくりにわそうもと叢書そうしょつくもとしゃ) 1950ねん
  • かつら離宮りきゅうそうもと叢書そうしょ 1951ねん
  • 生活せいかつ歴史れきし』さ・え・ら書房しょぼう/ぼくたちの研究けんきゅうしつ 1951ねん
  • 修学院しゅうがくいん離宮りきゅう復原ふくげんてき研究けんきゅう』(奈良なら国立こくりつ文化財ぶんかざい研究所けんきゅうじょがくほうようとくしゃ 1954ねん
  • かつら離宮りきゅう研究けんきゅう東都とうと文化ぶんか出版しゅっぱん 1955ねん
  • 修学院しゅうがくいん離宮りきゅうそうもと選書せんしょ 1955ねん
  • 日本にっぽん庭園ていえんそうもと選書せんしょ 1957ねん
  • 中世ちゅうせい庭園ていえん文化ぶんか奈良なら国立こくりつ文化財ぶんかざい研究所けんきゅうじょがくほう 1959ねん
  • 日本にっぽんにわ 作者さくしゃ流派りゅうは作風さくふうつねなりいちくん写真しゃしん 朝日新聞社あさひしんぶんしゃ 1960ねん
  • 寝殿造しんでんづくりけい庭園ていえん立地りっちてき考察こうさつ奈良なら国立こくりつ文化財ぶんかざい研究所けんきゅうじょがくほうやしなえとくしゃ) 1962ねん
  • 小堀こぼりとおしゅう作事さくじ奈良なら国立こくりつ文化財ぶんかざい研究所けんきゅうじょがくほう吉川弘文館よしかわこうぶんかん) 1966ねん
  • 小堀こぼりとおしゅう』(人物じんぶつ叢書そうしょ吉川弘文館よしかわこうぶんかん 1967ねん
  • 奈良ならはかる』学生がくせいしゃ 1971ねん
  • にわひとすじ』学生がくせいしゃ 1973ねん
  • 小堀こぼりとおしゅう写真しゃしん:つねなりいちくん つくもとしゃ 1974ねん
  • 日本にっぽん庭園ていえん写真しゃしん:岩宮いわみや武二たけじ 集英社しゅうえいしゃ 1974ねん
  • 日本にっぽん庭園ていえん史話しわNHKブックス 1981ねん
  • 『「さくにわ」の世界せかい』NHKカラーブックス1986ねん
  • 庭園ていえん日本にっぽんしょう百科ひゃっか東京とうきょうどう出版しゅっぱん) 1993ねん

共編きょうへんちょ

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参考さんこう文献ぶんけん

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さくにわれき

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日本にっぽん造園ぞうえん学会がっかいしょうかつら離宮りきゅう日本にっぽん庭園ていえんかんする一連いちれん研究けんきゅうにより受賞じゅしょうしている研究けんきゅうかたわら、のち庭園ていえん文化ぶんか研究所けんきゅうじょ主宰しゅさいし、庭園ていえん復元ふくげんさくにわにわさくにも手腕しゅわん発揮はっきした。その作風さくふうは、庭園ていえん隣接りんせつする建物たてものとの調和ちょうわ調和ちょうわ重視じゅうし[1]各所かくしょ緻密ちみつ時代じだい考証こうしょう裏付うらづけられていて、ない雰囲気ふんいきただしく高揚こうようしている。

枯山水かれさんすいなど室町むろまち時代ときよふう最高峰さいこうほうとされがちだった日本にっぽん庭園ていえん理解りかいにおいて、『さくにわ』があらわされた平安へいあん時代じだい末期まっき最初さいしょ黄金おうごん時代じだいとらえていた[1]さくにわしたいずれのにわにも幽玄ゆうげん景観けいかんをあて、また石組いしぐみにも独自どくじかんがえを志向しこう石組いしぐみは、いし鳥獣ちょうじゅう戯画ぎがてき動物どうぶつ見立みたてるななさんみをこのんでいだといわれる。

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ a b c d e f g h エマニュエル・マレス(京都産業大学きょうとさんぎょうだいがくじゅん教授きょうじゅ歴史れきし手掛てがけたにわみょう日本にっぽん庭園ていえん研究けんきゅう泰斗たいともり蘊、さくにわとしての足跡あしあとたどる◇日本経済新聞にほんけいざいしんぶん朝刊ちょうかん2021ねん8がつ19にち文化ぶんかめん同日どうじつ閲覧えつらん
  2. ^ もり 日外にちがいアソシエーツ「20世紀せいき日本人にっぽんじんめい事典じてんコトバンク(2018ねん7がつ9にち閲覧えつらん