(Translated by https://www.hiragana.jp/)
津田正臣 - Wikipedia コンテンツにスキップ

津田つだ正臣まさおみ

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
津田つだ 正臣まさおみ
つだ まさおみ
生年月日せいねんがっぴ 1841ねん
出生しゅっしょう 紀伊きいこく和歌山わかやま城下じょうか
ぼつ年月日ねんがっぴ 1896ねん11月
称号しょうごう したがえ[1]
親族しんぞく 津田つだいずる元老げんろう院議いんぎかん

官選かんせん初代しょだい 和歌山わかやま県知事けんちじ
在任ざいにん期間きかん 1871ねん11月25にち - 1872ねん1がつ25にち
テンプレートを表示ひょうじ

津田つだ 正臣まさおみ(つだ まさおみ、天保てんぽう12ねん1841ねん) - 明治めいじ29ねん1896ねん11月)は、日本にっぽん政治せいじ初代しょだい和歌山わかやま県知事けんちじ1871ねん11月25にち - 1872ねん1がつ25にち)。はつたちばな次郎じろうなかしょう仮名かめいかんぶつごうこういわお

生涯しょうがい

[編集へんしゅう]

天保てんぽう12ねん1841ねん)、紀州きしゅうはんいえろく300せき布衣ふい以上いじょうあたまやく津田つだ信徳しんとく次男じなんとしてまれた。津田つだ河内かわうちこく交野かたのぐん津田つだ城主じょうしゅ楠木くすのき正儀まさよし後裔こうえいであり、室町むろまち時代ときよ末期まっき紀伊きいこくうつり、はん徳川とくがわ頼宣よりのぶ入国にゅうこく以前いぜんからの住人じゅうにんとして、代々だいだい紀州きしゅうはんつかえており、正臣まさおみ楠木くすのき正成まさしげの18せい子孫しそんにあたるとされる。安政あんせい4ねん1857ねん)に病弱びょうじゃくあにから家督かとくゆずける。慶応けいおう3ねん1870ねん)に「小楠公しょうなんこうたぶさづかてようとして勤皇きんのう森田もりたたかしとき碑文ひぶんせん依頼いらいしたといわれ、尊皇そんのう思想しそうぬしであった[2]

明治めいじ元年がんねん1868ねん)の紀州きしゅうはん藩政はんせい改革かいかくでは、ちょうけんべんごとにんぜられ、明治めいじ4ねん1871ねん)4がつには和歌山わかやまはんだい参事さんじ心得こころえとなる。同年どうねん7がつ廃藩置県はいはんちけんによってはんごと徳川とくがわ茂承もちつぐ解任かいにんされたため、あにだい参事さんじとして和歌山わかやまけん県政けんせい担当たんとうした。そのあにが7がつ28にち明治めいじ政府せいふ大蔵おおくらしょう抜擢ばってきされると、わって正臣まさおみだい参事さんじ心得こころえとなり、9月14にち和歌山わかやまけんだい参事さんじけんつちのえへいとくとなり実質じっしつてきけんのトップとなった[3]

同年どうねん11月25にち和歌山わかやまけん田辺たなべけん新宮しんぐうけん廃止はいしされて発足ほっそくした和歌山わかやまけん参事さんじ任命にんめいされ、まもなくけんれい昇格しょうかくしたが、よく明治めいじ5ねん1872ねん1がつ25にち依願いがん免官めんかんとなった。

そのこういわおしょうして詩歌しかたのしむ[4]悠々自適ゆうゆうじてき晩年ばんねんごし、明治めいじ29ねん1896ねん)11月に死去しきょした。享年きょうねん56。

脚注きゃくちゅう

[編集へんしゅう]
  1. ^ 新編しんぺん 日本にっぽん歴代れきだい知事ちじ歴代れきだい知事ちじ編纂へんさんかい、2010ねん
  2. ^ 明治維新めいじいしん人名じんめい辞典じてん』「津田つだ正臣まさおみこう
  3. ^ 和歌山わかやまけん きん現代げんだいいち』32ぺーじ
  4. ^ 幕末ばくまつ維新いしんだい人名じんめい事典じてんした】』「津田つだ正臣まさおみこう

参考さんこう文献ぶんけん

[編集へんしゅう]
  • 明治維新めいじいしん人名じんめい辞典じてん吉川弘文館よしかわこうぶんかん、1981ねん
  • 幕末ばくまつ維新いしんだい人名じんめい事典じてんした】』新人物往来社しんじんぶつおうらいしゃ、2010ねん
  • 和歌山わかやまけんへんさん委員いいんかい和歌山わかやまけん きん現代げんだいいち和歌山わかやまけん、1989ねん