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野手のてたい

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野手のてたい

野手のて たい(ので たえる、1876ねん明治めいじ9ねん)8がつ17にち - 1945ねん昭和しょうわ20ねん)8がつ6にち[1])は、日本にっぽん朝鮮ちょうせん総督そうとく内務ないむ官僚かんりょう弁護士べんごし官選かんせん県知事けんちじ同志社どうししゃ高等こうとう商業しょうぎょう学校がっこうちょう

経歴けいれき

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茨城いばらきけん豊田とよだぐんげん下妻しもづま出身しゅっしん自由じゆう民権みんけん運動うんどういえ野手のて一郎いちろう長男ちょうなんとしてまれる[1]同志社どうししゃ普通ふつう学校がっこう[2]だい高等こうとう学校がっこうて、1904ねん東京とうきょう帝国ていこく大学だいがく法科ほうか大学だいがく卒業そつぎょう同年どうねん11がつ文官ぶんかん高等こうとう試験しけん行政ぎょうせい試験しけん合格ごうかく大蔵省おおくらしょう入省にゅうしょう主税局しゅぜいきょくぞくとなる[3][4]

その統監とうかんてんじ、以後いご朝鮮ちょうせん総督そうとく南浦みなみうら税関ぜいかんちょうどう釜山ぷさん税関ぜいかんちょうどう事務じむかんどう逓信ていしんきょく海事かいじ課長かちょうどう海員かいいん審判しんぱん所長しょちょうどう営林えいりんしょうちょうなどを歴任れきにんし、1924ねん退官たいかん[1][3]

1927ねん5月、埼玉さいたまけん知事ちじ就任しゅうにん[3]同年どうねん11がつ和歌山わかやまけん知事ちじ転任てんにん財政難ざいせいなんのため産業さんぎょう振興しんこうなど必要ひつよう経費けいひほかは、相当そうとう節減せつげん実施じっしした。1929ねん7がつ知事ちじ休職きゅうしょく[5]同年どうねん8がつ8にち依願いがんめん本官ほんかんとなり退官たいかんした[6]。その広島ひろしま弁護士べんごしとして活動かつどう[2]

1938ねん12月、同志社どうししゃからの懇請こんせい同志社どうししゃ高等こうとう商業しょうぎょう学校がっこうちょう就任しゅうにんしたが、教員きょういん経験けいけんがなく、また同志社どうししゃ本部ほんぶへのつよ主張しゅちょうおこなったことなどで軋轢あつれきしょうじた。そのため、同志社どうししゃ定年ていねんせい適用てきようしたため、1941ねん8がつ校長こうちょう退職たいしょくした[2]。そのふたた広島ひろしま弁護士べんごしとなるが、1945ねん8がつ原爆げんばく投下とうかにより死去しきょした[1]

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ a b c d 埼玉さいたま人物じんぶつ事典じてん』626ぺーじ
  2. ^ a b c 同志社どうししゃひゃくねん 通史つうしへん』1062-1063ぺーじ
  3. ^ a b c 新編しんぺん日本にっぽん歴代れきだい知事ちじ』316ぺーじ
  4. ^ 日本にっぽん官僚かんりょうせい総合そうごう事典じてん:1868 - 2000』185ぺーじ
  5. ^ 新編しんぺん日本にっぽん歴代れきだい知事ちじ』743ぺーじ
  6. ^ 官報かんぽうだい784ごう昭和しょうわ4ねん8がつ9にち

参考さんこう文献ぶんけん

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その役職やくしょく
先代せんだい
校長こうちょう事務じむ取扱とりあつかい
中川なかがわきよしきち
同志社どうししゃ高等こうとう商業しょうぎょう学校がっこうなが
1938ねん - 1941ねん
次代じだい
島本しまもと英夫ひでお