(Translated by https://www.hiragana.jp/)
数藤鉄臣 - Wikipedia コンテンツにスキップ

数藤すとうてつしん

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』

数藤すとう てつしん(すどう かねおみ、1896ねん明治めいじ29ねん)9がつ8にち - 1994ねん平成へいせい6ねん)3がつ26にち[1])は、日本にっぽん内務ないむ警察けいさつ官僚かんりょう官選かんせん県知事けんちじ海軍かいぐん司政しせい長官ちょうかん旧姓きゅうせい村上むらかみ

経歴けいれき

[編集へんしゅう]

本籍ほんせき島根しまねけんきゅう松江まつえ藩士はんし地方ちほう行政ぎょうせいかん村上むらかみ寿夫としお二男じなんとして岡山おかやまけんまれる[2]松江まつえ北堀きたほり尋常じんじょう小学校しょうがっこう松江まつえ中学校ちゅうがっこう卒業そつぎょう海軍兵学校かいぐんへいがっこう志願しがんしたが、試験しけんまえ水泳すいえい外耳がいじえんとなり身体しんたい検査けんさ合格ごうかくとなる[2]1915ねん2がつ第一高等学校だいちこうとうがっこう数学すうがく教授きょうじゅ数藤すとうおの三郎さぶろう養子ようしとなる[2]第一高等学校だいちこうとうがっこうだい一部いちぶかぶとるい卒業そつぎょう1920ねん10月、高等こうとう試験しけん行政ぎょうせい試験しけん合格ごうかく1921ねん4がつ東京とうきょう帝国ていこく大学だいがく法学部ほうがくぶ法律ほうりつ学科がっかえいほう)を卒業そつぎょう同年どうねん7がつ内務省ないむしょう入省にゅうしょう内務ないむぞくとなり警保きょく図書としょ配属はいぞくされた[1][3]

以後いご和歌山わかやまけん理事りじかん内務ないむ社会しゃかい課長かちょうけん商工しょうこう課長かちょう福岡ふくおかけん警視けいし警察けいさつ特別とくべつ高等こうとう警察けいさつ課長かちょう警視庁けいしちょう警視けいしそうかん官房かんぼう特別とくべつ高等こうとう警察けいさつ課長かちょうどうけん外事がいじちょうなどを歴任れきにん[1]

1926ねん11月、欧米おうべい各国かっこく出張しゅっちょうめいぜられ、1927ねん3がつ離日りにち1928ねん3がつ帰国きこく。さらに、同年どうねん9がつロンドン駐在ちゅうざいめいぜられ、駐在ちゅうざい制度せいど廃止はいしとなり1930ねん3がつ帰国きこくした。このあいだ思想しそう問題もんだい担当たんとう準備じゅんびのため、だいさんインターナショナル、イギリス議会ぎかい制度せいど研究けんきゅうおこなった[4]

1931ねん12月、徳島とくしまけん書記官しょきかん警察けいさつちょう就任しゅうにん1932ねん6がつ福岡ふくおかけん書記官しょきかん警察けいさつちょう転任てんにん[1]二日市ふつかいちまちげん筑紫野ちくしの)の正行寺しょうぎょうじ真宗しんしゅう大谷おおや竹原たけはらみねおん住職じゅうしょく法話ほうわ入信にゅうしんした[5]

1936ねん4がつ山梨やまなしけん書記官しょきかん総務そうむ部長ぶちょう転任てんにん以後いご内務ないむ書記官しょきかん地方ちほうきょく監査かんさ課長かちょう、警保きょく警務けいむ課長かちょうけん警察けいさつ講習こうしゅうしょ教授きょうじゅ内務ないむ事務じむかんけん内務ないむ書記官しょきかん大臣だいじん官房かんぼう文書ぶんしょ課長かちょう企画きかくいん事務じむかん内閣ないかく情報じょうほう情報じょうほうかん内務ないむ書記官しょきかんけん内務ないむ大臣だいじん秘書官ひしょかん大臣だいじん官房かんぼう人事じんじ課長かちょう傷兵しょうへい保護ほごいん計画けいかく局長きょくちょう軍事ぐんじ保護ほごいん援護えんご局長きょくちょうなどを歴任れきにん[1]

1941ねん1がつ7にち岐阜ぎふけん知事ちじ就任しゅうにん戦時せんじ体制たいせい整備せいび尽力じんりょく[6]郷里きょうり先輩せんぱいである海軍かいぐん民政みんせい総監そうかん岡田おかだ文秀ふみひで要請ようせいけ、1942ねん5月23にち海軍かいぐん司政しせい長官ちょうかんにんじられセレベス民政みんせい長官ちょうかん就任しゅうにんした[7]1943ねん7がつ1にち埼玉さいたまけん知事ちじ転任てんにん戦時せんじ体制たいせい強化きょうか尽力じんりょく[8]1944ねん8がつ1にち軍事ぐんじ保護ほごいんふく総裁そうさいてん終戦しゅうせんむかえた。1946ねん1がつ25にち依願いがんめん本官ほんかんとなり退官たいかんした。同年どうねん8がつ公職こうしょく追放ついほうとなり、1951ねん8がつ追放ついほう解除かいじょとなる[1]

1951ねん9がつ危篤きとく竹原たけはらみねおん見舞みまったさいに、竹原たけはらから「戦争せんそう敗北はいぼくみちびいた責任せきにんしゃ一員いちいんとして懺悔ざんげし、国家こっか精神せいしんてきすくうために仏門ぶつもんはいり、一生いっしょうささげよ」とのいのちただちにしたがい、正行寺しょうぎょうじ責任せきにん役員やくいんとして生涯しょうがいえた[9]

親族しんぞく

[編集へんしゅう]

脚注きゃくちゅう

[編集へんしゅう]
  1. ^ a b c d e f 小山こやまだいさんじゅうななだい知事ちじ 數藤すとうてつしん」407-409ぺーじ
  2. ^ a b c d 小山こやまだいさんじゅうななだい知事ちじ 數藤すとうてつしん」378ぺーじ
  3. ^ 日本にっぽん官僚かんりょうせい総合そうごう事典じてん:1868 - 2000』227ぺーじ
  4. ^ 小山こやまだいさんじゅうななだい知事ちじ 數藤すとうてつしん」379ぺーじ
  5. ^ 小山こやまだいさんじゅうななだい知事ちじ 數藤すとうてつしん」380ぺーじ
  6. ^ 新編しんぺん日本にっぽん歴代れきだい知事ちじ』549ぺーじ
  7. ^ 小山こやまだいさんじゅうななだい知事ちじ 數藤すとうてつしん」380-381ぺーじ
  8. ^ 新編しんぺん日本にっぽん歴代れきだい知事ちじ』323ぺーじ
  9. ^ 小山こやまだいさんじゅうななだい知事ちじ 數藤すとうてつしん」403-404ぺーじ

関連かんれん項目こうもく

[編集へんしゅう]

参考さんこう文献ぶんけん

[編集へんしゅう]